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『春の雪』三島由紀夫(新潮文庫) 本作はわたくし、多分3回目の読書かなと思います。 加えて、『奔馬』は多分2回、『暁の寺』は多分1回、そして『天人五衰』は3回読んだように記憶しています。(「暁」が1回なのは、中に出てくる「アーラヤ識」とかの話がさっぱり分からずそれがトラウマになったせい、「天人」が他より1回多いのは、一番短いからでしょうね。) しかし、その2回も遥か昔の読書で、本当に久しぶりに本書を読みました。 ところが、というかなんというか、少し前に私は映画で『春の雪』を見たんですね。 で、実は少しショックを受けたわけです。 綺麗な場面のいっぱい出てくる映画でしたが、何にショックを受けたかというと、主人公の松枝清明に全く好意的な感情移入ができないことに、まー、ショックを受けたわけであります。 ちょっと品のない書き方になって申し訳ないのですが、このお話の主人公はそんな「最低の」男だったんだろうか、と。 実ははるか昔の読書の記憶として、細かなところはほとんど忘れているとしても、さほど悪くない読後感を持っていたように思ってたのですが、映画で見る限り、ちょっとどうしようもなかったですね。 で、そんなはずではなかったのにという思いもあって、この度3回目を読みました。 幾つかのことが納得できたですね。 まず映画がちょっと気の毒だったのは、あの三島由紀夫の鬼神の心をも動かすような絢爛豪華な文章の「鎧」を、映画は纏うことができないということであります。 いくら綺麗な場面がいくつも出て来ても、それだけでは、私としては文章だけで読者をうっとりとさせるようにはいかないと思いました。(個人的感想では、本小説中最も圧倒された場面は、清顕と聡子が初めて体を交わす場面ですが、その描写は実に見事なものでありました。) だから、映画中の主人公松枝清顕は、いわば行為だけが「裸」で進められていて、そうなるとその行為は、非生産性・無能力性に重なる強烈なナルシズムとデカダンス、おぞましく歪んだ選民意識等によるものとしか描かれようがなかったと思います。 実際、原作小説でも清顕はほぼ映画と同じ行為をしています。しかし小説では、その行為の前後が、いかにも三島由紀夫特有の(天才的な!)絢爛描写と、再三顔を出してくる作者の美学理論(!)で飾られているため、ある意味読者はそこに騙されて、うかうかとその圧倒的な歪さに気が付かないでいる、そのように展開されていると思いました。 ただ、仮に、仮にですが、この作品から、そんな筆者の描写テクニックを抜き去ってしまえば(この「仮に」について、そんな無茶な仮定はルール違反だといわれる可能性は重々わかりますが)、この作品はどこに魅力があるのだろう、と。 と、読後、かなりそんな「無理筋」の事を考えました。 例えば、至高の恋とは禁断の恋である、みたいな考えは他からも聞いたり、古今東西の優れた恋愛小説に再三描かれています。 本作を読んで私が特に思ったのは、筆者は多分『源氏物語』の光源氏と藤壺宮の恋愛が念頭にあっただろうということですが、この二つの禁断の恋を並べてみますと、松枝清顕の「無能力」は明らかです。彼はその状況を自らの手では全く何も作り出していません。(そんな意味では、この禁断の恋を作り出したのは、綾倉聡子の「能力」であります。)清顕は、その果実だけを口にしようとしたのであります。 それは、江戸期の幾つかの心中物語と比べても同様です。(筆者はきっとそんな江戸期の心中物語との比較は嫌がるでしょうが。)少なくとも彼らは、死に裏打ちされた恋愛状況を、自らの行為と人間関係の中で作り出しました。 ただ、私がよくわからないでいるのは、そんなことを、あの頭のよい三島由紀夫が気が付かなかったか、ということであります。 当然気が付いていながらこのような展開を描いたのなら、それは、松枝清顕の恋愛はピエロだということではないでしょうか。本当に作者は、清顕の存在はカリカチュアであるとまで考えて本作のストーリーを作ったのでしょうか。 実は、これも昔に読んだきりで定かな記憶がないのですが、『天人五衰』のラストシーンのことです。死を覚悟した筆者が最後に描いたあの場面をちょっと考えると、「松枝清顕=ピエロ」説は、少し興味深いかもしれません。(『春の雪』執筆時に、5年後の『天人五衰』のラストシーンのアイデアがすでにできていたのか、多分できていたのではないでしょうか、何と言っても三島由紀夫ですから。) ともあれ、そんな感じで私は読み進めていったのですが、小説としては終盤から、またガラっとトーンが変わったようになって、俄然面白くなっていきました。 聡子の妊娠が、身内に知れ渡って人々があたふたとし始めた以降ですね。 この部分は面白かったですねー。その理由は二つです。 一つは、清顕が腑抜けのようになって、独特の美意識も行動も起こせなくなって(最終盤はまた出てきますがかつての勢いはなく)、話の前面から姿を消したから。 二つ目は、そもそも本作の冒頭から筆者の筆は、主人公の二人以外の人物を描く時徹底して戯画化と侮蔑を伴ったものでありましたが、その対象となっていた人物たちのどたばたこそが、まさにここで描かれている中心であるからです。 上記に松枝清顕の性格造形について辛口の指摘をしましたが、そもそもその原型は清顕を取り巻く人物の人格であり、まだそれに加えて、小気味よいまでの無責任さと倫理観のなさが、ここに至って切れ味よく描かれています。 蓼科という老女の個性も際立っていますが、圧倒的に興味深かったのは聡子の父親の綾倉伯爵でありましょう。彼の無能力・無責任・無倫理の描かれ方は、全く心地よいばかりでありました。(しかし、小説の面白さとは、時にとんでもないところに現れるものですねぇ。) さて、そんなどたばたの中、主人公清顕は命を落とし、本編の幕はおります。 大長編小説の第一部の終わりにすぎないからでしょうか、その終わり方はどこかそっけなく、ひょっとしたらそんなことが、私のかつての読書の記憶としてさほど悪い読後感を持たなかった理由なのかもしれません。 ところで、私はこの後続いて『奔馬』を読んだものなんでしょうか。 ……ちょっと、考えてみますね。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2025.12.28
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『てんやわんや』獅子文六(新潮文庫) 映画をわりと見るようになって3年ほどになります。なに、それは毎日が日曜日になっただけのことであります。 映画館で見る映画だけを映画というのだ、と言ってた知人もいましたが、なるほどと思いつつも、私は家でけっこうテレビで見ます。 何と言っても、家での映画は圧倒的に気楽であります。 で、家でお気楽にいくつも映画を見ていますと、同じ映画を複数回(大概は2回ですかねぇ、3回以上はあまりありません)見ることがぼちぼちあって、で、ここからがポイントなんですが、複数回見ると後のほうがよく感じる、と。 ……ま、当たり前といえば当たり前の感想ですわね。 2回目を見ようと思う段階で、すでに作品に少なくない好意を抱いているうえに、1回目はどうしてもストーリー中心に見ていて見落としていたものに、この度は新たに気付いたりすることができるわけで、当然2回目のほうがよく思える、と。 さて、この前振りの話をどこに持っていこうとしているか、ほぼ、言うまでもありませんが、冒頭の小説の読書報告であります。2回目の読書報告なんですね。前回の報告のタイトルが、「……うーん、面白くない」というのになっています。(困ったことだ。って、別に困りませんか。) やはり、今回のほうが面白かったんですね。少なくとも「面白くない」と言い切る気持ちはありません。 思うに、私が前回引っかかってしまったのは、ざっくり二つの点ではなかったか、と。 一つは、主人公の性格設定に引っかかってしまったこと。 二つ目は、四国独立運動という展開の何とも言えない尻すぼみさ。 この二つが我が感想の中心原因じゃなかったかと思います。そして軽率に「面白くない」と書いてしまった……。 では、今回の読書感想として、この二つが好意的に感じられたのかといいますと、それはやはりあまりないです。特に四国独立運動は、その後同様のテーマで井上ひさしが名作『吉里吉里人』を書きましたが、あそこまでいかずとも、今一歩も二歩も、独立運動のリアリティを描いてほしかったという思いはあります。 ただ今回私が、多分前回はそこまで読めていなかったのだろうと気が付いたのは、この上記の二つの設定と展開が、まさに戦後すぐの日本人の姿と重ねることができ、そしてささやかな彼らの希望そのものであったのじゃないかということでした。 例えば、四国独立運動についてこのような文章があります。 石油、鉄、石炭、そしてウラニウムを産しないことは、絶対平和主義の四国島にとって、なんという幸福であろうか。 四国島には、国民も、人民もいない。市民あるのみである。従って、君主も、大統領も要らない。代表者として、市長が一人いれば、結構である、そして、国家でなければ、国際紛争に捲き込まれる心配もなく、また自給自足の原始経済で、資本主義以前の社会に戻るのだから、階級闘争による内乱も、起る道理がない。 そういうところが、ひどく私の気に入るのである。臆病者の天国といっていいではないか。 また、主人公の性格設定にしても、このような表現が随所にあります。 我ながら、魅力のない人間だと思うのだが、その割に人から嫌われないのは、私が高慢を知らぬからであろう。私は運命にも、人間にも、よく服従する。それが、私の性格であり、また処世の道でもあった。 私は、鶴ヶ浦の別荘で聞いた、夜半の爆音を、忘れることができない。あの人間侮蔑の、いやな音は、いまだに、耳の底深く残っている。あの音の意味する一切のもの――戦争、内乱、暗殺、喧嘩、強盗を、私は、断固否定する。私は、怖いのである。生まれつき臆病であり、現在も臆病なのである。 そして、「臆病者の天国」であった四国独立運動があっけなく崩壊した後、生活のすべを失った主人公は、最終盤このようにつぶやきます。 私の頼みとする相手は、もはや、一人も日本にいない。ただ、生来の臆病と非力の犬丸順吉個人だけである。一茎のワラのような私だが、今は潔く、敗戦国の暗い激流の中に、身を投ずる覚悟である。 本作品は、昭和23年11月から翌年4月まで毎日新聞に連載されたそうですが、このエンディングについて、なるほど、決してハッピーエンドには描かれていませんが、読者にとっては、かなりリアリティのある、そして、一点の灯のかすかに見えるようなものであったのかも知れませんね。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2025.12.14
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