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京都文化博物館の3階には、一角に展示会場と区切られた休憩スペースがあります。そこからL字形の屋外庭園を眺められる静かな空間です。利用者がたまたま居ませんでしたので、屋内から庭に置かれた石仏を久々に眺めつつ、写真を撮りました。(会場の係員の方に訪ねると屋内からの撮影はOKでした。) ガラス壁面の外、庭に設置されている案内板です。この庭に展示されている石仏は、1993年に、京都府警察本部庁舎の建設に伴う発掘調査により出土したと言います。その発掘場所は、永禄12年(1569)に織田信長が将軍足利義昭の居館として築いた「旧二条城(二条新第)」の北西部分にあたると推定されるところだそうです。信長は築城を短期間で行うために、寺院から石仏などを築城のための石材として調達したのです。石仏や墓石などを城の石垣や石段に転用した実例は各所に残っています。信長が築いた安土城でも散見します。明智光秀が築城した福知山城にも墓石や石塔などが転用されているのをテレビ番組で見ました。奈良にある郡山城の石垣にも石仏などが利用されています。他にも各地にあることでしょう。説明板には、宣教師ルイス・フロイスが書翰に石像の石材としての転用のことを記しているということに触れています。ここに安置された「これらの石仏は、人為的に埋められた桃山時代の大きな掘の中から出土しました。この掘は豊臣秀吉の築いた聚楽第の城下の大名屋敷に関連するものと考えられ、天正年間の終わりころ(1590年前後)に埋められています。」(説明文より)室町幕府滅亡後、旧二条城は荒廃し、その時に使われていた石仏などはそのまま遺棄されていたものが掘の石垣などに転用されたりしていたのかもしれませんね。 冒頭写真の右側に移り、竹垣で囲まれた屋外庭園を側面から眺めた景色です。上空から見れば、Lの字の縦の部分を頂点から鍵形の角までの部分を側面から見ていることになります。それでは、石仏を眺めて行きましょう。 石像の如来形の頭部と印相をみると、阿弥陀如来坐像なのでしょう。 どの時点で石仏が割られたのでしょう・・・・。これも、定印を結んだ坐像です。 この石仏の頭部は如来形ではなく僧形のようです。羅漢像なのか、地蔵菩薩像なのか・・・・。錫杖らしきものは彫られていないように見えます。地蔵菩薩像でも錫杖を持たない石仏もあるようですので、私には判別できません。 この庭園に安置された石仏は阿弥陀如来坐像が多いようです。 この双体石像は道祖神でしょうか。あるいは、一体は地蔵菩薩の可能性もありそう・・・・。 この石仏は地蔵菩薩坐像でしょうか・・・・。 こちらも地蔵菩薩坐像でしょうか。右肩に錫杖が彫られているように見えます。 これらの石仏は一体一体お顔の表情が異なります。石仏の摩滅の様子がはるかな時の経過を伺わせます。どういう人がこの石仏をどういう思いで造立したのでしょう・・・・・。石仏探訪もまた興味が尽きない世界です。石という物体、資源と思えば、そこに何が刻まれていようと石材にしか過ぎないという視点が、信長の合理性だったのでしょうか。それとも、石仏を石垣に組み込むことで、一種の心理的防御策の機能を担わせたのでしょうか。ご覧いただきありがとうございます。補遺安土城 :「日本には、お城がある。」(攻城団) 大手道 織田信長の安土城址と摠見寺 安土城跡の公式サイト福知山城天守閣 :「福知山市」福知山城 :「城百科」郡山城 郡山城の歴史 :「奈良の城」郡山城 :「奈良県 大和郡山市」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 京都文化博物館 「池大雅-文人たちの交流」と「木島櫻谷と京都画壇」
2020.08.29
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京都文化博物館(中京区三条高倉)で開催中の2つの特別企画展を8/25に見てきました。今回の入場チケットの半券は前回の「祇園祭」展を見たときと同じです。 まずは、4階が展示会場になっている「池大雅-文人たちの交流」展の鑑賞です。ここに掲載したのはPRチラシの一面です。 こちらは会場入口で入手したこの特別企画展の小冊子です。今回は図録の発刊がなく、この小冊子に展示品の中の主な索引が掲載され、裏表紙に出品作品リストが掲載されています。上掲のチラシはこの小冊子・表紙に掲載の「山亭小酌之図」の部分拡大図を使っていることになります。(資料1、以下適宜参照))ごつごつとした岩山に大松が繁り、樹間に建てられた小亭に文人たちが集い、酒を酌み交わし談笑している図です。岩山は峨峨として聳えるというよりも、丸みを帯びた山肌が穏やかさをしめし、来たりし人々を暖かく受け入れるという雰囲気です。 山亭内でテーブルを囲む文人たちの描き方は実に簡略で、ちょっと漫画っぽい洒脱なさらりと描いた感じです。じっとみていると実に生き生きとしています。平成25年(2013)に池大雅美術館が閉館されました。そして、12月にその所蔵作品・資料が京都府に一括寄贈されたのです。京都府は、平成7年(1995)に所蔵品の部分寄贈を受けていたことから、この一括寄贈で所蔵品全てを京都府が受け継いでいくことになったそうです。つまり、この特別企画展は、京都府藏池大雅美術館コレクションの展示公開となっています。4階ワンフロアーは、4つのセクションで構成されています。私にとって印象深い作品を中心に少しご紹介を加えます。 第1章 大雅、誕生-書との出会い池大雅は幼少から書が得意だったそうです。3才の時に書いた「金山」という書が晩年の書と並べて展示されていておもしろく感じた次第です。7才のときには、中国から来た黄檗宗の僧に褒められ、「七歳神童書大張」という七言から始まる「杲堂之偈(こうどうのげ)」という書をもらったとか。この書も展示されています。大雅愛玩の硯や竹筆、小ぶりな違棚の展示もあります。「慶子老舞踊図」は、歌舞伎役者の初代中村富三郎が80歳を超えながら白拍子を演じたという場面を、ごく簡略な線描でその動きをとらえ、大雅の自賛を記したものが展示されています。この筆線図はじっとみていると、かろやかな舞姿の手足の動きが伝わってくるのです。単純な一瞬の線画に凝縮された技を感じます。 第2章 万巻の書を読み、万国を歩く上記の「山亭小酌之図」はこのセクションに展示されています。大作は六曲一隻の「高士訪隠図屏風」という山水図です。第一扇には対岸と手前に川が描かれ、第二扇には広々とした湖あるいは大海に流れ込む川口に橋が描かれています。第三扇には岸辺に家屋と椅座する人物が描かれてます。家の背後(第四~六扇)には山が広がっていきます。「文人にとって山水を描くことは、必ずしも真景に基づかず、理想郷を表現することでもあった」(資料1)と言います。大雅が人物を丸い形の像として描いた「寒山拾得図」は意表をつくような図で、おもしろい絵でした。 第3章 大雅、筆墨の世界墨を掌、指、爪につけ、巧みに使い分けて描く「指頭図」と称される作品が展示されています。その一点は「薫石図 龍公美賛」です。説明が付いていなければ指や爪、掌を使って描かれたとは思えない作品です。ここには、八曲一隻の「柳下童子図屏風」(重文)が展示されています。第五、六扇に幅の細い木橋が描かれ、二人の童子が橋の中央部でしゃがみこみ川面を覗き込むようにしている図です。一種禅問答風の趣きがあります。ここには、大雅の妻、池玉瀾の「なでしこ図」が展示されています。上記の「慶子老舞踏図」「高士訪隠図屏風」「柳下童子図屏風」は、京都文化博物館のこちらのページをご覧ください。掲載されています。 第4章 大雅へのあこがれ池大雅が親交のあった人々との間で交わした書簡が数点展示され、一方、月峰・木村蒹葭堂・・田能村直入などの作品が展示されています。月報筆「池大雅肖像」に描かれた大雅像は、第一章に展示の伴高蹊著『近世畸人伝』巻四に載る大雅像とはかなり雰囲気が違います。畸人伝に描かれた大雅は剽軽なオッチャンという感じです。このギャップもおもしろいところです。池大雅の「大雅五十歳 歳旦手形木版」というのも展示されています。上部に文章が記され、その下に右手の手形がべたっと押されています。墨の付け方によるのか、指そのものの形状なのか、指がけっこう細い手形になています。その右側に、歌が記されています。「としとわれ」という五文字から始まります。 3階に下りますと、こちらのフロアーは、「木島櫻谷と京都画壇」の特別企画展です。これは、上掲のPRチラシの片方の面です。このフロアーでは前半に木島櫻谷の作品(京都府藏)を展示し、後半に「京都 三条・大橋家コレクション」(京都府藏)の作品を併せて展示しています。このコレクションにも木島櫻谷の作品がいくつか含まれますが、京都画壇の画家等の作品が主体になっています。明治・大正時代に活躍した谷口香嶠、猪飼嘨谷を中心に、都路仙境、山元春挙、芝千秋、菊地契月、三浦幽眠などの作品です。今回初めて知った京都画壇の画家もありました。(資料2,3)PRチラシに載る絵は、六曲一双の木島櫻谷筆「初夏・晩秋」という鹿の群像を描いた作品の部分図です。会場入口に近いところに展示されています。久しぶりにこの屏風絵を鑑賞しました。かなり昔に木島櫻谷の作品を見た中で、最も記憶に残っている作品です。 後半のところで、このA4サイズ二つ折のリーフレットを入手しました。(資料3)この表紙には、谷口香嶠筆「義経勝浦上陸図」の部分図が載っています。大橋家は19世紀から現代まで京都三条御倉町に所在した一族だそうです。御倉町は烏丸通と室町通の間で三条通の南北両側に跨がる町内です。2014年に大橋家の後継者が不在となり、京都府は2016年に所蔵資料の寄贈を受けたそうです(資料4)。そこで京都文化博物館では2016年度より、「大橋家の旧蔵資料の総的調査をおこない、古文書、絵画、工芸など多岐にわたる優れた文化財を発見し、この研究をすすめ」てきたそうです(資料3)。その大橋家コレクションの一端がここに併せて展示されたことになります。「4代目の大橋松次郎は、隣接の西村惣左衛門店(現・千總)の運営に携わりながら、木島櫻谷、谷口香?、猪飼?谷、芝千秋などの作家を物心両面から支えてきました」(資料2)とのこと。調べてみますと、京都文化博物館では、2017年10月~12月に「木島櫻谷の世界」と題した総合展示を行っています。当館ホームページに掲載のこちらのページをご覧いただくと、今回も展示されている作品がいくつかご覧いただけます。「鷹図」「孔雀図」「富獄図」「僊客採芝図」という大正期の作品が掲載されています。上掲屏風部分図の内、「晩秋」も載っています。このページを読んで知ったことですが、木島櫻谷は、何とこの御倉町で生まれ、同町内に住む京都画壇の巨匠・今尾景年に師事して絵の基本を学んだと言います。大橋家が木島櫻谷を支援したというのもナルホドと思います。最後に、池大雅関連で余談としていくつかご紹介します。会場には、「池大雅墓碑銘拓本」が展示されています。そこで池大雅のお墓ですが浄土宗のお寺・浄光寺に祀られています。所在地は寺之内通千本東入ル北側、新猪熊町です。 こちらが史跡探訪で訪れたときに撮った「池大雅墓」です。屋根の正面丸瓦に「大雅堂」と陰刻されています。一方、大雅の妻・玉瀾のお墓ですが、この浄光寺ではなくて、金戒光明寺山内の西雲院の墓地域にひっそりと祀られています。 浄光寺探訪の後で調べてみて、後日に機会を見つけ金戒光明寺と山内探訪の一環として訪れてみました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1)「特別企画展 池大雅-文人たちの交流」 会場にて入手の小冊子2) 「特別企画展 木島櫻谷と京都画壇 京都三条・大橋家コレクション」作品リスト3) 「三条御倉町 大橋家の歴史と美術」 会場にて入手のリーフレット4) 木島櫻谷と京都画壇 京都 三条・大橋家コレクション :「京都文化博物館」補遺池大雅 :ウィキペディア池大雅 :「美術手帖」大雅・玉瀾像 近世畸人伝所載 :「日本美術史ノート」公益財団法人 櫻谷文庫(旧木島櫻谷家住宅) ホームページ木島櫻谷 :ウィキペディア【よみもの】謎多き日本画家・木島櫻谷。“幻の名画”≪かりくら≫に迫る :「観光ガイド スタッフブログ」谷口香嶠 :ウィキペディア猪飼嘨谷 :「コトバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都・洛中 千本釈迦堂周辺を歩く -2 千本えんま堂(引接寺)・浄光寺(池大雅墓所)スポット探訪 京都・左京 金戒光明寺細見 -6 西雲院(会津墓地・紫雲石・王健南の墓・会津小鉄墓・池玉瀾墓)ほか
2020.08.28
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この部分拡大した観光案内図から始めます。方位は南北が逆になっていますのでご注意ください。図の右寄り下の赤丸を追記したところが「奈良国立博物館」です。その左斜め方向にマゼンタ色の丸を追記したところが「浮見堂」で水色のところが「鷺池」です。西方向に走る国道の両側の水色のエリアは「荒池」です。そして、現在位置と表示してある道路脇の位置にこの案内図があります。このあたりは「高畑町」です。鷺池の南側は丘陵地になっていて、「瑜伽山」と称されるそうです。この散策で、この名称を初めて知りました。 鷺池の中島から南岸に架かる「蓬莱橋」の小橋を渡り東西の道路に出ると、道路の反対側に真新しい感じの築地塀が道路沿いに見えました。この景色は、道路を少し西方向に進んでみてから、小橋から道路に出たあたりを撮ったものです。この築地塀の門が庭園入口になっています。ここがこれからご紹介する 「奈良公園 瑜伽山園地(ゆうがやまえんち)」です。今年(2020年)一般公開が始まったろころです。この新観光スポットを偶然に知る機会をえました。上掲の門には鹿が入り込まないように枝折り戸が設けてあり、庭園内は無料で自由に散策できると案内説明が掲示され、設置された透明のプラスチックケースにこのリーフレットが入れてありました。 リーフレットに掲載の庭園案内図をまずご紹介しておきましょう。上記の通り、小橋から道路に上ると、反対側に門があります。破線で囲まれた区域が無料で一般公開されている庭園エリアです。ここは、「旧山口氏南部別邸庭園」だったそうです。高畑町には志賀直哉が一時期住んだ居宅があることでよく知られています。明治期から昭和期にかけては、日本を代表する文人や画家がこのあたりに住居やアトリエを構え、文化人が集うエリアになっていたそうです。山口氏とは、明治期から大正期にかけて大坂財界で活躍した山口吉郎兵衛氏で、ここに別荘を構え、文人・画家たちと文化的な交流の場としていたと言います。この場所が、昭和2年に国指定文化財「名勝奈良公園」に追加指定を受けたそうです。広さは約1.3haの園地だとか。六甲山麓の芦屋にある「滴翠美術館」は山口吉郎兵衛氏の古美術品コレクションを収蔵・公開するゆかりの地です。(資料1) 入口を入ると、この駒札が立っています。奈良県は、「山口家が作庭した庭園遺構」に対し、「当時の作庭思想や護岸石の組み方などを踏襲して平成31年より文化的価値の高い庭園の復元整備に着手し、令和2年から、一般公開を始めました。」(駒札より)それでは、庭園の拝見、回遊をいたしましょう。入口を入ると、南東方向に広々とした空間が広がっています。 庭園の西端よりに門がありますので、南方向を眺めると井戸が見え、瑜伽山の斜面に添って境界の塀が延び上がっています。芝生の庭を囲むように鍵形に折れ曲がる砂利道が設けてあります。 砂利道の途中に立ち止まり、東を眺めた景色。南側(右)の建物は復元された茶室です。「たく庵」と称する茶室です。「たく」は「くさかんむり」に「澤」と書く文字ですが、漢字変換できません。見えている建物は広間(六畳、八畳)で、その背後、南東側に独立した建物で小間(四畳半)があり、二棟で構成されています。 井戸の近くから東方向の眺め。庭園入口を入ると、すぐ左手に築地塀沿いの通路があります。その道を東に歩むと、 平石橋が架かりその先に石敷道と北面する茶室(広間)の正面が木々越しに見えます。 平石敷道の東側には斜めに飛石の道が延びています。この景色の右上隅が庭園入口の門辺りです。 さらに東方向に歩み、築地塀側を眺めた景色です。矩形の砂利道と平石敷道で囲まれた芝生地がぽっかりと広がった庭の東に石組みの庭が連接し、この庭を一部囲む形で小川風の池が作られています。 築地塀沿いに東に通路を歩めば、池の東側沿いに道が続いています。庭園との間に境界が設けてありますが、この建物から庭園が遠望できるようになっています。上掲の案内図に記載の「交流・飲食施設」です。この建物への入口は道路側にあります。庭園とマッチするように落ち着いた色合いと形の外観になっています。 茶室(広間)側の庭から北方向の景色 広間の棟の南側に設けられた茶室(小間)です。 茶室(小間)を回り込んで、西側から眺めた景色です。傾斜地に十三重石塔が置かれていて、その向こうに建物がもう一つ見えます。 茶室に近い山側の斜面地に石組の「大滝」が見えます。 茶室からこの大滝を眺めることができるように作庭されているそうです。 茶室への露地に設けられた蹲と井戸 十三重石塔 井桁 軸部には四方仏が厚彫りされています。 露地に見える井戸の傍から高低差のある山側の庭を眺めた景色。この景色の先に見えるのは、 「腰掛待合」です。その背後に茶会用の雪隠が設けてあります。井戸の傍の石灯籠に着目してみましょう。石灯籠の笠がかなり特異です。手許の本では、朝鮮形と名づけられているものに近いように思います。(資料2)火袋は各面の中央に円窓が穿たれています。 一般的な石灯籠の中台に相当する部分が長方体形になっていて、格狭間の中に草花文様がレリーフされています。竿に相当する部分はごく短かい作りです。 反花の下の基礎部分が、宝篋印塔の基壇ほどの高さ・大きさに作られています。あまりみかけない石灯籠です。 茶室の東には、東西方向に長細くのびた池が設けられていて、木橋が架かっています。これは、築地塀沿いの通路から右折する形で回り込んできて、上掲の茶室(広間)に近い池の端から北東方向を眺めた景色です。池の南側の斜面には竹林が見えます。 木橋の近くから眺めた北側の景色。左の生垣が庭園と上掲施設との境界になっています。 木橋を渡ると、瑜伽山との高低差を利用し、石段を設けて回遊できる庭が広がっています。石段の上り口に宝篋印塔が置かれています。 かなりの歳月を経た石塔です。塔身は石龕風で四仏が厚肉で掘り込まれています。 石段を上った先で西方向に向かう竹林の間の小径この小径の南側が宿泊施設との境界になっています。この景色の手前から左に進むと、施設の入口に繋がっています。そこが境界となっている表示がありました。 宝篋印塔の東方向は竹垣で仕切った竹林が広がっています。この竹垣沿いに、長細い池端に沿った小径を巡ることができます。 池の東端を回り込んで北辺沿いに木橋の近くまで戻って来ると、この石灯籠があります。 創作型の石灯籠です。六角形の中台各面の格狭間には躍動する動物たちが肉厚の盛り上がった形で彫り出されています。六角火袋の各面にも動物や人物が厚彫りにされています。 これらの浮彫をお楽しみください。 反花の下の基礎部分、格狭間には同様に動物が浮彫りにされています。これで、大凡この瑜伽山園地を回遊してきました。再訪すれば、まだまだ見過ごした発見があることと思います。まずはこの辺りで園地探訪を切り上げました。 浮見堂を遠望しつつ、鹿を眺め、鷺池の南辺沿いの道路を戻ります。 道路脇で「荒池園地」の案内掲示板が目にとまりました。ちょっと、立ち寄ってみることに。 緩やかな坂道を南方向に少し下ります。道沿いに残るのは築地塀の遺構でしょうか。その先には広々とした芝生地が広がっています。 東に位置する鷺池から西方向に小川が流れていて、 荒池に流れ込みます。 ここから見える荒池の対岸は国道で、左側に遠望するのは奈良ホテルです。荒池は国道で南北に分断され、こちらは荒池の東半分です。国道の反対側に荒池の西半分があり、南端部で繋がっています。冒頭の案内図でおわかりいただけるでしょう。調べてみますと、この荒池は「水に乏しい奈良公園に築造されました」とのことです。知らなかった。(資料3)これでご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*庭園入口で入手した上掲のリーフレット1) 滴翠美術館 ホームページ2) 『和の庭図案集』 design book 建築資料研究社3) 荒池園地 :「奈良公園」補遺滴翠美術館 Twitter 山口 吉郎兵衛 :ウィキペディア志賀直哉旧居について :「志賀直哉旧居」志賀直哉旧居 :「奈良観光.jp」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 奈良 奈良公園散策 -1 鷺池と浮見堂 へ
2020.08.16
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「よみがえる正倉院宝物」展を鑑賞したあと、観光客をちらほらみかける静かな雰囲気の奈良公園を駅方向に戻りながら、真っ直ぐに帰るのももったいないな・・・・と思い、まだ行ったことがなかったエリアを少し散策してみようと思いつきました。 奈良国立博物館から国道369号線に出るまでに、以前に高畑町にある天神大神社・瑜伽神社を探訪した折りに、浮見堂という名称を道路標識で見ていながらそのときの探訪方向とは違ったために先送りにしていたことを思い出したのです。そこで、浮見堂ならそれほど遠くもないし、未訪なので寄り道してみようと思った次第です。奈良公園と興福寺境内との間を南北に通る国道のところで左折し、南に歩みます。春日神社の一の鳥居を通り過ぎると少し先に四季亭があります。 その先に道路標識が設置されています。 標識の先で左折して東方向に緩やかな坂道を上っていきます。 道路の両側の建物や木々の傍で鹿をみかけます。 さらに進むと、左側に大きな「奈良公園案内図」が設置されています。 部分図を切り出してみました。こんな位置関係になります。 浮見堂は鷺池の中に建てられています。お堂は檜皮葺きで形は六角形です。 鷺池の北西隅から池の北辺沿いに浮見堂に向かいます。 浮見堂への橋の手前、池端で目に止まったもの。金網を張った蓋がこの石造物に取り付けてあります。 鷺池の東部域 池の北岸から浮見堂に向かう橋左柱には「鷺池」、右柱には「蓬莱橋」の浮彫銘板が取り付けてあります。 蓬莱橋の池辺にもう一つの石造物が上掲同様に蓋が取り付けられて置かれています。これって何なのでしょう? 説明板的なものはどこにもありません。私はこのとき、場違いな石造物を連想してしまいました。 それがこれ! 京都国立博物館西の庭の一隅に保存展示されている石造物です。京都市内の上京と下京のお寺の境内で見つかった「キリシタン墓碑」です。形状がよく似ているではありませんか。たまたま似た形状だけなのか・・・・・。 橋上で西方向に目を転じた景色です。西側には池がゆったりと広がっています。この景色でおわかりのように、橋は池の北辺と中島との間に架けられ、途中でT字形に浮見堂と結ぶ橋が分岐しています。 東西方向にのび浮見堂に繋がる橋 浮見堂の外廊から眺めた池、西方向の景色 堂内で見上げますと、中央部が六角形の網代天井に仕上げられています。滋賀県には、近江八景「堅田の落雁」で名高い浮御堂があります。琵琶湖上にお堂が建てられ岸辺と橋で結ばれています。海門山満月寺というお寺にあります。「平安時代、恵心僧都が湖上安全と衆生済度を祈願して建立したという。現在の建物は昭和12年の再建による」。また、堂内には「阿弥陀仏一千体」が安置されています。(資料1,2)こちらの浮見堂は、「御」ではなく「見」が使われています。現在の建物は、平成3年から平成6年にかけて3年間の修復工事を行って、旧来の浮見堂をよみがえらせたものと言います。元々は大正5年(1916)に建造され、「浮見堂」と称されたそうですので、池中にて、池の水面・周囲の水辺の景色を見て楽しみ、憩うという目的で建造されたのでしょうね。「八角堂形式(六角形)のお堂」という説明も行われています。(資料3,4)池の北岸には桜の木が多く、春はお花見で賑わい、夏は燈花会の会場にもなるそうです。(資料4) 浮見堂から北岸側の橋景色 浮見堂から南岸側の橋景色橋を渡り、池の南寄りにある中島に向かいます。 中島に、一軒のお店があります。お店から道路を隔てて西側の池傍に竹垣で囲まれた覆屋があります。 そこに「洞水門」が作られています。別名「水琴窟」です。 覆屋の傍に、ボートが係留されています。鷺池でボート遊びを楽しみ、架橋の下をくぐり浮見堂の周囲を巡ることもできるようです。 鷺池の南辺から中島に渡る小橋。この橋も「逢来橋」の一部です。 この辺り、ちょっと見過ごしがちな隠れた観光スポットといえそうです。 池の南辺を西方向に進みます。 鷺池の南西側に、浮見堂の展望スペースがあります。 池の西辺からの景色です。秋は紅葉も楽しめる憩いの場と言えそうです。浮見堂を見つつ、ほぼ鷺池を一巡りしてきました。これで終わります。ご覧いただきありがとうございます。次回は、今回偶然に知った鷺池の南隣りにある新しい観光スポットをご紹介します。参照資料1) 浮御堂(満月寺) :「滋賀・びわ胡 観光情報」2) 満月寺浮御堂 :ウィキペディア3) 浮見堂 :「NARA Travekers Guide」(奈良観光協会)4) 浮見堂-Ukimido-hall- :「奈良観光.jp」 こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 奈良国立博物館 特別展「よみがえる正倉院宝物」探訪 奈良 奈良公園散策 -2 瑜伽山園地(2020年一般公開開始)と荒池園地 へこの近くで以前に探訪しご紹介したところです。ご興味があればどうぞご覧ください。探訪 奈良市 奈良公園周辺散策 -1 興福寺境内・荒池・青田家住宅・福智院ほか探訪 奈良市 奈良公園周辺散策 -2 県道傍の地蔵堂・天神社探訪 奈良市 奈良公園周辺散策 -3 瑜伽神社スポット探訪 [再録] 春日大社境内を巡る -1 大仏殿交差点から境内へ(憶良の歌碑、石灯籠さまざま、萬葉植物園、壺神神社、車舎) 4回のシリーズでご紹介しています。スポット探訪 春日大社を巡る[再訪] -1 春日東西両塔跡・参道・春日若宮神社 2回のシリーズでご紹介しています。
2020.08.14
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先週の金曜日に、奈良国立博物館で開催されている標題の特別展を観に出かけてきました。午前11時過ぎに興福寺境内を抜けて奈良公園の入口に入ったところの景色です。 平日とはいえ、閑散とした静かな景色の中を博物館まで歩むのは久しぶりです。 入場待ちの列はできていませんでした。 博物館正面傍の池には蓮の花が咲いています。 正面入口の左側壁面に掲げてある特別展案内の大型パネル。 池の北側から博物館を眺めると2階部分の壁面にも案内パネルが掲げてあります。 3枚の大型パネルをクローズアップしてみました。 左が特別展のチケットの半券、右が今なら各所で入手できるPRチラシの表です。 PRチラシの裏正倉院宝物は、正倉院展としてその一部が毎年秋に順次公開されています。その一方で、その時代時代の最新の科学技術を駆使しつつ、それぞれの分野での工芸作家たちが協力して、天平の技を忠実に再現模造するという試みが行われてきました。今までの正倉院展で、複製品が宝物と併せて数点展示されていることはありました。今回のこの特別展は、受け継がれた職人の技を使い、正倉院宝物、その天平の技を当時の姿で再現模造した複製品を一堂に集めた公開です。御大典記念として、時空を経て現存する正倉院宝物を天平の姿によみがえらせたものです。天平の時代にタイムスリップして、当時の宝物の色と輝きとその姿を感じ取れる展覧会といえます。キーワードは「よみがえる」です。8/4より後期展示期間に入っています。当日(8/7)入手した展示品一覧表では4点だけの入れ替えです。また展示作品は図録番号と一致させて128番までありますが、この奈良会場(当博物館)での展示品数をカウントしてみますと、そのうちの81点が現在展示されています。つまり通期では85点の公開になります。この特別展の企画は巡回展として行われているようです。 こちらは鑑賞後に購入した図録。今回の図録には3分の2ほどの幅広の帯が掛けてあります。 四半敷様に様々な宝物の部分写真を並べた帯です。 表紙側 裏表紙側帯が表紙の内側に折り込まれた部分を眺めてみましょう。 表紙の内側 裏表紙の内側それぞれ折り込まれていて、外からは見えない部分です。 綺麗な帯を外すと、図録の表紙は「八陵唐花文赤綾」(宮内庁正倉院事務所藏)の織物が使われています。例えばこれは平成12年(2000)に川島織物が再現模造された作品です。原宝物は鏡箱の内敷きに用いられた絹だそうです。やはり、今回の展示品で一般観覧者の立場で見どころとなる作品は上掲の案内情報に盛り込まれているように思います。上掲諸情報からの引用という形で少しご紹介します。 なんと言っても、やはりこれが目を惹きつけます。「螺鈿紫檀五絃琵琶(らでんしたんごげんびわ)」(宮内庁正倉院事務所藏)の再現模造です。左は琵琶の背面で、宝相華・雲・鳥などの文様で埋め尽くされた螺鈿細工は緻密精巧で美しく煌びやかです。「第1章 楽器・伎楽」のセクションに展示されています。 琵琶の表面は、腹板(ふくばん)に花形が配され、捍撥(かんばち)と呼ばれる部分には、駱駝に乗る胡人が表現されています。インド起源の五絃の琵琶だとか。平成23年に実作に着手し、8ヵ年の歳月をかけて完成に到ったと言います。この琵琶の再現模造には、次の匠たちや会社が共同で製作されたそうです。[木地]坂本曲齋(三代)、[象嵌]新田紀雲、[加飾]北村昭齋、松浦直子、[絃]丸三ハシモト株式会社。絃には小石丸種の絹糸を用いているとのこと。 この琵琶は、1階に設けられた記念撮影用スペースでもその実物大サイズの写真が使われていますので、やはりハイライトの一つと言えます。 原宝物の「酔胡王面」は正倉院展で観ていますが、これほど鮮やかな色合いの面とは想像もしていませんでした。この面を被って踊り躍動する姿を目にした人にはすごいインパクトがあったでしょうね。 こちらは「伎楽人形 呉女」(奈良国立博物館蔵)です。呉女役の面と装束がセットとして再現模造されています。昭和時代に作られたものと言います。前期は「呉公」が展示されていて、後期にこの「呉女」に入れ替えられたのです。美女ですねえ・・・・・。「大柄の唐花文を表した赤地錦の袖なしの短衣」(図録より)が煌びやかです。 PRチラシの裏に載るこの「黄銅合子(おうどうのごうす)」(宮内庁正倉院事務所藏)は、「第二章 仏具・箱と几・儀式具」に展示されています。仏前で香合として用いられた容器だと考えられています。模造の完成品と併せて、制作過程が見えるように部材が展示されています。この五重相論をかたどった塔形鈕はなんと50数枚の部材を重ねて作られているのです。 仏前で用いた陶製の鉢「ニ彩鉢」(宮内庁正倉院事務所藏)が再現模造されています。緑色と白色の釉薬を掛けた鉢の模造はわかりますが、釉薬をかける具合で自然にできた結果としての文様をどのように複製したのだろうか・・・・と展示品を観ていてふと思いました。後で図録を読みますと、「緑釉および白釉は筆で導くように描き、仕上がりを考慮して窯詰めしたのち、本焼きを行い、原宝物にみる釉薬の流れを再現した」という工夫がなされたそうです。第二章では、新羅製で9口の碗を入れ子式に重ねて一碗の中におさめる「佐波理加盤(さはりかばん)」(宮内庁正倉院事務所藏)が展示されています。一列に並べられた碗がきっちりと一碗に入るというその精度には驚きです。形はシンプルです。「紅牙撥鏤撥(こうげばちるのばち)」(宮内庁正倉院事務所藏)と称する象牙を赤く染め表面を彫り白地を出して文様を描き出した琵琶の撥が第一章に展示されています。一方、この第二章には、「緑牙撥鏤尺(りょくげばちるのしゃく)」(奈良国立博物館蔵)が展示されています。こちらは染め象牙の儀式用のものさしです。長さ29.9cm、幅2.4cm、厚0.7cmに細密な文様が刻まれています。拡大レンズなどのない時代によくぞ小さくて細密な図を刻む技があったものだと感心します。それを再現模造しているのもすばらしい技です。写真が撮れないので・・・・ぜひ会場でご覧ください。「第三章 染織」のセクションには、図録の表紙として上記した文様の織物が展示されています。 こちらは「赤地唐花文錦」(宮内庁正倉院事務所藏)の再現模造品です。幡に使われた錦だそうです。 こちらは「紫地鳳(ほうおう)唐草丸紋錦」(宮内庁正倉院事務所藏)です。聖武天皇の肘かけに用いられた錦だとか。会場に写真とともに説明パネルが掲示されていますが、その説明に相当する個所を図録から引用し、ご紹介します。「奈良時代の絹繊維は、調査の結果非常に細いことが知られており、日本産の繭では、小石丸がそれに最も近い繊維を産することから、一連の模造では、皇居内の紅葉山御養蚕所において上皇皇后陛下がお育てになられた小石丸の繭をいただき、用いた」とのこと。試作段階で使った一般の繭では、同じ絹織物の風合いが出せなかったといいます。復元にとって絹素材の重要性が再認識されたそうです。「第四章 鏡・調度・装身具」のセクションに進みましょう。 当日館内で入手した「奈良国立博物館だより」です。この表紙に使われているのが、このセクションに展示されています。「黄金瑠璃螺鈿背十二稜鏡」(宮内庁正倉院事務所藏)。鏡の鏡背を七宝で飾った十二稜形の銀鏡の再現模造品です。正倉院には鏡が沢山伝わる中で、鏡胎が銀であるのはこれ一つだそうです。さらに七宝製品というのもこの鏡が唯一だといいます。 蛇紋岩を素材にして、スッポンの姿を写実的にかたどった容器がおもしろい。平成10年(1998)詫間裕作。 スッポンの体全体が容器の蓋になっていて、その甲羅に北斗七星が表現されています。丸い星には銀泥、星を繋ぐ線には金泥が塗られているそうです。 寄木細工の双六(すごろく)盤です。駒を並べて骰子(さい)を振り、相手の陣地に駒を進めるゲームの盤ということなのですが、どんな駒をいくつ使い、どのように相手陣地に駒を進めるのかについては、説明の掲示がなかったと思います。どういう使い方をしたのでしょうか・・・・。昭和29年(1954)木内省古作です。このセクションでは「赤漆文欟木厨子(せきしつぶんかんぼくのずし)」(東京国立博物館蔵)という聖武天皇のゆかりの品を収めた厨子の再現模造品が印象に残っています。丈夫そうで重厚な感じの厨子です。金銅製の直方体形の錠前に関心をいだきました。「第五章 刀・武具」「第六章 筆墨」と続きます。当時の太刀は真っ直ぐな直刀だったのですね。今回の展示を眺めて再認識しました。出展されているのはすべて明治時代に再現模造されたものでした。一番印象に残ったのは、「金銀鈿荘唐太刀(きんぎんでんかざりのからたち)」(宮内庁正倉院事務所藏)の鞘の錺金具です。上掲PRチラシ表の上辺中央並びに図録表紙の帯の右下に金具の部分図が載っています。銀製鋳金で唐草文を透かし彫りにして、伏彩色を施した水晶玉や青・濃緑色のガラス玉を嵌入しています。聖武天皇の儀式用太刀だそうです。筆墨のセクションでは、戸籍や正税帳その他の古文書が再現模造されています。国立歴史民俗博物館が正倉院古文書についてコロタイプ印刷技法により継続的な複製事業をされているということを知った次第です。一般鑑賞者向けのPRチラシや案内パネルにはさすがに複製古文書は表には出ていません。図録の帯の中、それも折り込まれた内側に1ヵ所だけ載せてあるのを見つけました。展示会場を出た後、1階から博物館の南側にあるピロティに出てみました。 南側にも池があり、こちらには白い蓮の花が咲いています。 池の南西方向の眺めから南東方向に目を転じてみます。 奈良国立博物館には、春か秋に来ることが多いので、蓮の花が咲いているのを初めて眺めたように思います。これで、この特別展の印象記を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*「よみがえる正倉院宝物」のPRチラシ*図録『御大典記念 特別展 よみがえる正倉院宝物 ー再現模造にみる天平の技-』 発行 朝日新聞社 2020*「奈良国立博物館だより 第114号 令和2年7・8・9月」 奈良国立博物館補遺巡回展 御大典記念 特別展 よみがえる正倉院宝物 ー再現模造にみる天平の技- :「Internet Museum」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2020.08.13
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観照 諸物細見 一覧表観照 諸物細見 一覧表 京博西の庭の南西エリアには、石造物が他にも芝生の中に置かれ野外展示されています。この石造不動明王立像もその一つです。周囲を低い竹垣で囲った区画の中央に不動明王が東面する形でおかれています。 正面からの眺め不動明王は五大明王の一つです。前回ご紹介した大日如来が一切の悪を降すために忿怒相に化身したとされています。火焔で汚れを焚き浄め、衆生を守るという役割を担うとされます。五大明王は五大尊・五忿怒とも言われるそうです。不動明王を中央にしてその四方、東方には降三世明王、南方には軍荼利(ぐんだり)明王、西方には大威徳明王、北方には金剛夜叉明王が居並びます。京都・東寺の五大明王像が有名です。(資料1)不動明王は明王の代表仏。修行する者を守る仏と言います。この石造不動明王立像は室町時代の作と言われています。 舟形の光背には火焔が浮彫りにされています。火焔光背です。 右手には宝剣を持っています。宝剣は両刃で、鍔に相当する部分はたぶん金剛杵の内の三鈷杵の左右の形と同形を表しているのでしょう。胸の部分には瓔珞(ようらく)と称される装身具がレリーフされています。首飾りです。左肩から右に条帛(じょうはく)を身につけています。不動明王の腰の少し上辺りで、この石仏が断裂していたことが光背部分でよくわかります。 右手首は補修が施されていて、右手に腕釧(わんせん)は確認できません。一方、上腕部には大日如来と同様に、臂釧(ひせん)をはめています。(資料1)左腕を見ますと、手首には腕釧が彫り込まれ、左手には羂索を握っています。不空羂索観音菩薩の名にある羂索です。「羂索」は鐶(かん)の付いた投げ縄です。元来は武器ですが、衆生救済の法具に転じて、人々を救うための道具に転じています。(資料2) 裳(も)を身につけて、足首には足釧(そくせん)を付けています。素足で岩座にすくっと立っている姿です。よく見ますと、足釧の少し上で補修されているようです。 頭部は巻き髪状で頂部が蓮華(頂蓮)形になっているようです。もう一つの髪型は莎髻(しゃけい)というスタイルです。(資料1,2)眉毛は逆八字形につりあがり、私には両目を大きく見開いているように見えます。不動明王像でよく見かけるのは、右目を開き、左目を半眼に閉じる天地眼といわれるスタイルです。口許をみますと、牙が出ています。 左側に弁髪(おさげ髪)を垂らしています。 西からの眺め 不動明王立像の先に見えるのは「石棺」です。 東からの眺め 久しぶりにこの石仏を見仏してみました。今までに幾度も見ているのですが、あらためて細見すると気づかなかった発見があります。序でに、不動明王像が単独で祀られる場合には、二童子が脇侍として従っている場合があります。コンガラ童子とセイタカ童子です。不動尊の眷属は三十六童子とも言われています。(資料2)ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 『図説 仏像巡礼事典 新訂版』 久野健[編] 山川出版社 p82.832) 『比べてもっとよくわかる仏像』 熊田由美子著 朝日新聞出版 p83,p112-129補遺不動明王 仏様の世界 :「Flying Deity Tobifudo」不動明王 :ウィキペディア北山不動(石造不動明王及二童子立像) :「大阪市」八幡神社の石造大山不動明王像 :「練馬区」石造 不動明王坐像(吉祥寺) :「足利市」井宮家と石造不動明王像 :「松原市」国宝「青不動尊」 :「天台宗青蓮院門跡」金色不動明王画像(黄不動尊) :「三井寺」赤不動 :ウィキペディア五色不動 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 諸物細見 -9 石仏:阿弥陀三尊像と大日如来像 (京都国立博物館西の庭①)へこちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 諸物細見 一覧表
2020.08.09
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京都国立博物館の円形噴水のある西の庭エリアの南西隅近くにこの石造阿弥陀三尊像が覆屋の中に安置されています。京博敷地の西側にある赤い煉瓦造りの正門の手前で左折して庭園内通路を南に少し行ったところの一隅にあります。 中央には阿弥陀仏が定印を結び瞑想されている姿で端座されています。 右寄りから 向かって右側の観音菩薩は両手で蓮台を捧げる姿の坐像です。蓮台は仏像の台座で蓮華座です。 左寄りから 向かって左側の勢至菩薩は合掌する姿の坐像です。三尊それぞれに舟形光背が設けられ、光背が一部重なり合う形で刻まれています。三尊は丸彫りとまではいきませんが、腕と肩の背面が少し見える程度まで深く彫り込まれています。 石仏の傍に、この説明パネルが掲示されています。説明パネルに帰されていますが、観音菩薩が蓮台を持つ姿からこれが「来迎」を示す場面だとわかります。『大無量寿経』には、阿弥陀仏になる前の宝蔵比丘(菩薩)が「四十八願」を立てられ、その内容が記されています。第18願が日本では一番よく知られています。つづく第19願には次の願文が記されています。漢訳経典の和訳文でご紹介しますと、「たとい、われ仏となるをえんとき、十方の衆生、菩提心を発(おこ)し、もろもろの功徳を修め、至心に願を発(おこ)して、わが国に生まれんと欲せば、寿(いのち)の終わる時に臨みて、(われ)仮令(もし)、大衆とともに圍繞(いにょう)して、その人の前に現ぜずんば、正覚をとらじ」(資料1)つまり、「浄土に生まれることを願う人の臨終に仏菩薩が迎えに来る」という誓いをされたということです。この阿弥陀仏が来迎されるという思想は平安時代中期から流行したそうです。(資料2)数多くの来迎図が描かれ、残されています。図像として描かれたものは数多いのですが、石造彫刻としての遺例は少ないといいます。そういう意味でもこの石造阿弥陀三尊像は平安時代の作として貴重なものということがわかります。例えば、京都国立博物館のホームページで公開されている「阿弥陀二十五菩薩来迎図」や奈良国立博物館の収蔵品データベースに公開されている「阿弥陀聖衆来迎図」の雲上の先端個所の菩薩が蓮台を捧げている姿が描かれています。たぶん、臨終する人がいずれ成仏して坐る台座を持って来迎するということなのでしょうね。(資料3,4) 阿弥陀仏 観音菩薩 勢至菩薩 それぞれの顔貌に欠損部分がかなりありますが、それぞれの尊顔をイメージしてみてください。通路沿いに東に進みます。七条通に面したレンガ塀を背景に、 この石仏が置かれています。大日如来坐像です。 京都の中京区丸太町通寺町下ルに位置する行願寺(革堂)伝来の石仏と説明されています。 頭部には宝冠を被り、その下辺に地髪が彫られています。 条帛(じょうはく)が左肩にかけられ、その上には瓔珞(ようらく)の飾りが見えます。 上腕部には臂釧(ひせん)、手首付近に腕釧(わんせん)と称される装身具を身につけています。臂釧は分かりやすいですが、腕釧はそれらしきものがあるかという感じです。7232法界定印の印相ですので、この大日如来は胎蔵界大日如来であることがわかります。金剛界大日如来は印相が智拳印です。喩えれば忍者が精神統一するときの手指のしぐさをイメージさせるような印相です。智拳印の大日如来坐像の方が良く見かける仏像のように思います。 顔相がいいですね。 西側からの眺め頭部、肩から腕にかけても背面近くまで深く彫り込まれています。 クローズアップして眺めます。 反時計回りに背後を巡ります。 東側からの眺め 大日如来は、密教世界ではその体系の中で中心をなし、最高位の絶対的尊格として位置づけられています。摩訶毘盧遮那如来、遍照如来ともいわれます。『華厳経』の教主・毘盧遮那仏、つまり東大寺の大仏と同源の尊名でもある法身仏だそうです。密教の代表的な経典『大日経』『金剛頂経』に詳しく説かれています。手許に数冊ある仏像関連書籍でどの本でも代表的な造像例として紹介されていますのは、奈良・円成寺の運慶作金剛界大日如来坐像です。(資料5,6)序でに、京都国立博物館の平成知新館1階には、京都・安祥寺藏の五智如来坐像が寄託により、常設展示されています。その中心に智拳印の大日如来坐像を見仏することができます。また、京都・東寺(教王護国寺)の講堂を訪れると、諸仏像の立体曼荼羅世界の中心に大日如来坐像を拝観・見仏することができます。「大日如来が、出家者の衲衣(のうえ)姿ではなく宝飾を身につける王者としての姿、菩薩的像容であるのは、密教の現世肯定と菩薩としてなすべき実践の理想を体現しているのです」(資料3)とのこと。石仏見仏から話が広がってしまいました。この辺で終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 『浄土三部経 上』 中村元・早島鏡正・紀野一義訳註 岩波文庫2) 『新・佛教辞典 増補版』 中村元監修 誠信書房3) 阿弥陀二十五菩薩来迎図 名品紹介 :「京都国立博物館」4) 阿弥陀聖衆来迎図 収蔵品データベース :「奈良国立博物館」5) 『比べてもっとよくわかる仏像』 熊田由美子著 朝日新聞出版 p40-456) 『仏尊の事典』 関根俊一編 学研 p36,37補遺阿弥陀三尊来迎像 博物館ディクショナリー :「京都国立博物館」浄土宗とは? ~ご本尊について :「浄土宗」両界曼荼羅 :ウィキペディア両界曼荼羅図 :「MIHO MUSEUM」円成寺 ホームページ 大日如来坐像 運慶作 国宝 五智如来坐像(京都・安祥寺所蔵)が国宝に指定されます :「京都国立博物館」安祥寺の五智如来像、国宝格上げへ 2019.3.19 :「産経新聞」五智如来 :「金剛山最勝院」東寺 ホームページ 立体曼荼羅 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2020.08.08
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コロナ禍により、開催時期を遅らせての開催です。「西国三十三所 草創1300年記念」として「聖地をたずねて-西国三十三所の信仰と至宝-」が始まっています。 同じ特別展案内パネルが敷地の南東角、七条通と東大路通がT字路を形づくる東山七条の交差点角に掲げてあります。このPRパネルで印象づけられるとおり、みどころの1つが、やはり「七観音の勢ぞろい!」です。やはり仏像が一番インパクトがあります。 こちらは、博物館の入口傍の南面壁に掲げてある特別展案内パネルです。このパネルに向かって右側にチケット販売所、左側が入口です。入口ではコロナ禍の影響で、検温作業が手続化されていました。ここでは手首の個所で検温されました。この方式は初体験です。 いつも通り、建物と庭を眺めながら、北側の南面する平成知新館に向かいます。 平成知新館の少し手前、庭の定位置に設置されている展覧会のパネルです。 こちらはこの特別展を鑑賞後に購入した図録の表紙です。上掲の平成知新館手前の案内パネルの仏像の配置を縦長にぎゅっと寄せた感じの配置になっています。 左は今回の特別展チケットの半券、右は今ならいろんな個所で入手可能なPRチラシの表紙です。チケット半券とPRチラシはほぼ同じ仏像の配置です。平成知新館手前の案内パネルとは1仏像が異なります。気づかれましたか。 これは、入口手前のPRパネルから切り出したものです。 冒頭に掲げた七条通の歩道沿いに掲示されたPRパネルとも見比べてください。上掲のそれぞれは、仏像の配置のしかたが少しずつ違います。その違いで全体の仏像群の醸し出す雰囲気が微妙に異なっていて、おもしろいです。 それでは、平成知新館に入りましょう。「西国三十三所は、閻魔大王のお告げを受けた大和国長谷寺の開基・徳道上人が人々を救うために定めたと伝わる33の観音霊場を巡る、日本最古の巡礼路です。」(PRチラシより)京都に3分の1の霊場が集中し、和歌山、大阪、兵庫、奈良、滋賀、岐阜に霊場が広がり、順路の総距離は約1000kmに及ぶと言います。たとえば「第6章 巡礼の足あと」に、「西国巡礼独案内図」(紀三井寺蔵)という絵地図が展示されていました。この特別展は7章構成になっています。まずその構成を概略ご紹介します。第1章 説かれる観音 飛鳥時代、奈良時代の小さな観音菩薩像が兵庫・一乗寺、和歌山・青岸渡寺、奈良・壺坂寺などから出展されています。上掲仏像群に取り上げられているものとして、奈良・岡寺の「菩薩半跏像」(奈良時代・8世紀)がここに展示されています。「説かれる」という観点から各種経典が展示されています。その中で前期(~8/16)として、国宝「千手千眼陀羅尼経 残巻(玄昉願経)」を見ることができます。第2章 地獄のすがた これは、図録の裏表紙です。陸信忠筆「十王図」(京都・六波羅蜜寺蔵)のうちの「五七日 閻羅王」つまり、死後35日目に地獄(冥府)で閻羅王(閻魔王)が裁きをする審理場面を描いています。かなり細密な描写です。首枷・手枷と足を縛られた亡者・刺股様のものを頸にあてがわれその棒に手首を縛られかつ足を縛られた亡者が閻羅王の前に引き出されてきています。下辺には刃葉の林地獄が描かれています。前期は、十王図10幅のうち、6幅が展示され、後期に残り4幅に展示替えになる予定です。 これは、会場で入手した京博の英文ニュースレターVol.146の表紙です。中央上部には、国宝「六道絵」(滋賀・聖来迎寺蔵)のうち「閻魔王庁図」です。これは後期に展示替えで出品予定のもの。残念ながら、4日(火)には見られませんでした。前期は同「六道絵」のうち、「人道無常相」「人道苦相」の2幅が展示されています。源信著『往生要集』の第一「厭離穢土」に記述される六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)の様相を15幅に具象化した作品のうち、2幅ずつが前期・後期それぞれに展示されるそうです。人々は、いずれ地獄に堕ちる己自身を想像し、地獄からの救済を観音様にお願いしたのです。地獄を可視化されることにより、一層人々は観音様にすがるという思いを強めたのでしょうね。ふと思ったのは、地獄からの救済を地蔵菩薩に求めるという地蔵信仰と観音信仰との関係性です。地獄からの救済は観音信仰から地蔵信仰に比重が移って行ったのでしょうか。あるいは、地獄思想に対しては、パラレルな信仰として共存するのでしょうか。今まで地獄と地蔵を結びつけて考えていただけですので、課題が残りました。第3章 聖地のはじまり PRチラシからの引用です。チラシに載る「徳道上人像」(奈良・法起院)を始め、花山法皇、性空上人、法道上人各像の掛幅が展示されています。「観音霊場開祖図」(和歌山・青岸渡寺蔵)は江戸~明治時代に制作されたようですが、少し華やかさを感じる開祖図です。花山法皇、徳道・仏眼・性空の3上人、辨光僧正の5人の像が縦長の掛幅に描かれています。ここには、大日如来をはじめ諸如来・菩薩の画像と両界曼荼羅図が展示されています。数多くの霊場縁起絵巻が展示されていて、前期・後期で霊場あるいは巻の入れ替えもあるようです。前期では粉河寺(国宝・前期だけ)・龍蓋寺・長谷寺・石山寺・清水寺・善峰寺・総持寺の縁起を一堂に鑑賞することができます。こういう機会は滅多にないことでしょう。上掲の京博英文ニュースレター表紙の下辺とこの第三章の画像の左上は同じ絵で、「粉河寺縁起絵巻」の部分図です。私が一番興味深く思ったのは、上掲画像に載っている「那智山経塚出土仏教遺品」13件の展示です。密教の金剛界曼荼羅の中心、成身会の構成を立体で具現化したという珍しいものです。出土品でありながら全部揃っているというのは希有なことだなと思います。第4章 聖地へのいざない 第4章もPRチラシから引用します。まず、「三十三所観音曼荼羅図」が前期は3点展示されていて、一つは、この画像左上に載っている曼荼羅図で滋賀・観音正寺蔵です。他に滋賀・石山寺蔵のものと、刺繍で曼荼羅図にした岐阜・華厳寺のものが展示されています。もう一つ、展示数の多いものが、「参詣曼荼羅図」です。霊場への参詣道や伽藍配置を絵図にまとめたものです。那智・粉河寺・施福寺・園城寺・清水寺・中山寺・成相寺・松尾寺・長命寺の各参詣曼荼羅図が現在(前期)展示されています。前期・後期で大半が別の寺のものと展示替えされる予定になっています。上掲の画像は施福寺のものですが、後期に展示される予定のものが載っているようです。第5章 祈りと信仰のかたちこのセクションに7観音が勢揃い!です。彫刻像と図像の両方が展示されています。会場で入手した出品一覧表から前期の展示品をカウントしてご紹介します。仏像単体としての展示品は次の通りです。聖観音像(1躯、1幅)、十一面観音像(4躯、3幅)、千手観音像(3躯、2幅)、如意輪観音像(5躯、2幅)、馬頭観音像(1躯)、不空羂索観音像(1躯)。准胝観音像は単体としては展示されていませんが、「七観音像厨子」(滋賀・長命寺蔵)の中に小像の一つとして展示されています。ちょっと変わった展示として、以下のものも展示されています。「線刻如意輪観音像等鏡像」(京都・醍醐寺蔵)、「如意輪観音像懸仏」(京都・六角堂)、「伝観音菩薩・勢至菩薩立像」(京都・清水寺)、「春日曼荼羅図」(奈良・興福寺)、「清瀧本地両尊像」(京都・醍醐寺)、「春日南円堂曼荼羅図」(奈良・長谷寺)。そこで、冒頭の七条通の歩道沿いに設置された案内パネルに戻りましょう。七観音の図像紹介です。 右は奈良・岡寺(龍蓋寺)の「菩薩半跏像」。寺伝では如意輪観音とされている総高36.8cmの小像です。岡寺の本尊、巨大な塑像の如意輪観音像の胎内から発見されたと伝わる像だとか。このポーズ、一般的には弥勒菩薩として知られていますね。左は「不空羂索観音坐像」(京都国立博物館蔵)。この観音像で最も代表的な仏像はやはり、奈良・東大寺法華堂の不空羂索観音立像でしょう。ともに一面三目八臂像です。 右は「十一面観音立像」(京都・醍醐寺)です。鎌倉時代前半13世紀に慶派仏師によって制作されたと考えられています。像高76.8cm。左は「如意輪観音坐像」(兵庫・圓教寺蔵)です。本体から岩座まで含めてサクラの一材から彫出されていて、像高18.9cm、総高30cmあまりだそうです。素地像に切金が後補されているのです。この切金の文様が素敵です。鎌倉時代、延応元年(1239)の作。第27番札所の圓教寺は、上記の性空上人が966年に草庵を結んだことにはじまるというお寺です。 右は「如意輪観音座像」(京都・頂法寺[六角堂])です。頂法寺の本堂である六角堂の内陣には宮殿が築かれています。その中にさらに厨子が置かれ、本尊が安置されていて秘仏として扱われています。その秘仏は5.5cmの小像と伝えられているそうですが、そのお前立ちがこの像だとか。像高23.5cm。近世に制作された仏像です。なお、この特別展にはもう一躯、六角堂のお前立ちである「如意輪観音坐像(鞘仏)」(像高20.8cm)も出展されています。左は「聖観音菩薩立像」(滋賀・宝厳寺蔵)です。左手に蓮花のつぼみを持ち、右手をつぼみに添える形です。ヒノキを材とし、割矧の方法で制作された像。平安時代12世紀の作ですが、弁天堂の後に割れた状態であったものを修理した仏像だとか。像高67.5cm。第30番札所の宝厳寺は、琵琶湖中にうかぶ竹生島に位置するお寺とご紹介する方がわかりやすいでしょうね。 右は一見でわかりますね。「千手観音立像」(和歌山・粉河寺蔵)です。図録の解説によれば、「裏観音」とも「北面観音」とも呼ばれているそうです。というのは、粉河寺の本尊は絶対の秘仏であり「本像は享保5年(1720)に再建された本堂背面の後戸に築かれた仏龕に、本尊を守るかのように北向きに立つ千手観音である」(図録より)そうです。左は「馬頭観音坐像」(京都・松尾寺)です。これは秘仏馬頭観音のお前立ちとしてまつられている像だそうです。江戸時代初期・17世紀の作。像高95.8cm。第29番札所の松尾寺は、8世紀初頭に中国からの渡来僧・威光上人がこの地に草庵を結び、馬頭観音をまつったことにはじまるといいます。三十三所で馬頭観音をまつるのは松尾寺だけです。「七観音が勢揃い」と述べていますが、一般的には「六観音」と称されています。天台系では、聖観音、十一面観音、千手観音、如意輪観音、馬頭観音、不空羂索観音を六観音と呼ぶそうです。それに対して、真言系では不空羂索観音の代わりに准胝観音を加えて六観音と呼ぶという違いがあります。七観音とはこの違いのあるところを両方とも合わせた数になります。第6章 巡礼の足あとこのセクションでは、上記の「西国巡礼独案内図」(和歌山・紀三井寺蔵)や「西国三十三所観音霊場記」(兵庫・圓教寺)、「観音霊場記」(滋賀・石山寺蔵)という巡礼者のためのガイド資料や納経帳、巡礼札などが展示されています。第7章 受け継がれる至宝三十三所霊場に所蔵される様々な至宝からの展示品が見られます。塼、図像、仏像、経典などです。私が興味深いと思ったのは、「天人文塼」(奈良・岡寺蔵)、「鳳凰文塼」(奈良・壺阪寺)、「銅板法華説相図」(奈良・長谷寺)、「紅玻璃阿弥陀像図」(京都・成相寺蔵)、「刀八毘沙門天像」(京都・今熊野観音寺蔵)、「西国三十三所観音集会図」(兵庫・中山寺蔵)などです。これで鑑賞のご紹介を終わります。 平成知新館を出て、久しぶりに南西方向に京都タワーを眺めました。 今年の秋は、この特別展が予定されています。予定通り開催されることを願いたいところです。コロナ禍がどうなることか・・・・・。 恒例にしているロダン作の「考える人」を写真に撮りました。この後、噴水のあるこちらの庭を少し散策してから、博物館を出ました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料特別展「聖地をたずねて -西国三十三所の信仰と至宝-」のPRチラシ図録『特別展 聖地をたずねて-西国三十三所の信仰と至宝-』 京都国立博物館 2020KYOTO NATIONAL MUSEUM Vol.146 NEWSLETTER JULY TO SEPTEMBER, 2020補遺西国三十三所巡礼の旅 ホームページ西国三十三所草創1300年 日本遺産 ホームページ准胝観音 :ウィキペディア長楽寺の由来 御本尊准胝観世音菩薩 :「長楽寺」馬頭観音 :ウィキペディア縁起 徳道上人 :「法起院」長谷寺(4)徳道上人 :「モグラのナミダ」2 徳道上人と花山院と :「香川県立図書館」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2020.08.06
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それでは、新潟県の郡部に移ります。新潟県もまた行政区域の統廃合・合併などでかなり郡部が前回の都市域に統合されてしまっているところがありますね。郡名単位で、現存する町村地名での難読地名さがしを始めます。岩船郡 島浦村と関川村だけに。 小見(オウミ)、鮖谷(カジカダニ)、聞出(キケイデ)、蛇喰(ジャバミ)、中束(ナカマルケ) 狩羽郡 狩羽村だけに。 難読は特になし。北蒲原郡 聖籠町だけに。 上大谷内(カミオオヤチ)、三島郡 出雲崎町だけに。 乙茂(オトモ)、久田(クッタ)、中魚沼郡 津南町だけに。 三箇(サンガ)、谷内(ヤチ)西蒲原郡 弥彦村だけに。 難読は特になし。東蒲原郡 阿賀町だけに。 五十沢(イカザワ)、七名乙(ナナメオツ)、古岐(フルマタ)、行地(ユクジ) 南魚沼郡 湯沢町だけに。 難読は特になし。南蒲原郡 田上町だけに。 難読は特になし。郡部域が縮小したせいか、難読地名はわずかになっているようです。また、次の郡名が現在時点で、かなり以前に消滅しています。かつての歴史地名との繋がりが見えなくなってしまいました。 佐渡郡、中頸城郡、東頸城郡これで新潟県での難読地名さがしを終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料新潟の郵便番号 :「郵便局」補遺佐渡郡 :ウィキペディア中頸城郡 :ウィキペディア東頸城郡 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)今までに難読地名さがしをした地域については、こちらの地域一覧をご一読いただけるとうれしいです。 観照 私的に難読地名さがしを行った地域一覧 奈良県・京都府・滋賀県・大阪府・兵庫県・三重県 福井県・石川県・富山県
2020.08.04
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