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1991-2000 世界のトップスターに上り詰めたマイケルであったが、更なる極みを目指し1991年11月に「Dangerous」を発表。このアルバムからクインシー・ジョーンズとのタッグを解消したが、発売後6週間において1千万枚を突破した。このアルバムで共同プロデューサーとなったテディ・ライリーはクリフォードから、アルバム「Dangerous」は時代を先取りしていた、と後に評されている。発売日にはロサンゼルス国際空港でアルバム3万枚が銃で脅され強奪されるという事件も起こっている。ビルボードでは4週連続1位を獲得するが、この時は新勢力の台頭も目立ってきており、グランジバンドニルヴァーナの1991年9月発売のアルバム「ネバーマインド」に連続を止められた。それでも3100万枚以上を売り上げた[4]。11月発売のシングル「Black or White」は文化的価値観の違いを乗り越えようという歌詞が多くの人に受け入れられ、20カ国以上で1位を獲得。全米チャートでも7週連続1位を獲得した。ロッキングなポップチューンでラップをフィーチャーしたこの楽曲は、音楽的にもクインシーから完全に独り立ちしたマイケルの姿を全世界に見せ付けた。ショートフィルムでは「スリラー」を手がけたジョン・ランディスが、再び監督として参加。当時としては最新の映像技術であるモーフィングが採用され話題となった。だが、この曲のショートフィルムでは後半のソロ・ダンスシーンが暴力的過ぎるとして一般放映が中止されるという事態になった。後にそのバージョンのショートフィルムはその部分の映像に黒豹が登場することからパンサー・バージョン(パンサーとは豹属の動物一般のことである)と呼ばれるようになった。セクシュアルなダンスや、人種差別団体の名前やハーケンクロイツが描かれた車や店のガラス窓を破壊するシーンが問題とされたのだが、これに対する批判は多い。なお、この映像は現在ではヨーロッパでは一斉放映が許可されており、マイケルのビデオ作品ではじっくり見ることが出来る。アメリカでは深夜に放映されたという話はあるが、日中に放映されたという話はない。ただ、現在見られるパンサーバージョンは、初期の映像とは若干違っており、窓に書かれた人種差別団体の名前などいくつか修正、今ではそれらの文字は消されている。1992年1月には「Remember The Time」を発売。翌月公開されたショートフィルムはエジプトの王国をモチーフにしたもので、エディ・マーフィー、イマン・アブドゥルマジド(デヴィッド・ボウイの妻)、マジック・ジョンソンと競演した。このショートフィルムでは、イマン・アブドゥルマジドとのキスシーンが話題となった。このショート・フィルムの監督は、ジョン・シングルトンが担当した。この曲を1990年代最高のマイケルの曲に推す向きも多く、テディ・ライリーも2006年5月14日のインタビューでは今までに自分が手がけた曲の中では最高傑作と言っている。マイケルも同月アフリカに行ってツアーを開始したが、体調不良になり日程を短縮した。この際に訪れたコートジボワールでは「サン族の王冠」の称号を授与されている。4月にはナオミ・キャンベルと官能的な求愛を繰り広げる「In The Closet」(監督は写真家のハーブ・リッツ)が発表される。7月にはNBAのマイケル・ジョーダンとMJ同士で競演する「JAM」が発表された。この作品ではHeavy D、ノーティー・バイ・ネーチャー、クリス・クロスなども共演している。これらの作品では多くの有名人が出演しており、マイケルの交友の広さが窺える。7月には自らの詩や写真、絵などを紹介する本「ダンシング・ザ・ドリーム」を発表した。1992年からペプシがスポンサーになり、ワールドツアーを行い世界中でコンサートを行った。収益金は1992年にマイケルが設立したヒール・ザ・ワールド基金に寄付された。1993年1月には、クリントン大統領の「アメリカン・リユニオン:第52回大統領祝賀会」での就任コンサートで「Gone Too Soon」「Heal The World」を披露した。2月にはTVの人気トーク番組「オプラ・ウィンフリー・ショー」にネバーランドでのライブインタビューという形で出演した。そこではムーンウォークのやり方を実際にマイケルが見せてくれたり、即興で「Who is it」をアカペラで歌った(翌日からラジオで同曲のリクエストが全国的に殺到する“事件”が起きた)。彼が皮膚病の尋常性白斑に罹患していることを公表したのも、この番組の中であった。1993年スーパーボウル第27回大会のハーフタイムショーでライブを行う。大型のビジョンの中で踊るマイケル。その後、画面から上部に飛び出しヴィジョンの上でダンス。さらに中央のステージまで瞬間移動するというもの。さらには、1分13秒間ステージ上で静止するという前代未聞のパフォーマンスを見せ、ジャクソンのハーフタイムショーはスーパーボウルの前半戦よりも高い視聴率を記録した。このジャクソンのパフォーマンスは、スーパーボウル・ハーフタイムショーの新たなスタンダードを築いたと言われている。結果、スーパーボウル単体としての価値が上がり、現在のような世界のトップアーティストを毎年ハーフタイムショーに招くことが定着していったのであった。ちなみにこの壮大なライブにも関わらずスーパーボウルのハーフタイムショーの伝統上マイケルはノーギャラでこのライブを行った。[5]。マイケルは少年に性的虐待を行った疑惑のマイケル・ジャクソンの1993年の性的虐待疑惑で訴えられ、ワールドツアーを途中で断念する。1994年にはMJJプロダクションズを設立した。1994年5月、ドミニカ共和国でリサ・マリー・プレスリーと電撃結婚。 HIStoryのプロモーションのためにヨーロッパ中に置かれた多くのマイケル・ジャクソン銅像の一つ1994年10月のベストアルバム発売が予定されていたが、延期され1995年6月に2枚組アルバム(ベストアルバム+オリジナルアルバム)「HIStory」を発売した。タイトルは“history”と“his story”を掛けたものである。当初は新曲は4曲で1枚のベストアルバムの予定であったが、延期され新曲が大幅に追加された。二枚組としては世界で5番目に売れた二枚組アルバムとなった。
2009/10/31
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1981-1990 1981年3月には1975年発売の「フォーエヴァー・マイケル」から、「想い出の一日」(One Day In Your Life)がモータウンから発売されたが、「オフ・ザ・ウォール」の売り上げが凄まじかったために、このシングルも話題を集め全英1位を獲得している。1981年12月には次回作のため、「オフ・ザ・ウォール」では「Girlfriend」を書いてもらったポール・マッカートニーにコラボレーションを打診した。これが実を結び、ポールと正式にコンビを組むことになり3曲のデュエット(「The Girl Is Mine」「Say Say Say」、そしてポールのアルバム「パイプス・オブ・ピース」に収録された「ザ・マン」)を後に生むことになる。ポールとはプライベートで一緒になることが多く、2人ともアニメーションが大好きで、一緒にたくさんのアニメを見たとマイケルは語っている。1982年6月にはクインシーのプロデュースにより、スティーヴン・スピルバーグ監督の「E.T.」のストーリーブックのナレーション入りアルバムの制作に参加した。マイケルはナレーションのほか、このアルバムのための楽曲“Someone In The Dark”を提供した。1982年8月には、クインシーと2人で完全にロサンゼルスのウエストレイク・スタジオに篭りっきりのような状態になった。クインシーによると、この頃彼は相当の恥ずかしがり屋で、レコーディング・スタジオでも、灯りを消してソファの向こうでしか歌おうとしなかったと語っている。そうして出来上がったアルバム「スリラー」は全米チャートで37週にわたり1位を記録。「Billie Jean」「Beat It」「Thriller」とミュージック・ビデオの概念を変える作品を次々に発表し、「スリラー」はアルバムの売り上げの世界記録を更新した。1983年1月発表の「Billie Jean」はマイケル作詞・作曲の曲で、曲とビデオの両面でゴシップ記事に苦しめられる自身の姿を投影したものと言われている。だが、その後この傾向がますます強まったのは誰もが認めるところであり、結果的にこの曲は彼の人生を強く言い表した曲になっている。2005年の無罪判決の時もジャーメインが「Larry King Live」に出演した時、司会のラリー・キングもこの曲を引き合いに出し、「マイケルは被害者か?」と質問している。ジャーメインはこれに対し、この曲に関しては人によって非常に多様な解釈が出てしまっている事を念頭に置き「歌詞の内容が曲解され、事件が起こる」と語っている。この作品は黒人であるにもかかわらず、MTVでプロモーションビデオが放映され続け、「黒人の映像は放映すべきではない」というMTVの暗黙のルールを壊した作品のひとつとして知られている(もう一人はプリンスである。しかしプリンスの場合は白人の血も入っているとの噂を否定しなかったので非常に微妙なところである。※実際には、プリンスの両親は共に黒人である)。1983年5月には、モータウン25周年コンサート(Motown 25: Yesterday, Today, Forever)においてこの曲の間奏でムーンウォークを初めて披露した。なお、この際、モータウンのコンサートに出演する代わりに「Billie Jean」を歌うことを条件に出したとされている。この初披露のムーンウォークでは爪先立ちが上手く出来ず本人の満足のゆくものではなかったという。2月には「黒人音楽の壁を越え、ジャンルの壁を壊す」というコンセプトのもとで、エディ・ヴァン・ヘイレンを起用した力強いロックナンバー「Beat It」を発売。このビデオではリードシンガーの背後で群集がダンスするという、プロモーションビデオの画期的な変革を行った事で知られる。現在では当然のように撮影されているが、その原点と言われる作品がこの作品である。このショートフィルムでは自身の希望で「ロサンゼルスのストリートの本物のチンピラ」を起用した。そして、12月には後の多くの調査でミュージックビデオの最高傑作と目される「Thriller」がMTVで初公開された。約14分の大作であるこのビデオではマイケルが狼男に変身したり、ゾンビとダンスを踊ったりと、特殊効果を多用したその映画的な構成が話題となった。監督はジョン・ランディス。1999年のMTVによる「今まで作られたビデオの中で最も偉大なベスト100」でも1位に輝いている。また、この年の年末にはペプシと大型スポンサー契約も結んでいる。1984年2月には本人出演のペプシのCMが、MTVによって初公開された。しかしペプシのCMでライブバージョンを撮影中、予想以上に火花が散ってしまい、その中から登場したマイケルは、頭頂部に大きなヤケドを負ってしまった[1]。皮膚移植手術によって、完治はしている。このときマイケルに対してペプシ側から推定3億円あまりの賠償金が支払われたが、マイケルは自身を治療した病院にこの賠償金を全額寄付した。また、マイケルはこの一件についてペプシ、製作者側を非難することはなく、両者の関係が悪化することもなかった。それはペプシと長期まで契約が続いていたことからも伺える。ラリーキング・ライブに出演した関係者によれば、この事故以降鎮痛剤を睡眠薬代わりに常用し始めることとなる。「スリラー」の記録的ヒットの後、家族を巻き込んだ金銭的トラブル、音楽的方向性の分裂と妥協の繰り返しなど、ザ・ジャクソンズの活動は困難に直面。マイケルは結局ソロ・ライブ「ヴィクトリー・ツアー」の後にグループを脱退する。ザ・ジャクソンズはその後ジャーメインがリードボーカルを務めるもののうまくいかず事実上解散状態になった。 ロナルド・レーガン大統領夫妻とともに(1984年5月14日)1985年には、エチオピア難民救済チャリティーを目的としたUSA for AFRICAに参加し、その際「We Are The World」をライオネル・リッチーと共作した。しかし、その姿勢は評価されたが「バンド・エイド」の模倣であるとも揶揄され、アメリカ人しか集まらなかったため、結局はアメリカ中心主義ではないかとも批判され賛否両論の結果となった。しかし、楽曲自体はメロディ、歌詞共に普遍的で素晴らしいものであると言われ、多くの賞を受賞した(受賞記録を参照のこと)。ロナルド・レーガン大統領から授賞された時、マイケルは右手に白の手袋をしたまま握手をしたため、一部から不評をかってしまった。[2]ただし、マイケルは持病として皮膚病を患っていたので、手袋を外さなかったのはマイケル側の配慮によるものである事には注意されたい。同年8月、ビートルズの版権251曲を管理する音楽出版社ATVを約4750万ドルで購入。ビートルズのメンバーではポール・マッカートニーと2曲のデュエット・シングル(「The Girl Is Mine」、「Say Say Say」)を発表するなど親交が深かったが、マイケルの所持する大量のビートルズの版権をポールが売買してくれないかと交渉を持ちかけたところマイケルが断ったため、その後はさほど仲が良くない。なお、マイケルに音楽の版権を投資対象として買うよう勧めたのはポールであった。[3] マイケルはビートルズに対して特別な思い入れがあり、ジョン・レノンの次男ショーン・レノンと1988年の「ムーンウォーカー」で共演したり、「Come Together」をカバーしたりしている。なお、ビートルズの版権は20年後の2005年時点でも、購入した版権の半数を未だ所有している。1986年5月ペプシとの契約を更新。ペプシはソロ・ワールドツアーの宣伝や公演も受け持つことになったため、世界ツアーに向けて大きな後押しを得ることになる。8月には、クインシーと共にウエストレイク・スタジオのスタジオD室に陣取り次のアルバムの制作に取り掛かった。完成したアルバム「BAD」は1987年8月に発表され、「I Just Can't Stop Loving You」から「Dirty Diana」まで、史上初の同一アルバム5曲連続全米チャート1位という前人未到の偉業を成し遂げた。表題曲「BAD」のショートフィルムは非常に奥深いビデオであり、私服警官に強盗と間違えられて射殺されてしまった青年の実話が基になったことから、マイケルの孤独感や疎外感を表しているのではという一説がある。パフォーマンス部は今までの縦と横の動きに加え様々な動きを加えた複雑なダンスを披露した。振付はグレッグ・バージ。ロバータ・フラック、ウェズリー・スナイプスが出演し、監督はマーティン・スコセッシである。 カハラ・ヒルトン・ホテルにてサインをするマイケル(1988年1月) 西ベルリンのコンサートに詰めかけた観客(1988年6月19日)1988年1月には自伝「ムーンウォーク」が出版され、4月のニューヨークタイムズ・ベストセラー・リストで初登場1位を獲得した。この頃、社会的な問題に対しても目を向けだし、1月発売のシングル「Man In The Mirror」ではポリティカルな題材を歌い、後のマイケルの作風につながる作品となった。1988年4月にはソ連のCMに西側諸国の人物であるマイケルが出演したことで話題となった。また、この頃マイケルはビートルズの版権の大量購入など、ロックに意欲を示していた。その彼はハードロック調の楽曲「Dirty Diana」を書き、4月にシングルとして発売された。この曲はダイアナ・ロスを連想させるタイトルであったため当時話題を呼んだ。7月発売のシングル「Another Part Of Me」は1位記録とトップ10記録を同時に途切れさせてはしまったが、クインシーの手があまりつけられていない作品であったため、マイケルが新しい方向性を探しているのではという印象も与えた。1987年9月から世界ツアーを行い、1988年にかけてアメリカや西ドイツ、イギリスなどで公演を行った。日本に於いても「M.M.旋風」と称されるブームを巻き起こした。なお、もうひとつのMはマドンナである。1989年、マイケルがBREアウォーズでポップ・ロック・ソウルの三部門を制したため、エリザベス・テイラーはマイケルを評して「The True King of Pop, Rock And Soul」と称した。
2009/10/31
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1958-1970 10人兄弟姉妹の8番目(六男)として、インディアナ州ゲーリーのアフリカ系アメリカ人街に生まれる。(すぐ上の兄マーロンの双子の兄弟が、誕生後すぐに死亡した。)ゲーリーは住民の8割以上をアフリカ系アメリカ人が占める、全米で最もアフリカ系アメリカ人の率が高い都市であり、また黒人たちにとっては最初の黒人市長が1967年に出た誇りの土地でもある。当時は黒人の自己主張が高まりだしていた頃で、金銭を多く持っていた白人がそこを去っていったため、街は一時的に無法状態が蔓延していた。父ジョセフ・ジャクソンはUSスティール社の貧しい製鉄所のクレーン操縦士であった。母キャサリン・ジャクソンはエホバの証人の信者で、マイケル自身も同様であった。その活動の一環である家庭訪問はThriller発売後も行っていた[要出典]。父親は厳しく、しばしば息子に手を上げた。財政的に厳しく、キャサリンはシアーズなどの小売店でパートタイムとして働く事で家計を何とか補おうとしていた。幼稚園時代から歌を歌っており、1962年には幼稚園で映画「サウンド・オブ・ミュージック」のエンディング曲「全ての山に登れ」を歌った。父は「ファルコンズ」というR&Bバンドでギタリストをしていた過去を持ち、アーティストの道を諦めてからも当時のギターを大事にしまっていた。1955年に白黒テレビが壊れてしまった後は、演奏を披露することもしばしばあった。ところが或る時、愛蔵のギターを息子たちが勝手にいじりまわして弾いていたのを発見し、初めはカンカンに怒ったものの、息子たちの演奏がなかなかうまいことに気がついた。これはひょっとすると貧困から抜け出す手立てになるかもしれないと思った父は、息子たちに歌とダンスの訓練を授けようと決意。ジャッキー、ティト、ジャーメインと従兄弟とされていた二人(実は他人)で1962年にボーカルグループを結成した。翌年、マイケルは兄マーロンとともに二人の従兄弟と入れ替わりにグループに入る。当時5歳であったが、父の厳しい特訓を受け、兄弟バンド"Ripples & Waves Plus Michael"(のち"the Jackson Brothers"と改名)の一員として頭角を現した。初めてナイトクラブで働いた時の収入はわずか8ドルであり、ほぼ無名の状態であったが、翌年くらいになるとタレントショーやスーパーマーケットのオープン記念に出演することで地道にではあるが徐々に名前が知られるようになっていった。1965年には地元ゲイリーのルーズベルト高校で行われたタレントコンテストでテンプテーションズの「マイ・ガール」を演奏し、見事優勝した。1966年に4人の兄たちと「ジャクソン5」(ジャクソンファイブ)を結成。ゲーリーのナイトクラブ、ミスターラッキーでデビューする。1967年にはニューヨークのアポロ劇場にも進出し、大々的なタレントコンテストで優勝した。これによりジャクソン5はシカゴのリーガルなどの名門劇場に出演できるまで成長する。当時はまだまだ駆け出しであったため前座の出演であった。この過程でジェームス・ブラウン、ジャッキー・ウィルソン、サム&デイヴなど様々なスターのパフォーマンスを勉強した。地元ではインディーズの「スティールタウン・レコード」からシングルを何枚か出しており、1968年1月には「ビッグ・ボーイ」でデビューしている。当初ジャクソン5をインディアナ州で発掘したのは、聞こえがよかったのでダイアナ・ロスということになっていたが、実は、ボビー・テイラーがコンテストに優勝した彼らと競演した際に発掘、その後モータウンに紹介した。モータウンの創始者ベリー・ゴーディは、ロスでジャクソン5のオーディションビデオを見たとき、荒削りながら彼らにスターの資質を見出した。即刻、彼はモータウンの総力を上げプロモートを開始したのだが、その際にベリー・ゴーディがダイアナ・ロスにジャクソン5を紹介させるという経緯だった。1968年7月にモータウンと正式に契約。1969年10月シングル「帰ってほしいの」(I want you back)でメジャーデビュー(マイケルは当初8歳の設定だったが実際には11歳だった)。リードボーカルとして天才児ぶりを発揮し、何とメジャーデビュー作であるにもかかわらずヒットチャート全米1位にまで上り詰めた。幼く可憐な感じでありながらビブラートが掛った声がファンを惹きつけた。その次のシングル「ABC」の相手はビートルズの「レット・イット・ビー」であったが、首位の座から引き摺り下ろし見事1位を獲得。続く「小さな経験」(The Love You Save)「I'll Be There」も1位となり、デビューから4曲連続で全米チャート1位に送り込むという快挙をなし遂げた。 1971-1980 マイケルは1971年10月発表のシングル「Got To Be There」でソロデビュー。11月には人気コメディー番組「フリップ・ウィルソン・ショー」に出演した。翌年には「ベンのテーマ」もヒットした。1970年代半ば、ジャクソン5とレコード会社の間で音楽的方向性の違いが表面化。マーヴィン・ゲイやスティーヴィー・ワンダーなどが自分自身のセルフプロデュースによって、ニュー・ソウルと呼ばれる新しいポップミュージックの枠を作り出していくのを見て、メンバー達も自分達による音楽という新しい方向性を見出していったのだが、それに対してモータウンが反発したのである。モータウンとの金銭的なトラブルも出はじめた。マイケル本人も背が伸び、ひどいにきびに悩まされ、その上声変わりが追い打ちをかけて、性格が急変。ラ・トーヤは「元気な少年だったマイケルはこの時内気な青年に変わってしまった」と後に語っている。実際、「背が伸びて可愛くなくなった」などと冷やかされることもしばしばであった。結局、自分達による音楽を求めたメンバーは1975年にモータウンを離脱し、エピック・レコードへ移籍した。しかしその際、モータウンがジャクソン5のグループ名のエピックでの使用を認めず、訴訟問題となった。そのため、グループは名前を「ザ・ジャクソンズ」と改め活動を行う事になった。しかし当時一番マイケルと仲が良く、グループのセックス・シンボル的存在でもあったジャーメインは、モータウン社長の娘と結婚していたためグループから脱退。新たにマイケルの弟ランディがザ・ジャクソンズに加入した。このいざこざでグループの人気が下がるのではないかと心配され、事実移籍後のアルバムの売り上げはさほどよくなかった。だが、ザ・ジャクソンズが初めてセルフプロデュースを行った3枚目のアルバム「Destiny」がヒットしその不安を一蹴する。この頃のザ・ジャクソンズのヒット曲としては、「Can you feel it」「Blame it on the boogie」「Shake Your Body (Down To The Ground)」(マイケルとランディの共作)などがある。ジャクソンズ時代もマイケルはグループと並行し、ソロ活動を行っていた。1978年ダイアナ・ロス主演のミュージカル映画「ウィズ」(オズの魔法使いのアレンジ)にカカシ役で出演していたとき、映画音楽を担当していたクインシー・ジョーンズと出会った。クインシーに対して「誰か僕に合うプロデューサーはいないかな」と言ったところ「私じゃ駄目かな」とクインシーが返答したという逸話が伝わっている。「ウィズ」はステージ上では大成功だったものの、映画は商業的には成功しなかった。年末に発売された映画からの「ユー・キャント・ウイン」がエピックでのデビュー曲であった。クインシーをプロデューサーに迎え「オフ・ザ・ウォール」を制作。7月先行シングルとして発表された 「Don't Stop 'Til You Get Enough」 は、初めてマイケル自身が作詞作曲を手がけたナンバーである。なお、この頃はドラムとピアノを使って作曲を行っていた。当時は黒人ということでさほどオンエアされなかったが、タキシードを着たマイケルが3人に分裂する映像は話題を呼び、全米チャートを制覇した。8月に発売された「オフ・ザ・ウォール」は少年ボーカリストからの脱皮を世界中に印象付けることになる。ソウルミュージックを基本にした作品であり、ポップ色の強い後の作品とは異なった意味で高い評価が与えられている。10月には「Rock With You」を発表。この曲では一人多重録音の技術が用いられている。非常に伸びやかな声が聞けるとして今でもこの曲のファンは多い。ビルボードでは4週連続1位を獲得している。さらに、「Off The Wall」「She's Out Of My Life」と同一アルバムから4作連続で全米チャートトップ10に入るという、当時ソロアーティストとしては誰もなしえなかった快挙を成し遂げた。しかし、後にマイケル自身が「スリラー」でこの記録を破ることになる。「オフ・ザ・ウォール」はロングヒットを飛ばし、次回作に期待を集めた。ザ・ジャクソンズは1980年9月「マイ・ラブリー・ワン」(Lovely One)(マイケルとランディとの共作)、11月「ハートブレイク・ホテル」(This Place Hotel)(マイケル直筆)とシングルを出したが、これらがこの時期のザ・ジャクソンズの主要曲であることからも分かるように、この頃はグループの中でも非常に重要な位置を占めていた。「This Place Hotel」はもともと「Heartbreak Hotel」という名前であったのであるが、エルヴィスの曲と同じ名前になってしまう事もあったのか、後に改名している。「ビリー・ジーン」「ダーティー・ダイアナ」同様スキャンダラスな歌詞で知られている。
2009/10/31
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マイケル・ジャクソン提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 基本情報 出生名 マイケル・ジョーゼフ・ジャクソンMichael Joseph Jackson 出生 1958年8月29日 インディアナ州ゲイリー 出身地 アメリカ合衆国インディアナ州ゲイリー 死没 2009年6月25日(満50歳没) アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス New Jack Swing、ファンクロック、ダンスポップモータウン・サウンドディスコ 職業 歌手、ソングライター、ダンサー音楽プロデューサー、編曲俳優、振付師 担当楽器 ボーカル、マルチプレイヤー 活動期間 1967年 から 2009年 レーベル モータウンエピック・レコードソニー・レコードマイケル・ジャクソン・カンパニー 共同作業者 ジャクソン5 公式サイト MichaelJackson.com 表・話・編・歴 マイケル・ジャクソン(Michael Joseph Jackson、1958年8月29日 - 2009年6月25日)は、アメリカ合衆国の歌手、ダンサー。"King of Pop"と称された。ギネス・ワールド・レコーズでは史上最も成功したエンターテイナーとして認定されている。世界総売上げは7億5000万枚(2006年10月末現在)以上。ギネス記録は「全米シングルチャートで首位を獲得した最年少ボーカリスト(ジャクソン・ファイブ当時11歳)」、「全米シングルチャートで初登場1位を記録した最初のボーカリスト(You Are Not Alone)」、「年間売上げ高が1億ドルを超えた最初のエンターテイナー(1989年、Forbes誌)」、「史上最高額の所得を得たエンターテイナー(89年に1億2500万ドル)」などの記録を保有。アルバム"Thriller"に関する記録は「1億400万枚の世界最高枚数の売り上げ」「全米アルバムチャートでの最長期間首位(37週・サウンドトラック盤を除く)」、「最も成功した音楽ビデオ(100万本以上の売上げ)」などのギネス記録を保有している。兄弟で結成したジャクソン5のボーカルとしてデビュー。1980年代にはそのダンスやヴォーカルの実力で、全世界をその娯楽性で魅了した。「ムーンウォーク」は、彼の代表的なダンスのひとつ。ゴシップキングとしても知られ、美容整形(顔の形の変化)と尋常性白斑・全身性エリテマトーデス(肌の色の変化)の影響によるマイケル・ジャクソンの外観の変化のためよくタブロイドのネタにされる。1993年、マイケル・ジャクソンの1993年の性的虐待疑惑が発生。13歳の少年が自分の父親(ビバリーヒルズの歯科医)によってマイケルを告発させられる。だが本人は現在、マイケルに虐待されたとは思っておらず麻酔を用いた虚偽記憶であったと考えられている。また、2003年にはマーティン・バシールによるマイケルジャクソンの真実の報道の結果、マイケル・ジャクソンは児童性的虐待疑惑で逮捕されたが、マイケル・ジャクソン裁判の結果、全ての件に関し無罪と証明された。なお、歌手のラトーヤ・ジャクソンは実姉、ジャネット・ジャクソンは実妹である。2009年6月25日、自宅近くのカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)医療センターに呼吸停止の状態で運ばれ、その後死亡が確認された。あまりにも急な、そして若すぎる死を惜しむ声は今も世界中で絶えない。50歳没。
2009/10/31
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《送料無料》マイケル・ジャクソン/マイケル・ジャクソン THIS IS IT(通常盤)(CD)マイケル・ジャクソンを身近に感ずることができます。アンディ・ウォーホールのマリリン・モンローは、マイケルに置き換えることができる。わたくし的にはWE ARE THE WORLDが出てきて欲しかったです。バック・バンド、バック・ダンサー、バック・ボーカルも最高!!!思わず、クラッシュ・ハンズ、スタンディン・オーベイション!2時間、十分楽しめる作品です。
2009/10/31
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日航は生まれ変わるか?ジャンボ機墜落後の日航の地盤沈下は目を覆うばかりだが、“絶対安全”経営を標榜する伊藤淳二は、自ら率いる新設「会長室」を軸に大胆な刷新人事を敢行して「JAL維新」と呼ばれる日航改革に挑戦している。 ――JALの御巣鷹事故後に、今までの労務体質を改めるとありましたが。B 当時の中曽根首相が鐘紡の伊藤淳二社長を抜擢して改革を試みたがひっくり返された。A 伊藤淳二さんが御巣鷹事故以降、日航の異常と言われる分裂・差別の労務政策を何とか変えようとした。「労使がちゃんとしましょうよ」をスローガンにして、日航労組を村八分にしないで、当時の四労組と等距離を取った。 日航労組は当時三百五十人くらいいた。客室乗務員組合(第一組合)が徹底的に差別を受けていた。二組のスチュワーデスが優遇されていた。これも是正する政策をとった。それがうまくいきかけた。「これだと二組があぶない、つぶれる」という言い方で、伊藤追い出しを社内から起こした。社内だけの力でないが一年半くらいで結局追い出してしまった。まさに、クーデターですね。 労使関係の正常化、絶対安全の確立、整備の自社化をずっとやろうとしたのをこれじゃあ体制がつぶれるというので転覆された。その政権をとったのが、政府から来た山地と、当時営業の出身で利光という、伊藤さんと一緒にきた二人が寝返って、今のところにつながっています。この後は規制緩和にそって、自社整備などもやめていった。 日航では二〇〇五年に整備ミスが六十四件、全日空の六倍という。七年間にわたる独裁的な経営をした労務畑出身の兼子前会長に責任があったとされている。 年表的に、安全をないがろしにする規制緩和がどのように行われてきたを見る。1983年 米国での運賃の自由化1985年 御巣鷹山JAL大事故 「機付整備士制度の導入」「定例整備の自社化」を誓う1987年 完全民営化1992年 赤字間接部門の削減と外部委託。外国人の客室乗務員の増員、不採算路線の廃止1994年 航空法の一部改正 機体整備の海外委託を認める1994年 客室乗務員の採用中止し時給・契約制へ。切り札が整備の海外委託。2000年 5工場体制から4事業部制に再編され、事業部ごとにグループ会社を設立し、子会社化。そこに本社から154人の整備士を出向させた。2001年 日本エアシステム(JAS)との統合2003年 「機付整備士制度」の廃止 一九八五年の御巣鷹山JAL大事故の後に「機付整備士制度の導入」があったが、二〇〇三年にはそれが廃止された。九四年に、航空法の一部改正があり、機体整備の海外委託を認めた。現在日航では、C整備、M整備を海外のサスコ社(SASCO、シンガポール)、タエコ社(TAECO、中国)に委託。費用はほぼ三分の一ですむ。日航では一九九六年に一四%、二〇〇四年に三八%の整備を海外委託している。〇五年、エンジン、機体装備品の整備部門を一〇〇%子会社化。〇九年本社が整備機能を持たないように計画している。 これに対して全日空は整備の四割を本社でやっている。最近のトラブルは海外の整備会社のズサンによって起こっていると指摘されている。国内整備だと、だれがどのようにやったのか作業内容がすべて記録されている。 日航は二人で出発整備を点検していたものを一人に減らし、使用限度ぎりぎりの部品を使う、現場の声を聞かないなどの問題がある。「機付整備士制度」の廃止はコスト削減が目的。機付整備士のための整備士要請をあきらめてすべて外注化した結果である。
2009/10/25
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概要 2009年10月現在、日本航空インターナショナルには、地上職や整備職、パイロットや客室乗務員などの職種別に、会社側1組合、反会社側7組合の合計8もの労働組合がある。 会社側組合 日本航空インターナショナル(旧日本航空)の労働組合である「JAL労働組合」(JALFIO、全日航)」は日本航空インターナショナル最大の労働組合である。連合系の「航空連合」にも加盟している。基本的に労使協調路線を採用しており、経営状況に反した過度な要求や特定の政党との関係構築、ストライキといった行動は取らないとしている。2005年2月には、それまで経営と労働組合が一定の距離を置いていた日本航空ジャパン(旧日本エアシステム)内に、労使協調路線を採る「オールJALジャパン労働組合(AJLU)」が新設された。なお、同組合はその後日本航空への合併が進んだことを受け、「JAL労働組合」に吸収された。2007年2月、「JAL労働組合」が管理職や一部社員から提供されたものを含む客室乗務員のプライバシーに関する情報(住所や生年月日のほか、思想、病歴、家庭環境、性格、容姿など約150項目を収集・管理していたこと[1]が判明、「JAL労働組合」と日本航空がそれぞれ謝罪した。反会社側組合である「日本航空キャビンクルーユニオン(客室乗務員労働組合)」は「勤務の個人評価など会社しか知り得ない情報が記載されている」として、「JAL労働組合」と日本航空に対し損害賠償を求めて11月、東京地方裁判所に提訴した。被告のうち日本航空は2008年2月、請求内容を認諾したため現在は「JAL労働組合」のみが被告。会社側組合は、経営サイドと良好な労使関係を保つことを第一義としている。そのため悪い面では、経営サイドの指示に沿った機関決定をするケースが多く、組合員の利益を第一義にしないという評価があり、良い面としては、組合員の利益のみを重視せず、会社全体の経営状況や経済的合理性に即した現実的な対応をするという評価がある。JAL労働組合 日本航空インターナショナル 構成員:地上職、整備、客室乗務員 組合員数:約11,000人(2006年2月現在) 反会社側組合(いわゆる「7労組/ 旧「5労組」) 乗員組合や客室乗務員組合、機長組合などは共同歩調を取り、いわゆる「日航5労組」として活動してきた。これらの組合は、過去に過度な給与・待遇を求め大々的なストを行ったことや、特定の政党や、左翼活動家と関係を持つなどの活動を行った事を理由として、「アカ」組合と呼ばれる。経営側により5労組を切り崩し、「JAL労働組合」への加入を促すため様々な労務対策が採られてきたといわれている。日本航空が経営再建を進めている中で、「5労組」が、『安全のために十分に休息を取る必要性』を理由として、業務移動時のグリーン車やファーストクラスの使用や通常出勤時のハイヤーの使用(なおこれらは同社内では管理職社員のみならず、役員でも行われていない)を要求してきたことに対して、「会社の経営状況を省みない非常識ともいえる要求をしている」として、乗客や株主の中からも「特権意識丸出しの労働貴族そのものの非常識な要求だ」との批判がある。実際に、個人筆頭株主の糸山英太郎は「元々高賃金の日本航空が存続をかけてリストラをしている最中に、一切の賃下げを認めない労組が八つとはお客様の理解が得られない」と発言している[2]。また、契約社員や派遣社員のみならず、子会社社員や外国採用社員の存在を事実上無視していることや、社内情報の意図的なマスコミへのリークなど、経営状況を鑑みない組合闘争を行うことや、上記の様に社内弱者に対する存在を無視し、既存利益の死守に固執する組合の存在を嫌う若手社員に敬遠されたことなどから、ここ数年組合員数が減少している。日本エアシステムの吸収合併にあたり、「日本航空ジャパン労組(旧JAS労組)」などが加わり、旧「5労組」は「8労組」となった。なお、8労組を纏める組織として「JJ労組連絡会議」がある。また、これらの労組は「航空労組連絡会」に加盟している。2006年9月に「日本航空客室乗員組合」と「日本航空ジャパンキャビンクルーユニオン」が組織統一を行い、現在では「7労組」となった。反会社側組合は、組合員の賃金・労働条件の向上を第一義としている。これは悪い面では、経営状況を考慮せずに自分たちの(職種の)要求だけを一方的に要求しているとの評価がある。また、同じ職種同士ですらその地位により組合が分裂、対立しており、同じ方向を向いていないという評価もある。いい面では、経営側の要求に対して労働者側の権利を主張し続けていると評価する見方もある。日本航空労働組合 日本航空インターナショナル 構成員:地上職、整備 組合員数:約110人(2007年8月現在) 日本航空機長組合(注:機長は日本航空規則で「管理職」扱いである) 日本航空インターナショナル 構成員:機長 組合員数:約1,200人(2006年2月現在) 日本航空先任航空機関士組合 日本航空インターナショナル 構成員:管理職航空機関士 組合員数:約100人(2006年2月現在) 日本航空乗員組合 日本航空インターナショナル 構成員:副操縦士、航空機関士 組合員数:約1,200人(2006年2月現在) 日本航空ジャパン労働組合 日本航空インターナショナル(旧・日本航空ジャパン) 構成員:地上職、整備、航空機関士 組合員数:約1,300人(2006年2月現在) 日本航空ジャパン乗員組合 日本航空インターナショナル(旧・日本航空ジャパン) 構成員:機長、副操縦士 組合員数:約660人(2006年2月現在) 日本航空キャビンクルーユニオン(日本航空客室乗員組合と日本航空ジャパンキャビンクルーユニオンが組織統一) 日本航空インターナショナル(旧・日本航空インターナショナル、日本航空ジャパン) 構成員:客室乗務員 組合員数:約2.000人(2007年2月現在)
2009/10/25
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瀬島 龍三(せじま りゅうぞう、1911年12月9日 - 2007年9月4日)は、大日本帝国大本営作戦参謀、陸軍士官学校44期(1932年)卒。陸軍大学校51期(1938年)首席。実業家。号は「立峰」。戦後は伊藤忠商事会長。岳父は、岡田啓介政権で内閣総理大臣筆頭秘書官を務めた松尾伝蔵(陸軍大佐)である(松尾の長女清子が妻)。 生涯 初期 1911年12月9日、富山県西砺波郡松沢村鷲島(現在の小矢部市鷲島)の農家に三男として生まれた。旧制富山県立砺波中学校、陸軍幼年学校を経て、1932年に陸軍士官学校を次席(首席は原四郎)で卒業し、昭和天皇から恩賜の銀時計を受けた。その後、富山三十五連隊付将校として中国戦線に従軍。そして師団長の推薦により陸軍大学校に入学し、1938年12月8日、首席で卒業した。その折、昭和天皇から恩賜の軍刀を受けた。御前講演のテーマは「日本武将ノ統帥ニ就テ」。その後、1939年1月15日に関東軍第四師団参謀として満州へ赴任し、同年5月15日には第五軍軍(司令官土肥原賢二中将)参謀となり、同年11月22日に大本営陸軍部幕僚付関東軍参謀本部部員となる。そして、翌1940年、大本営陸軍部作戦課に配属される。なお、この関東軍参謀時代に彼は対ソ示威演習である関東軍特種演習(関特演)の作戦担当として作戦立案にあたった。 太平洋戦争時 1941年7月に大本営陸軍部第一部第二課作戦班班長補佐となり、同年12月8日の太平洋戦争開戦以降、陸軍のほぼ全ての軍事作戦を作戦参謀として指導した。主任として担当したものを含めて、主なものはマレー上陸作戦、M作戦、ガダルカナル撤収作戦、ニューギニア作戦、インパール作戦、台湾沖航空戦、捷一号作戦、菊水作戦、決号作戦、対ソ防衛戦などであった。また、1945年2月25日には、連合艦隊参謀兼務となり、最終階級は陸軍中佐となった。1945年7月1日、関東軍参謀に任命され、満州へ赴任。同年8月15日の日本の降伏後、極東ソ連軍総司令官アレクサンドル・ヴァシレフスキー元帥との停戦交渉に赴くも、同年9月5日、関東軍司令官の山田乙三や秦総参謀長らとともに捕虜となった。 シベリア抑留 その後、瀬島はソ連のシベリアへ11年間抑留されることとなる。このとき本来捕虜としての労働の義務のない将校であるにもかかわらず強制労働を強いられ、建築作業に従事させられた。後にこのときのことを諧謔として「佐官が左官になった」と述懐している[1]。この間、連合国側から極東国際軍事裁判に証人として出廷することを命じられ、1946年9月17日に草場辰巳・松村知勝とともにウラジオストクから空路東京へ護送され、訴追側証人として出廷した。ソ連側より日本への帰還の取引条件として極東国際軍事裁判で天皇の戦争責任を証言するように求められるが断固拒否する。そのため裁判後シベリアに戻され昭和30年代に入るまで抑留生活を余儀なくされた。後年瀬島はシベリア抑留について、「日本の軍人や民間人の帰国を規定したポツダム宣言(9条)違反であり、日ソ中立条約を破っての対日参戦とともに、スターリンの犯罪であった」と述べている。また、日独伊三国同盟の締結についても、断じて実施すべきではなかったと述懐している[2]。また、神風特攻作戦については、「特攻は自発的なものであった」と自著で述べている。なお、瀬島は特攻作戦である菊水作戦時、陸軍第五航空軍の作戦参謀として南九州の陸軍基地で勤務した。 伊藤忠商事時代 シベリア抑留から帰還後、設立直後の自衛隊よりの再三の誘いを受けたがシベリアよりの復員兵の就職斡旋に奔走する。1958年に大手商社の伊藤忠商事に入社する。入社3年目の1961年には業務部長に抜擢され、翌年に取締役業務本部長、半年後に常務となる。その後も、1968年に専務、1972年副社長、1977年副会長と昇進し、1978年には会長に就任した。帝国陸軍の参謀本部の組織をモデルにした「瀬島機関」と呼ばれる直属の部下を率いて、繊維を扱う一商社に過ぎなかった伊藤忠商事を総合商社に発展させるなどに辣腕をふるった。1981年に相談役、1987年に特別顧問に就く。この間、中曽根康弘政権(1982年~1987年)のブレーンとして、第二次臨時行政調査会(土光臨調)委員などを務め政治の世界でも活躍した。84年に勲一等瑞宝章を受章。他にも亜細亜大学理事長、財団法人千鳥ケ淵戦没者墓苑奉仕会会長、財団法人太平洋戦争戦没者慰霊協会名誉会長などの公職を歴任した。2000年、伊藤忠商事特別顧問を退任。 晩年 晩年は、フジテレビの番組『新・平成日本のよふけ』に出演し、笑福亭鶴瓶と南原清隆を前に自らの人生や日本のこれからについて滔々と語った。2007年9月4日午前0時55分、老衰のため東京都調布市の私邸において死去した。享年95。逝去後、従三位が贈られた。同年10月17日には、築地本願寺において、伊藤忠商事と亜細亜学園主催による合同葬が執り行われた。 人物 山崎豊子の小説『不毛地帯』の主人公・壱岐正中佐、『沈まぬ太陽』の登場人物・龍崎一清のモデルであるともいわれ、『二つの祖国』では実名の記述が見られる。支持者も多いが、一部に証言が誠実でないとして批判をする人間も存在する。半藤一利は、太平洋戦争中に瀬島龍三が行った行為について、一貫して否定的な評価をしており、その著書において、繰り返し非難している。また、そのいくつかの著書の中で、自身と司馬遼太郎との間に確執があったことを記している。肯定的な立場はフジテレビスタッフ『瀬島龍三 日本の証言―新・平成日本のよふけスペシャル』や綱淵昭三『瀬島龍三の魅力―ビジネス・ステーツマン』などに見られる。その一方、保阪正康『参謀の昭和史』、共同通信社社会部『沈黙のファイル―「瀬島 龍三」とは何だったのか』などに否定的な見解が散見される。ソ連との停戦交渉時、瀬島が同行した日本側とソ連側との間で捕虜抑留についての密約(日本側が捕虜の抑留と使役を自ら申し出たという)が結ばれたとの疑惑が斎藤六郎(全国抑留者補償協議会会長)、保阪正康らにより主張されているが、本人は停戦協定の際の極東ソ連軍総司令官アレクサンドル・ヴァシレフスキーと関東軍総参謀長秦彦三郎にはこのような密約を結ぶ権限がなかったことを用いながら反論している。 なお、ロシア側資料からそのような密約を証明できる証拠はペレストロイカの情報開示後も何ら発見されてはいない。当時ソ連の対日工作責任者であったイワン・コワレンコはジャーナリスト加藤昭の取材に対し、「シベリア抑留中の瀬島龍三が日本人抑留者を前にして『天皇制打倒!日本共産党万歳!』と拳を突き上げながら絶叫していた」 と証言し、「瀬島氏はソ連のスパイではないのか」との問いには「それはトップシークレット」とのみ回答している[5]。1979年、昭和天皇の孫・東久邇優子(東久邇宮稔彦王第一王子盛厚王の子)が伊藤忠商事社員と結婚する事となり、その結婚式が瀬島龍三夫妻を媒酌人として執り行われることとなった。それを受けて、スリランカ民主社会主義共和国大統領が来日しその歓迎晩餐会が宮中において催された際、宮殿の別室に於いて同じく招待を受けた瀬島龍三夫妻は昭和天皇に拝謁した。その席で「瀬島は戦前戦後と大変御苦労であった。これからも体に気をつけて国家、社会のために尽くすように。それから、今度お世話になる東久邇の優子は私の孫である。小さいときに母(東久邇成子)と死に別れ、大変かわいそうな孫である。自分はこういう立場にいるので十分な面倒が見られず、長く心に懸かっていた。このたび立派に結婚することができ、自分も良子も大変喜んでいる。どうか宜しくお願い申し上げたい」という言葉を発し、瀬島夫妻に孫娘の結婚に際し御礼を述べた、と瀬島自身が証言している。昭和天皇の謦咳に接した瀬島は「陛下よりお言葉を賜ったことで、積年の苦労が全て吹き飛んだ」と周囲の関係者に漏らしていたという。その一方で、昭和天皇は「先の大戦において私の命令だというので、戦線の第一線に立って戦った将兵たちを咎めるわけにはいかない。しかし許しがたいのは、この戦争を計画し、開戦を促し、全部に渡ってそれを行い、なおかつ敗戦の後も引き続き日本の国家権力の有力な立場にあって、指導的役割を果たし戦争責任の回避を行っている者である。瀬島のような者がそれだ」と発言した、とする証言も存在する。瀬島は東映の岡田茂に頼んで「昭和天皇」の映画を製作しようとしたことがある。これは当時、東映が『二百三高地』や『大日本帝国』『零戦燃ゆ』といった戦争大作を次々製作していたため、その仕上げとしての意味で、笠原和夫の力を入れた脚本は書き上がっていた。しかし宮内庁の反対を喰らって頓挫したという[8][9]。
2009/10/25
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正直、疲れました。3時間20分は堪えます。沈まぬ太陽(1(アフリカ篇・上))《送料無料》住友紀人(音楽)/映画 沈まぬ太陽 オリジナル・サウンドトラック(CD)2009年10月24日公開。若松節朗監督、渡辺謙主演。3時間22分と長時間の作品であり、上映途中に10分間の休憩が入る[1]。小説の内容から映像化は困難といわれていた。2000年に徳間康快・大映社長が、東映との共同制作で映画化を発表したものの、徳間社長が死去したため実現しなかった[1]。2006年5月には、角川ヘラルド映画(現・角川映画)によって2008年夏公開を目指し製作されることが発表されるなど、何度か映画化の話が持ち上がったが、実現していなかった。また、同じ著者による『白い巨塔』を二度にわたって映像化したフジテレビが2009年の開設50周年にあわせてテレビドラマ化するという企画があったが、立ち消えになっている。しかし、2008年12月、角川映画は、2009年秋公開として正式に映画化を発表した。角川ヘラルドに吸収合併された旧・大映の社員が奔走し、映画化にこぎつけたという。2009年2月にイランロケでクランクイン[1]。アフリカなどでの撮影も行われ、日本の空港シーンはタイの空港を利用して撮影した。飛行機のシーンは、日本航空の協力が得られなかったため、CGによって再現した。映画化について、日本航空は「ご遺族の中には映画化を快く思っていない方もいらっしゃる。すべてのご遺族の心情をきちんと汲んで欲しい」と映画化反対のコメントを出している[2]。また、日本航空から角川に対し「名誉毀損の恐れがある」と警告文を2度送っているという。 角川は「映画は全くのフィクション」であるとしている[2]。また、本編の最後には、フィクションである旨の但し書きが表示される。
2009/10/25
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THE BEST OF 辻仁成 +3 JINSEI SONGS辻 仁成(つじ じんせい/つじ ひとなり、1959年10月4日 - )は、日本のミュージシャン、映画監督、小説家。「仁成」は歌手・映画監督の場合は「じんせい」と読ませ、作家活動では「ひとなり」と読ませている。本名は「ひとなり」。叔父は童話作家の東君平。女優の南果歩と結婚し一児を授かるが、後に離婚。2002年に女優の中山美穂と再婚し現在はパリを拠点に創作活動を続けている。 略歴 東京都南多摩郡日野町(現日野市)に生まれる。少年期は父親の仕事の都合で福岡市、帯広市、函館市と各地を転々とした。北海道函館西高等学校卒業し、成城大学経済学部に進学するも中退。1985年にロックバンドの「ECHOES(エコーズ)」のヴォーカリストとしてデビューする。1991年、5月東京・日比谷野外音楽堂でのライブを最後に、10年に及ぶバンド活動にピリオドを打ちECHOES解散。その後、ソロ活動へ。1989年、『ピアニシモ』で第13回すばる文学賞を受賞し作家デビュー。1991年、本格的に作家としての活動を始める。1997年、『海峡の光』で第116回芥川賞を受賞(柳美里『家族シネマ』と同時受賞)。同年に函館市栄誉賞受賞。1999年、『白仏』の仏翻訳語版 Le Bouddha blanc(仏語翻訳者:Corinne Atlan)でフランスの五大文学賞の一つであるフェミナ賞の外国小説賞を日本人として初めて受賞。『白仏』は祖父、今村豊をモデルとした作品。2003年、渡仏。現在は拠点をフランスに置き、創作活動を続けている。2007年より京都造形芸術大学芸術表現・アートプロデュース学科クリエイティブ・ライティングコース教授。瀬戸内寂聴や江國香織、千住博、建築家の坂茂と交友が深い。2009年3月23日にはHEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMPに新バンド、ザムザンバンシーで出演し、約20年ぶりにテレビで『ZOO』を披露した。 著書 ピアニシモ(1990年/集英社)のち文庫 第13回すばる文学賞受賞 クラウディ(1990年/集英社)のち文庫 カイのおもちゃ箱(1991年/集英社)のち文庫 ガラスの天井(1992年・エッセイ集/集英社)のち文庫 旅人の木(1992年/集英社)のち文庫 そこに僕はいた(1992年・エッセイ集/集英社)のち新潮文庫 本作に収録されている「新聞少年の歌」は教育出版の中学1年国語の教科書に、「そこに僕はいた」は東京書籍の中学1年国語の教科書に掲載されている フラジャイル(1992年・戯曲/徳間書店) 舞台「フラジャイル」原作 屋上で遊ぶ子供たち(1992年・詩集/集英社) ミラクル(1993年/講談社)のち新潮文庫 ミュージカル『ミラクル』原作 希望回復作戦(1993年・詩集/集英社) グラスウールの城(1993年/福武書店)のち新潮文庫、「Tokyoデシベル」文春文庫 母なる凪と父なる時化(1994年/新潮社)のち文庫 第110回芥川賞候補作 オープンハウス(1994年・短編集/集英社)のち文庫 映画『オープンハウス』原作 愛はプライドより強く(1995年/幻冬舎)のち文庫 ここにいないあなたへ(1995年・写真詩集/集英社) パッサジオ(1995年/文藝春秋)のち文庫 錆びた世界のガイドブック(1995年・写真+短編集/角川書店) ぼく、いたくない(1995年・絵本/新書館) 応答願イマス(1995年・詩集/集英社) ニュートンの林檎(上・下巻)(1996年/集英社)のち文庫 アンチノイズ(1996年/新潮社)のち文庫 きょうのきもち(1996年・ポストカードブック/フレーベル館) 函館物語(1996年・写真エッセイ集/集英社文庫) 音楽が終わった夜に(1996年・エッセイ集/マガジンハウス)のち新潮文庫 海峡の光(1997年/新潮社)のち文庫(第116回芥川賞受賞) 僕のヒコーキ雲(1997年・日記エッセイ/集英社) 辻仁成詩集 現代詩文庫149(1997年・詩集/思潮社) 愛の工面 幻冬舎文庫、1997 白仏(1997年/文藝春秋)のち文庫 仏語翻訳版でフランスの文学賞「フェミナ賞・1999年外国小説賞」を日本人として初めて受賞 世界は幻なんかじゃない(1998年・写真+エッセイ集/幻冬舎) ガンバルモンカ(1998年・短編集/角川ミニ文庫) ワイルドフラワー(1998年/集英社) 五女夏音(1999年/中央公論社)のち文庫 千年旅人(1999年/集英社)のち文庫(映画「千年旅人」原作) 冷静と情熱のあいだ Blu(1999年/角川書店)のち文庫 『冷静と情熱のあいだ Rosso』は江國香織著 映画『冷静と情熱のあいだ』原作 嫉妬の香り(2000年/小学館)のち集英社文庫 TVドラマ『嫉妬の香り』原作 ニューヨークポエトリーキット(2000年・詩集/思潮社) 愛をください(2000年/マガジンハウス) TVドラマ『愛をください』原作 辻仁成 青春の譜(2000年・歌詩集/幻冬舎文庫) サヨナライツカ(2001年/世界文化社)のち幻冬舎文庫 2008年、映画制作中『サヨナライツカ』原作 恋するために生まれた(2001年・江國香織との対話集/幻冬舎) 太陽待ち(2001年/文藝春秋)のち文庫 目下の恋人(2002年・短編集/光文社)のち文庫 映画『目下の恋人』原作 辻仁成+種田陽平式映画づくりの旅(2002年/世界文化社、種田陽平と共著) 愛と永遠の青い空(2002年/幻冬舎)「青空の休暇」文庫 そこに君がいた 新潮文庫、2002 彼女は宇宙服を着て眠る(2002年・短編集/幻冬舎文庫) ZOO 愛をください(2002年・写真詩集/河出書房新社)「愛をください」新潮文庫 オキーフの恋人 オズワルドの追憶(上・下)(2003年/小学館)のち新潮文庫 99才まで生きたあかんぼう(2003年・イラスト辻仁成/集英社+ホーム社 のち集英社文庫 いまこの瞬間 愛しているということ(2003年/集英社)「二十八光年の希望」文庫 刀(2004年/新潮社) 代筆屋(2004年/海竜社)のち幻冬舎文庫 いつか、一緒にパリに行こう(2005年・パリガイドブック・写真エッセイ集/光文社)のち文庫 幸福な結末(2005年/角川書店) アカシア(2005年・短編集/文藝春秋)「明日の約束」文庫 ヤダとイイヨ(2005年/リーガル出版) 愛のあとにくるもの(2006年/幻冬舎) 対する韓国側作品「愛のあとにくるもの」は孔枝泳著 ピアニシモ・ピアニシモ(2007年/文藝春秋) 人は思い出にのみ嫉妬する(2007年/光文社) 孤独にさようなら(2007年/マガジンハウス) 右岸(2008年/集英社)**対する女性側「左岸」を江國香織が描く。 オリジナル文庫「マダムと奥様」(光文社) エッセイ 「ロックンロールは歩く鏡である」(週刊『SPA!』連載) ビデオ 生まれ変わるとしたら(1996年)(ポエトリー・リーディング) WELCOM TO THE LOST CHILD CLUB(1st Remaster 紙ジャケ再発) HEART EDGE(2nd Remaster 紙ジャケ再発) No Kidding(3rd Remaster 紙ジャケ再発) Goodbye gentle land(4th Remaster 紙ジャケ再発) HURTS(5th Remaster 紙ジャケ再発) Dear Fridnd(6th Remaster) EGGS(7th Remaster) BEST OF BEST(Remix,Remaster) 【ソロ】 (CBSソニー在籍時)遠くの空は晴れている(1st) 君から遠く離れて(2nd) Sq.-スクエア-(5th) (ポニーキャニオン在籍時)言葉はキュークツ(3rd) 第三反抗期(4th) 【ポエトリー・リーディング】抜本的政治改革(『BEAT MUSIK』名義) NEW WALL(『TSUJI JINSEI×BEAT MUSIK』名義) 【ソロワーク・ベスト盤】Jinsei Songs The Best of 辻仁成+3(Sony Music) 【LIVE DVD】辻/JINSEI TSUJI(HANNA MUSIC) 【ユニット】 ECHOES OF YOUTH(ECHOESのギタリスト、伊藤浩樹のユニット)「恋するために生まれた」MAXIシングル (ソニーミュージックエンタテイメント) 「REAL」MAXIシングル (ソニーミュージックエンタテイメント) 「SLOW」MAXIシングル (ソニーミュージックエンタテイメント) クレモンティーヌ with Jinsei Tsuji「二人でゆっくりTous deux tout doux」MAXIシングル (ソニーミュージックエンタテイメント) 2008年、新バンド「ZAMZA N'BANSHEE」(ザムザンバンシー)結成。ボーカルとギター担当。 メンバーはベースでリーダーのYOSHIHITO ONDA(元ジュディ・アンド・マリー)、ドラムにKOHTA IGARASHI(元ジュディ・アンド・マリー)。ギターはHIROKI ITO (元エコーズ)。 11月29日、渋谷 Duo Music Exchangeにてファーストライブを行う。MANGA(1st ) 楽曲を提供・プロデュースしたアーティスト 浅香唯 … 「孤独(ひとり)この声が聞こえても」(作曲) 甲斐バンド … 「O'l Night Long Cruising」(作詞) カルメン・マキ … 「ワイルドフラワー」(作詞・作曲) 川村かおり … 「ZOO」・「Sweet Little Boy」・「真っ白な月Moon On The Destiny」(作詞・作曲・プロデュース) 小森まなみ … 「ハートのKey Station」(作曲) 中村あゆみ … 「つなぎとめてほしい」(作詞)・「Star Lights」(作曲) 中村雅俊 … 「耐えられない愛の軽さ」(作詞・作曲) 野本直美… 「Crossroad Again」(作詞・作曲) 高橋研 … 「St.Jone's crusedes」(共作) 蓮井朱夏(菅野美穂) … 「ZOO 愛をください」(作詞・作曲・プロデュース) 早見優 … 「風になれ」(作詞・作曲) BEGIN … 「愛が走る」(作詞) Lyrico … 「キレイ」(作詞、映画『目下の恋人』エンディング) Yuma …「光の子供」・「見つけてね」・「Aria」(作詞・作曲・プロデュース) プロデュースしたアーティスト 川村かおり …デビューシングル・アルバムのプロデュースを務め、デビュー期の作品制作にたずさわる。また、2009年7月に38歳という若さで亡くなった川村に対し、自身のブログで短文ではあるが追悼のコメントを残す。 映画監督天使のわけまえ(1994年)- 自主制作 千年旅人(1999年) ほとけ(2001年)- ドーヴィル・アジア映画祭にて最優秀イマージュ賞受賞 フィラメント(2002年) 目下の恋人(2002年) ACACIA(2008年)
2009/10/24
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みなみ かほ南 果歩 本名 渡辺 果歩(わたなべ かほ)(旧姓:南) 生年月日 1964年1月20日(45歳) 活動期間 1984年 - 配偶者 辻仁成(1995年 - 2000年)渡辺謙(2005年 - 現在) 家族 長男(辻との間の子) 公式サイト 所属事務所公式 主な作品 映画「伽椰子のために」(1984年) 受賞 ブルーリボン賞 助演女優賞1989年『夢見通りの人々』、『せんせい』、『螢』、『226』 南 果歩(みなみ かほ、本名:渡辺 果歩、旧姓:南 1964年1月20日 - )は、兵庫県尼崎市出身の女優。 現代制作舎、ユマニテなどを経て、2009年4月よりエス・エス・エム所属。アメリカ合衆国・ロサンゼルス在住。 来歴・人物 尼崎市立尼崎高等学校、桐朋学園大学短期大学部演劇科卒業。短大在学中の1984年に映画『伽椰子のために』のヒロイン役オーディションに応募。2000人の中から選ばれて、主役で芸能界デビュー。1985年にはTBSのポーラテレビ小説『五度半さん』のヒロイン役でテレビドラマに進出。さらに1986年9月には坂東玉三郎演出の『ロミオとジュリエット』のジュリエット役で初舞台を踏み、以後、映画、テレビ、舞台と女優業を中心に活躍。特に1989年には『夢見通りの人々』等の映画での助演に対して助演女優賞が贈られている。1995年に、ミュージシャン&作家の辻仁成と結婚し、1男をもうけたが、2000年3月に離婚。2003年1月に、テレビ東京の2時間ドラマ『異端の夏』で共演した俳優の渡辺謙と2005年12月3日に再婚した。なお、継子に渡辺大と杏がいる。2007年1月11日放送のNHK総合のトーク番組『スタジオパークからこんにちは』内で両親が韓国人であることを告白した。また2007年4月24日付の中央日報日本語版サイトで、夫の渡辺謙が「妻の故郷が釜山(プサン)なので、韓国と縁が深い。妻の母親が韓国人だ」 と述べている。 主な出演作品 映画 『伽椰子のために』(1984年) - 松本伽椰子 『幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬』(1986年) - トヨ 『漂流教室』(1987年) - 久和みどり 『恋子の毎日』(1988年) - 山川加代 『日本殉情伝おかしなふたり/ものくるほしきひとびとの群』(1988年) - 室田夕子 『TOMORROW 明日』(1988年) - ヤエ 『せんせい』(1989年) - 桜井桃子 『226』(1989年) - 安藤房子 『螢』(1989年年) - 麻子 『夢見通りの人々』(1989年年) - 野口光子 『帝都大戦』 (1989年) - 辰宮雪子 『さよなら、こんにちわ』(1990年) - 室井美加 『シャイなあんちくしょう』(1991年) - 高塚真理子 『首領になった男』(1991年) - 山崎紀世恵 『私を抱いてそしてキスして』(1992年) - 津島美幸 『クレープ』(1993年) - 可葉子 『我が人生最悪の時』(1994年) - 王百蘭 『エンジェルダスト』(1994年) - 須磨節子 『ルビーフルーツ』(1995年) - 松永まい子 『天使のわけまえ』(1995年) - ミンコ 『OPEN HOUSE』(1995年) - ユイコ 『不機嫌な果実』(1997年) - 水越麻也子 『OL忠臣蔵』(1997年) - 朝吹希里子 『おもちゃ』(1999年) - 照蝶 『それいけ!アンパンマン 人魚姫のなみだ』(2000年) - (声優)サニー姫 『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』(2001年) - 江森久美 『笑う蛙』(2002年) - 本吉貴子 『花』(2002年) - 医師 『白い犬とワルツを』(2004年) - 梅本由恵 『eiko』(2004年) - アンケートの女 『感染』(2004年) - 塩崎君江 『Jホラーシアター』(2004年) 『千の風になって』(2004年) - 谷畑葉子 『HAZAN』(2004年) - 板谷まる 『お父さんのバックドロップ』(2005年) - 金本英恵 『空を飛んだオッチ』(2005年) - 陽子 『ニライカナイからの手紙』(2005年) - 安里昌美 『妖怪大戦争』(2005年) - 稲生陽子 『呉清源 極みの棋譜』(2006年) 『いちばんきれいな水』(2006年) 『おばちゃんチップス』(2007年) - 家弓美保 『夜のピクニック』(2007年) - 貴子の母親
2009/10/24
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この人、関西弁を流暢に話し、阪神タイガース・ファンです。「沈まぬ太陽」の番組宣伝でテレビでっずぱりです。 配偶者 南果歩 家族 渡辺大(息子)杏(娘) 渡辺 謙(わたなべ けん、1959年10月21日 - )所属事務所は、演劇集団 円を経て2002年よりケイダッシュ。身長184cm、体重80kg。血液型はA型。「謙」の名は出身県である越後の戦国武将、上杉謙信に因む。日本国内・海外双方において映画を中心にテレビドラマ、舞台、テレビコマーシャルと幅広く活躍。日本人で世界的に最も知名度の高い俳優の一人。父の渡辺亮一は画家として活動している。 来歴・人物 デビューまで 新潟県北魚沼郡小出町(現:魚沼市)出身。新潟県北魚沼郡広神村(現:魚沼市)にて共に教師をしていた両親の元に生まれる。両親の転勤で幼少期を入広瀬村、守門村(ともに現:魚沼市)、高田市(現:上越市)で過ごす。新潟県立小出高等学校在学時には吹奏楽部に所属し幼少の頃から親しんできたトランペットを担当。高校卒業後の1978年、東京の武蔵野音楽大学進学を目指す。しかし正規の音楽教育は受けておらず、また渡辺が中学生の時、実父(前述の亮一氏)が病に倒れ仕事が出来なくなったこともあり学費捻出の困難などの問題から断念。劇団ひまわりに入団するも、カリキュラムの問題から退団した。同劇団の広告に「出身者」として渡辺の名が挙げられているが実際に在籍したのは3ヶ月程である。劇団ひまわり退団後の1978年、芥川比呂志演出による演劇集団 円公演『夜叉ヶ池』を観劇して感銘を受け、翌年に同劇団附属の研究所に入所。アルバイト先で知り合った猪俣公章の紹介で唐十郎作、蜷川幸雄演出『下谷万年町物語』のオーディションを受け、研究生ながら主演の青年役を勝ち取ったが、この時期の渡辺に多くの演劇・テレビ・映画関係者達が、かなり早い段階から目を付けていたと語っている。1982年、演劇集団 円の劇団員に昇格し、『未知なる反乱』でテレビデビューを果たすと1984年には『瀬戸内少年野球団』で映画デビュー。その後も『タンポポ』、『海と毒薬』などの映画に相次いで準主役級で出演。1986年のNHK朝の連続テレビ小説『はね駒』にも出演した。『独眼竜政宗』と闘病 1987年のNHK大河ドラマ『独眼竜政宗』で主役(伊達政宗役)を演じ、39.7%という大河ドラマ史上最高の平均視聴率を獲得。卓越した演技力と存在感に加え、容姿と日本人離れした体躯にも恵まれた彼は一躍全国的な人気を獲得、一気にスターダムにのし上がる。以降、舞台・テレビドラマなどで次々と大役を演じ、前途洋々に見えた1989年、映画初主演となるはずであった『天と地と』の撮影中に急性骨髄性白血病を発症し降板。再起はおろか生命も危ぶまれたが、約1年の闘病の後、治療を続けながらも俳優業に復帰。定期的に入院治療を続けながら、単発テレビドラマ作品を中心に活動するが、大きな仕事はできなかった。経過は良好に見え、一応治療が終了した1993年、NHK大河ドラマ『炎立つ』に再び主演、完全復活をアピール。しかし、発病から5年経過し、完治したとみなして良いと思われた矢先の1994年に再発。再治療を行い、経過は良好となって、翌年無事復帰を果たす。方向性の模索病気再発を経て再復帰した時期と前後して、初の本格的娯楽時代劇シリーズドラマ『御家人斬九郎』、2時間ドラマでは『わが町』『鍵師』などが当たり役となりシリーズ化されたが、渡辺はあまりにも強烈な「政宗」のイメージと、俳優としての評価以前にまず病気のことを持ち出されることなどに悩んでいたという。三十代の終わりを機にこれらの人気シリーズを全て終了させるとともに、従来彼のイメージにはなかった悪役・ダメ男役・格好悪い役柄などを積極的に演じるようになる。2000年には、『池袋ウエストゲートパーク』に出演。体当たりな役柄で若年層からの支持を得ることが出来た。2001年、久々に演劇集団 円の公演『永遠 Part2』で舞台に立つが、これが結局「円」での最後の舞台となった。2002年元日をもって演劇集団 円を退団、所属をケイダッシュに移す。 海外進出と映画初主演 海外映画初出演となった『ラストサムライ』(2003年公開)で、渡辺は同年度の第76回アカデミー賞助演男優賞ならびにゴールデングローブ助演男優賞にノミネートされる等高い評価を得る。これを機にロサンゼルスに居を構え、『バットマン ビギンズ』や『SAYURI』など海外映画に立て続けに出演。当初通訳を要していた英会話に関しても猛勉強の末、殆どの会話を自らこなしている(現地での生活ぶりや英語学習の様子は「AERA English」に掲載中)。2005年には米国のTIME誌の表紙にグラビアが掲載されたりピープル誌が企画する「最もセクシーな外国人男性」に選出されたりするなど、現在米国における知名度が最も高い日本人俳優の一人である。日本映画では2006年に荻原浩の小説『明日の記憶』映画化作品で映画初主演を果たす。同作品の映画化に当たっては各映画会社の駆け引きがあり、渡辺を含む複数の日本を代表する大物俳優達が候補に挙がったが、自らも闘病経験があり原作に人一倍の共感を持てた渡辺が荻原に映画化を熱望する旨の手紙を直接送付したことで(荻原は最初誰かの悪戯だと思ったが、紛れもなく渡辺本人からのものだと知り仰天したという)、渡辺の主演で映画化された。白血病の発症以降、患者役や医療関係者役、難病を扱った作品は避けてきたが、若年性のアルツハイマー病に冒されていく主人公を好演。また、映画公開と同じ時期に発表した自らの著書『誰? - WHO AM I?』で、かつて白血病の治療中頻繁に受けた輸血(主に血小板輸血)が原因でC型肝炎ウィルスに感染し、『明日の記憶』の撮影はその治療の副作用に悩まされながら敢行していたことを告白。幸いにも、現在は急性骨髄性白血病・C型肝炎ウィルス感染ともに問題のない良好な状態を保っているという。更にこの作品で初めてエグゼクティブ・プロデューサーを兼任。映画の普及とアルツハイマー病への理解を促進するため全国各地を奔走した(ただし、渡辺本人は「自分はプロデューサーというよりも『イントロデューサー(紹介者)』である」と述べている)。2006年には、クリント・イーストウッド監督の映画『硫黄島からの手紙』に、栗林忠道役で海外映画初主演。他の主要日本人キャストはオーディションの末選出されたが、渡辺だけは監督から直接出演要請があった。外国語映画賞を受賞したゴールデングローブ賞の授賞式において、壇上のクリント・イーストウッド監督は「偉大なるケン・ワタナベに敬意を表したい」と渡辺に言葉を贈った。かつては早川雪洲、上山草人、マコ岩松、ナンシー梅木、高美以子、谷洋子、岡田英次、丹波哲郎、高倉健、三橋達也、山村聡、若山富三郎、浜美枝といった日本人俳優が海外の映画を彩ってきたが、松田優作や三船敏郎の死去後は長らくハリウッド俳優と呼べる日本人の存在が途絶えてきた。近年、渡辺の他にも真田広之・役所広司といった日本を代表する俳優も海外作品に相次いで出演しており、新たな日本製ハリウッドスターの誕生が期待されているが、渡辺が海外において独自の地位を確立しつつあることがその大きな契機となっているとの見方も多い。2007年2月25日(日本時間26日)、第79回アカデミー賞授賞式に出席し、世界的に有名なフランスの女優カトリーヌ・ドヌーヴと2人で非英語圏俳優代表として舞台に立ち、賞が設定されて50周年を迎えた外国語映画賞の歴史を紹介した。2008年2月に撮影開始された映画『ダレン・シャン』にも、サーカスのオーナー、Mr.トールで出演することが決定している。私生活・その他 1983年に結婚した前夫人とは2年に及ぶ調停の末、2005年の3月に離婚。時を同じくしてテレビ東京のサスペンスドラマの共演を機に知り合った女優の南果歩と本格的に交際を開始し、同年12月3日に再婚。二人の交際に関しては日本の芸能マスコミもノーマークで、AP通信配信の写真で渡辺が映画『SAYURI』のニューヨークプレミアに同伴した「未確認ゲスト」の女性が南と判明すると同時に、二人の結婚が公表された。南が前夫の辻仁成との間に儲けた1子(男子)とも養子縁組(次男)し、一時は南と次男と共にロサンゼルスを生活の拠点にしていた。前妻との間に儲けた第1子(長男)の渡辺大は俳優として、第2子(長女)の杏はファッションモデルとして活躍している。2008年8月には長男の大に第1子が誕生し、渡辺は48歳の若さで初孫を持つ身となった。趣味は乗馬や料理など多岐にわたる。無類の蕎麦好きで、テレビ番組に出演した際、十割蕎麦を「ケレン」と評するほどのこだわりを持つ。スポーツではラグビーの神戸製鋼、プロ野球の阪神タイガースのファンとして知られる。特に阪神タイガースに関しては熱狂的なファンであり、阪神の試合結果はハリウッドに活動拠点を移した現在でもインターネットなどで随時情報収集しており、渡辺自身も多忙な中、2005年9月19日と9月20日には阪神甲子園球場に駆けつけ、阪神×中日戦を観戦。20日には関西ローカルの独立UHF局のナイター中継『サンテレビボックス席』に5回までゲスト出演した。上記のアカデミー賞のプレゼンターを一緒に務めたカトリーヌ・ドヌーヴが、約2週間後の3月13日に「フランス映画祭2007」の代表団長として来日。東京都港区のフランス大使館での記者会見の時に渡辺の印象について聞かれ、「彼の英語は素晴らしいと思った。非常に才能があって、すてきな方ですね」と語った。2009年5月29日付東京新聞の一般投書欄へ渡辺自身が投稿していたことが話題となった。具体的には、日本の方向性を示しきれない政治家へ苦言を呈すると共に、麻生内閣が決定した補正予算の中の「アニメの殿堂(国立メディア芸術総合センター)」について「文化発信に繋がるという妄想は止めて、即座に予算から削除するべき」というものであった。映画 瀬戸内少年野球団 (1984年、日本ヘラルド映画、篠田正浩 監督) - 中井鉄夫 役 タンポポ (1985年、東宝、伊丹十三 監督) - ガン 役 結婚案内ミステリー (1985年、東映、松永好訓 監督) - 船山哲也・関根昌和 役(二役) 海と毒薬 (1986年、日本ヘラルド、熊井啓 監督) - 戸田 役 幕末純情伝(1991年、松竹、薬師寺光幸 監督) - 坂本竜馬 役 ラヂオの時間 (1997年、東宝、三谷幸喜 監督) - トラック運転手 役 てなもんや商社 (1997年、松竹、本木克英 監督) - 王 役 絆 -きずな- (1998年、東宝、根岸吉太郎 監督) - 佐古 役 スペーストラベラーズ (2000年、東映、本広克行 監督) - 坂巻隼人 役 溺れる魚 (2001年、東映、堤幸彦 監督) - 御代田 役 千年の恋 ひかる源氏物語 (2001年、東映、堀川とんこう 監督) - 藤原道長・藤原宣孝 役(二役) 陽はまた昇る (2002年、東映、佐々部清 監督) - 大久保修 役 T.R.Y (2003年、東映、大森一樹 監督) - 東正信 役 新・仁義なき戦い/謀殺 (2003年、東映、橋本一 監督) - 武闘派ヤクザ 役 ラストサムライ The Last Samurai(2003年、ワーナーブラザーズ、エドワード・ズウィック 監督) - 勝元盛次 役 北の零年 (2005年、東映、行定勲 監督) - 小松原英明 役 バットマン ビギンズ Batman Begins(2005年、ワーナーブラザーズ、クリストファー・ノーラン 監督) - ラーズ・アル・グール 役 SAYURI Memoirs of a Geisha(2005年、コロムビア、ロブ・マーシャル 監督) - 会長 役 明日の記憶 (2006年、東映、堤幸彦 監督) - 佐伯雅行 役 硫黄島からの手紙 Letters from Iwo Jima(2006年、ワーナーブラザーズ、クリント・イーストウッド 監督) - 栗林忠道 役 沈まぬ太陽(2009年秋公開、角川映画、若松節朗 監督) - 恩地元 役 Inception(主演・レオナルド・ディカプリオ 2010年7月31日公開予定、ワーナーブラザーズ、クリストファー・ノーラン 監督)
2009/10/24
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この作品、キャメロン・ディアスが出ているので水着姿やショート・パンツ姿のたくさん出てくるお色気コメディと勘違いしてはいけません。始めから最後まで号泣する作品となっています。出てくる人物それぞれが訳ありで死に直面しています。大きめのハンカチ必要。(CD)私の中のあなた オリジナル・サウンドトラック/(オリジナル・サウンドトラック)私の中のあなた(上)キャメロン・ミシェル・ディアス(Cameron Michelle Diaz、1972年8月30日 - )は、アメリカ合衆国の女優。 来歴 生い立ち カリフォルニア州サンディエゴにて生まれる。父親のエミリオ・ディアス(1950年 - 2008年)はスペイン系キューバ移民2世の石油工場の現場監督、母親のビリー・ディアス(旧姓:アーリー)はアメリカ・インディアンのチェロキー族、イングランド人、ドイツ人の血を引く輸出エージェント。1970年生まれの姉チミーヌがいる。地元の名門高校、ロングビーチポリテクニク高校に在籍していた。 キャリア 16歳の時にエリート・モデル・マネジメントと契約し、17歳の時にファッションモデルとしてデビュー。1992年に日本に約2ヶ月間滞在したこともある。その後、カルバン・クラインやリーバイスのモデルをしていた。1990年7月号のSeventeenで表紙を飾り、特集が組まれた。21歳の時に『マスク』(1994年公開)のオーディションに合格し、映画デビューを果たす。1998年公開の『メリーに首ったけ』ではニューヨーク映画批評家協会賞女優賞を受賞、ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ミュージカル・コメディ部門)にノミネートされる。同作品も1億ドルを超えるヒットとなった。2000年からは『チャーリーズ・エンジェル』シリーズに出演し、2001年からはアニメ映画『シュレック』シリーズのフィオナ姫の声優を務めている。2004年のThe Hollywood Reporter誌による高額出演料女優リストでは2000万ドル(約20億円)で2位となった。2005年よりMTVで『TRIPPIN' キャメロン・ディアス世界(珍)冒険紀行』に出演。この番組はドキュメンタリー番組で、彼女が友人と共に世界の辺境の地や世界遺産を巡っている。彼女は同番組のプロデューサーも務めている。米経済誌フォーブスによる、2007年6月1日~2008年6月1日の間に稼いだ額を試算した、「最も稼いだハリウッド女優トップ10」では5000万ドル(約54.7億円)で1位となった。 私生活 過去にマット・ディロンやジャレッド・レトとの交際歴がある。2006年まで歌手のジャスティン・ティンバーレイクと交際していたが2007年1月、「ロマンチックな関係を終えた」と破局を発表した。一説によれば、ジャスティンが自身の曲のPV内で女優のスカーレット・ヨハンソンと恋人を演じ、それを見たキャメロンが嫉妬し、破局。その後イギリス人モデルのポール・スカルフォーと交際し、ロンドンで物件を探していたことから一時は結婚かといわれていたが、結局破局に至った。2006年9月に亡くなったスティーブ・アーウィンのファンであった。 エピソード サイン嫌いな女優としても有名である。 日本での人気も高いが、中々来日しなかった事もあり、かつては「キャメロン・ディアスは日本が嫌いなのでは?」と言われていた。一方、日本嫌いではなく、10代の時に日本で仕事をしていたときホームシックになり、孤独を味わったこと、そして日本における外国人モデル市場の待遇の悪さ(ギャラの低廉さ)などから、辛い経験をしたことから来日したがらないのではないかとも言われていた[1]。日本にいたときにはチラシ用の写真のモデルなどの細かい仕事もしていた。しかし、2003年からは毎年来日しており、今では自他共に認める大の親日家として有名である。2008年8月の来日では6年連続となり、母や親せきも同行しているが「私がどうして日本好きか、自分の目で確認してほしかった」と語った。好きな日本食は鍋焼きうどんである。 元モデルだけあり、ファッションセンスには定評がある。「スクリーン」誌(近代映画社)のベストドレッサーランキング、最近オリコンが行った「オシャレな海外スター」ランキングで1位に輝いた。 主な出演作品 公開年 邦題原題 役名 備考 1994 マスク The Mask ティナ・カーライル 1995 最後の晩餐/平和主義者の連続殺人 The Last Supper ジュード 日本未公開 1996 彼女は最高 She's the One ヘザー フィーリング・ミネソタ Feeling Minnesota フレディ・クレイトン 真夏の出来事 Head Above Water ナタリー 1997 ブラック・メール/脅迫 Keys to Tulsa トゥルーディ ベスト・フレンズ・ウェディング My Best Friend's Wedding キンバリー・ウォレス 普通じゃない A Life Less Ordinary セリーヌ・ネヴィル 1998 ラスベガスをやっつけろ Fear and Loathing in Las Vegas 金髪のテレビレポーター メリーに首ったけ There's Something About Mary メリー・ジェンセン ベリー・バッド・ウェディング Very Bad Things ローラ・ガレッティ 1999 マルコヴィッチの穴 Being John Malkovich ロッテ・シュワルツ エニイ・ギブン・サンデー Any Given Sunday クリスティーナ・パグニアーチ 2000 彼女を見ればわかること Things You Can Tell Just by Looking at Her キャロル・ファーバー チャーリーズ・エンジェル Charlie's Angels ナタリー・クック 2001 姉のいた夏、いない夏。 The Invisible Circus フェイス シュレック Shrek プリンセス・フィオナ 声の出演 バニラ・スカイ Vanilla Sky ジュリアナ・“ジュリー”・ジャンニ 2002 クリスティーナの好きなコト The Sweetest Thing クリスティーナ・ウォルターズ My Father's House 少女 日本未公開 マイノリティ・リポート Minority Report カメオ出演 ギャング・オブ・ニューヨーク Gangs of New York ジェニー・エヴァディーン 2003 チャーリーズ・エンジェル フルスロットル Charlie's Angels: Full Throttle ナタリー・クック 2004 シュレック2 Shrek 2 プリンセス・フィオナ 声の出演 2005 イン・ハー・シューズ In Her Shoes マギー・フェラー 2006 ホリデイ The Holiday アマンダ・ウッズ 2007 シュレック3 Shrek The Third プリンセス・フィオナ 声の出演 2008 ベガスの恋に勝つルール What Happens in Vegas... ジョイ・マクナリー 2009 私の中のあなた My Sister's Keeper サラ・フィッツジェラルド 1 The Box ノーマ・ルイス 10月30日全米公開予定2010年日本公開予定 「わたしのなかのあなた」(My Sister's Keeper)は、ジョディ・ピコーの小説、及びそれを原作とした映画。2004年出版。日本では2006年9月に早川書房より出版(訳は川副智子)。 あらすじ この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。アナ・フェッツジェラルドは白血病の姉ケイトのドナーとして、遺伝子操作で生まれてきた。アナはケイトのために臍帯血、輸血、骨髄移植などでケイトの犠牲となってきた。アナが13歳の時、腎臓移植を拒み、両親を相手に訴訟を起こす。 登場人物 アンドロメダ・“アナ”・フィッツジェラルド 物語の主人公。遺伝子操作によって生まれてきた。 キャサリン・ケイト・フィッツジェラルド アナの姉。白血病を患っている。 ジェシー・フィッツジェラルド アナとケイトの兄。(映画ではアナの兄、ケイトの弟) サラ・フィツジェラルド アナとケイトとジェシーの母親。 ブライアン・フィッツジェラルド アナとケイトとジェシーの父親。消防士 キャンベル・アレクサンダー アナの弁護士。 ジュリア・ロマノ アナの後見人。キャンベルと恋人関係だったこともある。 映画 ニュー・ライン・シネマ製作、ニック・カサヴェテスにより映画化。アメリカでは2009年6月26日に、日本では同年10月に公開。邦題は『私の中のあなた』となっている。当初、アナ役とケイト役にはダコタ・ファニングとエル・ファニングが配役されていたが、降板。アビゲイル・ブレスリンとソフィア・ヴァジリーヴァに変更された。 キャスト キャメロン・ディアス:サラ・フィッツジェラルド アレック・ボールドウィン:キャンベル・アレクサンダー アビゲイル・ブレスリン:アナ・フィッツジェラルド ソフィア・ヴァジリーヴァ:ケイト・フィッツジェラルド ジェイソン・パトリック:ブライアン・フィッツジェラルド エヴァン・エリングソン:ジェシー・フィッツジェラルド トーマス・デッガー:テイラー・アンブローズ
2009/10/18
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across the universeビートルズは永遠のなつメロです。 【A】Across the Universe【Aポイント+メール便送料無料】サウンドトラック Soundtrack / Across The Universe (輸入盤CD)
2009/10/12
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中原中也、太宰治、壇一雄・・・・自爆型の家族を帰りみない作家たちです。DVDで鑑賞しました。壇ふみが特別出演しています。緒方拳と池田市出身パン屋さんの娘いしだあゆみ。いしだあゆみ・石田ゆりこは中学時代、昼休みや運動会にかっこいいGパン姿でパンを売りに来ていました。商店街には喫茶店もありウエイトレスをしていたそうです。正妻いしだあゆみとのラブ・シーンはありません。愛人の原田美枝子 松坂慶子とは激しいラブ・シーンがたくさんありました。豊満な乳房がこれでもかぁこれでもかぁとたくさん出てきます。監督 深作欣二の私生活と思いが透けて見えます。『火宅の人』(かたくのひと)は檀一雄著の長編小説。『新潮』1955年11月号より20年にわたり断続的に連載されたのち、1975年に新潮社より刊行された。第27回読売文学賞小説賞、第8回日本文学大賞受賞。1986年に東映で映画化されている。「火宅」とは仏教説話の用語で、「燃盛る家のように苦悩に包まれた所」の意味。 映画 火宅の人 公開 1986年4月12日 上映時間 132分 脚本:深作欣二・神波史男 監督:深作欣二 音楽:井上尭之 主題曲:嵯峨美子 撮影:木村大作 企画協力:檀太郎 キャスト 桂一雄:緒形拳、幼少期:伊勢将人 ヨリ子:いしだあゆみ 矢島恵子:原田美枝子 葉子:松坂慶子 桂一雄の父:石橋蓮司 桂一雄の母:檀ふみ(特別出演) 葉子の養父:山谷初男 葉子の養母:宮内順子 中原中也:真田広之 太宰治:岡田裕介 壷野:井川比佐志 苅田:荒井注 中島:下條アトム 佐々木:伊庭剛 林:谷口孝史 一郎:利根川龍二 次郎:一柳信之 弥太:大熊敏志 フミ子:米沢由香 サト子:岡村真美 信子:谷本小代子 滝:浅見美那 主任:蟹江敬三 病院主事:下元勉 檀 一雄(だん かずお、1912年(明治45年)2月3日 - 1976年(昭和51年)1月2日)は、日本の小説家、作詞家。私小説や歴史小説、料理の本などで知られる。また、西遊記の日本語抄訳もある(東京創元社ほか)。「最後の無頼派」作家といわれた。代表作は、律子夫人の没後に描いた『リツ子 その愛』『リツ子 その死』、時代娯楽作も人気があり『真説石川五右衛門』(1950年、第24回直木賞受賞)、『夕日と拳銃』など、また20年以上に渡り書き続けライフワークとなった遺作『火宅の人』(1986年、東映で異父弟のプロデューサーの高岩淡の企画、深作欣二監督、緒形拳主演により映画化)など。女優の檀ふみは長女。エッセイストの檀太郎は長男。太郎と同じくエッセイストの檀晴子は太郎の夫人(ふみの義姉)にあたる。 来歴 山梨県南都留郡谷村町(現在の都留市下谷)に図案の技師として、県立工業試験場に勤めていた父・参郎、母・とみの長男として生まれる。檀家は本籍地が福岡県山門郡沖端村(柳川市)で、立花藩の普請方を務めた家柄であった。父の参郎は山梨県立工業学校の図画教員で、繊維工業試験場の嘱託も兼ねていた。1914年(大正3年)、父が退職したため福岡へ戻る。翌1915年(大正4年)、参郎の画業修行のため上京して谷中に住むが、生活が困窮し翌年には再び帰郷し、母とみの実家である久留米に住む。栃木県足利の尋常高等小学校に通うが、1924年(大正13年)には両親が離婚する。この年には栃木県立足利中学校へ進学。1928年(昭和3年)には福岡高等学校文科乙類へ入学。この頃には同人誌を製作して小説や詩を発表しており、社会主義読書会へも参加して停学処分を受けた。1932年(昭和7年)、東京帝国大学経済学部に入学。1933年(昭和8年)、同人誌『新人』を創刊し、処女作「此家の性格」を発表、瀧井孝作や林房雄らの賞賛を受け、尾崎一雄を紹介される。同年、太宰治、井伏鱒二の知遇を得、師と仰いだ佐藤春夫とも知る。この年には11年ぶりに母とみと再会している。1934年(昭和9年)、古谷綱武と同人誌『鷭』を創刊するが、二号で廃刊。太宰治、中原中也、森敦らと『青い花』を創刊、翌年、日本浪曼派に合流する。1936年(昭和11年)、「夕張胡亭塾景観」が第2回芥川賞候補となる。『文藝春秋』に出世作「花筐」を発表。太宰の死後坂口安吾とも交流があった。1941年(昭和16年)、母の勧めで福岡の開業医の娘高橋律子と結婚。1943年(昭和18年)、長男太郎誕生。1944年(昭和19年)には陸軍報道班員として大陸へ渡る。この間律子は腸結核に罹患。終戦後に帰国し、献身的な看病を行ったが、1946年(昭和21年)に死去。同年、児童文学者与田準一の紹介で福岡県瀬高町の酒造家の娘山田ヨソ子と再婚。上京し、石神井に居を構える。1950年(昭和25年)、先妻律子を描いた連作「リツ子・その愛」、「リツ子・その死」にて文壇に復帰。翌1951年(昭和26年)「長恨歌」「真説石川五右衛門」の2作にて直木賞を受賞。檀は舞台女優入江杏子と愛人関係であった。入江は石神井の自宅にしばしば出入りしていたが、1956年(昭和31年)、青森県蟹田町の太宰治文学碑除幕式に同行した際に、男女の関係となり、そのまま山の上ホテルで同棲をはじめた。入江杏子との生活そして破局を描いたのが代表作「火宅の人」である。1961年(昭和36年)、「火宅の人」の最初の一編である「微笑」が新潮に発表され、その後連作として各誌に発表された。執筆は遅々として進まず、最終章の「キリギリス」が完成したのは、死の直前の1975年であった。1970年(昭和45年)11月より1972年(昭和47年)2月までポルトガルのサンタ・クルスに滞在。1974年(昭和49年)、福岡市能古島に自宅を購入し転居、月壺洞(げっこどう)と名づけた。1975年(昭和50年)に檀は悪性肺腫瘍のため九州大学病院に入院。その病床で『火宅の人』の最終章「キリギリス」を口述筆記にて完成させたが、これが檀の最後の仕事となった。それから間もない1976年(昭和51年)1月2日に死去した。享年63。翌1977年(昭和52年)、終の住家となった能古島に文学碑が建てられ、その文面には檀の辞世の句となった「モガリ笛 幾夜もがらせ 花二逢はん」と刻まれ、毎年5月の第3日曜日には檀を偲ぶ「花逢忌」がこの碑の前で行われている。 人物 旧友であった太宰治が酔うと、よく自殺を誘われ、また中原中也からは「太宰の腰巾着」と揶揄された(太宰と中原は同人仲間でありながら不仲の間柄だった)。『小説 太宰治』(岩波現代文庫)を太宰の死後執筆している。 檀が9歳の時に実母が出奔し、また父が料理を作れなかったこと、そして小学校に上がっていない妹が3人いたことからやむなく料理を始めた経緯があるが、結果檀は文壇屈指の料理人として名を通した。著書にも『檀流クッキング』や『美味放浪記』、『わが百味真髄』があり、その造詣の深さが窺える。 深作 欣二(ふかさく きんじ、1930年7月3日 - 2003年1月12日)は日本の映画監督。茨城県水戸市出身。妻は女優の中原早苗。映画監督の深作健太は実子。仲間からの愛称は「サクさん」。 略歴 茨城大学教育学部附属中学校を卒業。水戸第一高等学校卒業後、日本大学藝術学部卒業。 1953年、東映に入社。 1961年、『風来坊探偵・赤い谷の惨劇』(千葉真一主演)で監督デビュー。『誇り高き挑戦』(鶴田浩二主演)で注目される。以後、『ジャコ萬と鉄』、『軍旗はためく下に』などの秀作を発表。 1970年、日米合作の大作『トラ・トラ・トラ!』の日本側監督を黒澤明が降板したため、後任となった舛田利雄から懇願され共同監督を引き受ける。 1973年から始まった『仁義なき戦い』(脚本笠原和夫、主演菅原文太)シリーズは、映画史に残る大ブームとなり、「実録映画」の第一人者の地位を不動のものとする。その後もテレビドラマ『傷だらけの天使』(2本を監督)、映画『柳生一族の陰謀』、『蒲田行進曲』、『バトル・ロワイアル』など、発表する作品の多くが話題作となる。 1997年、紫綬褒章受章。 2002年中は、カプコンのプレイステーション2用ゲームソフト『クロックタワー3』のイベントCGムービーの監督として撮影(モーションキャプチャ収録)、これを撮り終えた(撮り終えたという意味ではこちらが遺作である)。 2003年1月12日、前立腺癌の脊椎転移のため死去、72歳没。後に勲四等旭日小綬章を贈られた。 深作は抗癌剤の投与を拒んだ。副作用による男性機能の低下を懸念したためである。 また、未完だった遺作『バトル・ロワイアルII 【鎮魂歌】』の監督は、プロデューサーを務めていた息子の深作健太に引き継がれた。 作風 暴力的な作品を撮る映画監督というイメージが強いが、本人が戦争という巨大な暴力を体験したことをきっかけに、暴力を描くことで暴力を否定しようという考えが根底にあり、決して暴力を肯定していたわけではない。だからこそ、様々な批判を受けても、最後まで作風を変えなかったと思われる。またアクション映画の監督と見られがちだが、小松左京原作の『復活の日』や檀一雄原作の『火宅の人』の映像化、『柳生一族の陰謀』や『魔界転生』といった時代劇、『おもちゃ』のような文芸作品からSFまで、幅広い作品を残している。これらの作品は国内のみならず、海外からも好評であり、『ガンマー第3号 宇宙大作戦』はMGM配給で、『宇宙からのメッセージ』はユナイト映画配給でそれぞれ米国で公開された。また、『バトル・ロワイアル』はフランスやイギリスなど海外でも注目をひき、香港では興行成績1位を記録した。クエンティン・タランティーノやジョン・ウーなどの著名な監督らは、彼を崇拝していることを明言している。なお、全フィルモグラフィーのうち、『おもちゃ』以外の全ての作品で人が死ぬシーンがあり、死について生涯こだわり続けたことがうかがえる。 人物 映画作りに関しては相当にエネルギッシュな人物で、『仁義なき戦い』での演出は、ほとんど「行けー!!」「やれー!!」「死ねー!!」などの言葉で済ましていたそうである。深夜まで撮影が長引いたにもかかわらず、俳優達を引き連れて飲みに行き、翌朝からまた撮影に入るという生活を何ヶ月も続けたという伝説を残している。菅原文太のように、酒が強くタフな俳優ならともかく、そうではない多くの俳優は付き合うのが大変であったという。ろくに寝られなかった俳優達は、脹れた顔を元に戻すために冷たいタオルをあてたり、腫れた瞼が目立たないようサングラスをかけるなどして、撮影に臨んだという。朝に弱く、夜になると調子が出てきて、撮影が毎日深夜まで続くため、「深作組=深夜作業組の略」とも言われた。干されていた室田日出男、大部屋でくすぶっていた川谷拓三、志賀勝らを抜擢し、「ピラニア軍団」として知らしめたことも有名である。またTHE BLUE HEARTSのファンで、彼らの歌が自分の映画の作風に似ていると感じていた。特に「1001のバイオリン」が好きで、深作の葬儀にこの曲が流された。 死去前後の出来事 2002年 9月25日 - 前立腺ガンの脊椎転移を公表。『バトル・ロワイアルII』の製作を発表。 12月16日 - 『バトル・ロワイアルII(仮題)』撮影開始。 12月21日 - がんの骨転移の痛みから、放射線治療のため予定より2日早く入院。 12月23日 - 定期の放射線治療を受ける。 12月29日 - 体力の低下による風邪から肺炎を併発する。 12月31日 - 自力呼吸が困難になり、人工呼吸器を装着。一時危篤状態に。 2003年1月初頭-小康状態に回復。 1月5日 - 深作健太が監督代行として、撮影を再開。 1月11日 - 夕方から容態が悪化。妻の中原早苗、息子健太や菅原文太らが病院へ。荻野目慶子も見舞を申し入れたが、妻の中原がこれを拒否。
2009/10/12
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なつかしい、思い出の曲。青春の本当のなつメロのひとつ。Three Degrees Dirty Old ManThe Three Degrees- -When will see you again
2009/10/11
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10月10日は久しぶりのゴージャスな夜を過ごしました。ヒルトン大阪のチェッカーズで食事をし、ビルボードでリタ・クーリッジを聴きました。食べ盛りの親戚のゆりちゃん・しゅんくん・娘のあ~ちゃん・ゆ~ちゃんの6名です。こ~くんはテスト前でお留守番。チェッカーズはロースト・ビーフがお勧めでお値打ちです。コックさんに頼まないとスライスしてくれません。スシは外人用ですので日本人向きではありません。サラダも一部ハワイ風で口にあいません。特にあ~ちゃんは国際的な味覚の持ち主でハワイやタイで私が敬遠したものでも「おいすぃ~~」と歓喜の声を発します。しかしながら、娘とそのいとこ達はたくさん、たくさん食べて彼らの分は元をとったと思います。ゆ~ちゃんの大学時代のバイト先(USJ)の人がレストランのウエイターとして働いており、帰りにパウンド・ケーキのお土産をゲット!リタ・クーリッジは1970年代に活躍したひとなので若者は知りません。観客も団塊の世代が多かったです。二人で行くつもりが朝インターネットで予約サイトへ行くと4席予約できるのが解ったたので一緒に行くことにしました。バックバンド(ピアノ・リードギター・ベースギター・ドラムの4人)のスバラシイ演奏は聴き応えありました。リタ・クーリッジは65才なので高音なく低音で勝負。全曲、jazz風アレンジです。原曲を知らない人はjazzシンガーと思ったでしょう。We're All Aloneこれは2曲目でした。ステージの感想としてはリタ・クーリッジが、日本人の心を持ち合わせていることに感動しました。Your Love Lifts Me Higher Don't Cry Out LoudA little bit of YOUCHRIS KRISTOFFERSON & RITA COOLIDGE - Take the ribbon from yリタ・クーリッジ出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』リタ・クーリッジ 基本情報 出生 1945年5月1日 アメリカ合衆国 テネシー州 ジャンル ポップス、ロック、民族音楽、ジャズ 職業 歌手 活動期間 1969年- 共同作業者 ジョー・コッカー、クリス・クリストファーソン、ロビー・ロバートソン、公式サイト ritacoolidge.com リタ・クーリッジ(Rita Coolidge、1945年5月1日-)は、アメリカ合衆国テネシー州出身の女性歌手。アメリカ・インディアンのチェロキー族の血を引く。来歴 幼い頃からゴスペルに親しみ、1960年代末期から本格的にプロの歌手として活動。1969年の暮れには、デラニー&ボニーのツアーに帯同。このツアーには、エリック・クラプトンも参加していた。1970年にはジョー・コッカーのアメリカ・ツアーでバック・コーラスを担当。この時、リタにスポットを当てたコーナーで、レオン・ラッセル作の楽曲「スーパースター」を歌った。この曲は後に、カーペンターズがヒットさせてスタンダード・ナンバーとなる。1971年、アルバム『リタ・クーリッジ』でデビュー。ブッカー・T・ジョーンズ、ライ・クーダーなどのゲスト・プレイヤーが参加。1973年、シンガー・ソングライターのクリス・クリストファーソンと結婚、その後クリスと連名のアルバムを何枚か発表。1977年、アルバム『Anytime...Anywhere』が全米6位のヒットとなり、ボズ・スキャッグスのカバー「ウィ・アー・オール・アローン」もシングル・ヒットした。1980年頃クリスと離婚。1983年、映画『007 オクトパシー』の主題歌「All Time High」を歌う。1991年のアルバム『Dancing With An Angel』は、日本のヒット曲のカバーも含む内容で、森高千里「雨」や徳永英明「Rainy Blue」などが英語詞で歌われた。同年、中島みゆきのアルバム『歌でしか言えない』にゲスト参加。1994年、ロビー・ロバートソン(元ザ・バンド)が、アメリカ・インディアンをテーマとしたアルバム『MUSIC FOR THE NATIVE AMERICANS』制作。リタは姉のプリシラ、姪のローラ・サッターフィールドと共に同作に参加。リタ、プリシラ、ローラの3人は、チェロキー族の伝統を前面に出したグループWALELAを結成し、アルバムを2枚発表。2005年のソロ・アルバム『And So Is Love』では、ジャズに挑戦した。
2009/10/11
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