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この映画はゆうちゃんとこうちゃんに誘われて鑑賞しました。前回の第一章の続きです。3部作で60億円かかっているらしいです。1970年大阪千里で開催された万国博覧会も関係しています。岡本太郎の太陽の塔に似たものが出てきます。映画とは少し離れますが・・・・・あの時代は70年安保もあり、学生運動も盛んでした。原点に遡り考えましたので権威は失墜し革命の予感を感じた時でした。高校卒業式ボイコット事件がありました。運動会の仮装行列ではは佐藤首相の葬式があったりしました。万博ではフランス館へ弟と夕刻から映画を鑑賞しました。アラン・ロブグリエ脚本 アラン・レネ監督の「去年マリエンバードで」と出会いました。大学の映画クラブの友人とはケベック館のディスコで踊りました。学園祭ではキャロルの矢沢永吉、山下洋輔トリオ、五輪真弓も来ましたが赤軍派の映画監督足立正夫も来ていました。黒テントが構内であり沖山秀子も来ていました。京都はもっとスゴカッタです。世界中からヒッピーが集まっていてある喫茶店の2Fに寝泊りしていました。同志社の構内ではあやしげなパーティーをしていましたし京大西部講堂ではアンダーグラウンドなロック・演劇・舞踏の数々・・・・・そんな雑多な時代背景を反映してか・・・・・・前回同様、たくさんの俳優・芸人が出てきます。去年マリエンバートで出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』移動: ナビゲーション, 検索去年マリエンバートでL'Année dernière à Marienbad 監督 アラン・レネ 製作 ピエール・クーローレイモン・フロマン 脚本 アラン・ロブ=グリエ 出演者 デルフィーヌ・セイリグ 音楽 フランシス・セイリグ 撮影 サッシャ・ヴィエルニ 編集 アンリ・コルピジャスミーヌ・シャスネ 公開 1961年6月25日 1964年5月2日 上映時間 94分 製作国 フランス・イタリア 言語 フランス語 allcinema IMDb 表・話・編・歴 去年マリエンバートで(きょねん まりえんばーとで、L'Année dernière à Marienbad)は、アラン・ロブ=グリエによる脚本をアラン・レネが監督した映画である。1961年、ヴェネチア国際映画祭金獅子賞受賞。日本公開は1964年5月。脚本のロブ=グリエ自身の言によれば、黒澤明監督の『羅生門』に触発されて作られた作品であるという。より正確に言うならば、芥川龍之介の『藪の中』を下敷きにした作品群の1つということになる。ココ・シャネルが衣装をデザインしたことでも有名。 キャストA - デルフィーヌ・セイリグ X - ジョルジュ・アルベルタッツィ M - サッシャ・ピトエフ 淑女たち - フランソワーズ・ベルタン、ルーチェ・ガルシア=ヴィレ、エレナ・コルネル、フランソワーズ・スピラ、カリン・トゥーシュ=ミトラー 紳士たち - ピエール・バルボー、ヴィルヘルム・フォン・デーク、ジャン・ラニエ、ジェラール・ロラン、ダビデ・モンテムーリ、ジル・ケアン、ガブリエル・ヴェルナー ストーリー主人公の男Xは、女Aと再会する。Xは去年マリエンバートで会ったと語りかけるのだが、Aは記憶していない。しかし、AはXの話を聞く内に、おぼろげな記憶を取り戻していく。Aの夫であるMは、「去年マリエンバートで」実際に何が起こったのか知っているのだが・・・。後年、脚本を担当したロブ=グリエがこの映画の仕掛けについて語っている。 それによると、黒沢明の『羅生門』がモチーフとなっており、最初に、1.現在 2.Xの回想(Xにとっての主観的事実) 3.Aの回想(Aにとっての主観的事実) 4.過去(客観的事実→Mの視点) の4本の脚本が作られ、それらをバラバラにつなぎ合わせて、最終的な脚本が完成したという。その際に、それぞれの場面が1~4のどの脚本に該当するのかがなるべくわからないように慎重につなぎ合わされ(時間軸の入れ替えも行われている)、最終的に完成した脚本はダイヤグラムシートを伴う、非常に複雑な物になった(海外の研究書にはダイヤグラムシートを伴う完成脚本が収録されている)。さらに、このダイヤグラムシートは一部のスタッフにしか知らされず、そのため、出演者はしばしば自分が何を演じたらいいのかわからず、混乱状態に陥ったが、それも全て内容をより効果的にするための計算であった。ただ、服装やセットなどは明確に1~4の脚本で区別されていて、注意深く見れば、どの場面が1~4の脚本のどれに当たるのか判別できる仕掛けになっている。結果として、ロブ=グリエ曰く「非常に緻密に計算された作品で、曖昧さのかけらもない」作品になった。 ロケ地作品のロケ地はミュンヘンである。 シュライスハイム城(Schloss Schleissheim)のノイエス・シュロス(新しい城、Neues Schloss) 現バイエルン州立美術館。映画では、男の記憶内や、額入りの写真として登場するフレデリクスバートの庭園。庭園にたたずむ人々の異様に長い影は地面に描かれたものであった。 ニンフェンブルグ城(Schloss Nymphenburg)[1] 主要な撮影が行われたロココの宮殿。映画に登場する幾何学模様のフランス庭園もここ。 アマリアンブルク(Amalienburg) オープニングの独白シーンでここのシュピーゲルザール(鏡の間、Spiegelsaal)の鏡を利用した。また、男と女の最後の夜の演奏会のシーンもここだ。 実際のマリエンバートは、チェコ語でマリアーンスケー・ラーズニェ(Marianske Lazne)といい、プラハ西方約130km、カルロヴィ・ヴァリの南にある温泉療養地である。本作品とは題名以外は無関係である。 トリビアこの映画を題材としたジョーク。 警官「怪しい男だな。この辺りで窃盗事件が多発してるんだが、お前がやったんじゃないのか?」男「違いますよ」警官「本当か?昨日の夜も事件があったんだが、昨日の夜はなにをしてた?」男「昨日の夜は、映画を見てました。「去年マリエンバートで」って映画です」警官「嘘じゃないだろうな?本当に見たというなら、どんな話しだったか説明してみろ!」このジョークはロブ=グリエ自身のお気に入りで、良く披露していたという。この映画に度々登場するゲームについて。 ゲームの名前はニムと言い、数多くのバリエーションがあるのだが、いずれも法則性があり、必勝法が存在する(必勝法を知る同志で対戦すると、基本、先手必勝)。映画の中では、XとMが繰り返し対戦するが、XはMに勝つことが出来ない。必勝法のことを知っていたある記者が、「このゲームは二人の関係性を示す暗喩ですか」と監督に尋ねた所、監督は「あのゲームはMのXに対する優位性を示すために取り入れた物だが、必勝法のことは知らなかった。しかし、面白い偶然だ」と答えたという。倉本聰の『昨日、悲別で』は、類想の命名ではないかといわれる
2009/01/31
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ゆうちゃんとこうちゃんと3人で鑑賞しました。スピードが早くて何のことか判りませんでした。前作に引き続きリアルであることは事実です。
2009/01/25
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ビルボード大阪で大学のJAZZ好き友人たちと吉田美奈子・渡辺香津美の極上デュオ聴いてきました!!吉田美奈子に一番近い席でした!(1メートルちょっとの距離)音楽のシャワーを浴びてきました。気持ちい~~~!超気持ちいい~~~!体に感じる。音と体が共鳴する。恍惚であります。吉田美奈子はココ。キャロル・キング以上のカリーヘアー。黒いカーテンのようなロングドレスの井手達は将に、音楽の魔女+魔法使いです。渡辺香津美の繊細なギターと共鳴します。合歓のジャズ・インで山下洋輔や渡辺貞夫と同じく常連でした。京都のライブ・ハウスでもよく出演していました。【Aポイント付+メール便送料無料】吉田美奈子&渡辺香津美 / nowadays (CD)
2009/01/24
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まずはゴッホです。広重とセザンヌ・・・一般的には富士山と言われていますが・・・私見です。
2009/01/18
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ワールド・オブ・ライズタイタニック以来我が家はレオナルド・ディカプリオファンが多いので家族全員で鑑賞。現在、テレビでイスラエルのガザ地区への攻撃をみるにつけ誠にリアルな映画です。将に、事件は会議室ではなく現場で起こっている。ドラマ最後のドンデン返しは期待しないこと。反戦・反米・恋愛・愛国映画原題:Body of Liesの方が意味が深い。なお、ラッセル・クロウが20KG体重増やし背広組を匠に好演している。リドリー・スコット監督作品はエイリアン、ブレードランナー、 ブラック・レイン、 ハンニバル、グラディエイター以下はeiga.comより引用監督・製作:リドリー・スコット脚本:ウィリアム・モナハン原作:デビッド・イグネイシアス製作:ドナルド・デ・ライン製作総指揮:マイケル・コスティガン、チャールズ・J・D・シュリッセル撮影:アレクサンダー・ウィット美術:アーサー・マックス音楽:マーク・シュトレイテンフェルド製作国:2008年アメリカ映画上映時間:2時間9分配給:ワーナー・ブラザース映画レオナルド・ディカプリオ&ラッセル・クロウ主演のスパイ・スリラー。中東で対テロ殲滅作戦を展開する米CIA中東局の主任ホフマン(クロウ)と現地工作員フェリス(ディカプリオ)。ヨルダン情報局GIDとともに爆破テロ組織のリーダー、アル・サリームを追う2人は、反目し合いながらも協力し、中東に架空のテロ組織をでっち上げ、アル・サリームをおびき出そうと試みるが……。脚本は「ディパーテッド」のウィリアム・モナハン。監督は巨匠リドリー・スコット。
2009/01/18
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黙祷
2009/01/17
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モネの最初の妻カミーユはモデルとして絵の中結構います。クラジオラスやひなげしを描きながらパラソルの女がカミーユでしょう。衝撃の一枚は、死に行く妻を描いたもの。色や光の変化を描いています。日傘をさす女の3連作ですが、最初の1枚目はカミーユとその息子ジャンであろうと言われています。1875作。顔が描かれています。カミーユが死ぬ以前に描かれています。残りの2枚(1886作)は顔が描かれていません。人物画ではなく風景画です。カミーユの死後の作品でモデルの二番目の妻アリスの娘シュザンヌと言われています。おおきな空、風になびき、光を浴びる、雲、スカーフ、スカート、草花、日傘。自然と人と光と風が融合しています。カミーユが風景に溶け込んで自然に回帰したのでしょうか。アリスの娘を描いたのではなくカミーユを描き封印した。この後、モネの絵に人物は出てきません。勿論、アリスをモデルにした絵はありません。
2009/01/12
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モネはこんな人です。初期1840年パリのラフィット街に生まれる。5歳の時、一家でノルマンディー地方のセーヌ河口の街ル・アーヴルに移住した。モネは少年の頃から絵画に巧みで、十代後半の頃には自分の描いた人物のカリカチュア(戯画)などを地元の文具店の店先に置いてもらっていた。1856年 - 1858年の年記のある素描や戯画が現存している。1857年にはコレージュを退学。この頃から地元の美術教師でダヴィッドの弟子であったフランソワ=シャルル・オシャールに絵を学んでいる。1858年頃、モネの描いていた戯画が、ル・アーヴルで活動していた風景画家ウジェーヌ・ブーダンの目にとまり、彼らは知り合うことになる。ブーダンはキャンバスを戸外に持ち出し、陽光の下で海や空の風景を描いていた画家であった。ブーダンと出会ったことが、後の「光の画家」モネの生涯の方向を決定づけたと言われている。モネの現存する最初の油絵は、1858年の年記のある『ルエルの眺め』(埼玉・丸沼芸術の森所蔵、埼玉県立近代美術館寄託)である。この作品はバルビゾン派の影響のみられるもので、地元ル・アーヴルの展覧会に出品された。モネは1859年、パリに出て、1860年にアカデミー・シュイスに入学、ここで後に印象派の仲間となるピサロらと知り合う。1年強のアルジェリアでの兵役を経て、1862年秋、シャルル・グレールのアトリエに入り、ここではシスレー、バジール、ルノワールらと知り合っている。グレール自身はアカデミックな作風の画家であったが、彼は生徒に自分の作風を強要せず、自由に個性を伸ばす指導方針であったので、アカデミックな美術教育にあきたらない画家の卵たちが彼のアトリエに集まることになった。1865年、サロンに2点の作品を初出品し、2点とも入選した[1]。翌1866年のサロンには、マネの著名な作品『草上の昼食』(1863年)と同じテーマの作品を出品することを予定していた。この『草上の昼食』は縦4メートル、横6メートルを超える大作であったが、サロン出品の締切までに制作が追いつかなかった[2]。しかし、代わりに1866年のサロンに出品した『緑衣の女』と『シャイイの道』は、2点とも入選を果たした。『緑衣の女』は、モネの恋人カミーユ・ドンシューをモデルにしたもので、ベラスケス風の人物画であり、当時の審査員の好みに合うものであった。1868年のサロンでは出品した2点のうち1点が入選するも、1869年と1870年のサロンには落選し、以後しばらくサロンへの出品を取りやめる。1867年8月にはカミーユ・ドンシューとの間に長男ジャンが生まれるが、家族はモネとカミーユの仲を認めず、彼らが正式に結婚したのは1870年のことであった。1870年7月、普仏戦争が勃発すると、モネは兵役を避けるため、同年9月頃ロンドンへ赴き、翌年5月まで滞在した。ロンドンではイギリス風景画の第一人者ターナーやコンスタブルの作品を研究するが、ロンドンで制作した作品は少なく、カタログ・レゾネによれば6点のみである。当時ロンドンに滞在していた著名な画商・デュラン=リュエルともこの時期に知り合っている。モネは1871年5月までロンドンに滞在した後、数か月のオランダ滞在を経て、同年秋にパリに戻り、同年12月、郊外のアルジャントゥイユに転居した。1870 - 80年代 印象派展アルジャントゥイユでは1871年12月から1878年初めまで、6年強を過ごし、この間に約170点の作品を残している。アルジャントゥイユはパリ郊外のセーヌ川に面した土地で、パリへの鉄道が通じ、交通は便利であった。モネは、1863年に完成したアルジャントゥイユの鉄道橋を、しばしば作品のモチーフにしている。1873年12月には、仲間の画家ピサロ、シスレー、ルノワールらと「芸術家、画家、彫刻家、版画家その他による匿名協会」を結成。1874年4月 - 5月にはパリ、キャピュシーヌ大通りの写真家ナダールのアトリエでこの「匿名協会」の第1回展が開催された。後に「第1回印象派展」と呼ばれる、歴史的展覧会である。この第1回展にモネは油絵5点、パステル7点を出品。出品作のうち、『印象、日の出』(1873年)[3]は、「印象派」という名称の由来となったことでよく知られている。なお、一般にはパリのマルモッタン美術館所蔵の絵が、この時の出品作だとされているが、マルモッタンの絵は実は「日没」を描いたもので、第1回印象派展に出品された『印象、日の出』とは別の作品だとする見方もある。また『キャピュシーヌ大通り』(1873年)もこの第1回展に出品したものである[4]。モネは1876年春の第2回印象派展には18点、1877年春の第3回展には30点、1879年春の第4回展には29点の作品をそれぞれ出品している。第2回展には日本の衣装を着けた妻カミーユをモデルにした『ラ・ジャポネーズ』を出品しているが、これは、風景画家モネによる人物画の大作として注目される。なお、カミーユは1879年、32歳の若さで死去している。1877年初頭には、パリのサン=ラザール駅を題材にした12点の連作を制作し、そのうちの8点が第3回印象派展に出品された。アルジャントゥイユからジヴェルニーへ1878年には6年ほど暮らしたアルジャントゥイユを離れ、半年ほどのパリ暮らしを経て、同年8月末、セーヌの50kmほど下流にある小さな村ヴェトゥイユに移転。1881年12月にはヴェトゥイユよりはパリ寄りのポワシーに移っている。この間、モネの家庭生活には大きな変化があった。モネのパトロンにエルネスト・オシュデという人物がいたが、彼は破産し、債権者から逃れるため、5人の子どもと身ごもった妻とを残してフランス国外へ逃亡したのであった。1878年、モネはエルネストの妻アリス・オシュデと6人の子ども(1人は生まれたばかり)を引き取って共に暮らすことになった。モネの妻カミーユには1878年3月に2人目の子であるミシェルが生まれたばかりで、モネは合計10人の家族を養っていくことになった。そのカミーユは前述のとおり、1879年9月に病死している。こうした中、1880年には10年ぶり、かつ最後のサロン出品を行い、1点が入選、1点が落選した。印象派展には、1880年から1886年にかけて開催された第5回から第8回展のうち、1882年春の第7回展のみに出品している。1883年4月、モネはパリの西約80kmの郊外にあるジヴェルニーに移転。以後、1926年に没するまでこの地で制作を続けた。モネはジヴェルニーに睡蓮の池を中心とした「水の庭」、さまざまな色彩の花を植えた「花の庭」を造った。パリ郊外の観光名所として多くの人が訪れるこの庭自体が、自分の「最高傑作」だとモネ自身が言っていたという。モネがジヴェルニーのアトリエでもっぱら『睡蓮』の連作に取り組むようになるのは後のことで、1880年代にはフランス各地に頻繁に旅行して制作していた。1883年12月には北イタリアのリヴィエラを初めて訪問。1886年9月 - 11月にはノルマンディーの小さな島・ベリールに滞在し、断崖の多い海の景色を、異なった天候や光のもとで繰り返し描いた。 円熟期 - 晩年 さまざまな連作1880年代終わりから晩年にかけてのモネの作品は、1つのテーマをさまざまな天候や、季節、光線のもとで描く「連作」が中心になる。ジヴェルニーの自宅近くの農園で制作した『積みわら』[5]の連作は1888年から翌年にかけてのもの5点、1890年から翌年にかけてのもの25点が確認されている。セーヌの支流エプト川沿いのポプラ並木を描いた連作は1891年から制作し始め、23点が知られている。『ルーアン大聖堂』のファサードをさまざまな時刻や季節の光の効果を追求した連作は制作点数30点に及ぶ。これらは1892年と翌年の2回のルーアン滞在時に制作を始めたものだが、「1894年」の年記が入れられている。1895年5月のデュラン=リュエル画廊における個展では、『ルーアン大聖堂』連作のうち20点が展示された。1898年から1901年にかけては毎年ロンドンに出掛け、『国会議事堂』の連作のほか、チャリング・クロス橋、ウォータールー橋などを繰り返し描いた。これらの連作は、現地で制作を開始しつつ、ジヴェルニーのアトリエで入念に仕上げをし、「連作」としての変化も考慮しつつ制作されたものである。この頃のモネは画家として高く評価されるようになり、『ル・ゴロワ』紙が1898年6月16日の日曜版別刷でモネ特集を組むなど、大家として扱われるようになり、収入も安定していた。
2009/01/12
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Rolling Stones - Shine A Lightゴキゲン且つ大満足の映画です。ローリング・ストーンズのファンにとっては堪りませんスタートのジャンピング・ジャック・フラッシュでは泣けて来ました。スコセッシ監督が約20台のカメラを駆使して撮影しておりスバラシイ臨場感です。ノリノリで拍手したり、叫んだりしたくなります。初老のロッカー万歳!!!「Paint it Black」が無かったのが残念です。メンバーはこんな人ブライアン・ジョーンズ(Louis Brian Hopkin Jones、1942年 - 1969年) レコードデビュー時から在籍で、バンドの初代リーダーだった。1969年急逝。 担当:ギター、ハーモニカ(他にダルシマー、マリンバ、シタールなど多くの楽器を演奏。一部の曲でバッキング・ボーカル)。 ※死因については自殺説と事故説、他殺説がある。 ミック・ジャガー(Sir Michael Phillip Jagger、1943年 - ) レコードデビュー時から在籍で、ブライアンの死後、次のリーダーとしてボ・ディドリーに任命された。 担当:リードボーカル、ハーモニカ(曲によってギター、キーボードなどを担当することもある)。 ※2003年12月12日、英国においてナイトの称号を授与される。 キース・リチャーズ(Keith Richards、1943年 - ) レコードデビュー時から在籍。 担当:ギター、バッキング・ボーカル(一部の曲でベースギター、リードボーカルを担当)。 映画ファンならよくご存知ですが、こんなこともしています!チャーリー・ワッツ(Charles Robert Watts、1941年 - ) レコードデビュー時から在籍。 担当:ドラムス。デビュー前からジャズ・ドラマーのキャリアあり。メンバーの中で唯一離婚歴がない。 ロン・ウッド(Ronald David Wood、1947年 - ) 1968年から1969年にかけてベーシストとしてジェフ・ベックのアルバムとツアーに参加。その後フェイセズでギターを担当。1975年、ミック・テイラーの後任としてジェフが誘われるが拒否。ジェフは代わりにロンを薦した。 担当:ギター、バッキング・ボーカル(一部の曲でベースギター他)。 【送料無料】 ローリング・ストーンズ×マーティン・スコセッシ「シャイン・ア・ライト」オリジナル・サウンドトラック / ローリング・ストーンズ
2009/01/11
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大人の遠足(サントリー山崎・アサヒビール大山山荘美術館・司馬遼太郎記念館 ) 大人の遠足 その1お勧めコースです。名神高速道路 大山崎インター下車サントリーに無料駐車場あり。アサヒビールは町営駐車場で有料です。サントリーに預けてアサヒまで歩けます。1.サントリーの山崎工場見学・・・この工場自体が芸術作品でもあります! ウィスキーの香りを愉しむ。 いろんな飲み物を無料や低価格で提供しています。http://www.suntory.co.jp/factory/yamazaki/access/index.html2.アサヒビール大山崎山荘美術館 本物の作品を愉しむ モネの睡蓮・・・完成品かどうか疑問。 タブローの隅が描かれていないのが気になる。白地が残置。 しかし、本物は本物。 ピカソ 浜田正二 などなどhttp://www.asahibeer-oyamazaki.com/collection/western.html この後、宇治の平等院へ行きました。大人の遠足 その2司馬遼太郎記念館・・・・大阪の文化遺産・・・住宅地の中にあります。子供と行けたら最高!http://www.shibazaidan.or.jp/
2009/01/10
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ピエール・バルー確か日本女性を妻にし日本にも住んでいたはず・・・・・・。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ピエール・バルー(Pierre Barouh 1934年2月19日 - )は、フランスの音楽家であり、俳優でもある。経歴パリ生まれ。1966年の名作『男と女』でヒロインの夫役を演じ、一躍有名になった。俳優としてはクロード・ルルーシュ作品の常連だが、バルーは作詞、作曲、歌もこなすシンガーソングライターである。14歳からギタリストとして音楽活動をはじめ、ポルトガルを旅した際にブラジル音楽のボサノヴァに出会い、フランスに戻りボサノヴァを広める。日本においてのフレンチ・ボサノヴァのブームの火付け役も担った。私生活では『男と女」で共演したアヌーク・エーメと1966年に結婚したが、3年後に離婚している。代表作 アルバムピエール・バルーとフランシス・レイ(VIVRE)(1992年) ビブレ~生きる(1996年) ラスト・チャンス・キャバレー(1997年) 1971 Ca Va, Ca Vient 1977 Pierre Barouh 1977 Viking Bank 1982 Le Pollen 1997 Noel 1998 Itchi Go Itchi E: Une Rencontre, Une Occasion 2001 Live at Caldan Theater 83 2006 Sierras 2007 Daltonien 2008 Les Annees Az: l'Integrale des Chansons [CD/DVD] 俳優としての出演作男と女 Un homme et une femme (1966) パリのめぐり逢い Vivre pour vivre (1967) 続・男と女 Un autre homme, une autre chance (1977) 夏の月夜はご用心 Il y a des jours... et des lunes (1990) 愛する勇気 Le Courage d'aimer (2005)
2009/01/08
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キャロル・キング学生時代によく聴きました。昨年、東京オーチャードホールでコンサートしたようでテレビで観ました。おばあちゃんの一歩手前ですが、元気にピアノ弾き語りしていました。カーリーヘァーではなくなっていましたが・・・・・キャロル・キング(Carole King, 1942年2月9日 - )は、アメリカの女性シンガーソングライター・作曲家。本名・キャロル=クライン(Carole Klein)。ニューヨーク市・ブルックリン生まれ、1958年に歌手デビュー。一人目の夫、ジェリー・ゴフィンとの間に生まれた長女であるルイーズ・ゴフィンも、母親同様シンガーソングライターとして活動している。離婚歴二回(最初の夫はジェリー・ゴフィン、二番目の夫はベーシストのチャールズ・ラーキー)。 経歴大学在学中にポール・サイモンからデモ・テープの作り方を教わった彼女は、自分で作ったデモ・テープを売り込んで1958年、ABCパラマウント・レコードからシングル・デビュー。しかしながらその後ABCやRCAなどに残した4枚のシングルは何れも失敗に終わり、一旦歌手としてのキャリアは頓挫することとなる。1960年代には当時の夫ジェリー・ゴフィンとのソングライター・コンビで、「ロコ・モーション」「ウィル・ユー・ラヴ・ミー・トゥモロウ」など後々まで歌い継がれている数々の名曲を生み出した。1960年から1963年にかけての三年間で、ふたりは延べ20曲あまりの全米トップ40ヒットを世に送り出している。彼女自身もシンガーソングライターとして1曲だけこの時期に「イット・マイト・アズ・ウェル・アズ・レイン・アンティル・セプテンバー」という曲で全米トップ40入りを果たしている。しかし、飛ぶ鳥を落とすような勢いもビートルズの全米進出を機に翳りを見せ始め、仕事上の不和がプライヴェートにまで影響を及ぼしたらしく1968年にジェリーとキャロルは離婚する(仕事上ではその後もたびたびパートナー関係を続けている)。1970年代に入ってからはシンガー・ソングライターとしての活動を本格的に開始。1970年にファースト・ソロ・アルバム『ライター』を発表、翌1971年に発売された彼女のセカンド・ソロ・アルバム『つづれおり』( Tapestry )は、グラミー賞4部門制覇、全米アルバムチャートで15週連続1位、その後も302週連続でトップ100にとどまるロングセラーとなる。現在もなお多くの人々に愛され、世界中で延べ2200万枚を超える驚異的なヒットを記録している歴史的名盤である。その中の1曲であるシングル「イッツ・トゥー・レイト」は1971年6月19日から5週連続全米1を獲得している(シングル年間チャートでは第3位)。同じアルバムから「きみの友だち」をジェームス・テイラーがカバーし同年7月31日にシングルチャートで1を獲得している。その後もアルバム『ミュージック』『喜びにつつまれて』、シングル「ジャズマン」など順調にヒットを連発。彼女は1970年代前半から中期を代表するヒットメーカーの一人となり、2つの年代にわたって天下を取ったのである。
2009/01/07
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ベルト・モリゾ(Berthe Morisot、1841年1月14日 - 1895年3月2日)は、マネの絵画のモデルとしても知られる、19世紀の印象派女性画家。マネに絵画を学びながら、彼のモデルを多く務めた。マネとの恋仲を噂されることもあったが、実際は1874年に彼の弟ウージェーヌ・マネと結婚した。1879年に娘ジュリーを出産。モリゾの画風は自然の緑を基調としたものが多く、穏やかで、母子の微笑ましい情景などが特徴的である。男性中心の19世紀における女性画家ということもあって、フェミニズム研究でのアプローチが多い。ルノワールやマラルメとの親交もあった。モリゾの死後、マラルメ、ドガ、ルノワールは16歳で孤児となったジュリーの後見人となる。ジュリーは日記を綴るが、そこではマラルメや印象派の画家たちの日々の様子が描かれている。また死後の回顧展ではマラルメがカタログの序文を書いた。その序文は『ディヴァガシオン』に再収録されている。出典: GOOGL印象主義を代表する画家。また同主義随一の女流画家としても重要視される画家の一人でもある。速筆的で大胆かつ奔放な筆触と明瞭な色彩による絵画様式で、姉エドマなど近親者や身近な知人の人物画や風景画、静物画を制作。特に女性特有の感受性で描かれる母と子、画家の娘などを画題とした作品は、男性の視点では見られない繊細さと穏健さを醸し出している。またモリゾが師事した同時代の大画家エドゥアール・マネの作品のモデルを度々務めるほか、同氏との師弟関係以上の(恋愛的な)感情を持っていたことも指摘されている。1841年、ブールジュ市長であった父と、ロココ美術の巨匠フラゴナールの遠縁にあたる母の間に生を受ける。幼少期に姉エドマと共にジョゼフ=ブノワ・ギシャールの下で絵画を学びながら、ドビーニやギウメなどの作品に影響を受ける。その後、パリに出てバルビゾン派のジャン=バティスト・カミーユ・コローに学び、戸外で制作活動を始める。1864年にサロン初入選後、ルーヴル美術館で模写をおこなっている最中にサロン画家アンリ・ファンタン=ラトゥールの紹介でエドゥアール・マネと出会う。マネに大きな感銘を受け、以後多大な影響を受けるほか、クロード・モネ、ルノワール、カミーユ・ピサロ、フレデリック・バジールなどバティニョール派(後の印象派)の画家たちやエミール・ゾラなどの美術批評家と交友を重ねるようになる。彼らとの交友で次第に独自の様式を確立、その様式の完成は師エドゥアール・マネの作風にも変化をもたらした。1874年、エドゥアール・マネの弟ウジェーヌ・マネと結婚、4年後の1878年には娘ジュリー・マネが誕生。結婚後も第4回印象派展(1879年)以外の全ての印象派展に参加するなど精力的に作品制作をおこなう。1895年死去。
2009/01/06
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街の灯最後の晩餐ならぬ最後の映画鑑賞なら、この作品は「あると思います。」
2009/01/04
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新年あけましておめでとうございます!初詣は奈良県桜井市の日本最古の大神神社へ家族で行きました。縁結びの神様でもあるそうで娘二人にも良い出会いがありますように神頼みであります。病気や学問などいろいろな神様がおられて2時間のハイキングでした。霊験新たかで神様が通る道があるように感じました。何故でしょう?急に温度が下がったから?鳥居としめ縄が存在感あり印象的でした。なお、今回の初詣のきっかけは雑誌SAVVY「奈良の聖地で開運!山歩き」によります。三輪山(大神神社のご神体)の山歩きは三賀日はできませんでした。
2009/01/01
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