「文明の憂鬱」
平野啓一郎 2006/1 新潮社
20
00年から2005年にわたって、著者が雑誌に書いてきたエッセイを一冊にまとめたもので、もともとは2002年に著者最初のエッセイ集としてでたものをさらに増補して文庫本化 されたものである。
著者の作品は
、
1975年生まれということだから、1995年にようやく20歳になったということになる。芥川賞を受賞したのは23歳の時、当時最年少の受賞者であったということである。それこそ、新世代、新人類といわれるべき世代の代表者であるべきだが、他はさておいて、この一冊において、私は、老成した、むしろ保守的で、旧人類的な趣きさえ感じる。
本書は「Voice」誌に2000年1月に書いた「『玩具』と『ペット』」から始まっており、ソニーが1999年11月に25万円で売り出した家庭用子犬ロボット「AIBO」について書かれている。そしてまた、911のことは「既視感」で書いている。ひとつひとつが雑誌の連載で書かれたエッセイだから、全体的にこまぎれだ。ある意味、今でいうところのブログで書かれたものを、まとめたような感じさえする。
僕
らの時代の芥川賞作家というと村上龍がいる。76年「限りなく透明に近いブルー」を「群像」で読んだ時は、僕は22歳。読んだ直後、僕はいよいよ、アレンギンズバーグの「吠える」日本語版がでた、という感想を持った。その翌年私はインドに渡って、あまり日本の出版のことなどわからなくなって、その後の村上龍の作品などほとんど読まなかった。
文学者とか小説家という職業は、それだけの才能と努力にささえられていることは当然のことであろうが、時代の目撃者としての位置もあるに違いない。私は村上龍どころか村上春樹もまともに読んではいないが、時代時代で、その世代の代表的な「語り部」を配置して、そのグランドマークと自分の位置の違いを確認しながら、人生を送っていく、というのも、文学の使い方のひとつであるにちがいない。
平野啓一郎、未知の可能性を秘めた新しき「語り部」として、たくましく、のびやかに、その使命を全うしてくれることを祈る。
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