地球人スピリット・ジャーナル1.0

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2007.10.23
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初読より続く


「芸術とマルチチュード」 <再読> トニ・ネグリ /廣瀬純 2007/05 月曜社 単行本 235p

 どうも最近はまたマルチチュードという言葉が頭の中に響いてきて、それなりにネグリ&ハートの一連の著作の<再読>モードに入っているのだが、やはり初読でも難解だったものは、再読でも難解だ。いくら初心者用の本と言われても、決して読みやすい本ではない。例えば、私がマルチチュードってなんですか、と問われて、はい、この本を読んでください、と、この「芸術とマルチチュード」を教えてあげたら、その人は、マルチチュードを理解するだろうか。それはちょっと期待薄、だと思う。

というよりも、
「マルチチュード(下)」 で翻訳者 のひとり水嶋一憲がいっていたように、ネグリ&ハートの仕事が、「何をなすべきか」という具体的な行動プログラムを<指令語>として発しているものではない、ということを確認しておかなくてはならないのかもしれない。内になにごとかを秘めている読者が、ネグリ&ハートに出会うことによって、単に「なにごと」かとしかいいようのなかったものに、名前をあたえ、形をあたえ、表出されるきっかけをあたえるとするなら、彼らの「友人」としての役目は、十分機能した、ということになるのだろう。

 マルチチュードという言葉はともかくとして、ここにきて、さて「芸術」とは一体なんだろう、と思い返す。芸術、あるいは芸術家、言われると、なんだか高尚な近づきがたい存在にも思えるし、あの人は芸術家タイプだ、と揶揄される時は、社会性を欠いたアウトロー的生き方さえ暗示させる時がある。芸術とはアート。アートというと、どこか透明感が漂うが、アーティストという単語になると、ロックシンガーなどもアーティストと呼ばれるので、一段と身近な存在にも感じられる。

 この5~6年は、テレビ 番組
「開運!なんでも鑑定団」 をよく 見るのだが、画家や陶芸家、作家や音楽家、書家やパフォーマンサーなど、いわゆる芸術家と呼ばれるべき人々の人生のダイジェストが放映されるときがある。ああ、これが芸術家の人生なのか、と思うほど、それはそれはひとりひとりユニークであり、その多様性ははかり知れない。富を築いた芸術家もいれば、生前に作品をひとつも発表しなかった人さえある。あまりに多様であるからこそ、芸術家と呼ばれるのかな、とさえ思う。

 マルチチュードという言葉も多様性という意味を含んでいるのだが、芸術家、あるいは芸術という言葉にも、つねにそのような多様性というニュアンスが含まれているものと思われる。

ねぇ、ラウル、ぼくたちがこの数十年のあいだに生きた革命の意味を、きみに上手く伝えられたのかどうか、ぼくにはわからない。もし芸術がもはや存在しないとすれば、それは、あくまでも、諸々の身体が芸術を再領有化してしまったという限りにおいてのことだ。芸術は、いまや、マルチチュードの諸実践のなかの、ありとあらゆるところに存在するんだよ。諸身体のなかでこそ、芸術はさまざまな新たなメタモルフォーゼ的合成を試みるんだ----なんと多くのことを身体はなしうるのか! こうして、芸術は、慰めであることをやめたんだ。そしてまた、超越的あるいは超越論的ななんらかの極性を表象することも・・・・・。芸術は、生であり、合体であり、労働であり・・・・・。芸術は結論であることをやめた。反対に、芸術は、ひとつの前提条件なんだ。喜びなくして、詩学なくして、もはや革命などありえないだろう。繰り返すけど、芸術は革命に先んじるものなんだよ。  p44

 このブログでも、いくつかの「革命」という タイトルの本を読んできた。
「日本発イット革命」 「IT革命 ネット社会のゆくえ」 「フラット革命」 「エボデボ革命」 「AppleジョブズのiPod革命」 「革命メディア ブログの正体」 「ファシリテーション革命」 「チープ革命」 などなど、数え上げたらきりがないほどの「革命」が進行している。しかし、ネグリ&ハート が言う時の「革命」は、なにかのアナロジーで言われているわけでもなく、セールス・プロモーションで言われているわけでもない。彼らが意味する革命からは、もっと深淵な危険な振動も響いてくるし、もっとも濃厚な芳香が漂ってくる感じさえする。

 しかし、進化であれ、革命であれ、エンライトメントであれ、シンギュラリティであれ、そこにはオメガ・ポイントとしての最終地点があるわけでない、ということはすでに知られている。ひとつの通過であり、通過点であるならば、現在、いまここ、という概念以外に「革命」はないことになる。そして、いまここに生きる私たちが、ネグリ&ハートに触れることによって、感じられるもの、それは何かの目標地点の発見でもなければ、到達可能な目標物の獲得でもないだろう。もし、いまここで、自分の中のなにかの情動がネグリ&ハートによってプロボークされるなら、それで私たちのマルチチュードが発動し始めていると、言っていいのだろうと思う。

革命的でしかありえない出来事。革命的と言う際に、美の観念を経由してそう言う際に、語れるのは、存在構造を変形してしまう効果を伴うほど根底的な大衆アクションだ。この効果は、ひとつの解放的変遷を通じて、自由と抽象との再合成を通じて、生と企投との再合成を通じて、実存の構成を変形してしまうのだ。マルチチュードとしての芸術、つまり、革命によって、市場を超え、存在の超過を決定するためのマルチチュードとしての芸術。  p174

 きたるべき「革命」において、ネグリ&ハートは、イデオローグになろうとしているのだろうか、アジテーターになろうとしているのだろうか、オルガナイザーになろうとしているのだろうか。いまのところは、判然とはしないが、敢えていうなら、これらの三者いずれでもないだろう。彼らを、「革命」の中の、何かの役割を担う人々とみるのでなく、彼、彼ら、ひとりが、ひとりの芸術をもって、ひとりの「革命」を進行しつつある、ひとりのマルチチュードである、と、そう思えれば、この本もすこしは読みやすくなる。今日のところでは、そう思えた。





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Last updated  2009.02.11 19:59:56
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