<初読>よりつづく
「チベットの『死の修行』」
<再読>
ツルティム・ケサン /正木晃 2001/01 角川書店 単行本 241p
★★★★☆
「
吉祥秘密集会成就法清浄瑜伽次第」
「さらに深くチベットの歴史を知るための読書案内」
の中でも、私にとってはもっとも入手しにくい本だ。別途手配中ではあるが、最終的にこの手でめくれるかどうかは今のところ不明。ところが、ツルティム・ケサン+正木
「チベット密教」2000/01
に次の文言があるのを発見。
「吉祥秘密集会成就法清浄瑜伽次第」
は、わかりやすい現代文に解説を加えたかたちで「チベットの『死の修行』」として出版されており、一般読者がチベット密教界最秘かつ最難の修行法を知ることが可能となった。
「チベット密教」
2000 p217
つまりダイジェストだったことがわかった。この「チベット密教界最秘かつ最難の修行法」のマニュアルの本物を、私ごときが不用意に読んだとしても、理解することなどなにもないかもしれないので、かのリスト追っかけ読書としては、今回、このダイジェスト本を再読することで、読了としたい。
さて、 初読時 の自分のメモを読んでみて、一年半前の文章ではあるが、今の自分とはほとんど同じような印象を持っているようだ。しかもOsho関連の 「マイトレーヤ」 の文を引用しているなど、私の態度はほとんど変わりがない(進化していないのか、保守的なのか)。ただ、今回は、らせん階段を一回り上がったようで、これらの本がどのような位置にあるのかが、前よりはうすうす分かってきた。
この本を再認識したことによって、カーラチャクラ・タントラを解説した 「ダライ・ラマの密教入門 」 とともに、チベット密教の奥行きと大きさがわかったということになる。大体の座標軸ができたということだ。チベット密教にはさまざまな修行方法があるようだが、この座標軸の中で把握していけば、より理解が早まるといえるだろう。
ところで 「増補 チベット密教」2008版 の巻末では、上田紀行が「解説」を書いている。
地球を宇宙から見下ろして、宗教の広がりを思い描いてみる。仏教はいま、どこに活きているだろうか。そうやって見てみると、「世界仏教」と呼べるのは、おそらく上座部仏教、禅仏教、そしてチベット仏教だろう。この三つの仏教は、国境を超え、東西の境界を超え、世界に広がりつつある。 「増補 チベット密教」2008版
この上田の文を読んで、いまいち腑に落ちなかった。「『世界仏教』と呼べるのは、おそらく上座部仏教、禅仏教、そしてチベット仏教だろう」という一説が、なんとも納得がいかない。これらのレッテル主義は、青白き学者たちの悪しき習癖だ。禅を生きている地球人にとっては、禅仏教などという言葉はない。チベット仏教を生きている地球人にとっては、チベット仏教なんて言葉はない。上座部仏教を生きている地球人にとっては、さらになにをかいわんやである。
これらの三つが集まって「世界仏教」になるのではない。そもそも「世界仏教」なんてものはない。仏教は本質的に「世界仏教」なのであり、仏教そのものは、基本的には地球人スピリットへと溶け込んでいくべきものである。 それは、いみじくも中沢新一が 「チベットのモーツァルト」 の中で「未来の哲学」と言い放ったものと、まったく同じものであるべきだ。あるいは、私ならネグリの 「マルチチュード」 との融合を夢見る。
上田について 「ブータン仏教から見た日本仏教」 の今枝由郎は「上田紀行氏に関して言えば、私が氏の立場であったら 『がんばれ仏教!』 ではなく『くたばれ仏教!』と題した本を書いたであろう。」p193とまで酷評している。私はここまで上田を罵倒するガッツはないが、 「ダライ・ラマの密教入門」 や今回のこの 「チベットの『死の修行』」 を読んだあとに、上田のダライ・ラマとの対談集 「目覚めよ仏教!」 を読んでみると、なんとも気の抜けたサイダーのような感じがする。読んだ時はとても感動したのに。
「死の修行」は修行者が生きながら死を体験する極限の瞑想法である。性的ヨーガの観想を含む49のプロセスで修行者が得るものは何か? ダライ・ラマが日本刊行を委託した至高の修行の書を翻訳・解説。真のチベット密教の知見に迫る。 裏表紙コピー
地球上「最秘かつ最難の修行法」は、真の意味でまだ紐とかれてはいない。
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