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前々からメールの返信のしなさっぷりには定評のあるあたくし。 なかでも携帯メールは一番の苦手です。 多くの場合、返信の一行を書いて力尽き、保存ボックス行きとなります。(つまり送信されない) しかし、しかしです。 昨年8月に買い換えたケータイメールの今までの受信数が105件て、それ少なすぎだろう!! いつまでも8月のメールが残ってるなあとは思っていたものの、数えてみて愕然とする。 8月ってことは、ほぼ8ヶ月。 8ヶ月で105件て、どれだけ少ないコミュニケーションだよ、おい。 ちなみに大学生の弟に1日何件メールする?と聞いたら、 「少なくて10通、多くて50とか100とかするなあ」 との答え。 ああ、そうですか。あたくしの8ヵ月はあなたの1日ですか(涙)。 えー、若者になんとか追いつけ追い越せということで、 がんばってメールを返信しようと誓った春うらら。
March 21, 2005
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最近、思ってもないことを口に出して言うようになってきている。 【めんどくせえ】とか【だりぃ】とか【お腹すいた】とか。 べつに面倒とかお腹すいたとか思ってないのに、つい言ってしまうのだ。 頭おかしい。 でも、無意識で言っていることが多いので、どうしようもない。 そこで、言ってしまったあと、【うそ】と言うことにした。 【めんどくせえ・・・うそ】 【おなかすいた・・・うそ】 狼少年ピーターみたいだ。 しかし、問題はそんなことより、妙齢の婦女子が、 「○○くせえ」だの、「だりぃ」だのという言葉遣いをすることであろう。 ・・・と気づき、激しく欝。
March 20, 2005
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ある人と食事をしていたときのこと。 何の話をしていたのかは忘れたのだが、 「ルサンチマンのようにそれが鬱屈して・・・」 と言った瞬間、 「うおおおお!!! ルサンチマンなんて言葉10年ぶりぐらいに聞いた」 と噴出して言われました。 「俺はわかるからいいけど、あんまり日常で使わないよね。」 えええええ、そうなの??? ルサンチマン、 ゲゼルシャフトとゲマインシャフト、 囚人のジレンマ、 ステレオタイプ、 神の見えざる手、 欲望の模倣、 想像の共同体・・・etc.etc. とかは、私の中ですごく普通な言葉だったし、日常に使う・・・よね? うーん。アカデミックに毒されているかなあ。 今まで全く意識しないで書いたりしゃべったりしていたのだけど、 私の日記の読者さんもリアルのお友達も、みんな、 これくらいの用語には普通についてきてくれてたしなあ。 そっかー、彼らがすごいってことだったのか。 アカデミックな世界の人じゃないのにねえ。みんな。 ま、友達のレベルが高いってことで。うふ。 と、ご満悦でいたら、そのごはんの後、皇居を歩いているとき、 「わけのきよまろ」という名を初めて知る。 (皇居には「わけのきよまろ」の銅像がある) 一緒にいた人は「まじで知らないの?」と超驚いてました。 友達の知的レベルは高水準でも、あたくしの知的レベルが一番心配です(涙)。
March 19, 2005
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昨日の続き。・・・・・(略)・・・・・しかしながら、実際のジャーナリズムの取材・報道過程において、「事件の背後にあるものを有機的に結びつけ、知的・論理的に再構築する」作業が行われているだろうか。少なくとも100%行われているとはいえないだろう。 では、現実にこの理想を実現するにあたり、何が阻害要因となっているのだろうか。次の三つが考えられる。 A)客観報道の限界 B)組織的な圧迫―ジャーナリズム保護の欠如とコマーシャリズム C)ジャーナリズムの役割をジャーナリスト個人に頼らざるを得ないという構造 以下、A)~C)につき、詳しく論述する。 ====================================================== A)客観報道の限界 リップマンは、メディアが人間の自己決定に与える影響の大きさに注目し、そのためメディアは「個人の自己決定の判断材料を提供する」ようにならねばならないという。この論では、判断はメディアの先の個人にゆだねられるのだから、とすると提供される判断材料は、できるかぎり中立なものでなくてはならないはずである。しかし、「中立」「客観性」などというものが、実際の報道として成り立つだろうか。 リップマンも認めているように、ニュースとは、多量の現実環境の中で、事件として表面化した事実の報道であり、それは氷山の一角である。このニュースを手がかりに、リップマンは背後に存在する氷山を調べろというが、それでは事件(ニュース)にならない事実の存在はどう考えるのか。現実環境に存在する膨大な事実は、それが事件とならない限り、ジャーナリズムの素材となりようがない。現実の事実が存在いかんに関わらず、ジャーナリズムの範囲外となるのである。つまり、そもそものニュースの抽出に、客観性が存在しないといえる。 さらには、ニュースの扱いに関しても、客観性は存在しない。ニュースの扱いは、タイミングと担当者の趣味嗜好に大きく左右される。ニュースは一時に一つ出てくるわけではなく、複数存在する。あるニュースAが出たとき、より大きなニュースBがあれば、Aの扱いは小さくなるであろう。逆に、大きなニュースがなければ、一面トップとして扱われるかもしれない。また、同程度のニュースがあったときは、どのニュースを大きく扱うかは、担当者の趣味嗜好で、ニュースの扱いは決められる。 B)組織的な圧迫―ジャーナリズム保護の欠如とコマーシャリズム 新聞社などの各メディアは、リップマンの言うように、社会的に大きな影響力を持っている。しかし、現実の存在としては一民間企業であり、特に何らかの保護を受けているわけではない。私企業である以上は、利益を稼いでいくことが必須条件として求められる。 特にマスメディアは、人々に広くアクセス可能な媒体として、コマーシャリズムに組み込まれている。スポンサーや視聴者・読者という存在からの影響や介入を受けざるを得ない。「視聴率」「部数」を稼ぐため、ジャーナリズムは、組織的にセンセーショナリズムに走る傾向にある。これはますます競争的になっている資本主義環境の中においては特に顕著な傾向である。 ジャーナリズムが社会的影響力を持ち、それがゆえに社会的機能・使命も担うのだとすれば、ジャーナリズムは単なる私企業としての存在であってはいけない。スウェーデンでは、新聞社は社会的機能を果たすととらえられているために、経営の行き詰まり局面においては、公的資金援助の対象となるそうである。社会的保護が欠如した状態では、ジャーナリズムはコマーシャリズムの影響を排除できず、センセーショナリズムに走るため、個人の判断の材料となる冷静な材料の提供という機能を果たすことはできないといえる。 C)ジャーナリズムの役割をジャーナリスト個人に頼らざるを得ない構造 それでは、ジャーナリズムはどこに存在するのか。現在のところ、それはすべて、ジャーナリスト個々人の倫理観、モチベーション、責任にゆだねられている。つまり、ジャーナリスト個々人が、自分たちの社会的機能に自覚的であるか、社会的機能を果たそうという意思を持っているか、社会的機能を果たす手法に精通しているか、取材や報道過程で起きるリスクに責任をとる覚悟があるかということに左右されてしまうのである。 コマーシャリズムにひきずられて、ジャーナリズムの精神を持たないジャーナリストもいるだろう。表面に現れたセンセーショナルな事実のみを追いかけ、その裏に潜む事実には目もくれない報道は、典型的には、ワイドショーなどにみられる報道方法である。 また、実際問題、リップマンのいう「真実」を汲み取るための「事件の背後にあるものを有機的に結びつけ、知的・論理的に再構築する」作業は、ジャーナリスト個人に膨大な労力をかける。こんな面倒なことをわざわざやりたいと思わない者もいるだろう。手を抜こうと思えば、たとえば発表された会見をそのまま書くことだってできるのである。 さらに、たとえ、ジャーナリストがジャーナリズムの役割に自覚的でジャーナリズムに望まれる社会的機能を果たそうという意思を持っていたとしても、そこには常に個人的なリスクがつきまとう。取材や報道の過程で、何か問題が起きれば、訴えられるのは当ジャーナリスト個人である。自分の取材や報道に責任をとる覚悟が必要なのである。 以上、ジャーナリズムに望まれる社会的機能を阻害する要因について考察した。ジャーナリズムが個人に及ぼす影響の大きさをかんがみるに、ジャーナリズムが持つべき社会的機能は、民主主義の基本となるものである。よって、上記阻害要件が取り除き、ジャーナリズムが本来の役割を果たせるようになるシステム作りが今後の課題である。
March 15, 2005
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ライブドアのニッポン放送買収に伴い、メディアのかたちについて論じられている記事やブログが増えましたね。 メディア論に関しては、学問の世界においても人気がある分野です。 最近、私の中では古典がブームなんですが、メディア論の古典の一つである、高名なジャーナリストで哲学者、大統領補佐官まで務めたウォルター・リップマンの論は、すばらしい洞察に満ちており、彼の活躍した時期から100年近くが経とうとしている今でも、まだ十分通用するものです。 つーか、彼の洞察力に、私はむちゃくちゃ感動しました。 マスメディアだけではなく、民主主義とかについても非常に素晴らしい洞察を行っていますので、もし興味があればぜひ本を紐解いてみてください。 せっかくですので、彼の論を中心に、メディアとジャーナリズムの理想と限界について、書いてみることにします。 ======================================================== 題:ジャーナリズムはどうあるべきか。 ======================================================== W・リップマンは「世論」(1922)で「ジャーナリズムに望まれる社会的役割」に対し、一つの答えを提示している。その答えとは、事件の背後に隠れている現実環境を有機的に結びつけ、知的・論理的に再構築し、人が正しい自己決定を行う材料を提供することがジャーナリズムの役割だ、という論である。 しかし、リップマンのいう「ジャーナリズムに望まれる役割」の実現は、なかなか難しい現実があるというのも事実である。それはなぜか。本論文では、ジャーナリズムが果たすにあたり、阻害要因となっているものが何かを指摘する。 本論に入る前に、最初に、リップマンの論について確認しておこう。 リップマンは、ジャーナリズムに望まれる社会的機能とは、人間が正しい自己決定を行うための判断材料の提供であるという。 その背景として、リップマンは、 1)現実の環境 2)メディア 3)環境イメージ・ステレオタイプ(いわゆる擬似環境)の形成 4)人間の行動 についての関係を述べている。 その関係性を詳しく述べると以下のようになる。 1)世界には、膨大な現実の環境が存在する。 2)メディアは、その現実の環境の中から、事件として表面に現れた一部の素材を元に、ニュースという記号(文字、映像など)を報道する。 3)報道は、人間の頭の中に環境のイメージやステレオタイプ(擬似環境)を形成する。 4)そして、その環境のイメージやステレオタイプをもとに、人間は自己決定を行い行動し、この行動は、最初にあった現実の環境に変化をもたらすのである。 このシステムによれば、メディアが送る報道は、人間の自己決定に重大かつ決定的な影響を及ぼす。逆にいえば、人が正しい自己決定を行うためには、正しいジャーナリズム・メディア報道が必要である。 それでは、正しいジャーナリズム、メディア報道とは何であろうか。それを考えるにあたり、まずリップマンはニュースと真実の関係性に注目する。 リップマンによれば、ニュースと真実とは同一物ではなく、はっきりと区別されなければならない。 ニュースのはたらきは、一つの事件の存在を合図することである。ニュースが伝える事件とは、関連する膨大な事実の中で、たまたま表に表れた「氷山の一角」の事実に過ぎない。 それに対し、事件の裏に隠されている諸事実に光をあて、相互に関連づけ、現実の氷山の姿を描き出したもの、すなわち、再構築された事実関係を、リップマンは「真実」と呼んでいる。 そして、その関連付けの作業をジャーナリズムの役割としている。つまり、ジャーナリズムは、表に明るみに出た事件(ニュース)をただ伝えるだけではジャーナリズムとしての役割を果たさないのである。 本来あるべきジャーナリズムとは、事件の背後に隠れている現実環境を有機的に結びつけ、知的・論理的に再構築する作業なであり、この作業により、ジャーナリズムは、人間の自己決定に正しい影響を及ぼすという社会的機能を果たすことができるのである。 しかしながら、実際のジャーナリズムの取材・報道過程において、「事件の背後にあるものを有機的に結びつけ、知的・論理的に再構築する」作業が行われているだろうか。少なくとも100%行われているとはいえないだろう。 では、現実にこの理想を実現するにあたり、何が阻害要因となっているのだろうか。次の三つが考えられる。 A)客観報道の限界 B)組織的な圧迫―ジャーナリズム保護の欠如とコマーシャリズム C)ジャーナリズムの役割をジャーナリスト個人に頼らざるを得ないという構造 以下、A)~C)につき、詳しく論述する。 (つづく)
March 14, 2005
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