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12月29日(水) テネシー州メンフィス昨日、同じテネシー州のリンチバーグにあるジャック・ダニエル蒸留所から、約5時間かけてここメンフィスに夜到着。大きな街には美味しい和食の店があるはず!と、ここに到着する夜の8時過ぎまで空腹を我慢し、荒れることなく大人しく車に乗っていた息子たち。「日本食レストラン」で探して行ったお店は、店の戸をあけると「はぃ、ぃらっしゃい!」と、なまっていないちゃんとした日本語。スシカウンターの中のシェフに「こんばんわ~」と頭を下げると、あちらも頭を下げる。あぁ、日本人だ。もうこれだけで感動。これは期待できる。 少々高くても気にしない。好きなものを食え!、と子供たちを放流する。疲れてお腹も空いた私たちは、温かい和食にホッとする。元気をもらい、店を出たのは夜9時過ぎだった。そして今日、29日。ここに来た目的は、エルビスでもブルースでもなく、キング牧師の暗殺されたロレイン・モーテル。あいにくの雨だが気にしない。音楽の街は通り抜け↓ 本日のメインへ↓ ここは、キング牧師が滞在した棟の外観だけを残して建て替えられ、今は「The National Civil Rights Museum」(公民権博物館)になっている。モーテルの前の駐車場には、暗殺された夜(1968年4月4日)、キング牧師を迎えに来た友人の車(Dodge)とキング牧師が南部の州を回るときに使っていたキャディラックの2台が置かれ、当時を再現している。キング牧師が銃弾に倒れた場所、宿泊していた306号室の前のバルコニーの手すりには、リースが掛けられている。改装して博物館と合体したモーテル↓ ここが宿泊していた部屋と暗殺現場↓ ↑ 通りを挟んだこの建物が、犯人James Earl Rayがキング牧師を撃ったとされる場所。ロレイン・モーテルの看板には、「I HAVE A DREAM MLK (Martin Luther King Jr.)」とある。さて、博物館の中に入ると、黒人の奴隷時代から一通りの公民権運動の流れ、その中で起こった主な事件が、沢山の写真や展示物で解説されている。アラバマ州モンゴメリーで起こったバス・ボイコットのバスのレプリカ(実際に中に入れる)や、見るだけでも恐ろしいKKKの衣装、キング牧師が暗殺されたときの部屋の内部を再現したもの等、子供にも分かり易く、飽きさせない。ここに来てやっと、開いている博物館にたどり着いた。クリスマスと重なって、ここに来るまでに行った博物館はどれも閉まっていた。ねぇ?ダーリン?この博物館では、ざっと覚えているだけで下記の主要な事件が取り上げられていた。・1954年 ブラウン対教育委員会(詳しくはこちら)・1955年 モンゴメリーのバス・ボイコット(詳しくは↑ )・1957年 アーカンソー州リトル・ロック セントラルハイスクール・クライシス・1961年 フリーダム・ライド・1961年 ミシシッピ大学初の黒人学生転入での暴動・1963年 NAACP(全国有色人種地位向上協会)ミシシッピ支部ディレクターのメドガー・ エヴァーズ暗殺・1963年 キング牧師の「I have a dream」のスピーチのあったワシントン行進・1964年 フリーダム・サマー・1965年 アラバマ州セルマ - モンゴメリーの大行進・1966年 ジェイムズ・メレディス 恐怖への行進最初の2つは、モンゴメリーを訪れたときに書いたので省略。その次からざっとどんな事件だったのかまとめてみたい。・アーカンソー州 リトル・ロック セントラルハイスクール・クライシス:1954年の「ブラウンvs教育委員会」の最高裁判決を受け、教育の場でも人種統合が進められ始めていた1957年9月、アーカンソー州リトル・ロックのセントラル高校へ転入が許可された黒人学生9人が、登校日初日、1000人を超える白人の人種統合反対者と保守派のフォーバス・アーカンソー州知事の出動させた州兵たちによって、力ずくで登校を阻止される。この様子は、テレビや新聞、ラジオ等で大きく取り上げられ、国内外から注目を集めた。アイゼンハワー大統領は、「わが国の裁判所の判決より暴徒の支配が優先されることを許してはならない」との声明を発表。9人の安全を守るため、1200人の連邦陸軍空挺師団を派兵し、同時にアーカンソー州兵を州知事の権限の及ばない連邦軍の指揮下に編成した。11月に空挺師団が去ってからは、学校でも学校外でも嫌がらせと暴力の連続だったという。家には白人父兄によって弾丸が撃ち込まれ、窓ガラスが割られ、この黒人学生らを支援する者たちもターゲットとなった。逃げ出すことなく、強い意志でこの日々を絶えた9人は、後にリトルロック・ナインと呼ばれるようになった。これがこの事件の概要だが、この話には続きがある。一年後の1958年9月、フォーバス州知事は、このまま人種統合が無理矢理推し進められるよりは、リトル・ロック校区の全ての公立高校を廃校にした方がいい、と条例を制定。実際に4つの公立高校全てを閉鎖した。そして教育委員会は、人種統合に賛成寄りの意見を持つ教師・職員44人を解雇。翌1959年12月、連邦最高裁判所からの通達を受け4つの高校全てを再開するまで、公立高校のない空白の一年となった。めちゃくちゃ過ぎてかなり引く。これが時代劇なら、貴様フォーバス!血迷ったか!と切り捨てられるところだ。・フリーダム・ライド(Freedom Rides):1960年の人種隔離禁止をバスターミナルおよび州間の移動に関連するその他の施設にも拡大する、という最高裁判決が下されたことを受け、実際にバスや電車での人種差別がなくなったかどうかを検証するため、黒人7人・白人6人から成るグループ(フリーダム・ライダー)が長距離バス、グレイハウンドに乗り込み、ワシントンDCから人種差別の激しい南部の州の一つ、ルイジアナ州ニューオーリンズを目指した。バスは途中、何度も暴徒の襲撃にあう。特にディープ・サウス(深南部)と呼ばれるアメリカ南部の州は、黒人を殺害しても罪に問われない、警官も知事も白人至上主義やKKKのメンバーが多いという、非常に差別の激しい土地だったため、途中立ち寄るバス停での襲撃は勿論のこと、襲撃されたのに‘治安を乱した’等の理由で逆に逮捕され、アラバマ州では、爆弾まで投げ込まれバスが炎上。炎に包まれたバスから逃げ出したフリーダム・ライダー達は、引きずられ鉄パイプやバットで殴られる等の暴行を受けるが、血まみれになり意識を失った彼らの病院への搬送を救急車が拒否し、地元の黒人たちによって何とか病院に運ばれるも病院側に治療を拒否される。怪我人・逮捕者を出しながらもメンバーを入れ替え旅を続けるが、途中でバスの運転手もそれ以上の運転を拒否。当時のロバート・ケネディ司法長官(ケネディ大統領の弟)がバス会社に電話し、運転手を確保するよう要請。アラバマ州知事にもフリーダム・ライダーの安全確保を要請するが拒否される。事態を聞いたキング牧師がアラバマ州モンゴメリーに飛び、教会で集会を行えば、そこがまたKKKを含む白人至上主義者に包囲され、ついにケネディ司法長官は教会に400人の連邦保安官を派遣する。ケネディ司法長官は、アラバマ州とミシシッピ州の両知事に「州警察が暴徒からフリーダム・ライダー達を守ることを約束するのであれば、連邦政府は、ライダー達が州の人種隔離条例に違反して逮捕されたとしても、一切介入しない」と取引をする。アメリカは自治の権限が高いことから、各州独自の軍隊や警察を持っており、南部の州では、連邦政府が人種統合を進めている中、それに対抗して独自に人種隔離を容認する条例を作っていた。勿論、両知事の言う「人種隔離条例に違反したら逮捕」というのは、連邦裁判所が1960年に出した判決(Boynton v. Virginia)に反するものなのだが。フリーダム・ライダーたちを乗せたバスは、約束通り州警察に守られ暴徒に襲われることなくミシシッピ州ジャクソンに到着したが、そこで白人専用施設に入ったところで逮捕された。色々な資料を読んでみたが、どれも少しずつ違っていたり、話が抜けていたり前後していたり、最初から最後まで全てが載っている資料に辿りつかなかったが、大体の資料がこのミシシッピ州ジャクソンで終わっているので、結局目的地のニューオーリンズには行き着かず、このフリーダムライドはここで終わったものと思われる。このように、権利を持つこととその権利を行使することの間には、まだまだ大きな溝があった。・ミシシッピ大学での暴動:1961年、ミシシッピ大学へ初の黒人編入希望学生が編入申込書を送ったところから始まる。編入希望申込書を受け取った大学側は、「受付期限を過ぎている」「必要単位数を満たしていない」等、様々な工作をしてその理由を作り、編入出来ないようにした。彼は大学を地方裁判所に提訴するが、様々な方法で日程を引き延ばされ、希望学期からの就学が出来なくなった。次に控訴裁判所へ提訴。(地方裁判所からの上訴事件を取り扱う連邦裁判所)控訴裁判所からこの黒人学生ジェイムス・メレディスを受け入れるよう判決が下されるも、まだのらりくらりと受理を引き延ばし編入を阻止しようとする大学に、ついに司法省が介入し、連邦最高裁がこの学生を即刻受け入れるよう判断を下す。ところが、州知事・大学側がこれを拒み、結局今回もロバート・ケネディ司法長官が数百人の連邦保安官を派遣、1961年から大統領となったお兄ちゃんのケネディ大統領も6,000人の軍隊を派遣。大学に集結した5,000人の暴徒との大乱闘となり、死者も出る流血の騒ぎとなる。ミシシッピ大学の学長館の円柱には今もこのときの弾痕が残っている。1962年、ジェイムス・メレディスの編入は認められ、様々な嫌がらせを受けながらも、1963年に無事卒業する。この約5年前のリトル・ロック セントラルハイスクール事件でも大統領が軍隊を派遣し、ここミシシッピ大学でも然り、そして2年後の1964年にもアラバマ州知事ジョージ・ウォレス(今日も人種隔離、明日も人種隔離、人種隔離フォーエバー!のスローガンを掲げたあいつ)が大学の人種統合に反対、校舎入り口に立ちはだかり、また大統領が軍隊を派遣。毎度毎度、大統領や軍隊まで巻き込む大騒ぎとなる。やっぱりディープ・サウスは恐ろしや。ミシシッピ大学は‘Ole Miss’という愛称で呼ばれているが、このOle Missとは、黒人が奴隷として働かされていたプランテーションオーナーの妻の敬称であり、大学のスポーツチームの名前は、Rebels(=南北戦争時の南軍)、マスコットもColonel Reb(レブ大佐)という、こてこての奴隷を使い続けていたかった南軍そのまま。つい最近(2010年だから2年前)になってようやく、この南軍レブ大佐のマスコットを黒いクマに変えたところだ。
2011年10月01日
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12月28日(火) テネシー州リンチバーグ 朝、外に出ると、冷たく澄んだ空気と抜けるような青空が待っていた。深呼吸し、この気持ちの良い天気を全身で感じる。 大好きな一瞬だ。今日は、テネシーウィスキーのジャックダニエル蒸留所へ向かう。蒸留所のあるところは水も空気も綺麗だと聞いていたが、 蒸留所に着くまでの20分ほどの道のりも、うっすらと雪をかぶりこんなに気持ちがいい。 - Jack Daniel Distillery - 到着して車を止めると、そこは、薄く雪化粧した敷地内を小川が流れ、その小川から湯気が立ち上る、木々と静寂に包まれた別世界だった。 見学ツアーを申し込み、待っている間、受付の建物の中の展示物を見て回る。出迎えてくれたのは、ジャック・ダニエルの像。あとで回るツアーで、ガイドのおじさんが教えてくれたのだが、このジャックさん、等身大なのだが、足がかなり小さかったそうで、足を実寸で作るとバランスがとれず倒れてしまうので、足だけは実際より大きく作られているのだそう。そして製造工程の展示説明や、ジャックダニエルのラインナップ、ここを訪れた人たちのサイン帳等がある。サイン帳を見ると、全米各地はもとより、外国からも訪れている人たちがいるのがわかる。酒好きなんやな~とニヤけてしまう。そしてここに並べられているジャックダニエルの中に、海外には出ない‘グリーンラベル’というのがある。アメリカ国内でも限られた州でしか売られていないという。お馴染みのブラックラベルと全く同じ工程で作られているのだが、最後、樽を寝かせるバレルハウスでの寝かせる場所が違うため、味がブラックラベルに比べ軽くなるのだそうだ。これもあとで回るツアーで、実際に見学しながらガイドのおじさんに聞いたのだが、バレルハウスの中は高い吹き抜けになっていて、樽がマンションのように並べられているのだが、下の方に寝かされる樽がグリーンラベルになる、って言ってたような…。(あれからほぼ一年経っているので、もう忘れてしまった。ちなみに今日は2011年11月29日)ツアーガイドをしてくれたおじさんは、もちろんここの従業員だが、彼はこのグリーンラベルが一番好きなのだそうだ。炭の風味が薄くて良い、とかなんとか。 そうこうしているうちに、ツアーの時間が来た。外に出て、バスに乗り込む。バスに乗るのは最初だけで、あとは歩いて敷地内を回る。到着したのはここ、ろ過で使う炭を作るところ。炭一つから「自分たちの手で作る」ことにこだわる、と言っていた。綺麗に積み上げられたシュガーメープルの木をこんな風に焼き、出来上がったのが、下のまだ湯気の上がる炭の山。ここで、ツアーに参加したみんなの写真をガイドのおじさんが撮ってくれるのだが、後日ジャックダニエルのホームページに載せられ、ただでダウンロード出来るようになっている。大勢で写っているのがその写真。 そして次に行ったのがここ、ジャックダニエルの水。この湧き水で作られる。 ↓その前に立つジャックさん。 ここからは、写真撮影禁止ということで、残念ながら写真なし。次に寄ったジャックのオフィスでは、ジャックの生涯について色々な話を聞く。彼は敗血症で亡くなったのだが、その原因となったのがここに置いてあった金庫。短気な彼は、金庫がなかなか開かないことにイラついて、金庫を蹴り、その時の傷が敗血症につながったという。 短気は損気って言うけれど…恐ろしや~。 ジャックダニエル=足が小さくて短気次の何棟かの建物では、とうもろこしやライ麦等で作られるビール(これがウィスキーになる)、イースト菌で発酵してブクブク泡立つ大釜、炭でろ過しているところ、などを見学。もう、部屋中に充満する香だけで酔いそうだ。こうして出来上がった酒の素を 一つ一つ職人が手作りした、ホワイトオークの樽に入れ、バレルハウスで寝かせて熟成させる。一つの樽で、ボトル約240本分あるそうだ。そしてここでは、樽を丸ごと買うことも出来る。出荷OKとなった樽は、一つ一つ職人が試飲するのだが、その際特に、色・味・風味の良い樽は、樽ごと買う客のために取って置くのだそうだ。もちろん、その時期に合わせてここに来て、職人と一緒にどの樽にするか、自分で決めることも出来る。お値段一樽$9,000~$12,000、ボトルに計算すると、一本$35~$40。値段に幅があるのは、樽によって出来上がる量が違うことと、住んでる場所の税金が違うから、ということだ。どの樽にするかが決まったら、中のウィスキーは全て750mlのデカンタに手作業で詰められ、デカンタには、樽番号、バレルハウスの棚の番号、ボトリングされた日付が入るそうだ。素敵。そしてもちろん、樽自体も、蓋がカスタマイズされて自分の物になる。なんて素敵。酒が飲めたら絶対買ってる。きっとこんな性格だから、神様が一滴も飲めないようにしたんだろう。合掌。全て見終わり、バーカウンターのある建物に来た。ここで試飲できる!?とちょっとワクワクしたが(下戸なのに)、水のサービスだった。な~んだ。ガイドさんも残念でした~と笑いながら付け加えた。「ここはdry countyなんだよ。」へ?dry countyって、酒を売れない禁酒郡のこと?ここで作ってますけど?キョトンとする私たちに、「そうそう。だから酒屋もないしね。唯一この部屋の角の小さなショップだけが、この辺りで酒を売ってるところなんだよ。」特区かいな、とぼやきながら、そのショップに入ってみた。そこでは、確かにジャックダニエルを売っていたが、国内消費オンリー、しかも国内でも売ってる州と売ってない州があるという、ガイドのおじさんお勧めのグリーンラベルはなかった。これが一番お土産にいいのに…、と酒好きの姉のダンナ様を思い浮かべる。テキサスにだってあるかどうか分からない。これはもう、一番近い酒屋を見つけて買って行くしかない!次の目的地に行く途中、酒屋に寄るぞ!と、と、ここを出て、まずこの小さな町の土産屋の並ぶところへ行き、お酒以外のお土産を物色。 ↓ ウィスキー作りに使われた炭を、BBQ用のパックにして売ってたり、ジャックダニエルの入ったBBQソースやら調味料色々。マグカップ、Tシャツ、樽のテーブル、ロゴの入ったバイクなどなど、それはもう、ありとあらゆる物が売られていた。その中の一つ、樽で作られたチェスで遊ぶ息子たち。(右下)熟成に使う樽は、一度しか使わない。一度きりの出番の樽は、こうして色々なものに形を変え、マニアの元へ行く。そうそう、タバスコ工場にも行くんだった。タバスコ工場では、この使い終わった樽が、タバスコの熟成用に使われる。う~ん、なんだかここで思いがけず今回の旅がつながった。ジャックダニエルの樽で熟成するタバスコ。素敵。 そして、美味しいと聞いたレストランで昼食をとり、酒屋を探しながら、次の目的地メンフィスへ向かう。ここの料理は、‘うちの畑で採れた’野菜を使った料理。私はこの、‘うちの畑で採れた’シリーズにめっぽう弱い。ここの郷土料理も多く、どれも美味しそう。店の人が、多過ぎると思うよ、と止めるほど注文した。確かに多かったが、どれもこれも味見してみたかったし、残ったものは持ち帰れるので、移動中の車の中で食べれば良い、と構わず注文を通した。 「Cattyawmpus Restaurant」メンフィスは、ここから車で4時間半。どう考えても、到着は夜になる。道路が凍結しないことを祈って、早く酒屋を探せ!と携帯を駆使しながら、ようやく小さな酒屋を見つける。そして発見、グリーンラベル!テキサスにないかもしれない、と何本も買ったが、帰って来て酒屋を見に行くと普通にあった。
2011年09月01日
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気付いたら、明日からもう9月。チビに言われてさっき知った。 あぁ・・・。冬の旅行からこの夏休みが終わるまで、色々あったが、とりあえず順番にいってみたい。12月26日(日)、アラバマ州のモンゴメリーとバーミンガムで公民権運動の史跡巡りをし、ジョージア州アトランタへ3時間の移動。夜8時ごろ到着予定。途中、雪が積もっていて、子供たちは休憩の度に興奮しながら雪遊びを楽しんでいたが、こちらは、チェーンなしでたどり着くのか、日が傾くにつれ不安になる一方。でも周りの車を見ても、一台も雪道仕様の車はいない。ほんま~??と疑いながら3時間。 何とか無事にたどり着いたが、明日は、CNNとWold of Coca-Colaを見学した後、さらに北のテネシー州へ向かう。ニュースを見たら、全米すごい寒波で飛行機の便もめちゃくちゃ。とりあえず明日は、タイヤチェーンを買ってから出発しよう。明日は、今日と打って変って軽~い楽~な一日。コーラの博物館では、世界中のコーラ飲み放題もある。少しは気分も晴れるだろう。もちろんアトランタにも、公民権運動関係の史跡は色々ある。キング牧師の生家・お墓・博物館・教会。南北戦争時の南軍(奴隷制存続を主張)司令官3名が彫刻された、ストーンマウンテン。当時のプランテーション農園主の生活ぶりが見れるプランテーション園。(奴隷小屋もある)「風と共に去りぬ」の作者マーガレット・ミッチェルの家・墓、などなど。だが、まだ他でも公民権運動関連の施設を見学する日が取ってあるので、ここでは楽しい時間を過ごすことにした。「風と共に去りぬ」については、この旅行に出る前に、映画好きの我が母サザエに「まぁ!いいじゃな~い。お母さんも行きたいわぁ。」と言われたが、「何がええねん。 黒人奴隷使って好き放題してたわがまま女の一生なんか、どうでもええわ。 何3回も結婚してんねん。勝手に落ち込んどけ。 こいつの辛い・悲しいは、黒人の辛い・悲しいとは次元が違うっちゅーねん。あれがええ、って言うヤツらの気が知れん。 あんなもん、グレートギャッツビーよろしくただの昼メロじゃ。」と噛み付いてしまった。明日見学予定のCNNビル。アトランタは都会だった 夕飯は、寒いし心も体も疲れたし、ホテルの裏のアメリカ~ンなハンバーガーショップで。そしてまたコーラでシュワ~。 炭酸生活は、アメリカから出るまで続くのだろう。12月27日(月)まずはCNN。ここではツアーを申し込み、ガイドの説明を聞きながら、実際にオンエア中のニュース番組をガラス越しに見学したり出来る。あ~!テレビに出てるあのアナウンサーだ~!と興奮したり、アナウンサー希望の女性は、アメリカでは実はあまりいないとか、なまりのないイリノイ州出身のアナウンサーを採用することが多い等の、へぇ~な話を聞けたり、本物の機材を使ってお天気お姉さんの真似が出来たりと、色々面白い。 そして子供たちお待ちかねのWorld of Coca-Cola。 世界の味が飲み放題のコーナーでは、北米・南米・ヨーロッパ・アジア・アフリカの色んな国のオリジナル味が楽しめる。コーラだけでなく、ファンタ等、ほかのジュースもある。日本のコーナーでは、Qooとあと数種類あったような…。余りにも色んな国のを楽しみ過ぎて、どこの国の何が美味しかったのかも、もう覚えていない。子供たちは、もちろん大興奮。2人とも親など眼中になく、夢中であちこち歩き回り、飲みまくっていた。ときどき「まずっ!」と言って、捨てているのもあったが。(ちゃんとお口に合わなかったとき用に、飲み残しを捨てれるようになっている。) そして、普通味のコーラが飲めるコーナーもちゃんとあり、子供たちは散々色々飲みつくした後そこに行き、「やっぱり普通のが一番美味しいわ…。」と終了。出口で一人一本、コーラのお土産をもらって、ギフトショップでお買い物し、パラダイスを後にする。 さて、楽しかったアトランタを出て、次の目的地、ウィスキーのJack Daniel蒸留所のある、テネシー州リンチバーグへ向かう。そこへは、車で4時間のドライブになる。ちょうどその中間辺りにあるチャタヌーガという町で、休憩がてら観光し、夜リンチバーグに到着予定。、とその前にタイヤチェーン。出来ればアトランタで買ってから出発したい。どんどん北上し、小さな町へ行く。ここで買っておくのが賢明だろう。なのに・・・。どうしてだ、どこへ行っても売っていない。店の人に聞いても、「うちには置いてない」「あそこの店ならあるかもよ」と言うばかり。言われた店に行っても、やっぱり「うちには置いてない」。え~? なんで~~?と聞くと、だってこの辺では必要ないんだもん、と言う。アトランタで買うのはあきらめ、テネシーへ向けてとりあえず出発する。北上して行けばもっと寒くなるし、置いてる店も出て来るだろう。休憩地に選んだチャタヌーガが、ジャックダニエル蒸留所に着くまでの、唯一まだ大きな町。アトランタに比べるととても小さいが、周りはもっと小さい。ここでは、鍾乳洞とそこに落ちる滝が見れるRuby Falls、7つの州(アラバマ・ジョージア・ケンタッキー・ノースキャロライナ・サウスキャロライナ・テネシー)を見渡せる岩盤むき出しの山Rock City、淡水魚を扱う水族館では世界最大というテネシー水族館、のいずれかに行く予定にしていたが、もうここは、どこも雪が積もっている。観光、休憩よりも何よりも、まずタイヤチェーン!と店を探す。が、しかーし!どこにもない。言うことは皆同じ。「置いてない」「あっちの店ならあるんじゃない?」でも何軒回ってもないではないか。なんでないんだ!と、ここでも聞いてみたが、「必要ない」とのこと。挙句の果てに、「タイヤチェーンとかもう何年も見たことない。」と言う始末。え? だって雪積もってるじゃん! 道も夜は凍るでしょ?!と食い下がっても、「ここ数日だけだよ。 これは特別。 すごい寒波が来てるから。」そうでっか。結果、チェーン探しに時間を費やし過ぎて観光なし、チェーンもなし。ほんまかいな。ま、子供たちも、車屋見つけて降りる度に雪遊び出来たし、ほんまに道路が凍る前に、ちょっとでも早く行ってまお!とドライブ続行。すまんのぉ・・・。 約2時間後、無事リンチバーグ到着。そう言えば、私たちが住むテキサスでも、オットが社員旅行でオレゴンにスキーに行くからと、スキー用品だったかスキー靴だったかを買おうとしたが、「そんな寒いところの物は、テキサスには置いてない」と言われ、呆気なくお買いもの終了となり、自転車レースに出るので耳あてを買おうとしたら、またまた「そんな寒いところでしか使わない物は、テキサスにはない」と言われて終わったらしい。大きな国って意外と不便。
2011年08月01日
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早く続きを…!と思っていたのにあっという間に夏の旅行も終わり、夏休みも終わった。あれま。ということで、急いで12月26日(日)の旅の続き。この日の3軒目「Dexter Avenue King Memorial Baptist Church」(Martin Luther King Jr.が牧師を務めていた教会)で、思いがけず礼拝に参加することが出来、本物のゴスペルに感動し、キング牧師も立ったであろう祭壇で27代目・Michael Thurman牧師のする説教を聞くことが出来た。ピアノにベースやドラムの加わったゴスペルは、本当に素敵で映画のワンシーンのようだった。悲しい過去を持ったこの人たちの歴史を思うと、素敵だの感動だのと言う言葉は不謹慎かもしれないが、それでも私は、彼らの歌を聞いて感動するし、サーマン牧師の話に深く頷き、こうして礼拝に参加出来たことを心から幸せに思い、ここに来れたことに感謝する。全部が休館で、なんだそりゃな予定を立てたオットに感謝だ。これがなければ、少しでも時間がずれていれば、私たちはこんなに素晴らしい経験は出来なかったのだから。これで全てチャラだ。ううん、それ以上。そしてこの日、ここでゴスペルを歌っている聖歌隊のCDが完成し、発売を開始するという。もちろん購入。これがそのCDと歌詞の書かれた赤い紙。ジャケットの裏は、この教会、聖歌隊に大いに貢献した、Martin Luther King Jr./Joe Boyer/Zachary Pettway/Rannie McCall の4人の似顔絵が入っている。ここからは、このCDを聞きながらのドライブになった。こうしてやっぱり全てに感謝。そして4軒目「Martin Luther King Jr. Home」こんな名前が付いているが、彼個人の家ではない。この教会に赴任してきた牧師のために用意された住居で、キング牧師は、教会に赴任し、バスボイコットの中心となって活動していた1954年から1960年まで住んでいた。今も家の前のポーチには、公民権運動に反対する者によってしかけられた爆発物の爆発の跡が残っている。現在一般公開されており、見学ツアーがあるが、もちろん今日は休館。でも怒らない。さっきの礼拝も、オットのダメダメな計画のお陰。全てを帳消しにする、素晴らしい経験だったのだ。写真だけ取って、バーミンガムへ移動。 覗いたって休館ですから。ここから車で1時間半でバーミンガム。そしてここでの1つ目「Civil Rights Institution」へ。 もちろん休館。写真だけでも、と撮っていると、近くに止めた車から呼びかけられた。「Civil Rights Institutionに来たの?」「うん。だけど休みだね~」と車の側に行くと、中には若い白人のカップル。「僕たちもここが見たくて来たんだけどね。 今日は寒いし、仕方ないから映画でも見に行くよ。写真撮るんだったら、あっちが正面入り口だよ。」と親切に教えてくれて去って行った。クリスマス休暇に白人の若いカップルが来るなんて、感心だ。ちょっと嬉しい気持ちになる。次は、この向かいにある「16th Street Baptist Church」。1963年9月、公民権運動が盛り上がる中この教会にダイナマイトが仕掛けられ、日曜学校に来た黒人少女4人が犠牲となった。この犠牲者の一人、デニーズ・マクネアの友人は、後に米国国務長官になる。2005年~2009年を務めた、第66代、コンドリーザ・ライスだ。 ここのツアーも今日は休み第二次世界大戦後から1960年代半ばにかけて、ここバーミンガムでは人種偏見に基づく爆破が40件以上もあり、どれも未解決だった。警察を始め州知事までもが人種差別を率先して行う土地。全てがうやむやにされて当然だろう。だが、当時アラバマ大学法学部に在籍中のWilliam Baxley(*)を始め、この状況をおかしいと感じ、恐れることなく一緒に立ち向かう白人がいたことは、大きな救いだ。公民権運動を学ぶ私たちも、ともすれば、白人はそんなに偉いのか?と反対に偏見の目で白人を見てしまう恐れもあるが(実際色々知っていくうちに、そんな風に思えて来る)、そんなとき、身の危険も顧みず全力で立ち向かった白人(そのために命を落とした人も多数)、そして今の私の白人の友人たちを思うと、そんなモヤモヤも「違う違う!」と払拭することが出来る。だが本当に、そんな彼らがいなければ、今頃私は偏見に満ちた目で周りの白人を見ていたかもしれない。それくらい、彼らのしてきたことは酷く、非暴力の黒人に暴力をふるっているとき、座りこみ運動をする黒人に嫌がらせをしているとき等の彼らの顔、そしてその様子を周りではやし立てている白人ギャルたちの顔は、卑劣で浅ましい。つい「お前はそんなに偉いんか」とパンフレットや博物館のパネルに向かってぼやく。…あぁ、心が狭い私。妻と子が在宅中の自宅を爆破されても、キング牧師は「敵をも愛し、好意を持って接する」と言ってのけたのに。* この教会爆破事件に大きなショックを受けたWilliam Baxley は、大学卒業後、27歳で史上最年少の州司法長官となり、1971~1979年の2期を務めた。州司法長官となった彼は、教会爆破事件の再調査を開始。が、FBIの資料が閲覧禁止になっていたり、KKK(過激な白人至上主義団体)から脅迫状が届いたり、そして事件から10年も経っていたこともあり、調査は簡単にはいかなかった。KKKから届いた脅迫状に対して彼は、州の公式書面で「My response to your letter of February 19, 1976, is--kiss my ass」と返したというが、本当か。 とても素敵。*「1976年2月19日付けのあなた方の手紙に対する私の返事は、クソくらえ、だ」そしてとうとう彼は、1977年、KKKの一員である容疑者一人を 有罪に持ち込むことに成功する。2000年5月になってようやくFBIは、この教会爆破事件はKKKの分派の犯行と公表。先に逮捕された一人のほか三人の有罪を主張、内一人は既に死亡していたが、残りの二名を逮捕。少女たちの死から40年近く経っていた。この教会の側にKelly Ingram Parkという公園がある。ここは、1960年代の公民権運動中の、大規模なデモの中継地点や集会場所として使われていたそうだ。公園の中には、1963年にここで起こった、警察と消防による迫害の様子を再現した彫刻がある。大人子供関係なく、大量の逮捕者と消防隊からの放水、警察や警察犬による暴行を受けた、その様子だ。 消防の放水 彼らの重い歴史を思いながら、次の訪問地、ジョージア州アトランタへ向かう。ここから3時間。 車の中は静かだ。皆それぞれに何かを思う。着いたら夕飯を食べて寝るだけだ。明日は、CNNとコカコーラ博物館へ行く。
2011年04月01日
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12月26日(日)今日は、アラバマ州モンゴメリーにある公民権運動関連の博物館や史跡を4つと、そこから車で1時間半のバーミンガムに移動し、同じく博物館等3つを回る。モンゴメリー・Rosa Parks Library and Museum・Civil Rights Museum・Dexter Avenue King Memorial Baptist Church(Martin Luther King Jr.が牧師をしていた教会)・Martin Luther King Jr. Homeバーミンガム・16th Street Baptist Church・Kelly Ingram Park・Civil Rights institutionさて…、と今日一日の重い内容をきちんと見る覚悟を決め、宿を出る。一つ目は、その後大きく全米に広がっていた公民権運動の波の発端となった、バス・ボイコット事件のローザ・パークスという黒人女性の博物館「Rosa Parks Library and Museum」。トロイ大学の一角がそうだ。彼女は、仕事帰りに乗ったバスで、白人に席を譲らなかったことから逮捕された。人種分離法が施行され、日常生活のあらゆるところで、黒人は隔離、差別されていた。バスの席、レストラン、お手洗い等、全てが白人と黒人と分けられていた。当時のアラバマ州知事ジョージ・ウォレスの掲げたスローガンが、「今日も人種隔離。明日も人種隔離。 人種隔離フォーエバ~!」。…言葉が出ない。「今日もビーサン♪ 明日もビーサン♪…」と歌いながら、ビーサンを飛ばしていた私たちとのこの違い。(↑知る人ぞ知る「まるげのビーサン」という歌)彼らは、今日も隔離、明日も隔離だったのだ。そんな状況下、彼女が逮捕されたことをきっかけに、モンゴメリーの黒人指導者達が立ち上がり、当時75%以上を占めていた黒人のバス利用者に、バスに乗らないよう呼びかけた。この運動の代表に推されたのが、今日3つ目に行く予定にしている教会に赴任したばかりのキング牧師=マーティン・ルーサー・キング・ジュニアだった。黒人たちは、皆で車にぎゅうぎゅう詰めになって乗り合わせたり、歩いたりしてこれに応え、バスを運営するモンゴメリー市は、経済的に大きな打撃を受ける。ローザ・パークスは、条例違反の判決を受け罰金刑を受けるが、バス車内の人種分離の条例自体が違憲であるとして控訴。1956年、最高裁の違憲判決を以て、一年続いたバス・ボイコットは収束する。そして、公共交通機関における人種差別は禁止されることとなり、ローザ・パークスは「公民権運動の母」と呼ばれるようになった。というのが粗筋だが、バスの中の黒人席がなくなっても人種差別がなくなったわけではなく、この後も差別は続く。だが、この勝利がアメリカ中の黒人たちを刺激し、大きな公民権運動のうねりとなって全米に広がっていく。そしてキング牧師は、これを契機に全米各地での運動を指導するようになる。もちろん、それまでも黒人とその支持者たちは、すでに長年にわたる闘いを続けていたが、アメリカでは、ここから始まるキング牧師ら主導の活動を公民権運動と呼ぶことが多い。またこの公民権運動は、キング牧師らの非暴力抵抗運動と、黒人弁護士チャールズ・ハミルトン・ヒューストンやサーグッド・マーシャルをはじめとする弁護士たちの尽力という、2本の柱により成果を上げていき、1964年の公民権法成立につながっていく。サーグッド・マーシャルは、1967 年リンドン・B・ジョンソン大統領の指名により、最高裁判所判事となった。さて、この博物館には、当時の古いバスが置いてあり、バスの窓がスクリーンとなって乗客の姿を映し、ローザ・パークスがバスに乗ってから逮捕されるまでのストーリを バスの周りに集まった野次馬の視点で見れるようになっている、らしい。白人乗客の不平、運転手の言動、周りの乗客の反応までリアルに見れる…らしい。えぇ、「らしい」のです。だって私たち、入れなかったんですもの。それはなぜか。それは、この日が12月26日(日)だから。クリスマスだからか、日曜日だからか、そんなことこの際どうだっていい。なんでその日に開いてるかどうかをチェックしなかったのか。クリスマス時期は、閉まっているところが多いから、チェックは絶対だと分かっていたはず。しかも日曜。公民権運動に関してのスポットは、オットが計画を立てた。私は、下調べの段階で、あまりの内容の重さに疲れ果ててしまっていた。調べれば調べるほど気分は沈み、行くのが嫌になるのだ。色々な博物館や史跡のリストアップまではしたものの、どれをどの日に、どの順番で見るかは、オットに任せたのだった。その結果、どこも閉まっているクリスマスの25日だけ、ビーチで遊ぼう!となったのだが?…え゛ぇ~っ?! あり得へ~ん!と心の中で絶叫しながらも、旅程を立てることに不慣れなオットに任せた私も、そこだけはチェックすべきだったと反省。でもこれって、もしかして…。そのあと回る予定のほとんどは、休館じゃないの~?!「ちょっと~?!」の一言に全ての不満を込め、オットを見ると「ごめんなしゃぃ…」と小さくなっていた。ここで怒っても仕方ない。これもネタ、と気分を切り替え、せっかく来たんだから写真だけでも!と写真撮影。 ↑建物の入り口につながる通りは、「Pathway of Honor」と呼ばれ、敷き詰められたブロックは、ここをサポートするために1つ100ドルで売られており、買った人は、自分の名前を入れられる。↓壁にはローザ・パークスやボイコット運動をする黒人たち めちゃくちゃ寒い真冬日。中に入れず、体は冷え切っていた。さぁ、次に行こう。といっても、そこも休館間違いなしだが。今日の2つ目、「The Civil Rights Memorial」(このホームページには、全米にあるいまだに活動しているKKKを始めとする過激派グループのリストや写真も掲載されており、見るだけで恐ろしい)途切れることなく水が流れるこの水盤には、1954年の Brown v. Board decision/ブラウン対教育委員会(*)から1968年のキング牧師暗殺までの公民権運動の功績と、その間犠牲となった人々の名前が刻まれている。そして背後の壁面には、キング牧師が用いた有名な言葉が彫られている。"Until justice rolls down like watersAnd righteousness like a mighty stream"「公儀を水のように、正義をいつも水の流れる川のように流れさせよ」(アモス書第五章24節)慰霊碑の側に無料のパンフレットが置かれており、公民権運動と犠牲者たちの写真入りの略史になっている。そしてこの慰霊碑の横には、Civil Rights Memorial Centerがあり、教育活動用のシアターや教室などがある。 *Brown v. Board decision/ブラウン対教育委員会1954年、それまで「Separate but equal」(分離するけど平等)という、矛盾大有りの制度的人種差別が行われていたアメリカの教育システムに、白人と黒人を隔離すること自体が違憲であるとの判決が下った歴史的判決。カンザス州のトピカという町で、子供を家の近くの学校に通わせたいと思った数家族が、そこが白人専用の学校だったため入学を断られ提訴。同様の訴訟が各地で起こり、最高裁審理の際に一つにまとめられ、Oliver Brown牧師が原告団団長だったため、この裁判は、彼の姓Brownで呼ばれることになり、Brown vs Board(ブラウン 対 教育委員会) decision(判決)と呼ばれている。バス・ボイコットでもそうだったが、これで学校での差別がなくなったわけではない。彼らの長い道のりは、まだまだ続く。今日の3つ目「Dexter Avenue King Memorial Baptist Church」。州庁舎と目と鼻の先にあるこの教会は、Martin Luther King Jr.が牧師として赴任してきた教会で、モンゴメリーで2つ目に古い黒人バプテスト教会。ここで彼は、1954年~1960年の間牧師を務め、バス・ボイコットを組織し、公民権運動の中心になっていく。 この教会には、中を見学させてくれるツアーがあるのだが、時間や曜日が決められており、私たちが行った日は、もちろんチェックしていなかったため(誰かさんが)やっていなかった。でも教会は、大体どこでも礼拝をしている時間でなければ中に入ることが出来るので、少しでも中を見れたらいいな~と淡い希望を持って行ってみた。写真を撮ったり、外の案内などを見ていると、礼拝があるのかどんどん黒人の信者が集まって来た。あ~こりゃ信者じゃないし、礼拝があるなら入らない方がいいな~と思っていると、来る人来る人「中に一緒に入りましょ!」と声をかけてくれる。信者じゃないの、と言っても、構わないから!と言ってくれ、オットもトイレに行きたいと言いだし中に入ることに。そしてなんと、一緒に礼拝を受けた。その礼拝がなんとも素敵な(と言ったら不謹慎かもしれないが)もので、本当にここに来れたことを幸せに思った。讃美歌は、映画で見る様なゴスペルで、ピアノ・ベース・ドラムの生演奏で歌われ、みんなプロ?と思うほど上手く、全員がホイットニー・ヒューストン状態。牧師ももちろん歌うのだが、それがまたやたらと上手い。生演奏をバックに歌うようにしゃべったり。ちょうど、歌の間奏で歌手がセリフを言うような、そして気付いたらそのまま歌に入ってる、というような。ラップ?!と思ってしまうような。声は低くしわがれていて、ルイ・アームストロング。礼拝では、ピアノやパイプオルガンだけの演奏しか聞いたことがなかったが、ベースにドラムが加わり、全くの別世界だった。ルイ・アームストロング(牧師さん)の話も良かった。「待つ」ということについて話された。人は「待つ」ことをしなくなった、と。数分間そのことについて色々話され、最後は、「インスタントコーヒーをいれるのをやめ、たまには美味しいコーヒーが落ちるのを待つ、その「待つ」時間を楽しんでみてはどうか。」とくくった。
2011年01月07日
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書くのが遅すぎたようだ。冬の旅行1から、実際の旅行日に合わせて、日付をさかのぼって2・3と書いたが、2月になった途端、12月の日付では書けなくなってしまった。今日からもう2月なんだと、今気付いた。早い。日付は違って前後するが、旅行の日記を続けよう。ここからは、新しいメモリーに入った写真がある。12月25日、クリスマス。この日は、クリスマスでどこも休みだとわかっていたので、ルイジアナ州ニューオーリンズからミシシッピ州を通り、次の目的地アラバマ州モンゴメリーに行く途中、フロリダとアラバマの州境付近のビーチで遊ぶ予定にしていた。ビーチならクリスマス休みも関係ない、そう思っていたのだが、想定外の寒波と雨。だが雨は降ったり止んだり、降っても小降りだし、車で3時間も走れば意外と晴れてるかも、ととりあえず行ってみることにした。ところが。 寒過ぎて、車から出てとりあえずはビーチへ走ったが、写真を一枚撮ったらまた、一目散に車へ逃げ込んだ。――― 終了。ニューオーリンズからモンゴメリーまで5時間半のドライブの休憩が、2分で終わった。これからまた2時間半車に乗るのは辛いが、外に出るのも辛い。私のリサーチでは、この海沿いに美味しいオイスターのお店があるらしいが、開いている確率ほぼなし、の状況の中、わずかな望みにかけてダメもとで行ってみることにした。もし店が開いていたら、超ラッキー。とにかく子供たちを 車に何時間も続けて乗せることは、避けたかった。真冬の寒空の下、海沿いの道をお店に向かって走る。途中、何軒か開いているレストランを発見。お目当ての店がダメでも、このどれかに入ろう。とりあえず休憩場所が確保できそうで、ホッとした。お目当ての店は、見つけたが閉まっていた。引き返して、一番近い開いている店に入る。 ここが大当たり。 長男の好きなカニの、しかも爪だけのフライ、チビの好きなエビ三昧、そして私たちには生ガキ。生ガキの写真は、嬉しすぎて夢中で食べ、残りがほとんどなくなってから取ってないことに気付き、殻を戻してパチリ。小ぶりだが、この1皿で700円くらい。真ん中の、肌色をしたホースラディッシュという西洋わさびとレモンで食べる。独身の時、生ガキが好きで、わざわざ飛行機でカキの美味しいところに食べに行くほどだったが、長男を妊娠中2度も当たり(1度は生で、2度目は火が通ったもので)、1度は入院、2度目は先生や看護婦さんにまた~?とあきれられ、もういつ生まれてもいいから帰ってーと、追い返された。さすがにあの苦しさを短期間で2度も経験し、それ以来、恐ろしくて食べなくなった。今回、意を決しての再挑戦。結果、私はまた大の生ガキ好きになった。なんて有意義な旅だ。ほかにも、カニ身のハンバーグのようなものなど何皿かとったが、どれも美味しい。見よ、この嬉しそうな子供たちの顔。身も心も温まり、残る2時間半のドライブも余裕でいけそうだ。そして着いた、アラバマ州モンゴメリーの今日のお宿「Hampton Inn & Suites」。評判通り、文句なしの綺麗さと居心地だった。クリスマスだけに、「ありがとう、いえっさ」。(只今、大英博物館にも展示されているという「聖☆おにいさん」にはまってます)明日からは、重い内容が待っている。しっかり見て来よう。
2011年01月06日
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年が明けて、さぁまた新しい年が始まったぞー!、とフレッシュな気分で深呼吸しようとしたところ、うちの坊主たちの話声が聞こえて来た。長男 「このサイチュウ、めっちゃ美味い。」チビ 「ほんまや。 これ美味しい。」まさかとは思ったが、確認のために振り返ってみたら、そこには、最中(もなか)を夢中で食べている2人がいた。深呼吸も忘れ、ガックリ。 昨日から現地校が始まり、今週の土曜日からまた日本語補習校も始まる。宿題の確認をしようとチビのカバンを見たら、漢字のプリントが出て来た。ふりがなを書く問題の「牛が11頭いる。」に「牛がじゅういちあたまいる。」と書いてあった。今年も素敵な年になりそうだ。
2011年01月05日
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夜、旅行から帰って来た。今まで以上にギリギリの、出発当日まで宿の予約を取っていた計画性なしの旅だった。行き先は、テキサスから東に車で6州を回る旅。テキサス → ルイジアナ → ミシシッピ → アラバマ → ジョージア(ここでUターン)→ テネシー→ アーカンソー → テキサスここで気付く人は気付くのだが、今回の旅は、ここから東へ!と当初軽~く考えていた明るく楽しい旅行、というものではなく、とても重い「公民権運動」の史跡を巡る旅となった。行き先々の州を調べれば調べるほど、気分は暗くなり、こんなところに行って無事帰って来れるのか?、と不安になり、夜車から降りたら途端にボコボコにされるんじゃないか、と行くのが嫌になった。これら南部の州は、白人による人種差別が公然と行われていたところばかり。ある程度知ってはいたけど、ここまでひどいとは。いまだにKKKも存在しているようだ。色々調べるにつれ、どんどん気分は暗くなり、旅行なのに、行きたくない…と思うほど。行きたくない旅行って、行く必要あるのか??そんなことで、計画もなかなか進まず、行かなくてもいいんじゃん?と、目を背けようとしたが、出張から帰って来たオットの、「気分は重いけどこんな機会はもうない。行って、自分たちの目で見てみよう」という言葉に押され、全く気分が乗らないまま計画を立てさせられた(?)。長男のギブスの交換をしてから出発し、年明けの仕事始めの前日までには遅くとも帰って来なければいけないとなると、あさってには出発しなければ、という状況。それに加え、行く前に年賀状も出さねば!となり、オットもフル稼働。二人でそれぞれパソコンの前に張りついた。始めは、どうせ行くなら明るいフロリダを目指して行こう!と言っていたが、フロリダには色々見るところがあり過ぎて、ここだけで旅行1回分になりそうだったので、今回は止めて別に行くことにした。しかも日数がそんなにないからジョージア州も今回は飛ばそう、とオットは言ったが、そうなると本当に公民権運動一色の重い旅になり、楽しいことが何もなくなってしまう。頼むからジョージアを入れてくれー!CNNとコカコーラで息抜きさせてくれ~!と、無理矢理入れ込んだ。ジョージア州アトランタには、CNNとワールド・オブ・コカコーラがあり、CNNでは局内を案内してもらえるツアー、コカコーラでは世界中のコーラ飲み放題などがある。もちろん、ここにも公民権運動の史跡はあるのだが。他にも、重い旅に出来るだけ明るいスパイスを散りばめようと、色々調べて旅程を立てた。そして、先に書いた6州を回る、7泊8日の旅になった。走行距離は、夏の旅行より少し長い、2,500マイル。北海道から鹿児島まで行き、折り返して長野県まで行くくらいの距離だ。家(テキサス州オースチン) ↓ 約2時間 ・Blue Bell Ice Cream の工場+ショップ ↓ 約1時間半 ・ヒューストンの美味しい中華レストランで夕飯(自然科学博物館は時間がなく断念) ↓ 約4時間ルイジアナ州 Avery Island ・タバスコ工場+ショップ ・ジャングルガーデンでワニ探し ↓ 約2時間半 ニューオーリンズ ・ジャズ ・クレオール料理 ・Cafe Du Mondeのベニエとカフェオレ ↓ 約3時間(ミシシッピ州通過)アラバマ州 Orange Beach ・ビーチで遊ぶ ・オイスターのお店でシーフード三昧 ↓ 約3時間 モンゴメリー ・Rosa Parks Library&Museum ・Martin Luther King Jr. Home ・Civil Rights Museum ・Dexter Avenue King Memorial Baptist Church ↓ 約1時間半 バーミンガム ・16th Street Baptist Church ・Kelly Ingram Park ・Civil Rights Institution ↓ 約3時間ジョージア州 アトランタ ・CNN ・World of Coca-Cola ・Martin Luther King Jr. Historic Site ↓ 約2時間 Chattanooga ・Rock City/Ruby Falls ・Tennessee Aquarium (このどちらかに行く予定だったが時間の都合上どちらも断念) ↓ 約2時間 Lynchburg ・ジャックダニエル蒸留所 ↓ 約5時間 メンフィス ・The National Civil Rights Museum (Martin Luther King Jr.が暗殺されたモーテル) ↓ 約2時間 (ミシシッピ州には寄らず)アーカンソー州 リトルロック ・クリントン元大統領の記念館 ・セントラル高校(時間的にも気分的にもムリと断念) (Hot Springsの温泉は、時間の都合上断念) ↓ 約5時間 途中Texarkanaというアーカンソーとテキサスをまたぐ町で記念撮影テキサス州 ダラス ・The Sixth Floor Museum(JFK暗殺現場) ↓ 約1時間半 Waco ・動物園 ↓ 約1時間45分家(オースチン) ミシシッピ州は、通りはしたがどこにも寄らず、通過するだけにした。この州は、アメリカ南部の中でも一番人種差別が酷く、恐ろしい州だったからだ。詳しくは、後からゆっくり書いていきたいと思う。
2010年12月30日
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旅行2日目。朝9時の、タバスコ工場&ショップのオープンに合わせて起床。ワッフルとタマゴの朝食をとり、出発。タバスコ工場のあるAvery Islandは、アイランドと言っても海に囲まれているのではなく、湿地帯に囲まれている。そのせいかこの付近の住宅は、ほとんどが高床式住居?になっている。ブロック1個分の高さだったり、床下をガレージとして利用していたり、高さは様々だが、その土地の気候に合わせた家などが見れるのも面白い。(写真がないのが非常に残念。 撮ったのに。)Avery Islandの入り口では、1ドルの入場料を払う。そこから左に行くとタバスコ工場、右に行くとジャングルガーデンがある。まずは、タバスコ工場。クリスマス・イブの朝9時。駐車場には、車は一台も停まっていない。こんな時期に朝一で来る客はいないか、と言いながら車を降り、建物の入口へ。「Closed」・・・やっぱり。お店は??中の電気はついているが、ドアは閉まっている。Closedの札はかかっていないが、ドアが開いてないということは、休みということだろう。あ~ぁ、楽しみにしてたのに。ということで、工場見学は出来なかったが、タバスコのウェブサイトでその過程を見てみよう。あれ? ここにウェブサイトのリンクを貼ろうと思ったのだが貼れない。 なんで?www.tabasco.com のHistory Tent というところを開けると、「McILHENNY CO.」「HANDCRAFTED」「NATURAL PARADISE」と大きく3つあり、HANDCRAFTEDをクリックすると説明があり、「Watch Audio Slideshow」をクリックすると、工場に行かなくてもその工程が大体見れてしまう。まぁ、なんて便利。そして知ったのが、ここは島自体が岩塩ドームで出来ている、岩塩の産地ということ。その塩を タバスコを熟成させるときに、オークの樽の上に盛り、封をすること。そしてこの数日後知ることになるのだが、テネシーウィスキーのジャックダニエルを作ったあとの樽が、このタバスコの熟成樽として使われていること。面白い。お次、気を取り直してジャングルガーデンへ。このジャングルガーデン、めちゃくちゃ広い。ワニ、カメなどは勿論のこと、色んな種類の野鳥、小動物、昆虫がいる。恐ろしや。でも子供たちは、ワニが見たくて仕方ない。ワニを探して沼地の周りをうろうろ。ワニの怖さを知らないヤツらは、「わにゲーター!」(アリゲーター)と陽気に呼んではしゃいでいる。随分遊んでワニも探してみたが、なかなかワニは出てこない。クリスマス・イブの朝早い時間、ワニも勘弁してくれ、というところか。その代わりと言っては何だが、野鳥は色々見れた。鳥に元々興味はないが、チビくらいあるんじゃないか?!という程でかいのがいると、やはりギョッとして目が釘付けになる。そして「なんじゃこりゃ~!」と興味は湧く。だからと言って、あとで調べるほどではないが、ある種、感動する。その内、そろそろ出発しないとニューオーリンズのプリザベーションホールでのジャズが聴けなくなる!という時間になり、またしても目当てのワニが見れず残念だが、ここを後にする。このジャングルガーデンは、同じくタバスコのウェブサイトでちらっと見ることが出来る。(「NATURAL PARADISE」をクリック)ここからニューオーリンズまで、約2時間。着いたらとりあえず、ホテルにチェックイン。この日の宿は、Omni Hotel。ホテルの窓からは、ミシシッピ川に架かる橋が見える。お腹がすいたので、Cafe du Mondeに行き、カフェオレとベニエを食べる。真っ白に粉砂糖がかかったベニエは、食べる度に口の周りが真っ白になり、テーブルや床も真っ白。美味しいのは美味しいが、「穴の開いてへんドーナツやん。」というのがみんなの感想。緑と白のサーカスのテントのようなところに、大量のテーブルとイスが置かれた、オープンカフェならぬ、オープン食堂に、行列を作って皆並ぶ。人が通れないほど所狭しとテーブルとイスが置かれ、床には粉砂糖、食べカス、ペーパーナプキンが落ち、その汚さは、上海の食堂を思い出させたが、さすがにタンを吐く人はいないので、その分マシか。日本にも店があるそうだが、なんでここまで有名なのか。でもカフェオレは、美味しかった。私たちは、テント内ではなく、ベニエを作る様子が見られる外のベンチに座って食べた。ベニエを作るおじさんの職人技は、見ていて面白かった。子供たちが窓に張り付いて見ていると、おじさんが窓を開け、話しかけて来てくれた。「どこから来たんだ?」「美味しいか?」子供たちが美味しい!と答えると、おじさんは満足げにうなずいた。腹ごしらえをし、ブラブラと街を歩く。色んな所でストリートライブをやっていて、楽しい。プリザベーションホールは、通常夜8時ごろからライブが始まるが、クリスマス・イブのこの日は、16時が最終。曲は、クリスマスの曲ばかりだったが、生の音はやっぱりいい。他のライブをやっているところものぞき、楽しんだのもつかの間、またいつもの「早くホテルに帰ろー!」が始まった。いつもなら、長男とチビ、二人して騒ぐのだが、長男は音楽を聞くのが好きだ。意外だが。ヤツは、音楽を聞くときはおとなしい。だがこの日、南部では考えられない予想外の寒さで、厚手の服を持って来ていない男3人は、凍えていた。ジャズを聞いていたいのは山々だが、寒いのも確か。チビも帰ろう!とうるさいし、じゃぁ夕飯食べに行こう!となった。ここは、ガンボ(米にかけられて出て来るシチューのようなもの)とシーフードが有名。シーフードが大好きな長男のリクエストで、人気のシーフード・レストランに行ってみるが、すでにクリスマス休みだった。じゃぁ、とガンボで有名な「GUMBO SHOP」へ。私とオットはそれぞれ違う種類のガンボ、長男は今日のお勧めの魚料理、チビは大好きなチキンを頼んだ。サービスも良く、どれも美味しく、体も温まり、ストリートライブを聞きながら、大満足でホテルに戻る。明日3日目は、クリスマスで店もレストランも博物館もほとんどが休みなので、午前中はホテルとクリスマスの静かなニューオーリンズの街でゆっくり過ごし、午後からアラバマとフロリダの州境の辺りのビーチで遊ぶ予定にしている。でもこの寒さ、南部なのにどうしたのか。テレビをつけると、どこもかしこも大雪やら飛行機が飛ばないやら、寒波に見舞われているが、ここもその影響か。しかも明日の天気予報は、雨。え??明日はどこも開いてないから、それに合わせてこの旅程だったのに。まぁ雨もどれだけ降るか分からないし、止むことを願って、とりあえず予定通りに行ってみよう。タバスコ工場とお店は休みだったが、ジャングルガーデンのお店は開いていて、そこにタバスコグッズも売っていた。ニューオーリンズでも、同じ州にあるからか、タバスコショップがあった。そこでのお買い上げ品。またまた子供たちのTシャツと、壁に飾る用の絵、フリスクのようなタバスコミント、沢山あるタバスコソースから試食して選んだタバスコ・ガーリックソース、スパイシーしょうゆ、甜酸辣の3種など。
2010年12月24日
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「冬の旅行1」は、12月30日の、この旅行から帰って来た日に書いたが、そこからさかのぼって、日付順に今回の旅行を書いていきたい。12月23日3時間ほどの仮眠のあと、ホテルの予約を最後一日だけ残して取り、行き先でのポイントを調べつつ、年賀状を仕上げ、荷物を車へ詰め、郵便局に寄ってから、最初の宿のあるルイジアナ州Avery Island近くを目指す。まだ今回の旅程全てのポイントをリサーチ出来ておらず、ホテルも最後1泊は取っていないため、パソコンも車に乗せての、ながら旅?(調べながらの旅)となった。Avery Islandには、タバスコの本社がある。ここでタバスコ唐辛子を育てるところから始まり、お馴染みのボトルに詰められるまで全てが行われている。その工程を見せてくれる工場見学とお店での買い物が目的だが、クリスマス前のこの時期、開いているかどうか分からない。ホームページを見ても、Closed major holidays とあるだけ。25日のクリスマスはどこも休み、24日も早く閉まるがところが多いが、23日なら大丈夫だろう、という適当さと、ここが閉まってても同じアイランド内にあるジャングルガーデンは開いているし、メインの目的地ニューオーリンズに着くまでには、どうしてもどこかで1泊する必要があり(オースチンからニューオーリンズまで約9時間)、閉まってても行くことには変わりないので、電話で確認することもなく出発。家を出て約2時間、ヒューストン手前にある Blue Bell Ice Cream という、日ごろお世話になっているアイスクリームの工場+お店に寄る。ここは予め、この日はもう工場見学はやっていないのを知っていたので、お店で1スクープ$1のここのアイスを食べ、色々なグッズをお買いもの。ベビー用品から料理本まで色々あり、子供たちがアイスでおとなしくなっている間に、ショッピングを楽しむ。子供たちのTシャツ、トートバッグ、マグカップ、ピンバッジ、鉛筆など購入。ここまで書いて気付いたのだが、お店の中や建物の外の写真など色々撮ったのに、なんと私はニューオーリンズからアラバマ州のオレンジビーチに行く間に、入れ替えたカメラのメモリーをゴミと一緒に捨ててしまったらしい。なんてこと。自分のいい加減さには事あるごとにあきれるが、ここまでやってのけるとは。移動中にドラッグストアーで新しいメモリーを買い、車の中で入れ替え、これでまたたんまり写真が撮れる!と張り切っていたのに。どこを探しても出てこない。可能性としてあるのは、買って来たドラッグストアーのビニール袋に、メモリーの入っていたパッケージのゴミと一緒にまた入れた、くらい。もちろん、車の中で出たごみは、買い物の度にもらうスーパーのビニール袋をゴミ袋にし、休憩のときに外のゴミ箱に捨てる。2008年正月のドバイ旅行からの3年分の入ったメモリーを 大事に失くさないようにケースに入れ、ケースごとゴミを入れた袋にポイ。 そして外のゴミ箱にポイ。あぁ・・・。最近ホントに、自分が信用できない。心底ガックリしたところで、新しいメモリーに入っている写真のところに来るまで、文字だけで綴っていきたい。アイスクリーム工場を出てヒューストンに行き、そこで美味しい中華の夕飯を取り、Avery Island近くの今夜の宿を目指す。最初の予定では、ヒューストンで自然科学博物館にも行き、そこで上映中のクリスマス映画を見てクリスマス気分を盛り上げ、夕飯をとり、十分な休憩を取ってから宿へ、だったのだが、家を出た時間が予定より遥かに遅く、博物館の開いている時間に間に合わなかった。旅行一日目の今日の移動家↓ 2時間Blue Bell Ice Cream↓ 1時間半ヒューストン 中華の夕飯↓ 4時間New Iberia (La Quinta Inns & Suites泊)このLa Quintaは、どこにでもあるモーテルで、全く期待していなかったのだが、ここNew Iberiaのは評判通り、綺麗でクリスマスの飾りつけも素敵で、私も長男も「いいや~ん!」と大満足だった。明日は、朝からタバスコ工場とジャングルガーデンに行き、そこから2時間のニューオーリンズへ移動する。
2010年12月23日
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アメリカに来て1年経った・・・と思ったのは一瞬で、それ以上感慨にひたっている暇もなく、あれよあれよと、引き続き日々の雑務と行事に追われている。チビが「百舌鳥八幡の葉加瀬太郎になる。」と言ってから(百舌鳥八幡とは言っていないが)、突然習い始めたバイオリン。3ヶ月しか経っていないが、その発表会があった。日本の、親も子もカチンコチンになってしまう緊張感漂うものではなく、間違ったって、途中で忘れたって、拍手と声援が飛んでくる、良い意味で気楽な、温かい発表会だった。素敵な教会で、始めてドレスアップして臨んだチビ。 ↑教会もクリスマス仕様 ↑大好きな先生とどうでもいい話だが、百舌鳥八幡というのは電車の駅名なのだが、私はこの百舌鳥八幡が嫌いだった。百舌鳥八幡の両隣の駅は、地下鉄・JRと連絡している駅で利用客も多いのだが、その二つにはさまれたこの小さなローカルな駅は(もちろん各駅停車しか停まらない)、利用客も少なく、両隣の駅への距離も、この駅をわざわざ作らなくても良かっただろう、というくらい短い。寒い日や、疲れている日、早く目的地に着きたい日でも、相変わらず毎回停まる。戸が開くたびに、冷たい空気が流れ込むのに、誰も降りないし、誰も乗って来ない。毎回舌打ちしたくなるのだ。でも歳をとり、この電車に乗ることも滅多になくなった今は、「百舌鳥八幡うっとうしい~」と毎回思ったことを懐かしく思う。そして今では、「ええんちゃう?百舌鳥八幡」と思っている。続いて、長男の中学のバンドのウィンターコンサートがあった。アメフトの試合でのお披露目会、パーカッションだけの発表会と立て続けにあり、もうそれだけで十分堪能させていただいたのに、まだあった。今度は、年に一度しかない、全学年揃ってのコンサートということだ。コンサートでは、長男はスネアドラムと木琴を担当する。なのにヤツは、コンサート10日前、戦って木琴のバチを折り、コンサート前日、自分の腕の骨を折って帰って来た。準備万端である。使い始めて2ヶ月しか経っていない5,000円近くする木琴のバチを 木琴と戦うのではなく、友達と戦って折りやがって、新しいものを簡単に買ってもらえると思うな! お前の今年のクリスマス、サンタにバチもらうか?!と怒鳴り散らし、知らん顔を決め込んだ。コンサート前日の夕方、家の前で遊んでいて左腕を折った。慌てて病院に連れて行き、バンドの先生に連絡すると、とりあえずコンサートには出て、やれるだけやってみろ、と言われ臨んだ当日。ガムテープでぐるぐる巻きになった木琴のバチと、包帯でぐるぐる巻きになった腕の長男がいた。 全学年のバンドメンバーが揃うとすごい人数なのが、この日行ってみて分かった。この人数じゃ、年に一度くらいしか集まれないだろう。バンドは、6年生は全員初心者バンドとして一括りだが、他の学年は、ジャズバンドやシンフォニックバンドなどに分かれている。↓これでも全員写真に入りきっていない。 ば~か。そして最後は、チビの小学校毎年恒例の「Holiday around the World」というイベント。この小学校には、色んな国の子供たちが通っていて国際色豊かなのだが、このイベントは、各国のブースを設け、踊りなども披露し、それぞれの国を紹介し合うというもの。 ↑前座のおばあさんタップダンサー ↑各国の衣装を着た幼稚園児達 ↑インド ↑アフリカ ↑韓国 ↑スペインだっけ? ↑我が日本は、日本舞踊を習っている、別の小学校に通うお友達のお子さんに来てもらった。 衣装も素晴らしく、髪も化粧もその子のお母さんがやってしまうところがすごい。 彼女の踊りが始まると、大勢の人が集まった。他にも色んな国が出ていたのだが、日本のブースは、大勢の折り紙を折りたい子供たちで賑わう大盛況で、写真を撮る時間もほぼなかった。(上の写真がやっと)他にもタイ・ベトナム・ロシア・フランス・メキシコ・中国・イスラエルなどなど、本当にこの小学校は、国際色豊かで面白い。さぁ、これが終わるともう今学期も終わり。今週金曜日から、冬休みに入る。子供たちは、いまだに半袖を着ているが、温かいクリスマスになるのだろうか、それとも去年のように、雪が降る寒い休みになるのだろうか。2週間、会社も休みになる冬休み。冬のニューオーリンズでジャズを聴き、温かいフロリダを目指して車で旅行しようか、と素敵なことを言ってはいるが、いつものようにまだ何も決めていない。これ、また私がプランを立て、宿を予約するのか。夏同様、オットは出張でいない。・・・・・計画的?
2010年12月13日
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早いもので、もう12月。ちょうど1年前、ここアメリカのテキサスに引っ越して来た。丸3年の上海生活を終えて帰国し、初めての関東で、初めての海辺生活を1年3ヶ月楽しんだ後、ここに来た。今日、チビが学校から、授業中に書いた作文を持って帰って来た。今までで一番楽しかった日のことを書いてあった。単語や文法は、たくさん間違っているところがあったが、予想以上に書けていて驚いた。そして今日、また長男が腕の骨を折り病院に行ってきたが、医者の話をうんうんと聞き、聞かれたことに答える姿を見て、おぉ~1年経つとこのくらいのやり取りは出来るようになるんだな~、と感心した。ヤツらそれぞれの、一年の成長を見た。
2010年12月03日
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10月に私のアメリカの母が亡くなった。(その時のことはこちら。)すぐに飛行機を予約し、家族で向かうことにしたが、当日飛行機の出発数分前になってその便がキャンセルされた。理由は、乗務員の喘息の発作。夜の便だったためあとがなく、他社の便も満席、翌日午前中の早い便も満席、何か所か経由して行くことは可能だったが、それをすると向こうに到着するのが、午後から出る便と同じ夕方近くになり、子供たちの学校や仕事の都合でとんぼ返りしなくてはいけなくなる。搭乗口から姉に電話すると、姉が「そんなスケジュールで今急いで来ても、ゆっくり話も出来ないし、来月(11月)には、お母さんの誕生日もサンクスギビングもあるから、そのどちらかにゆっくりおいで。 お母さんもあなたたちの気持だけで十分喜んでるから。」と言ってくれ、その時は泣く泣く断念した。そして、このサンクスギビングに母のお墓に参って来た。サンクスギビングには、学校も会社も休みになる。墓石はまだ出来ていなかったが、お父さんの横に母の入った場所があった。姉たちや、伯父、従姉妹たち、その家族が私たちのために集まり、一緒にお墓参りをしてくれた。そして、そのあと一緒にサンクスギビングの食事をし、母の写真を見ながら色々な話をした。母の写真、母の訃報が載った新聞、もうすぐ出来あがる墓石のデザイン、生前の母の写真がたくさん詰まったDVD等、私のために用意してくれていた。わざわざそれらを準備してくれた姉たちに感謝し、ありがたくいただいて帰って来た。まだ、ついこの間しゃべったばっかりの母が亡くなったとは信じ難いが、お墓に参れたことで私の気分も少しスッキリした。私のために動いてくれた姉たち、従姉妹たち、伯父、その家族のみんなと、ずっと一緒に付き合ってくれたオットと子供たちに感謝。ありがとう。 母の住んだこの小さな町は、至る所にオリーブの木があるオリーブの町。食用オリーブも少しはあるが、大半がオリーブオイルになる。オリーブオイルの工場に併設された、試飲・試食の出来るオリーブ専門店では、工場見学も出来る。ここのオリーブが好きな私の日本の母と自分にも、お土産を色々買って帰る。行き帰りの飛行機の中、色々な景色が見える。さすがアメリカ、砂漠、山、谷、色々な自然が面白い。 ↑子供たちがミステリーサークル!と大騒ぎ。 ↑カーブを描いて深くえぐられた谷。 結局なんだったのか。 自然ってすごい。 ↑雪化粧をした山脈 ↑平地と山脈ってこんなにくっきり分かれるのね←急に現れる綺麗なエメラルドグリーンの池(?)。 これって自然にできたものなのか、人がつくったものなのか。
2010年11月29日
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11月に入り、長男の新人バンドのお披露目、オットの自転車レース、チビのバイオリン発表会のリハーサル、補習校の面談、と続く中、今度は長男の中学の1年生恒例、「Wax Museum」があった。Wax Museumとは、有名人の等身大のロウ人形が展示されているところだが、そのロウ人形に自分たちがなるというもの。有名人なら歴史上の人物でも、まだ生きてる人でも誰でも良い。そして、見物客が側に置かれた作りもののボタンを押すと、そのロウ人形が自分について説明しだす。説明をする時以外は、ポーズをとったままじっとしていなければならない。 ↑リンカーン大統領 ↑ボブ・マーレー ↑マリリン・モンロー ↑メアリー・テューダー ↑モハメド・アリ ↑野口英世(長男) ↑ブルース・リー ↑ビンディ・アーウィン ↑マッカーサーみんな工夫を凝らしていて、それらしく見える。特にこのマッカーサーのパイプには感心。遠くから見ただけでは気付かなかったが、近づいてみるとトウモロコシの芯だった。 その人物になりきって話すもの、顔を真っ赤にしてつまずきながら話すもの、セリフを覚えられずメモを見ながら話すもの、みんな一所懸命で6年生らしく可愛かった。ただ、ずっと同じポーズでじっとしているのは、やっぱり6年生には(特に男の子には)無理。この人聞いてみたいな、と思って周りを見回しても、それらしき人が立っていない。あれ??とキョロキョロしてると、向こうの方からダ~ッ!っと走って来て話し始める。それがまた可愛くて面白い。心配した長男は、端から覚える気はなくメモを読み上げていたが、彼の話す英語はちゃんとみんなに分かってもらえるほどになったようだ。お友達のお母さんが、「彼は英語がうまくなったわね~!言ってること全部わかるよ!」と感心していた。それを聞いて私もホッと一安心。このWax Museumは、学校が終わると一度家に道具を取りに帰り、18時~19時半まで行われる。日本だとこういうことは全て、学校の時間内にするけれど、アメリカは、お父さんも、働いてるお母さんも来れるように、18時や19時から行われることが多い。この一大イベントが終わると、次はまたバンド。ついこないだ、お披露目の大舞台を終えたところなのに。今度は、一人一人木琴を演奏するのだそうだ。曲は、各自で決めていいと言う。長男は、はじめ「何にしようかな~スーパーマリオの曲にしようかな~」などと言っていたが、「木琴と言えばあれやろ」と言うと「そやな。」とあっさり決定。それはもちろん、「キューピー3分クッキング」。「今日の料理」とどっちがいいか少々悩んだが、「やっぱキューピー」なんだそうだ。木琴を授業で習い始めて1ヶ月程度。みんな初心者なので、弾く曲も簡単で短いものばかり。スターウォーズの20秒くらいのあの部分とか、アメリカ版「ねこふんじゃった」(誰でも知ってて誰でも弾ける)みたいなのとか。その中で長男の弾いた3分クッキングは、時間も長く、とても素晴らしく聞こえたから笑える。「日本やったら、これ笑うとこ~!」なのだが、みんな真剣に聞いて、真剣に拍手してくれる。全員の発表が終わり、帰ろうと教室の外に出ると、「あのおもちゃの兵隊のマーチ(3分クッキング)を弾いたのはあなたの息子さん?」「とても良かったわ~!」とほかのお父さん・お母さんが声をかけてきてくれるから恐縮だ。「いやいや、これキューピー・・・」とも言えず、ニッコリ笑って「ありがとう。」と答える。ごめんなさ~い。
2010年11月19日
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子供の頃、母親がよくテレビの時事問題を扱う番組を見ては、ブツブツ文句を言っていた。それはいつもの光景で、肝心の番組の中身は何一つ覚えていないが、テレビに向かって文句を言っている母親の姿は、目に焼き付いている。それから○ン十年経ち、自分が母親になった今、それと同じことをやっていることに気づく。歳のせいか。それとも、やしきたかじんのせいか。たかじんのそこまで言って委員会が、止められない。
2010年11月08日
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11月に入り、冬時間になった。時計の針を1時間遅らせる。気持ちの良い秋晴れ、毎朝繰り広げられる「どんぐり合戦」、帰り道に拾って帰る色んな秋―只今秋を満喫中。多くの家の前庭には、ドングリの木が植わっていて、この時期道にドングリがあふれる。家の周りも学校も、ドングリだらけ。その種類も豊富で、色々な大きさ・形のドングリが落ちている。それを拾っては、投げ合って遊び、家に飾ろうと持って帰って来る。 → 巨大ドングリを拾うチビ 周りにロン毛の男の子が多く、自分もロン毛にするんだ!と髪を伸ばし中。↓手前の方にある色の濃いドングリが、日本のドングリより一~二回り大きいもの。巨大ドングリの大きさがわかるだろうか。 金曜日、学校が終わってから、夜行われる地元の高校生のアメフトの試合に行って来た。長男が学校の音楽の選択で取っている、バンドのクラスの初のお披露目会だ。中学1年生(日本の6年生)は、必須課目に音楽があるのだが、バンド(ブラスバンド)・オーケストラ・合唱のどれかを選ばなければいけない。日本の普通の音楽の授業はない。長男の選んだバンドは、普通のコンサートもするが、アメフトの試合に応援で付いて行き、ハーフタイムにグランドでショーをしたりする。今回は、地元の高校の応援に参加させてもらい、そこで高校生バンドと一緒に演奏。 可愛くないマスコットにチビのテンション下がる↑ いよいよハーフタイム。↓先ずは敵チームのバンドから そして↓一緒に演奏する高校生バンド 高校生バンドに守られ、初めてのフットボールフィールドでの演奏↑お揃いのバンドTシャツを着て出たが、夜の試合はさすがに寒く、みんな上着を着たまま。相当緊張していたが、初舞台は無事終了。それにしても、こっちのアメフトはすごい。高校生の試合なのに、競技場の周りの駐車場は全て満車。道路という道路も路駐だらけで、少し出遅れた私たちは、車を止めるところを探して付近をうろうろ。やっと歩いて5-6分離れたところにスキマを見つけて路駐。たかが、と言ってはなんだが、地元の高校生同士の試合なのに、広いスタンドは満席状態。スモークまでたかれ、選手が登場する。 次の日は、会社の人に誘われて、オットが去年に引き続き100kmの自転車レースに参加。レースと言っても、本人は順位を争う気は全くない。一緒に参加した会社の人も、カメラを持って走る余裕ぶり。休憩所が何か所もあり、飲み物・食べ物が用意されているらしい。ちょくちょく休憩しもって、写真を撮ったりしながら行って来る~、のだそうだ。ゴール地点には、無料のビールとホットドッグが待っている。女・子供は、日本語補習校が終わってから、ゴール地点へ車で向かう。レースは、8時スタート。私たちがゴール地点に着いた時には、もう既にゴールした沢山の人たちで賑わっていた。ビールを飲み、ホットドッグを食べながら、生バンドの演奏を聞き、おしゃべりに花を咲かせたり、踊ったりしている。 さて、オット達は・・・と探すが、まだ着いていないようだ。一緒に参加した会社の人の奥様が、携帯電話をかけだした。え? 電話でしゃべれるようなレースなの??そんな余裕なレースなの??電話を切った奥様は、笑いながら「まだまだだって。 あと1時間半はかかるってー。」と教えてくれた。子供たちはもちろんドングリで遊びながら、私たちはしゃべりながら、彼らのゴールを待った。 14時半、やっとゴール。6時間半の自転車の旅、お疲れ様。このあと、長男がお友達の誕生日会へ持って行くプレゼントを買いに行き、そこでインフルエンザの予防接種を受け(ここでは、普通のスーパーや薬局でインフルエンザの予防接種が受けれる)、長男をそのお友達の家に送って行き、残った私たちはチビのリクエストで中華の夕飯を食べに行った。長時間のレースで疲れていたオットを 普段通りに連れ回したが、一緒に参加者した会社の人たちは、家に着いた途端ベッドに倒れ込み、夕飯も食べずに翌朝まで眠り続けたり、微熱を出してダウンしたり、と色々だったようだ。そんなに疲れたレースだったのに、連れ回して悪かったわね~と、あとからちょっと反省。でも、秋晴れの良いお天気、のんびり楽しませてもらった。ありがとさーん。
2010年11月07日
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ついに、ハロウィン当日がやってきた。住宅街の家々は、それぞれ趣向を凝らした飾り付けがされており、子供を学校に迎えに行った帰りは、色々な通りを通って帰るのが、ここ2週間の楽しみだった。うちの前の家は、1週間ほど前から毎日、朝から夕方まで、ご主人が何やら大掛かりな作業をしており、チェーンソーや釘を打つ音が響いていた。家のリフォームか家具の修理かと思っていたら、なんと、ハロウィンの前日、庭に柵で囲われた墓場が出来上がった。このために会社休んだの?…1週間??気合いの入れ方に驚く。レンガもツタも墓石も、どれも本物そっくり。他の家々はこんな感じ。↓玄関ドアの上の両角に大きなクモ ↓花壇の枠も小さなドクロ ↑もっと派手にしたい!と頑張るうちの子供たち夜になるとこんな風になる。↑庭に墓場を作ったうちの前の家 ↑このかぼちゃ、横の白いガレージの戸と比べればどのくらい大きいかわかっていただけるだろう。 ↑我が家はこんな感じ。 かぼちゃの顔は、三者三様。 リアルな顔は長男作。日が暮れる7時前頃から、先ず小さい子たちがお父さん・お母さんに連れられやって来る。 ↑このおじさんが振り返ると・・・ 怖すぎたのか、子供たちは目も合わせてくれない。 ↑お隣さんそして時間が経つにつれ、大きい子供たちがやって来る。 ↑長男とチビ ↑近所の友達と一緒に、初・Trick or Treatへ。 行ってらっしゃ~い! 中学は別々になってしまったけれど、今でも仲良し、ピザ&スシ(長男)。家の近所でのTrick or Treat第一弾を終えると、この日2回目をピザの近所で回る。1年分のお菓子をゲットする!、と張り切っていた長男は、溢れてこぼれ落ちるほどのお菓子の入ったバケツを持って帰って来た。
2010年10月31日
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10月31日は、ハロウィン。学校の準備一色から、今度は、何もかもハロウィン一色になる。ドーナツを買うと、お持ち帰りの箱はこうなり↓、ハロウィンの鉛筆が売られたり↓ペーパーナプキン等もハロウィン用に色々並ぶ。写真右のオレンジ色のペーパーナプキンには、「Don't drink & fly」の文字とホウキの絵が。「飲んだら乗るな」ならぬ、「飲んだら飛ぶな」。 スーパーのお菓子売り場は、いつものお菓子もハロウィンに子供たちに配るよう大量の大袋入りになったり、ハロウィン用パッケージに姿を変えたりして、山積みされている。それを何袋も買って、大きな入れ物に入れ、子供たちの「Trick or Treat」に備える。紫色のバケツは、長男のTrick or Treat用のバケツ。こうしてお菓子、仮装用のコスチュームとお菓子を入れてもらうバケツ、家の外の飾りを用意し、そして、かぼちゃをくり抜いて作るジャック・オ・ランタン用のかぼちゃを買いに畑へ。 ↑この良く見るかぼちゃから、ちょっと変わったかぼちゃ、家の中に飾る可愛い小さなかぼちゃ等、色々な秋のお飾りがある。 袋に入った玉ねぎかと思ったら、↓玉ねぎサイズのかぼちゃだった 他にも有料だが、わらを詰めて案山子を作らせてくれたり(ハロウィンでは案山子を家の外に飾ったりもする)、フェイスペインティング、トウモロコシ畑の迷路等があったり、秋の一日を楽しませてくれる。 黙々と案山子をつくるおっちゃんたち↓ そして最後は、かぼちゃやいちごの手作りアイスを食べて帰る。といっても、このあと、日が沈んだらこの時期だけの期間限定で現れる、お化け屋敷に行く。お隣さんがこのお化け屋敷のことを教えてくれたのだが、お化け屋敷に入らなくても、駐車場にいるだけで、ゾンビたちがやってきて十分怖がらせてくれるらしく、お隣さん家族は結局、お化け屋敷には入らずリタイアして帰ってきたらしい。さぁ、うちはどうなるだろう。 この日は日曜日で、明日は学校があるにもかかわらず、夜9時でも沢山の人。駐車場に車を止め、この建物の周りに近づくと・・・ 来た~~~っ!偽物だとわかっていても、夜こんなのが近付いて来ると本気で怖い。怖がると、もっともっと迫って来て、追いかけ回される。チビは、逃げ回り、お父さんの陰に隠れ、真顔のまま言葉も出ない。長男は、硬直したまま動けない。私も怖くて男性陣の後ろにへばりついていたが、一緒に行ったお友達が、この左下のぬいぐるみを抱いたゾンビを見て「鳥居みゆきみたい」と言った瞬間から、どうしても鳥居みゆきにしか見えなくなった。そうなると、もう恐怖心どころではない。ほんま…めっちゃ似てるやん…。え? これってもしかして、鳥居みゆきを真似てる??そんなことはないか。いや、でもわからんで。日本のホラーもこっちでリメイクされるようになったしな。っていうか、鳥居みゆきがこっちの何かを真似てたんやっけ?私の頭は、そんな独り言で一杯になった。お化け屋敷に入る前から、追いかけ回され恐怖で緊張したチビは、おしっこに行きたいのに、駐車場に作られた簡易トイレは、ゾンビが怖くて入れないと言う。もちろんお化け屋敷どころではない。仕方なく車に戻り、我が家の簡易トイレ、ペットボトルにさせたのだが、もうゾンビのところには戻らない!と言って車で待機。結局、怖くて誰もお化け屋敷に入れず帰ることに。安上がり~!カチコチに固まった長男をひっぱり、車に戻る。こうして、私たちの初めてのハロウィンは、飾りも気分も盛り上がり、準備万端。 鳥居みゆき ゾンビ
2010年10月25日
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週に一度通う日本語補習校で、運動会があった。私たちのような駐在員の子供や、ここにずっと住む日本人・片親が日本人の子供などが通う。ここでは、駐在員の子供が少なく、全体の2~3割程度。そこで行われる運動会は、色々面白い。紅組・白組に分かれて競い合うので、何組かわかる色の服装で来るように言われるのだが…。こら~何組だー! グレーのTシャツに長ズボン。 スカートも…ありですか…。 めっちゃ普段着やん…と驚く私の横で、「ありえね~・・・。」と呟く駐在員の子供。うん、あり得ない。 けど、面白い。↑この袋に入ってピョンピョンとぶ競技は、障害物競争の中の一つなのだが、ポテトサックという、収穫したジャガイモを入れる袋を使っている。ジャガイモが沢山獲れる土地ならでは、なんだろう。特色があって面白い。お父さんたちの綱引きは、後ろの2-3人がアメフトの選手か、というくらいデカい。すごい迫力で、これも見ものだった。良い天気に恵まれ、子供たちも楽しんだようだ。私も、色んな‘おもろい’が見れて、大満足、楽しませてもらった。さぁ、秋本番だ。
2010年10月23日
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長男が好きで読んでいる三国志(もちろんマンガ)。全巻制覇したオットが、三国志の最後を知っているか?と聞いて来た。私も以前、そんなに良い話なのかと少しだけ読んだことがあるが、友情だか何だか知らないが、バッタバッタと人を切り倒すだけの物語にしか思えず、面倒くさくなって途中で読むのをやめたので、最後までは知らない。どうなるの?気にはなるので、聞いてみた。すると、この有名な大作は、えっ!?っと言葉を失う最後で終わっていた。桃の木の下で交わした3人の友情から始まり、沢山人を殺して、沢山色々考えて、高い志を持って理想とする国家をつくるため、長い年月そのためだけに生き、やっとその理想を手に入れた!と思ったら、バカ息子が一瞬のうちに敵に国を売ってしまって終わった。なんとこの三国志、劉備の息子はこんなバカ息子に育っちゃいました、というオチの子育て失敗談だった。
2010年10月16日
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私のアメリカの母が亡くなった。この夏、会って来たばかりだった。その時はとても元気で、まさかこんなに急にお別れの時が来るとは、夢にも思っていなかった。これからは、私たちがここにいる間は、毎年会いに来るから、と言ったところだったのに。調子が良くなくて医者を受診したら、心臓が悪いという結果だった。それで先日手術をしたら、帰らぬ人となった。手術で実際開けてみたら、診断とは違うところが悪く、状態も予想以上に悪かった。8時間頑張ったが、治せなかった、ということらしい。大体、78歳のおばあちゃんに、本当にその手術は必要だったのか。倒れることもなく、入院することもなく、今まで普通に生活していたのに、死ぬかも知れない高いリスクの手術を受けて、それが成功したとして、あと何年生きれたのか。このまま何もせずに、いつも通りの生活を送ったって、大差なかったんじゃないか。何もかも、ビジネスになっているアメリカでは、病院も医者もビジネス。今回のことも、そう思えてしまう。先週月曜日の朝早く姉から電話があり、母が亡くなったことを告げられた。その手術は、本当に必要だったの? そう聞く私に姉は、お母さんがすると決めたんだから、It was her choice. と言った。だからいいんだ、と。手術が成功しないかもしれないことも、了承済みだったと言う。最後に母から手紙をもらったのは、手術の2-3週間前だった。手術の日取りと、姉たちの電話番号が書かれてあった。そして、「夏会ったときにもらった子供たちの写真は、ちゃんとソファーの後ろの壁に、他の孫たちの写真と一緒に貼ったからね。 マイ ボーイズと○○(オット)を 私の代わりに抱きしめておいて。」と締めくくられていた。いつもなら、「私の代わりに抱きしめておいて」なんてことは書かないのだが、今回はそう書かれてあった。もしかしたら…という考えが、頭をよぎったのかもしれない。彼女は、綺麗に灰になってしまった。それが彼女の希望だったという。手術前に、もしものことがあったらどうして欲しい?と姉が聞くと、骨も何も残さず、少しの灰を お父さんのお墓に一緒に入れて欲しいと言ったそうだ。さっぱりした性格の母らしい希望だ。Mom、私はあなたがここにいるから、アメリカでの生活も心強かった。一緒に暮らしていなくても、あなたがいると思うだけで、緊張がほぐれた。Mom、私はあなたを すごくあてにしていた。何かあったときに逃げ込める、正にあなたは私の母であり、私の家だった。Mom、今までありがとう。今度は、私がMomになる番だ。私たちを 見ていて。
2010年10月14日
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今日から10月。9月になって朝晩の空気が涼しくなり、昼間は溶けそうなほど暑くても、周りの草木はみんな秋の気配を敏感に感じ取って葉を落とし始めていたのだが、3日ほど前からは、昼間も急に秋の空気になった。気持ちのよい、見事な秋晴れが続いている。朝方は寒いくらいで、慌てて間布団を出した。子供たちの学校も、今のところ順調。順調なのだが、チビの宿題が3年生になって、急に沢山出るようになった。「3年になると沢山出るよ」とは聞いていたものの、英語が出来ない私たちにはキツイ。短いお話を読んで、あとの設問に答えるプリントがよく出るのだが、チビは、いつも誰かに助けてもらえる、英語が出来ないから先生にも大目に見てもらえる、と分かっているため、簡単な単語すら、全く覚える気がない。ついこないだまで、「water」が読めなかったのにはびっくりした。そして、「nice」を「ニーチェ」と読んだのにも驚いた。イタリア語か。極めつけは、「school」を「スコォォオ…」と、ドイツ語のように喉を使って読んで見せられ、言葉を失った。何語をやっとるんだ。こんな調子だから、短い文章だって、一つ一つ知らない単語を教えながら読むと、かなりの時間がかかる。しかも、チビは1年生の12月からここに来たため、日本語すら、知らない言葉が多い。昨日のプリントも、clasp という単語が出てきて、留め金だと教えると、留め金とは何だ、と聞く。留め金は・・・留め金やん、とこっちも説明に困る。art studio は何だと聞かれ、アートスタジオは、アートスタジオやん・・・。チビの頭には、?マークが点灯し、ポカーンと口を開けている。うまく言葉が見つからず、説明もえ~と、え~と、あれやん、と国語辞典を引っぱり出したり。延々とこんなやり取りが続き、プリント1枚終えると、こちらもげっそり、疲れる。だがチビは、全く覚える気がないので、何度でも同じ単語を知らないと言う。3度目4度目になると本気で腹が立ち、「いい加減に覚えんかい! 頭悪いんか~っ!」と怒鳴り散らす。設問の答えだって、分かっていてもそれを文章で書くのは、チビには難しい。そんなことは百も承知だから、英語の基本的な構造から説明するのだが、「主語・述語」という日本語の言葉の意味が、先ず分からない。もちろん、そうだろうと思っていたから、主語は何か、述語はどういうものか、を易しく説明するのだが、それだって、チビは覚える気がない。主語は、「僕は・お兄ちゃんは・このえんぴつが・その犬は」等の、誰が・何が・どうした、の誰や何に当たる部分だ、と説明しても、じゃぁこの文の主語は?と聞くと、「in」と答える。・・・なんで?in ってなんやねん、in って。平日は、こんな風にチビと宿題と、ときどき長男にエネルギーを吸い取られ、彼らが風呂に行ったところで、大きな溜息と共に私はぐったりソファーに倒れ込む。だが学校が始まると、こんな楽しいこともある。それは、ず~っと子供とべったりだった夏休みが終わり、母だけの楽しい時間の始まり。慌ただしく悩ましい毎日も、こんなことで充電し、活力を蓄える。↓車で40分のアウトレットで一目ぼれしたSTAUBの鍋とその他のお買い上げ品。 年に2回(春・秋)行われる、車で1時間半ほど離れたところでのアンティークショーで買った↑ファイアーキングの白い小さめのボウル皿、パイレックスの小さなガラス皿と、帰り道に寄ったピーカンナッツ屋さんで買った美味しそうなピーカンたち。テキサスと言えば、ピーカンなんだそうだ。知らなかった。↓一日では回りきれない大規模なアンティークショー。 こんな感じで色々なものが売っている。 ↑可愛い手作り石けんも食器やキッチン雑貨から、ゴミにしか見えないものまで色々。アンティークとは、ゴミとステキの微妙な間にたつ。受け取り手によって、価値が全く変わって面白い。そういえば、生きている犬も売っていた。アンティークではなく子犬だったが、わざわざここで買う人はいるのか。色んな‘微妙’があって面白い。昼は、ここ↓で食べた。 番号札の代わりに、色んなものを渡される。 私たちは、↑このつぶれたアンティークなランタン。前に並んでたおじちゃんは、ショッキングピンクのカウボーイハットを渡されていた。一緒に行った3人で違うものをとり、少しずつ味見させてもらったが、どれも美味しかった。アメリカ全土なのかテキサスだけなのかは知らないが、12歳未満の子供は、子供たちだけで留守番をさせてはいけない。夏休み中はスーパーだって、もれなくヤツらがついて来たが、いつも行ってるスーパーも、1人でゆっくり回れば、まだまだ新しい発見がある。 バーボンの Maker's Mark をご存じか。(右は、ジャックダニエルのマスタード。他にも色々ある。)Maker's Mark は、アメリカのお酒だが、そこが作ったバーボン味のグルメソース。ソースに Maker's Mark が入っている。BBQや魚料理、野菜のディップにもいい、と書いてあるので、さっそく焼いたお肉にからめて食べてみた。う~ん・・・。そうだった。私、お酒飲めないんだった。酒好きにはたまらない一品、ということで、酒好きの人へのお土産に。9月の昼間はまだ暑い。まだまだ泳げる!と、お友達家族と車で30分ほどの Krause Springs というところに行って来た。 ↑この真ん中までせり出している木には、 ↑この穴は結構な奥行の洞窟になっている。 ロープがくくりつけられており、子供から大人 この日は、前日の雨のせいで枝が沢山 までターザンになって遊べる。 中に浮いていて、入って行けなかった。そしてお月見は、朝から小豆を炊いてあんこを作り、月見団子と一緒にそれなりの雰囲気を味わった。 こうして9月は過ぎていった。----------------------------------------書き始めてから1週間が過ぎ、今日はもう10月7日。もっと早くにアップするはずだったのだが、出来なかった。この間起こったことは、また次回書くことにしよう。
2010年10月01日
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夏休み明けから、新しい学年が始まるアメリカ。8月はもう、どこもかしこも学校の準備一色。スーパー、服屋、楽器屋、事務用品店、テレビ、ラジオ、会話まで、学校のことばかり。親は、学校からもらう、学年ごとに必要な1年分の学用品が書かれた紙を手に、店を何軒もハシゴして、それらを学校が始まるまでに準備する。1軒で全て揃うことはなく、売り切れているものを探し求めて何軒も回る。私は今回、子供2人分を揃えるために、店を7軒回り、売り切れたものの再入荷を待ったり、追加で必要になったものを求めて、のべ10軒回った。スーパーではこの時期、子供の学用品を探してカートを押しているママたちが沢山いる。そして人のカートをのぞいては、「それはどこにあった?」とお互い聞き合い助け合う。そんなこんなしている間に、どんどん始業の日は近づいて来る。学校開始5日前くらいになると、小学校では新しいクラスと担任の発表があり、校舎の壁に紙が貼りだされる。3日前になると、夕方から「Meet the Teacher Night」というのがあり、揃えた1年分の学用品を持って親子で学校に行き、自分の教室の場所を確認し、新しい担任の先生に会う。教室に入ると、もうそれぞれの席が決まっており、そこに持って来た荷物を置いて、先生とお互い自己紹介してしゃべったり、教室内を見て回ったりして、気が済んだら?帰る。スムーズに初日を迎えられるように、少しでも緊張がほぐれるように、との配慮なのだろうが、こんなものまで用意してあって、日本との違いにびっくり。 ←机の上にポップコーン長男の中学も、始業2日前に学校に行き、教科書をもらったり、ロッカーの鍵や体操服を買ったり、準備した学用品などをロッカーにしまって、鍵をかけたり開けたりの練習をする。中学では自分のクラスがなく、各教科先生も違うため、教科ごとにその先生の教室に生徒が移動する。カバンや教科書、ノートなどの荷物は、‘自分の机’の代わりに、それぞれ与えられた自分のロッカーに入れる。こうしてようやく学校が始まるのだが、始まって1週間から10日すると、今度は「Open House」や「Back to School Night」というのがある。小学校が18:30、中学校が19:30から始まるそれは、先生から保護者への授業に関する説明会のようなもの。担任1人の小学校は、1時間、自分の子供の席に着いて話を聞いていればいいが、中学校はそうはいかない。8時間授業、全て違う先生。子供の時間割が書かれた紙を手に、親は皆、3分間の移動時間で教室を移動して、それぞれの先生に会いに行く。先生に与えられた時間は5分。5分間で先生は、授業の方針、成績のつけ方、宿題等の話をしなければならないのだが、5分は短い。5分3秒前になると、「ブッ、ブッ、ブッ、ブーッ!」とブザーが鳴り、「時間です~。時間が足りないかもしれないけど、次の教室に移動して下さいね~。」と放送が入る。先生も、「あ~、何か質問があったらメールして!」と早口で〆る。最初は、先生も保護者も、おもろいな~と笑っていたのだが、だんだんそんな余裕もなくなってくる。5分の説明を聞いて、3分で次の教室に移動。次の教室は、同じ階もあれば、3階から1階へ移動しなければいけなかったり、2階と思って行ったら、1階へ変更になっていたりと、大量の保護者が急ぎ足で廊下や階段を大移動。やっと教室に着いて、椅子に座ったと思ったら、あっという間にブザーが鳴る。あり得ない~。こんなこと、日本ではあり得ない~。オットと二人、8時間分終えて適度な運動をした私たちは、変な爽快感と共に、ニヤけながら車に乗った。さて、学校が始まる前から、長男のことが心配で心配で、ずっと緊張していた私。英語も出来ないのに毎時間教室を移動して、授業で先生の言ってることも分からず、宿題を出されても、きっと出されたことにすら気付かないだろうに、大丈夫なんだろうか。たった5分の休憩の間に、トイレも行って、教室も移動。ロッカーに取りに行かなければならないものもあるだろう。時間の感覚がいまだによく分かってないヤツに、毎朝毎朝早く早く!と急かされても急げないヤツに、そんな高度なことがいきなり出来るのだろうか。いーや、出来る訳がない。きっとどこかで、にっちもさっちもいかなくなり、泣いて誰かに助けられるパターンじゃないか。いや、でも、どうにも困ったときに泣くという、彼の最大の強み?であるそれも、ティーンエイジャーになりつつある今は、もう出来ないかもしれない。泣くことも出来ず、どうしていいかも分からず、誰にどう助けを求めていいかも分からず、授業が始まって誰もいなくなった廊下で一人、汗をかいて半泣きで立ちつくす姿が頭に浮かぶ。あ゛ぁ~、こんなことならスクールバスに乗るところから、真横にぴったりついて行きたい。ついて行って、丸一日一緒に行動する方が、よっぽど楽だ。でもそれは出来ない、出来るかもしれないけど、しない方がいいのかもしれない。ならば手紙を持たせよう。毎時間、教科ごとに先生に見せるよう、「僕は英語がまだあまり出来ません。 宿題やプロジェクトなどは、紙に書いてもらえると助かります。」と書いた紙を持たせた。英語が出来ないことを知ってもらえるだけでいい、何かと助けてくれるだろう。絶対どの先生にも見せるんだよ!、と何度も念押しして、初日だけ、家の近くのスクールバスのバス停までついて行った。そこにはもう一人、子供について来ているお母さんがいた。彼女とその娘さんは、学校が始まる2日前に、教科書をもらったり体操服を買ったりしに学校に行ったとき、長男とロッカーが近く、このロッカーどうやって開けるの?と会話を交わした親子だった。え~! ご近所さんだったの!? 知らなかった~。 とご挨拶。でも、「緊張して吐きそうって言うの、うちの子。」と彼女。え? そんなに緊張してるの??英語がしゃべれて何の問題もない、地元の子供でも、環境が変わるというのは大きなプレッシャーなんだ。可哀想にその子はもう、何日も前から、まず朝のスクールバスで座れなかったらどうしよう…から始まり、色んなことをあれこれ考えては不安になり、吐き気まで催している。子供の性格や置かれた状況で、親も色々心配するが、子供も大変なんだ。「大丈夫だから!」と私たちは、それぞれの子供に言い、バスに乗るのを見届けた。そんな彼女の娘さんは、日本のアニメが大好きで、日本のアニメなら、一日中でもテレビを見ていると言い、日本語をすごく勉強したがっているのだとか。テレビから流れて来る日本語を一所懸命聞きながら、英語の字幕を追っているんだそうだ。「じゃぁ、うちの子に言っとくよ。 うちもアニメが大好きだし、バスの中で片言でもアニメの話が出来たら、お互いちょっとは緊張がほぐれるかもしれないし。」と言って別れ、お見送り終了。一仕事終えたような脱力感だ。でも心配なのは、これからの今日一日だ。どんな顔して帰って来るのだろう。っていうか、ちゃんと間違えずにバスに乗って、間違えずに自分のバス停で降りれるのか?今朝の女の子もいるし、うちの前に住む仲良しの兄弟もいるし、大丈夫だろうとは思うけど…。ちゃんと、渡した先生への手紙を見せるだろうか。ちゃんと、教室移動が時間内に出来るだろうか。トイレを我慢、なんてことにならないだろうか。ロッカーの鍵の番号を ちゃんと覚えてるだろうか。体操服に着替える場所が、ちゃんと分かるだろうか。ちゃんと、ランチを並んで買えるだろうか。食いっぱぐれないように、念のためおにぎりを持たせたが…。上海での、泣きぬれた現地校初日が思い出される。夕方、帰って来た彼は、笑顔だった。笑顔を見た瞬間、肩の力が抜けた。良かった。聞くと、ちゃんと自分で時間内に教室を移動し、先生には、私の書いた紙を見せずに自分の口で言ったのだとか。ヤツの成長に感動した。ちゃんと自分の口で言おうという、物おじしない積極性に感動した。ただ、帰りのバスは、間違って一つ手前で降りようとしたのを 近所の仲良し兄弟に止められて、無事帰って来れたのだとか。あんた~、みんなが部活や用事でバスに乗らないときはどうすんの?降りる所の景色を覚えて、ちゃんと窓から見てなさい!母は、こんなにもあれこれ考え、心配し、白髪を増やしている。
2010年09月13日
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我が母サザエがスカイプをかけてきて、彼女の住む団地で起こった自殺未遂事件について話し出した。自殺をはかった女性は、そこの住人ではない。サザエのお友達夫婦が10階辺りのエレベーターホールでその女性とすれ違い、「ここにはまだ上の階がありますか?」と聞かれ、変なことを聞くなぁと、ちょっと気になったと言う。お友達夫婦が1階に降り、エレベーターから出ると、向かいの棟の上の方から「やめろー!」と何度も大きな声でこっちの棟の上の方に向かって叫ぶ人がいる。びっくりして見上げると、そこにはさっきすれ違った「まだ上の階があるか」と聞いた女性が、飛び降りようとしているところだった。慌てて戻り、その女性をつかまえて止めたんだそうだ。そして、役員のようなことをしている我が父のところに連絡が来た。サザエは、お茶を一杯淹れ、その彼女に飲ませたそうだ。そして一言、「こんなことして痛い思いせんでも、ほっといたら何もせんでもそのうち死ぬんやが~。」と言っておいたそうだ。もぅ・・・でも確かにね。この女性は、飛び降りた時の痛みの方がマシなくらい、辛い日々を送っていたのかもしれない。でもサザエの一言で、「ほんまやな、アホらし。」と思ってくれたら、少しでも気が楽になってくれたら、いいなと思う。
2010年08月19日
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春に種をまいた庭の小さな畑。5月6月でいい感じに成長し、隣の家のイチジクとともに、夏の収穫を楽しみにしていた。(その時の様子はこちら)そして待ちに待った夏が来て、庭はとても賑やかになった。 7月のある日の収穫しそ、ゴーヤ、イチジク、バジル、ミント、ひょうたんも沢山なっている。中でも、このイチジクの量がすごい。取っても取っても追いつかず、この写真の量が毎日のように取れる。ところが悲しいかな、こんなに新鮮なものがタダでいただけるのに、うちの家族では私しか食べないことが発覚。鳥も虫も私も、みんなでガンガン食べるのに、全然なくならない。コンポートやゼリー寄せなど色々試してみたり、お友達の家にお邪魔するときに持って行ったりしてみたが、大して減らない。私も一人でこんなに食べれる訳もなく、あのワクワクした気分は、あっという間に終息を迎え、イチジクは、地面にボタボタと落ちて、土に還っていきつつある。イチジクに関しては何だか残念だったが、ゴーヤは今も2~3日に1回、5~6本ずつくらい収穫できる。シソもバジルもすくすく育ち、大助かり。ジェノベーゼは、もう何度作ったことか。冬の間も使えるように、冷凍にもしてある。そんな素敵な私の畑は、6月頃はこんな感じ(写真左)で可愛かったのに、7月・8月の旅行を終えて帰って来ると、すごいことになっていた。 → あふれていたのだ。ひょうたんとゴーヤのツルがあふれていて、もう芝生と畑の間の木の仕切りも見えない。可愛いパイナップルミントもタイムも、シソもバジルもミニバラも、全部埋もれて見えない。ゴーヤとひょうたんの勢いは、もう誰にも止められない。切ってスッキリさせたくても、実がどんどんなって、切らせてくれない。あ~あ。タイムなんてもう、覆い重なるゴーヤの葉をめくっても姿が見えない。きっとエネルギーを全て吸い取られ、力尽きてしまったに違いない。あの生命力の強い雑草、ミントもだんだん規模を縮小しており、ちらほらとしか見えない。このままではミントさえも消えてしまうんじゃないかと、早く秋が来てゴーヤとひょうたんの2大勢力が寿命を全うするのを 待っている。来年は、植える場所を ちょっと考えなければ。肥料にしようと埋めた野菜のくずから芽を出し、すくすく成長していたかぼちゃは、沢山花をつけたが、肥料が足りなかったのか、芽を出した時期が春を過ぎていてちょっと遅かったからか、花だけ咲かせて実はならない状態が続いていた。そして旅行を終えて帰ってきたら、枯れていた。ちょっと期待していたんだけどなぁ。来年は、ちゃんと植えてみようかな。夏休み中、子供たちが通ったテニスでお友達になった、長男と同い年の男の子の家にお呼ばれした。長男とその子はとても気が合うようで、テニスでお互いに会うのを楽しみにしていた。その子のお母さんも、とても楽しい素敵な人で、レッスンが終わった後も、子供たちは遊んで走りまわり、私たちは立ち話に花を咲かせる、ということがしょっちゅうだった。お邪魔したお家は、これまた素敵で、大きなプールがあり、子供たちも大はしゃぎ。おまけに、「トビ~!」と呼ぶと、庭の奥から何かがごそごそ出て来て、犬か猫かと思ったら、出て来たのはでかいカメだった。野菜くずをやると、バクバク食べる。すごい家だ。こんなでかいカメを庭で放し飼いにしているなんて。このカメ、買って来たの?、と聞くと、近所の茂みで拾ったんだと言う。拾ったときは、手のひらサイズの小さなカメだったのよ・・・、と彼女は溜息をつく。ねぇ、このカメの寿命って何年くらい?、と聞くと、「ん百年よ。 私はもう知らないんだから。そんなに面倒見きれないわよ。」と言う。だよねぇ。財産と共に、子供へ、孫へ、と受け継がれていくんだろうか。カメの将来、ちょっと気になる。 ランチには、子供たちがそれぞれ自分で作れるように、ピザの材料を用意しておいてくれ、大人には、米を炊き、絶品タイカレーを用意してくれていた。野菜のドレッシングまで手作りで、ピザにのせるバジルは、庭から取って来た。ちゃんとした手作り料理なんてしないアメリカ人が多い、と聞いていたが、彼女は違う。もっとも、子供もダンナ様も、手作りよりもジャンクフードが好きなんだそうだが。もったいない。楽しい時間はあっという間に過ぎ、帰る時間になったが、彼女がオースチン初心者の私たちに、色々遊べる場所を教えてくれた。その中に、毎年夏休みの2週間だけ、ジルカーパークという公園の野外ステージで、無料のミュージカルをやっていて、それが今週の土曜日まで、というのがあった。今年の演目は、「アニー」。私が小さい頃、初めて母に連れて行ってもらったミュージカルが「アニー」だった。家に帰ってさっそくオットに言い、土曜日に見に行くことに。彼女に教えてもらった通り、早めにビニールシートを持って場所取りに行き、開演までそばのバートンスプリングスという、湧き水のプールで遊んだ。 ↑開演1時間前。 照明の都合上、日が暮れないと始まらない。 ↑日没20分前くらい。中休みを入れ、終わったのが22時過ぎ。子供たちも「帰るー!」と言うこともなく、寝てしまうこともなく、楽しい夏の夜を満喫した。長い約3ヶ月の夏休み、日本に帰らずここで過ごしたが、昼寝も出来ないくらい忙しく、あっという間だった。もう来週から学校が始まるが、楽しく、充実した夏休みだった。
2010年08月18日
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旅行から帰って来ると、もう町中、新学年へ向けての準備一色だった。こちらは、4月ではなく、夏休み明けから新学年がスタートする。テレビ・ラジオは、学校の準備に関するCMばかり。スーパーも服屋も、学用品や新学期のスタートに向けた商品、寮やアパートで一人暮らしを始める学生向け商品の特別コーナーを大きく設けている。人に会えば、「Are you ready for school?」と子供たちは必ず聞かれる。あぁ、もう・・・止めてくれ、焦らせるのは。どんどんブルーになってくる。旅行中に、長男の入学する中学校からスクールバスの案内と、授業のスケジュールが届いていた。中学校から選択科目があり、予めどれを取りたいかリクエストしておくのだが、どうやらどれも希望通り取れたようだ。あぁ、そしてこれは、もう待ったなしの「始まる」というシルシ。私はどんどん、ブルーになっていく。新学年が始まるのも、あと1週間。長男中1(日本では6年)、次男が3年生(日本では2年)になる。小学校の方は、随分勝手も分かって、本人も私も慣れてきたが、長男の中学は、全て初めて。選択科目があったり、毎時間教科ごとに教室を移動したり、スクールバスに乗ったり、考えるだけでこっちがドキドキしてくる。英語もまだまだなのに、大丈夫なんだろうか?5分しかない休み時間に、トイレも行って、教室も移動して、なんて、そんな高度なことがヤツに出来るのだろうか。急げ、と言っても急げないヤツに。違うバスに乗らないだろうか?降りる場所を間違えないだろうか?右手と右足が同時に出るんじゃないか?そして、大変なことになるであろう宿題のことを考えると、始業日が近づくにつれ、どんどん沈んでいった。もちろんヤツではなく、私が。あぁ・・・落ち着かない。あぁ嫌だ・・・。新学年が始まるにあたり、予め各家庭で用意しておかなければいけない、一年分の学用品。これも足りない分を 買いに行かなければいけない。初日にまとめて学校に持って行くのだが、ほとんどの物がメーカーまで指定されている。○○の色鉛筆 12色○○のハサミ ○cm○○の洗い流せるマーカー 10色 ・・・という風に、子供一人につき、25種類くらい。しかも学年が変わると、例えば前の学年では色鉛筆は12色だったのが、24色必要になったり、同じ物でも微妙に違ってくる。この学用品を全て集めるのに、何軒店をハシゴすれば揃うんだ!というくらい、毎年走り回らなくてはならない。毎年色んなものが色んなお店で売り切れるのだ。学校で学年ごとのパック販売もあるのだが、バラ売りはしてくれないので、物によってはまだまだ使えるのに、また新しいのを買うことになったり、ハサミや定規が毎年増えていく、ということになる。そのため毎学年末、学校では、使い終わった学用品セットを‘寄付’という形で集め、どこかに寄付するのだが、いくら寄付と言っても毎年のこと、もったいないと思うのは私だけか。色鉛筆やクレヨンなんて、1年で使う量は知れている。幼稚園で使っていたものだって、いまだにうちにある。どうして必要なものだけ、売ってくれないのか。チビの必要な24色の色鉛筆は、2年生で使っていたものがまだまだ使えるのだが、2本なくなっていたので、長男の使っていた分から補充しようと思ったら、長男の学年の使っていたのは12色だったため、Jade Green(翡翠色の緑)やMahogany (マホガニーの茶色)なんていうスタンダードカラーでないものは入っていない。じゃぁバラ売りを買って補充しようと店に行ったら、バラ売りなんてないという。長男がいらなくなった「○○の洗い流せるマーカー8色」がチビに使えると思ったら、3年生は、10色じゃないといけないという。パラ売りはない。日本じゃ当たり前のバラ売りがない。結局私は、チビのものを揃えるのに6軒の店を回った。長男の方は、学校からリストをもらったが、よく分からないものもあるし、どんなものを中学生が使っているのかも知らないので、初めてだし、今回はパック販売を利用することにした。ところが開けてみてびっくり。そこには赤・黒・青のボールペンが10本ずつ、12色の色鉛筆が3箱など、そんなに絶対いらんやろ、という数が入っていた。これでまた、我が家の色鉛筆が増えた。そして長男の中学は、音楽が必修科目なのだが、ブラスバンド・オーケストラ・合唱の中から一つ選ばなければならない。不器用な長男、オーケストラは絶対無理、人前で歌うなんて絶対嫌!、と消去法でブラスバンドのパーカッションに決定。ところがこれまた、開けてびっくり。各家庭で揃えなければいけない物の中に、ドラム用、木琴用、ティンパニー用、マリンバ用のそれぞれのバチ(スティック)とあった。なんで?こんなもの、学校に数セットずつあればいいだろう。ドラムスティックだけは個人持ち、というならわかるが、パーカッションの子供たちみんなが、これ全部を 個人で持つ必要がどこにあるのか。何でこんなに無駄な消費をさせるのか。この子たちの中のどれだけの子供が、卒業後もこれを使い続けるというのか。安くない。メーカー指定のバチは、それぞれ5000円くらいする。もったいないではないか。他の楽器の子供たちも、トランペットやサックス、フルートなど、それぞれ楽器を購入する。高校を卒業して、大学に行って、大人になって、それでもまだ楽器を使い続けている子供が、どれくらいいるのか。ほとんどいないだろう、私のように。楽器屋はこの時期、朝から晩までいつ行っても混んでいて、これまた売り切れがでる。お陰で私は3回、店に通った。こんなことでいいのか、アメリカ。ここに来て良く思うのだが、本当にこの国は、使い捨てが激しい。ちょっと人が集まると、全て紙コップ・紙皿・プラスティックのフォークにスプーン。ちょっと使ったら、すぐにポイっとゴミ箱行き。学校の給食も、残飯だらけ。好きなものだけ食べて、嫌なものは全部捨てる。平気だ。エコだ、エコだという前から、日本には「もったいない」という精神がある。でもこの国は―。オットが、この国は消費で成り立ってる国だと言ったが、その通りだと感じる。みんなが紙コップや紙皿を使うのをやめ、どうせ食洗機が洗って自分で洗わないんだから、ちゃんと食器を使い、文房具は全てバラ売りもし、足りないものだけを買い足せるようにし、楽器は購入希望者以外、学校が管理し、毎日スタバのドライブスルーでコーヒーを買うのを止めるか、マイカップ持参で行くようにしたら―。それだけで、この国の経済ガタガタになったりして。でも。使えるものは使う。新しいものをわざわざ買う必要はない。新しいものを買うために、わざわざ捨てる必要もない。オットの使っているゴルフ道具は、彼が高校生の時に使っていたもの。私の使っている裁縫道具入れは、私が小学生の時に使っていたもの。何だか古いもの自慢のようになってしまったが、まとめると、アメリカの学校は無駄遣いが多くて面倒くさい、というところか。あれ?
2010年08月17日
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この夏の旅行も、今日が最終日。7日目の今日は、朝からホワイトサンズへもう一度行き、そのあと10時間かけてオースチンへ帰る。ガソリンスタンドでの休憩だけだと、子供たちは退屈だし、10時間もあるのでそれだけでは疲れる、ということで、途中バルモレアというところの湧き水のプールで遊んで帰る予定。モーテルの簡単な朝食を取り、チェックアウトして、またホワイトサンズへ。昨日も日が暮れるまで遊んだし、今日も朝早くから遊べたし、11時にはここを出る。子供たちも、わりと素直にそれに従う。まだ次の、湧き水のプールが控えているからか。ホワイトサンズから約5時間。ホントにこんなところに州立公園があるの??、と不安になるような、な~んにもないこんな道をひたすら行くと、こんなのどかな道路標識のある小さな町が現れ、バルモレア州立公園へ到着。 ↑この標識はもしかして、七面鳥…?道路でも町なかでも、全く人を見なかったが、ここに入ると普通に沢山人がいる。みんなどこから湧いて来たの?というくらい、ここだけ。プールは、湧き水なだけあって水が少し冷たいが、魚もたくさん泳いでいて、大人にも子供にも良いリフレッシュになった。 さて、あと6時間。頑張って行きますか。途中、運転の交代のために寄った休憩所で、みんな車から出て大きな伸びをする。見上げた空には、こぼれ落ちそうなくらいの星が輝いている。こんな量の星、見たことない。天の川まで流れている。私の人生で二度目の天の川。ずっと、もう一度見たいと思っていた天の川。七夕じゃないのに、天の川。・・・あれ?天の川って、七夕のときだけに見られるんじゃなかったのか?こんな風に、いつもあるのか?織姫と彦星は、年がら年中会っているのか!?えー??子供たちはここで、初めての天の川と流れ星を見た。車を止めるスペース以外何もない、こんな休憩所で、こんな感動が待っていたとは。なんて素敵なプレゼントだろう。ありがとう。この偶然に、この時間に、私たちを包む大きな力に、全てに。織姫と彦星の「年中密会疑惑」は、家に帰ってゆっくり調べることにしよう。夜中の1時、家に到着。走行距離は、日本列島を北海道から鹿児島まで下り、そこを折り返して静岡まで行くくらい。良く走ったものだ。でも、色々な人との出会い、言葉を失うほどの大自然、笑いあり、神秘あり、考えさせられることあり、の本当に素敵な旅だった。
2010年08月15日
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旅行6日目の今日は、チェックアウトの時間まで温泉の朝風呂を楽しみ、近くの可愛いお店で朝食をとってから、最後の目的地、石膏の砂丘・ホワイトサンズへ行く。温泉からホワイトサンズまで、約2時間。2時間の運転が楽に思えるから、慣れって怖い。朝風呂で昨日の家族にお別れを言い、チェックアウトして近くのこのお店へ。ドライトマトとほうれん草がそれぞれ練り込まれた皮に、卵や野菜がパンッパンに詰め込まれた「ブレックファースト ブリトー」と、子供たちが頼んだオムレツ。テーブルの上には、懐かしの「Knott's Berry Farm」のジャムが置かれている。カリフォルニアにいた頃、ここの遊園地に遊びに行ったり、ジャムにはいつもお世話になっていた。上海にいた時も、中国産の物は色々ニュースで聞いて恐ろしく、食品はなるべく輸入物を使うようにしていたのだが、近くのスーパーでこのジャムを見つけた時は、家に帰ったときのようにホッとした。私は今も、このジャムを見るとホッとして嬉しくなる。 それにしてもこのブリトー、美味しいのだがすごいボリュームで、さすがのオットも残すほど。店のおじちゃんも、「そうだろう、そうだろう。 でも2人とも半分以上食べるなんて、なかなかやるじゃないか。」って、このぽってりした見た目とは反する挑戦的食べ物だったのか。 そして料理を運んでくれるこのお姉さんが、「私日本に留学してたの。」と言って私たちを驚かせた。周りにこの町以外何もない、ニューメキシコの砂漠の真ん中の小さな町の、小さなカフェで働く彼女が日本に留学とは・・・。ここでそんな出会いがあるとは思わなかった。気分を害さないかと思ったが、聞いてみた。すると彼女も言った。私はこの小さな町で生まれて、きっとこれから先もこの町で一生を過ごす。それはそれでいいんだけど、でもだから、一度この町の外を見たかった。そして彼女が選んだのが日本だった。嬉しいじゃないか。こんな風に選んでもらえるよう、日本や日本人の持つ素敵なところを 私たちは忘れないよう、もっと磨いていかなきゃいけないな~、なんて大きなことを 今日のご飯もまともに作れない私が考えてみたりして。留学を終えて帰って来た彼女に、色んな人が日本はどうだったかと聞いて来るのだそうだ。その度に彼女は、「ホストファミリーのお父さんがサムライで、お母さんがゲイシャだった」と答えるそうな。しかもそれを聞いて信じてしまう人を 彼女はそのまま放置する。笑える。そんな彼女の名前は、Chantal(シャンタル)、フランスの名前だ。彼女の兄弟にも、みんな違う国の名前がついている。なんで? でもうちもよ。というと、なんで~!?、とお互い大笑い。小さな町、小さな国の子供たちが、違う国の名前をもつ。ここにもいた。ちなみに、私の名前「じゃんまる」、これイタリアでんねんわ。ほんまは「ジャンマルコ」。イタリア人と結婚した、友達の子供の名前をいただいた。大阪出身の彼女は、子供を呼ぶとき「Janmarco!」ではなく、「じゃんまる~!」と呼ぶ。超外人顔の子供が「じゃん丸」。いただかない訳がない。私たちが店を出るとき、彼女がお土産をくれた。そこには、日本語で「ありがとう」と書かれてあった。アメリカの甘くてやわらかいクッキーが何枚も。こちらこそ、楽しい時間をありがとう。なんて素敵な出会いに恵まれた旅行なんだろ~と、みんな満たされた気持で車に乗り込む。途中、パスポートを提示するよう言われる検問があるよ、と予め友達に聞いていた通り、ホワイトサンズの手前で検問。そこを抜けると、あっという間にホワイトサンズ国定公園に着くのだが、まずはここを通りぬけ、その先にあるアラモゴードという町のモーテルにチェックインに行く。と、ここで思い出した重要なことが1つ。それは、このホワイトサンズ、面積が奄美大島と同じくらいあるのだが、公園として保護されているのはその4割のみで、残りの6割は全米最大規模のミサイル射撃場になっており、ミサイル実験が行われる週に2回は、毎回2時間ほど通行止めになるのだそうだ。その時間帯を予め調べてから来ようと思っていたのに、忘れていた。いつもいつも、何でも直前になって慌ててするから、こういうことになるんだ、という声が聞こえる気がする。でももうここまで来ちゃったものは仕方ない。あとは祈るのみだ。ラッキーなことに実験はなく、すんなり最短距離でアラモゴードのモーテルに到着。旅行最後の宿はここ、White Sands Motel。日中の日差しのきつい時間だったのだが、フロントの人が「日陰になってる部屋にしておくね。」と気を利かせてくれた。部屋も清潔で快適、十分だ。さて、子供たちお待ちかねの砂丘すべりに行く前に、そのためのソリを買いに行かなければ。ビジターセンターに、レンタルのソリもあるのだそうだが、早く行かないとなくなってるときもあると言うので、また来るだろうし買うことに。近くのウォールマートというスーパーにある、と友達に聞いていたのだが、実際にはなく、スポーツ用品店に行くよう教えてもらう。ソリを手に入れ、ようやくホワイトサンズへ。辺り一面真っ白。これ全部石膏っていうのがすごい。元々この辺りは浅い海の底で、堆積したプランクトンの死骸などが固まって石膏になったという。ちょっとした屋根の付いたピクニックテーブルがあるエリアもある。 一晩経つと、風に砂が流され、車の通り道もわからなくなるため、↑こうやって雪かきのように砂をかく。ありんこか、アフリカの荷物や水がめを運ぶ人のように、ソリを抱え登る子供たち。 登ったら、それぞれ思い思いに滑る。 ↓こんな石膏の砂丘のど真ん中にも、こうやってアリが巣を作っている。すぐに風に吹かれて塞がってしまうのに、ご苦労なことだ。そして自分たちとは正反対の、コツコツ真面目に働くアリたちを「ウッシッシ…!」と巣もろとも生き埋めにし、喜ぶうちの怠け者たち。その上に、封印したという意味で「封」と書いたつもりなのだろうが、そんな字すら間違っている。 バカもの。 ↓なんじゃこりゃ 日が暮れたところでアラモゴードの町に戻り、夕飯を食べてモーテルに戻る。町に戻ったのが遊び過ぎて21時近くになってしまい、開いてる店が少なかった。何もないよりマシ、と23時まで開いている中華バイキングの店に入る。まずい。まずいから、何でお腹をいっぱいにしようか悩むところなので、チビのこんな皿を見ても何も言えなかった。↓ゴマ団子が6個も入った皿。でも店の中国人のおばちゃんたちは、みんな愛想が良く、子供たちが中国語でしゃべりかけると、喜んでさらに愛想が良くなった。モーテルに戻ってシャワーを浴びたら、早起きするためすぐ消灯。明日の朝、10時間の家路につく前に、もう一度砂丘で遊んで行こう。
2010年08月14日
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旅行5日目。サンタフェから3時間南の Truth or Consequences という変わった名前の町に行く。目的はここの温泉宿。午前中サンタフェの駅でしばらく遊び、郵便局にハガキを出しに行き、それから移動。車の中では、コーヒー・ジュースにお菓子をバリバリ。「♪どないすんねんお前っえ~! どないなっとんね~ん!」とみんなでウルフルズを熱唱し、いい感じで目的地へ到着。着いた温泉宿はこんなところ。「Riverbend Hot Springs」 川沿いに↑こんな感じで2つ、ひさしの下に温度ごとに3つに区切られた横長の浴槽が1つ↑。計5種類の温度が楽しめる、あ、6種類か。最初に案内してくれたおじさんが、冷たいのが良ければあそこね~と言って指差したここ↓。え? 川?? 横の休憩スペースには、椅子やテーブル、ボンボンベッド(サマーベッド?ビーチベッド?)が置かれ、温泉につかっては休み、本を読んだり、うとうとしたり、それぞれにみんな楽しんでいる。宿泊施設は、古いモービルホーム。↓くつろぐ、という部屋ではないが、外の温泉でくつろぐからまぁいいっか、とあきらめる。 左は、この宿の受付の小屋。朝はこの前で無料のコーヒーが振舞われる↑部屋に荷物を置き、温泉でくつろぐ前に、遅めの昼食と夕飯の買いだしに近くのスーパーに行く。昼はカップラーメン、夜は久しぶりに米が食べたい!ということで、カップラーメンと水を買う。炊飯器と米は、友達のアドバイスを受け持参。1週間も外食が続くと、絶対米が食べたくなると言っていたが、本当だ。ふりかけも持って来た。さぁ準備は出来たし、温泉だー!水着を着て入る温泉ってどうなんだろう?と思っていたが、人目を気にすることなくいつまでもダラダラ入っていられるし、家族で別々に入ることもなくしゃべってられる。裸で混浴だと、さすがにのんびり出たり入ったり、とはいかないだろう。親は久しぶりの温泉だ~とくつろぎ、子供たちは子供たちでお友達が出来、楽しそうに遊んだり温泉につかったり。これはゆっくり出来そうだ。しばらくすると、川上からどんぶらこどんぶらこ、と人が流れて来た。川の上のデッキで遊んでいた子供たちは、びっくりして「あ~~~~っ!」と叫ぶ。どこに行くの!? と驚く私たちをよそに、おじさんはの~んびり手を振って流れて行った。するとまた、つぎのおじさんが・・・。うば捨て山ならぬ、じじ流し川か?楽しそうだが、どこに流れ着くのか気になって仕方ない。なんだか面白いこともあるし楽しいな~、とお湯に浸かったり休んだりしているうちに、だんだん日が傾いてきた。子供たちが友達になった兄妹のお父さんが来て、今から夕飯食べに行くけど、また戻って来るから夜も温泉で遊ばせよう!と言って兄妹を連れて行った。私たちも部屋で久しぶりの米を食べてから、また温泉に戻った。温泉に戻った頃には、もう辺りも薄暗くなっていた。お湯に浸かりながら月が見れたらいいな~と思っていたら、お友達家族が戻って来た。彼らもテキサスから来たと言う。彼らはヒューストンに住んでいて、毎年ここに泊まりに来るのだそう。この街には他にも温泉宿があるけれど、川沿いにあるのはここだけで、ここが一番のお気に入りなんだそうだ。それにしてもこの街の名前「Truth or Consequences」真実か結果か、って変わった名前よねーと言うと、由来を教えてくれた。元々この街は Hot Springs という名前だったのだが、1950年、Truth or Consequencesというラジオのクイズ番組でホストを務めるラルフ・エドワーズが、「この番組の名前を町名にしたら、その町から番組をオンエアーする」と宣言。それに名乗りを上げたのが、この町だったんだそうだ。どうりで変な名前だと思った。それから50年、毎年5月の最初の週末に、彼はこの街を訪れたそうだ。彼の名前の付く公園もある。それから、月が出るのを待ちながら、色んな話をした。とってもおしゃべりなお兄ちゃんは、うちの長男の1つ上。大人しくて色々慣れるのに時間がかかるという妹は、小学4年生って言ったかな。同じ兄妹なのに、性格が正反対で・・・とお母さんが溜息をつく。お兄ちゃんの方は、ディベートクラブ(討論クラブ?)に入っているらしく、どんどんどんどん話が続いて止まらない。お母さんが話すのを遮ってまでも、色々しゃべってくれる。その間妹の方はずっと黙ったまま。でも宮崎駿監督のアニメが大好きで、中でも「となりのトトロ」が大のお気に入りだと言う。トトロの歌なら日本語で歌えると聞き、みんなで大合唱。となりのトトロ、歩こう?の2曲歌ったところで、夜の9時半。そろそろお湯に浸かっているのも限界だ。休憩しにお湯から出ると、蚊の猛攻撃にあうし、月も出ないし。明日またチェックアウトの時間までに会えるかな、と言いながら部屋に戻った。今回の旅は、ロングホーンのおじいちゃん夫婦、尺八の兄ちゃん、温泉家族、と良い出会いが沢山あった。人との出会いが、楽しい旅行をさらに素敵に充実したものにしてくれる。出会いに感謝だ。明日がこの旅行最後の目的地。チェックアウトの時間までに、また温泉に入って行こう。
2010年08月13日
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タオス・プエブロからさらに北上し、コロラド州コロラドスプリングスへ。降り出した激しい雨のせいで4時間くらいかかって、夜8時頃ようやくモーテルに到着。この日のモーテルは、「Villa Motel」というところ。素敵なホテルやB&Bも何軒かあったが、満室だったり子供はダメだったり。全く期待せず予約したこのモーテル、部屋は意外と大きく清潔で快適。明日は「Garden of the Gods」という、大きな岩がゴロゴロと絶妙なバランスで立っているところに行く。雨が止んでくれることを祈って、早めに就寝。旅行開始4日目。目覚めると雨も止んでいていい感じ。朝食を 外に出されたテーブルで、周りの山々を見ながらいただく。私たちのような子連れファミリーが沢山泊まっていたようで、朝食をとる家族、出発する家族が入れ替わり立ち替わり行ったり来たり。そして私たちも「Garden of the Gods」へ。 ←車もこんな岩の間を通る ←豆粒のような岩の下の3人 ←揺れたら終わり的岩が沢山 ↑万里の長城のときと同様、チビはどこでも平気で行ってしまう。(詳しくはこちら)↓こちらも、いつもと変わらずへっぴり腰で立てずにいる長男。 少しだけ見える頭。↑もっと上に行く!と言うチビと、これ以上あかん!と立てない長男 ここにいる間中ずっと、長男はチビに「お兄ちゃん」ではなく「へっぴり」と呼ばれていた 2人とも、強く大きくなれ!やっぱりいると思った、こういう趣味の人。 なぜ・・・(インフォメーションセンターで申し込める) そしてお次は、ここから10分の温泉の町、マニトウスプリングスへ。温泉の町と言うからには、温泉宿があるのかと事前にネットで探してみたが見つからず。首をかしげながら、それでも銭湯とか、アメリカ的にプール、とかはあるんじゃないかと、ちょっとだけ期待して行った。ところがここは、雰囲気は洋風温泉街という感じだが足湯すらなく(当たり前か)、すべて飲むためのものだった。 ←洋風温泉街そう、それは単なる私の勘違い。springs=温泉と都合良く思い込んでいたのだが、ここは、炭酸ミネラル水の湧き出る街だった。街のあちらこちらに、こんな風に飲み放題の炭酸ミネラル水が出ている。同じ炭酸でもこの炭酸ならいくら飲んでもいいぞ!どんどん飲め!、といつもコーラを飲みたがる息子たちに言ってみたが、最初は喜んで飲んでいたものの、そうは飲めないことに気づき、かなりトーンダウン。この街は、パイクスピーク(標高4,300m)に登る、歯車を使った鉄道としては世界一高い登山鉄道、コグ鉄道の駅もある。 ←テレビ朝日「世界の車窓から」でも放送されたらしい片道1時間半かけて登るらしいが、時間もないし、また今度。子供たちがトーンダウンしたところで、今日の宿のあるサンタフェへ戻る。車で4時間半くらい。今回の旅は、このコロラドスプリングスがUターン地点。サンタフェまで戻り、そこからは、来たときに通ったUFO博物館やカールスバッド洞穴群国立公園よりも西側を南下する。この日泊まるホテルは、前回とは違うところ。前回はとっても素敵なINNだったが、今回はそれよりもお安いモーテル。さて、どんなモーテルか。ちょっとドキドキ。長い長い車での旅、FMも入らないようなところを通るかもしれない、とCDを数枚車に入れておいた。どのCDも、もう何回繰り返し聞いただろうか。運転している時も、助手席の時も、子供が寝ていても、車の中は私の一人カラオケボックスと化し良い気分。旅行も3日目となると、子供たちもそれに混じって大合唱。何度も聞かされ歌詞を覚え、大好きになってしまったウルフルズ。大きな声で小学2年と6年が、「♪そうだろぉぉお~、オネエちゃ~ん!」と歌う。そうこうしている間にサンタフェに到着。モーテルは、新しくはないが清潔で、素敵なセンスが随所に感じられ居心地がいい。 「Santa Fe Motel & Inn」 ↑ベッドサイドテーブルには、可愛い生花が飾られ、タオルの上にはさりげなくトウガラシが。↓部屋に置かれたお菓子の入ったバスケット(有料)。 中のお菓子までサンタフェのお菓子メーカーという凝りよう。モーテルから徒歩5分のイタリアンレストランで夕食。日が沈み、涼しくなったテラス席で美味しい、美味しい!と食べていると電車の汽笛?の音。音の鳴る方を見てみると、そこはサンタフェ駅だった。こんなに近くにあったのね。電車が大好きな甥のために写真を撮ってあげたいけど、ご飯中だし、すぐに出発しちゃうだろうし、と再び食事に集中。食べ終わってから、散歩がてらちょっと駅だけでも見に行ってみよう、と近づくと、そこには赤い鳥の絵がボディーに描かれたニューメキシコ・レイルランナー・エクスプレスが。サンタフェ発アルバカーキ行き甥っ子に写真!と夢中で写真を撮り、まるで自分が電車マニアのようだった。余りにはしゃいで撮っているからか、車掌さんが、まだ出発まで3分あるから中に入って撮っていいよ、と声をかけてくれた。えーっ!? いいのーーーっ!? と、それはもう大はしゃぎ。私、電車に何の興味もなかったはずなんだけど、何でこんなにワクワクしてるのか。そして電車が出発するのを見送ってモーテルに戻った。次の日、駅のショップに甥っ子へのお土産がないか探しに行き、Tシャツや鉛筆、昔線路の枕木をとめるのに使われていたという、製造年の入った釘を購入。その釘も1960年以降は使われなくなり、使用されていたそれまでの釘は、マニアのコレクション用として売られているという。甥っ子へは1941年のものを購入。 線路に降りてみたり 停まっている電車に乗ってみたり十分駅を堪能した後、次の目的地へ向かうため車に戻ろうと少し歩いたところで、「あ~!日本人?」と、チャリンコに造花をさした怪しげな黒人の兄さんに声を掛けられた。おかしい人? それともただのフレンドリーなアメリカ人??判断が難しい。恐る恐る「そうだけど」と答えると、彼は「ホンマ~?! 自分ら日本人なん!?」と嬉しそう。彼は尺八を吹くミュージシャンなんだそうで、尺八最高~!あの音たまらん!と日本の尺八をほめたたえ、子供たちに尺八をなぜ習わせないんだ!と迫ってくる。え~? 尺八ってめっちゃマイナーな習い事やん・・・。彼はそんなことお構いなしに、自分のカバンから何やら紙を1枚取り出し、長男に渡した。それは自分の友達がやっている尺八関連のウェブサイトのコピーで、ここで尺八も買える!この紙は、お前にやる! 是非習うように、っていうか、サンタフェに引っ越して来い!と言って、自己紹介し握手をして別れた。なんやったん・・・? おもろかったけど。色んな出会いがあるな~と車に乗り込み、サンタフェから3時間南に下った「Truth orConsequences」という、ちょっと変わった名前の街を目指して出発。ここの温泉宿が5日目の目的。今度こそ温泉!
2010年08月12日
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前日とは正反対の心安らぐ素敵な部屋でぐっすり眠り、朝食を食べに光り降り注ぐテラス付き朝食エリアへ。今日の予定を確認しながら朝食をとっていると、「おはよう、ロングホーンたち!」と声がする。まさか・・・振り向くとそこには昨日のおじいちゃんがいる。もしかしてここに泊まってる?と聞くと、サンタフェに来る時はいつもここに泊まるんだと言う。へぇ~と聞き流しそうになってふと気が付いた。オースチンからここまでって、車だと12時間くらいかかるよねぇ・・・?まさか車で来てないよねー、飛行機だよねー、と思って聞いてみたら車だと言う。自分で運転してくるそうだ。びっくりして「途中でどこかに泊まったり寄ったりして来るの?」と聞いたが、「ううん。 私たちには時間はたっぷりあるし、のんびり休憩しながら来るんだよ。」と言う。まぢで・・・。もうホントにおじいちゃんなのに、この距離一気に運転してくるの!?すごいスーパーじいちゃんだ、この人。じいちゃんは、私たちのテーブルに椅子を持って来て話す態勢に入る。オースチンのどこに住んでるのかお互いに言いあうと、車で15分の距離。近~い!と声がでかくなる。するとじいちゃんは、今度はノートパソコンを持って来て、地図を開きここだ、と見せてくれた。毎週子供の習い事で通ってる辺りだ。オースチンに帰ったら連絡するよ、と言って連絡先を交換した。じいちゃんたちは、もう少しサンタフェに滞在してからコロラドスプリングスの別荘に行って、オースチンに帰るという。何だか縁があるのかしら、私たちも色々寄り道しながらコロラドスプリングスに行くのよ、今日だけど。30分以上は話したか、じゃぁまたオースチンで、と別れる。そういえば、またサラっと流しそうになったが、じいちゃんパソコンを持っていた。あの年でパソコンを使いこなし、しかも旅行にまで持って来るってすごい。やっぱりスーパーじいちゃんだ、あの人。時間は予定より大幅に遅れたが、こういう人との出会いも旅行の醍醐味だ。素敵な出会いをした。さて今日のテーマは「奇跡」。「奇跡の階段」がある教会に行ってから、「奇跡の砂」の湧きでている教会に行く。ホテルをチェックアウトする前に歩いて行った、「奇跡の階段」のあるロレットチャペル。 ↑イエスとお話し中のチビ 何が奇跡かというと、この螺旋階段、支柱がない。手すりは後から付けたものだそうだが、手すりがないものを想像してみると、滑らかな階段だけがクルクルと螺旋を描いていて、手すりがある今よりもっと宙に浮いた感じだったんじゃないだろうか。伝説によると、この教会は敷地面積が狭いため、礼拝堂の2階にある聖歌隊席に上がる階段がなく、修道女たちはハシゴを使って上り下りしていた。それを怖がった修道女たちが、何とかはしごを上らずにすむよう祈り続けると、9日目にどこからともなく白髪の男性が現れ、この螺旋階段を作った。その男性は完成後、どこへともなく消えて行った、という。イエスの父ヨゼフが大工だったので、ヨゼフが現れて作ったんじゃないかと言われているそうだ。現代の建築技術でも、支柱なしにこのような螺旋階段を作るのは不可能らしく、誰がどうやってこの階段を作ったのか、今でも謎なんだそうだ。って、手すりのないこの螺旋階段の方がはしごより怖そうなんだけど。教会の後方にあるこの階段も興味深いけど、前の祭壇も素晴らしく綺麗だった。歩いてホテルに戻ってチェックアウトし、車で北へ30分。次の「奇跡」へ。「奇跡の砂」のあるサントワリオ・デ・チマヨという教会。 その奇跡の砂は、アメリカの「ルルドの泉」と呼ばれており、教会の中の小部屋にある穴から湧き出ていて、体の悪いところに塗ると病気や怪我が治ると言われている。「あほが治るかもしれん。 頭に塗っとき。」バカ息子たちは、せっせと持って来たペットボトルに砂を詰め込んでいた。そして教会から出るや否や、早速頭にかけていた。ホントにばか。 ↑これ。教会内は撮影禁止なのでパンフレットから ↑このケースは教会そばのお店で売っている↓ここを訪れた信者たちが掛けて行くおびただしい数の十字架。 こんなところにも。 続いてここから1時間ほど北上し、この旅行二つ目の世界遺産「タオス プエブロ」へ。ここは1000年以上も前から定住しているネイティブアメリカンの古代の集落で、今も住居として使われている。水道や電気は引かれておらず、昔ながらの生活をしているという。 ←築1000年のプエブロ的団地↑聖なる川でもあり、生活用水としても利用されている川↑建物のあちこちに掛けられているはしごプエブロには、スペイン軍・アメリカ軍の侵略という暗い歴史があり、常に攻めて来る敵から守るため、昔は1階に戸がなく、このはしごで上の階から出入りしていたという。敵に攻められる心配のなくなった今、1階にも戸が設けられ、このはしごは神とつながる祈りのはしごとなっている、と話してくれた。↑侵攻してきたスペイン人にキリスト教改宗を強いられたという 人を殺して強制する宗教って・・・↑教会のステンドグラス。 透き通ったブルーではなく、マットな感じのミルキーブルー ↑ 1階は手作りのジュエリーや工芸品のお店として開放されているところが多い。左は手作りのドリームキャッチャー、右はこないだオダギリジョーの「熱海の捜査官」でも使われていた、室内を清めるセージとシダーのスティック。 ↑名物のフライドブレッドを頼んでみる。はちみつやシナモン、パウダーシュガー等をかけて食べるのだが美味しい!↑下の窯で焼かれたパンを食べる子供たち 素朴な味。建物の外にある窯が今も料理に使われる。 この窯にのってるのは彼らの作る壺。どこを撮っても絵になるが、悲しい歴史を背負った場所だった。次は3時間ちょっと北上し、コロラド州・コロラドスプリングスへ。
2010年08月11日
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旅行2日目。朝起きたらさっさと荷物をまとめ、この落ち着かないモーテルから脱出。朝食付きだが、食堂も全く食べる気のしないようなところだったので、ドライブ中に飲むコーヒーだけ取りに行く。次の目的地ロズウェルは、UFOが落ちた?町で、UFOで町おこししている感じ。そこではマクドナルドもちょっと違っているというので、朝食はそこで朝マックと決めた。コーヒーを取りに行くと、店で売られている普通の菓子パンやマフィンもあったので、それを2時間離れたマックまでのつなぎとして少しだけ持って出発。2時間後着いた街はこんなところ。 マクドナルドは宇宙がテーマに。 町中の街灯も宇宙人仕様。その後ろが、B級グルメ的な良い味が出ているという噂のUFO博物館。早速中に入ってみた。B級グルメ的と聞いていたが、入り口の受付で大きめのカバンは預けなければいけなかったり、身分証明書を見せなければいけなかったり、「お遊びではない、ここは厳粛な場所」と言わんばかりの受付だった。 確かに入り口の看板には「UFO MUSEUM」と書かれた下に小さく「RESERCHCENTER」とあるが・・・。胸に貼るようにとシールを渡され、入口近くのお土産屋さんだけに入りたいと来た人たちも、このシールを付けていなければ入れないので、付けるように言われていた。ここって、そんなに厳しく管理しなきゃいけないところなの?こんなヘラヘラしてたらあかん?それともこれもパフォーマンス??入り口の扉をあけると早速宇宙人がお出迎え こんなものや・・・ こんなものに・・・ こんなもの。 こんな人がいたり・・・ こんなことしたり。 ↑アルミホイルで触角?アンテナ?付き宇宙人頭にした15人くらいの集団が入って来た。 フォトコンテストに応募するから子供たちと一緒に写真撮らせて~と言われ、撮り合いっこ。子供たちが覗き込んでるものは、観光地などによくある1セントコインを入れると、それを伸ばしてその土地の地名とポイントとなる建物、キャラクター等が刻印されて出て来るもの。それを集めるのが息子たちの最近のブーム。もちろんここのは、宇宙人やUFOの刻印が選べるようになっている。これだけを見るとやっぱりB級?と思うが、上の写真の吊り下げられた人形もちゃんとした昔のアメリカ空軍のテスト用ダミーだったり、見学している人たちは真剣そのもの。UFOが墜落したとされる場所の現場検証の様子や色んな資料、当時の新聞等も展示されている。やっぱりまじめな資料館?他にも、このロズウェルのUFO事件を題材に作られた映画のポスターなどもある。コーラの自販機も宇宙人仕様。 最後は外に置かれた宇宙人に胸のシールを貼って終了。 そこからこんな道を車で約3時間、次の目的地サンタフェへ。先ずホテルにチェックイン。今度は心安らぐ綺麗なホテルでありますように。そして着いたホテルは・・・ 「INN ON THE ALAMEDA 」 建物はサンタフェの特徴でもあるアドビ風(砂・粘土・わら等の有機素材の日干しレンガ造り)で、大きな唐辛子がぶら下げられ、素敵過ぎる外観。部屋はこの外観から想像する通り、素敵で清潔で、バスルームは少々狭いがキャンドルが置かれ、アメニティーも凝っており、長男と二人「きれい~!!」と手を取り合って喜んだ。今日は靴を脱いで、ベッドで大の字、そして24時間あいているジャグジーで、星空を見ながらくつろごう。遅めのランチを食べに行きがてら街をぶらつく。驚いたことに駐車場までアドビ風。プラザというこの街の中心地に行く途中、アメリカ最古のマリア像がある聖フランシス大聖堂に寄る。 これがアメリカ最古の聖母像私はキリスト教信者ではないが、教会巡りが好きだ。大きな教会から街の小さな教会まで、見ると必ず入ってしまう。息子達も教会に入るといつも真剣な表情で、教会のあちらこちらをじっと見て回る。そして椅子に座って祭壇のキリストを眺めながら、色々と聞いてきては私の答えに静かに耳を傾ける。聖フランシス大聖堂を出たあと、La Casa Sena というところでランチをとった。もうランチの時間も過ぎていて軽食くらいしかないけど、と言われたが子供たちの空腹も限界。何でもいいから食べようと入った。軽食という言葉に、どうせ大したものは出ないだろう観光地だし・・・と全く期待せず何品か頼んだのだが、これがどれも絶品。写真を撮るのも忘れ、うんまぁ~!とぺロり。お腹も心も満たされ、大満足で店をでた。そしてインディアンジュエリーや工芸品を見たり、公園で売られているアート作品を見たり。 真夏の日中歩き回るので、子供たちには帽子をかぶせていたのだが、街を散策中にその帽子を見て「おぉ~、テキサス・ロングホーンたち!」と通りすがりにおじいちゃんが声をかけて行った。子供たちがかぶっていた帽子はテキサス大学のマスコット、ロングホーンという牛のマークが付いた帽子。私たちの住むオースチンでは、大学がすぐそばだから大人も子供もみ~んな帽子やTシャツを身につけているが、他州でも有名なの?アメフトは、こないだの大学全米一を決める試合でも準優勝と強いけど・・・などと不思議に思いながらも、旅先で声をかけられるのは楽しい。その後、またこのおじいちゃんと遭遇。今度は奥様も一緒で「また会ったね~、マイ ロングホーンたち!」と今度は少々立ち話。この老夫婦もオースチン在住で、サンタフェには旅行でよく来るのだそうだ。だからロングホーンズの帽子に反応したのか。 納得。 その後もお店を覗いたりしながら、最後は夕飯を食べに「Ore House on the Plaza」の2階のテラス席に座り、日暮れのプラザを行きかう人や建物を見ながら食事。ぶらぶらホテルに戻りジャグジーでくつろぎ、綺麗なベッドでぐっすり休む。
2010年08月10日
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旅行1日目。土曜日の朝7時半に家を出て、な~んにもないこんな道をひたすら走ること7時間半。今日の目的地、世界遺産・カールスバッド洞窟群国立公園近くの町に到着。アメリカ人の友達に聞いた「ガソリンスタンドを見たら必ず給油!」のルールに従い、その時にトイレ休憩も兼ねる。子供たちは、どこに行くにも持ち歩く、ベイブレードというコマのおもちゃとそれを回して戦わせるためのお盆のようなスタジアムを持ち込み、車に乗っている時間も楽しんでいる。長時間の運転の疲労がどんなものかと、子供たちが長時間のドライブに耐えられるかが一番の不安だったが、「なんや、こんなもん?」と意外と疲れることもなく着いてしまった。午後2時過ぎ。まずホテルにチェックインに行った。ここカールスバッド洞窟群国立公園周辺のホテルだけが、この旅行で唯一満室で予約できないホテルが何軒もあったところである。インターネットでホテルを検索し、そこに書かれている利用者の感想とホテルの写真等を見ながらどこに泊まるか決めたのだが、もう出発時間も迫っていて、眠いし疲れていたし、ここと思ったところは何軒も満室だったし、最後にはもうどうでもよくなり、ととりあえず利用者の評価の高いところだったら何でもいいや、と予約を入れた。ホテルと言ってもこの辺はモーテルしかない。この国立公園以外何もない、という感じのところだった。そしてチェックインしたモーテルは、久しぶりに出会った、古くてゴキブリが走り回ってそうな部屋だった。全く落ち着かない。私のやや潔癖症気味のところが移ってしまっている長男も落ち着かない。「お母さん・・・なんでここにしたん? ここしかなかったん??」う~・・・あの高評価はサクラか。ここのどこにあの評価がつくのか。朝食をとるフロント横のスペースも、汚いフードコートのような感じで、せっかく朝食付きなのに全く食べる気がしない。「明日の朝食は、違うところで食べるか車の中で食べれる簡単なものを買おうよぉ~。」と言うと、「うん、そうしよう・・・。」と不安げに手をつないでくる長男。「男のくせに汚いとか細かいこと一々気にして、そんなことじゃ困るぞ。 なんでこんなんになったんや。」と言うオット。その横で「私のせいで~す。」と小さく手をあげた。「今日はシャワー浴びて早めに寝て、明日朝早~く起きて行こ。 ここはちょっと寝るだけにして、滞在時間を出来るだけ短くしよ。」と自分と長男に言い聞かせた。「Great Western・・・。」このモーテルの名前を長男は、何度も何度もつぶやいていた。気を取り直して今日の目的地、カールズバッド洞窟群国立公園へ向かう。ここは世界でも最大級の鍾乳洞群で、世界遺産に登録されている。 ピンクのテープがされ、手直し中? ここが入り口。中は驚くほど広く、下へ下へとスロープを下って行く。下ることビル83階建て分。さすがのチビも、「ちょっと休憩しよ」と言って、途中で設けられたベンチで休みながら進む。歩いても歩いてもどこまでも鍾乳洞は続いている。1時間ほど歩いたところで私たちは折り返し、帰りはビル83階建分を一気にエレベーターで昇って帰った。ガラス張りのエレベーターの中は電気が消され、地層の断面を見ながら昇る。ツアーに参加しなければ見学できない繊細な鍾乳石群は、もちろん行き先すら直前に決めたような私たちには縁はなく、申し込みはとっくに締め切られていた。コウモリの大群がエサを求めて一斉にこの入り口から飛び立つのは日没。日没が19時半というので、先に夕飯を食べに街に戻る。夕飯は、インターネットでホテルを探していたときにたまたま引っかかった「Danny's Place」というBBQ屋さん。高評価だったので行ってみることに。ただ、同じ高評価でもびっくりするようなモーテルもあるし、期待せずに行ってみる。まだ5時台だというのに、中はほぼ満席。あとからあとから客が入って来る。それを見ただけで安心。そしてここは評価通り美味しかった。腹ごしらえを済ませ、さっきの洞窟の入り口まで戻る。入り口の前には座ってコウモリが飛び立つのを見れる広いスペースがある。そこで係員の方の説明を聞いて日没を待つ。しばらくすると係員がマイクの電源を消した。途端にすごい数のコウモリが、このぽっかり開いた入り口から螺旋を描きながら、後から後から湧きだすように出て来た。30分以上もそれは続き、もう日が暮れて真っ暗になってからもまだ出て来るのだが、黒いコウモリ、真っ暗な中ではよく見えないし、もう十分満喫させてもらったので帰ることに。写真もビデオもここでは禁止されているので、しっかり目に焼き付けて来た。このコウモリたち、朝方になると四方八方からこの入り口めがけて時速40キロで突っ込んでくるらしい。それを見るのも面白そうだが、それは次回に取っておこう。モーテルに戻り、次の日に備え早めに寝る。二日目は、ここから約2時間のロズウェルという街に行き、そこからまた3時間ほどかけてサンタフェへ向かう。どうか次はくつろげるホテルでありますように・・・。
2010年08月09日
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こないだ西海岸に行ったばかりだが、それは病院に行くついでにちょっとその辺をうろうろするだけで、前々から予定していた「夏休みの旅行」とは違うおまけのようなもの、と行く前は思っていた。が、実際行ってみるととても充実した楽しいものだったので、これが「この夏の旅行」でも良かったんじゃないか、と思ってみたり。だがこの夏は、車で近隣の州を旅してみよう!と、オットも早々と休みを確保していたのでとりあえず実行。「車で行く一週間の旅」。ところが、早い内から休みは確保していたものの、肝心の「どこに行くか」が出発2日前まで決まらなかった。いつものことと言えばいつものことだが、今回はひどかった。グランドキャニオン・セドナ方面まで足を延ばして、テキサス州→ニューメキシコ州→アリゾナ州→ユタ州→コロラド州→ニューメキシコ州→テキサス州と、ぐるっと大きく回って来るか、近場の(と言っても車で片道10時間ほどかかる)ホワイトサンズという石膏の砂丘と温泉でのんびりするか、はたまたホワイトサンズ・温泉から北上しサンタフェなどニューメキシコ州をぐるっと回るか、それとも・・・??グランドキャニオン・セドナ方面は、魅力的だが土日をくっつけた9日間ではちとキツそう。2週間くらいあったら余裕なのだろうが、何せ車での長距離旅行はオットも私も初めて。‘10時間の運転’の想像がつかない。もう一人のドライバーであるオットと色々相談しながら決めたくても、出張ばかりで帰って来ない。相談どころかおらんがな。たま~に会う時に話をしても、あっという間に時間は過ぎ、他の用事も色々あり、次オットに会えるのは、出発2日前の木曜の夜となった。え~っ!?それまでに候補地のリサーチをし、案を1~2つにしぼらなければ。本当はもっと前もって行き先を決め、ホテルを予約し、早いうちから予約しないと参加できない人気のツアーや乗り物も考えたかったが、私たちにそれは無理なのか。ホテルだって取れるのか?ようやく尻に火がついた私は、それから毎晩夜中の3時ごろまでパソコンの前に座り、地図とガイドブック数冊を行ったり来たりしながらメモをとる。これがガイドブックじゃなかったら、私めっちゃ勉強してる人みたいや~ん、と自分を眺めつつペンを走らせる。長時間ずっと座りっぱなしが何日も続き、変な体勢で作業を続けたためか、また軽いぎっくり腰になり、こんな状態で何時間も運転できるのかと不安を抱えながらも、もうやるしかない。そうしてオットが帰って来る直前に、案を2つにしぼった。その晩、オットも自分で地図と所要時間と行き先の内容等を確認。グランドキャニオン方面は、また今度時間に余裕のあるときに行くことにし、今回はこの旅程となった。家(テキサス州) ↓ 約7時間半カールスバッド洞窟群国立公園(世界遺産・ニューメキシコ州) ↓ 約2時間ロズウェル(UFOの街) ↓ 約3時間サンタフェ ↓ 約30分チマヨ(奇跡の砂) ↓ 約1時間タオス プエブロ(世界遺産) ↓ 約3時間半コロラドスプリングス(コロラド州) ↓ 約4時間半サンタフェ(ニューメキシコ州) ↓ 約3時間トゥルース オア コンシークエンシーズ(温泉) ↓ 約2時間ホワイトサンズ(石膏の砂丘) ↓ 約4時間バルモレア(湧き水のプール・テキサス州) ↓ 約5時間半 家この旅程だと、土曜日に出て金曜の夜中に家に帰って来る6泊7日になり、残りの土日は家でゆっくり出来る。子供たちもこれなら楽しめるはずの行き先ばかり。サンタフェは子供が喜ぶかどうか微妙だが、せっかくの通り道、ヤツらも見て損はないはず。それに私が行きたい。サンタフェに行けば、私も宮沢りえのように美しくなるかしら~。我ながらこの素晴らしい旅程に感心した。その晩から出発までの1日半、今度はホテルをとるためパソコンを見つめ続け、全旅程のホテルを確保したのが出発数時間前。それから荷物の準備をし、寝たのは3時間ほど。最初の運転はオットに任せ、いざ出発。最初の目的地は、お隣のニューメキシコ州にある世界遺産、カースルバッド洞窟群国立公園。大規模な鍾乳洞があり、洞穴にはコウモリの大群が生息している。その鍾乳洞と、日没いっせいに飛び立つコウモリを見るのがここの目的。運転時間は、約7時間半。ここで一泊する。
2010年08月08日
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スタンフォード大学をあとにし、車を運転すること数時間。私の第二の故郷の小さな街に着いた。私は20年(それ以上?)前、この小さな街にめずらしいアジアからの留学生としてやって来た。小さな小さな何もないのんびりした街が、20年ぶりに帰ってみるとスタバが出来、カジノが出来、カジノとつながった立派なホテルが2軒出来ていた。せっかくだから、今回はこのカジノ付きホテルに泊まることにした。チェックインを済ませた頃にはもう夜の9時近くになっていたが、今から行くから!と、当時お世話になったホストファミリーの、私の「アメリカの母」に電話。この母に会うのが今回の旅の目的だったのに、住所を書いたメモを忘れて来ていた。私が一緒に住んでいた家は2番目の姉に譲り、母は当時おじいちゃんとおばあちゃんが住んでいた可愛い小さな緑色の家に住んでいるという。道の名前は覚えてるんだけど番地は何だっけ?番地を聞いて早速向かう。母は、2番目の兄と一緒に庭に出て待ってくれていた。「会いたかった~!」と久しぶりの再会を抱き合って喜んだ。母は、長男がまだ1歳にもならないころ一度日本に遊びに来てくれた。それ以来だから10年ぶりくらいか。私たちが再会の感動に浸っている周りはえらく騒がしい。庭を見渡すと、狂ったように走り回る犬、狂ったように吠えまくる犬、なでてくれ~とすり寄って来るネコ、が沢山。何匹飼っとるんだ。家の中に入り、うるさい犬猫の相手をしながらしばらくしゃべったが、ホテルに戻ったらまだプールに入る!とうるさい息子達をだまらせるため、小一時間ほどでホテルに戻った。ヤツらはそれから夜中の12時までプールに飛び込んでいた。次の日、一緒に朝食を食べに母と兄がホテルに来た。ランチには、親戚が集まるからと、そのレストランの一角を予約してあるという。本当は一番上の姉の家でBBQと言っていたのだが、その日はかなり気温が上がりBBQどころではない暑さになるということで中止になった。朝食を食べ、みんなが集まる昼までの間、母も一緒に懐かしい街のメインストリート・友達とクルージングと言ってグルグル車で回った住宅街・私の通った学校を見に行った。新しい住宅や店は出来ていたが、20年も経っている割には劇的な変化はなく、昔の様子そのままだった。私の通っていた学校は生徒数が増加し、今では立派な体育館が新たに出来、校舎も増えていた。子供たちに見せたかった、体育館に飾ってある歴代の卒業生たちの写真。私の写真がそこにあるのを見たら、この子たちも「お母さんもここで頑張っていたんだ」と少しは勇気が出るかと思ったが、警備もしっかりやるようになったのか、鍵がかかっていて入れなかった。大学生の時に来た時は、あれも夏休み中だったと思うのだが鍵なんてかかってなかったのに。まぁ、あのときはまだ新校舎も新体育館もなかったが。ここは私がいつもランチを食べたり、よく友達としゃべったりしたカフェテリア前の懐かしの場所。みんなの集まる時間になり、ホテルのレストランに戻る。そこには姉や兄、姪っ子とその子供たちに、甥っ子の子供たち、色んな顔が集まった。当時チアリーダーをしていた華奢で可愛いかった姪っ子は、びっくりするほど成長し、でかいアメリカ人になっていた。彼女の元オットと再婚相手の2人も紹介された。元オットとその再婚相手??えらい友好関係だなと思ったら違っていた。姪っ子の元オットと、姪っ子の今の再婚相手だった。彼女はいつの間にか立派なレズビアンになっていた。まぢで・・・!?その親である姉は、彼女が女性と結婚したことを新聞で知った。その郡で初の、法的に認められた女性同士の結婚だったそうだ。その彼女は今妊娠8カ月。え?彼女は子供が出来ない夫婦の代理母出産を仕事?にしているという。はぁ・・・。子供が出来ない夫婦、それは男女の普通の(ストレートの)夫婦だったり、男性同士のカップルだったり。はぁ・・・。そして彼女たち夫婦?婦婦??は、仲良く漢字で「純愛」と刺青されたお揃いのでかい腕を見せてくれた。・・・。元オットくん、あんたも大変だねぇ。そして彼女たちが「今晩うちである女だけのパーティーに来ない?」と言う。私が返事をする前に姉が「NO!」と答えた。なんだかすごい展開に、ほんまかいな~!?と茫然としていると、姉がこのあとうちにおいで、と誘ってくれた。行くとそこはと~っても広い牧場?付きの家だった。姉も離婚し、今はこの家に引っ越しボーイフレンドと一緒に楽しく暮らしているという。羊数頭とラマ2頭を飼っていた。姉らしく綺麗に片づけられ、素敵なインテリアや小物が置かれた雑誌に出てきそうな家だった。ボーイフレンドもとても優しい素敵な方だった。そして2番目の姉が牧場を隔てた隣に住んでいるという。お互いの家をトラクターで行き来するのだそうだ。2番目の姉は馬を飼っている。2人とも子育ても終わり、充実した生活を送っているのかと思ったが、2番目の姉は今、娘の一人が末期の乳がんでその看病のため、娘の住む州に行っている。乳がんを患っている娘は、もちろん私も知っている。私がいたころはまだ小学生だったが、とても素直な可愛い子だった。その彼女が乳がん。あれから20年。みんな、色んな人生を歩んでいた。「お母さん、色々大変だけど体には気を付けて。 また来年の夏、健診の時に来るからね。」と言って、涙ぐむ母と別れた。みんなが健康でいられますように。
2010年07月29日
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海外駐在員は会社の規定で年に一度、夫婦で人間ドックを受けなければいけない。上海にいた時も毎年受け、日本に帰ったときは帰任時の人間ドック、そして今回の転勤でまた赴任前人間ドック。毎年バリウム。毎回、ぅおぇ~っと吐きそうになりながら、炭酸のゲップを「こらえて!」と言われながら、グルグル回ったり回されたり。上海での3年を終えて帰国した時の結果は予想通り、オット共にまんべんなく色んな所が引っかかった。急を要するものはなかったものの、半年後・一年後再検査、等の要観察もの。それから1年経ってまた今回の転勤で赴任前ドックを受けたのだが、これまた予想通り、上海での毒は、オット共に見事にデトックスされキレイな体に戻っていた。そして今回、こちらに来て初めての人間ドックを受けた。オットの会社は日本語で書かれた診断結果がいるらしく、カリフォルニアの日系の病院に行かなければいけないらしかった。子供も健診が必要なので家族みんなで西海岸。その分の飛行機代・ホテル代は会社が出す。なんだかステキじゃな~い。もう旅行気分だ。病院は平日しかやっていないので、木曜・金曜に土日をくっつけ、4日間の健診&プチ旅行と相成った。木曜の朝一の便でサンフランシスコに飛び、その日は一日観光、次の日は朝から病院、病院が終わったらあとはレンタカーでプチ旅行!、のつもりだった。久しぶりのサンフランシスコ。ワクワクしながら街へ繰り出したが、そうだった、忘れていた。サンフランシスコのどんなに素敵な場所も、観光・買い物大嫌いの我が息子たちには何の魅力もないのだった。アルカトラズも中華街もフィッシャーマンズワーフもなんのこっちゃ。フィッシャーマンズワーフでは、案の定チビの「くさっ!くさっ!何でこんなに臭いん!?」が始まり、サーっと通り過ぎて終了。臭さが我慢できないチビ。中国の色んな場所も築地も、ここの中華系のスーパーも、臭い所は耐えられない。そこを離れるまで「くさっ! くさっ!」が止まらない。日本語が通じてしまう築地では、せっかく早起きしてマグロの競りを見に行ったのに、大きな声でくさっ!を連発し、オットがヤツをさっさとホテルに連れ戻ったという一件があった。(詳しくはこちら。)そして結局「早くホテルに行こ~や」コールは鳴り止まず、その驚異的なしつこさに、私たち大人が白旗を上げた。ヤツらが一番盛り上がったのは、このヤル気のないアシカを見たときと、ホテルに向かう時に悔し紛れに「ジェットコースター並みの恐ろしさ!」と少々大げさに言って、無理矢理坂の激しい住宅街で車を乗り回し、一瞬にして通り過ぎるビクトリアンハウスを見て回ったとき。ヤツらは「おぉ~! ジェットコースター!」と見事にひっかかり喜んでいた。そしてもう一つ、オースチンではありえない大きさの日本のスーパーに行った時だけだった。「うぉぉおおお~! すげーーーっ!!」とその大きさと品揃えに感動し、ここでもまた、何も買ってやるとは言ってないのに「どれにしよ~!」とお菓子売り場から離れずにいた。その余りの喜びように、普段はコンビニより小さな店しかないからなぁと不憫になり、土日のプチ旅行用にお菓子を少し買ってやった。サンフランシスコまで来てこんなもんか。まぁ予想はしていたが。でもランチには有名な少し酸っぱいパンに入ったクラムチャウダーを食べ、街も少しは見れたし、それなりに雰囲気は楽しめたから良しとしよう。そして病院のある、サンフランシスコから車で4-50分南のサンノゼという町のホテルへ。翌朝8時から人間ドック開始だ。私は人間ドックの合間に、顔のシミ取りまでやってもらうことにしてある。そう、それがこの病院を選んだ理由。ロサンゼルスとサンフランシスコ周辺の3つの病院から選ぶことになっているのだが、アンチエイジング科があるのはこの病院だけ。もう他の病院に行く理由はない。健診当日は予め問診票等を記入して持って行くのだが、‘前もって準備’が出来ない私たちは、いつものように出発前日の夜中(ほぼ朝方)まで荷物の準備やガイドブックを読んだりして、結局2時間ほどしか寝ていない。問診票も、とりあえずプリントアウトだけしてホテルで書けばいいや、とカバンに詰める。健診前日の夜、ホテルで問診票を記入したのはいいが、21時以降の記憶はほとんどなく、寝ぼけて舟を漕ぎながらの作業。当日それを見直すこともせず提出したら、問診票を見ながらの先生との診察のとき「‘手の関節が痛む’に○が付いてますがどんな感じですか?」と聞かれた。「・・・え?」自分の書いた問診票を覗き込むと確かに○がされていた。なんで○が付いてるのか分からず、「これ私のですか?」と聞くと先生も「え??」と言って名前の欄を確認する。名前の欄には私の名前が自分の字で書かれてあった。「あれ? 私のですね・・・え~っと・・・痛みません・・・。」先生も訳が分からず言葉が出ない。「あの~、間違えました。」「え? 間違い? ・・・・・・。 じゃぁ痛まないんですね? 手は何ともないんですね??」「はい、すみません。」「えー・・・じゃぁこっちのは?」見るとそこには‘手の指先がしびれる’のところに○がされてあった。「あ、それも間違いです。」「・・・・・あ、そうですか。 間違い・・・。 大丈夫なんですね??」私にはその問診票を書いた記憶がない。もうその時点で、完全に眠りながら無意識に○を付けていたようだ。でも「寝ながら書きました」とは言えず、「間違えました」の一点張り。先生の頭の上には、大きな?マークが点灯していた。問診票の上には、無数のミミズのはった跡のようなヨロヨロの線。先生、ごめんなさ~い。その先生もスタッフの皆さんもとても親切で、はるばるテキサスから来た私たちが美味しいラーメンとお寿司を食べて帰りたいと言うと、みんなでお勧めのお店を教えてくれた。サンフランシスコは当然のことながら、サンノゼもシリコンバレーがあるため日本人が多く、大きな日本食のスーパー、手作りのお豆腐屋さん、紀伊国屋、病院、レストラン、何から何まで日本と変わりなく揃っている。オースチンのようななんちゃって日本食のレストランではなく、ちゃんと日本の味が楽しめる。海が近いから魚も新鮮。スーパーに刺身が並んでいたのを見た時は、感動で子供以上にはしゃいでしまった。ラーメンを食べた時も、お寿司を食べた時も、「美味しいなぁ、美味しいなぁ!」を連発して食べる親子の姿はまるで、一杯のかけそば。「相当飢えている人たち」に見えただろう。日本食材のスーパーでは、「すご~い! すご~い!!」「あれ見てっ!」「こんなんもある!!」「すごーいっ!」を連発し、どこの僻地から来た人たちだろう、と思われたに違いない。病院の先生にこの店の「ちらし寿司」を頼んでみて、と教えられ頼んでみた。「すし太郎と違~う!!」西海岸は、とても素敵な所だった。人間ドックが終わり、絶食から解放され↑これを食べてからプチ旅行開始。私が昔お世話になったホストファミリーに会いに行く。その途中、スタンフォード大学のある街を通るので、バカが少しはマシになるようにと寄って行く。Tシャツとノート・鉛筆を買い、前日から立て続けに抜けた長男の2本の歯を木の下に埋めて「将来ここに来る!」と誓って来い!と何だか良く分からないが少しでもヤツのヤル気が出れば、と言ってみる。ヤル気スイッチはどこにあるかわからない。どんなきっかけでスイッチが入るかわからない。自分の所有物と離れるのがとても嫌な長男。この歯に会いたければ、頑張って勉強してここに来い!・・・。こんなんでええんか??夫婦二人で首をかしげながら、もうヤケクソ。「使うな」の張り紙を書いたつもりが「使うた」になっていたり、小学6年生になってまだひらがなを間違うか。勉強大嫌い、しんどいこと大嫌い、苦しそうなことはよけて通る、宿題しない、忘れものだらけ、あやとり大好き。のび太かーーーーっ!でも決定的に違うのはドラえもんがいないこと。と以前電話でブツブツ言っていると、我が母・サザエが「もうええやん。 今度日本に帰って来たとき東大阪のネジ工場に就職活動に連れて行ったるわ。 中学出たら働かせ。 あ、でも東大阪の工場の技術は世界的にも注目されるくらいすごいからな~。 無理かもな。」とお気楽に言ってくれていたっけ。そして大切な自分の歯を1本だけ木の根元に埋めたヤツは、車の中で残ったもう1本の歯を見つめて「こっちは通信用・・・」とつぶやいた。
2010年07月28日
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前回の続き。翌日、4日(日)の独立記念日。ホテルのロビーやレストランでは、朝から赤・青・白の国旗カラーの服を着た人がちチラホラ。おじいさんやおばあさんも、この国旗カラーに身を包んでいたりする。私たちは、朝からまたスペースセンターに行き昨日の続き。昨日は雨が降ったりやんだり、その雨もドッシャ~!とバケツをひっくり返したような激しさだったりしたが、この日は朝から快晴。聞くところによると台風が来ていたそうな。連休に入る2‐3日前に人から聞いてはいたが、天気予報を見ることもなく、私たちがヒューストンに行くころにはとっくに通り過ぎているもんだと思っていた。あとから知ったが、この台風のせいで海沿いのホテルはキャンセルが相次いだほどだったそうだ。だからか~、ホテルは湖沿いだったのだが水が茶色に濁っていてなんて汚い湖だ、と思ったが。せっかく雨も上がったし、スペースセンターは3時ごろに切り上げ、ガルベストンへ。ガルベストンは、メキシコ湾に浮かぶ小さな島で、ビーチ・ホテル・水族館などがあり、シーフードレストランも沢山ある。その中でも評判のいい、ビーチ沿いのシーフードのファーストフードっぽい店に行く。先ずは腹ごしらえ。カレイ・エビ・白身魚のフライを頼む。アメリカでカレイのフライが食べれることに感激。どの店で食べようかとリサーチ中に、この辺りでカレイが食べれると知り、もう店に来る前から私の頭の中はカレイでいっぱいだった。 カレイのフライは衣が厚く、薄く粉をはたいただけの日本のフライとは違うが、それでも十分満足だった。ケチャップとタルタルソースが付いてきたが、レモンを絞って食べた。カレイ自体も大きく、みんなでつついても余り、ホテルに持ち帰った。腹ごしらえが済んだらビーチへ。でも、あれ?このビーチ・・・ この海藻の打ち上がり具合、水の茶色さ加減・・・。半年前まで住んでいた家の前のビーチと同じではないか。しかもヤツらのすることは、どこでもダンゴ作り。〇〇海岸の皆さんはこの写真を見て、「あれ?じゃんまる一家、夏休み戻って来てたの?」って思うに違いない。風景も同じだし、やってることも同じ。ワカメやひじきももしかして・・・と探してみたが、それはさすがになかった。でもここ、メキシコ湾だよねぇ~? メキシコ湾のはずだよねぇ~?台風のせいで海水が茶色いのか、それともここの海はこんなもんなのか。真っ青のキレイな海を期待していたのだが・・・。まぁでも遠浅で海水も温かく、日没の8時半過ぎまで水に入って遊び、9時過ぎから始まった独立記念日の花火を見て、大満足でホテルに帰った。連休最終日は、朝ホテルをチェックアウトし、ヒューストン市内の自然科学博物館に行った。そこも色々見るものがあり、展示物のほか、プラネタリウムや3Dシアターなど盛り沢山。↓ 恐竜の骨から宝石まで とても一度では見きれない、と年間パスを買い、切りの良いところで美味しいと評判の飲茶の店へ向かい、そのままオースチンに戻ることにした。とても楽しみにしていた飲茶の店は、市内から車で20分ほどかかり、どんどん街から離れて行く。こんなところにホントに美味しい中華なんてあるの??と不安になってきたところに出てきたこの門構え。ここはチャイナタウンだった。もう道の名前まで漢字だから。 ところが、お目当ての店に入ったら飲茶は3時で終わりとのこと。時計を見たらちょうど3時。えー!今なったところじゃん! 食べさせて~!とお願いしてみたがもう飲茶用の2階席はしめちゃったからダメと言われ、仕方なくディナー用のメニューから食べることにした。おやつなんだか、昼夜兼用ご飯なんだかもうよく分からないが、あとでお腹がすいた時用に多めに頼んで残ったものは持って帰ることにした。頼んだものは、結局上海でよく食べていたいつものご飯になった。子供たちの大好物の北京ダック、私の大好きな豆苗の炒め物、カニのラーメン、かた焼きそば、マーボー豆腐、チャーハンなどなどが並んだ。北京ダックは、皮とそれを包むふわふわの蒸しパンの様なものが来た。「あれ~?肉は食べないの? 上海では北京ダックを頼むと肉はスープや他の料理にして食べさせてくれるんだけど・・・。 ここは皮だけなの?」と聞くと、「もうすぐ肉と野菜を炒めてレタスで包んで食べるのがくるよ。 ここは香港スタイルだから、皮も上海のクレープの様なのじゃなくパンなのよ。」と教えてくれた。へぇ~面白いね~と言いながら食べた料理はどれも本当に美味しかった。中国で食べていた、あの味だった。オースチンで美味しい中華と聞いて行く店は、これが上海だったら二度と来ないな、という味のところがほとんど。これだけ美味しかったら飲茶もかなり美味しいはず。次回は必ず3時までに来よう!とオットと誓った。 家に着いたらまだ日が暮れる前で明るく、気分的にも余裕がある。ここに来て初めての泊まりの旅行は、とても充実したものとなった。
2010年07月13日
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7月4日はアメリカの独立記念日。色んなところで昼間はパレード、夜は花火が上がる。その日が近付くにつれ、スーパーを初め色々なお店でアメリカの国旗の色、赤・青・白のグッズが売られる。パーティー用の紙コップや紙皿、飾り付けの小物、キャンドル、ケーキ、帽子などなど。4日が日曜日だったので、オットの会社は5日の月曜日が代休となり3連休。ここに引っ越したらいつかは子供を連れて行きたいと思っていた、ヒューストンにあるNASAのジョンソン・スペースセンターに行くことにした。車で約3時間。スペースセンターの近くにホテルをとり、そこから30分で行けるガルベストンという島にも泳ぎに行くことにした。そこのビーチで独立記念日の花火も見れたらいいな~と。そしてついでに美味しい魚が食べれたらいいな~と。土曜日、朝7時半ごろ家を出て初めてのヒューストンへ。3時間の道のり、子供たちが耐えられるかと心配だったが意外にも大人しく、苦情が出ることもなかった。途中コーヒーを買ったりしながら昼前にホテルにチェックイン、昼食をとってからホテルから5分のスペースセンターへ。スペースセンターの広い敷地の中に、科学センター?のような子供が遊びながら学べる場が提供されていて、その建物以外は実際のNASAの施設で人が働いている。私たちが入れるその科学センターのようなところは、小さな子どもから小学生向けといった印象だったが、実際に使われているモックアップ施設やサターンVの展示施設へのトラムツアーは感動的だった。テレビでよく見るミッションコントロールルームへのツアーもあったが、間違って再度モックアップ施設へのトラムに乗ってしまい、今回は断念。だが、モニターでミッションコントロールルームの中の様子をライブで見せてもらった。当たり前だが本当に働いている人たちがいて、シャトルの打ち上げの時に何度となくテレビで見たあの部屋が映し出され、これまた感動。 ↓ここでかぶったヘルメット?が大層気に入り、後ほどお土産ショップでご購入。 おばあちゃん達にもらって貯めてあったお小遣いから買う!と言って聞かず。 5,000円なり。 ↑スペースシャトルの中が見れる。↓実際に使われているモックアップ施設。 本物の大きさに感動。 ↓工事現場の様で色々なものが作業中という感じ。 そんな中にも宇宙服があったり、ここで 働けたら楽しいだろうな~と、オットとしきりに感動。 ↓これはテレビで何度か見たことのある宇宙での作業用アームではないか! とまた感動。 長男も興味深々。 ここがただのテーマパークではないと分かってくれただろうか。 ↓サターンVの展示場。 あまりの大きさに声も出ない長男。 ←なんか分からんけど~とはしゃぐ次男このスペースセンター、やたらと寒い。こっちはどこも建物の中に入ると、おかしいんじゃないか?というほど冷えているが、念のために持って行っていたカーディガンくらいじゃ足りない。2時間、3時間と経つにつれ、末端冷え性の私の指先はしびれだし、いつも汗をかいているオットも風邪ひきそうや~とパーカーだけでは足りない様子。子供たちは、忙しく動き回っているので寒くはないようだが、「明日も来ればいいし、あとでまた来てもいいからとりあえず一度ホテルに戻ろう」と外に出た。外に出た途端、雨上がりのむっとした暑さにホッとしたが、ホテルに帰ってもしばらく指先のしびれは取れなかった。恐るべし、夏場のアメリカの冷房。スペースセンターには次の日また朝から行くことにして、この日は早めの夕食をとろうと、近くのメキシカンレストランへ行った。近場で美味しい店はないかとネットで探して行ったのだが、ここが大当たり。一見ファミレスの様で、その感じや店構えからは味に期待できそうにないのだが、どれも美味しく店員の人たちも感じが良い。子供たちの頼んだレモネードも、スーパーで買った無果汁ジュース、ではなく、ちゃんとレモンを絞ったものだった。(写真は、ハッピーアワーで250円だったマルガリータ) その2へ続く。
2010年07月10日
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前回の続き、5月の運動会から6月の卒業式までの日々。5月に入った途端ここは夏になった。6月もそろそろ終わりの今は真夏で、朝からエアコンを入れる毎日。日が暮れるのは、夜の8時半ごろ。スーパーに行くと、大人の顔を2つほど並べた大きさのスイカ等夏の果物が並び、庭では短い春に慌てて植えた種が芽を出し、ワサワサ茂っている。これはビジュアルに負けて買ったアプリコット。 ビジュアルに負けたとはいえ、食べたらめちゃくちゃ美味しかった。右は、5月といえば鯉のぼり、アメリカの広い空の下泳がせてやった。でも私の狙いはこの鯉のぼりの向こう、庭の角に横の家から大いにはみ出している木。葉が出始めた春先、一目見たときからそうじゃないかと思っていたが、思った通り「いちじく」の木だった。指をくわえて実がなるのを今か今かと待っていたが、こないだチェックしてみたら良い具合に鈴なりになっている。 隣人よ、忘れず水をやってくれ。その横は5月に撮った、種をまいたら出てきた成長中の私のカワイイ畑ちゃん。畑の向こうに茂っているこれまた隣の家の木は、ザクロの木。これも指をくわえて実がなるのを待っていたが、どうやらオスの木だったらしく花だけ咲いて終わった。畑でゴーヤ・ネギ・シソ・バジル・ミントが元気良く育つ中、一番すくすく育っているのが、チビにしてやられた「ひょうたん」。チビは本当にやることなすこと動物的で、しゃべる小動物と生活しているような気になるのだが、今回は私が日本から大事に持って来た野菜の種の中に、こっそり自分が友達からもらったひょうたんの種をしのばせてあった。ヤツは、こうしておけば私が植えて育てることを知っていたのだ。カッコウの託卵か。そして私はまんまとヤツの企みにはまり、今やチビのひょうたんは、私のカワイイ畑の中で一番幅を利かせている。食べれないのに私の畑に…!とその勢いに肥料を全部食われるのではないかとオロオロしてしまったが、意外に可愛い花を咲かせるのを見たら、これもいいかと思えてきた。そして6月も後半の今は、小さなひょうたんをつけている。心配した肥料も足りていたようで、横のゴーヤもどんどん実をつけ出している。 週末には、水のかかる乗り物ばかりで今が本番のシーワールドという、シャチのショーなどが見れる遊園地や川に遊びに行く。↓ 乗り物の近くで見ているだけで水しぶきでびしょ濡れになる この川は飛び込むのにちょうどよい高さの岩場があったり、カメや魚がいたり、小さい子から高校生くらいまで楽しめる。↓ こんな風に楽しんだり、それを見て文化を学んだり(イチャつく2人を講師に異文化体験中の息子たち) そしてこのとき持って行ったピクニックテーブルが↑、同じく遊びに来ていたアメリカ人達の目にとまり「どこで買ったの? これいいわ~!」「え? 日本で買ったやつだけど、こっちにこそあるんじゃないの?」「通販、通販!」と私たちもおばはん交流会。最近近くにフローズンヨーグルトのお店が出来た。ヨーグルトなのでカロリー控えめだが、ソフトクリームみたいで美味しい。近くに美味しいお店はないのか、聞き込み調査を開始しようとしていたときにチラシが入った。そこでは、オレンジ・いちご・チョコ・チーズケーキ等、10種類くらいのフレーバーがあり、小さなカップでそれぞれ味見をしてから買える。どれにするか決まったら、大小どちらかのカップに好きなだけ何種類でも入れていい。 トッピングもフルーツ系とチョコ・ナッツなどのドライ系があり、どれだけ入れてもいい。全て入れ終わったところで会計。値段は種類ではなく、重さで決まる。 こんな可愛い色とりどりのスプーンを見ただけで、その日一日イイ気分になる。 ←マシュマロをトッピング・オット作フローズンヨーグルトで冷えた体が外に出るとホッとする。店のそばにもこの木があった。ここではあちらこちらで見かけるこの木、日本のうちの庭にも植えてある。「セイヨウニンジンボク」といって、うちの庭では8月後半から9月の頭にかけて紫の綺麗な花を咲かせる。 私がこの木を植えたのは、長男が1歳半くらいのころ。花が終わった後につく小さな実は、煎じて飲めば男性でも母乳が出るようになる(これホント)という。母乳の出が悪かったのか、神経質な長男の性格のためか、なかなか授乳がうまくいかず、昼も夜も寝ずに泣かれ、疲れ果てていたときにこの木のことを知った。もうちょっと母乳が出れば、少しは楽になるかもしれない。長男も諦めることなく吸ってくれるんじゃないか。どこに行くにもお湯と粉ミルクと哺乳瓶を抱え、夜中もキッチンに作りに行く、そんなこともなくなる。初めての子育てで、母乳をうまくやれない自分を責めてもいた。それからは、ガーデニングショップに行く度にこの木を探し、もう今更出なくてもいいや…というころになってようやく見つけた。もう母乳は必要ないけれど、ずっと探していた木。迷うことなく買って帰って庭に植えた。それ以来、毎年見事に綺麗な花を咲かせ、私たち家族や道行く人を楽しませてくれた。珍しい木なのか、通りがかりの人によく木の名前を尋ねられた。その木がここではあちこちにある。もし私が母乳をやっているときにここにいたら、オットにこの実を煎じて飲ませ、交代制で夜の見回りならぬ、授乳が出来たのに。非常に惜しい。こちらは、良い土を作ろうと野菜の皮やくずなど埋めたら、頼みもしないのに芽を出したカボチャ。肥料にならずに自分が育っちゃったらしい。ちゃんと実をつけるんだろうねぇ、と毎日監視している。
2010年06月20日
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6月2日の卒業式も無事終わり(といってもこの家族。トドコオリナクという言葉ほど縁遠いものはなく毎回滞ってばかり。今回ももちろん例にもれず。詳細は後ほど)、6月ももう残すところあとわずか。本当に早い。記念すべき卒業式で撮った写真はこれしかない。一人でビデオやカメラを荷物を持ちながら拍手しながら手を振りながら操るというのは、出来るようでなかなか出来ないもんだ。チビの去年の小学校入学式、言っておいたのに「あ、仕事入れてもーたわ。」と言って来なかった父親(我がオット)。可哀想に、チビの入学式の写真は全て一人で写っているものと、お友達と写っているもの数枚のみ。親と撮ったものは一枚だけ。その一枚も、お友達のママが気を利かせて撮ってくれたものなのだが、悲しいかな、そんなたった一回のチャンスに風が吹き、私の顔面は髪の毛だらけで写っていない。そして今回の長男の卒業式は、忘れたと言わせないよう会社のPCに「6月2日卒業式休みとる」とメールを入れ、何度も確認した。「ちゃんと休みとってるでー。」とのん気に言っていた父親(我がオット)は、卒業式前日の夕方、高熱と共に帰宅した。「大丈夫?」という言葉より「またかぃ。」と出かかったところで飲み込んだら、溜息が出た。それから彼は3日間、「眠れる森の美女」のように眠り続けた。もちろん卒業のお祝いに食べに行く予定だった長男の大好きなお寿司もナシ。ここぞ、というときにいつもいない我がオット。突然の高熱・発作・骨折時の不在は当たり前、家にも帰って来ない。飛行機の中で吐いている長男の横でチビがおしっこ!と言った時も、飛行機から出たところでぶっ倒れた長男に驚いている間にチビがいなくなったときも、彼はいない。クリスマス・誕生日・結婚記念日などは、彼の中には存在しない。私は一人で入学式・卒業式・運動会に行く。以前その話を友達にしたら、「ようそんだけいつもうまいことおらんように出来るもんやな~。」と感心し、「実は千里眼もってて、おっ!次はこの日にくるなー、言うて仕事入れてたりして。」と「ダンナ様はエスパー」という新たな可能性を提起した。前々から分かっている入学式・卒業式のような行事も、彼女に言わせると「究極の放置プレー(詳しくはこちら)」というところだろうか。卒業式は、卒業生が歌を歌い、校長・教頭・子供たちの行くことになる中学の校長のお話を聞き、あとは一人一人名前を呼ばれたら舞台に上がり、卒業証書を受け取るというもの。それが終わるとスライドショーがあり、子供たちの今と赤ちゃんの頃の写真が交互に映し出され、全員分が終わると、この一年間色んな場面で撮られた楽しそうな写真が、流行りの曲と共に次々に流れていく。場面が変わるごとに歓声が上がり、流れているノリノリの曲のさびの部分がくると、みんなで歌って盛り上がる。この辺、日本の卒業式ではあり得ない。先生方のお話も、全く長いと感じることはなく、無駄のない、ギュッと濃縮されたような内容でいてユーモアもあり、感覚的にはあっという間に終わる。卒業生のための式、という当たり前だがただの形式だけではない「成長した彼らを送りだす」気持ちが前面に出た良い式だった。卒業式が終わり、夏休みに入ってから最初の一週間は、長男が夏休み明けから通うことになる中学校で4日間のサマーキャンプ。中学校に少しでも慣れるため、朝9時から12時まで学校の中を在校生に案内してもらったり、一緒に通うことになる同じ学年の子供たちとの親交を深めるためゲームをしたりする、という内容のもの。その次の週は、チビと二人でサッカーのサマーキャンプ。チビは9時から11時半まで、長男は9時から15時まで。炎天下、外に5日間いたら、半日のチビはまだマシだが、長男はすでに真っ黒。焦げかけている。そして今週一週間は、小学校で朝7時半から夕方6時までのサマーキャンプ。みんなで遊んだり、工作をしたり、外で遊んだり、遠足に行ったり、近くのプールに行ったりして過ごす。3ヶ月近い夏休み、長男が中学に入学するまでに何とか少しでも英語が出来るようになって欲しいと、毎日英語に触れるよう色々なサマーキャンプを申し込んでいる。さて、この卒業式から前回までさかのぼり、何をして過ごしていたのかを写真と共に振り返ってみたい。5月のお祭り騒ぎのどさくさに紛れて運動会のようなものがあった。が、全校生徒で一斉にするのではなく、学年ごとに日が違う。しかも長男たち最高学年は、学年全体で行いクラス対抗で勝敗を競うが、チビ達はクラスごとに決められた時間内に一つの競技をし、時間がきたら次の競技の場所へと移動していく。一つの競技をその時間内ずっとやっているのだが、リレーもハードルも、移動の笛が鳴るまでず~っと順番にグルグルグルグルやっていて、誰が勝ったも負けたもなく、自分の子の足が速いのか遅いのかも分からない、なんだこりゃ、なものだった。しかも運動会っぽい競技はリレーとハードルくらいで、下の写真のように乗り物に乗って漕ぐものだったり、パターゴルフだったり、それはもう驚きの内容だった。日本の運動会はプレッシャーで眠れなかったり、お腹が痛くなったりする子もいるが、そんなこととは無縁の、緊張も何もないお気楽なものだった。そしてこんなときも忘れずちゃっかり資金稼ぎのPTAの出店がでて、子供たちは競技の合間にお菓子を買ったり、おもちゃを買ったりして楽しむ。給食やお弁当があるというのに、ホットドッグが売っていたり、なんでもいいのね~という感じ。右のPTAの出店の写真の手前に写っている女の子の背中に赤いスニーカーがあるが、あれはTシャツにプリントされたものではなく全員が背中にぶら下げている紙で、競技に参加したら知らない間にシールを貼られる。そう、知らない間にシールを持った高学年の係の子供たちが後ろに来て貼って行くのだ。 長男たち最高学年は、さすがにグルグル回って終わりということはなく、リレーやハードル、〇〇メートル走も全て一位から順位をつける。誰が何に出るか予め希望を聞いて決めてあり、何種類出場してもいいらしいのだが、その日本とは違う仕組みがよくわかってない長男は、仲良しのピザと一緒に二人三脚に出ただけで、あとは暇や~と言いながら、ちょろちょろ出店にお菓子やかき氷を買いに行ったりして、常に食べているかぼーっとしているかだった。 ↓ 行事の度にクラスごとに配られるクラスTシャツを↓ 巨大ピクルスを食らう長男 着るスシ・ピザ・違うクラスの仲良し3人 なんやろな~・・・。続きはこの次で。
2010年06月19日
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あと1日でこの学年が終わる。ここに来てちょうど半年が経とうとしている。長男と担任の問題は、校長と話をしたことでほぼ解決。前々回書いたEメールのこと以外にも、算数のプロジェクトの発表を長男だけさせなかったり色々あった。細かいこと全てを話した訳ではないが、やはり担任のやり方に問題があるということで、校長が担任に直接話をすることになった。あと2日しかないが、この2日で何かまた問題があったら言いに来て欲しい、という言葉をもらい一件落着。チビの方はというと、相変わらず毎日楽しく過ごしている。特にここ2週間は、学年末に向けてのラストスパート、お祭り騒ぎの毎日を過ごしている。パジャマを着て行く日、海に関するものを持って行く日、枕とブランケットと本を持って行く日、一番好きなお菓子を持って行く日、映画&ポップコーンの日、ヘビに関するものを持って行く日、靴をはかない日、などなど2週間続く。↓パジャマの日 ↓海の日 長男の問題を抱えながらも、その間色々な行事やお出かけを楽しんでいる。前々回少し書いたスプリング・フェスティバルからの日々は、こんな感じだった。*スプリング・フェスティバル ↑ロッククライミングや空気の入った遊具 ↑これは横バンジー(ゴムのロープを体に付け 思いっきり走りどこまで行けるか競う) ↑便器にボールを入れるゲームやこんな乗り物も出現する*そしておじいちゃん・おばあちゃんと一緒にInner Space Cavernという鍾乳洞へ。↓こんな乗り物に乗って地下へ すごく広い鍾乳洞で見ごたえ満点。 ↑砂利から宝石を探しだす遊び場*チビ8歳の誕生日クラスのみんなにハッピーバースデーを歌ってもらい、家でも母手作りケーキでお祝い。 *オット会社の皆と夕日の綺麗なレストランへ *友達ピザの誕生会@ブレーザータグ 料理は評判通り大したことなく夕日がなければ来ない場所 暗闇で光のでる銃で撃ち合う おっと、ここで1日に登録出来る写真の枚数の上限まできたようだ。続きはまた今度。明日は長男の卒業式。夜は長男の好きなお寿司を食べに行こう。
2010年06月01日
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こっちに来てから日本のテレビはYOUTUBEやロケーションフリーTVで、音楽はYahoo!ミュージックのサウンドステーションで楽しんでいる。サウンドステーションは、ジャンル別や、アーティスト別になっているのだが、最近そのアーティスト別のところに「大橋トリオ」という名前を見つけた。トリオ??とり雄?とり夫?とり男?チャンバラトリオのトリオ?それとも個人名なのか。この人の音楽を聴こうか聴くまいかしばし悩んだ。名字は大橋。う~ん・・・。昔の人か、個性的な今の人かのどちらかだ。とりあえず聴くのはタダだし聴いてみることにした。すると、それは小野リサの男版をも少しスタイリッシュにしたような感じで、声も小野リサのようなソフトな声。一瞬にして引きこまれた。そして大橋トリオは、とり雄ではなかった。「3人組」のトリオだった、と言っても大橋さん一人。彼はジャズをやっていて、自身で色々な楽器を弾くこともあり、それを名前に匂わせたかったのだそうだ。チャンバラトリオを引き合いに出してすみません、というくらい彼らとは別ジャンルだった。以来、私のYahoo!ミュージックは「All time 大橋 とり雄」。トリオにトリコ。
2010年05月19日
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エッグハントの一週間後には、小学校のスプリング・フェスティバルがあった。学校が一日お祭りの会場になり、そこでの売り上げが学校の資金になる。このお祭りの目玉は、オースチン内のお店やレストランから寄付された商品券や食事券、各クラスごとに親と先生で用意したものをつめたバスケット、〇〇先生とアイスクリームを食べに行く券、などのオークション。このために、前々から担任の先生から「あれ持って来てー、これ持って来てー」と親に連絡が入り、先生はそれらをまとめてバスケットに入れラッピングし、オークションに出す。学校からメールで来るニュースレターは何週間にもわたりこれ一色で、なんとお祭り当日にまで「今日がお祭りよー!」とニュースレターが届く。すごい力の入れようで、みんな気分はもうスプリング・フェスティバル!というところに届いた長男の担任からのメール。そこには、あれこれ沢山長男に対する苦情が書かれていた。かなり興奮していたのか、書かれている文章もあちらこちらに話が飛んだり前後したり、返事を書くのも大変だった。その先生は、私たちが12月にここに引っ越して来て学校に通い始めてから2週間で産休に入り、4月から戻って来たところだった。戻って来て2週間でこのメール。授業中に私が話す英語を分からないふりをする、、ESLの英語の勉強をしたがらない、クラスの子にバカと言った、など色々感情的に書かれていた。私が話す英語を分からないフリをする??「フリ」じゃなくて、本当に分かってないのだが。クラスメートは名前で呼び合うもので、バカと呼ぶものではない??何度止めてと言っても人の嫌がることを止めないバカに、止めろバカ、と言って何が悪い。嫌がることを止めないのはいいのか。そんなことをいちいち親に連絡する前に、なぜバカと呼んだのか理由を聞いたのか。細かいことを逐一報告するのが仕事ではないだろう。もっと建設的な対応をしてくれ。授業中に分からないことを聞けるように、仲の良い友達を隣の席にしたらおしゃべりをする??誰もその子と隣にしてくれと頼んでいない。それが困るなら席を離せばいい。分からないことを聞く相手は友達じゃなく、先生だ。私に報告してどうする。こんな話が延々と続く。なんだこれは。 ただのイチャモンか。ほかにも、初めてこの国に来た英語がしゃべれない外国人の子供を全く理解出来ていないために起こる誤解やコミュニケーション不足からきている問題も多くあった。理解するための努力が全くされないままに書かれたのが良く分かる文面。でも一つだけ、これが本当だったらきつく言って聞かせなければいけない、ということがあった。それはESLの勉強をしたがらないこと。みんなが英語の授業を受けている間、長男は簡単な英語のプリントをするのだが、それを嫌がるというのだ。これは寝耳に水で驚いた。家では早くみんなとしゃべりたい、早くみんなと同じ勉強をしたい、と意欲的に英語に取り組んでいた。産休中のピンチヒッターの先生からも、彼はとても頑張っていて英語の力もどんどんついて来ているわ、といつも報告を受けていて何の問題もなかった。なぜ突然こんなことに?本人は、自分だけ違うというのが恥ずかしくてそういう態度をとったと言うが、今まではそれでも先生の指導力が勝っておとなしく従っていたはずだ。どうもこのメールの内容や文章から先生の力不足という感が否めない。が、それに関しては理由がどうであれ許されることではないと懇懇と言い聞かせ、先生に謝ること、態度を改めることを約束させた。それにしても、何の前ぶれもなく突然来たメールに腹が立つやら凹むやら。長男のとった態度にも腹が立ち相当凹んだが、その事実は真摯に受け止め、親子でよく話し合った。これからしばらく要観察だ。でも、「こういう態度をとるのは適切でないということくらい分かっていないといけない年齢だ」などと書かれていたが、先生という立場の人間が感情的になり、異文化から来た言葉も出来ない子供を理解しようともせず、面談の申し入れもないままいきなりEメールでこういう内容を送りつけてくる事も相当不適切だ。今はメールでの連絡が当たり前のようになってはいるが、こういったことはメールで言うことではない。そして正直、バカにするような文面や見下すような書き方に私のハラワタは煮えくり返っていた。送られてきたメールには、長男のしたことを謝り、誤解が解けるよう一つ一つ説明し、先生にも理解を求める内容を返信し、その後先生に会いに行った。長男の悪かった部分は謝らせたし、私も謝った。でもそれ以外のことに関しては、私も言わせてもらった。当然、お母さんが「あんなこと言わなければ良かった」と恥ずかしくなるようなことは、今後二度とするなと長男に強く言い聞かせた。人を悪く言う時は、自分に非が一つでもあってはいけない。その後、アメリカ人のママ数人にも聞いてもらったが、内容以前にそういうことがメールで突然送られてきたことに、みんなあり得ないと驚いていた。そして、産後すぐに戻って来るからこんなことになるのよ、ホルモンのバランスが崩れておかしくなってるのよ、と産休明けの先生によくあることだと慰めてくれた。彼女たちの子供の担任も産休明けで戻って来て、今クラス中統制がとれない大変な状態になっているという。自分の子供にも悪いところがあるのは重々承知だが、彼女らとのおしゃべりに少し救われた。彼女たちの気遣いに感謝。でも長男のしたことは許されることではない。その事実に深く落ち込んだ日が続いた。こんなことがあってかなりのエネルギーを消耗したが、その週末スプリング・フェスティバルがあり、その数日後にはオットの両親が日本から一週間遊びに来た。その一週間でボロ雑巾のようになったのは言うまでもない。そしてチビの誕生日、オットの会社の食事会、友達の誕生日パーティー、コンサート、車の免許のテスト、参観、遠足、運動会、送別会と5月中旬まで続き、そこから6月2日の卒業式&修了式までの二週間毎日、パジャマを着て行く日、スリッパで行く日、枕とブランケットと本を持って行く日、一番好きなお菓子を持って行く日、海に関するものを持って行く日、等々死に物狂いのラストスパートに入る。どうかご無事で・・・私。
2010年04月28日
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長男の日本語補習校のお友達のお家に、イースターのエッグハントに招待されて行って来た。勿論一品持ちより形式だ。イースター=キリストの復活際??程度のイメージしかなくよく分からない。イースター料理というのがあるらしいが、それを作って持って行くのか?ちょうど毎週通っている色んな教室のある教会でお友達がアメリカンクッキングを取っていたので、自分のかぎ針編みクラスはさぼってそちらの料理教室へお邪魔し、先生に聞いてみた。イースターの料理ってどんなの?の問いに「ハムと卵」と即答された。ハムとタマゴ??そんだけ?卵はデビルドエッグと言って、卵を半分に切り黄身をくり抜いたものに色々混ぜ、またそれを白身に戻すものらしいが。エッグハントには、長男の友達親子が10組近くは来る。みんながみんなハムとタマゴな訳はなく、でも他に何を作るべきなのか分からないので主催者に聞いてみた。すると意外にも「イースター料理? どんな料理??」と逆に聞かれた。そんなことあまり気にせず、イベントとして毎年開催しているだけだから何でもOKなのだそうだ。広~いお庭に隠された卵を探すのは、探し甲斐あって楽しそう。袋を片手に庭中をくまなく探す。このお庭、奥に写っている木のフェンスの向こうにもまだまだ庭が続いているのだが、野生の鹿が入って来るのでこの鹿よけのフェンスをしているそう。なんてワイルド。夜、気付くと家の明かりに集まって来る虫を食べに、窓の外にアライグマが来てたりもするそうだ。来週の土曜日は、小学校のスプリング・フェスティバルでまたお祭りだ。QPコーワゴールドが手放せない。
2010年04月18日
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前回2回で慌ただしいこちらの様子を書いたが、何にもないのんびりした日ももちろんある。天気の良い放課後は、お友達の家に遊びに行かせてもらったり、裏の公園に自転車やバトミントンを持って行ったり、家の前で隣の子たちと遊んだり。↓ターザン仕様のお友達の家の庭 最近はすっかり暖かくなり(ときどき半袖でも暑い)、3月には時計の針を1時間早めて夏時間にセットしたし、夏がだんだん近づいてきている。夜は8時過ぎてもまだ少し明るい。夕方6時なんて、昼の3時ごろの空だ。そのせいで、夏時間になってからの我が家の夕食はとても遅い。外が明るいせいで、夕飯の準備にとりかからなければいけない時間に気付かないのだ。ふと気付いて時計を見ると、6時半だったり。そこから慌てて米を研ぐのだが、何だか勘が狂って仕方ない。↓去年家の前の海でとったひじき ↓春の陽気に誘われて出てきたトカゲ -トイレで発見 このひじき、日本にいた時住んでいた家の前の海でとって、茹でて乾燥させておいた物。「これ家の前でとったひじきやよ~!」と言うと子供たちも「懐かしいー!」と嬉しそうにモリモリ食べた。本当に懐かしい。ひじきを見ながら「私、あそこにいたんだよな…」と短すぎた時間を確認する。4月も半ば近くになり、やっと何も予定のない平日が続く…と少しホッとしていたら、長男が交通整理の係のプリントを学校から持って帰って来た。こちらにも書いたがここの学校、登下校の車と生徒とその親でごった返す時間帯には、校長先生・教頭先生を初め、最高学年の子供たちが道路や学校敷地内で交通整理にあたる。その順番が回って来たのだ。え~! 英語も出来ないのに大丈夫か? 何をどうするのか分かってるのか?登校時間帯と下校時間帯の1日2回、それぞれ違うポジションを4月いっぱい担当する。もちろん朝は、みんなが登校してくる前に学校に行き、反射テープの付いたベストを着てSTOPサインの板を持ってポジションにつく。長男の担当は、朝は crosswalk 2、下校時は bus lane。crosswalk 2ってどこだ?ベストとstopサインの保管場所は知っているのか??聞いたって長男は知らない。2-3日は私も、朝一緒に付いて行って確認しなければ。かくして、再び「忘れてはいけない」日々が始まった。4月末までの3週間、いつもより早く学校に連れて行かなければ。・・・長い。忘れちゃいけない、早く学校に行かなきゃ、早起きしなきゃ、あれを出さなきゃ、これを持って行かなきゃ―――私の胃にもそろそろ穴が開くんじゃないか。交通整理2日目の今朝。 仲良しのピザと。
2010年04月14日
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坂を転げ落ちているようなので、忘れない内に前回の続きを。春休みも学校のある平日も、色んな事が盛り沢山でてんやわんやな毎日を送っているが、それでもせっかくアメリカに来たんだし、数年後には帰らなくては行けないのだから、ここにいる間に出来るだけ色んな所に行こう!と柄にもないことを思い、ちょっと実行しつつある。そもそも私はアウトドア派ではなく、そんな面倒くさいことするなら家で昼寝してた方がマシだと思っていた。オットも色んなスポーツをする割には、休日は家でのんびりしたい派。ところがこちらに来てまだ間もないころ、オットの会社の方が帰国する際の送別会で、そのご家族がここに来てから行かれた色々な場所での写真を見せてくれた。本当に色んな所に行かれていて、アメリカでの生活を満喫されている様子がよく伝わってきた。そして、「ここにいる間に出来るだけ色々なところに行っておいた方がいいよ。」と、何度も頷きながら言われていた。オットも私もそれに刺激された。単純だ。30分くらいで登れる、Enchanted Rockという岩山を登りに行ったり、 あ、ちょっと休憩 行き帰りの道はテキサスの花ブルーボネットが咲き乱れ、牛も乱れ 別の週末は、イチゴ狩りに行ったりした。 そこではヤギや馬に触れたり、ドラム缶をつなげた乗り物に乗れたり、美味しいアイスが売ってたり 私たち、いまだかつてこんなにアクティブに行動したことがあっただろうか。そして意外にも行ってみると楽しかったりする。「今度はテント買って泊まりで来ようよ」などと口走ったり、Enchanted Rockのところどころにある割れ目を見ては、「あっ! 地球の割れ目ギャオや!」などとはしゃいでみたり(ご存じ?)、頂上付近にある洞窟に入るときは、「♪川口~ヒロシが~洞窟には~いるぅ♪」と歌えば、横から「♪カーメラマンと照明さんの あとから入るぅ~♪」と続く。こんなとき、「あぁこの人で良かった」と思う。そしてこれを聞いた子供たちが、「何それ? ただ洞窟に入っただけの歌?」とつっこむ。なんて楽しいんだろう・・・!帰りの車内は、川口浩探検隊の歌で大盛り上がり。大合唱して帰って来た。さて、次はどこに行こうか。転げ落ちて足腰立たなくならない内に行かないと。
2010年04月13日
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前回から随分時間が経ってしまった。あっという間の一ヶ月、こんなことをしていた。長男のクラスメートが初めて家に遊びに来てくれた週末から一週間の春休みに入り、春休み中子供たちは、テニスの春休み教室と簡単なロボットのプログラミングを教えてくれるロボティックに参加し、Sea World というシャチやイルカのショーの見れる遊園地に行き・・・ *地図を片手に、子供たちが自分たちの行きたいところを探して行く*イルカのショーでは人もイルカも入り乱れ、期待以上の見ごたえのある物を見せてくれる*座る席によっては、ずぶ濡れにされるのがまた面白い*乗り物もほとんどが水に濡れるものばかりで、夏に来るには最高だが寒い時は乗るものがない ・・・ダックツアーという、バスでオースチン市内を観光し、そのままそのバスでレイク・オースチンに入って船のように湖を一周し、また市内を走って出発地点に帰る、水陸両用のバスで観光してしまうという何ともエキサイティングなツアーに参加した。そのツアー参加者全員に、アヒルの口ばしのふえがもらえる。そして運転手兼バスガイドの案内を聞きながら、ときにはみんなでガーガーとそれを吹き鳴らし、周りを歩く人や警官に手を振る。 そして夜は、オースチン一!と言われるBBQ屋さんへ。ここで焼かれた肉やソーセージが切って盛られてテーブルへ来る。春休みが終わると二人とも学校の遠足があり、チビはオースチンではこの時期にだけ行われるロデオ祭りに行き、豚のレースを見たり、あらかじめ許可された5ドル分だけそこに出ているお店で飲み食いや買い物が出来る、楽しそうな遠足に行った。小さな財布を首から下げ、何を買ったのか帰ってから聞くと、大きなジュースを飲んだら一番欲しかった綿がしが買えなかった・・・と言ったが、それはそれで納得しているようだった。ちょっと可哀想な気もしたが、こんな経験から買い物の仕方を学んでくれれば、と思った。長男の方は、鍾乳洞に行った。この辺りには、少し車で行くといくつも鍾乳洞がある。日本だと修学旅行でやっと秋芳洞に行ったが、私にはそれが最初で最後の鍾乳洞だった。少し足を延ばせば、色んな自然の形が見えるアメリカ。ここにいる間に色々行ってみたい。こっちの遠足、面白いのがみんなでバスに乗って行かないところ。それぞれクラスで車を出してくれる親を募集し、数人の親が子供たちを何人かずつに分けて乗せていく。そして3月は、私たち4人家族のうち3人の誕生日と結婚記念日がある。その度にカードを買いに行き、スーパーにケーキと料理の材料を買いに行き、ケーキを焼き、いつもとちょっと違う見栄えのする料理を作り、ずーっと台所に立っていた気がする。学校では、誕生日の子はカップケーキやシュークリームなどちょっとしたスィーツを親がクラスの人数分持って行き、みんなにハッピーバースデーの歌を歌ってもらうと聞き、これまたスーパーへ買い出し。ちょっとしたことなのだが、これがなかなか気ぜわしくて落ち着かない。国際色豊かなこの学校では、色々な国の文化を学ぶ機会が多い。その度に、親は色々準備してイベントに臨む。今回は、日本グループは巻きずしの作り方を教えた。子供たちも巻けるよう、酢めしやのり、きゅうりやカニカマ、チーズなどの具を準備。3月中に2回行った。面白いけど、やっぱり気ぜわしい。学校のイベント事といえば、それはそれはしょっちゅう何かある。遠足もただ勝手に行って帰ってくる訳でなく親が車を出さなければ行けないし、バレンタインは、ちょっとしたパーティーをクラスごとに行うため、親が飲み物や子供たちが色々トッピング出来るようクッキーやアイスなどと一緒に生クリーム・チョコチップ・得体のしれない真っ赤やピンクのチューブ入りクリームなど、全く食べる気のしない物を差し入れし、お手伝いする。先生に感謝する週というのもあり、その週は月曜から金曜まで、何かしらしなくてはいけない。学級委員のお母さんが中心となり色々指示があるのだが、月曜は教室の入り口のドアを綺麗に飾り付けし、火曜は先生の好きなものを詰めたバスケットをあげるので、それに入れるものをリストの中から用意して持って行く。先生にちょっとしたランチの差し入れをあげる日、先生が学校の外でランチが出来るようその間クラスをみておく日、などと続くが、これまた日本では考えられないようなイベントだ。そしてまた、授業だか何だかで何か作るのに、ゆで卵・サラダ油・紙コップを持って来て~だの、別のイベント用に何か作るのに、トマトの水煮缶・トマトピューレ・チリパウダー・クミン・オリーブ・ココナッツなどなど色々持って来て~とか。もちろん全て強制ではなく持って来れる人、手伝える人がボランティアでするのだが、その度に買い物に出かけ、忘れないよう持って行く。クラスごとにやる内容が違ったり日にちが違ったりするので、子供が2人いると2クラス分、3人いる人は・・・考えただけで疲れる。こちらでは、40歳の誕生日(場所によっては50歳らしい)は「over the hill」と言って、もうあとは転げ落ちるだけの人生の「丘の頂上」として盛大に?祝うらしい。墓のケーキを用意され、黒い風船で飾り付けされ、喪服を来て祝いに来られたり。まだ丘の上に立つには少し時間があるが、もう既に転げ落ちてる感のある私に、これだけの盛りだくさんの日々はかなりキツイ。~を忘れないようにする~を忘れないように持って行くこの二つが怖い。ということで、続きは忘れない内にアップしたいと思う。
2010年04月10日
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一昨日、初めて長男が同じクラスのアメリカ人の友達を連れて帰って来た。ピザだった。(ピザについてはこちら)英語もまだろくにしゃべれないのに、どうやって遊ぶんだろうと私の方が緊張した。ピザのお母さんには予め了解を得ていたので、学校に迎えに行きそのままピザと長男(スシ)とチビを連れて帰って来た。ピザとスシは、車の中でチビの名前をどうするか話していた。結局良い名前が思い浮かばなかったのか、適当なところで手を打った感の「さる」になった。家に着くと、ピザとスシはワクワクを抑えられない!というように、競って家の中に流れ込んだ。さるがそれに続いたが、すぐにさるがまだガレージにいた私のところに戻ってきた。「お母さん、大事なこと言い忘れてた!」そう、ピザに家に入るときに靴を脱ぐように言うのを忘れてたのだ。「靴のままもう2階に上がってるで!」ありゃりゃ~すっかり忘れてた~。家に入り2階に行こうとすると、もう階段を下りてきてるところだった。「ピザ、大事なこと言い忘れてたよ~。 靴脱いで!」一瞬、?と動きが止まったが、すぐに分かったようでサッと靴を脱ぎ捨て、ドタバタと「何があるの?」「どこに行こうか?」「どの部屋で遊ぶ?」とばかりに3人で家の中を駆けずり回った。しばらくして気が済んだのか、まず宿題しなきゃと3人で机に向かいだした。感心、感心。ところが国が違っても同じ5年生の男の子。あーだこーだと3人でおしゃべりが絶えない。しゃべるというほどの英語力もないが、スシとさるの2人だと片言の英語でも何とかピザに通じる。5時半にピザのお母さんが迎えに来ることになっていたが、この調子だと5時半まで宿題やってるんじゃないかと、笑えてきた。それも面白いと放っておいたが、ちゃんと遊ぶ時間を残して終わらせたあたりさすが5年生か。半袖でちょうどいいくらいの良い天気。家の窓を全部開け放していたが、3人は汗をかきながら、笑いながら、楽しそうに遊んでいた。5時半、ピザの義理のお母さんが迎えに来た。ピザの両親は離婚して、ピザはお父さんの方に引き取られているようだ。私がクラスの行事で会ったのは、本当のお母さんだったんだ。義理のお母さんとお父さんの間に出来た弟か、4歳くらいの子がついて来ていた。弟がお母さんに甘えれば甘えるほど、ピザが不憫で心が締めつけられた。クラスの行事で会った本当のお母さんは、ピザの授業の時だけつけるメガネの歪みを一所懸命直していて、ずっとピザの横に立ってついていた。そして休み時間には、ピザもお母さんに抱きついたりして、本当に仲の良い親子だな~と、その時は何も知らず見ていた。義理のお母さんが、長男が転校して来てからピザは家でよく長男のことを話していて、今週末も折り紙を買いに行くのよ、と言った。ピザが長男のことを家で話してくれているのも、折り紙を買いに行くほど興味を持ってくれているのも嬉しいが、それ以上に、義理のお母さんがピザのために折り紙を買いに連れて行ってくれることが嬉しかった。この人が、心の優しい人でありますように。ピザを大切にしてくれますように。
2010年03月12日
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先月行って来た、9月から入学予定の長男の中学の説明会。今通う小学校とは比べ物にならないくらい大きい。2階建てのこじんまりした小学校が、大きな鉄筋コンクリートのビルといった感じの建物に。担任の先生がいて、自分の教室・机がある小学校が、担任のいない、全教科教室移動、自分の机の代わりに小さなロッカーの中学校になる。分かってはいたが、実際行ってみてその規模の大きさに少し不安になった。こんな広い学校、校舎の裏の非常階段、呼び出されてボコボコにされてても誰も気づかないじゃないか。浦島太郎の、カメを皆でフルボッコにしている場面を思い出した。大丈夫なのか、長男!?中学時代に校内暴力全盛期?を過ごした私は、ついついそんなことばかり考えてしまう。窓ガラスが割られ、生徒が生徒を呼び出し、先生が生徒を殴り飛ばす。そんなこと、今はもうないか。しかもここアメリカだしな。でも長男、ぬくぬくとみんなに手をかけてもらえた小学校から、いきなり何もかも自分でしなきゃいけない迷子になりそうな大きな中学校に行くことに、不安でないはずがない。私の送り迎えではなく、スクールバスに乗ることになる。朝家を出た瞬間から、緊張した一日が始まる。今日から3月。6月の卒業まであと3ヶ月。もうそれだけしかない。まだまだ英語もろくに話せない。あと3ヶ月で彼の英語力はどれくらい伸びてくれるか。せっかく慣れてきた、温かい小学校。もうちょっとここでぬくぬくさせてやりたかった。そんなことを 今朝は色々考えた。朝、子供たちを小学校に送って行った帰りに、家の近所に中学校のお迎えのスクールバスが来る。そのバスを待つ間、みんなボーっと寒い中立っている。楽しそうにしゃべる訳でもなく、ただただ縮こまりながらボーっと。そこにうちの子も入るのかー、と思うとなんだか可哀想になって。まだまだ素直で可愛い長男も、もう中学生になろうとしている。中学の説明会の帰り道、チビが言った。お兄ちゃん、この学校に行くの?もうお兄ちゃんと一緒に学校行かれへんのん??チビ、寂しい…。それから一週間ほど二人は犬っころのようにじゃれ合い、残り少ない時間を惜しんでいた。今でも時々思い出しては、ひっついてじゃれ合っている。長男、もう中。
2010年03月01日
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チビに「読んで!」とせがまれて読んだマンガ。その最初のページに書かれていた文章。「学校で勉強して、家で宿題して、塾も行って、ゲームもして、まんが読んで、テレビ見て、部屋のそうじして、風呂入って、親の言うことをそこそこ聞いたりして、それでもまた怒られて・・・ああ・・・日本の小学生ってめんどくさい。」なんだかとても・・・深く共感。
2010年02月13日
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