読書日記blog

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2006.09.14
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カテゴリ: 教養・実用


ちくま文庫

敗戦後論

「戦後」とは何か?文学と政治から「戦後」の問題を検討する、ラディカルな評論集。

そもそもの前提として、先の戦争を「義」のない侵略戦争と捉える見方に賛同しかねるのだが、そのことはさておき、本書の感想をば。
戦没者の追悼については後ほどまた詳しく感想を書く。

憲法のねじれについては、まったく持ってその通りだと思う。武力を放棄する憲法を武力で押し付けられる。国民の手で改憲できれば良かったが出来なかった。次第に価値を否定できないと感じるようになっただけでなく、説得される主体ごと変わってしまった。加藤氏は、「ねじれているが、よいものだ、という形にしない限り、わたし達自身に抑圧さ、わたし達は、最初からこの平和憲法を実質的には自分で欲したのだと考えるか、最初からこの平和憲法を欲していないし、いまも欲していないのだと考えるしかなくなる」と書く。まあ、戦後60年もこのねじれをねじれと意識することなく、あるいは意図的に無視してきたのだから、タイミングを完全に逸してしまった以上、ねじれているがよいものだと言いながら、状況に解釈をあわせ続けることになるのだろう。

火事の中で、自分の上に誰かが覆い被さったため助かった人が、自分を守って死んだ人を否定する。
加藤典洋は、戦後日本による先の戦争の否定をこのように例える。この例えは分かりやすい。日本の戦没者をどう捉えるかという問題を考えるときに、このような例えは有用なイメージだ。
革新的な人は、二千万人(この本では二千万人ということになっていた)のアジアの死者への謝罪を声高に叫び、「悪辣な侵略者」にほかならない自国の死者を見殺しにする。一方で保守的な人は自国の死者を清い存在として弔おうとする。この対立の構造は、二つの異なる人格間の対立ではなく一つの人格の分裂であると、本書で加藤氏は主張する。「内的自己」は弁護し、「外的自己」は詫びる。この分裂が、一人の政治家があるときは「日本は正しい」といい、あるときは「日本は間違っていた」という矛盾した発言を繰り返す理由である。本書は、日本が心から謝罪をするためには、ジキル氏とハイド氏の人格分裂を克服しなければならない、また人格の統合によって国民というナショナルなものの回復が可能となる、と結論付ける。

この人格の分裂説はなかなか面白い。あの戦争を否定する立場の人にとっても、いつまでも自国の死者を蔑ろにし続けることは厳しい。また、あの戦争に大義があったとの主張は、なんとかして失言や妄言の類にし、分裂を克服して謝罪主体を構築しなければいけない。そのような文脈では、完全に賛同することは出来ないが、納得は出来る。保守と革新の分裂のみならず、特定の主義主張を持っていない現代人は個人の中にその分裂を抱えていそうだ。私の友人が時々ちぐはぐな事を言うのも、大方「内的自己」と「外的自己」が葛藤しているからだろう。斯く言う私さえ分裂していないとは言い切れないという気になってくる。

しかし、これはそもそも「義のない、悪い戦争で死んだ使者を、残された者はどう弔うのがよいのか」という議論で、あの戦争に大義があったとする立場あるいは義のあるなし以前に自衛のための不可避の戦争だったとする立場から見ると、腑に落ちないものがある。


最後に公共性について感想を。正直な話、共同性なるものの実感がつかめない。第二次世界大戦が共同性の器を壊して以降、悲しみがわたし達を分裂者にするとのことだが、その共同性に変わる公共性がわからない。これまでの民族や国民や階級といった共同性ではない、個人を単位とした公共性(アーレント「わたしはわたしの友人「しか」愛せません」)が共同性に置き換わることは果たして可能なのか。仮にこの新たな公共性によって分裂を克服できたとしても、それが「ある種日本国民としての誇り、矜持」にどう繋がるのかよく分からない。
まだまだ勉強不足なので、今後はその辺も深く考えていきたいと思う。





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Last updated  2006.09.15 00:33:51
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