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「ブドウ畑の空に乾杯」は、以下のアドレスに移転しました。卒業までの一年間を写真も交えて紹介していくつもりです。これからも、農や食、ワインやブドウのことを楽しみつつ考えていきたいと思っています。毎日は無理かもしれないけれど、マイペース更新を続けます。よろしくお願いします。新しい『ブドウ畑の空に乾杯』はこちら↓http://saitomy.exblog.jp/
July 31, 2007
ブドウの収穫が始まろうとしています。大学は夏休みですが、手伝いの出来る学生にはメールで収穫のスケジュールが送られてきます。さあ忙しくなるぞー!今年はブログにいろいろと大学の様子をお伝えする写真をのせたりしようかと検討中です。どうしようかな~。いいデジカメ欲しいなー。
July 23, 2007
なんだか知らないけど穏やかな日々が続いている。天気も良いし、好きなときに寝て好きなときに目覚め、本を読み、体を動かして、思索を楽しんでいる。この場所で暮らすのもおそらくはあと一年だが、留学ができたことへの感謝と共に、卒業までにしておきたいこと、また卒業後のことを考えている。今まで、好きなことだけをやってきたしその中で何一つとして無駄な経験はなかった。ただ、家族のことをあまり顧みなかったのと、いつまでも無責任なことを続けられないという気持ちがある。比べるのは愚かしいのかもしれないが、ここまで気づくのにも他人さまよりずっと時間がかかっている。外国で暮らしてすごいねとか語学ができてかっこいいなどとよく言われるけれども、学校をきちんと卒業して毎日せっせと働いている連中のほうが、よっぽど私なんかよりも偉大なのだ。日々の暮らしをささやかにでも自分の力で営んでいけることの、どれだけ素晴らしいことか。私はただ甘えを許してもらえる環境と幸運に浸かっていただけだ。しかし私自身、時間をかけてよかったと感じるのは、人生に対する漠然とした焦りのようなものがなくなったことだ。いつまで生きられるかの保障はどこにもないし、身体は放っておいても老いていくのだろうし、いつどのように死ぬのかもわからない。生きているということはそれ自体甚だ迷惑な行為ではあるが、生きていると素晴らしいと感じる瞬間も多ければ、毎日一つでも新しいことを知る歓びもある。まだ誰かのために何かをするほどの能力もなく責任も果たせないが、手に届く範囲のできることから一つずつ、多くの人の助けを借りていることに感謝しながら、自分に嘘をつかずにやってみたいと思う。もし長く生き延びることができた場合にも、そうでなかった場合にも、悔いの残らないような自分でありたいと思う。今日も世界は輝いて見えるし、まぶしくて涙が出てくる。とても穏やかな涙だ。
June 12, 2007
やあやあ、返事をありがとう。こちらはもうすぐ日付もかわろうかというところ。窓を開けると少し涼しくて、風の音が聞こえる。あの頃私たちは、先々もずっと一所にとどまっていて、何でも一緒にやれるのだと思っていたような気がしない?でもいつの間にかずいぶんと離れたところに暮らすことになったね。よく考えてみれば、君と出会ったのも旅先でのことだったのだから、当然と言えば当然の成り行きなのにね。恋人とは別れたんだ。一連の別れ話にとても疲れたし、人々の好奇の視線、妬み、生まれてくる悪意、失意、諦め、すべてにとても傷ついた。愛だと思ったものが冷めていくのを感じるのは、どうしてこんなに痛むのだろうね?でもこうなることはずいぶん前から見えていたから、今は孤独の自由がとても大切なの。一人になってみないと分からなかったことがたくさんあるよ。次また会えるのはどこで、そしていつになるかなぁ。近頃、近しい友人からメールがきてとてもいい言葉が書いてあった。「また会えるときまで、お互いの畑を耕しましょう」って。また手紙を書くよ。だから生きることをやめないでね。必ずまた会って、生きてることに乾杯しよう。
June 11, 2007
元気ですか。こちらは夏休みに入ってしばらく経ちました。先学期は微生物学の授業と実験に苦しみながらもなんとかクリアしたよ。来学期はワインを自分で作ったりできるのでとても楽しみだ。近頃手紙を出していなかったけれど、私がどこかで何かを書いていることには変わりがないし、君もどこかで何かを書いているのだろうし、表層に見えてこないことの方がよっぽど大切だということを知っているから君とは友達になれたんだと思っている。君との沈黙の時間は嫌いじゃない。今の生活はとても落ち着いたもので、毎日大学のジムで運動し、必要なだけの食事を摂り、レポートを一本、秋までに書き上げるために資料を読んでいるところだ。レスベラトロールのことを書いている。大したレポートじゃないけれど、時間がかかる。何をするにも時間がかかるね。最近おもしろい本を読んだ?何か見つけたら教えてね。毎日とても暑い、でも朝晩は冷えるなぁ。君の場所は、雨かい?
May 30, 2007
その日は昼過ぎから都内を散策していたので、本屋も洋服屋も喫茶店にもすでに立ち寄ってしまい、それ以上何もすることが無くなった。映画を見るほどの時間はないが、連れとの待ち合わせまでもまだ多少の暇がある。腹ごしらえでもするかと山手線で目白まで行き、降りた。辺りは薄暗く紺色の空だ。駅の改札を出てまっすぐ進むと、線路沿いの路地に見える黄色い看板に「高級とんかつ」と書いてある。夫婦のような二人がやっている店で、店内は奥行きが広くちょっとした洋食屋の風情だ。赤いカーペットにしつこくニスの塗られた茶色い木のタイル壁。私は昔この店の近所に住んでいた頃いつもそうしていたように、入って二つ目のテーブルに腰掛けた。首から下げていたローライフレックスをテーブルの脇に置くと、女将がお茶とおしぼりを持ってくると同時に「まあー、立派なカメラですね。撮れるんですか?」と聞いてきた。「ええ、撮れますよ。」「二眼レフ。うちにもありましたけど、まだあるんですね。」「ええ、これ50年以上前に作られたカメラみたいなんですけどね。」「そうでしょうね。最近はなかなか見ませんものね。ご注文は?」驚いた。以前、何年かこの店に通っていた頃にこの女性と交わした言葉は「いらっしゃいませ」「ヒレカツ定食ください」「ごちそう様でした」「ありがとうございました」の4つだけなのだ。初めて会話らしい会話を交わしたことに、照れもあったが感動した。やはりこいつは魔法のカメラだ、と思った。女将の笑顔は変わらぬが、間違いなく3つ歳をとっている。それはこちらとて同じことだが。数年前にはしていなかった黒縁の眼鏡をかけている。美しく歳をとるとはこういうことを言うのだろう。私がアメリカの田舎街に住処を替えてフラフラとしていた間も、この人は毎日決まった時間に店に立ち、当たり前のように米を炊きキャベツを刻み、客に愛嬌を振りまいてきたのだ。勘定の際、カウンターの向こうから料理人も「それどこのカメラなの?俺も二眼レフ持ってるけど、へえーいまどき珍しい。」と話しかけてきた。それでこの男も写真をやるのだということに気がついた。よかったら撮らせてもらえませんか、と言うと、「俺にはピントが合わねえだろう」と視線をそらして仕事に戻る振りをする。恥ずかしがって調理場でうつむいた姿を一枚だけ、撮った。そろそろ夕刻7時になろうとしていた。
January 28, 2007
伊東駅に着いて私たちが最初にしたのは、コンビニエンスストアを探すことだった。目的といえばコンドームを買うことだ。温泉旅行で快楽を追求しないのはあまりにも馬鹿げているが、その結果子供を授ろうとは彼も私も思っていない。しかし、日本ではタダでたくさんのティッシュはくれるけれどもコンドームはくれない。アメリカでは買わずともどこかでもらえることも多いので、すっかり買わねばならぬことを忘れていたのだ。辺りを見回したところ、それらしいのは駅の脇にある小さなキオスクで、もちろんそんな所で避妊具を売っている筈もなかった。荷物を抱えて宿へ向かって歩くと、途中にスーパーマーケットがあったが、そこでも目当てのものは見つからないのでビールを4本ほど買っただけだった。仕方なしに、宿へ着いてから外へ散歩へ出かけた。旅館の番頭は「いやぁ、今日はいいお天気で。何よりですね。」と声を張り上げた。ちょっと歩くと薬局がはす向かいに2軒あったので、あまりにも古ぼけた方を避けて小ぎれいな方を選ぶ。確かな根拠はないが、棚に長いこと置かれたままで埃をかぶっているであろうゴム製品を、信頼する気になれなかったのだ。小ぎれいな薬局のカウンターに立っていたのは、美しい中年の女性だった。白衣を着て肩ほどまで伸びた黒髪に品のいいパーマをあてている。どうやら近所の住人らしい常連と世間話などしている。常連は私たちが店内へ入るとすぐに、じゃあお客さんがいらしたから、といって立ち去った。「すみません、コンドームありますか。」と聞いた。ありますよ。明るい笑顔そのままで白衣の女性は答えた。でも、一種類しかないんですけど…もう一つは在庫をきらしてしまったので、選べないですけどいいですか?と女性は申し訳なさそうに、箱を取ってカウンターに置いた。一種類しかないというのは要するにサイズの問題である。どうするのか。これでいいのか。いいのだ。と、いうことになり、彼がお金を払った。白衣の女性がとても明るく溌剌としていたので有難かった。今日は風が強くて外の看板が飛ばされそうになったんですよ、などという会話もしたように思う。紙袋を渡され帰ろうとした我々の背中に向かって、彼女はいつもの癖で「お大事にどうぞ」と言った後、「…あっ、違った。」と慌てて両手で口を押さえた。確かにお大事にと言うのはおかしいではないか。怪我をしたわけでもなければ病気になったわけでもないのだから。私たちは振り返って笑いあって「じゃあ、ラブラブにどうぞ、ということで。」と返すと、かわいらしい笑顔に戻ってラブラブにどうぞ、と言ってくれた。遠回りして海沿いを歩き、写真を何枚か撮って宿に戻るとまた同じ番頭が「いやぁ、いいお天気で。何よりですね。」と、さっきと同じことを繰り返した。それしか言うことがないのだろうか。まあそれでもいいだろう。怠惰になるための旅には、常にいいお天気というものが必要なのだ。何度言われても悪い気はしない。買い物を済ませて安心した私たちは、食事の前に一先ず風呂に入ることにした。
January 27, 2007
ちょうど2週間前に高校時代の友人2人と会った。3年間共に寮生活をしてきた仲だから、もう友人というよりも家族か親戚のような関係で、黙っていても何の違和感もないし説明も必要ない。お互いのお恥ずかしいあれやこれやも知っている。1人が妊婦だったので、その子が遠出をしなくてもいいように、彼女の家の近くの大宮で会うことになった。もう1人は婚約して9月に結婚するんだと言っていた。みんなずいぶんと落ち着いたものだ。みんなが幸せそうで良かったな、と思っていたら、2人の方からあなたが幸せそうにしてるから良かった、と言われた。私たちの通った高校はアメリカにあるが、もうすぐ閉校になるので、我々が高校生だった時の話をしながら懐かしんだ。妊婦は、寮の扉がガチャン、と開くときの感触を時折思い出すのだと言った。私だってそれを覚えている。窓に小石を投げて男の子を呼び出したことも、グラウンドの夕日に照らされながら毎日のように散歩したことも、隠れて酒を飲んだりタバコを吸ったことも、夜中に寮を抜け出してこっぴどく怒られたことも、大学へ入るための受験勉強に怯えるように暮らしていたことも。溢れかえるような記憶の只中に、あっという間に戻ることが出来る。でも実際にあの頃に戻るのだけは勘弁してほしいよね、なんて言いながら駅近くのデパートのレストラン街で割合に上品な中華料理を食べた。そこでふと気がついたのが、私たちは3人で食事をしていたのではなかったということだ。私は妊婦のおなかに触れた。医者の話によるとどうやら男の子らしい。胎児の写真も見せてもらった。「君が生まれてきたら、私は君が大きくなるまでお年玉を上げる。おもちゃも買ってあげる。もしかしたら初めての酒も教えてあげるかもしれない。」と約束した。ポコンと飛び出たお腹の主は、いかにも母親らしい笑顔で恥ずかしそうに笑った。そして、「ねえ、この子がもうひとつデザート欲しがってるからどこかでケーキ食べて帰ろうか。」と言った。
January 22, 2007
新学期が始まって3日ほどになる。新しい教室、新しい教科書、すでに山積みの課題。これが憂鬱でなくて何であろう。あまり寒いので自転車通学をやめて車で大学へ行っている。朝晩は地面も凍って霧も濃いので外に出たくないほどだ。それともこの沈鬱は、どこかに心を置き忘れてきたせいなのだろうか。学期初めの1~2週間のうちは特に、どの駐車場も満杯だしキャンパスには人が多くて何かと苦労する。だが、それもほんのしばらくの間だけだ。人々のモチベーションの波は大体において呼応しているものらしいし、授業へ顔を見せる学生の数も、日ごとまばらになっていくのだろう。私はどんなことがあっても授業を休まないつもりだ。暖かくなったら、また自転車に乗って学校へ通おう。太陽のぬくもりと抜けるような青空を、辛抱強く待っている。
January 19, 2007
ちょこちょこと海外へ出かけるようになって10年以上になる。初めのうちは割合に旅人風の生活に憧れていたこともあって、根無し草で結構じゃないかと、故郷という感覚を久しく持ったことがなかったが、最近は懐かしい想いと共に故郷を思い出すことが多くなった。成田空港で2時間遅れの飛行機を待つ間、目の前の大きな窓からまん丸の太陽が沈んでいく所など見たら、どうにもこうにも亜米利加へ戻りたくないような気になって、友人に電話をかけるもそういう時に限って応答がない。手放しで肯定できるほど非の打ちどころのない国というものを、私は知らない。特に私の場合は、思春期ごろ自分の居場所に少しも満足できない気持ちで風来坊を始めたために、気がつくとつい悪い部分に目が行きがちになる。しかし、この冬、短い日本滞在で気づいたことは、許しがたく嫌いだと思っていた風景や人間たちまでをもいとおしむ感情が、私の心のどこかに生まれてきたということだ。ふるさととは何なのだろう。そこで死にたいと思わせる場所が私にとっての故郷であるような気がしている。好きも嫌いも全てごちゃ混ぜになった状態で、この冬私は、嗚呼、つくづくこの場所で死にたいなあ、と確かにそう思ったのだ。将来望んだ場所で死ねる保障などどこにもないし、現にまた自ら外へ飛び立とうとしているというのに、湧くようにして現れたその感情に、私は泣けてきすらしたのだ。そしてきっとそれは、両手を広げて私を受け入れ、心の底から笑い合える人々の存在が関係しているに違いない。
January 15, 2007
人生というのは自分で決められることだけではない、ということをちょっと忘れていた。帰国は一日延期。空港まで送ってくださった綺麗なおねえさん、ありがとうございました。天気のことを心配していたのに、結局天気は問題なくて機体の故障。期待が大きかっただけに、とてもがっかり。明日は飛行機が飛びますように。おうちに帰りたいよー、とメソメソしているとシカゴにいる某パイロットから電話があった。「しょうがないだろう。そういうことは良くあることだよ。明日は寝坊しないで空港へ行ってね。」といわれた。航空業界の人はやっぱり冷静なのね。ふうん。今日は昼寝、買い物、カード書きなどして有意義に過ごす。どうしてもお土産が決まらなかった2人にちっちゃくてステキなものを見つけることもできた。昨日写真を撮り忘れたかわいい女の子がわざわざ訪ねてきてくれて、一緒に写真に写る。冷蔵庫は計画的に空っぽにしてしまっていたため、昼は能古うどんをゆでて、夜は友人君と外食。そのあと友人君のギターに耳を傾けつつ、白ワイン一杯。デザートはアイスクリーム屋さんへ。一日の終わりはとても楽しい気分になっていたので、アイスは私がご馳走した。
December 22, 2006
昨晩、ワイン分析学の問題がどう頑張っても解けないので、もうあきらめて寝ることにした。すると、朝起きた瞬間に答えがわかったのだ。驚いた。睡眠とはかくも素晴らしきものなりしか。ワイン分析学のおじいちゃん先生は、手作りのチョコレートを持参で教室へ来た。最後にメリークリスマスと言われて、あーほんとにサンタさんみたいな人だなあと思った。たった今、政治学のレポートをオンライン提出し終わったところ。夜の12時が締め切りだったが1時間前に終わった。国際関係における最重要アクターは誰か、という問題。国家、とは書かなかった。レポートは出した、でもまだその問題については考え続けるだろう。明日は化学と社会学のテスト。今夜はさすがに眠れないな。さて、まずはシャワーでも浴びてすっきりしてくるか。3日後には日本へ旅立つ。人類の移動速度はめざましくあがったのに、私はどうやらついていけていない。4日後に、この体が、愛するものたちのごくごく側へ、行けるなんて、ホントかな。なんだか信じられない。ああ、抱擁よ、キスよ、私は今それだけのために存在している!
December 19, 2006
日本にいる母親と電話する。特に用事があったわけではないので、一緒に歌を歌う。手術をした後でも彼女が声を失わず大好きな歌を歌えてよかったな、と思う。母から「あんたって古い歌ばっかり知ってて、なんでそんなに郷愁の人なの~?」といわれる。仕方ないではないか。私の身体のほとんどは郷愁でできているのだから。という説明はあえて母にはしないが、あ~楽しかった。それにしてもこの人の話はオモシロくて笑える。「この間さー、サントリーホールにバイオリン聴きに行ったのよ。で、始まる前にロビーで座って時間つぶしてたら、隣の人のスカート踏んづけちゃって。『あっ、すいません』って言ってお互い会釈して、しばらくして気づいたんだけど、その人加賀まりこだった~。あたし加賀まりこのスカート踏んづけてた~」というのが、彼女のコンサートに関する唯一の記憶らしいのである。音楽がどうのという話はしないのだ。それ以外にも、彼女が若かりし頃、お姉さんと甥っ子と一緒にコンサートへ行ったら、ムッシュかまやつからおもちゃをもらった話などを聞く。最前列に座っていたら、「坊やに」といってゴリラがシンバルたたくおもちゃをもらったそうな。
December 4, 2006
感謝祭が終わると街は一気にクリスマスモードになる。感謝祭の翌日などは毎年クリスマス商戦の始まりで、あらゆる小売店が早朝4時、5時から店を開けて客を呼び込むのに必死だ。そんな人ごみに出かけていく気はしないが。今日は彼のママウエから電話があった。彼にあげるクリスマスプレゼントはどうしましょう、というお話だった。というのも夏に彼の誕生日を祝ったとき、ママウエと私はまったく同じプレゼントを買ってしまったからで、クリスマスこそはそれを避けようというわけだった。私はすでにいくつかプレゼントの候補を決めたので、それをお伝えしておく。どこかで買えるものではなく、私が作るのでママウエの心配には及ばぬ。彼本人からは、キミがほしい、セクシーな下着つきで、と言われている。どうしようか。
November 29, 2006
食欲がないのはどうやら運動不足のせいらしい、と気づいて歩いて大学へ行く。大学の敷地は大きな公園みたいなものだから、移動するだけで結構な距離を歩くことになるのだ。図書館にしばらくいた後、実験中の土壌サンプルをチェックしに行く。データを取っておかないとレポートが書けない。実験室にいた先生は帰り際にハバグッドホリデーといったのでユートゥーとご挨拶した。そういえば明日から感謝祭の連休なのだ。あなたの課したレポートさえなければ、ハッピーサンクスギビングを過ごせるのですがね、先生。帰り道、辺りはすっかり暗くなってオレンジ色の外灯がぼんやりと灯っている。夜に一人で歩くのは久しぶりだ。ある秋の初め、巴里の夜道を歩いた時のことを思い出した。あの時と同じ光の色だったからだ。突然決めて行くことにした仏蘭西で、空港からホテルに着いてシャワーを浴びたら、夕方の巴里をどうしても歩きたくなって、途中食事をしながら、結構遅くまで歩き続けたのだった。私は当時、足早に何を探そうとしていたというのだろう?あんなに早足じゃ、見つかるはずもなかったじゃないか。そう思ったら可笑しくて、自分に笑えて仕方なかった。私は自分の幼さに苛立ち恥じるばかりに、急ぎすぎていたのだ。今日は縮こまって歩きたいほど寒いけれど、背筋を伸ばして顔をあげて歩こう。この小さな街に留まっていることに満足しているわけではないけれど、今私が歩いているのは此処、そしてこの道に違いないのだから。
November 21, 2006
高校時代の友人から久々のメール。「私は今年3月から近くの会社で働き始めたよ。そして先月結婚して、苗字が変わりました。来年の五月に男の子の赤ちゃんが生まれるよ。」そうか。私は彼女の子をむちゃくちゃ愛して甘やかすだろう。きっと彼女にとってこれが一番幸せな結末なのだ。もう、風呂場で手首を切ったりするなよ。妊婦なのだったら一緒に酒が飲めないなあ。フフ。おめでとう。今日は落ち葉がすごい。朝方に霧雨が振ったせいだろう。濡れたコンクリートに重なる赤や黄色の絨毯。やっと美しい季節がやってきたんだ。一雨ごとに、私の心もしっとりと落ち着いてくる。
November 20, 2006
新聞の一面には今日も死体の写真。昨日もその前の日も、死体の写真。砂の上に無残に倒れた、名前のない死体。写真よ。私にはおまえを見つめることができない。
November 15, 2006
この間受けた化学の試験が返ってきた。40点…100点満点中の。勉強したのになあ。がっくし。これじゃ赤点だなあ。このクラス、単位もらえるかなあ…まずいなあ。落ち込んでいると隣の男がニヤニヤとこっちを見てくるので、何だ?と思ったら彼は自分の解答用紙を私に見せてきた。29点だった。そのまた隣の男がささやいた。「俺は24点だったよ。」と。声を殺してみんなで大笑いした。なーんだ、みんな出来なかったんだ。先生が誰よりも落ち込んでいる。これほど出来の悪いクラスは初めてだそうで。でもみんなのことは大好きです、次のテストはしっかり勉強してね。それから、授業にはちゃんと来てください。朝早くて大変だろうけれど。と、言っていた。さて、今日も実験じっけん。
November 13, 2006
友人君とテニスをする。二人とも少しずつだが上達してきているので、とても楽しいラリーとなった。その後、一緒にグーグルアースで遊ぶことにする。東京で暮らしていた二箇所のアパート、呑んで泣いて笑った大学周辺、仕事をしていた横浜中華街近くのビル、などをツアーする。面白いというより恐ろしいなあこりゃ。人間ってどんどん秘密を持てなくなっていくんじゃないだろうか。最近急激に気の利く男になってきている友人君が、冷蔵庫にスパークリングワインを冷やしてあるからと言うので一緒に乾杯をすることになった。彼がポツリポツリと近況を語る。そうか、それが話したかったんだね。彼の恋はいつもうまく行かないのが不憫だ…。元気出せよ、なあ。あの女のこと考え続けたって、時間の無駄だぜ。
November 11, 2006
ドアをノックする音に、なんだろうと思って出ると郵便屋さんだった。チューかいじゅうからの小包が届いたのでサインする。箱を開けると中にはたくさんのチューが入っていた。チューかいじゅうチコボニート。あれから一年になるのだね。きっともう、君は私の知っている君ではないし、私は君の知っている私ではないと思うよ。私の手を離れて、遠くへ行ってしまったらどうだい。チコボニート。
November 10, 2006
寒い。ベッドで毛布に包まって動けず、どうしても学校へ行きたくなくなる。いっそのこと休もうかと何度も考えたが、今日は大事な課題の提出日なので、行かなくては。自転車のペダルをこぐ足が重い。何となくいつもとは違う道を通って大学の敷地内に入ると、アスファルトの黒々とした光沢が起き上がって動き出し、こちらへ襲い掛かってくるような気がしてくる。そのイメージをひたすら打ち消して前へ進む。がたん、と大きな音を立ててドアを開けてしまってから、ちょっと申し訳なさそうに肩をすくめて教室に体を滑り込ませる。誰も気にしている様子はないが。学生たちのおしゃべりの声が大教室の熱気と上昇気流に乗って膨張している。ちぇ、うるせえなあ。先生の机の上にレポートを出してから、後ろのほうの席を確保してマフラーと帽子を脱ぐ。右隣の男女は先生の着ている洋服について悪口を言っている。左隣ではこの授業がいかに役に立たなくてつまらないものか、文句を言っている。彼らの間で私は出席点を失うのが怖くて、家へ帰る勇気もなく座っている。しばらくボーっとした後、バックパックから日本語の本を取り出して読みはじめた。今日は誰の話も聞いてやるもんか、という気分だったのだ。
November 2, 2006
恋をすると、どうしてこんなにも世界はきれいなのだろう。と考えながら自転車をこいでいた。朝の空気は冷たくて、でもはっきりとした明るさを持って私の全身に触れてくる。ブドウ畑の横を通り過ぎる。いろんな秋の香りを思いきり吸い込む。雲は高いところにあって細部まで鮮明に見えて、あまり綺麗なのでそれを見ながらのんびりしていたら授業に遅刻した。しかし今日に限って教授も遅刻してきたから、私の遅刻もちゃらになった。日本のジェントルマンよりメールがくる。この間何枚か送った写真にお褒めの言葉をいただく。「写真がよかった。腕があがったね」と。ああ、この方に褒めてもらえるととても嬉しい。いいものを分かる人に、よかったよ、と言われるとほっとする。私には写真に関して迷いというものを経験したことがないが、それでもその一言を聞くと、どういうわけかほっとする。幼い子供が大きな温かい手で「いいこいいこ」された時のように、すーっと心が安定するのがわかる。「いいこいいこ」の手が届くような、「触れられる距離感」というものが私にはとても重要なのだ。写真を撮るのは愛するものたちに触れたいからで、私にとって撮ることは触れることだ。しかし今、本当に大切な人たちはあまりにも遠く、手を伸ばしてもなかなか届かない。伸ばした手の先にはモノクロフィルムの海があるのみだった。そんな成り行きでアメリカへ来てから白黒写真を撮るようになった。そうやって今日も太平洋に無数に浮かぶ「肌触りの屍」を追悼している。指先に触れる温かい弾力を、切望してやまない。
October 31, 2006
ポートランドへ引っ越した公爵から電話。自分も妻も元気でやってる、大学院ではクラスを2つしかとらなくていいので結構楽だ、最近語学学校の教師として雇われた、君が英語を習ったのと同じ学校さ、奇遇だろ?来年の夏にでも、ぜひ彼氏と遊びにおいでよ、という。この街へ来て大学へ通い始めてから、あと数ヶ月で3年にもなろうとしている。醸造学科の必修科目の餌食となった私を尻目に、友人たちは次々と卒業していく。入学したての頃近しくなった奴らは、もうほとんどいなくなってしまった。故郷へ帰る者。仕事が見つかって遠い街へ行く者。私だっていつまでもここで暮らしたいわけではないのだから、いつかはこの街を出て行くだろう。もう毎日の生活も、何の代わり映えもなく、全てが日常と化した。異国に暮らす緊張も、不便さも、一つ一つ乗り越えて今ではすっかり「在住の人」になっている。自転車に乗ったり、ギターを弾いたり、お酒を飲んだり、本を読んだり、ほんの小さなことに喜びを見出す毎日を送るようになるなんて、ここへ来た当初は思いも寄らなかったことだ。留学とはもっと大それたドラマだと思っていたが、もう今の私にドラマは必要ない。風の吹き荒れるような感情の揺らぎもない。今は凪だ。この静けさを、寒さに耐えつつじっと楽しもうじゃないか。これからもきっと、山ほどのさよならと、山ほどのはじめましてが、私を待っているのだろう。連絡のつかなくなる人もいるだろう。私はそのどれにもしがみつくことをせず、写真だけを撮り続けて生きていこう。日々、愛しいものたちの写真を…。
October 28, 2006
赤ワインとトマトとモッツァレラチーズを持ってマユゲピアス氏のお宅へ。静かな住宅街にある一軒屋のガレージにオレンジ色の明かりを灯して、彼はせっせと蒸留器を組み立てていた。蒸留酒造りをやるんだ、と意気込んでいる。もうすでに試作品もできていて、飲んでグラッパ。ちょっとツンとくる味だけど、初めて造ったにしては、う、うまいじゃないかー。乾杯はピアス氏の作ったロゼで。ちょっとキャンディーみたいなピンク色。きれいに色が出てるなあ。糖度もアルコール度もかなり高めだが、細かい気泡が口当たりをよくしている。ううむ。美味いじゃないか。ま、負けられん…。小腹が空くのでカプレーゼを作る。スライスしたトマトにモッツァレラチーズをのせて、塩胡椒、バジルをまぶしてオリーブオイルをかけるだけ。赤ワインを開ける。やっとカボチャをくりぬき始めた時には、もう軽くヨッパライになっていた。将来結婚はしたいかしたくないか、大学を卒業してこの街を出て行くことになったらどんなに幸せか、といった話をしながらべチョべチョのわたと共にカボチャの種を根こそぎ取り除く。しばらくすると、女弁護士がやってきた。女弁護士はレズビアンの産婦人科医と夕食をとってきた、という話をした。レズビアンの産婦人科医は、長年連れ添ったパートナーと別れたいのだが、法的に問題があるかも、ちょっと話を聞いてよ、というわけでディナーと相成ったらしい。品のないヨッパライたちはゴシップに唄う。ララ~。産婦人科医は、レズビアン~。だからどうってことはないのだが。ララ~。またしばらくしてヨッパライたちは、もう一人呼んでいるのに来ないなあ、ということに気づいた。電話すると、ガソリンスタンド勤務のインド人は「今日、車の窓を割られて今直してるとこだ。だからカボチャ彫りに行けない。」と言った。唄うヨッパライたち。ララ~。カボチャ彫りに行けない~。かなりの休憩をはさんでやっと完成したカボチャランタンの出来は…マユゲピアス氏の圧勝であった。何故きみはそんなにアーティスティックなの。同じヨッパライなのに。ちぇ、なんか悔しいなあ。ララ~。
October 25, 2006
大体毎年この時期になると、宿題がたまってきたり、レポートや試験も増えて忙しくなるのはいつものことなのだが、それにしてもここのところずっと疲れが抜けなかった。先週は一週間のうち2回も、実験中不注意でガラスを割ってしまった。誰も怪我していないし、形あるものは壊れるのだけれども、集中できていない自分を見せ付けられてため息が出た。「何かを失いかけている。それが何なのかはわからないが、確実に何かを失っている。ろくに睡眠をとらず、食物にも情熱を失い、古くなってくたびれた人形のようだ。今だって座っている姿勢をとっているが、座っていない。空間にぶら下がるようにして存在している。バリバリに凝った肩を二箇所、画鋲で空間にとめられている感覚。」などとノートに走り書きしている。ご病気である。今週は火曜日に「土壌と水」のクラスでテスト、今日は「ワイン分析学」でテスト、まあ何とかこの二つが済んだのでほっとしている。週末は好きなことをして過ごそう。明日の朝起きたらすぐにシャンパーニュを開けて、カメラを首にかけてごきげんに散歩へ行くのだ。ご無沙汰してしまっていた人たちに少しずつお便りを出す。かなり久しぶりなので、お恥ずかしいほど。日本へ電話を数本。相変らずの声たち。しばらくぶりに会話した友に、私の声が「すごく穏やかなので驚いた」と言われる。
October 20, 2006
この人は、他の何よりも母親であることが得意なひとである。誰かの人生にさりげない方向付けをすることに、長けているのだと思う。この人が母の役割をするのは私や妹に対してだけではなく、私の友人にだってそうだし、近所の奥さん連中や老人にも、そして自らの夫に対しても母親であることを貫いているから驚きである。例えば、夕食のために魚を焼くだろう。そうすると焦げてしまって失敗したものを、自分が引き受けて食べる、というようなことを母親というのはするだろう。この人は徹底してそれをやる。だから、私の人生の焦げてどうしようもなくなった部分は、全部この人が引き受けてくれている、ということになる。私に何か迷いがあって、つらいときに泣きつくのは決まってこの人だ。すると母は「あなたの人生なのだから、あなたのしたいようにするのが一番いいと思う」という。いつも必ずそうなのだ。私は今までかなりの迷惑をこの人にかけてきた。数えだせはきりがないほどに。こうして私は自分の思い通りに生きて、その分母は何かを犠牲にしているのではないかと思うと申し訳ない気持になることがある。しかし別段それを苦にするともなく、明るく笑いの耐えない人であるために、私はそんなことを思ったことすら、すぐに忘れてしまうのだ。彼女は母親であることを貫いている、と書いた。ではしかし、一人の女としての母、というのは存在しないのか、というとそんなことはない。最近はそう感じることが多くなってきた。きっと私が幾分か大人になって、女同士の会話の相手もできるようになったからだろうか。特に彼女がちらりと父との関係について言及する時、ああ、この人も、オンナなのだなあ、と思って私は嬉しくなるのだ。計り知れないところがあるので、この人のことを書くのは容易ではない。だがこれだけは記しておこう。この人ほどいい女を、私は知らないということを。夏に会った母はとても綺麗だった。歳をとるごとにこの人が美しくなるのは何故なのだろう。
October 1, 2006
時間通りにものごとを進める、というのは父の仕事の一部でもあるので、我がアパートへ着いてこの人が初めにしたことは、バラバラな進み具合の時計たちを片っ端から一秒の狂いもなく合わせることだった。どういうわけか私には時計を数分進めてしまう癖があり、その何がどう役に立っているのかを説明するのは難しいのだが、役に立っていると思っている。進める分には誰かに迷惑をかけることも少ないし、世の中の決め事から少しくらいずれている方が気が楽なのだ。時計をバラバラに合わせるのは、時間という概念との疲れない程度の間隔を保つという意味で、私にとっては不可欠な儀式なのである。そんな私を見るたびに父は鼻の穴を膨らませて笑うが、そんな時の父は、性懲りもなく時計の針をずらし続ける娘と、自身の几帳面な性格の違いを発見して楽しんでいるようにも見える。彼の母親、つまり私の祖母も時計を進めてしまう癖をもっていたらしく、父はそれを嫌っていたのだそうだ。ということは、もし将来私に子供ができるようなことがあれば、その子は私のずらした時計を嫌がることになるのだろうか。時計を合わせた後は、ひたすらアパートの掃除をする。私でも母でもなく、父がである。特に水周りに関しては執着がものすごい。磨く。こする。ちょっと買い物へ出掛けると言って、掃除用具も一揃い買って来た。ありがたい。お陰でどこもかしこもピカピカになった。水周りの後は電気である。あそこのソケットから火花が出るから直そうとか、この照明器具の取り付け方は危ないなあとか、もうまるで電気屋である。そういえばアイロンも直していた。まあ彼の仕事の一部は電気屋の側面もなきにしもあらず、だから職業柄といえるのかもしれない。安全にものごとを進める、というのは父の仕事の重要な部分であるので、家族そろってレンタカーで出掛けた時は物凄く慎重な運転をしていた。あまりに慎重であったので、私は周りのドライバーの感情を考えるとかえって怖かった。しかしそんなことはお構いなし、起こりうる危険を事前に察知できるのは父の能力である。周囲の地形と自分の運転している車が高い所から見えるのだそうだ、鳥瞰図のように。すごいなあと思う。休みの間でも、父は働き者であった。その根本的な性質のお陰で、私は幼い頃から飯も食わせてもらってきたし、教育も受けさせてもらってきたのだから感謝しなくてはならない。帰り際父は、おい、お前の靴は汚いからちゃんと磨いておくように、と言って去っていった。
September 22, 2006
妹という人は私にとって大切な人である。尊敬している。姉の私とは反対の、地道で落ち着いていて、バランスのとれた性格をしているとつくづく感じる。まだ中学生だが、何分ゆったりと育ったせいか、彼女なりに思春期の思い悩みはあるらしいけれども、とにかく人当たりが良い。争いごとを嫌い、涙もろく、ユーモアのセンスに溢れる彼女の存在は我が家族の大切な絆の役割も担っている。彼女の要領のよさは抜群で、夏休みの宿題はほぼ終わらせてから来たという。まだ7月だというのに。偉い人だなあ。おもしろいことには、夏休み日記の宿題も既に全部済ませてきたとかで、「今日はヨセミテへ行った」「姉のアパートのプールで泳いだ」「ユニバーサルスタジオへ行った」などと未来の出来事がそれらしく書いてあるので、その通り実現できるように両親と私としては頑張ったのである。この人が生まれてきた時、私は本当に驚いたものだ。私が12歳の頃だったが、それまでずっと一人っ子だった私にとって、母親の懐妊は大きなニュースだった。両親は私の下にずっと子供を欲しがっていたが、授かり物に恵まれず結局12年もの間、待たされ続けることになったのである。その頃までに、性に対するあからさまな好奇心が自分の内部に潜むように存在しているのを発見していた私は、学校ではいい子を演じていたものの、内面ではひどい反抗期でドロドロとしたものを抱えており、私と両親の間には諍いが絶えなかった。両親が、自然な成り行きと見せかけて私に立ち会わせてくれた出産は、それはもう好奇心と驚きと、それ以上の喜びに満ちたものだった。人間の当たり前の営みが、これほどまでにドラマティックであることを私は初めて知った。私は分娩室のなかで白衣を着て帽子とマスクをかぶったまま、ボロボロと泣いた。助産婦さんの粋な計らいで、赤ん坊の性別を見極めたのは医療関係者ではなく私と父親であった。父も目を真っ赤にしていた。母親はその生まれたての何か変わった生き物を抱いて、涙を浮かべて優しく、しかしはっきりと「あなたがいたのね」と言った。「あなたがいたのね。」これが母というものか、と思った。命の尊さ、母性の深奥さなどという言葉が実際に浮かんできたわけではなかった。しかしとにかくその瞬間をすべて記憶しておきたいと願い、その後、小学生だった私はひたすらその出来事について書き続けたのだ。当時のメモはもうどこかへ行ってしまって所在がわからない。ただ言えることは、この経験がなければ私の価値観も感受性も、また違った方向に形成されていったはずだということだ。そしてそれはきっと今のように色彩に満ちたものではなかったと思う。当時、家の手伝いを決してやりたがらなかった私が、妹の面倒を見ることは進んでやった。妹を抱っこして歩いていると、周囲から「ずいぶん若いお母さんね」と言われることが多々あった。自分が育てられたのと同じ過程を、今度は逆の立場から踏んでみることで、大人びた気分を味わうことの快感と苦労を、ほんの一部だが知ることにもなった。そういえばそんな調子で、妹という人は常に私に何かを与えてくれる存在であり続けたのだ。あれからもう十数年が経ったとは感慨深い。
September 21, 2006
夏の間は色々なことがあった。両親と妹がこの街へやってきた6日間は思いのほか楽しんだ。4人で一つの場所に生活するのは久しぶりのことであった。彼の家族と私の家族が対面した時はおかしな楽しさがあった。皆それぞれに緊張しているくせに、リラックスした雰囲気を努めて演じていた。食事代をどちらが払うかで見苦しいマネをしないように前もって決めて言い含めておき、どういう順序で席に着けば会話がスムーズに運ぶかまで考えて座り、意味のわからぬプレゼント交換のようなものがあり、段取りというのはこういうものかと思った。
September 20, 2006
新学期が始まって4週目に入ったらしい。時間の経つのは早いのか遅いのか、私にはちっとも分からない。今、目の前には山ほどの課題と、教科書と、ノートと鉛筆がある。心の中は空虚だ。時々指をパチッと弾いて、瞬間的にあの場所へ飛んで行けないだろうかと試しているのに、景色はこのつまらぬアメリカの田舎町のまま、代わり映えもしない。妖精の粉でもつけないと無理なのだろうか?
September 19, 2006
日本にいる両親と妹が、今週末こちらへ来るといっている。ホントに来るのだろうか。このクソ暑いさなかに。なんだか想像しにくい。どういうことになるのだろうか。
July 24, 2006
サマーセッション終了のパーティーを、授業終了とともに始める。午前中に期末試験が済んだら、まずは大学構内のパブへビールを飲みに行って。夜は我が家でピザパーティー。韓国人のイロオトコ君とその弟くん、そしてさすがはイロオトコらしく、彼はかわいらしい日本人の女の子を二人連れて来たので全部で5人。イロオトコ君は今学期で大学を卒業する。もうすぐ韓国へ帰り、2年間の兵役が待っているので、どうやら、ちょっと嫌がっているようだった。けれど国の事情もわかっているからな、仕方ねえ、義務だし、と言った感じなのだ。最近まで付き合っていた彼女からは2年は待てないという理由でフラれてしまったらしい。あんた、今回はフられたにしてもこの数年間で女コロコロ替えるわねえ、と茶化したら、しっかり「お前もな」と言われてしまった。彼はかなりの呑み助で、カクテル、ビール、赤ワイン、ポートワイン、ラムにブランデーまで、ごちゃ混ぜに飲む。そして下手くそな英語で喋ること喋ること。私たちはあらゆることについて遅くまで話し合った。北朝鮮のミサイル発射、イスラエルのレバノン空爆、アメリカ民主主義のジレンマについて。日本と韓国の文化と政治について。クーラーがちっともきかないほど暑い夜だった上に、オーブンを使っていたので部屋は熱気で満ちて彼の額から汗がダラダラと流れた。
July 21, 2006
熱風が吹いている。プールへ泳ぎに行って、帰りにお腹が空いたのでサンドイッチを食べに行こう、ということになった。でも濡れた髪の毛のまま食事処へ入るのもどうかなあ、と躊躇していたら、サンドイッチ屋へたどり着くまでの自転車に乗って2分、で髪はすっかり乾いてしまった。最近2~3日に一度は連れ立って大学のプールへ行くのが私たちのデートコースであるが、泳いだ後の、どこか懐かしいような疲労感が心地よい。45分くらいの間、それぞれのペースで泳いだら、自転車にのってアパートへ戻り、シャワーを浴びてアイスクリームを食べて、昼寝をする。アパートにも水浴び用のプールがあるが(暑い場所だからそれは一般的なのです)、歩行者用の道筋におもちゃの車、小さな靴、オレンジ色のシャツ、ズボン、と順番に落ちていて、その先にプールがあるのだった。あまりの暑さに飛び込んだのね。水しぶきを上げてキャーキャーと騒ぐ子供たちの美しさといったら!ここ何日かは夜になっても気温は一向に下がらず、水を飲んでも飲んでも喉が乾く。
July 17, 2006
一人で過ごしている夜に限ってこの男から電話があるのは、ただの偶然なのだろうけれど、まるでタイミングを見計らっているかのように、いつもこちらがのんべんだらりとしている隙をついてくる。「よう。何してる?」「別に。寝転んで本読んで、怠惰な生活してるだけ。」「そうか。君は俺の知ってる唯一の怠惰な日本人だ。日本人ったら働きすぎでさ。」「あなた日本人の友達何人いるわけ?」「2人。」「ずいぶんと少ないサンプルね。」「そうだな。」「なんか疲れてるみたいね、どうしたの?」「仕事が終わって確かに疲れてる。今やってるのは溶接の仕事でね。防護服着て、マスクして、この暑い気候の中、さらに熱源のそばに居てごらん。汗は休みなくダクダク流れてくるし、シャツは肌に張り付いて気持悪くって。そのうち皮膚癌になりそうだよ」「今日は何の電話?」「俺はね、時々こうやって世界中の誰かに電話をかけるわけ。ある時はカナダに、ある時はイタリアに、チェコに、それぞれの土地に住んでる友人に電話して、皆からなんて国際派なの!って思ってもらおう、というわけ」「ああ、そう。」ずいぶん前になるけれど、そういえばチェコのお酒をこの男と一緒に飲んだことがあったなあ、と思い出した。それはクリスマスみたいな味がして、チェコ語で乾杯をしたっけ。「明日、朝食を食べないか、一緒に。」「悪いけど無理よ。」「パンケーキ作って、紅茶も淹れるぜ。」いつもの誘いをいつものように断る。まったくこのお誘いだって、一緒に寝て起きた後の朝食なのか、それとも早起きの苦手な私に早朝集合させるつもりなのか、よく分からない。数年前の私だったら、いそいそと出掛けて何か間違いを起こしたかもしれない。だが、私には今、自分の軽々しい行動で傷つけたくないものがある。それにね、バイクでしょっちゅう一人旅に出掛けてしまうような男を待つのも、御免なの。そういうことの出来る強さはね、私にはないのよ。伊達男よ、私たちはあまりにも似通いすぎていて、近付いたって結局二人とも孤独を抱えて破滅するだけ。飲む酒も、聴く音楽も、趣味も、辛口のユーモアも、何もかも話が合うのはきっと錯覚で、このしがない田舎町を出て行きさえすれば、きっとあなたにふさわしい人に出会えるわよ。それでなくとも君はたまらなくセクシーなのだから。気づかない女は馬鹿ってもんよ。
July 6, 2006
トランクにはギター2本と、着替えを少しと、ビールを3ケースほど積んで、北へと走る。友人の山小屋へご招待を受けたのだ。青空の下のハイウェイドライブは快適で、窓から見える景色は街から街へ、ガソリンスタンドやファーストフードの巨大な看板の喧騒を抜けて、やがては緑の森へと姿を変えていく。埃っぽい匂いのする二階建てのキャビンに到着したのはお昼前のことで、さっそくビールを開けて乾杯する。山で酒を飲むと、ほんの少量で容赦なく酔っ払ってしまうものだから、頭の中がクルクルまわる。ここは静かだ。ギターを忘れずに持って行こうね、と前々から決めていたのは大正解だった。時々蚊がプーンと耳のそばを横切っていく。虫除けスプレーの何ともいえない金属臭が鼻につく。絶景の原っぱでサウンドオブミュージックごっこをして、サンドイッチを平らげて、いびきをかいて昼寝をして、ワッシャー投げという原始的なゲームを楽しんで、そう暗くならない内から火を焚き始める。銀紙に包んだとうもろこしを火の中へ放り投げ、ホットドッグにサラダ、持参した白ワインも開けよう、そしてもちろん暗くなったらマシュマロを焼くのはお約束だ。ひと段落ついた後、6人で暗闇の草むらを歩いてしばらく行くと、そこはすっかり天の川の中。流星が見える度に歓声を上げた。
July 1, 2006
化学の期末試験が終わった。毎日5時間の授業、実験レポートに宿題、週に2回のテストの生活を6週間と、かなり追われたのでもう嬉しさを感じるというよりは脱力感しかない。つ、つ、疲れた~。化学の先生は中国から来た方だったのだが、この人が石原慎太郎にそっくりで、目つきや声まで似ていたので本当に石原慎太郎に化学を教わっているようで、おかしな気分だった。外見は慎太郎だが中身はとてもフレンドリーで、教え方も試験の作り方もきっちりとしているいい先生であった。来週の月曜日からまた別の授業が始まるのである。もうぅ。ぷぅーチクぷぅう。
June 29, 2006
引越しを手伝ってくれた方々を中心にお誘いをして、パーティーを。本日のメニュー:パエーヤ鶏肉のバルサミコ風味ベジタブルピザオイルサーディン パイ包み焼きジャガイモのチーズ焼きサラダフルーツ盛り合わせチーズささやかなお礼パーティーのつもりだったのに、引越し祝いだからとたくさんプレゼントまでもらってしまった。万華鏡。ワインラック。かっこいい写真立て。料理欲をかきたてられる、すっきりとしたデザインのお皿セット。新しい我が家に欲しかったキャンドル。チュ~している2匹の魚のオブジェ。どれも素敵なものばかり。みんな、本当にありがとう。こんなにおいしいご飯食べさせてもらえるなら、また近いうちに引っ越しませんか、ボク手伝いますから、といってくれた男の子がいて笑った。2時過ぎに皆が帰ってから、もらった万華鏡で海賊ごっこをして遊ぶ。ジミー・バフェットの海賊の歌を口ずさみながら、メガネの片方のレンズに黒い布を当て、針金ハンガーで「フック」を作って、お腹には枕を入れてちょっとおデブに見えるように、そして左肩にはオウムの代わりにお風呂に浮かすアヒルくんを置く。海賊の声を出す練習なんかして。夜中に私たちは一体何をやっておるのでしょうか。
June 10, 2006
2年間住んだアパートを引っ越すことにした。今まで3人部屋で多種多様なルームメイトさんたちと共同生活していたわけだが、ちょうど契約が切れるのと、2年間ずっと一緒に暮らしたルームメイトくんが大学院を卒業して別の街で仕事を探すかもしれないという理由により、ついに一人暮らしを始めることになった。午前中の化学の授業を終えてから、新居の契約へ。とはいっても同じアパートの敷地内で部屋を移るだけなのだけれど。歩いて2分。けれど引越しは重労働だった。常々友達が少ないと思っていた私なのだが、とってもたくさんの人たちが手伝いに来てくれたので大助かり。みなさん、本当にありがとうございました。日差しの強い中、喉カラカラになりながらひたすら荷物を運んで下さって…心から感謝します。それにしても何なのだ、この荷物の多さは。2年分の吹き溜まりか。身軽に生活しているつもりだったのだが…本や写真、ネガは大切だから捨てられない。さあ、今日から3日間かけて、旧アパートのお掃除大作戦だ。ルームメイト君、最後の共同作業だぜ。張り切っていこう。
May 31, 2006
朝から花束とカメラを持って出かける。卒業式である。私自身の卒業はどうやら2年後ぐらいなのだが、今日は何人もの友人たちそしてコイ殿が卒業するハレの日なのである。会場入り口で待ち合わせたコイ殿のパパウエが、いい笑顔をしている。卒業する息子というのはそれほど誇らしいものなのだろう。アネウエは弟へのプレゼントとカードを手におめかししている。ママウエは具合が悪くて自宅待機。出かけられないことを非常に悔やんでいたようで、彼女が来られなかった分もしっかり写真を撮ろうと決意する。まさにその画を欲していたことが透けて見えるほど出来過ぎた写真を、今日は撮ろう。大体において式典というのは退屈なものだ。ふくろう博士みたいな帽子をかぶって、真っ黒けのガウンを着て、ゾロゾロ、ゾロゾロ、歩くわ歩くわ。最後帽子を空に向かって投げるのかと思って楽しみにしていたのに、そんな気配もなく終わってしまった。なぁんだ、投げないのかぁ。もう一度繰り返すが、退屈であった。私はきっと自分の卒業式には出ないような気がする。何かわざとらしくってさあー、やってられるか。だってあのイジワル教授とも笑顔で握手しなきゃならないんだぜ。ちぇっ、ちぇっ。だが、晴れがましい友人たちの顔を見るのにちっとも悪い気はしない。顔をあげて達成感に満ち満ちて歩く姿を、ちょっと羨ましいなとも思った。みんな、卒業おめでとう。我々の素晴らしき未来に乾杯だ!式の後は、コイ殿の御家族と鉄板焼き。ママウエには、お持ち帰り鉄板焼き。あー君はホントに孝行息子だねえ。あたしもそうなりたいもんだよ、まったく。撮った写真は最高の出来だった。ママウエは何枚もコピーを欲しがった。親戚にでも配るのだろうか。
May 20, 2006
今学期の授業は木曜日で終わり、あとは来週の期末試験を受ければ(そしてその試験に受かれば)終わり、というところまで来た。やっとここまで、である。頑張った今学期に乾杯をするために、久しぶりに夕食は外でということになり、優柔不断な二人は食事の場所をくじ引きで決める。小さな紙切れに行きたいレストランの名前を書いて、ひっくり返した帽子に入れてガサゴソと混ぜ、私が引いた。あぁ何だか知らないけれど引くときは本当にドキドキしちゃった。大当たり~となったのは車で15分くらいのタイ料理店。私たちは付き合うことになるずっと前、この店ですれ違ったことがあって、そんな昔の話をしながらスパイシーチキンをモリモリ食べる。私は彼を遠くに認め、彼は私に気づかなかった。もしあの時声を掛けていたら、きっと成り行きは変わっていただろう。その数日後、道でばったりと出くわしたのは必然だったのだろうか。人生っていろいろ不思議なことが起こる。食事の後は北へ車を走らせて、二人の大好きな本屋さんへ。彼は欲しかった地図を見つけ、私の方はポール・オースターの『ムーン・パレス』の原書を手に入れたくてしばらく悩んだ。しかし、悩んだ時はやめる、という大原則に従って買わなかった。閉店時間になったので外へ出て、車に向かって歩いていたら、浮浪者風の男が近寄ってきて「小銭をくれませんか」と言った。痩せこけた頬に無精ひげを伸ばし、薄汚れたシャツの袖を捲くり、だらしなく開かれたままの胸はこげ茶色にギラギラと光っていた。悪いけどお役に立てません、と言うとサンクスエニウェイと言って踵を返した。私たちを照らす街灯のオレンジの光がまぶしくて、ジットリとした汗をかく夜が数日のうちにもやってきそうな予感だ。
May 13, 2006
昨晩10時にプレゼンが終わった後は、我がコイ殿に会いに行く。もう疲れてしまっていたので、すっかりスッピンになって、ワンピースにサンダルを履いて参上、意外に好評。コイ殿はお疲れさまのチューというネズミをくれた。チュウ~。この日は二人の記念日というヤツであった。記念日や誕生日、などというのはそんなに気にする方ではないので、他人様の大切な日をすっかり忘れてしまって失礼してしまうことがよくある。だから、いつの日か突然「今日が僕たちの一ヶ月記念日です」といわれて夕食を作ってくれたときはビックリした。大体私たちはコイビトニナリマショウと話し合ったこともなかったので、何の記念日かといえば初めてチューというネズミをくれた時を始まりとする、ということらしかった。料理は苦手なクセに、初めて野菜炒めに挑戦したというそれはぎこちなくて温かくておいしかった。それから毎月ささやかな祝杯を交わすのは、もちろん義務というわけでもなく、ちょっとドキドキワクワクするから何となく続いている。なんだ、楽しいじゃないかー、記念日っての。コイ殿は昼間のうちに自転車に乗ってお花屋さんでバラの花束を買ってきてくれた。私からのプレゼントは五味太郎の「日本語擬態語辞典」を。この本はホントに素敵。よく出来てるなあ。文庫本になってからずっと気になっていたので自分用とコイ殿用に2冊買った。こつこつ勉強して頭の中ごちゃごちゃにならないように気をつけて。バラバラのバラの香りにクラクラしながら、あつあつの二人は喜びのダンスをエッサッサと踊って、ビール一本を二人で飲んで、さあ明日も早いぞと言ってスヤスヤと寝た。
May 11, 2006
ワイナリーマネージメントの授業で最終プレゼンの日。このクラスはワインの造り方を学ぶというよりも、ビジネスとしてどうワイナリーを成功させるかをシュミレーションするというもの。今学期が始まって以来、毎週水曜日の夜にワイン業界やお役所から人を呼んで講義を受けてきた。法律、営業、環境保全など、毎回毎回違ったテーマでワイナリー成功の鍵を探るわけである。成績はどのようにつくのかというと、学生にはグループプロジェクトが課せられていて、そのプレゼンテーションと最終的なレポートで評価される。3人グループで架空のワイナリー経営者になって、およそ10年間ほどの見通しを立てるのだ。土地選びから始まって、利益はどのくらい欲しいのか、そのための値段設定はどうするのか、銀行から融資を受けるのか、それとも投資家を募るのか、税金や利子はどれほどになるのかなど、とにかく細かいお金の計算をしなければならない。どのようなコンセプトのワインを作るのか、ブドウの種類は、ワインの生産量は、マーケティングは、ごみや排水の量と処理は…ワイナリーを作るにあたって必要と思われる全ての項目に自分たちなりの判断を下し、答えを出す。お役所関係に提出する許可証の申し込みや、経営報告の書類なども一通り書き込んで提出しなければならず、いやーまったく、やることが多すぎて本当に大変なクラスなのだ。確かに役には立つんだけどさー。他人からはそんな風に見えないと言われるが、私は極度のあがり症である。だからプレゼンテーションは今学期最大の難関で、朝からジトジト汗をかいて落ち着かなかった。さらに英語でそれをやらにゃあならぬとなれば尚更である。もちろん少しでも緊張をほぐすために、台本らしきものも用意して、さらに彼氏の前で練習したりなんかもしたのだが…。それでも目は泳いじゃうし口パクパクで、水揚げされた鯉のような気分なので、こうなったらアルコール様にお世話になろう、というわけでビールとカクテル一杯ずつ引っ掛けてから行くことにした。(コレ、母親に言ったら「お前はアル中か!」と笑われちゃった。)すると、何ともいいプレゼンテーションになった。最後、ちゃーんとお約束の笑いも取って終われたし、上出来である。特に、資金調達の方法として日本では一般的になってきている「苗木オーナー制度」をやったらどうだろう、という話をしたら、先生も学生も感心しきりだった。この発想自体聞いたことがなかったみたい。いろいろと質問されたがきちんと答えることも出来て一安心。我々のワイナリーは赤ワインのみで勝負、40エーカーほどの土地をレイクカウンティーに購入し、カベルネソーヴィニオン(20エーカー)、メルロー(5エーカー)とシラー(5エーカー)というブドウを植える。ブドウの生産が安定するまでの3年間は他のブドウ畑から原料を調達することにし、年間9,000ケースのワインを作る。一本辺り$14で、うち500ケースは出来のいいブドウだけを使ったリザーブボトルを作り一本$24で売る。敷地内にはワイナリー、テイスティングルームを兼ねたレストランを建設し、初年度のコストは$5,428,074、全てが上手くいけば7年目辺りから儲かり始めまっせ、という結論に達した。このクラスを取ってよかったのは、カリフォルニアでワイナリー建設の際必要となってくる手続きや制度についての理解を深められたことだ。とはいえ、莫大なお金と10年単位の時間の投資についてつくづく考えさせられるプロジェクトで、やっぱりワイナリーはやりたくないなあ~というのが私の正直なところである。今もカリフォルニアには新しいワイナリーが出来ては次々と消えていっているのが現実なのだ。
May 10, 2006
この街には珍しく何週間も続いた雨が止んだら、いつの間にか春など通り越して夏になってしまっていた。雨降りの日々は憂鬱で仕方なかったが、それは実のところ雨のせいだけではなく、原因はいつも通り明白なのだけれども、それを取り除いてしまうと益々つらくなるからそのまま放っておいて、嗚呼日本の桜が見たいなあ、などとぼんやり考えながら過ごしていた。すると、ある時の花見の記憶が急に蘇って来て、頭の中に沸き起こるガヤガヤとした宴会の白い騒音に、桜色の薄い影がたおやかに跳ね返っては美しく散るのだった。夢に見ることといえば決まって東京の中央線沿いの狭い路地で、しかもその場面はいつも日暮れから始まった。民家が立ち並ぶ暗がりを、私は大勢の誰だか分からない人たちと歩いていて、ふとその集団から離れてたった一人で歩き出す。しばらく行くと、街灯に照らされた垣根の曲がり角からひょこっと顔を出す年配の男がいて、何かと私に諭すようなことを言うのだった。ある時、私はその男について、ボロいアパートに備え付けられた鉄製の階段を上っていた。上りきった所には踊り場らしきものもなく、たった一つの安っぽいドアがあるだけだったが、男は部屋ヘ入ることはせずにドアの前でくるりと振り返った。その顔は優しく穏やかで、私たちはどうやらお互いを何年も前から知っているらしかった。久しぶりですね、お元気ですか、などということから会話は始まったのだと思う。「俺ももうこういう歳だからね、両親とも死んじゃった。女房の母親も。だからここんとこ忙しくてね。人ひとり死ぬと、いろいろと所用が多くて大変なんだよ。」「そうですか…」と言いながら、私はその男の顔をじっと見ていた。その顔をどうしても写真に撮りたくてたまらなくなった。こんな夢を繰り返し見てむすぼれているうちに、現実の世界ではパームスプリングスに住む叔父が亡くなったという連絡が入った。最近体調を崩していたということも知らずにいたため、突然のことに慟哭した。殴られてもいないのに、どういうわけかみぞおちの辺りが痛み出し、受け入れられない現実を無理やり理解させようと、立ちすくんだ体の中で脳だけはフル回転していた。この叔父と私は直接の血縁はないが、幼い頃からとても気になる存在だった。時折彼らが日本へやってきたときは、親戚一同そろって宴会したり、食事へ出かけたりしたもので、当時はまだ子供だったから会話に加わるような事もなかったが、がっしりした体つきと優しい目が印象的だった。いつも堂々としていて、周りの大人が一目置いているのが子供の私にも分かった。その後彼は大きな会社のCEOになった。カリフォルニアに暮らすようになってから、何度か彼らの家を訪ねた。叔父はもう仕事をリタイアしていて、「俺は学校にも会社にも縛られずに、自分のためだけに使える時間を手に入れたのは人生で初めてなんだよ」といってそれこそ毎日を楽しんでいるようだった。朝は早起きで、まずコーヒーを淹れる。砂糖は入れずにミルクだけを足してかき混ぜて、分厚く切ったトーストは2枚、読んでいる新聞はニューヨークタイムスだった。そうして午前中は世界中の出来事についてあれこれ話し合い(私はこの時間が一番好きだった、)それからメールをチェックする。午後は大抵自分自身にタスクを課していて、街でとびきり素敵なコーヒーショップを探してみるとか、本屋へ散歩をかねて出かけるとか、私が訪ねている時はドライブをかねてワイナリーめぐりをしたりして過ごすのだ。夜は自炊と外食が半々ぐらいだったが、彼は堂々とした風貌に似合わず食べ物の好き嫌いは子供みたいに激しかった。電話で話した叔母は、逆に私のことを慰めるほど落ち着いており、きっと二人の間ではそれなりの覚悟があったのだろうということを想像させた。弁護士を通じて遺書を用意し、数年に一度は更新していたような二人だ。何でも知っている人だったから、何だか大切な百科事典を丸ごと失くした気分だと叔母は言った。それにしても人の命は儚いものだ。残念なのは、この叔父の写真をぜひローライフレックスで撮りたいと思っていたのにそれが叶わなくなったことである。彼を撮った写真は何枚かあるのだが、改めて撮らせてもらいたいので電話しようと思いつつも、忙しさにかまけて先延ばしにしていた結果がこういうことになってしまった。彼の顔は聡明さと威厳と優しさに満ちていて素敵だった。背中は歳をとるにつれて曲がってきていたが、発せられる声は信じられぬほど若く芯があり、私はその声が聞こえてきそうな写真を撮ってみたいと思っていた。貴重なシャッターチャンスを一生逃してしまった私は、これを機に慌てて人々を追い掛け回してカメラを向けていかなければならないのだろうか。どうもそういう気分にはなれないのである。残念ではあるが、それはそれでいいのだと思う。撮れなかった写真も私の内側に確かに生じた写真なのだ。カメラがなくても写真は撮れる。正直なところそれまで夢と現を行ったり来たりして悶々としていた気持にスッパリと整理がついて、ああ、そうか、生きているってこういうことなんだ…と憑き物が落ちたように背筋が伸びて、前を向いて歩けるような気がしてきたものだ。
May 1, 2006
明け方、どうしようもない吐き気で目が覚める。体が勝手に突然ガバっと起き上がって、トイレへ直行。しばらくうずくまった後、口をすすいで自分の顔を鏡で見るともう真っ青、あまりにゲッソリしているので何だか可笑しくなって力なく笑う。へへっ、青いというより白くなってる。最近ちょっと無理しすぎてたのかもね。昨日おでこに乗った手の主が、ベッドの脇にビニール袋とバケツを用意してくれた。そしてコンドームに息吹き込んで膨らませて、マジックで顔書いて「元気になってね」の風船作っていた。クラッカーと水がサイドテーブルに置かれて。彼が小さい頃から友達だった小汚いカエルのぬいぐるみも側に置いてくれて…。オリコバカ。君は本当にお利口でお馬鹿。それから先は記憶がない。私は一日中昏々と眠り続け、何度声を掛けても白い顔して「ウゥ~」とうなるだけで、起きる気配もなかったそうだ。
March 15, 2006
昨日はまたひどい雨で、レインコート着て自転車に乗った。それでも頭と靴はグショ濡れ。実験室、水酸化カリウムで金属をぐつぐつ煮ていたため、換気せねばならずひどく寒い。夕方まで食事もせずに実験で、終わってから学校近くのサンドイッチ処でやっとパストラミサンドにありつく。世のファーストフードのご多分にもれず、そんなにウマくもないけどがっついちゃう。チョコレートモルトで血糖値上がり過ぎてシュガーハイ。これで機嫌よく明日の宿題でもしようと思っていたら、数時間後、突如胃痛に襲われる。横になっても縦になっても苦しいので、血圧を測ってもらったらちょっと低い。そのうち心臓に圧迫感、手足に力が入らなくなり、眼球の奥に鈍い痛み。あぁ、この感覚には覚えがあるぞ。水を飲むように言われるのだが飲めず、口元を濡らしてもらう。おでこに置かれた手の重みとぬくもりでやっと目を閉じて深呼吸した。
March 14, 2006
夏の授業予定が決まりそうだ。5月22日~7月21日まで授業を受けるので、私の夏休みは7月22日~8月27日。おもいきり日本の海外旅行シーズンとかぶってしまった…私を訪ねて遊びに来る予定の方、ご参考までに。授業期間でも土日は休みだけれどね。ついこの間「夏休み会いに行きますので☆」とメールくれた人、うまいこと予定が会えば出かけたいね。ちなみに、夏に取る予定の授業科目は化学と政治学(これは一般教養)。醸造学科はとにかく化学のクラスが多い…最終的に農学部ワイン醸造学科を卒業できれば、手に入る学位は「Bachelor of Science」なのだ。私は日本の大学の文学部から編入したわけだが、化学もちゃんと基礎からやり直せるようなカリキュラムがあるのには感動した。高校時代は化学が選択科目(それ以前に苦手科目でもあったのだが)だった上に、自分がワイン野郎になるなど夢にも思わなかったので、履修の必要がなく、基礎のないまま今の大学へ入ってしまったのだ。父親なんて「ちょっとお前さん、そりゃいくらなんでも無理なんじゃないの?」と今でも心配そうにしているが、出来はそんなに良くはないけどまあ何とかやっている。時々、理解するまでに恐ろしく時間を要して泣きたくなることも無くはないが、その苦労も分かっていて醸造学をやりたいと決めたのだから仕方の無いことだ。現に父上、あなた様だって文学青年だったにもかかわらず大学は電気工学で卒業しているではありませんか。それはともかく、夏季講座は普段の学期より学費も安いし(取りたい単位数に応じてお金を払うシステムなので)、3~6週間で5単位くらいとれてしまうので、卒業までの道のりを縮めたい私にとってはありがたい限りである。その代わり授業は朝の7時過ぎから始まって宿題も毎日たくさん出て大変だけど。あーそういえば、夏のことより、明日の宿題、木曜日のテスト~。
March 9, 2006
今、マグカップに玄米茶注いで明日の試験勉強をしているのだけど、心があちこちに散らばって落ち着きません。目下のところ、ブドウを育てるに当たってどのくらいの水やりが必要なのか。どんな方法があるのか。そんな質問にどう答えようか考えているところです。土の種類、ブドウの種類、樹と樹の間隔、気候、地形、根の深さ、季節、発達段階、考える要素はたくさんあるみたい。きょう一日中、天気雨が降ったりやんだりの変な天気で、化学の実験室へ向かう途中、ずぶぬれの鼠みたいになりました。そのくせ帰り道は信じられないほど日が照って、水溜りに映る青空と白い雲に思わず顔をしかめて、クラクラしながら帰ってきました。濡れたままのハンドルを握って自転車をこぐと、風を受けてひどく冷たかったなあ。実験は割と上手くいった。実験のパートナーは怠け者の女の子で、何でもかんでも私にやらせようとするのだけど、かえってその方が失敗が少ないからいい。その見返りと言っては何だけど、彼女はどこからか宿題の解答をコピーして持ってきてくれる。(毎回宿題が出て、山ほど問題を解かないといけないワケ)お陰でその答えを写してばかりで、ちっとも化学、身につかないよ。へへ。化学とブドウ栽培学のほかは、ワイナリーマネージメントの授業でビジネスプランを作ったり、別のクラスではフォークリフトの運転を学んだり、ワイナリー設備の基本的な知識とか、部品の名前を覚えたり、他にもいろいろ。小さな学科なので、どのクラスも同じ顔触ればかり、気安い奴らと楽しくやってる。あ、また雨が降ってきた。すごい風。玄米茶もう一杯入れようかな。最近ちょっと太りました。ではまた。
March 8, 2006
ルームメイトちゃんが引っ越していった。新しいルームメイトくんが引っ越してきた。新入りくんはマレーシアからやってきた大学一年生で、メカニカルエンジニア専攻。年齢は聞いていないけれどかなり若い。言動もなんとも子供っぽくて頼りないなー、ボク。ママがいなくても大丈夫か?私も初めてアパートを借りて一人暮らしをした頃はこんな感じだったのだろうか。うん、そうだったなー確か。思い出したくもないけど。みんな、外国で初めての体験だらけで、おまけに日々一生懸命生活して、偉いよなぁまったく。今日から私は二人のルームメイト氏と暮らすことになった。彼ら二人、どことなく雰囲気が似ている。ひょろりと縦に長細く、肌の色は浅黒くてサラサラの黒髪にメガネをかけて。どうやら二人ともパソコンオタクっぽいし。アニメも好きなのかも、ひょっとして…。日本のアイドルのこととか私より詳しいようだし。一緒に暮らすのには害が無く、悪くない組み合わせみたい。ルームメイトくん、そしてルームメイト小坊主くん、どうぞよろしく。今日は天気も良く、日中は日差しの強さに汗ばむほどで、アパートのあちこちで引越しが行われていた。新しい生活を始めようとする人々を見ていたら、私も身軽でいたくなったので部屋の中のものをごっそり捨てて模様替えをした。いつでも身動きのとれる状態というのが心地よい。縛られていないことを確認しないと気分がひどくふさぐ。「今すぐにでも何処かへ飛んでいきたい虫」が騒ぐ。私はいつもコイツを腹の中に抱えているのだ。何にせよこの街は私の落ち着く場所ではない。
February 11, 2006
君はセックスに関する写真集をたくさん持っているよね、と彼が言うので、うんだってそれが人生の全てだからと返すと、少し間をおいてから確かにそうだねと言った。初めてこの男が私のアパートへやってきたのは去年の11月だったが、彼を食事に招待したその夜の奇妙な楽しさを私は忘れない。夕食のメニューはコトコト大切に煮込んだロールキャベツに、チーズにバゲットに赤ワインだった。お土産といって持ってきてくれたのは、色彩にまったく統一感がないが不思議に素敵な花束で、わぁー、花束なんてもらうの初めて、とかわいらしく言った私は、直後にそれが初めてではなかったことに気がついたが黙っていた。ロールキャベツを口にした後、私とは生まれも育ちも肌の色も違う彼は、これは僕の母親の料理にそっくりだ、と言った。彼がアパートへ来ることになったのは、私の撮った写真を見たいと言い出したからだった。写真を見せてと言われても、男の裸の写真ばかりだがどうしようかと思ったが、隠しても仕方がないので全てお目にかけることにした。膨大な数の写真ばかりでなく、部屋の隅にほったらかしたまま忘れられた古いスケッチブックまで、床に座り込んでゆっくりと時間をかけて見てくれた。どうやら、と彼は言った。君はどうやらこの男の人にぞっこん惚れていたらしいね、と一枚の絵を指差して笑顔をまっすぐに向けた。デスクランプのオレンジの光が彼の横顔に差して左目がキラと光った。そういえばスケッチブックの中の人物と、この彼はどこか全体の印象が似ているかもしれなかった。いや、違う。似ているのはたった一箇所だけだ。小ぶりで形のいい顎の先。ガッチリとした密度の濃い骨組みに、ほんの少しだけ丸みを帯びる肉付きの絶妙さ。閉じられた唇の下に薄い三日月の影をつくる窪み。「惚れていたらしいね、」私はその問いかけに何と答えたのだろう。覚えているのは心の中でニヤリとして、ばれたか…と思ったことだ。彼に見破られたことが、何故かとても嬉しかったのだ。夜は更け、私たちは小さな部屋の中で赤ワインとビールをぐびぐび飲んで、かなり酔っ払った。それから今度は彼の持ってきたデッサンを見せてもらうことにした。そして一枚一枚を丹念に見た。そのほとんどは、女の裸を描いたものだった。それ以来、付き合おうとか好きだとかそんな言葉も一切なしに、私たちは毎日会うことになった。どちらからともなく電話をかけ、食事をし、酒を飲み、ベッドにもぐりこんだり、映画や買い物や美術館へ出かけたり、たまには一緒に勉強することもある。今日みたいな陽気のいい土曜日の午後は、Nan Goldin の写真集を眺める彼の膝枕で私はいつまでもまどろんでいる。カメラを傍らに置いて、時々そうっと彼の顎ヒゲに触れながら。すると、ふと顔を覗き込んで、今夜は週末だから出かけたいね、何かしたいことある?と聞くので、ねえ、ビリヤードでもしに行かない?軽くビールでも飲みながらさー。という私の提案に、彼の顔がパッと輝いて、いいね、しばらくやってなかったから久しぶりだなぁ、と言った。
January 21, 2006
今学期の始まりは2日前のことだったのだけれども、「さあ新学期!」という晴れ晴れとした雰囲気の中で、私はなんだか落ち着かない。最近どうにも日本が恋しくて仕方がなく、かといって勉強を続けたいのは確かな気持だし今後も学ぶこと一杯の予感なのだが、まるでやる気が起きないのだ。まったくもって生まれてはじめてのホームシックなのである、これは。もうこちらの生活も長く、住処もすっかり落ち着いて居心地はいいのだから、帰る必要はないのだけれども、会いたい人たちの顔を思い浮かべると懐かしい気持が溢れてきてたまらない。嗚呼隣の席の兄ちゃん、お願いだからいかにも学校に来るのが楽しくて仕方がない、といった風に目を輝かせて笑顔を見せるのはやめておくれ。気が滅入るじゃないか。うう。ともあれカリフォルニア生活3年目がスタートした。クラスメイトと一通りの挨拶を交わし、授業の第一印象を話し、情報交換もして、最後に今学期もまた飲みに行こうねの約束をする。相変わらず真っ赤なマウンテンバイクに乗って、手袋、マフラー、帽子にサングラスまでかけていつもの道をかっ飛ばす。朝の空気はどうしてこんなに清くて静かなんだろうね。
January 20, 2006
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