Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2022年08月09日
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カテゴリ: 絶対存在論
神の存否-495
 第五部定理二〇の備考 
 記:神存在そのものに愛があるならば、それは世界の法としての必然的形相であり完璧である筈とスピノザは捉えます。それ故に、神は存在そのものに愛があるならば人間の精神感情や行動には干渉しません。対して人間が神を愛することには大いなる意味合いと「随喜」が待つと云うのです。
 備考 この愛に直接的に相反していてこの愛を破壊させうるようないかなる感情も存しないことは同様の仕方で明らかにすることができる。したがって我々は神に対するこの愛がすべての感情のうちで最も恒久的なものであること、またこの愛が身体と結合する限りにおいては身体自身とともにでなくては破壊されえないことを結論することができる。しかしそれが単に精神のみと結合する限りにおいていかなる本性を有するかはあとで見るであろう。
 これをもって私は感情に対するすべての療法を、あるいはそれ自体のみで見られた精神が感情に対してなしうる一切のことを、総括した。これからして感情に対する精神の能力は次の点に存することが明白である。
一 感情の認識そのものに。
 二 我々が混乱して表象する外部の原因の思想から感情を分離することに。
 三 我々が妥当に認識する物に関係する感情は我々が混乱し毀損して把握する物に関係する感情よりも時間(*持続)という点でまさっているその時間という点に。
 四 物の共通の特質ないし神に関係する感情はこれを養う原因が多数であるということに。

 しかしながら感情に対する精神のこの能力をいっそう明瞭に理解するためにはまず第一に次のことを注意しなくてはならぬ。我々が一人の人間の感情を他の人間の感情と比較して同じ感情に一人が他の人よりも多く捉われるのを見る時、あるいは我々が同一の人間の諸感情を相互に比較してその人間が他の感情によりもある一つの感情に多く刺激され、動かされるのを知る時、我々はその感情を大と呼ぶ。なぜなら(第四部定理五 おのおのの受動の力および発展、ならびにそれの存在への固執は、我々が存在に固執しようと努める能力によっては規定されずに、我々の能力と比較された外部の原因の力によって規定される。により)おのおのの感情の力は、我々の能力と比較された外部の原因の力によって規定されるからである。ところが精神の能力は認識のみによって規定され、これに反して精神の無能力ないし受動は単に認識の欠乏によって、言いかえれば非妥当な観念を非妥当と呼ばしめるものによって、測られる。この帰結として、その最大部分が非妥当な観念から成っている精神、すなわちその能動性においてよりもその受動性においていっそう多く識別される精神は、最も受動的な精神であることになり、これに反してその最大部分が妥当な観念から成っている精神、すなわちたとえ他の精神と同様に多くの非妥当な観念を含んでいてもなおかつ人間の無能力を表わす非妥当な観念によってよりも人間の徳に属する妥当な観念によっていっそう多く識別される精神は、最も能動的な精神であるということになるのである。
 第二に次のことを注意しなければならぬ。心の病気や不幸は、主として、多くの変転に従属する物、我々の決して確実に所有しえない物に対する過度の愛から起こるのである。なぜなら、何びとも自分の愛さない物のためには不安や心配に悩まされることがないし、また、もろもろの不法・疑惑・敵意などは何びとも真に確実に所有しえない物に対する愛からのみ生ずるからである。我々は以上から、明瞭判然たる認識、特に、神の認識そのものを基礎とするあの第三種の認識(これについては第二部定理四七の備考 骨子:「第一種の認識」若しくは「表象」(十全乃至不十全の可能性)。「第二種の認識」(理性)。第三種の認識(直観による認識)を形成しうる可能性を見よ)が感情に対して何をなしうるかを容易に理解する。すなわちこの認識は、受動である限りにおいての諸感情を絶対的には除去しないまでも(この第五部の定理三 受動という感情は、我々がそれについて明瞭判然たる観念を形成するや否や、受動であることを止める。と定理四の備考 抜粋:精神が、感情から離れて、自らの明瞭判然と知覚するもの・そして自らのまったく満足するものに思惟を向けるようにすることである。つまり感情そのものを外部の原因の思想から分離して真の思想と結合させるようにすることである。とを見よ)、少なくともそれらの感情が精神の極小部分を構成するようにさせうる(この部第五部の定理一四 精神は身体のすべての変状あるいは物の表象像を神の観念に関係させることができる。を見よ)。次にこの認識は、不変にして永遠なる物(この部第五部の定理一五 自己ならびに自己の感情を明瞭判然と認識する者は神を愛する。そして彼は自己ならぴに自己の感情を認識することがより多いに従ってそれだけ多く神を愛する。を見よ)、我々が真に確実に所有しうる物(第二部定理四五 現実に存在するおのおのの物体ないし個物の観念はすべて神の永遠・無限なる本質を必然的に含んでいる。を見よ)に対する愛を生ずる。そのゆえにこの愛は通常の愛に潜(ひそ)むもろもろの欠点に汚されえずして、かえって常にますます大となることができ(この部第五部の定理一五 自己ならびに自己の感情を明瞭判然と認識する者は神を愛する。そして彼は自己ならぴに自己の感情を認識することがより多いに従ってそれだけ多く神を愛する。により)、そして精神の最大部分を占有して(この部第五部の定理一六 神に対するこの愛は精神を最も多く占有しなければならぬ。により)、広汎な影響を精神に与えうるのである。
 これで私はこの現在の生活に関する一切の事柄を終了した。なぜなら、私がこの備考の冒頭に述べたように、これら若干の定理の中に感情に対するすべての療法が総括されていることは、この備考の内容に、同時にまた、精神およびその諸感情の定義に、そして最後に、第三部定理一 我々の精神はある点において働きをなし、またある点において働きを受ける。すなわち精神は妥当な観念を有する限りにおいて必然的に働きをなし、また非妥当な観念を有する限りにおいて必然的に働きを受ける。および、第三部定理三 精神の能動は妥当な観念のみから生じ、これに反して受動は非妥当な観念のみに依存する。に、注意する者には誰にも容易に分かるであろう。
 ゆえに今や身体に対する関係を離れた精神の持続に関する問題に移る時である。



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最終更新日  2022年08月09日 06時01分23秒
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