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内的霊的衝動の写しとしての美術史第2講 ルネサンスの三人の巨匠 レオナルド ミケランジェロ ラファエロドルナハ 1916年11月1日-ラファエロ ラファエロに移り、すでに一度お話ししたものを示しましょう。これをもう一度私たちの魂の前に導いてみたいと思います、「婚礼」です。ペルジーノのモティーフ、それと並べてラファエロによるマリアの結婚です。まさにこの絵画から、ラファエロが師であるペルジーノの流派から育って大きな進歩を示していることがおわかりでしょう。同時にペルジーノの画(75)に、この芸術に特徴的であるものすべてを、つまり、ラファエロがそこから出てきた水平面に独特の、今日私たちに言わせれば、健康で感傷的な顔、独特の足の置き方、ここでひとつの特徴づけを目指しているすべてをごらんになるでしょう。けれども、この特徴的なものすべては、前に私が特徴づけを試みましたように、ある種のアウラ(Aura)を纏っており、これはその後ラファエロにおいて、いわば輝かしく変容されたように再び現れ、別のフォルムをとって構成的なもののなかに全く以て高められています。ごらんのようにペルジーノにおいても構成が出てきていますが、ただすべてを比較してみると、ラファエロにおいては鋭いと同時に柔らかく捉えられており、硬いとらえ方は減っています。さて続いて傷痕のあるキリストです。画全体が夢の世界と解されます。ふつう「騎士の夢」と呼ばれているものです。さて、これから一連の聖母像と聖人伝説からの絵を私たちに作用させてみたいと思います。これらは、とりわけ聖母像は、ラファエロの名声を最初に世にもたらした絵画です。幼子イエスとと共にいる聖母です。これらの絵画のいたるところに、特徴ある古くからの配置、特徴ある姿勢を見て取ることができますが、これらはラファエロがまさしく彼の故郷から携えてきたイマジュネーション(Imagination)そのものです。今見ましたこれらの聖母は、ラファエロの進歩をとくに顕著に示していますね。さて彼がローマに赴く時代へとさらに追っていきましょう。いつ彼がローマに行ったのか、歴史上はよく知られておりません。おそらくは、ある特定の年にだけローマに行った、通常1508年とされていますが、それまでにも何度もローマに行き、またフィレンツェにもっどって、その後1508年からローマで継続して制作したのでしょう。さて、彼をローマまで追いかけ、ユリウス法王の委託でローマで制作された絵画に移りましょう。「羊のいる聖家族」として有名なこの絵画ですが、これについてももうお話ししましたが、多くの素描があり、この絵は実際、法王に委託されて制作されたものです、先程みなさんにお話ししましたように、ローマを精神的に偉大なものにしたいという憧憬を持っていた法王です。けれども心に留めておかなければならないのは、この絵のモティーフのいくつかは、ラファエロにおいてすでに非常に早く、ペルージア時代の絵画のなかに現れているということです。まさにこの理念を、この場面を描いている、あるいはもっと良い言い方をすれば、この場面のモティーフを描いているこの絵が示しているのは、この理念が当時生き生きとしたものであったということです、それはすでにこの独特の東方的な角度のなかに、この中部イタリアの風景のなかにとりわけ完成されることができたほどに生き生きとしたものでした。私たちはこのモティーフを時代のなかに生き生きと思い描かねばなりません、下方の人々は主として神学者たちです、人間の理性(Vernunft)が見出すものすべてはまさに、トマス・アクィナスが「プラエアムブラ・フィデイ(Praeambula fidei)と呼んだところのものに関係していて、霊的世界からインスピレーションとしてやってくるものによって貫かれねばならないということを、同時に知っている神学者たちです。このなかに、人間の生成の偉大なキリスト教的、前キリスト教的な形態の成果が混ざり込み、三位一体の秘密はこれによって理解されます、この秘密は、下方のいわば神学者たちの論議中に、彼らの論議のなかに流れ込むと思い描くことのできます。この絵は、キリスト教的なものすべてを根底からローマ的なものに結びつけよう意志、ユリウス2世が再建せんとする荒廃していたペテロ教会の建立を通じて、ローマを新たにキリスト教の中心にしようという意志から描かれたということを、今や、ありありと思い描くことができます。けれどもこれらの理念が、ローマからキリスト教を新たにまったく特別に偉大なものとするという法王の影響を通じて、ラファエロにおいて三位一体の秘密の根本理念と会するということ、これも、この絵画をいわば「ひだ飾りで飾ること(Verbraemisierung)」の根底にあると申し上げたいところです。と申しますのも、この絵を通して表明されているのは、のちにペテロ教会に登場してくるものが建築モティーフのなかにさえ見い出されます。つまり、この絵を通して言われているのはいわば、三位一体の秘密をローマから新たに世界に教えよう、世界にもたらそうということなのだと言うことができるであろうからです。この絵のための素描は数多く見られ、それらは、ラファエロがこの最終的構成を少しずつ実現させたことを示していますが、同様によく示しているのは、インスピレーションについて、三位一体の理念について考えるこの考え方全体が、彼のなかで長い間生きていたこと、そしていずれにせよ、この絵の場合、法王が単に、私のために絵を描いてくれ!と言った、という状況ではなく、法王が、お前のなかには長い間どんな理念が生きていたのか、と問い、彼らはいわば共同で、署名の間(Camera della Segnatura)の大壁面に描かれたものを実現させたということです。さてこの絵は、ご存じのように「アテネの学堂」という名称で有名ですが、それはことに中央のふたりの人物がプラトンとアリストテレスだと信じられているからです。ここで唯一正しいのは、このふたりはまったくプラトンとアリストテレスなどではないいうことです。ここではまったく、この絵については既にもうお話ししましたが、これについて述べられた別の見解に固執しようというのではありませんが、中央のふたりの人物がプラトンとアリストテレスでないのは確かです。なるほど古代の哲学者たちの姿についてはさまざまに知られているでしょう。けれども、この絵の場合はそういうすべては問題ではなく、インスピレーションであるものに対して、ラファエロは人間が超感覚的なものに向けられた理性を通して有しているものをも描かねばならなかった、 超感覚的なものへと向けられた理性を、事物の原因を究明するために用いるとき、人間はどのようにふるまうかを描かねばならなかったということなのです。人間のこのさまざまなふるまい方は、さまざまな人物たちのなかに表現されています。ラファエロは、あれやこれやを用いようといつも試みていたように、なるほどこのように伝統的な古代の哲学者たちの姿を取り入れました。けれども、彼にとってそれが問題なのではなく、重要なのは超感覚的なインスピレーション、つまり人間のなかへの、超感覚的なもののインスピレーションとしての下降と、超感覚的なものに向けられた理性を用いて事物の原因の認識を獲得することとを対比させることでした。すると中央の人物たちについては、一方の姿はまだ若い男で、人生経験に乏しく、したがって地球の周囲を見て、この周囲から事物の原因であるものを見て取る誰かのように語る傾向があり、そのかたわらの白髪の老人は、自らのうちでもう多くを消化し、地上的なもののなかに見られるものを天的なものに適用することをすでに心得ている。 ある者は熟考により、ある者は数学的、幾何学的なものその他により、あるいはまた福音書などつまり文献の解読により、人間の理性の適用によって事物の原因を発見しようとしているほかの人物たちのかたわらでというふうに把握されねばなりません。私が思いますに、私たちはこの絵のコントラストを、これがピタゴラスかどうか、あれがプラトンとアリストテレスかどうかなどと思案するような無意味なこと、これは芸術的なものに対してはいずれにせよ単に無意味なことを行わないで解することができます。個々の人物の解明のために、つまりこの絵に対しては必要のないことのために、鋭い洞察がさまざまに行われています。むしろ、人間の理性が到達しうるものを求める上での多様性、この多様性にこそもっと価値を置かなければならないでしょう。さて、この二枚の絵を、一方はこの建築の内部に全体があり、他方「ディスプータ 197)」においては全世界のなかにこの絵が据えられているというところまでさらに比較してごらんになれば、世界の建造物全体を自家薬籠中のものとしているインスピレーションと、閉じた人間的空間のなかで起こっているのが観察される人間理性の探求(202)との間の違いが、同時に明らかになるでしょう。さてここにあるのは、人間的なものそのものの内部で到達されたもの、つまりこの人間的なものがなにか超感覚的なものによって影響されることなしに到達されたものです。これはいわば「ディスプータ」への註釈、つまり「ディスプータ」につながる多分にアレゴリー的な人物のなかに描き出された、神的なものの認識あるいは神的な秘密の認識です。さてこれは、ラファエロがユリウス法王の委託により制作したひとまとまりの全体をなす絵画、つまりこれらによって、キリスト教は勝利せねばならない、キリスト教に逆らうものは克服されるという理念の強化を示すことが意図されたわけですが、そういう絵画のひとつです。これは同じ理念の別の側面にすぎません。さらに、同じ絵画群に属する「獄中のペテロ」です。これらはラファエロの巫女です。「ミケランジェロの巫女(138-142)」を思い出してごらんになれば、この圧倒的な違い(214)にお気づきでしょう。ラファエロの巫女は 、全宇宙と関わっている本質を人間の姿のなかに現している巫女です、彼女らのなかに全宇宙が入り込んで働きかけ、そのとき彼女らは宇宙そのものの一片の内部のように宇宙の内部で夢見ていて、完全には意識に達していないのです。彼女たちの間にいるさまざまな超感覚的な存在たち、これらの天使たちが、彼女らに宇宙の秘密を告げ知らせます。 宇宙連関全体のなかで、これらの巫女は夢のような存在であるのに対し、ミケランジェロは、巫女たちが夢見、夢の意識のなかで発達させた人間的あり個であるもの(das Menschlich-Individuelle)を、個であるものから表現するという運命を有していました、いわば個人的なものにまで行き着いた特徴から創造すると言ってよいかもしれません。このラファエロの巫女たちは、個を超えて、あるいはまだ個でないもののなかに、生き、浮かんでいるのです。続いてこの部屋です、「キリストの変容「(ransfiguration)」のある空間です。このキリストの変容をさらに見ていきましょう。これは、もしかするとラファエロが完成させなかった絵かもしれません。この絵、キリストの昇天は、彼の死に際して放置されました。ラファエロはその生涯の最後の時期にヴィジョン的な絵画に移行したと言うひとたちにとって必要なのは次のようなことだけでしょう、このひとりの人物、つまりこの憑かれた少年がまさしく真にオカルト的ー写実的(okkult-realistisch)な意味で作用して、このような場面がほかの人々にも見えるようになっていること、この人物は、錯乱で意識を失うという霊媒的性質とでも申し上げたいものによってほかの人物に働きかけ、それでほかの人物たちもそのようなものを見ることができるといったことです。さらにこの絵からキリストの姿です。42さて、今よく考えてみてください、ラファエロがこのように描いたもの、今みなさんが追求したものは、二一歳から彼の死ぬ三七歳までの時期にあたります。二一歳のときに彼が描いた絵は、私たちがここで最初のものとして(178)見たもので、ペルジーノの「マリアの婚礼 (75)と対をなす絵です。さてヘルマン・グリムが非常にみごとに算出したことですが、それは、大きな意味では自立した展開、ラファエロのまったく自立的な展開を物語り、ある意味ではわたしが申しましたことへのひとつに外的な証しであるものです、つまりラファエロは、地に運ばれ、世で多くを学んだのは当然のこととはいえ、その若さにも関わらず彼の本性の最も内奥から創造し、まったく合法則的な発展しながら前進したために、中部イタリアのこの中間的な部分、この東部寄りの部分という独自の性格をローマにもたらした、ということの証明です。ヘルマン・グリムの算出によると、この二一歳からさらに進んで常に四年ごとの周期をとると、ラファエロの創造のもっとも主要な頂点が得られます。つまり二一歳の年に「マリアの婚礼」、続いて四年後に、彼にとって非常の特徴あるもの、つまり「埋葬」、まだスライドがないのでここでは上映できませんが、これはとりわけそれに関わる素描によって、それと関連する全体によって、ラファエロにおけるひとつの頂点を現しているものです。さらにまた四年後の《署名の間》における作品で頂点がきます。このように四年ごとに前進しながら、いわばまったく個として世界に置かれているように、ラファエロがひとつの進化を成し遂げるのがわかります、まさしく彼の受肉にのみ結びつけられた衝動に従い、そしてこの衝動を発展させつつ、まったく合法則的な人類進化のなかで起こるものを世界のなかに据えつつにです。参照画:聖母子と幼き洗礼者ヨハネ-ラファエロ「聖母子と幼き洗礼者ヨハネ」は、ラファエロ・サンティが1507年に制作した絵画で、ルネサンス期の代表的な芸術作品の一つです1234. この絵画は、聖母マリア、幼子イエス・キリスト、そして幼児洗礼者ヨハネを描いたもので、聖母マリアが幼子イエス・キリストを抱きしめ、幼児洗礼者ヨハネが聖母マリアの膝の上に座っています1234. この作品は、ラファエロの芸術的センスと技術を示すものであり、彼の代表作の一つとされています1234. この絵画には、聖母マリアの優し気な表情や、幼児イエス・キリストと幼児洗礼者ヨハネのあどけない表情など、多くの人々を魅了する要素が含まれています。人気ブログランキングへ
2024年01月31日
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内的霊的衝動の写しとしての美術史第2講 ルネサンスの三人の巨匠 レオナルド ミケランジェロ ラファエロドルナハ 1916年11月1日-ミケランジェロ さて今度はミケランジェロに移りましょう。まず、彼の自画像です。これは、まだ徒弟であった頃の、まだ独立していないミケランジェロです、ドナテルロの弟子ベルトルドその他の影響のもとに、フィレンツェで働いています。今度は、私が述べました影響のもとに、はじめてローマに移るミケランジェロのことを考えてみましょう。この画とすぐ後に続く絵画をごらんになって両方の絵の気分を比べてみてください。この絵画をごらんください。これはまったく、ローマへ来る(NachRom-Kommen])というこの気分のもとに生まれたのであり、多かれ少なかれ悲劇的なペシミズムが全体を覆っています。もう一度戻ってみますとこの両作品は、芸術上の特性において非常に似通っていて、ミケランジェロにおけるまったく同じ感情ニュアンスの一部であることがおわかりになるでしょう。もう一度ピエタに戻りましょう。これは今ローマの聖ピエトロ寺院にあって、入っていくと、すぐ右に見えます。この彫刻について、芸術的なものよりも小説的なものを感じる人たちによって、聖母は彼女が置かれている状況にあってまだこんなに若い、とさんざん言われたものです。この若々しい表現は、当時にあってはまったく自然であってミケランジェロの魂をも貫いていたひとつの信仰と関わりがあります、つまり聖母はその処女性のゆえにそもそも老いの特徴を備えなかったのだという信仰です。これは前にお話ししたものですね。この人物は、外的な何ものかではなく芸術的なもの全体のなかに秘められている巨大さを通して、とりわけ作用を及ぼします。ここでシスティナ礼拝堂に移ります。ここにはミケランジェロの「最後の審判とその天井画」があります。ます天井画の個々の部分です。世界創造、最初の段階です、夜からの光の創造、と言えるかもしれません。ここでは、世界創造に関して、イェホヴァが、彼により征服され引き下がったかつての創造者のいわば後継者として創造したということがなお伝統のなかに生きていたようすがわかります。新たな世界創造によって克服された古い世界創造と、新たな世界創造との共鳴がこの絵に現れています。ですからこのように言うこともできます、この絵に表現されているような表象は、まったく消え去っていき、もはやなくなってしまったと。これはつまり人類に先立つものの創造です。ここで男の創造、続いてエヴァの創造が見られます。ここで私たちは、ますますいっそう世界創造的なものから歴史的なものへ、人類の進化へ、堕罪のなかへと入っていきます。さて、今度は「巫女/Sibylle」たちに移ります、これについては一度ある講義でお話ししたことがありますが、巫女たちは、その後また一連の預言者たちのなかに現れることになる預言者的な要素に対して、人間の生成における超感覚的な要素を示しているのです。つまり一方の要素、巫女の要素です。ライプチヒの連続講義で、この要素が預言者的な要素とどう関係しているのかについてもっと詳しく語られているのを見出されるでしょう。けれどもミケランジェロがこれらの事柄全般を、彼の連続した絵画ののなかに組み込んだこと、これは彼が地上生活を、超感覚的な要素に、スピリチュアルなものに結びつけたことを立証しています。さてごらんください、巫女たちがいかに順番に続いているか、ひとりひとりのなかにいかに真に個である生命が注ぎ込まれているか、ひとりひとりがいかにあらゆる個別的な部分にいたるまでまったく特定のヴジョン的な性格を表現しているかを。手のポーズを観察してごらんなさい。これは偶然ではありません。 これをあまさずごらんになれば、つまり元素的なものから来る眼差しでごらんになれば、予感できるものもあるでしょう。 あまりにも抽象的になってしまうので、言い表すことはできませんが、それはこのなかに芸術的にあるものです。今度は預言者たちです。これらは皆、旧約聖書の預言者たちですね。最後に、巫女たちと預言者たちの上部の弟子たちの姿からいくつか。さて今度は、ミケランジェロのさらなるフィレンツェでの滞在、つまりメディチ家、メディチ家礼拝堂に移りましょう、メディチ家出身の法王たちの委託により彼はここの仕事を手がけさせられ、私が描写しましたような状況での仕事になりました。おそらくもう印刷されているある講義で、私はこのメディチ家の墓についてお話ししました。これは通常、ジュリアーノの墓碑と呼ばれています。さてミケランジェロをふたたびローマに導かなくてはなりません、ローマで彼はまたも法王の委託により、システィナ礼拝堂の祭壇画、「最後の審判」を制作します。これは、人物たちの世界意味の特徴づけという点でまったく重要な絵です。つまり、いわば天に定められているものすべて、そして下界に定められているもの、地獄に定められているもの、そしてそのまん中の世界の審判としてのキリストに注目すれば、いかにミケランジェロがまったく壮大に思索された宇宙の情景を人間の個人感情と調和させようとしていたかがわかるのです。続けて「最後の審判」の細部をいくつか。ヘルマン・グリムはかつてキリストの頭部を間近でスケッチしましたが、これはベルヴェデーレのアポロの頭部とよく似ていることが判明しました。もうひとつ右下の隅の細部とさらにもうひとつ、小舟の上の一群です。さて今度は、時代はもっと前にされるべきものでしょうけれども、ミケランジェロが法王ユリウスの記念碑のために制作したものです。これをここで出しましたのは、この記念碑はもともと構想されていた栄光に満ちた形態に仕上がっておらず、ミケランジェロはその最後の時期にまだこれを手がけ、これの一部を完成させたからです。重要なのはまさに、まさしく真に偉大な性質であった法王ユリウス2世が自分の努力に対してこの記念碑を建てさせようとしたことです。ひょっとしたら三十体かそれ以上の一群の人物像を備えさせようというものでした。それは実現に至りませんでしたが、これに関連する最も重要な人物として残されたのが、この有名な「モーゼ像」です。これについては何度もお話したしました、さてこれに続くもの、これはミケランジェロによってその生涯の最晩年に仕上げられたものです。この「埋葬」をごらんになれば、本来完全な状態ではどうなのかを言うことは困難です。まったく確実なのは、この一群は、ミケランジェロがその全生涯を通じて担っていた理念に従っているということです。最初の作品のひとつとして完成されたこの場面を含む何かの理由で失われた群像があったのかどうか、あるいはもしかすると、彼が高い祭壇にさらに造り変えたのと同じブロックだったのかどうか、言うのは困難です。けれどもこれをミケランジェロの最後の作品としてここに示しますのは、これが単に高い祭壇に仕上げられたものであるからというばかりではなく、これが、彼がその全生涯にわたって担い、ふつう考えられているよりもずっと、ミケランジェロの基本感情全体と実際に関わっている芸術的理念に従っているからです。なるほど彼は生涯のどの段階においてもこの群像を制作することができたでしょう、それらはいつも少しちがった状態だったでしょうし、彼の魂の根底をなす気分も異なって再現されたことでしょう。けれども、ミケランジェロのなかに生きていた原キリスト教的な気分、これがまさにこの群像のなかに表現されているのです。埋葬の場面におけるこの独特のキリストと母の関係のなかに。と申しますのも、繰り返し繰り返し、ミケランジェロの魂のなかには、ゴルゴタの秘蹟の理念が現れてきて、彼はとりわけ強くこう感じたからです、ゴルゴタのの秘蹟とともに、地上を超えた愛の行為が起こったのだ、ひとつの大いなる理想として常に人間の目の前に浮かぼうとするけれども、かけ離れたもののなかで人間には到達できず、世界の出来事を見つめる者を悲劇的な気分にさせざるを得ないほどの強度で起こったのだと。さてよく考えてごらんなさい、魂のなかのこの理念とともに、ミケランジェロは、ローマのイエズス会的生成を見、魂のなかのこの理念とともに、彼は私がお話ししました感情をすべてを味わい尽くし、彼が世界に見たものを常にそれによって測ったのです。そして最後に彼はここで世界のなかにまさしく多くを見たのです。と申しますのも、よく考えてください、彼がまだフィレンツェで、最初の芸術上の作品を手がけていたとき、ローマにはボルジア家の法王アレクサンデル6世がいました。その後彼はローマに呼ばれ、ユリウス2世の委託により、「世界の創造」を手がけました。つまり私たちは、ローマにおいてボルジア経済が、法王ユリウス、続いてメディチ家のレオ10世によって解き放たれるのを見るのです。ここではっきりと理解しておかなければならないのは、法王ユリウス2世は、毒、殺人、偽装その他似たようなけっこうな特性と呼びうるすべてをもって活動したにも関わらず、キリスト教芸術をまったく高度に、真剣に、真剣に感じていたということ、つまり政治的なボルジア家支配を解き放ったユリウス法王は、もちろん徹底して戦士であったにも関わらず、精神生活を通じて法王制を偉大なものとするために、法王制を目指していたということです。けれどもそのもっとも内奥において彼は自分をやはり霊的ローマにのみ仕える戦士と考えていました。そしてユリウス2世の場合、ぜひとも注目しておかなければならないのは、彼が聖職者であったこと、ペテロ教会を再建するという彼の衝動のなかにあるものについて、真剣であったこと、芸術のために行ったすべてのことについて真剣であったこと、無私にして真剣であったことです。計画の遂行のために毒殺その他を用いたような人物についてこういうことを言うのは奇妙に聞こえることでしょう、けれどもこれも、ともに計画を実現したグループにおける彼の時代の慣例なのです。けれども彼の最高のものは、世界の偉大な芸術家たちを通じて彼が世界に導入しようとしたものです。そしてミケランジェロのような精神にとってみれば、世界においては決して完全に善なるものは実現され得ず、まさに一面性において実現されざるを得ない、と感じることは深く悲劇的なことでした。それから彼は、メディチ家から出た、こう言ってよろしければ商業的な法王たちへの移行に、なおも加わらざるを得ませんでした。これらの法王たちには、名誉欲のほうが重要だったので、ユリウス2世や、ボルジア主義からも根本的に区別されるのは事実ですが、いずれにせよましというわけではありません。とは言え、これらの現象全般を時代から判断しなければなりません。と申しますのも、今日、法王アレクサンデル6世やその息子チェーザレ・ボルジア、あるいはユリウス2世を、ぞっとするようなことのように感じるのは、もちろんたやすいことなのです、彼らについてはもう偏らず書くことが許されているからですが、一方その後のもののいくつかを、このような自由をもって記述することはまだできないでしょう。けれども当時起こった大きな出来事は、これらの法王全部であったもの、つまりサヴォナローラあるいはルターが法王の座についたとしたらきっとあり得なかったであろうものと、因果関係にある、ということを同時に知っておかなければなりません。参照画:ミケランジェロ-自画像参照群:ミケランジェロ画像・彫刻・建築参照-年表:ミケランジェロ略年表 1475年3月6日 アレッツォ近郊のカプレーゼに生まれる。 1488年 フィレンツェのギルランダイオ工房で徒弟として一年を過ごした後、ロレンツォ・イル・マニフィコの庇護下で彫刻を学ぶ。《階段の聖母》はこの頃に作られた。 1494-95年 ヴェネツィアとボローニャに滞在。 1496-1501年 ローマにて《バッカス》と《ピエタ》を相次いで制作。 1501年 フィレンツェにて《ダヴィデ》を含む複数の大理石像を制作。 1504年 レオナルドとの競作壁画《カッシナの戦い》に着手。 1505年 教皇ユリウス2世のための墓碑が委嘱され、これ以降40年間に渡って断続的に制作。 1508-12年 システィーナ礼拝堂天井画の制作に従事。 1514年 教皇レオ10世がサン・ロレンツォ聖堂(フィレンツェ)のファサードを委嘱。 1519年 新たに委嘱された同聖堂新聖具室(メディチ家礼拝堂)を15年間に渡り断続的に制作。 1534年 ローマに永住。 1533-41年 システィーナ礼拝堂壁画《最後の審判》を制作。 1544-50年 ヴァティカン宮殿内パオリーナ礼拝堂壁画を制作。1546年以降は建築主任としてサン・ピエトロ大聖堂の改築事業に携わる。 1559年 《ロンダニーニのピエタ》に着手。 1564年2月18日 ローマで歿する。 人気ブログランキングへ
2024年01月30日
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内的霊的衝動の写しとしての美術史第2講 ルネサンスの三人の巨匠 レオナルド ミケランジェロ ラファエロドルナハ 1916年11月1日-レオナルドの芸術作品-3 続いて洞窟のなかの聖母と幼子イエスです。さて、もちろんこれより前に制作されたものですが「晩餐」です。これは、ミラノにおいて長期間(1495-98)サンタ・マリア・デレ・グラツィエ修道院内で手がけられました。この絵についてはしばしばお話ししましたね。ご存じの通り、ここでは、それまでに描かれた「晩餐」の画ギルランダイオ(55)やその他のに対して、この「晩餐」に見られる芸術的な仕上げ全体における本質的な進歩が書き留められねばならないということです。この絵における全生命を観察してごらんになれば、あらゆる構成的なものにも関わらず、人物の特徴を表すものが強く前面に出ていて、そこにまさにレオナルドにおける完全に新しいものを見ることができるほどだということがおわかりになるでしょう。とは云え調和がとれていること、構成との特徴ある調和は、この画においてきわめて驚くべきものにまでなっています。弟子たちの四つのグループがいたるところで同時にひとつの閉じた三つ組をなし、これらの三つ組みのどれもが、すばらしく全体に組み込まれています、色彩と光の展開のしかたのすばらしいこと。そしてこれが彩色の上でもいかに構成に入り込んでいるか、これについては一度注意を向けていただきました。絵全体の色を一緒に感じ取ろうとするなら、色が相互に補い合うように。私は補色として補い合うと言いたいのではありません、けれども全体を一緒に見るときは、補色に似たしかたで、実際に純粋な光が得られます、色が純粋な光となるのです。色が絵全体に分割されているとまったくもって感じられるなら、これは、全体を、レオナルドの創造の深い秘密を、それを通して直視させるものなのです。このことは、次の絵の彩色にも見られます。以下は絵から取り出した個々の人物です、ワイマールでも見られる弟子たちのグループです。弟子たちの頭部:これはキリストの頭部、これより前の習作とされています。さてこれはモルゲンの銅版画ですが(1800年完成)、この版画からは、実際もう完全に損なわれているミラノにある絵の今の状態から想像するより正確に構成を思い描くことができます。私たちのところでもしばしば語りぐさになりましたこの絵の運命のことはご存じですね。これは最近になって制作されたシュタングの版画ですが、個々の部分の詳細な研究によってこの絵についてのひとつの表象を提示しようとしています。これはしばしば賞賛されるものですが、この画をまさに芸術的に愛するひとにとっては、この分野におけるすばらしい独自の芸術的成果であるかもしれませんけれども、やはりこの版画は、この絵のなかにあるものを精緻な線描的なものへと極度に転じています。 さてこれらは、私が先ほど言及しましたレオナルドが彼の「戦闘画」として描こうとしたものの一部です。みなさんがレオナルドをもう一度現実化してごらんになれば、どのみち確定しているわけではない年代順に見るのではなく、物事を今私たちがやりましたようにグループにまとめて自らに作用させてみるときに作用する何かを、レオナルドは自らのうちに有していることがおわかりでしょう。すると、レオナルドのなかにはまったくもってさまざまな潮流が生きていることがわかります。「晩餐」においてとくに現れてくる、特徴づけ構成に関わるもの(das Charakteristisch-Kompositorische)へと通じていくとでも申し上げたい流れ、これはそれだけで存在しています。そして、この流れのかたわらにあるのは、このような構成に関わるものに通じるのではない流れ、あらゆる時代に現れてきた可能性があったにせよ、ただこの種の絵画はあらゆる時代に偶然に存在したのではありませんが、つまり「晩餐(96)」の前に示しました(88-95)ルーヴルの絵画に表現されているような流れです。これらの中には、この《晩餐》の構成的なものを思い起こさせるものは何も含んでおらず、円熟を目指し、ただ多かれ少なかれ特徴的であろうとしているような何かが表現されています。参照画:画家による最後の晩餐の解釈1-7
2024年01月29日
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内的霊的衝動の写しとしての美術史第2講 ルネサンスの三人の巨匠 レオナルド ミケランジェロ ラファエロドルナハ 1916年11月1日-レオナルドの芸術作品-2 これ第85:Leonardo_da_vinci-カリカチュア、ペンもまた素描ですが、死に神も描かれています。ここでは実際のところ、モティーフよりも、骨格の描出を研究することなどにずっと重点が置かれています。今度は特徴のある顔です。そして風景の素描です。この絵(93)と次の絵(94)は、レオナルドの仕事だと保証されてはおりませんが、レオナルドの特徴を備えており、まったく彼と関連なくその時代にあったとはいえないものです。さてここで、皆さんがレオナルドの別の側面をごらんになる有名な絵です、まさにこの側面において、彼は、今まで素描を通じて皆さんに明らかになったもの、彼は特徴あるものをそこに形成しようと試み、個であるものを個別性において形作ろうとするのですが、そういうものとはまったく反対の極とでも申し上げたいものを求めているのです。この「モナリザ」のようなものを創り出した芸術家が、カリカチュア的なものにまで至る別のものをも必要としているとは、普通には考えられないでしょう。けれども私は、自然に即したもの、私たちの友人クリスティアン・モルゲンシュテルンはこの自然に即したものよって、彼の崇高な作品から、私たちも時おりカリカチュア的なものとして知っているものへと駆り立てられていたのですが、そういう自然に即したものについてたびたびお話ししたときに、このことを示唆しようとしたのです。それは、これほど完成したもの、円熟したものという場合に不可欠な、芸術家の魂におけるこの関連なのです、つまりカリカチュア的なものに至るまで特徴あるものを完成することを通じて、このような円熟したものを創造する力を求めるのです。さらにまた別の画ですが、まったく歴史に沿った順番ではありません。これらをレオナルドは、円の完成を求める、まさに今述べましたこの仕上げを求める芸術家の特性のなかに示しています。これはデュオニソス像、デュオニソス神です。皆さんは前に私が行いましたさまざまな講義のなかでこれについていくつかの示唆を見出されるでしょう。参照:レオナルド・ダ・ヴィンチ素描 人物1 聖アンナと聖母子 New 人物2 イザベルラ・デステの肖像 人物3 風景に立つ女性(指さす女性) 人物4 人体のプロポーション 人物5 自画像 (2006年6月25日画像更新) 人物6 三博士礼拝の構図のための習作 人物7 踊るニンフの習作 人物8 少女の横顔の習作《アーサーのエッセイ》 人物9 グロテスクな顔の習作《アーサーのエッセイ》 人物10 衣襞の習作《アーサーのエッセイ》 人物11 男女の横顔の習作 人物12 人体比例の研究及びアンギアーリの戦い 人物13 人生論-快楽と不快 人物14 巨大な大砲を鋳造する中庭の絵 人物15 老人の胸像、雲、水、植物などの習作植物 植物1 ベツレヘムの星とその他の植物《アーサーのエッセイ》 植物2 二種類の植物の習作 植物3 カンバの林 《アーサーのエッセイ》 植物4 草花の習作 《アーサーのエッセイ》 植物5 オークの葉とどんぐり 植物6 花をつけた一茎のユリその他 風景1 風景の習作 地図1 イモーラの地図参照画:参照図:人気ブログランキングへ
2024年01月28日
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内的霊的衝動の写しとしての美術史第2講 ルネサンスの三人の巨匠 レオナルド ミケランジェロ ラファエロドルナハ 1916年11月1日-レオナルドの芸術作品-1 ここでまず、レオナルドの芸術作品を具体的に私たちに作用させてみましょう。私たちはこの芸術がどのように現れてくるか見ていきましょう。ですから最初の画として、レオナルドの素描的な作品をお見せしたいと思います、いかに彼がそのやりかたのすべてにおいて、私が特徴づけようとしましたこの自然理解から素描作品を生み出しているかを示したいのです。それから私たちは、まったく歴史的にではなく肖像的な絵を示し、それからはじめて彼の主要作品「晩餐」に移りたいと思います、それから出発点において彼を表しているものへと戻ります。最初に皆さんにレオナルドのよく知られた自画像をお見せしましょう。先ずこれはレオナルドの自画像のひとつです。もうひとつはもっとよく知られたものです。(レオナルド肖像 赤チョーク ミラノ 自画像共に前出)。さらにレオナルドの初期の作品から「92 ヴェロッキオ/レオナルド キリストの洗礼」。この絵は、レオナルドがいかにヴェロッキオの流派から育ってきたかを示しています。ごらんの小柄な人物たちは明らかにヴェロッキオの人物たちですが、他方、たとえばこの人物として描かれたキリストの回りの繊細な仕上がりの風景がレオナルドによって描かれたと伝えられています。また、天使のひとりは、ヴェロッキオ派のなかにいたレオナルドによって描かれたこと、そして、レオナルドが画面の描くことの仕上げたものを見てヴェロッキオは絵筆を置き、もはや自分で描こうとはしなかったということも伝えられています。さて今度はカリカチュアの素描です「85 カリカチュア、ペン」。ここで皆さんは、レオナルドがいかに素描したか、いかに彼が、まさに私が特徴づけようと試みましたやりかたで獲得した見方(観照眼)から、特徴的なものを取り出してカリカチュアとしたか、その手法をごらんになるでしょう。こういうことに関してはレオナルドひとりだけだと思ってはなりません。似たようなことは、当時は既にほかの人によっても行われていたのです。ただその特別な天賦の才を備えていたのはレオナルドただひとりでした。けれども、かつて芸術において輝かしく変容させられたもの、かつての時代には高次の観照から生まれ、その後伝統的になっていったものに対して、このように特徴あるものを求めること、つまり、観照に現れる直接的に特徴あるものをこのように求めること、そして存在の個であるものにとって観照からとりわけ際立って働きかけるものを取り出すこと、これはすでに当時の求めだったのです。第92:ヴェロッキオ/レオナルド キリストの洗礼記:アンドレア・デル・ヴェロッキオ「キリストの洗礼」(1472年頃)Leonardo_da_vinciヴェロッキオの弟子であるダ・ヴィンチの筆も一部入っている事でも知られる作品です。ヨハネが手にしている十字架の形をした杖と、皮の衣装はヨハネのアトリビュート(持物)です。人気ブログランキングへ
2024年01月27日
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ルドルフ・ジョセフ・ローレンツ・シュタイナー内的霊的衝動の写しとしての美術史第2講 ルネサンスの三人の巨匠 レオナルド ミケランジェロ ラファエロドルナハ 1916年11月1日-7 ラファエロ ラファエロがそもそもローマに携えていったのは、生地ウルビーノでした、ラファエロもそこから育ったこの地域のささやかな芸術家たちに目を向ければ感じ取ることができますが、不思議な魔法の息吹がかけられたような中部イタリアの東部です。好ましい顔、特徴ある足の置き方、姿勢全体を備えた彼らの作品のなかには、道徳化していく分野、禁欲的な分野においてアッシジのフランチェスコにかつて現れたものが、後の時代になって芸術的にそうなったとでも申し上げたいものがあります。これが芸術的な形態と感情のなかに入り込んでいるのです。そこには、自然と人間への繊細な観照の独特の魔法の息吹が生きています。これはラファエロに生まれつき備わっていたものであり、さらに全生涯を通じて実際これをはっきりと打ち出します。そしてこの感情を彼はローマに携えていきます。私たちがこうした作品、絵画作品としてはやはり大部分がずいぶんと損なわれてはいますが、こうした作品が創造されたしかたのなかに身を置くなら、この感情は彼の作品から私たちの心情のなかへと溢れ出してきます。そしてラファエロがその魂のなかに担っているもの、それは、まさにウルビーノ的孤独とでも申し上げたいもののなかで発展したことによって、あの時代のなかにやはり孤独に存在する何かであり、ほかならあぬラファエロから人類の文化のなかへと広がっていったものなのです。つまり、ラファエロはこの要素とともに、時代の波に乗せられたように運ばれ、この要素を、芸術的な感情としてのキリスト教的感情の、この純粋に芸術的な完成を、時代の波に運ばれたいたるところで作用させたのです。これがラファエロの作品のいたるところに溢れ出していました。ルネサンス芸術の流れについてはこう申し上げたいのですが、レオナルドは大いなる世界の出来事のそのなかに、その鋭い世界理解をもっていたるところで人を刺しつつ立ち、ミケランジェロは当時の政治的な理解の内部に立ってそれを明白な感情衝動にし、ラファエロはあらゆるものからあまり触れられないまま、時代の波に運ばれて、殆ど言い表し得ないキリスト教的芸術的なものを、時代進化のなかに齎すのです。これがルネサンスの三人の巨匠を区別すると同時にひとつにするものです、と云うのも、彼らは、私たちに歴史的に現れてくるであろうルネサンス感情(Renaissance- Empfinden)における三つの要素を示しているからです。参照画:ウルビーノ人気ブログランキングへ
2024年01月26日
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内的霊的衝動の写しとしての美術史第2講 ルネサンスの三人の巨匠 レオナルド ミケランジェロ ラファエロドルナハ 1916年11月1日-6 ミケランジェロ 世界をまるごとミケランジェロはローマに携えていき、それからまたフィレンツェに行きますが、実際のところ、秘蹟(サクラメント)的性格の代わりに商業的性格を置くとでも申し上げたい潮流によって追い立てられて、彼はフィレンツェに戻るわけです。なるほど重要な作品を制作させられ、メディチ礼拝堂(153-161)の中でも制作させられています。けれども、全体の背景には、実際ミケランジェロを企画すべてに対して悲観的な気持ちへと駆り立てた何ものかがあります。それはメディチ家称賛というものであり、そのうちに強大なものとなったメディチ家の称賛は、当時フィレンツェにおいてよりフィレンツェ以外のイタリアにおいてまず起こったのです。そして、マラテスタ・バグリオーニの背信を通じてもたらされた状況によって、つまりマラテスタの再度の侵攻、フィレンツェでの自由の終焉によって、彼がまたもローマへと追い返されると、彼は画家として直接、謂わばひとりのフィレンツェ人の抵抗(プロテスト)から描くように「最後の審判」のなかに、人間の個に逆らうものすべてに対する人間の個の、偉大な人類的抵抗を描きます(162-166)。これは「最後の審判」に彼の人間的な偉大さを、ミケランジェロの手から生み出されたまさに直接の発露であるあの人間的偉大さを与えています。今はその一部は完全に損なわれてしまいました。けれどもここでまた彼は、魂のあらゆる感情衝動のなかに深く深く飛び込んでゆくものを体験します。すでに彼は、彼の世界観像の発展にとって重要な意味を持っていた出来事から、すべてを体験していたのです。こんにちでは抽象的にとられていますけれども、ミミケランジェロの魂のなかでまったく深い魂衝動であった重要な事柄を私は皆さんに示しました。これに付け加えなければならないのは、サヴォナローラの登場によってフィレンツェに起こった急変を彼が共に体験したということでしょう。これとともに、キリスト教全般に関連して当時を特徴づけていたものに対する異議申し立て(プロテスト)が、教会生活のなかで起こります。レオナルドにおいて実現され、その他多くの種類のあれほど自由な芸術精神(Kuenstlertum)、これはゴルゴタの秘蹟に連なっていたキリスト教の表象、つまり三位一体についての表象、晩餐についての表象、地上的なものと超感覚的なものとの関連についての表象が、道徳的な要素から引き上げられたことによってのみ発展することができたのです。これらの表象は、道徳的な要素から引き上げられて、イマジネーション(*芸術的創造力)の性格を獲得していました、世俗的なものとともに働くときのような、ただし内部には聖なる姿を有した自由なイマジネーション的性格を獲得していたのです。それは道徳的なものから解き放たれて、客観的にされていました。そうすることによって、道徳的な表象から解き放たれたキリスト教的表象が、純粋に芸術的なものへと、まさに滑り込んでいくのです。まったく当然の如く、それは滑り込んでいくのですが、それに加えて、この滑り込んでいった行き方のなかには、いわば道徳的なもののこうした逸脱というものも含まれます。サヴォナローラは、この道徳的なものの逸脱に対する偉大なプロテストです。サヴォナローラが登場します、道徳から自由な、私は不道徳なと言わず、道徳から自由なと言います。芸術に対する、道徳のプロテストです。そして、サヴォナローラから発して、サヴォナローラが引き起こしたものから発してミケランジェロのなかにあるものをも理解したいと思うなら、サヴォナローラの意志することを研究しなければなりません。けれどもミケランジェロはさらにまた別のことも体験しました。その最も内なる心情において、実際のところキリスト教的に考える以外考えたことはなかったこのミケランジェロという人物は、単にキリスト教的に感じただけではなく、世界秩序をもキリスト教的な意味で具象的に思い描いていたわけですが、彼はキリスト教的な表象が客観的なものになっていき、それによってあれほど容易に芸術の領域に滑り込んでいくことができるようになったとでも申し上げたい時代、そういう時代のなかに置かれていました。其のような時代に彼は置かれ、同時に彼は、宗教改革という北部のプロテスト、これは比較的速くイタリア中に広がりましたが、そういうプロテストも体験したのです。それから彼は、カトリックの側から宗教改革に対する反宗教改革として起こされた全体的な急変を体験しました。彼は、当時のローマに、道徳的には高い位置にいないかもしれないけれども、カトリシズムに新たな形態を与えることにまったく同意していた自由な精神の持ち主たちが生きていたのを体験しました、この人たちは、サヴォナローラのようなことまでするつもりはありませんでしたが、カトリシズムに新たな形態を与えたいと思っていました、カトリシズムが当時宗教改革のなかに現れてきた形態をとることなしに、けれども持続的に自らを発展させていけるような形態をです。こうしてこの宗教改革は、サヴォナローラープロテストの別版とでも申し上げたいものとして勃発しました。このときローマにおいて人々は不安に駆られ、人々はかつての生を貫いて脈打っていたもの全てに別れを告げたのです。たとえばヴィットリオ・コロンナのなかに集中していたような理念には、ミケランジェロも大いに期待をかけていました。芸術的に高みに到達したものの道徳化、そしてこの道徳化されたカトリシズムを世界にゆっくりと新たに入り込ませようという理念です。ローマの権力者たち、カトリックの権力者たちは、今やこのまったく自由なカトリック的理念のなかに、イエズス会の原理を押し込み、パウロ4世が法王になりました。これをもってミケランジェロは彼にとって明らかに恐るべき何かを体験しました、まだ彼がキリスト教として知っていたものとの断絶が萌芽のなかに芽生えてくるのを見たからです。イエズス会的キリスト教が始まったのです。このようにそれは彼の晩年に入り込んでいきました。私は彼がフィレンツェをローマに携えていったと申しました。ラファエロの場合はまた事情は異なっていました。参照画:メディチ家礼拝堂はこのサン・ロレンツォ聖堂の拡張建造物として、 16世紀 から 17世紀 にかけて建設された。 聖堂内部の新聖具室( Sagrestia Nuova )は、 ミケランジェロ の設計による建物である。人気ブログランキングへ
2024年01月25日
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ルドルフ・ジョセフ・ローレンツ・シュタイナー内的霊的衝動の写しとしての美術史第2講 ルネサンスの三人の巨匠 レオナルド ミケランジェロ ラファエロドルナハ 1916年11月1日-5 ミケランジェロ ミケランジェロがローマで、フィレンツェの偉大さと自分が体験したものを思って悲しみながら時を過ごしたその後、フィレンツェにとって良い時代がまた始まり、帰郷すると、彼はふたたび高揚した印象のもとにありました、けれども、この高揚したというのはまさに、フィレンツェにはまた自由が到来していたからという理由からです。そしてこの変化した感情を、彼は「ダヴィデ」立像(129)の筆舌に尽くしがたいほど偉大な人物のなかに注ぎ込みます。このダヴィデのなかに生きているのは、伝統的な聖書のダヴィデでなどではありません、このダヴィデのなかに生きているのは、押し迫る大都市主義に対する自由なフィレンツェの異議申し立て(プロテスト/Protest)であり、この像の巨大さはこういった感情と関わりがあるのです。そして、システィナ礼拝堂の壁画を描くためにユリウス法王に呼ばれるとき、彼ははじめて正しい意味で彼のフィレンツェをローマへと携えていきます。いったい何をローマに携えていくのでしょうか。 このとき彼がローマに携えていくのは、ひとつの全体的な世界把握、新たな時代を示していると言える世界把握です、ローマにおいてミケランジェロがシスティナ礼拝堂のなかで世界生成と聖書の物語の生成のうちに創造するもの(127-133)のなかで、古い世界観が没落していくと言うことができるのと同じくらい、新たな時代を示していると言うことのできる世界把握、そういう世界把握を携えていくのです。ひとつの世界をまるごとミケランジェロはローマに携えていくのです。彼は、当時ローマでは生じ得なかったもの、魂的にローマでは生じ得なかったもの、フィレンツェにおいてのみ生じることができたものを携えていきます。人間の預言的および巫女の能力のすべてとの関連における、太初から歴史的なものにまで入り込むこの世界連関の観照、 私の以前の講義のなかに、まさにこういう事柄についての言及を見出されるでしょうが、この連関がフィレンツェでは感じ取られなければなりませんでした。と云うのも、当時ミケランジェロが感じ取っていたもの、フィレンツェにおいてその高みに達していたものから感じ取っていたものについて、前の時代へと精神科学的に移行することなしには、今日もはや追感することはできないからです。ですから、こういう事柄について通常の美術史においては、これほど多くのナンセンスが見られるのです。もはや追感することができないからです。ミケランジェロが創造したように創造することができるのは、こういう事柄をほんとうと信じ、この事柄の内部にいる場合のみなのですから。ひとは世界の生成を描くということがよく言われます。今日でもそうできると信じている芸術家もいるでしょう。とはいえ、感じるところのあるひとは、それに同意することはできないでしょう、ミケランジェロがそのさなかに立つことができたほど、まるごとの魂生活をもって、そのなかに立つことのない者は、世界の生成を描くことはできないという単純な理由からです。参照画:ミケランジェロ-ダビデ像人気ブログランキングへ
2024年01月24日
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いっぷ句-83氷河にも向日葵が咲く生成AI 愚通にほんブログ村
2024年01月24日
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内的霊的衝動の写しとしての美術史第2講 ルネサンスの三人の巨匠 レオナルド ミケランジェロ ラファエロドルナハ 1916年11月1日-4 ミケランジェロ ルネサンス的なものをレオナルドと共有しているものの、それとはまったく別の性質を持っているのがミケランジェロです。レオナルドについては、当時の時代全体をその胸のうちに担い、その時代をその深さの全てにおいて、またその後数世紀経過してようやく生じてくる諸力をもって用いてしまったがゆえに、彼はしばしばその時代と不調和にもなり理解されないままにとどまっていると言うことができるなら、ミケランジェロについては、彼はほんとうに当時のフィレンツェを自らのうちに担っていたということができるでしょう。とは云え、フィレンツェとは何だったのでしょうか。フィレンツェは実際、ある意味で当時の世界秩序が濃縮されたもの(Konzentrat)でした。そしてこのフィレンツェをミケランジェロは自らのうちに担っていました。彼はフィレンツェをこんな具合に自らのうちに担っていました、つまり、彼はレオナルドのように政治的状況から遠ざかるのではなく、当時の政治上であれほど紛糾して起こったこと、そして当時全世界秩序が政治的なもののなかに入り込んでいました。彼の時代の上昇する局面において起こっていること、これが繰り返し彼の魂のなかへと働きかけたと言うことができるほどに、フィレンツェを担っていたのです。そして繰り返しローマに行くたびに、ミケランジェロは彼のフィレンツェをローマまで担って行って、フィレンツェ的感情をローマ的なもののなかに描き形造ります。レオナルドは事物のなかに彼が創造した世界感情を持ち込みます。ミケランジェロはフィレンツェ的感情をその芸術創造のなかに持ち込むのです。彼はフィレンツェ的感情をローマにまで携えていきます。彼はローマにおいてフィレンツェを再生させることで、いわば精神的に芸術家としてローマを征服するのです。ミケランジェロは、彼の生きた時代にフィレンツェで政治的状況から起こることを体験します。これは彼の人生の連続する時代のなかにも見ることができます。彼はその経歴の初期、非常に若いときに偉大なメディチの威光を初めて知ると言ってよいかもしれません。彼は偉大なメディチ家、ロレンツォ・デ・メディチ、ロレンツォ・イル・マニーフィコ、偉大な人と呼ばれた人物のお気に入りとなり、彼を通じて、当時フィレンツェで精神生活のなかに受け入れることのできたすべてへと高められます。古典芸術と古典芸術様式について当時フィレンツェで研究することのできたものを、ミケランジェロはメディチ家の保護のもとに研究しました。そして彼の最初の作品をメディチ家の保護のもとに制作しました。そして彼はこのパトロンをとても愛していて、彼自身の魂のなかで、このメディチ家のパトロンの魂のありようと一体となっていました。その後の彼は、自分のパトロンの息子たちは以前とはまったく別ものであると体験することを余儀なくされました。なるほど野心的な心情からではあっても、この心情から自由を与え、フィレンツェにとって偉大なことを成し遂げたこのパトロン、彼が1492年に死んだのです、するとその息子たちは、大なり小なり月並みな暴君であることを露呈しました。この急変をミケランジェロは比較的早い時期に体験しなければなりませんでした。彼は、その経歴の始めに、メディチ家の商魂により思うさま芸術を開花させるのを許された一方で、今やその商魂が政治的精神を誇示し、暴虐を求めるということを体験しなければならなかったのです。そして彼は、のちに全世界を遅うものがフィレンツェにおいてまず小さな規模で示されていたことも体験しました。これは彼にとっては恐るべき体験でしたが、近代というものの変転全体とも関わる体験でした。こうして彼ははじめてローマに行きます。そして、彼はローマで、このフィレンツェの偉大さとして自分が体験したものを思って悲しみながら時を過ごしたと言うことができます。そして、ミケランジェロの形態(フォルム)付与がいかに感情におけるこの急変と関わっているかを見ることができます。フィレンツェにおけるこの政治的な急変がどれほど彼の心情のなかで作用を及ぼしているか、線のなかに至るまで認められます。そしてこういう事柄について感受性を持つひとは、ヴァチカンに見られる「ピエタ(127)」について、これはほんとうは悲しんでいるミケランジェロ、故郷を思い悲しんでいるミケランジェロに由来することに気づくでしょう。参照画:ピエタ(127)参照画:ミケランジェロ肖像画1参照画:ミケランジェロ肖像画2
2024年01月23日
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内的霊的衝動の写しとしての美術史第2講 ルネサンスの三人の巨匠 レオナルド ミケランジェロ ラファエロドルナハ 1916年11月1日-3 レオナルド レオナルドは、彼の後の時代、彼の前の時代の感情にもまったく同様の方向づけられた魂を担っていました。レオナルドは魂のなかに、まさしく霊的なヤヌスの顔を持っていたのです。レオナルドは、教育、生活習慣、そして彼が見たものを通じては、その感情とともに古い時代のなかに入り込んでいますが、近代になってようやく上昇してくるあの世界観への力強い衝動も持っています、世界観の広さというよりはこの世界観の深さへの衝動です。私が講義で行いましたさまざまな示唆からみなさんにもおわかりと思いますが、ギリシア人、そしてそもそもその後のアトランティス後第四の時代も、のちの時代とはまったく別様に、まったく異なる源泉から生というものを熟知していました。この時代の彫刻家は、今日私たちがエーテル体を呼ぶ力、そういう力として自分自身のうちにあった諸力をなおも知覚することによって、人の姿を内から熟知し、そしてこのように形態を感知すること(Erfuehlen)から創造していました、ギリシアの芸術家にいたってはなおのこと、この感知から制作していたのです。然し乍ら、この能力は途絶えました、そして外的に観ることによって事物をまた受け入れるという外的な能力が登場しなければなりませんでした。その結果、自然を感知し理解することを余儀なくされたのです。私はみなさんに、深い感情から自然を感知しようとした最初の人々のひとりがほかならぬアッシジのフランチェスコであったことを示しました。今度はこの自然の感知に加えて包括的な意味での自然理解を求めた最初のひと、それがレオナルドそのひとだったのです。以前の人々とちがって彼にとってはもはや、内から追求する諸力として人間自身のなかで働くものはありませんでしたので、彼は、観ることによって外から追求しようとしました、外的に観ることによって、もはや内的な感知によってはよく知り得ないものを熟知しようと試みたのです。アッシジのフランチェスコに対してレオナルドを際立たせたのは、自然感知(Natur-Erfuehlen)に対する自然理解(Natur-Verstehen)というものでした。理解というものを目指すレオナルドの精神の成り立ち全体もこれを前提としているのです。そして語られていること、これを字義通りとる必要はありません。そもそも根源を語っているのは多かれ少なかれ伝説だけですが、それでもこの伝説は真実に基づいているからです。つまりレオナルドが、特徴ある人間の顔を手がかりに、観照によって人間の力機構の働きを内なる体験にしようととくに苦心したということには幾らかの真実があります。人間の本性がいかに形(フォルム)のなかへと働きかけているか、謂わばその人間を見通すために、彼がとくに特徴ある姿をしばしば一日中追いかけたということには、幾らかの真実があるのです。農民たちを招いて、彼らの好物を食卓に並べ、彼らに物語りをすると、彼らが笑いと顔の緩みのあらゆる可能な状態のすべてを示すので、それを研究することができたというのも、まったく真実に基づいています。メドゥーサの顔を描きたいと思ったとき、彼はありとあらゆる醜いヒキガエルや似たようなものをアトリエに運び込み、特徴ある動物の顔を研究したということは伝説的に語られていることではありますが、秘密に満ちた自然の創造を自然の諸力のなかに聞き取るために、いかにレオナルドが試みなければならなかったかを示しています。何故なら、レオナルドは事実、自然理解を求めた人間だったからです。彼はまた、人間の生活のなかにも入り込んで働きかけることのできる自然力を広い意味において捉えようと苦心していました。彼は単にきわめて狭い意味での芸術家だったのではありません、彼の場合、全人から芸術家となっていたのであり、変転する時代のさなかに、全人が立っていたのです。彼はたとえば、フィレンツェで、舗装が徐々に持ち上がって地面に深く入り込んでしまったサン・ジョヴァンニ教会、これを持ち上げようとしました。今日ではたやすくやり遂げることができるでしょうが、当時は見込みがないと思われていた課題です、彼はこの全体を持ち上げようとしたのです。今日ではこのような課題は、ヘルマン・グリムが正しく気づいているとおり、単にコスト計算の問題となるかもしれませんが、当時それは天才的な理念でした。レオナルド以外の誰もそれが可能だとは思わなかったからです。レオナルドは、人が空中を飛ぶことのできる器械を組み立てることや、広い沼地を干拓することを考えていました。彼はエンジニア、機械工であり、音楽家でした、精神的な交際においては当時の教養人にして学者であり、当時レオナルド以外の誰もそれで何かを始めるすべを知らないほど前代未聞の器械を組み立てたのです。つまり、レオナルドの場合、手のなかにまで続いていたものが、広い世界理解から作用していました。レオナルドについては実際、彼はその時代全体の変動する力を自らのうちに担っていたのだと言うことができます。彼は、当時イタリアにおける大変動のなかに現れていた時代を自らのうちに担っていたのです。さらに、彼の全人生、レオナルドの芸術的生も含めて、彼のこの根本特性の現れであったとも云えるかもしれません。イタリアの生活環境から成長したにもかかわらず、実際のところ彼はそもそもイタリアに定住しておりません。なるほど彼はフィレンツェ人でしたが、フィレンツェでは青年時代を過ごしただけで。ロドヴィコ・スフォルツァ大公からお呼びがかかったために、フィレンツェからミラノに移りました。これは一種の宮廷娯楽師としてであって、今日考えられるかもしれないような偉大な芸術家、今日の私たちにとってレオナルドがそうであるような芸術家として呼ばれたということではまったくありませんでした。然し乍ら、レオナルドは馬の頭骨から楽器を造り、それで音を出したり、非常なユーモアでもって、まさにそれをすることによって、ほかのさまざまなものによってと同様にミラノ公の一家を楽しませることができました。彼が一種の宮廷道化師のような役回りをさせられていたというには及びませんが、まさに宮廷を楽しませる宮廷娯楽師として実際彼は呼ばれたのです。彼がミラノでそのほかに行ったことについてはのちほどお話しするでしょうが、これを彼は、ほんとうにその本性の最も内なる衝動から行いました。けれども彼は、これらの業績を成し遂げるために、まずもってスフォルツァの宮殿に引き寄せられたわけではありませんでした。彼はミラノに住み慣れたにもかかわらず、のちにフィレンツェに戻ったとき、ミラノへの勝利を讃えたと伝えられる闘いの絵「アンギアリの闘い(119)」を描きます。 それから私たちは、彼がフランスの宮廷で生涯を終えるのを見ます。レオナルドがもともと目指していたのは、その時代の人間において彼の興味を惹いたものを見たり感じたりすることだけでした。当時あれほど複雑であった政治的出来事は、多かれ少なかれ彼の傍らを通り過ぎていきました。彼はどこででも人間的なものの一番上の層をそこから取り上げるのです。彼は多くの関連で冒険家のように自然に感銘を与えさえします、まさに巨大な天才を備えた冒険家のように。つまり彼はその時代全体を自らのうちに担っていて、彼の造るものはその時代全体の感情から生み出されますので、これを私たちは年代順に上映するのではなく、自由な秩序から上映したいと思います、まさにレオナルドの場合は、彼がいかに一挙に(aus einem Wurf heraus)創造しているかを見るほうが重要だからです。ですから年代順というのはあまり問題ではないのです。記:ヤヌス(Janus)は、ローマ神話の出入り口と扉の守護神で、前後に反対向きの2つの顔を持つ双面神です。1月を司る神でもあります。ヤヌスは、古代ローマの文化において、物事の始まりと終わりを象徴する神としても知られています。参照1:アンギアーリの戦い(119)参照:レオナルド・ダ・ヴィンチ 「自画像」レオナルドの弟子フランチェスコ・メルツィが1510年ごろに描いたといわれる、レオナルドの肖像画。人気ブログランキングへ
2024年01月22日
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内的霊的衝動の写しとしての美術史第2講 ルネサンスの三人の巨匠 レオナルド ミケランジェロ ラファエロドルナハ 1916年11月1日-2 アレクサンデル6世、ユリウス2世、レオ10世 ひとつ考えてもみてください、このキリスト教はイタリアにおいて十五世紀の終わりに、十六世紀の初頭に、法王たちのもとまでこのような人物たちを見い出さしめたのです、実際彼らについては、まったく敬虔主義者などでない人なら道徳と呼ぶものについての素朴きわまりない要求にただ満足していたなどと言うことはできません。まったくもって宗教的なものの大多数についても同様です。キリスト教的と呼ばれるもののなかに、特別に道徳的(moralisch)な衝動を生かそうという要求は、当時においては比較的失われていました。他方、のちに敬虔主義的な、道徳化する流れのなかにふたたび現れたものが、まさにこのようにわれたことによって、そして、ついこの間アッシジのフランチェスコについてお話ししたもの、 そのなかには、キリスト教に対する別の感情、たとえばアレクサンデル6世、ユリウス2世、レオ10世に従っていた人々を満たしていたものとは別の感情が生きていますが、それとはやはり違うものが生じてくることによって生きていたのです。けれども、キリスト教の伝承であるもの、ゴルゴタの秘蹟に結びつく理念と観照であるもの、これに眼差しを向けますと、これらの観照、これらの理念、ここでは理念のなかにイマジネーションをも含めて理解しておりますが、今日ではもはや想像もつかないような強度をもって彼らの魂のなかに存在していたのです。彼らの魂は、彼らの世界のなかに生きていたのと同様、ゴルゴタの秘蹟に結びつくこうした表象のなかに生きていました。そして彼らは、自然もまたこの世界のなかに据えられているのを見ました。はっきりと理解しておかなければならないのは、あの時代にとっては、この地球のきわめて洗練された人々、西側半分にはこの人々についてまだ知られておらず、あるいはようやく知られ始めたけれどもまだ深く考慮されていなかったのですが、こういう人々にとっては、世界の中心であったということです。地球の表面からずっと下降していくと地下の世界を、少し上昇しさえすれば地上を超えた世界を見出しました。こう言ってよいかもしれません、あの時代にとっては、あたかも、人間の腕を上げさえすれば、地上を超えた存在たちの足を手でつかむことができるかのようであった、つまり天はまったく地上的なエレメントのなかに入り込んでいた、と。地上を超えたおよび地下の霊的なものの間の人間を取り巻く感覚界との共鳴、このように観るという感覚のなかには、自然観ということも含まれるのです。さてこの時代から、ほかならぬルネサンスの三大巨匠が聳え立っていました。そして、あの時代から登場し始めたものそしてさらに登場してくるであろうものすべてを、いわば萌芽のなかに含むようにすでに自らのうちに有していたひと、それはレオナルドでした。記:アレクサンデル6世、ユリウス2世、レオ10世は、いずれも15世紀から16世紀にかけてのローマ教皇です。アレクサンデル6世は、1492年から1503年まで在位し、ルネサンス期の教皇として知られています。彼は、教皇庁の権力を強化するために、ネポティズムを行い、自分の子供たちを枢機卿に任命しました。また、彼は、イタリアの政治的な不安定さに対処するために、外交政策を展開しました。ユリウス2世は、1503年から1513年まで在位し、彼の治世は「教皇戦争」と呼ばれる一連の戦争によって特徴付けられました。彼は、教皇領を拡大するために、軍事力を行使しました。レオ10世は、1513年から1521年まで在位し、彼の治世は「ルネサンス教皇」として知られています。彼は、教皇庁の財政を再建し、芸術と文化のパトロンとして活躍しました。参照:アレクサンデル6世、ユリウス2世、レオ10世と歴代教皇の棺人気ブログランキングへ
2024年01月21日
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内的霊的衝動の写しとしての美術史第2講 ルネサンスの三人の巨匠 レオナルド ミケランジェロ ラファエロドルナハ 1916年11月1日-1 偉大なルネサンスの巨匠たちの時代へと流れ込んだあの時代の芸術を、しばらく前にここでご覧に入れましたが、あのときの考察が行き着いたところは、その後レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロによって壮大なしかたで総合されたものへと、芸術的感情世界のなかでつながっていく結びつきを示すということでした。この三人の偉大なルネサンスの巨匠とともに、むろん芸術的な意味においてですが、芸術的にその兆しを告げるアトランティス後第五期の黎明のなかに、新たな時代の出発点が見出されます。この時期はまさしく、このアトランティス後第五期の始まりにあたります、つまり1452年にレオナルドが生まれ、1475年にミケランジェロが、1483年にラファエロが生まれ、レオナルドは1519年、ラファエロは1520年、ミケランジェロは1564年に死にます。ここで私たちは出発点に立っているのです。けれども同時にこれらの芸術家のなかには、まさに先行する精神潮流の完結、総合のように観察されうるものもいくらか含まれています、この先行する時代がいかに芸術的なものへと流れ込んだかを観察できるのです。とは言え、ここで考察されるものについての現在(いま)、まったく直接に理解するということはできません。何故なら、今日の時代にあっては、芸術というものは、謂わば、あまりにひどく追放されている、或いは少なくとも、これを批判と結びつける必要はありませんが、共通する精神生活から追放されているからです。世界を芸術史的に観想するひとが、芸術をまるごとの精神生活のなかにもう一度据えようとすると、欠陥のように思われるということさえ屡々あるほどです。何故なら、そうすることによって、本来の芸術的で美的なものから遠ざかり、内容的なもの、題材的な(stofflich)要因に大きな価値が置かれすぎると勘違いされているからです。決してそのように思われてはなりません。そもそもこういう違いが是程大きな意味を持ち始めたのは、現代になってからのことです。人間の感覚全般にとって芸術的な理解がもう少し育成されていた以前の時代にとっては、そういう違いはそんなに直接的な意味を持ちませんでした。昨今、描写として造形的な描写として人間の感覚の前に登場してきた醜悪さのすべてによって、本来の芸術的な理解が如何に酷く根絶やしにされてしまったかをここで私たちは忘れてはなりません。任意の如何に(いかに/Wie)のなかに何を(なに/Was]を感じ取ることがヨーロッパにとってある意味でどうでもよくなることによって、如何に(いかに/Wie)に対する理解がどれほど失われてしまったか、見誤ってはならないのです。こうして、きわめて広範囲にわたって芸術的な理解全般がひどく失われてしまいました。私たちがきょうまた取り上げねばならない時代がどのようなものであれ、このようなかなり古い時代にとって、ラファエロやミケランジェロやレオナルドのような芸術家は、単に一面的に芸術家であるということはまったくなく、その魂のうちに精神生活をまるごと担い、精神生活から、彼らの時代の精神生活から創造していたということについて語られねばならないならば、それは彼らがこの精神生活から題材(Stoff)を取り出したという意味ではありません、そうではなく、彼らの創造活動の特に芸術的なもののなかへ、形態(Form)付与と色彩付与のなかへとまさしく題材が流れ込んだということ、当時の世界観と名づけられうるものの独自性のなかへと流れ込んだということです。現代にとって、世界観とは諸理念の総計です、つまり彫刻したり描いたりすれば、形(フォルム)や色その他のなかに当然ながらあまさず具現されうる、芸術的な把握にとって最大の野蛮さを示している諸理念の総計なのです。これと関連して、ほかでもない私たちのの人智学的発展の内部に、いわば繰り返し戒めなければならないことがあります。ほんとうの意味で芸術的なものという感情が、私たちのグループ内のどんなところにも広がっているというわけではないからです。今もぞっとしながら思い出すのですが、私たちの神智学運動の初期の頃、ある男がベルリンにやってきました。彼は自身が描いた菩提樹下の仏陀という一枚の絵のコピーを携えていました。さて、なるほどその絵では、樹の下に朽ち果て崩れたような人物が座していましたが、この男は芸術について、 陳腐な表現をお許し下さい、でもこの場合こういう言い方ができるのです。 まる一週間草を食(は)んだ牡牛が日曜日について理解する程度にしかものごとを理解していませんでした、この男は、何らかのモティーフ(motif)、動因・因子としてのあるものを据えさえすれば、それがその何かを表すのだと考えていたのです。それはつまり場面全体を、菩提樹下の仏陀を思い描くひとはそれを見ることができるのだというわけです。けれども、それが現れてきたとき、そもそもなぜそういうものを創り出そうというのか。それについてはまったく根拠がないのです。けれども、レオナルドや、ミケランジェロや、ラファエロの場合、彼らがその魂のうちに、当時イタリアの文化を貫いていた感じ方をまるごと担っていたことについて語るなら、それはなにか別のものでした。何故なら、彼らにおいては、芸術上の描写のしかたにこの文化が入り込んでいて、この文化に対する感情なしに彼らを考察しても、この芸術家たちを完全には理解できないからです。今日、ほんとうに奇妙なことが信じられています。例えば、ミサ聖祭についてまったく何も知らなくても、誰かがゴシック教会を建てることができると思われているのです。実際には教会を建てることなどできません。三位一体のなかに生きているとされるものについて、何ら感じるところのない人でも三位一体を描くことができると想われています。こういうことが今日芸術を脇へ押しやっているのです。他方、単に今日芸術において持たれるような感情や美的な見方だけで、ラファエロあるいはミケランジェロあるいはレオナルドについて批評できると思うなら、特別に芸術的なものを理解することはやはりできません、何故なら、彼らの感情と感じ方全体が、今日までにそうなったものとは異なったものだからです。彼らの場合まさに自然に即して、本日はこれ以上を申し上げられません、ほんとうに語るべきことを語るためには多くの時間が必要だからです。彼らの場合まさに自然に即して、彼らはその時代の感じ方すべてのただなかに生きていたということです、ですからキリスト教がその興隆の時期にとった特徴を理解しなければ、彼らの創造を理解できないのです。参照:ルネサンスの三人の巨匠-肖像人気ブログランキングへ
2024年01月20日
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内的霊的衝動の写しとしての美術史第1講 ドルナハ 1916年10月8日-LXXX以下-4第196 ラファエロ-聖チェチリア(ツェツィーリエ)記:聖チェチリア (聖セシリア) は音楽家と教会音楽の守護聖人で、初期キリスト教時代の聖女です。その遺体は、ローマのトラステヴェレ地区にある教会の祭壇下に埋められている。本作は、彼女が聖パウロ、福音書記者聖ヨハネ、聖アウグスティヌス、マグダラのマリアといっしょに天使の合唱を聞いているところが表されています。この祭壇画はボローニャの教会のために委嘱され、現在、ボローニャ国立絵画館に展示されている。なお、「画家・彫刻家・建築家列伝」を著したマニエリスム期の画家・伝記作家ジョルジョ・ヴァザーリによれば、聖チェチリアの足元に散らばっている楽器は、ラファエロの手になるものではなく、彼の弟子ジョヴァンニ・ダ・ウーディネの手になるものであるという。中央の人物、聖チェチリアは、彼女のイメージが画家の心に呼び起こしたような霊感の中で恍惚としているようにもみえる。彼女の深く、暗色の雄弁な目は上を向き、栗色の髪は額から後方へ結われている。手にはオルガンを持っている。彼女の顔は言わば、その情熱と恍惚感の深さで穏やかなものとなり、生命の温かく、輝かしい光に完全に貫かれている。彼女は天国の音楽を聴いており、私が想像するに、ちょうど歌い終えたところである。というのは、彼女を囲む4人の人物たちは、明らかに態度で彼女を指し示しているからである。特に聖ヨハネは、優しいが情熱的な仕草で、深い感情のために物憂い顔を彼女のほうに向けている。彼女の足元には、壊れて、弦が外れた様々な楽器があるルドルフ・ジョセフ・ローレンツ・シュタイナー講演 第7項トライーニの(79)の画においては、なお、アレゴリー的なものが沸き上がってくるように中心人物を置くという試みがなされているのがわかります、そしてアレゴリー的なものが沸き上がってくるなかで人間の魂的生と全世界(宇宙)との連関を描き出そうと試みられているのです。ラファエロの(「聖チェチリ35」 196ア 196)においてさらに私たちは、やはり中心人物が中央に置かれているのを見ますが、すべては既に、アレゴリー的なものがそこで完全に克服され、アレゴリー的なものが消し去られるまでに至っています、そして今日人々は、この絵がチェリアの祝日によせて制作されたことを確認するためにカレンダーを調べさえすればよいにも関わらず、聖チェチリアによって何が表現されねばならなかったのか議論することさえできる程なのです。さらに、ラファエロがこの素晴らしい画のなかに創り出したものすべてが聖人伝説のなかにあること、けれども彼が自然という形成されたもののなかにに、魂的なものと霊的なものを表現する自然の能力にまで到達していたために、本来はアレゴリー的なものとしてその背後に潜んでいるものがもはや気づかれないほどになっていることが見い出されるでしょう。そして、ミケランジェロとラファエロによって支配されたこの時代に見られる偉大さとは、以前の諸潮流、これらがどのような衝動に由来していたのかを見ることができますが、これらの潮流が完全に克服され、そして、私たちを取り巻く現実の純粋にとらわれのないあの時代にとって純粋にとらわれない観照と再現が、自然の物質上の内実、魂と霊にしたがって、実際に獲得されたということなのです。こんにち研究されたこれらの経過に基づく時代がもたらしたもののなかに、これらの絵画、創造そのものを手がかりに見出せるのは、精神(霊)から発して、精神(霊)を外界にも認識することに通じていくというこのような実行が、進化に先立ってあったのだということです。まず精神(霊)が求められねばならず、それから外界に精神(霊)が見出されます。まず魂が体験されねばならず、それから外界に魂が見い出されます。魂と精神を共にまずそのものとして体験できなければならず、それから外なる自然のなかにも魂と精神が見出されるのです。ですから、チマブエにおいてなおも働きかけていた霊的なものが、ジオットにおいても余波を残していたことがわかります。ジオットは自然のフォルム(形態)をそうすることによって理解するために、それを自然のなかへと携えていくのです。そしてまた、ジオットによって霊的なものを手がかりにさらに放射されていくものが、自然という精神(霊)を理解するために後継者たちによってより多く用いられるのを見ます。アッシジのフランチェスコによって、魂的なもの、つまり人間のなかの魂的なものの把握へと到達したものが、キリスト教的な敬虔さを通じて、フラ・アンジェリコにおけるある種の高みとなって芸術的に表現されるのです。これはまたも放射していって、ボッティチェリにおいて本質的なものをつかみます。私たちは、記憶からとでも申し上げたいのですが、全体から、しかし失われてしまった全体から、途上において直接観るということは失われてしまったガイスト(Geist/ドイツ語で「魂」「精神」「幽霊」)、自然を把握する際にその働きを用いることができるために失われたのですが、このガイストが再び全体において働きかけるために、個々のものを全体へと、組み立てる試みが行われるのを見ます。表現が、アレゴリー的なものが求められ、しかもこの求めが、アレゴリーの克服にともなって自然そのもののなかに表現を見出すことに通じていくようすが見られます。単に観ること、外界をとらわれなく観ることが、これを最初に求めた当人に与えてくれる表現です。自然はアレゴリー的ですが、自然はどこであれアレゴリーを直接押しつけがましく認識させはしません。人間は、まず、ある意味で不器用に(ungeschickt)読むことを学びながら、自然のなかに読み取るべきものを、さまざまに学ばなければなりません。私たちがトレーニの画(79)に見るような芸術家の場合、まだ不器用な自然の読みが見られます。ラファエロの「聖チェチリア」(196)において私たちの目の前にあるのは、もはやそのなかにアレゴリーは一切含まれない生、まだその巧みさの完全な高みへと至っていないアレゴリー一般の持つ干からびたものなど含まれない生なのです。このように、この講演によって、イタリアルネサンスの大いなる芸術期がどのように次第次第に育成されてきたかということについて、ひとつの見方を獲得することができたと思います。私が思いますに、人間の眼差しは繰り返し何度も、ほかならぬこれらの時代とこれらの芸術発展に注がれることでしょう、何故なら、この時代は私たちに、芸術的なファンタジーと、この芸術的ファンタジーを通じてとらわれなく自然を再創造しようとする努力とともに、人間の魂における喜び、叡智、愛の働きと生命を、これほど奥深く見つめさせるからです。それは単に自然の模倣ではなく、人間が自らの魂そのもののうちに見出したものとともに、人間の魂の最も内なる体験に親和するものとして自然のなかにすでにあるものを、自然のなかに再び見出す人間の能力なのです。このことを、今日述べましたことを通じて、単にエピソード的で充分でないやりかたではありますが、表現できたのではないかと思います。第1講 桔第196:ラファエロ-聖チェチリア記:この絵画には、人間の魂的生と全世界(宇宙)との連関を描き出そうと試みられたアレゴリー的な要素が含まれているようです。ラファエロの「聖チェチリア」(196)において、中心人物が中央に置かれているのを見ますが、アレゴリー的な要素が完全に克服され、アレゴリー的なものが消し去られるまでに至っています。この絵画には、聖人伝説のなかにあること、けれども彼が自然という形成されたもののなかにに、魂的なものと霊的なものを表現する自然の能力にまで到達していたために、本来はアレゴリー的なものとしてその背後に潜んでいるものがもはや気づかれないほどになっていることが見い出されるでしょう。人気ブログランキングへ
2024年01月19日
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内的霊的衝動の写しとしての美術史第1講 ドルナハ 1916年10月8日-LXXX以下-3ルドルフ・ジョセフ・ローレンツ・シュタイナー講演 今、私たちが試みなければならなかったのは、さまざまな潮流が、もう一度繰り返しますと、自然主義のなかに入り込んでいこうとした精神(霊、ガイスト/Geist)、魂的なものをいっそう外的な表現に表すことができるようになったことで、表現力においてもますますいっそう写実的になった魂的なもの(das Seelische)、関係性において霊的に働きかけるためにいわば個別性を組み立てていく構成的なもの(das Kompositionelle9、そしてアレゴリー的なもの(das Allegorische)、これらのさまざまな潮流が、いかに個々の衝動として現れてくるかを示すことでした。そしてこのようにして、ミケランジェロとラファエロ、そしてその後継者たちの偉大な創造のなかに表現されるに至ったものが築き上げられたのです。私たちは、まったくもってひとつの霊的なものが、さまざまな道筋で人間を貫き、自然的なものを自らのものにしようとするのを見ます。私たちは、精神(霊)がまず、人間精神を通じて人間のなかに表現されるものを、人間に即して獲得しようと努め、それによって霊的な観照がますますいっそう自然の把握のなかに入り込んでくるのを見ます。次いで私たちは、フラ・アンジェリコやボッティチェリといった芸術家たちの場合のように、魂が入り込んでくるのを見ます、さらに私たちは、構成がもはや何か自明なものとしてヴィジョンから与えられるということのなくなった時代に、霊をふたたび作用させようとする個々の構成の試みを組み合わせることによって、実にラファエロがこれほどの高みに至らせたものを創り出す試みがなされるのを見るのです。私たちは、世界の出来事に語らせようという望みがアレゴリーに通じていったのを見ます、そしてアレゴリーは、またも、みなさんがこの(79フランチェスコ・トライーニ-トマス・アクィナス)の画にごらんになれるように、ボローニヤの「聖チェチリア」の構成のような構成のことのみを考えていただきたいのですが、ラファエロにおいてまた自明の霊性となったものを、根底において写実主義(現実主義)に導くのです。第79:フランチェスコ・トライーニ-トマス・アクィナス哲学・思想ランキング
2024年01月18日
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内的霊的衝動の写しとしての美術史第1講 ドルナハ 1916年10月8日-LXXX以下-2ルドルフ・ジョセフ・ローレンツ・シュタイナー講演 カンポサントの絵画「80ピサ、カンポサント(墓地)死の勝利」に見られるアレゴリーは、84楽しい集い 81狩り 33 220 221 80 同様の絵画から 82物乞いの群 83飛ぶ悪魔、これも同様のアレゴリーです。79フランチェスコ・トライーニ、トマス・アクィナス 34 84 81 82 83 79も同様です。さてここで、アレゴリー的なものがまずこの絵にあるのがおわかりでしょう、なぜなら、スコラ学の教義の作用を描き出そうとされているからです、一方においては、迷信の克服に至るまで地上に降下し、他方では、地上に生きるものが聖なる出来事にまで照射する天の領域にまで上昇するスコラ学の教義の作用をです。つまり私たちは、地上で作用するものが有効に考えられているのを見ます、いわば霊的な地上実質の内部で効力のあったもの、これが、今や現実そのものから採られたアレゴリーによって表現されるのです。つまりこの絵において私たちは、このみなさんに最後に名指されたアレゴリー的な要素が出発点とされているのを見ます、もっとも、ただアレゴリーを表現するためというのではなく、今述べましたように、絶対的に実際に有効と考えられたものを単にアレゴリー的なしかたでそうされているということですが。第80:オルカーニャ-楽しい集い1第81:狩り第82:物乞いの群第83:飛ぶ悪魔哲学・思想ランキング
2024年01月17日
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内的霊的衝動の写しとしての美術史第1講 ドルナハ 1916年10月8日-LXXX以下-1第80 ピサ、カンポサント(墓地)-死の勝利(ピサ、ドゥオモ広場内カンポサント壁画(1355年頃、ブオナミーコ・ブファルマッコ作と推定)記:ピサのドゥオモ広場内にあるカンポサントには、ブオナミーコ・ブファルマッコ作と推定される壁画があります。この壁画は1355年頃に描かれたもので、キリスト教美術における教訓画のテーマである「死の勝利」を描いています。カンポサントは1277年に完成したキリスト教墓地で、現存する最古のものの一つです。13~14世紀に100年以上の歳月をかけて造られ、簡素な外観とは裏腹に、内部建築の美しさ、石棺や石碑、フレスコ画が特徴とします。ピサのドゥオモ広場には、大聖堂、洗礼堂、カンポサント(墓所回廊)があります。ピサの斜塔は、ドゥオーモ・洗礼堂・カンポサイトと共に1987年に世界遺産に登録されてました。このテーマ「死の勝利」が発達した背景は、14世紀中頃のヨーロッパにおけるペストの大流行です。1347年頃にアジアからの貿易船を通じてシチリア島に上陸したペスト(黒死病)は、数年の間にイタリアからヨーロッパ全土へと爆発的に伝染した。当時のイタリアの文化的中心地であったフィレンツェとシエーナでは、人口の約半分を喪失したと言われています。こうした社会情勢の中で、人々の間では「メメント・モリ」(死を記憶せよ羅語/memento mori)の警句が言い習わされるようになった。このような背景のもと、主にイタリアの聖堂におけるフレスコ画として発達したのが、骸骨などの姿で擬人化された「死」が、あらゆる階級の生者を支配しあるいは打ち倒す様子を描いた「死の勝利」のテーマです。同様にペストの蔓延を背景として発達した美術テーマに、骸骨姿の死が生者に語りかけ、やがて老若男女や身分職業を問わずあらゆる人々の手を取り、踊りながら墓地へと導いていく「死の舞踏」があるが、「死の勝利」はより恐怖や凄絶さにあふれたテーマと言える。ウィキメディア・コモンズには、死の勝利 (美術)に関連するカテゴリがあります。イタリアにおける古い作例として、アンドレア・オルカーニャ作のフィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂壁画(1350年頃)がある。この作品は剥落により断片的にしか残っておらず、現在は聖堂の付属美術館に所蔵されている。他に、ブオナミーコ・ブファルマッコ作と推定されるピサのドゥオモ広場内のカンポサントの壁画や、パレルモのスクラファーニ宮殿(英語版)、クルゾーネのディシプリーニ礼拝堂などに作例が見られる。時代が下り、初期フランドル派の画家ピーテル・ブリューゲルは1562年頃に油彩画で死の勝利を描いたが、ブリューゲルは1552年から1554年ないし55年まで長期のイタリア旅行を行っており、このイタリア旅行の間に前述したいずれかの「死の勝利」の作例を目にし影響を受けた可能性が指摘されています。ルドルフ・ジョセフ・ローレンツ・シュタイナー講演 ここに「80ピサ、カンポサント(墓地)死の勝利」この絵を入れましたのは、アレゴリー(寓意/Allegory)的な要素が後々まで作用を及ぼしたのをごらんいただくためです。私は前に、ジオットにおいてアレゴリー的な要素が介入していることに注意を促しました。このアレゴリー的な要素も共に作用し続けています、そして今やこれは、以前の霊的でスピリチュアルな把握の多かれ少なかれ後に残されたものとなっています。抽象的なアレゴリーであるものが、とりわけ、ピサのカンポサント(墓地)の、多くの点において壮麗な絵のなかに見出されるのです。これは前の時代に属しますが、私はこのアレゴリー的な要素を、後になってもなお作用を及ぼしているものとしてお見せしたいと思ったのです。つまり、人間の感情のなかに生きているのは、霊的に自然化され、魂的に自然化された霊的なものです、もはや全体を捉えることの不可能(Nicht-mehr-Erfassenkoennen des Ganzen)であり、構成的なものです、そしてアレゴリー的なものがなおも作用しています。第80:ブオナミーコ・ブファルマッコ-死の勝利(*推定)参照画:ピーテル・ブリューゲル-死の勝利哲学・思想ランキング
2024年01月16日
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内的霊的衝動の写しとしての美術史第1講 ドルナハ 1916年10月8日-CCXX-2・CCXXI第220 ラファエロ-法王ユリウス二世 この「220 ラファエロ 法王ユリウス二世・221 法王レオ十世」では、ラファエロのなかの、ラファエロの魂のなかの霊的な要素がいかに霊的な要素の成果を見出しているか、いかにそれが自然主義となっているかがわかります。記:16世紀初め、サン=ピエトロ聖堂の修築に着手し、ルネサンス美術を保護したユリウス2世はルネサンス期を代表するローマ教皇です。在位は1503~1513年。教皇に選出されると、前教皇アレクサンドル6世の庶子で教皇領で大きな勢力となっていたチェーザレ=ボルジアを捕らえて失脚させた。その後、教皇に敵対的であったヴェネツィア共和国を討つため1508年にフランス王ルイ12世、スペイン王フェルナンド5世、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世とカンブレー同盟を結ぶなど、政略家ぶりを発揮しました。イタリア戦争の一環で、フランス王ルイ12世が北イタリアで勢力を強めると、一転してスペイン、ヴェネティア、スイスと「神聖同盟」を結成、スイス人傭兵を利用してフランス軍と戦い「1512年ラヴェンナの戦い」、その勢力を排除することに成功した。このように、政略的・好戦的な教皇として知られる一方、その名のとおり古代ローマの英雄ユリウス=カエサルを理想として古典古代の美術品を収集、多くの美術家を援助してヴァチカン宮殿を豪華に飾り立てたことでも知られる。その結果、ルネサンスの中心はフィレンツェからローマに移り、その保護を求めて多くの美術家がローマに移住しルネサンスの保護者とされました。このように、政略的・好戦的な教皇として知られる一方、その名のとおり古代ローマの英雄ユリウス=カエサルを理想として古典古代の美術品を収集、多くの美術家を援助してヴァチカン宮殿を豪華に飾り立てたことでも知られる。その結果、ルネサンスの中心はフィレンツェからローマに移り、その保護を求めて多くの美術家がローマに移住した。1506年からサン=ピエトロ大聖堂の改修を開始し、ブラマンテに設計を担当させた。またミケランジェロにシスティナ礼拝堂(ヴァチカン宮殿内の礼拝所)の天井画の製作を発注した。ユリウス2世がラファエロに描かせたヴァチカン宮殿「謁見の間」の大壁画「アテネの学堂」には、古典古代に活躍した哲学者を芸術家が一堂の会した場面を描き、ルネサンスの象徴的作品となります。サン=ピエトロ大聖堂の修築は次のレオ10世に引き継がれます。第221 ラファエロ-法王レオ十世記:ロレンツォ・デ・メディチの息子である教皇レオ10世は、彼の浪費癖、好色癖、そして「神が私たちに教皇制度を与えなすったのだから、それを楽しまない手はないでしょう」のような快楽主義的な発言で知られています。 然し乍ら、ラファエロの1518年の肖像画「ローマ教皇レオ10世とジュリオ・デ・メディチ枢機卿とルイージ・デ・ロッシ枢機卿」を見て判断しようとすると、レオの政治がキリスト教世界を引き裂き、直接プロテスタントの宗教改革に結びついたということは想像できないでしょう。寧ろ、レオと彼の2人の非嫡出子の親族 、左には彼の甥のジュリオ・デ・メディチ (後の教皇クレメンス7世で1527年の悲惨なローマ略奪の責任者) と右には彼のいとこのルイージ・デ・ロッシ枢機卿 は拡張高い勇敢な人物として描かれており彼らがイタリアと全キリスト教世界に投げ入れる混乱の兆しは全く想像させません。第220:ラファエロ-法王ユリウス二世第221:ラファエロ-法王レオ十世 ここではすべてがひとつの統一性から成り、この(74)におけるように個別のものから構築されているものは何もありません。220ラファエロ-法王ユリウス二世・221ラファエロ-法王レオ十世の画風、ここでは、ラファエロのなかの、ラファエロの魂のなかの霊的な要素がいかに霊的な要素の成果を見出しているか、いかにそれが自然主義となっているかがわかります。
2024年01月15日
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内的霊的衝動の写しとしての美術史第1講 ドルナハ 1916年10月8日-CCXX-1記:ルドルフ・ジョセフ・ローレンツ・シュタイナーは、ルネサンス期、ルネサンスは「再生」「復活」などを意味するフランス語であり、一義的には古典古代の文化を復興しようとする文化運動。14世紀にイタリアで始まり、やがて西欧各国に広まったとされる啓蒙運動のなかの芸術、なかでも宗教絵画についての英才の仕上げをラファエロに帰結しているように憶えます。ラファエロは、15~16世紀のイタリア・ルネサンス期に活躍した画家・建築家です。本名はラファエロ・サンティオ(伊:Raffaello Santi/英:Raffaello Sanzio/1483~1520)で、ミケランジェロやレオナルド・ダ・ヴィンチと並んでルネサンスの3大巨匠に数えられています。ラファエロは、明晰で豊麗な、生命感あふれる古典様式を確立し、サンピエトロ大聖堂の造営にも参画しました。代表作には「聖母子像」や壁画「アテネの学堂」など多数の作品があります。ラファエロの作品は、バランスと調和を大切にしたスタイルが特徴で、その優美で美しい人物と完璧な構図は、美術史上最高に名画とされています。西洋美術史においてはレオナルドやミケランジェロ以上に後世に大きな影響をもたらしました。ルネサンス3大巨匠のひとりに数えられるラファエロ・サンティ。女性的で優美な画風で知られ、先人たちが研究した遠近法や解剖学に基づいた人体表現を洗練させ、違和感なく融合させた盛期ルネサンスの完成者でもあります。2020年に没後500年を迎えたラファエロの画業を、改めて振り返ってみましょう。ラファエロ・サンティ(1483-1520)はイタリア中部に位置する文化都市ウルビーノに生まれ、宮廷画家であった父や、画家ペルジーノの元で研鑽を積む。多くの聖母子像を手がけたことから「聖母子の画家」と称され、さらには壁画や建築設計にも取り組んでいました。理想的な女性像と調和のとれた画面構成は、19世紀頃まで西欧絵画の美の基準として扱われ、新古典主義やラファエル前派の画家にまで影響を及ぼしました。ラファエロの異能は21歳の時にフィレンツェを訪れたラファエロは、政庁舎でレオナルド・ダ・ヴィンチとミケランジェロの壁画の競作を見物で花開く。その出来栄えに大いに感動した彼は、その壁画はもちろん、レオナルドの「モナ・リザ」やミケランジェロの「ダヴィデ」などを模写して研究を重ね。レオナルドからは三角形の安定した人物配置や感情豊かな顔や手の表現、ミケランジェロからは動きのある人物のポーズを学んで自分のものとし、繊細で柔和な画風に昇華した。こうして生まれたのが、彼の代名詞でもある聖母子像である。1508年には、25歳で教皇ユリウス2世に招かれローマに移住。ヴァティカン宮殿の壁画やサン・ピエトロ大聖堂の初期設計など、多くの事業を請け負っていたラファエロ。その工房は50人もの弟子や助手を抱える大規模なもので、建築に秀でたジュリオ・ロマーノをはじめ、装飾や版画など得意分野の異なる才能が集まっていた。ラファエロは持ち前のコミュニケーション能力で彼らを統率し、効率的に仕事を進めた。また、ハンサムな顔立ちと優雅な立ち居振る舞いで女性からの人気も高く、生涯独身だったものの、恋の噂は絶えなかった。折(おり)に触れて我々が眼にする教皇居室の装飾壁画「アテネの学堂(1509~1510年頃)」は彼が25歳で教皇居室の装飾責任者に任命された時期のもの。作中に描かれた古代ギリシアの学者たちとその並びは、プラトンが『国家』で言及した「国の守護者に教育すべき七つの自由学芸」を示しているとの説がある。中央左の人物がプラトンだが、そのモデルは敬愛するレオナルドとされる。また、実力ある画家としての自尊心からか、自身の姿も古代ギリシアの画家アペレスとして右端に登場している。ラファエロは熱病により37歳の若さで早世したが、その功績はあまりにも大きい。其の画風や性向も「愛(アガペー)のテーマ」を伏(ふく)流底流にしたものはシュタイナーの霊的精神に影響は語るに尽きない。ルドルフ・ジョセフ・ローレンツ・シュタイナー講演 ここ(44ジオット派 教会の統治)ではすべてがひとつの統一性から成り、この(74ペルジーノ 磔刑)におけるように個別のものから構築されているものは何もありません。参照画:ラファエロ-アテネの学堂哲学・思想ランキング
2024年01月14日
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内的霊的衝動の写しとしての美術史第1講 ドルナハ 1916年10月8日-LXXVIII第78 ペルジーノ-聖ベルナルドのヴィジョン 私たちが前にもフィリッピーノ・リッピ「51聖ベルナルドのヴィジョン」を見たことを憶えていらっしゃいますね、この第78ペルジーノ「聖ベルナルドのヴィジョン」では構成的なものが並外れに前面に出てきています。一方、前の(50の画 *未掲載)では、絵にもたらされるもの、絵のなかに与えられるもののなかで、精神(霊)を活性化させようという試みが見られるという大きな違いをよく考えてみてください。この(78ペルジーノ-聖ベルナルドのヴィジョン画)で私たちは、構成的なものが、なるほど主題として絵の基礎に置かれてはいても、実際は絵全体を貫くことはできていないものが顕れているのが見い出されます。ペルジーノは、魂が真に生じてくるように構成的なものを深めるまでには至っていませんが、この潮流においての構成的なものがこの「77 鍵の譲渡聖」ではとり分け入ってきているのがわかります。つまりラファエロが影響を受けたこの側面から、構成的な要素が入り込んでいるのが見えるのです。ラファエロにおいてみなさんも、この構成的な要素が大きな役割を果たしていることを見出されるでしょう。私たちは、前に見ました構成の場合、ここでと同じしかたで構成的な要素について語ることはできません。構成的なものは、以前においては、ひとつの全体の結果としてありました、ひとつの有機体よりは全体のほうが感じ取られたのです。人間も構成されましたが、人間が頭、腕、脚その他から構成されるとはいえ、それがひとつの構成(コンポジション/Komposition)であると云うことはできません、そうではなく、人間の場合はすべてがひとつの中心点から生じます、そして人間における腕と脚、頭と胴から成る構成、これが自明の全体と感じ取られるのです。この絵において、それは自明の全体とは感じられず、みなさんはまさに構成されたものをお感じになるでしょう。以前の構成は、むしろひとつの統一性から流出したことにお気づきでしょう。ここではみなさんは、全体が組み立てられているのを、したがって真に構成されているのをごらんになるでしょう。つまり私たちは、十三、十四、十五世紀からひとつの潮流が発しているのを見ます、精神(霊)によって自然を獲得しようとし、写実主義(現実主義)の高次の段階に通じていく潮流です。次いで私たちは、魂から自然を獲得しようとする潮流を見ます。さらに私たちは東部イタリアから、ラファエロとラファエロの先駆者ペルジーノの故郷である中部・東部イタリアから、構成的な要素がそれに加わってくるのを見ます、構成的な要素は個々のものから全体へと働きかけていますが、他方、以前のすべての潮流は、なおも全体から個別のものへという働きかけの余韻を有していました。これは宗教的な教会統治の世界への流出が描かれている「44ジオット派-教会の統治」のような構成のなかに、とりわけ強く見出されました。ここではすべてがひとつの統一性から成り、この(74ペルジーノ-磔刑)におけるように個別のものから構築されているものは何もありません。参照図:51フィリッピーノ・リッピ-聖ベルナルドのヴィジョン参照図:77 ペルジーノ-鍵の譲渡(聖ペテロへの天国の鍵の授与)第78:ペルジーノ-聖ベルナルドのヴィジョン
2024年01月13日
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内的霊的衝動の写しとしての美術史第1講 ドルナハ 1916年10月8日-LXXIV・LXXV・LXXVa第74 ペルジーノ-磔刑(ピエトロ・ペルジーノ-処女、聖ヨハネ、聖ヒエロニムス、聖マグダラのマリアとの磔刑第75 ペルジーノ-婚礼第75a ラファエロ-婚礼 ここで私たちはこの古典時代そのもののなかで先に進みましょう。みなさんにお願いしたいのですが、ラファエロの師であったこのペルジーノの絵を、いかに今実際にラファエロ的な芸術が先駆者たちから成長してくるかという観点から観察していただきたいのです。ほかならぬこのペルジーノにおいて、私たちはまたも、新たな要素とでも申し上げたいもの、つまり深い宗教性が登場してくるのを見ることができ、ます、今や構成的なもののなかにも入り込もうとし、ある種の建築的に作用するファンタジーと結びつき、次いで様々に、他ならぬラファエロの偉大さの基礎ともなる深い宗教性を見い出すのです。この「75 ペルジーノ 婚礼 75a ラファエロ 婚礼」、両方の絵をよくごらんいただきますと、一方が形式的に他方から成長してくるのがおわかりでしょう、そしてラファエロが如何に師から出発して偉大さに到達しているかを御覧いただけるでしょう。ラファエロが、私たちが知るところとなりました様々な潮流のきわめて豊かな果実を取り入れることによって、その絵のなかに精神(霊)と魂をもたらし、それを特殊な流派から彼に与えられたあの構成要素とひとつにしているのがおわかりですね。第74:ペルジーノ-磔刑第75:ペルジーノ 婚礼第75a:ラファエロ-婚礼哲学・思想ランキング
2024年01月12日
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内的霊的衝動の写しとしての美術史第1講 ドルナハ 1916年10月8日-MXVI第116 レオナルド-王たちの礼拝記:レオナルド制作(1481年)「王たちの礼拝」多い。は「東方三博士の礼拝(英語: Adoration of the Magi/伊: Adorazione dei Magi)」と呼称されることが多く、レオナルドは1481年にフィレンツェにあるサン・ドナート・ア・スコぺート教会の聖アウグスチノ修道会士から依頼を受けたが、翌年ミラノに出発したため、絵画は未完成のまま残された。遺跡は、マクセンティウスのバジリカを表している可能性があり、中世の伝説によると、ローマ人は、処女が出産するまでバジリカは立ち続けると豪語したと言われる。バジリカは、実際には当時まだ建てられてはいなかったが、キリストの誕生の夜に崩壊したと見なされている。レオナルドが描いた遠近法を使用した準備素描において廃墟は中心的要素であるが、戦闘中の騎手も登場している。中央のヤシの木は、聖母マリアと関係があり、聖母の到来を予見していると信じられている雅歌の「汝はヤシの木のように堂々としている」という一節に由来する。ヤシの木は、また古代ローマの勝利の象徴としても用いられるが、キリスト教では殉教、つまり死に対する勝利を表している。したがって、ヤシは一般的に勝利を表現しているものと言える。 画面中のもう一つの木はイナゴマメ科のものであり、この木の種子は測定の単位として使用され、貴石や宝石を測定する際に使われる。この木とその種は王冠に関連づけられており、キリストが王の中の王として、また聖母が将来の天国の女王であることを示唆している。木はまた、誕生後間もないキリストへの自然からの贈り物であることを仄めかしている。ミケランジェロの『聖家族』と同様に、背景はおそらく異教の世界を表しているが、その世界が前景の出来事、すなわちイエスの誕生によって発足したキリスト教世界に取って代わられることが示唆されている。レオナルドは、明るい色彩を使用して、絵画の前景にいる人物を照らしだしている。イエスと聖母マリアは、実際に、光の色である黄色で塗られている。木は青く塗られており、どんな種類の木の描写であっても青色の選択は珍しい。右側には三十歳のレオナルド・ダ・ヴィンチの最も信憑性のある自画像が描かれているという批評家もいます。未完となった原因は契約問題と言われている。絵を発注した修道院は公証人だった父、セル・ピエロの取引先で、ピエロが勝手に契約した可能性がある。その報酬量は300フィリオー二(日本円で900万ほど)相当の土地で、報酬が現金ではなく土地で支払われる契約だったとされている。後払いでは顔料を買うお金もなかったので、前借りを申し出たが、断られ未完になった。未完となった原因は契約問題と言われている。絵を発注した修道院は公証人だった父、セル・ピエロの取引先で、ピエロが勝手に契約した可能性がある。その報酬量は300フィリオー二(日本円で900万ほど)相当の土地で、報酬が現金ではなく土地で支払われる契約だったとされている。後払いでは顔料を買うお金もなかったので、前借りを申し出たが、断られ未完になった。また、大胆すぎる構図におそれをなした修道院側が、下絵の段階で制作続行を拒否した可能性もある。構図描写は、前景には聖母マリアと幼子と跪いて礼拝したマギが三角の構図で描かれている。彼らの背後には半円的な形で同行している人々が描かれ、その中には若いレオナルドの自画像と思われる人物(右端の羊飼いの若者)も含まれている。後継に広がるのは殺戮の情景。自身の存在を脅かす救世主の誕生を恐れたユダヤ王ヘロデが、幼児を探し出しては殺していったという場面を描いている。通常は老年、壮年、青年の三世代の姿で描かれるマギを、レオナルドは二人の老人と一地人の若者の姿で描いている。あまりに多くの人に過去まれて、どれがマギが一見わからなくなっている。背景左には異教の建物の廃墟があり、その上に修復作業をしている人々の姿が見える。右側には馬に乗って戦う男たちと岩場の風景が描かれている。廃墟は衰退するギリシャ・ローマの異教を象徴している。また、マクセンティウスのバシリカに言及している可能性があり、中世の伝説によれば、ローマ人は処女が出産するまであり、キリスト誕生の夜に崩壊したという(実際に建てられたのはもっと後)。廃墟はレオナルドの透視投影技法で描かれおり、遺跡内には戦闘中の騎手がいる。中央のヤシの木は聖母マリアと関連がある。これは、ソロモンの歌の「あなたはヤシの木のように堂々としている」というフレーズから由来していると言われている。ヤシの木のもう一つの側面として、古代ローマでは勝利の象徴として使われていたのに対し、キリスト教では死に対する殉教の勝利を象徴している。絵に描かれたもう一本の木はカロブ科の木で、この木の種は石や宝石を測定するのに使われている。この木その種子は王冠と関連しており、キリストを王の中の王として、また聖母を将来の天の女王として、また、生まれたばかりのキリストは自然の贈り物であることを暗示している。構図の多くは、北方の芸術家ロヒール・ファン・デル・ウェイデンの初期の作品に影響を受けている。人物と空間の関係、空間と鑑賞者の視点、高い水平線、やや高くなった視点、遠くに後退する空間、風景の中央にある岩の前に置かれた中央の人物群は、すべてファン・デル・ウェイデンの「キリストの埋葬/1460年)からの引用であす。注;マギはマタイ福音書によると、東方でのユダヤの王で、神の子として降誕すると云われています。第116:レオナルド-王たちの礼拝哲学・思想ランキング
2024年01月11日
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内的霊的衝動の写しとしての美術史第1講 ドルナハ 1916年10月8日-CXVIII第118 レオナルド-聖ヒェロニムス 多彩な才能に溢れる天才盛期ルネサンスのイタリアの巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチが寡作ながらもアーティストとして残した油絵具、テンペラ画「荒野の聖ヒエロニムス(制作:1480年-1480年、寸法:1.03 m x 75 cm)」は現在はヴァチカン美術館に展示されています。宗教芸術、主題はキリスト教の聖人である聖ヒエロニムスから取られ、ダ・ヴィンチの指紋が残されていることでも知られています。4世紀の聖職者であり神学者である聖ヒエロニムスは、伝説によるとシリアの砂漠で隠者として暮らし、厳しい禁欲的生活を送ったと伝えられます。彼は強い熱情に何度も襲われ、熱情が去るまで何度も胸を打ったことでも知られます。聖ヒエロニムスは、学者、翻訳家、図書館職員、学生、巡礼者の守護聖人です。聖書をラテン語へと翻訳したウルガタ訳聖書の翻訳者として、しばしば書斎で書き物をする姿で描かれました。なお、17世紀の記録にヴァチカン美術館のバージョンとは異なるダ・ヴィンチの「聖ヒエロニムス」が存在したことも知られているが現存してはいません。主題はキリスト教の聖人である聖ヒエロニムスから取られているのですが未完成のまま放棄された作品で、制作経緯や来歴など多くの点で謎に包まれており興味深い。レオナルド・ダ・ヴィンチの「聖ヒエロニムス」には、足に棘が刺さって苦しむライオンを救ったことにより、生涯ライオンが付き従ったという逸話を取り上げて、其の画法にはスフマート技法と空気遠近法が用いられています。スフマート技法は、輪郭なしに影だけで自然な立体感を表現する技法です。空気遠近法は、距離が遠くなるほど色調が明るくなり、かつ寒色になる技法です。ライオンの身体と尾のしなやかなカーブを確からしい輪郭で描き、また、聖ヒエロニムスの形態は、「岩窟の聖母」の聖母マリアを模しており、首と肩の筋肉の描写は、レオナルドの初期の解剖学的なドローイングで大量のスケッチを描いて、いくつもの構想を考えていました。十字架の前にひざまずいて祈りを捧げる聖ヒエロニムス聖人が衣服を脱いで祈る姿は痛々しく、露わになった痩せた上半身は骨と筋が浮き上がり、その表情は高齢を窺わせるしわを観察することができます。画面端まで伸ばされた右手には石が握られている。この石は聖人が熱情を追い出すために自らの胸を何度も打ちつけていることを表している。胸を叩く際に石を使うという細部は、レオナルドを代表とされる後代の芸術家の案出です。背景は聖人が洞窟の中にいることを示している。画面の左側は開けており、遠方の岩山の風景が粗描きされている。これに対して画面右側の岩場には開口部があり、ジェッソ(石膏)の地塗りの上に教会のファサードを思わせる建築物が素描されている。これはフランス学士院所蔵のレオナルドの手稿Bおよびミラノ時代の手稿に描かれた建築物と密接な関係があるとされます。前景では一頭のライオンが身を横たえて吠えている。対角線に配置されたライオンの身体と尻尾の曲線は聖人の捻れた像とともに躍動感のある動きを作り出している。画面左上ではレオナルドは指を使って空と風景にソフトフォーカス効果を作り出しており、この部分に芸術家の指紋が残されています。この左上の風景や聖ヒエロニムスの膝など、部分的に制作が進行している箇所はあるのですが、全体的には残念ながら粗描きの段階で止まっています。ただし、レオナルドはそれ以降も数回にわたって絵画制作を進めていることが推測され、絵画は当時のフィレンツェではクルミ材を用いることはまれであった二枚のクルミ材をつないだ板に描かれています。第118:レオナルド-聖ヒェロニムス哲学・思想ランキング
2024年01月10日
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内的霊的衝動の写しとしての美術史第1講 ドルナハ 1916年10月8日-LXXXVI第86 レオナルド-自画像 これは少なくともそのものとして見ることができます。記:レオナルド・ダ・ビンチ(英・伊: Leonardo da Vinci フルネーム:Leonardo di ser Piero da Vinci)、イタリアのルネサンス期の画家にして建築家・彫刻家(1452~1519年)は、一般化はしなかったものの最盛期ルネサンス期のイタリアの傑出した博学者であり天才であったことは誰にも異論がないことです。彼の幅広い才能は、絵画・デッサン・工学・科学・理論・彫刻・建築に及び、 当初こそ、芸術的な業績で名声を博しましたが、解剖学、天文学、植物学、地図作成、絵画、古生物学など、さまざまな主題に関する図面やメモが詰まった驚くべきノートのコレクションも残しました。 彼はルネッサンスのヒューマニズムの理想を体現した天才としても広く知られており、その膨大な作品は同時代のミケランジェロに匹敵するほど、後の世代の芸術家に深い影響を与えています。イタリアのヴィンチで未婚の公証人と下層社会階級の女性の間に生まれたレオナルドは、フィレンツェで有名な画家で彫刻家のアンドレア・デル・ヴェロッキオの指導を受けて教育を受けました。 彼はフィレンツェでキャリアをスタートしましたが、ミラノでルドヴィコ・スフォルツァに仕えることに多くの時間を費やしています。 レオナルドは後にフィレンツェとミラノの両方で働き、ローマにも短期間滞在し、多くの模倣者や学生を集めました。 晩年、彼はフランソワ1世からの招待に応じ、1519 年に亡くなるまでフランスに滞在しました。彼の死後、レオナルドの目覚ましい功績、多様な興味、私生活、そして実証的なアプローチは人々を魅了し、後世にインスピレーションを与え続け、彼を著名な人物にしました。 文化的人物評として、レオナルドは美術史上最も偉大な画家の一人として称賛されており、盛期ルネサンス運動の先駆者とみなされることがよくあります。 彼の作品の多くは失われ、彼の作品とされる主要な作品は僅か25点未満にも関わらず、彼は西洋美術において最も影響力のある絵画のいくつかを生み出しました。なかでも彼の象徴的なモナリザは最高傑作であり、世界で最も有名な絵画として知られています。 彼が聖書の場面を描いた「最後の晩餐」は、史上最も広く複製された宗教画であり、また彼のウィトルウィウス的人体図は文化的な象徴となっています。 レオナルドは芸術的天才性に加えて、先見の明のある技術的アイデアでも尊敬されていました。 彼は飛行機械、装甲車両、集中太陽光発電、計算機、二重船体などの発明を概念化しました。 彼の設計の多くはルネサンス期の冶金学や工学における科学的知識が限られていたために実現されなかったり、時代を先取りしたものでしたが、自動ボビン巻き取り機やワイヤー強度試験機など、彼の小規模な発明のいくつかは密かに実用化されました。 レオナルドは、解剖学、土木工学、流体力学、地質学、光学、トライボロジーなどのさまざまな分野で重要な発見をしています。第86:レオナルド-自画像彼の唯一の「自画像」には、向かって右斜め横を向いた老人の頭部が、紙に赤チョークで描かれています。長髪と波打つ長いひげが肩から胸まで垂れ下がっている。ルネサンス期の肖像画ではこのような髪とひげの表現は珍しく、深い知性を持つ人物であることを示唆しています。その顔貌はやや鷲鼻で、額から眉にかけての深いしわ、垂れた下まぶたが表現されている。小鼻から伸びた深いほうれい線のために、上前歯が抜け落ちているかのような印象を与える。前方に向けられた視線は鑑賞者の視線とは交差せず、長いまつげに縁どられた目は厳粛な雰囲気をたたえています。この肖像画は「赤チョークによる男の肖像」とも呼ばれ、1512年に60歳頃のレオナルドが描いた自画像と推定されつつも、作者が誰であるかについては、歴史家や学者たちの間でも今も意見が分かれています。この肖像画は「赤チョークによる男の肖像」とも呼ばれ、1512年に60歳頃のレオナルドが描いた自画像と推定されています。この肖像画は何度も複製され、「ルネサンス・マン」または博学者としてのレオナルドを象徴するイメージが広く定着しています。このドローイングは明瞭な輪郭線を持ち、レオナルドは左利きだったので左手で施されたハッチングで陰影が付けられています。描かれている紙は長年の湿気のために茶色く変色しているのは、紙という素材自体がもろく永続的な保存が困難であることが「Applied Physics Letters」(2014年)に報告されました。参照1:レオナルド-肖像写生参照2:レオナルド-人体参照1:レオナルド-モナリザの神秘哲学・思想ランキング
2024年01月09日
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内的霊的衝動の写しとしての美術史第1講 ドルナハ 1916年10月8日-XCIX・C・第99 レオナルド-晩餐第100 レオナルド-使徒たちの頭部:ユダとペテロ*厚紙にて(以下:101 ヨハネ /102 トマスとヤコブ d./103 ピリポ/104 バルトロマイ/105 ヤコブ d. J./A 106 アンデレ・107 マタイ) 第100で提供したレオナルド 使徒たちの頭部:ユダとペテロの厚紙以下、これらはつまり名高いミラノの絵画、つまり晩餐の、弟子たちの頭部で。、この画はもはやほとんど見ることができず、色彩の痕跡が残っているだけですが、芸術発展のまさにこの大いなる時代において、聖人伝説は、人間の性格を形に仕上げるための基礎を提供しただけであったことを示しています。まさしくレオナルドが「晩餐」のなかで、一人ひとりの人間の性格を研究しているのがわかりますね。そして、彼は人間の性格を個別に研究しようとしたために、非常に長期間、まさにこの驚くべき絵画に取り組みます。ご存じのように、彼はたとえばユダを長期間の仕事の後にも完成できなかったために、依頼者たち、つまり高位聖職者たちを、大いに落胆させました。そして、高位聖職者である僧院長が、絵を完成させるようにと強く迫ったとき、彼はこう言ったのです、「ユダのモデルがいないので、絵を仕上げることができませんでした。けれども今私をせっついておられる僧院長さまがそう見えますので、ユダとして座っていただけますよ。いやはやさぞすばらしいモデルにおなりでしょう」と。記:レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐/The Last Supper Leonardo」は、1495年から1498年にかけて制作された壁画です。イエス・キリストが十字架に磔にされて処刑される前に、12人の弟子たちと開いた食事会を描いた作品で、「モナリザの微笑」と並び美術史に残る傑作と言われます。「最後の晩餐」は、修道院の食堂の壁に描かれていることから、この建物の運命とは切っても切れない関係となり、今日世界遺産となっています。「最後の晩餐」は、ダ・ヴィンチが使用した新しい技法や遠近法と光の利用など、革新的なアイデアが詰まっているという点で、特に評価されています。また、世界最多の登録数を誇るイタリアの世界遺産のなかでも、唯一特定の画家の名を含むものであり、西洋文化におけるレオナルドの存在の大きさを感じさせる作品でもあります。「最後の晩餐」は、独自的な絵画技法で制作されたことでも有名です。西洋絵画では伝統的に「フレスコ画」と呼ばれる技法が用いられてきましたが、ダ・ヴィンチはフレスコ技法ではなく、乾いた漆喰にテンペラで描いており痛みやすいことが難となります。また、絵画が置かれた劣悪な環境も、損傷が激しい理由のひとつです。最後の晩餐が描かれた部屋は食堂として使われていたため、食べ物の湿気や湯気などに見舞われました。1495年に着手し、約3年かけて「最後の晩餐」を完成させました。遅筆で知られるダ・ヴィンチですが、彼にしては速いペースで制作したと言われています。第99:レオナルド-晩餐第100:レオナルド-使徒たちの頭部/ユダとペテロ記:「レオナルド 使徒たちの頭部:ユダとペテロ」は、ミラノにある名高い絵画「晩餐」の弟子たちの頭部を表しています。「最後の晩餐」では、ユダはイエスを敵視していたユダヤの祭司長たちに、イエスを売り渡す引き受けをしています。ユダは13番目に席に着き、後ろの2人の話に気を取られ、イエス・キリストが取ろうとしているパンと同じものに手を伸ばしています。また、ユダは右手にキリストを裏切った報酬である、銀貨30枚が入った袋を握っています。レオナルドは、裏切り者のユダの顔をどう描くかで迷っていたようです。キリストとユダの頭部が最後まで描けずに残っていたとも言われています。第101以下 ヨハネ・102 トマスとヤコブd・103 ピリポ・104 バルトロマイ・105 ヤコブd. J,A・106 アンデレ・107 マタイ哲学・思想ランキング
2024年01月08日
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内的霊的衝動の写しとしての美術史第1講 ドルナハ 1916年10月8日-XCV第95 レオナルド-聖母(リッタの聖母) これはエルミタージュにあります。そして、前に申しましたように、前には別々の道において追求されたすべてが、ここでひとつにされているのがおわかりでしょう。記:「リッタの聖母」は、16世紀イタリアの画家レオナルド・ダ・ヴィンチが1490年から1491年頃に描いたとされる絵画です。幼児キリストに母乳を与える聖母マリアを描いた作品で、「授乳の聖母」とも呼ばれています。19世紀にミラノ貴族のリッタ家が所有していたことから「リッタの聖母」と呼ばれており、現在はサンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館が所蔵しています。この作品は、フィレンツェ滞在中のダ・ヴィンチが制作を開始し、ミラノの工房のスタッフが仕上げたと言われています。青空と山々を彩る風景部分の青い色はマリアの上着の青と対応し、授乳服の赤と対照的な色彩となっています。ダ・ヴィンチの割に滑らかすぎだなと思ったら弟子の手も加わってる。エルミタージュが1865年リッタ公から購入した「リッタの聖母」はレオナルド・ダ・ヴィンチがミラノ大公ロドヴィコモロの宮廷で活動していた時期のもの。 調和のとれた高遮な様式は、ルネサンス時代の特徴である。 聖時の微かな微笑みは、従来の聖母像の特徴の伝統を壊すだけでなく、理想的な素晴らしい像に特別な魅力を与えている。巨伝統的な象徴物を用いた聖母の赤いドレスと青いマントは聖母の衣服であり、イエスの手の中にいる赤い頭のある五色鶸(ひわ)は、十字架に掛けられたイエスが流す血のシンボルです。第95:レオナルド-聖母哲学・思想ランキング
2024年01月07日
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<告:第1講 ドルナハのレオナルド画以降は飛び番・順不同>内的霊的衝動の写しとしての美術史第1講 ドルナハ 1916年10月8日-LXXXVII第87 レオナルド-素描:カリカチュア チェンニ・ディ・ペーポに始まりジヨットの影響を経たルネサンス期の画壇これらすべての統一を、私たちは偉大な芸術家たち、レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロにおいて見ていきます。今、レオナルドのいくつかの絵を私たちに作用させてみましょう、ほかの画においても私たちに立ち現れてくるこれらさまざまの試みの統一総合がいかにレオナルドに現れているか見るためです。レオナルドにおいては、筆致に至るまで、構成と表現に至るまで、霊的なものと魂的なものとの共同作用が高度に現れています。最初の画像(87 レオナルド 素描:カリカチュア)は、レオナルドの素描、線描ですが、これから、彼が今やまったく写実的に人間を研究しようと苦心していたのを御覧になることができるでしょう、しかも前の時代に獲得されたすべてが芸術家に働きかけた時代にです。レオナルドにおいてまさに特徴的なことは、彼がいわば、ラディカルなしかたで人間を描く能力へと向かうことです。いかに彼が人間をまるごと捉えようとし、形を作り上げ、素描のなかにもたらそうと試みるか、これはそのなかの特徴的な絵です。彼は、人間の気分を記録し、研究することで、最高の表現力にまで上昇しようとします。これらすべては、私たちが観察しましたような、人間を霊的を貫くことや魂的に貫くこと、そういったことがまず先に起こったひとつの芸術期の成果としてのみ可能となったのです。注:カリカチュアとは、人物の性格や特徴を際立たせるために誇張や歪曲を施した人物画のこと。 滑稽や風刺の効果を狙って描かれるため、現在ではしばしば戯画、漫画、風刺画などと訳されまた同一視されるが、もともとは16世紀イタリアに出現したと考えられる技法・画風を指して使われた言葉です。記:イタリア・ルネサンスを代表する芸術家レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452~1519年)は、膨大な手稿・スケッチ・素描を残しています。レオナルドは、遠心力を応用したポンプや、コウモリの翼をまねた飛行機の翼やパラシュート・ヘリコプターなども考案しています。レオナルド・ダ・ヴィンチ素描集「英国大室ウィンザー城所蔵」は、ウィンザー城所蔵のレオナルドの全素描700点以上をすべて収録しています。建築、数学、解剖、航空工学など幅広い分野で功績を残しており、科学者、動物学者、植物学者、光学者、天文学者、航空エンジニア、軍事工学者、解剖学者などの顔も持っていました。科学分野では、土木工学、化学、地質学、幾何学、流体力学、数学、機械工学、光学、物理学、火工学、動物学などの才能を発揮しています。第87:レオナルド-素描:カリカチュア哲学・思想ランキング
2024年01月06日
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内的霊的衝動の写しとしての美術史第1講 ドルナハ 1916年10月8日-LXXI・LXXII・LXXIII第71・72・73 ジオット派ボッティチェリ-王たちの礼拝・追悼・マリアの戴冠(*スライドはマグにフィカットの聖母である)記:サンドロ・ボッティチェリは、フィレンツェを中心に活動し、ジョット(ジオット)と略して呼ばれるジョット・ディ・ボンドーネ(Giotto di Bondone)的な宗教画を描いた画家です。ジョットはルネサンス絵画の祖と呼ばれ、ジョットと彼に続く自然主義の画家たちを「フィレンツェ派」と呼びます。フィレンツェ派は、ボッティチェリを最終美としてジオットによって確立された造形伝統を受け継ぎ、15世紀初頭には優れた画家を輩出しました。ボッティチェリは陽気な性格で、冗談やいたずらなどで人々を笑わせ、友人も多かったと言われ、また、知識欲も旺盛でメディチ家に集まった知識人とも交流が深く、神話や哲学、詩の朗読などに夢中になり、そうしたことが作品の傾向によく顯れています。サンドロ・ボッティチェリ(1445/45~1510)は、本名はアレッサンドロ・ディ・マリアーノ・フィリペーピで、皮なめし職人の家に生まれました。ボッティチェリは兄が太っていたことから付いた「小さな樽」という意味のあだ名です。フィリッポ・リッピに師事したのち、アンドレア・デル・ヴェロッキオとの共同制作などに関わり1470年には独立、優雅で美しい聖母や神話の女神を描いた画家として知られ、写実的な手法から官能美と繊細な装飾の手法に移行しました。代表作には『春』、『ヴィーナスの誕生』などがあり、人間美を表現しています。☆シュタイナー講演 今、ボッティチェリからフラ・アンジェリコへとつながる系列を見たわけですが、これはマザッチオやギルランダイオにおいて見い出した精神との対照で、魂的なものを描く上での進展を私たちに作用させてみるためです。これらが、ジオットから発し、もうひとつの領域ではギベルティとドナテッロを経てこれら後者の画家へとつながってくる二つの潮流なのです。さて、今度は発展を前に進んで、これらの前提からルネサンスの偉大な画家たちに移り、そのうちさらにいくつかの絵画を私たちに作用させてみましょう。この(73注:マリアの戴冠ではなくマグにフィカットの聖母)のような絵を前にしてみますと、私はこう申し上げたいのですが、十四世紀から十五世紀、さらには十六世紀へと至るこの時代に、霊的に観照されもの、つまり全体として霊的に観られていたものの描出から、人間的なものへという進行が、まったく並はずれて集中的なしかたで起こったようすがわかります。ギルランダイオのような画家の場合、私たちは、霊的なものが自然のなかに取り入れられ、表現において、表現することにおいて、高い段階にもたらされているのを見、この(73 *マリアの戴冠ではなくマグにフィカットの聖母)では、もうひとつの潮流において、魂的なものが筆致のなかに至るま表現されているのを見ます。私たちはいわば、時代の経過のなかで、人間の形姿の認識、人間的表現の認識が、この時代に地球が天から獲得されるように、人間によって獲得されていくようすを見るのです。私たちはさらに、キリスト教の原理によって代表されるあの深まりが、ますますいっそう背景に退いてゆくとでも申し上げたいようすを見ます、そして今や人間を人間そのものとしてもっと深いしかたで理解しようとする一方、天的なものは前進していくためのひとつの道とみなされました、人間の内なるもの、それは表現され、人間の外なるものと、人間の共同生活において人間の外なるものに関わるもののなかに刻み込まれるのですが、そういう人間の内なるものを表現するためのひとつの道とみなされたのです。きわめてさまざまな道における人間的なものの獲得。これがそもそも、ここでこれほど見事に私たちの前に立ち現れてくるものなのです。第71:ジオット派ボッティチェリ-王たちの礼拝第72:ジオット派ボッティチェリ-追悼第73A:*1マリアの戴冠(*スライドはマグにフィカットの聖母である)第73B:*2マリアの戴冠哲学・思想ランキング
2024年01月04日
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内的霊的衝動の写しとしての美術史第1講 ドルナハ 1916年10月8日-LXVIII-LXIX第68-69 ジオット派フラ・アンジェリコ-最後の審判記:最後の審判(Last Judgement)とは、ゾロアスター教およびアブラハムの宗教、古くは預言者としてのアブラハムに出現したとされる単一の神を指すユダヤ教、キリスト教、イスラーム教が共有する終末論的世界観であり、世界の終焉後に人間が生前の行いを審判され、天国か地獄行きかを決められるという信仰です。 唯一神教における神としては、ユダヤ教のYHVH(エホヴァ、ヤハウェ、ヤーヴェ)、キリスト教の「父なる神・GOD・デウス」、イスラム教のアラーなどがあります。ユダヤ教では、YHVH(ヤーウェ、エホバ)を唯一絶対の神として、天地万物の創造主としています。YHVHは4文字で記され、アドナイとはこれを子音のみ発音したときの読み方とされています。アドナイは「我が主」を意味し、その名を口にするのは畏れ多いとされています。イスラム教では、アッラーを万物を支配する唯一の神としています。アッラーはもともと「神」を意味する普通名詞で、ムハンマドは他の神を否定し、アッラーを唯一の神として教えます。「最後の審判」は、キリスト教の教義上の世界の終末における人類の罪に対する神の審判を背景にしキリストが再臨して死者も生者も裁かれ、天国と地獄とに所属が分けられるという内容を示します。。今の世では罪人が支配し、義人は苦難を強いられているが、終末に際し神により「最後の審判」が行われて両者の運命は逆転し、悪人は滅ぼされ、義人は新しい世での至福の生活に入れられる。なお、終末時にはすでに死んでいた義人が復活して永遠の生命を与えられる、乃至は、義人も罪人も皆復活して審判を受けるとされます。シュタイナーは此れ等を踏まえて、フラ・アンジェリコの「最後の審判」を評価しています。 魂めいたものの何という魔法の息吹がこの絵に注ぎ出されていることでしょう。第68:フラ・アンジェリコ 最後の審判第69:フラ・アンジェリコ 最後の審判第68-69関連図:フラ・アンジェリコ 最後の審判1425–1430年 所蔵:サン・マルコ美術館、フィレンツェ哲学・思想ランキング
2024年01月03日
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内的霊的衝動の写しとしての美術史第1講 ドルナハ 1916年10月8日-LXVII第67 ジオット派フラ・アンジェリコ-マリアの戴冠(Coronation of the Virgin)記:例えれば、中世ヨーロッパ列強の女王戴冠式と見紛うばかりの豪壮華麗さ、聖母マリアは、ここ此の様に天の女王として迎えられたのです。真夜中に天の軍勢を従えて来臨したキリストの腕に抱かれて、聖母の魂は天に昇りました。そして三日後、復活したマリアは魂に肉体をともなって昇天します。そして、聖母の物語もクライマックスを迎え、彼女は天で戴冠するのです。天の讃歌が彼女を迎えます。天使や聖人たちが群れをなし、旧約の中の族長たちがこぞって祝福するなか、キリストが聖母を傍らの玉座に招き、彼女に冠を授けるのです。キリストの前にひざまづいたマリアは、天の女王にふさわしい豪華な衣をまとい、「来たれ、わが選ばれし御方よ。われ汝をわが玉座につかせん」というキリストの言葉そのままを静かに受け入れるのです。 フラ・アンジェリコは、生涯に少なくとも三回、この聖母戴冠をテーマに描いていますが、この作品は最も晩年のものです。ドミニコ会士であった彼の作品は、宗教主題に限られていました。師であるロレンツォ・モナコのゴシック的な優美さがフラ・アンジェリコの大きな特徴ですが、それに加えて人体や空間の三次元的描写、鮮明な色彩によって、ゴシックから一歩踏み出した彼独自の情感に満ちた画風を築き上げたのです。そして、その甘美な作風と高潔な人柄から「天使のような僧」と呼ばれ、キリストの磔刑(たっけい)図を描きながら涙を流したほどに信仰の篤い人物だったと伝えられています。そんなフラ・アンジェリコの描く戴冠図は、華麗な色づかいでまとめられながら、あくまでも夢見るように美しく、そして穏和でやさしい心地良さに輝いているのです。「聖母戴冠」は、聖母マリアが地上での生涯を終えた後、天国で天の女王として冠を授かる様子を描いたものです。この作品の主題は、聖母マリアが霊魂も肉体もともに天に昇(あげ)られた後に、父なる神、もしくは神のひとり子イエスから戴冠を受けるというものです。第67: ジオット派フラ・アンジェリコ-マリアの戴冠(Coronation of the Virgin)1432ウフィツィ美術館参照図: フラ・アンジェリコCoronation of the Virgin-1434–1435年ごろルーヴルの聖母戴冠は、本来、1434年ごろのウフィツィ美術館にある「聖母戴冠」の数年後に描かれたとは考えられていない。ジョン・ポープ・ヘネシーなどの一部の美術史家は、代わりにドメニコ・ヴェネツィアーノの「サンタ・ルチア・デ・マニョーリ祭壇画」(1445年ごろ、ウフィツィ美術館)、またはヴァチカン宮殿でフラ・アンジェリコが描いたニコラウス5世礼拝堂フレスコ画 (1446-1448年)との類似点のために、フラ・アンジェリコがローマを訪れた1450年の制作としている。1395年出生-1455年2月18日死亡。哲学・思想ランキング
2024年01月02日
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内的霊的衝動の写しとしての美術史第1講 ドルナハ 1916年10月8日-LXV・LXVI第65 ジオット派フラ・アンジェリコ-晩餐第66 ジオット派フラ・アンジェリコ-晩餐 私たちが見ました先ほどの「57 ギルランダイオ 晩餐」、実際、自然はいかに霊的に作用するか、自然は、ある特定の出来事において人間が体験するものを、いかに外から人間に刻印するのかという問いに対する答えに到達したわけです。フラ・アンジェリコにおいてはすべての形姿がいかに或るひとつの感情に集中されているか、しかもこの魂的・個人的なものが個々の形姿のなかにいかに十分に具現されているか、おわかりでしょう。ここでは魂が魂的なしかたで生きています。以前の絵画のフラ・アンジェリコの晩餐においては、自然主義的に表現されて、霊的精神が生きていました。ここにおいてみなさんは、このことを筆致に至るまでごらんになれるでしょう、この驚くべき柔らかな筆致を只々ごらんください、そしてこれを以前の「晩餐」と比較してごらんなさい。第65:ジオット派フラ・アンジェリコ-晩餐1 1442参照図1:ジオット派フラ・アンジェリコ-晩餐2 1451-52参照図2:ジオット派フラ・アンジェリコ-晩餐3 1436哲学・思想ランキング
2024年01月01日
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