Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2024年02月23日
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カテゴリ: 絶対存在論
ルドルフ・シュタイナー 初期哲学論文-8
真理と学問
Ⅲ:カント以降の認識論
 カントの欠陥のある問題設定によって、いまやあらゆる後続の認識論者が多かれ少なかれ影響されている。カントの場合には、我々に与えられる対象全てが我々の表象であるという見解が、彼のア・プリオリ主義の結果として現れる。それ以来、今やこの見解がほとんど全ての認識論体系の根本命題であり出発点となった。我々にとって第一にも直接的にも確かなこととして確立しているものは唯一つ、我々は自分の表象について知っているという命題だけである。それは哲学者たちのほとんど一般的に通用する確信となった。G.E.シュルツェは既に 1792年に「エーネジデムス」において、我々の認識の全てはただの表象であり、我々は表象を決して越えられない、と主張している。ショーペンハウアーは彼特有の哲学的パトスでもって、カント哲学の永遠の成果は、世界は「私の表象」だという観点である、という立場を代表している。Ed.v.ハルトマンは、この命題を疑いないものとみなしているため、彼の著作「超越論的実在論の批判的基礎付け」において前提としている読者は、そもそも次のような者のみである。即ち、世界の知覚像を物自体と素朴に同一視することについて批判的にとり組む者、そして、表象行為によって主観的・観念的意識内容として与えられる直観的対象と、表象行為と意識の形式から独立した、即自かつ対自的に存在する事物との絶対的な異質性を明白であるとしている者、そのような読者のみである。即ち、我々に直接的に与えられているものの全体は表象であるとい確信に満ち溢れた読者である。もちろんハルトマンは、この彼の見解を、彼の最新の認識論の著作において、なおも基礎付けようと努めている。先入観なき認識論がそのような基礎付けに対してどのような態度をとるべきかは、我々のさらなる論述が示すであろう。オットー・リープマンは、全ての認識説の神聖にして侵すべからざる至上の根本命題として、「意識は意識自身を飛び越えることができない」と表明している。フォルケルトは、最初の最も直接的な真理とは「全ての我々の知が及ぶのは、さしあたり我々の表象のみである」という判断を、実証主義的認識原理と呼んだ。そして彼は、この「原理を、哲学することの始まりにおける唯一確立されたものとして先端に置き、それから首尾一貫して考え抜く」ような認識論だけを「卓越して批判的」であるとみなした。他の哲学者たちの場合もまた、認識論の先端に置かれる別の主張がなされているのが見出される。例えば、認識論本来の問題は、思考と存在の間の関係や両者の媒介の可能性についての問い、或いはまた、「いかにして存在者は意識を持つに至るのか?」という問いに存する(レームケ)等々という主張である。キルヒマンは、二つの認識論的公理から出発する。「知覚されたものは存在する」と「矛盾は存在しない」である*²⁰。E.L.フィッシャーによれば、認識は事実的なもの、現実的なものの知に存する*²¹。そして彼はこの独断を、次のように似たような主張をするゲーリング同様に検証されていないままにする。「認識とは存在するものを認識することを常に意味し、これは、懐疑主義もカント的批判主義も観念論も否定できない事実である」*²²。フィッシャーとゲーリングの場合には、それがどのような正当性をもって起こりうるかを問うことなしに、これは認識であるとただ定められるのである。
【原注】
*16:ハルトマン『超越論的実在論の批判的基礎付け』序言 p.10
*17:リープマン『現実の分析について』p.28ff
*18:フォルケルト『イマヌエル・カントの認識論』§1
*19:ドルナー『人間の認識』

*21:E.L.フィッシャー『認識論の根本問題』p.385
*22:ゲーリング『批判哲学の体系』第 1部 p.257
 たとえこれらの様々な主張が正しかったとしても、或いは正しい問題設定に導いたとしても、それらは認識論の始まりで全く議論に至ることができなかった。というのも、それらは全て、既に認識の領域の内部に、完全に規定的な洞察として存するからである。私の知は差し当たりただ私の表象にのみ及ぶ、と私が言うとき、それは完全に規定的な認識判断なのである。私はこの命題を通して、私に与えられた世界に述語を、即ち表象の形式において存在を付け加えるのである。しかし、私は一切の認識以前に、私に与えられている事物が表象であるということを、どこから知るように求められているのか。我々は、この命題に至るために人間の精神が取らねばならない道を追求する
とき、この命題を決して認識論の先端として立ててはならないという我々の主張の正当性について、最もよく納得するであろう。この命題はおおよそ、全ての現代的な学問的意識の構成要素となった。現代的な学問的意識をこの命題へと押しやった考量は、かなりの完成度で、Ed.v.ハルトマンの著作「認識論の根本問題」の一章で体系的にまとめ上げられているのが見出せる。それ故、この著作の中で述べられていることは、あの仮定に導くことのできる全ての根拠を検討することを課題とするとき、或る種の手引きとして役立ちうる。これらの根拠は、物理学的なもの、精神物理学的なもの、生理学的なもの、そして本来的に哲学的なものである。たとえば我々が或る音を感受するときに、物理学者は、我々の周囲で起こる現象を観察することによって、この現象の中には、我々が直接音として知覚するものと、たとえどんなにわずかだったとしても似ているどんなものもないという仮定に到達する。外部、つまり我々の周囲の空間には、物体と空気の縦波だけが見い出される。そのことから、我々が普段の生活の中で音と呼ぶものは、あの波動への我々の身体組織の単なる主観的な反応である、と結論付けられる。同様に、光と色、或いは熱が、純粋に主観的な或るものであることが見出される。色の拡散現象、即ち屈折、干渉、偏光の現象は、外部空間における前述した感受の質に、一部は物体、一部は測り知れないほど微細で柔軟な流動物質、即ちエーテルのせいにするように仕向けられていると我々が感じる、何らかの横波が対応しているということを、我々に教える。それに加えて、物理学者は、物体世界における何らかの現象から、空間の中の諸対象の連続性への信仰を放棄せざるを得ず、そして、その現象を、諸部分の間隔との関係においてその大きさが測り知れないほど小さい最小部分(分子・原子)からなる体系へ還元せざるを得ないとみる。そのことから、物体の全ての作用は空虚な空間を通って互いに生じる、従って本来遠隔作用であると結論される。物理学者は、たとえ小さいとしても、物体に接触している皮膚の一部とこの物体そのものとの間には、常に一定の間隔があるはずだから、我々の触覚や熱感覚への物体の作用が生じるのは、直接的な接触によってではないということを正当な仮定だと信じる。そのことから、我々がたとえば物体の硬さ或いは温かさとして感受するものは、空虚な空間を通って作用する物体の分子間力に対する、我々の触覚神経や熱神経の末梢器官の反応に過ぎないということが判明する。 物理学者のこの考量に、特殊な感覚エネルギーに関する学説の中で述べられている精神物理学者の考量が、補足として付け加わる。J・ミュラーは、どの感覚もそれに固有で、その組織によって条件づけられた仕方でのみ刺戟されうるということ、そして外的な印象に対してどんなものが感覚に作用されていようとも、感覚は常に同一の仕方で反応するということを示した。視神経が刺戟されると、我々は光を感受する。神経に作用するものが圧力であるか電流であるか光であるかどうかはどうでもよい。その一方で、同じ外的なプロセスは、あ
れやこれやの感覚によって知覚されるのに応じて、全く異なった感受を生じさせる。そのことから、外的世界の中には唯一つのプロセスだけが、即ち、運動だけが存在するということ、そして我々によって知覚される世界の多様性は、本質的にこのプロセスに対する我々の感覚の反応なのだということが結論付けられている。この見解によれば、我々が知覚しているのは外的世界自体ではな
く、単に我々の中で外的世界によって引き起こされた主観的な感受だけである。生理学の考量もまた、物理学の考量と同じところに立っている。物理学は、知覚と対応する、我々の有機体の外部で起こっている現象を追求する。生理学は、我々の中で何らかの感覚の質が引き起こされる間に起こる、人間固有の身体の中のプロセスを探求しようとする。生理学は表皮が外界の刺戟に対する受容器官を全く有さないということを教える。従って、たとえば、我々の触覚神経の末梢器官が物体の外縁部に接して外的世界の作用によって刺戟されるとするならば、我々の身体の外部にある振動プロセスが、初めに表皮を通して伝わらなければならない。その上、聴覚と視覚の場合には、外的な波動プロセスが神経に到達する前に感覚器官の中の一連の諸器官を通して変化させられる。末梢器官のこの刺戟は、神経を通じて中枢器官にまで伝えられなければならない。そうして、ここで初めてこのプロセス全体が完成しうる。このプロセス全体を通じて、脳の中の純粋に機械的なプロセスに基づいて感受が生み出されるのである。感覚器官に作用する刺戟が被るこの変形を通じて、この刺戟そのものが完全に変化させられるため、最初の感覚への作用と最後に意識の中に現れる感受との間の類似性のいずれの痕跡も拭い去られざるをえないということは明らかである。ハルトマンはこの考察の成果を次のように述べた。「この意識内容は根源的に、魂がそれによって魂の最上部である脳中枢の運動状態に対して反射的に反応するような感受から構成される。しかしこの感受は、感受を引き起こ
す分子の運動状態とはいささかも類似性を持たない」。こうした考えの筋道を最後まで徹底的に考え抜く者は、その者が正しいのであれば、外的な存在と呼ばれうるもののほんの僅かな残余でさえも、我々の意識内容の中に含まれていないであろうということを認めざるを得ない。ハルトマンは、いわゆる「素朴実在論」に対する物理学的な反論と生理学的な反論に、彼が本来の意味で哲学的と呼ぶ反論を更に付け加えている。既に述べた最初の二つの反論を論理的に吟味する場合、我々は次のことに気づく。即ち、我々は結局のところ、我々が、普段の素朴な意識が仮定している外的な物の存在と関連を前提として出発し、そのあとで、どのようにしてこの外的世界が我々の有機的組織のところで我々の意識に届きうるのかを考察するときにのみ、適切な結果を得られるということにである。我々は、こうした外的世界に関する全ての痕跡が、感覚印象から意識へと入るまでの過程で我々にとって
失われ、意識の中には我々の表象しか残っていないということを見てきた。それ故に我々は、我々が実際に持っている外的世界のあの像が、魂によって感受素材に基づいて構成されたということを仮定せざるをえない。最初に視覚の感受と触覚の感受から空間的な世界像が構成され、次いでその世界像に残りの感覚の感受が組み入れられる。我々が諸々の感受の或る特定の複合体をまとまりのあるものと考えるように強制されていると思うならば、我々は、我々が感受の担い手とみなす実体の概念にたどりつく。我々は、ある実体に即して感受の質が消え、他の感受の質がまた現れることに気づくと、そのようなことを、現象世界の中の因果性の法則によって規則づけられた交替のせいにする。従ってこの見解によれば、我々の全世界像は、我々自身の魂の活動によって秩序づけられた主観的な感受内容から構成されている。ハルトマンは次のように言う。「主観が知覚するものは、要するに常にその主観自身の心的状態が変容したものであるにすぎず、それ以外の何ものでもない」と。
【原註】
* 23:Ed.v.ハルトマン『認識論の根本問題』p.37

参照画:G.E.シュルツェ




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最終更新日  2024年02月23日 06時28分50秒
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