もし、私たちがこれらの伝説や伝統からひとりの偉大な天才の仕事に目を移すとすれば、ゲーテが彼自身の多くの感情や考えを注ぎ込んだファウストという人物像を思い出すかも知れません。あらゆる存在に絶望したファウストが今にも自殺しようとするとき、イースターの鐘の音が響き、「涙がわき出て、再び地球が我を抱く。」という叫びが聞こえます。ここで涙はゲーテによって、ファウストが最も苦い絶望を経験した後、彼が世界に戻る道を見出すのを可能にするところの魂の状態を象徴するものとして用いられています。こうして私たちは、ただそれについて考えてみるだけで、笑うことと泣くことが大いなる意義を持つものに関連している、ということを理解します。精神の本性についてあれこれ考えてみることの方が、私たちの周りの身近な世界に現れるところの精神を追求するよりも容易なのですが、私たちが精神を、まず第一に人間の精神を見出すことができるのは他でもなく私たちが笑うことと泣くことと呼ぶあの魂のしぐさの中においてなのです。私たちがそれらのしぐさをある人の内的な精神生活の表現であると見なすのでなければ、それらを理解することはできません。しかしそうするためには、私たちは人間を精神的な存在として受け入れるだけではなく、彼を理解しなければなりません。この冬の連続講義はすべてこの目的のために費やされました。ですから、今はただ、精神科学から見た人間の存在について、ざっと見るだけにしましょう。しかし、これは私たちが笑うことと泣くことについての理解を築く上での基礎となるものです。私たちは、人間をその全体性において観察することにより、彼がその肉体を鉱物界と共有し、そのエーテル体もしくは生命体を植物と共有し、そして、そのアストラル体を動物界と共有していることを見てきました。アストラル体は楽と苦、喜びと悲しみ、恐れと驚き、そして、人間が起きてから寝るまでの間、彼の魂の中に流れ込み、流れ出るあらゆる考えをも担っています。これらは人間の永遠なる三つの鞘であり、その中には人間をして創造における最高のものにしたところの自我が生きています。自我は魂的生活の中で、その三つの構成部分である感覚魂、悟性魂そして意識魂に働きかけます。そして私たちは、いかにそれが人間をしてますますその成就へと近づけるために働いているかを見てきました。では、人間の魂の内における自我の活動の基礎とは何なのでしょうか。それがどのように作用するか、いくつかの例を見てみましょう。自我すなわち人間の最も奥深い精神生活の中心が外的な世界において何らかの対象もしくは存在に出会うと仮定して下さい。自我はその対象もしくは存在に対し、無関心のままに留まることはありません。自我はその出会いが自分を喜ばすかあるいは不機嫌にするかによって何らかの反応を示し、何かを内的に体験します。それは何らかの出来事に狂喜し、また最も深い悲しみへと落ち込むかも知れません。それは恐怖でしり込みし、またその出来事の源泉を愛情を込めて見つめ、抱きしめるかも知れません。そして自我は何であれそれに関係するものを理解し、また理解しないという経験を有することもできます。私たちは、起きてから寝るまでの間の自我の活動についての観察から、それがいかに自らを外的な世界との調和へともたらそうとしているかを見て取ることができます。もし何らかの存在が私たちを喜ばし、ここには何か私たちを暖めるものがあると私たちに感じさせるならば、私たちはそのものとの絆を織りなし、私たちの中から何かがそれに結びつきます。私たちが私たちの環境全体に関して行っているのはこのようなことなのです。私たちは起きている時間の全体を通じて、私たちの内的な魂的生活に関して、私たちの自我とそれ以外の世界との間に調和を創り出すことに関わっているのです。外的世界の対象や存在を通して私たちのところにやって来る経験は、そしてそれは私たちの魂的生活の中で反射されるのですが、自我の住居である魂の三つの構成体だけではなく、アストラル体、エーテル体そして肉体にも働きかけます。私たちは、自我と何らかの対象もしくは存在との間に自我によって確立されるところの関係がアストラル体の感情をかき立て、エーテル体の流れと動きを正すだけではなく、いかに肉体にも影響を及ぼしているかということについて、既にいくつかの例を挙げました。人は何か恐ろしいものが近づいて来るときには青くなるということに気がついていない人がいるでしょうか。これは自我によって形成された自我とその脅かす存在との間の絆が肉体の中に作用し、その当人が青くなるように血の流れに影響を与えたということを意味しています。私たちは逆の効果についても、つまり恥ずかしさで顔を赤らめるということについても触れました。私たちが周囲の誰かと自分との関係はしばらく身を隠していたいようなものであると感じるとき、血は顔へと上って来るのです。これらふたつの例によって、自我と外的世界との関係により一定の影響が血に対して生じることが分かります。自我がアストラル体、エーテル体そして肉体の中でいかに自分を表現するかについて、他にも多くの例を挙げることができるでしょう。自我はそれ自身とその環境との間に調和もしくはある一定の関係を求め、そしてこのことは何らかの結果をもたらします。私たちは、ある場合には、自我と対象もしくは存在との間に正しい関係を打ち立てた、と感じるかも知れません。たとえある存在に恐れを抱くもっともな理由があったとしても、それでもなお、私たちの自我は恐れそのものを含むその環境との調和的な関係にあったと、私たちは後になってからでなければそれをそのような光の下に見ることはできないにしても感じるかも知れません。自我が外的な世界の中で何らかの事物を理解しようとしてそれに最終的に成功するならば、それはその環境と特に正しい調和の中にあると感じます。そのとき自我はそれらの事物との一体性を、あたかもそれがそれ自身から抜け出し、それらの中に自らを浸しているかのように感じ、それ自身がそれらに正しく関係づけられていると感じることができるのです。それは言い換えれば、自我が他の人々と愛情に満ちた関係の中で生き、周囲との調和の中で、幸せと満足を感じているということでしょう。これらの満足の感情は次いでアストラル体そしてエーテル体の中に移行します。しかしながら、自我がこの調和を確立することに失敗し、そのためある意味で普通と呼べるようなものに達しないということが起こるかも知れません。そのときそれは難しい状況にあるところの自分を見出すでしょう。自我が何か理解できない対象もしくは存在に出会う、つまり、それがその存在との正しい関係を見出そうと努力するけれどもうまく行かず、それでもそれに対してはっきりした態度を取らなければならないと仮定しましょう。ひとつの具体的な例として、外的な世界において、私たちの自我がその本性の中に貫き至るほどの価値がないように見えるためにそれを理解したいとは思わないような存在、つまり、そうすることは私たちの知識と理解のための力をあまりに多く引き渡すことを意味すると私たちに感じさせるような存在に私たちが出会うと仮定して下さい。そのような場合、私たちは私たち自身をそれから自由にしておくために、それに対する一種の障壁を打ち立てなければなりません。私たちは、それらから私たちの力をそらすことによってそれらを意識するようになる一方、私たち自身の自意識を高めるのです。そのとき私たちのところへとやって来る感情が解放の感情なのです。このことが生じるとき、超感覚的な観察には、いかに自我がアストラル体をその環境もしくは存在がそれに与えるであろう印象から引き揚げるかが見えます。もちろんその印象は私たちが目を閉じたり耳をふさいだりしない限り、私たちの肉体に刻印されるでしょう。肉体はアストラル体に比べて私たちのコントロール下にあることが少ないために、私たちはアストラル体を肉体から引き揚げ、外的な世界からの印象に曝されないようにしておくのです。もしそうしなければ肉体に関わってそのエネルギーを消耗するであろうアストラル体をこのように引き揚げることは、超感覚的な観察には、アストラル体の膨張のように見えます。すなわち、それはその解放の瞬間に拡張するのです。私たちが私たち自身をある存在よりも上に引き上げるとき、私たちはアストラル体を弾力のある物質のように押し広げ、その通常の緊張を緩めるのです。そうすることによって、それから顔をそむけたいと思っている存在とのいかなる絆からも私たち自身を自由にします。私たちはいわば自分の中に引きこもり、その状況全体から自分を超越させるのです。アストラル体の中で生じるあらゆるものは肉体において表現されることになるのですが、このアストラル体の拡張の肉体的な表現が笑いあるいは微笑みなのです。したがって、この表情は私たちが周囲で起こっていることから私たち自身を超越させていることを示しているのですが、私たちがそうする理由は、私たちが私たちの理解力をそれに適用したくないからであり、私たちの立場から見てそれが正しいことだからです。ですから、私たちがそれを理解しようと意図しないものは何であれ私たちのアストラル体に拡張をもたらし、そしてそれによって笑いを生じさせるというのは本当なのです。風刺新聞が著名人をしばしば巨大な頭と小さな体で描写しますが、これはその時代におけるこれらの人物の重要性をグロテスクに表現しているのです。これに何らかの意味を見出そうとするのは無駄です。何故なら、巨大な頭と小さな体を結びつける法則などないからです。私たちの理性をそれに適用しようとするいかなる試みもエネルギーと心的な力の無駄使いです。満足できる唯一のこととは、それが私たちの肉体に与える印象の上に私たち自身を引き上げ、自我の中で自由になり、そしてアストラル体を拡張させることです。と申しますのも、自我が経験するところのものはまず最初にアストラル体に手渡されますが、それに対応する表情が笑いだからです。ところが、私たちが私たちの魂から必要とするような私たちの環境に対する関係を見出し得ないということが起こるかも知れません。私たちが、私たちの日常生活と密接に関係しているばかりではなく、その親密な愛情から生じる特別な魂的経験とも結びついているところの誰かを長い間愛してきたと仮定しましょう。それからこの人物がしばらくの間私たちから引き離されると仮定します。この喪失とともに私たちの魂的経験が奪われます。つまり、私たち自身と外的世界の存在との間の絆が断ち切られます。この人物と私たちとの関係によって創り出された魂的経験のゆえに、私たちの魂は、当然のことながら、長い間培われてきたこの絆が断ち切られたことによって苦しみます。何かが自我から奪われ、そしてその自我に対する影響がアストラル体に移行します。この場合には、アストラル体はそれから何かが取り去られるために収縮するのです。あるいはもっと正確には、自我がアストラル体を押し縮めるのです。このことは誰かが何かを失ったことによって苦しみや悲しみを被るときにはいつでも超感覚的に観察することができます。ちょうど拡張したアストラル体が緊張を解き、肉体の中に笑いあるいは微笑みという身振りを創り出すように、収縮したアストラル体は肉体のすべての力の中にさらに深く貫き至り、それを自分とともに圧縮します。この収縮の肉体的な表現が涙を流すということなのです。アストラル体はいわば空隙とともに取り残されたため、収縮することによってそれを埋めようとしますが、そのときそれはその周囲にある物質を利用するのです。それは肉体をも縮小させ、そしてその物質を涙の形で絞り出します。では、このような涙とは何なのでしょうか。自我はその悲しみと剥奪の中で何かを失いました。それは貧しくされ、その自我性を通常よりも弱く感じるがゆえに、と申しますのも、この感情の強さはその周囲の世界における経験の豊かさと関連しているからですが、そのためそれは自分自身を引き寄せるのです。私たちは私たちが愛するものに何かを与えるだけではなく、そうすることによって私たち自身の魂を豊かにしているのです。そしてその愛が私たちに与える経験が取り去られ、アストラル体が収縮するとき、それは失った力を自分自身に対するこの圧力によって再び取り戻そうとするのです。それは貧困にされたと感じるがゆえに、再び自分を豊かにしようとします。涙というのは単に流れ出るものではなく、打撃を受けた自我に対する一種の補償なのです。自我は以前には外的な世界によって自分が豊かにされたと感じていました。そしてそれは今や自分で涙を流すことによって強められるのを感じるのです。もし誰かが自意識の衰弱に苦しむならば、彼は流れる涙によって表現される内的な創造行為へと自分を駆り立てることによってこれを補おうとします。涙は無意識的な健康の感情を自我に与えますが、これによって一定のバランスが取り戻されるのです。皆さんは誰でも、いかに人々が悲しみと悲惨の深みにあるときには、涙の中に一種の補償、慰めを見出すかを知っています。皆さんはまた、泣くことができない人々にとっては、いかに悲しみと苦しみがはるかに耐え難いものであるかを知っています。ですから、もし自我が外的な世界との満足のいく関係を達成できない場合には、それは笑いを通して内的な自由へとそれ自身を引き上げ、あるいはまた、剥奪の後、力を獲得するためにそれ自身の中に沈み込むのです。私たちは、笑うことと泣くことの中で自分を表現するのは自我、すなわち人間の中心点である、ということを見てきました。このことからお分かりのように、ある意味で自我が笑いと涙の必要な前提条件である、ということが容易に理解されます。もし私たちが新生児を観察するならば、それは生まれてからの何日間かは笑うことも泣くこともできない、ということが分かります。本当に笑ったり泣いたりするのは36日か40日程度経ってからにすぎません。それは、以前の受肉状態からの自我が、その子の中に生きているにしても、外的な世界との関係を直ちには持とうとしないという理由によります。人間は、ふたつの面から構築される、というような方法で世界の中に置かれます。彼は、一方では、遺伝によって獲得されるあらゆる性質や能力を、父、母、祖父その他から引き継ぎます。これらすべては個性すなわちそれ自身の魂的性質を自ら担い、転生を重ねる自我の作用を受けます。子供が誕生によって存在の中に入っていくとき、私たちは最初、不確かな表情しか見出しません、そして、全く不確かなのは、後になって現れてくる才能、能力そして特殊な性格も同様です。しかし、私たちはやがて、自我がいかに絶えず以前の生から携えてきたところの進歩する力をもって幼児期の組織に働きかけ、遺伝された要素を作り替えるかを観察することができるようになります。遺伝された性質はこうしてある受肉から別の受肉へと移っていく性質と混ぜ合わされるのです。自我は子供の中でこのような仕方で活動的であるのですが、それが肉体と魂を変化させ始めるのにはいくらか時間がかかります。その最初の日々において、子供はその遺伝された特徴のみを示します。その間、自我は、以前の生から携えてきた性質をその不確かな表情に刻印づけることができるようになり、そして、日毎にそして年毎に発達するようになるのを待ちながら、深く隠されたままに留まります。子供が自分に属する個人的な性格を身につけるまでは、笑いと嘆きを通して外的な世界との関係を表現することはできません。と申しますのも、そのためには自分を外的な世界との調和の中に置こうとする自我もしくは個性が要求されるからです。自我だけが笑いと涙の中で自分を表現することができるのです。ですから、私たちが笑うことと泣くことについて考察するときには、人間の最も奥深く、最も内的な精神性を扱っていることになります。人間と動物の間のいかなる真の違いも否定する人たちは、当然のことながら、動物の世界の中に笑うことと泣くことに似たものを見出そうとするでしょう。しかし、これらのことを正しく理解する人は、動物はせいぜい吠える程度で、決して泣くまでには至らない、歯をむいて見せることはできても、決して微笑むことはない、と言ったドイツの詩人に同意するでしょう。ここには深い真実があり、私たちはそれを、動物はそれぞれの人間の中に住む個的な自我性へと自分を引き上げることはない、という言葉で表現することができます。動物は、人間の自我性に属する法則に似ているように見える法則によって支配されていますが、その法則はその動物にとって、その生涯を通して外的なものに留まります。人間と動物との間のこの本質的な差異については既にここで触れられています。すなわち、私たちに動物への関心を持たせるものはそれが属する種から構成されている、ということが語られたのでした。例えば、ライオンとその子孫との間には、人間の両親とその子供たちとの間に見られるような大きな差異はありません。動物の特徴の主なものとは、その型あるいは種の特徴なのです。人間の領域にあっては、各人が彼自身の個性と自分史を持っており、これが私たちの関心を引くのですが、一方、動物にあってはそれは種の歴史なのです。確かに犬や猫の飼い主の中には、彼らのペットの伝記を書くことができると断言する人も多くいるかもしれません。また、私はかつて生徒たちに一本のペンの伝記を定期的に書かせていた校長を知っていました。ある考えがどんな事柄にでも適用できるという事実が重要なのではありません。問題は、私たちがある存在や事柄の本質に理解を持って貫き至る、ということなのです。人間にとっては個人の伝記が重要ですが、動物にとってはそうではありません。何故なら、人間の本質的な部分は生から生へと生き続け、発展する個的なものであるのに対して、動物においては、生き続け、進化するのは種であるからです。精神科学においては、それらの種に情報を伝えるところの持続する要素のことを動物の集合魂もしくは集合自我と呼び、それを現実的なものと見ます。このように私たちは、動物はその自我をそれ自身の外部に有している、と言います。私たちは動物が自我を持っていることを否定するものではなく、動物を外から方向づける集合自我について語るのです。それと対照的に、人間に関しては、私たちは彼の最奥の部分へと貫き至り、彼の周囲の存在たちとの個人的な関係へと入っていくことができるような方法でそれぞれの人間を内側から方向づけるところの個人について語るのです。動物が外的な集合自我の指導を通して確立する関係は一般的な性格を有しています。動物が好んだり、嫌ったり、恐れたりするものはその種に特有のものであり、家畜や人間とともに生きる動物において、わずかに修正されているに過ぎません。人間においては、彼が彼の環境との関係で愛や憎しみ、恐れ、同情や反感として感じるところのものは、彼の個的な自我から湧き出して来ます。ですから、人間がそれによって彼の環境中の何かから自分を解放し、その解放を笑いの中に表現するところの特殊な関係、あるいは逆に、彼が見出し得ない関係を求め、その失望を涙の中に表現する場合、これらすべては人間においてのみ生じることができるのです。子供の個性が動物の段階を越えてそれ自身を明らかにすればするほど、それはますますその人間性を笑いと涙の中に示すようになります。もし私たちが人生についての真の観点を獲得すべきであるならば、人間と動物における骨や筋肉あるいはその他の器官の類似性といったような粗雑な事実に第一義的な重要性を置くべきではありません。私たちは、人間が地上存在の中で最高の地位を占めていることの証明として、彼の本質的な特徴とは何かを、その性質の隠された側面において追求すべきなのです。もし誰かが人間と動物の間の違いを明らかにするという点で、笑いや涙のような事実の重要性を理解できないとすれば、人間をその精神性において理解するようになるために最も問題となる事実へと上昇できないような人は救い難い、と言わざるを得ません。今、私たちが精神科学の光の下に考察している事実はある種の科学的な発見を照らし出すことができるのですが、但し、それはその事実が精神科学的な文脈における大いなる全体性の中に置かれたときに限ります。私たちが笑う人、あるいは泣く人を観察するならば、その呼吸過程に変化が生じているのが分かります。嘆きが涙にまで深まり、アストラル体の収縮へと導くとき、そしてこれによって肉体も収縮するのですが、吸気がますます短く、そして呼気がますます長くなります。笑いにおいては反対のことが起こります。つまり、吸気が長く、呼気が短くなります。ある人のアストラル体が緩み、そしてそれとともに肉体の繊細な部分が緩むとき、その過程は中のすべての空気がポンプで排出された空虚な空間の中に直ちに外の空気が流れ込むのに似ています。笑いにおいては外的な身体性の一種の解放が生じるのですが、そのとき息が長く吸われるのです。泣くときには正反対のことが起こります。私たちはアストラル体を押し縮め、それとともに肉体を押し縮めますが、その収縮が一回の呼気を長く続くようにさせるのです。これもまた、魂の経験が自我によって物理的なものと関係づけられるという、つまり、正に人間の肉体にまでもたらされるというひとつの例なのです。私たちがこれらの生理学的な事実を取り上げるならば、それらは太古の人類の宗教的な文献の中に象徴的に記録されている出来事にすばらしい仕方で光を当てることになります。皆さんはヤハヴェもしくはエホバが生命の息を人間に吹き込み、それによって彼に生きた魂を授けたとき、彼がいかに十全たる人間の地位に引け上げられたかを告げる旧約聖書の一節を思い出されるでしょう。それは自我の誕生が私たちの意識に刻印される瞬間です。このように、旧約聖書の中では、呼吸過程が真の自我性の表現として示され、人間の魂的性質との関係へともたらされているのです。笑うことと泣くことがいかに自我の独特の表現であるかを思い出すとき、私たちは呼吸過程と人間の魂的性質との密接な関係を直ちに理解します。そしてそのとき、私たちは、深く、そして真実の理解が私たちの中に浸透しなければならないという謙遜の気持ちをもって太古の宗教的な文献をこの知識の光の下で眺めるようになります。精神科学にとってはこれらの文献は不可欠ではありません。大災害によってこれらの記録がすべて破壊されたとしても、精神科学的な探求にとっては、それらの根本に横たわるものを自分で発見する手段があるのです。けれども、事実がこの手段によって確認され、そしてその後で、まぎれもなくその同じ事実が古い文献の象徴的で絵画的な言葉によって描写されているのが見出されるとき、それらの記録に対する私たちの理解は大いに高められるのです。私たちは、それらが精神科学的な探求者によって見出されるものに通じていた予言者に起源を有しているに違いないと感じます。精神的な洞察が精神的な洞察と何千年のときを超えて出会うのです。そしてこの知識から、私たちはこれらの記録に対する正しい態度を獲得します。いかに神が人間の中に神自身の生きた息を吹き込んだか、それによって彼が彼自身の内に住む自我を見出すことができるようになったかが語られるとき、私たちはこれらの記録に残された出来事が人間の本性にとっていかに真実であるかを私たちの笑いと涙についての探求に基づいて理解することができるのです。もう一点触れておくことがありますが、ただ簡単に触れるだけにします。そうでなければ、あまりに手を広げすぎることになるでしょう。誰かが私に次のように言うかも知れません。あなたの出発点は間違っていました。あなたは外的な事実から出発すべきだったのです。精神的な要素はそれが純粋に自然の事象として現れるところに求められるべきです。例えば、人がくすぐられたときのようにです。それが笑いに関する最も基本的な事実なのです。あなたはこの事実とあなたの想像力豊かなアストラル体の拡張やその他のものとの折り合いをどのようにつけるのですかと。そうですね、アストラル体の拡張が生じるのは正にそのような場合であり、私が述べたようなことすべてが、ただし、低いレベルにおいてですが、生じることになります。もし誰かが自分の足の裏をくすぐるとしても、彼は何が起こっているかを良く知っており、笑いを強制されるようなことはありません。けれども、彼が誰か他の人にくすぐられるとすれば、彼はそれを見知らぬものの侵入として、理性では理解できないものとして拒絶するでしょう。それから彼の自我は自分を解放し、アストラル体を自由にするためにそれを超越しようとするでしょう。このような不適切な接触からアストラル体を自由にするということが動機のない笑いの中にそれ自身を表現するのです。それは正に解放を、私たちの足をくすぐるという私たちに対する攻撃からの基本的なレベルにおける自我の救出を意味しているのです。冗談や何か滑稽なことに対する笑いも同じレベルにあります。私たちが冗談を聞いて笑うのは、笑いが私たちをそれとの正しい関係にもたらすからです。冗談はまじめな生活においては離ればなれになっているものを相関させます。もしそれらの間の関係を論理的に把握することができるならば、それはこっけいではあり得ないでしょう。冗談は理解ではなく、私たちが混乱状態にない限り、単に一種の遊びを喚起するような関係を打ち立てるのです。私たちはすぐにその遊びの主導権を握っていると感じ、自分自身を自由にし、その冗談の内容から超越します。この解放、すなわち私たち自身を何かの上に上昇させるということは、笑いが起こるときにはいつでも見出されることなのです。しかし、外的世界に対するこの関係は正当なものであるかも知れないし、またそうではないかも知れません。私たちは笑いを通して正しく私たち自身を解放しようとしているのかも知れません。あるいはまた、それに向けられた私たち自身の心が、そこで起こっていることを理解したくないように、あるいは理解できないようにさせているのかも知れません。そのとき、笑いは事物の本性にではなく、私たち自身の限界に起因することになります。このことは、未発達な人間が誰かを理解することができないために彼のことを笑うときに起こります。もし未発達な人間が別の人物の中に、彼が正当で真正なものだと見なしているところのありきたりで俗物的な性質を見いだし損ねるとすれば、彼はその人物を多分、理解したくないために、それを理解しようとする必要がないと考えるかも知れません。ですから、笑いを通して自らを解放するということは、あらゆる場合に容易に習慣になり得るのです。本当にある種の人々にとっては、すべてのことを笑ったり、愚痴をこぼすだけで、とにかく何も理解しようとしないということが当然のことになっているのです。彼らはふわふわとアストラル体をふくらまし、そして笑い続けるのです。あるいはまた、何か日常的な考えはそれを理解しようとするところのいかなる努力にも値しない、という態度が今流行になっているのかも知れません。そのとき人々はあれこれのものに対して優越感を感じ、思わずにんまりするでしょう。このことからお分かりのように、笑いはいつでも正当な留保の感情を表現しているというわけではないのです。留保が不当なものである可能性もあるのです。けれども、笑いに関する基本的な事実がそのことによって影響を受けるわけではありません。あるいは、誰かがこの人間の表現形式を計算ずくで利用するということが起こるかも知れません。話し手が聞き手に対して自分の言葉が持つ効果を、彼らが自分に賛成するかしないかにかかわらず、計算すると考えて下さい。さて、あまりにも取るに足らないことであり、あまりにも聴衆のレベルに比べて程度が低いために聴衆の魂といかなる密接な結びつきも織りなさない、というような仕方で語られることに話し手が言及することが正当なことである場合もあるでしょう。実際、そうすることによって、彼は本当に理解してもらいたい主題を取り巻くところの些細な事柄から聴衆が自由になるのを手助けしているのかも知れないのです。けれどもまた、いつも笑いを自分たちの側に取り込みたいと思っている話し手もいます。私は、彼らが次のように言うのを聞いたことがあります。私が勝つとすれば、私は笑いを巻き起こし、それによって笑った人たちを私の味方ににつけなければならない。何故なら、笑った人たちを味方につけていれば、ほとんど勝ったようなものだからと。このようなことは内的な不正直から出て来ます。何故なら、笑いに訴える人は誰でも、彼の聴衆を何らかのものを越えて上昇させるということを意図した反応を引き起こしているからです。けれども、彼が問題を提示するに当たって、もし、その問題がただ単に些細なことのように見えるレベルにまで引き下げられているというだけの理由で、彼の聴衆がそれを理解しようとせず、それを笑うことができるというような仕方で提示するならば、たとえ聴衆がそれに気付いていないとしても、彼は人間の虚栄心を当てにしているのです。ですから、お分かりのように、この笑いを当てにするということはある種の不正直を含んでいる可能性があるのです。同様に、私が述べたような涙に結びついた満足や幸福の感情を人々の中でかきたてることによって彼らを手中にすることもときとして可能なのです。ある人の前にイマジネーションの中だけで何らかの喪失感が持ち出されるような場合です。そのとき、その人はその何らかのものを見出すことができないのを知りつつそれを渇望することに耽るかも知れません。彼は彼の自我を収縮させることによって自分の自我性が強められるのを感じます。そしてこの種の感情への訴えかけは本当は人間の利己主義への訴えかけなのです。このように、これらの訴えかけの形態はひどく乱用される可能性があるのです。何故なら、涙や笑いにつきものの苦しみや悲しみ、からかいやさげすみはすべて自我の強化や解放に、したがって、人間の自我性に関連しているからです。ですから、そのような訴えかけがなされるとき、それが標的としているのは私たちの利己主義であり、その利己主義が人と人との結びつきを破壊するのです。私たちは、別の連続講義の中で、自我が感覚魂、悟性魂、そして意識魂に働きかけるだけではなく、その働きを通してそれ自身ますます強化され、成就に向けて近づく、ということを見てきました。このことから、泣くことと笑うことが自我の自己教育とその力を強化するための手段になり得るということが容易に分かります。ですから、笑いと涙の中に表現される魂の力を刺激するところのあの演劇の創作が人間の発達に向けての大いなる教育の源泉のひとつとして位置づけられるのは確かです。私たちが悲劇的なドラマを体験するということは、実際、本当にアストラル体を押し縮め、それによって自我に確かさと内的な凝集力を与えるという効果を有しているのです。喜劇はアストラル体を拡張させます。それはそれを見る人が愚行や偶然の一致から自分を超越させるからです。このことから、芸術的な創作行為を通して私たちの魂の前にもたらされるところの悲劇や喜劇がいかに人間の発達と密接に結びついているかを見ることができるのです。人間の本性をその最も詳細な面に至るまで観察する人は誰でも、毎日の経験が最も偉大な事実の理解へと導くということを見出すでしょう。芸術的な作品は、例えば、人生には笑いと涙の間で行ったり来たりしている一種の振り子がある、ということを私たちに教えます。自我は動きの中にあることによってのみ発達することができるのです。もし振り子が静止しているならば、自我は拡張したり、あるいは発達したりすることができず、内的な死に屈することになるでしょう。人間が発達する上で、自我が笑いを通して自らを自由にし、一方では涙を通して自らを追求することができる、というのは正しいことなのです。確かに、これらふたつの極の間にはバランスが見出されなければなりません。それはつまり自我がバランスの上においてのみ完成を見るからであって、決して狂喜と絶望の間を行ったり来たりすることの中においてではないからです。それは、一方の極端へと同じく別の極端へも振れて行く可能性があるような静止点においてのみ自らを見出すことになるでしょう。人間は徐々に彼自身の発達を導く指導者にならなければなりません。もし私たちが笑いと涙を理解するとすれば、私たちはそれらを精神の顕現と見ることができるでしょう。と申しますのも、私たちが、いかに人間が内的な解放の外的な表現を笑いの中に求めるかを、そして一方では、その自我が外的な世界の中である喪失を被った後、いかに彼が涙の中で内的に強められるのを経験するかを認識するときには、人間はいわば透明になるからです。笑いとはそもそも何なのか、というような問いに対して、私たちは次のように答えることができます。それは、人間が自分に値しないものに巻き込まれることなく、決してとりこにされるべきではないものから笑いとともに超越するために、彼が解放に向けて苦闘していることの精神的な表現である、と。同様に、涙は、彼を他の誰かと外的な世界において結びつけていた糸が断ち切られたとき、それでも、彼がその涙のただ中で同様の結びつきを求めているという事実の表現なのです。彼が泣くことを通して彼の自我を強化するとき、彼は実際、自分に次のように言っているのです。私は世界に属している。そして世界は私に属している。何故なら、私はそれから引き離されていることに耐えられないのだからと。さて最後に、私たちはいかにこの解放、つまり、あらゆる下劣で邪悪なものからの超越が、それを見た地上のすべての生き物が狂喜し、一方、邪悪な精神が逃げ出したところの「ツァラツゥストラ・スマイル」の中に表現され得たかを理解することができます。この微笑みは、それを窒息させたかも知れないあらゆるものからの自我の超越を世界史的に象徴するものなのです。そして、存在することは価値がない、もう世界とは関わりたくないというような場面に自我が遭遇し、その後、「世界は私に属し、私は世界に属す。」ということを肯定させるような力が魂の中にわき上がって来るならば、そのとき、この感情は、「涙が溢れて、地球が再び我を抱く。」というゲーテの言葉に直されるのです。この言葉はある確信を、つまり、私たちは地球から締め出されることはできない、私たちは私たちの涙の中でさえ世界との密接な結びつきを、それが正に私たちから取り上げられたように見える瞬間にこそ主張するのだという確信を声にしたものなのです。そしてこの主張はその正当性を世界の深い秘密の中に有しているのです。私たちは人間と世界との結びつきを彼の顔を流れる涙から、あらゆる下劣なものからの解放を彼の表情に浮かんだ微笑みから知るのです。 *本連続講義の第2講は以上ですが、シュタイナーがこの前年の1909年に同じくベルリンで行った連続講義「人間存在とその未来の進化」の第7講も「笑うことと泣くこと」と題されています。この講義は上記の講義とほぼ同じ内容ですが、最後のところが少し異なっています。そしてその部分は大変印象深いところなのですが、何故か上記の1910年の講義では触れられませんでした。そこでその部分だけを付録として以下に訳しておきます。両方の講義を比べてみると、内容はほぼ同じなのに何か少し雰囲気が違うような気がします。英訳のせいなのか、元々そうなっているのかはよく分かりません。 偉大な詩人は傲慢や自我の萎縮に根ざすような種類の悲しみや喜びではなく、自我とその環境との間の関係から生じ、そのバランスが外部から妨害された場合の悲しみや喜びに対して、そしてそれだけが何故、人間が笑ったり泣いたりするのかを説明するのですが、しばしば美しい表現を見出します。私たちがそのことを理解することができるのは、自我と外的世界とのバランスが妨害されるのは外的世界においてであり、そして外的世界によってである、ということを理解するからです。それこそが、人間が笑ったり泣いたりする理由なのです。一方、その理由が人間の中だけにあるとすれば、私たちは彼が何故笑ったり泣いたりするのかを理解できません。何故なら、それはいつでも何も根拠のないエゴイズムだからです。したがって、ホーマーがアンドロマッヘについて、彼女がその夫と赤ん坊の二重のしがらみに捕らわれる場面で、「彼女は泣きながら笑うことができた。」と言うとき、それが心を打つのはこの理由によるのです。これは泣くことに関して何か正常なものを記述するすばらしい方法です。彼女は自分のために笑うのでも泣くのでもありません。彼女が一方では彼女の夫を、他方では彼女の子供を気にかけるとき、外的な世界との正しい関係がそこにあります。そしてここに笑うことと泣くことがお互いにバランスを取るという本当の関係、すなわち、泣きながら微笑み、笑いながら泣くという関係があるのです。純真な子供はしばしばこのような方法で自分を表現します。何故なら、その子の自我は、後に大人になってからのようには硬化しておらず、笑いながら泣き、泣きながら笑うということがまだできるからです。そして、これらのことを理解する人は次のような事実を再び確かめることができます。つまり、笑ったり泣いたりする原因をもはや自分自身の中に求めず、外的な世界の中にそれを見出すという地点に至るまで彼の自我を克服したすべての人もまた泣きながら笑い、笑いながら泣くことができる、という事実をです。実際、私たちの周囲で毎日起こっていることの中に、もし私たちがそれを理解しさえすれば、精神的なものの真の表現があるのです。笑うことと泣くことは何か最高の意味で人間における神的なものの表情と呼ばれ得るものです。 (Rudolf Steiner, The being of man and his future evolutiess, P108-9) 人気ブログランキングへ