Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2024年03月15日
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カテゴリ: 霊魂論
ルドルフ・シュタイナー
「魂生活の変容-経験の道」の第一巻は、心理学やスピリチュアルなテーマに関する書籍
「魂生活の変容-経験の道」(第二巻) (GA59)佐々木義之 訳
この「魂生活の変容-経験の道(第二巻)」(GA59)は、メーリングリストに参加されている佐々木義之さん(E-mail:naomi-s@mvi.biglobe.ne.jp)が、メーリングリスト上に発表してくださっているもので、日本語にはまだ翻訳されたことのない貴重なものです。英訳版からの翻訳で、全部で9講あります。なお、この講義集は、「魂生活の変容-経験の道」の第一巻(GA58)と第二巻(GA59)のうちの第二巻にあたります。
■GA59 「魂の変容、経験の道(第二巻)」
(ベルリン、1910年1月20日-5月12日)
●第一講 精神科学と言語

●第二講 笑うことと泣くこと

●第三講 神秘主義とは何か



●第五講 病気と治療

●第六講 ポジティブな人とネガティブな人

●第七講 不調と心的な障害

●第八講 人間の良心

●第九講 芸術の使命

「魂生活の変容-経験の道」(第二巻)(GA59) 佐々木義之 訳
第一講「精神科学と言語」(1910年1月20日)-1
 人間が自分を表現する様々の仕方をここで使用されている意味での精神科学の観点から観察するのは何か興味深いことです。と申しますのも、私たちがこの連続講義の中で行ってきたように、謂わば人生に様々の側からアプローチし、その様々の側面を観察することでそれについてのある包括的な見方が獲得され得るからです。今日は言語の中に明瞭に示されるところのあの人間精神の普遍的な表現を取り上げましょう。そして次回は、「笑うことと泣くこと」という題名の下に、言語に関連しているけれども、とはいえそれとは基本的に異なる人間表現のいわばバリエーションを見ることにしましょう。私たちが人間の言語についてお話しするとき、私たちはいかに人間のすべての意義、尊厳、そもそもその人間全体が、私たちが言語と呼ぶところのものと関連しているかを十分に感じます。私たちの最奥の存在、私たちのすべての思考、感情そして意志の衝動が私たちの仲間の人間へと流れ出ていくとき、それらは言語を通して私たちを彼らに結びつけるのです。このようにして、私たちは私たちの存在が無限に拡張する可能性、言語を通して私たちの存在を私たちの環境の中へと延ばす能力を感じます。一方、意義深い人物たちの内的な生活の中に入ることができる人であれば誰でも、いかに言語が暴君に、つまり私たちの内的な生活を圧倒する力になり得るかを感じることができるでしょう。私たちは私たちの感情と思考を、すなわち私たちの魂を通過する特別で親密な性格をもったそれらのものを言葉あるいは言語をもってしてはいかに貧弱に、不十分にしか表現することができないかを感じることができます。そして私たちは、私たちがその中に置かれているところの言語でさえいかに思考に関して特定の様式を私たちに押しつけるかを感じることもできます。誰もが、彼の思考に関する限り、いかに言語に依存しているかを意識している必要があります。通常、私たちの概念は言葉に付着しています。そして不完全な発達段階にある人間は言葉あるいは言葉が彼に吹き込むところのものと概念とを混同しがちです。ある人々が、彼らの周りで普通に使われている言葉の中に含まれているものを越えたところに達する概念の骨組みを自分で構築することができない理由はここにあります。そして私たちはいかに共通の言語を話す人々全体の性格が一定の方法でその言語に依存しているかに気付きます。国民的な性格、言語の文脈上の性格をより詳しく観察する人は、人間が彼の魂の内容を音に変化させることができるその仕方が今度は逆に彼の性格の強さや弱さ、彼の気質が表現されるその仕方、そして全体的な存在に関する彼の概念にさえ影響を及ぼすということに気付くに違いありません。言語の構成は国民の性格について多くを告げることができます。そしてひとつの言語がひとつの国民に共通であるがゆえに、個々の人間はいわばその国民の間に卓越する共通の要素、平均的な性質に依存しています。このように人間は一種の圧政、共同体の支配に屈しやすくなっているのです。しかし、もし人が、言語は一方では私たちの個人的な精神生活を、他方では共同体の精神生活を包含しているということに気付くならば、彼は「言語の秘密」と呼ばれるものを何か特別な重要性を有しているものとして理解するようになるでしょう。もし、人間がいかに言語において自らを表現するものであるかを観察するならば、その魂的生活についてかなり多くのことを学ぶことができるのです。言語の秘密、その起源と各時代における発展はいつでもある特定の科学的な専門分野における研究課題であり続けました。しかし私たちの世紀において、これらの専門分野が言語の秘密を暴くことに特に成功したとは言えません。今日私たちが言語とその発達、そしてその人間との関係をこれまで人間とその発達に適用してきた精神科学的な観点からいわば警句的かつ外観的に照らし出そうとしているのはこの理由からです。私たちが対象、出来事、過程を記述するために言葉を使うとき、まず第一に非常に不思議に見えるのは次の関連です。つまり、言葉や文章を構成するある特定の音の結びつきと私たちの内にあり、言葉として表現される対象が意味するところのものとの間のつながりとは何なのでしょうか。この関連で外的な科学は幅広い観察結果をあらゆる方法で結びつけようとしてきましたが、そのような方法は不満足な性格のものであるとも感じられてきました。問題は次のように非常に単純なのですが、それでもそれに答えるのはきわめて困難です。人間が外的な世界のある対象や出来事に直面したとき、何故彼はその対象や出来事の残響として彼自身の内部からあれこれの特定の音を発したのでしょうか。ある一定の観点から見ることによって、ことは全く単純であると考えられました。例えば、言語は元々言語器官の内的な能力によって形成された、つまりこの能力が外的な音として聞こえるようなもの、例えばある動物の出す音、あるいは何かが別の何かにぶつかる音を模倣したのだと考えられたのです。もしくは犬が「わんわん」と鳴くのを聞いた子供がその犬を「わんわん」と呼ぶようにです。そのような言葉の形成は擬音、音の模倣と呼ばれます。これは一定の方向性をもった考え方によって音と言葉を形成する本来の基礎であるとされました。当然のことながら、人間はどうやって音を発さない存在に名前を付けるに至ったのかという問題は答えられないまま残ります。そのような理論の不十分な性格に気付いていた偉大な言語学者マックス・ミューラーはそれを「わんわん」理論と呼んでからかいました。彼は別の理論を打ち立てたのですが、彼の反対者達は今度はそれを「神秘的」(この言葉はそのような意味で使われるべきではないのですが)と呼びました。と申しますのも、マックス・ミューラーは、それぞれの対象がいわばそれ自身の内に何か音のようなものを含んでいる、つまり落とされるガラスばかりではなく、鳴らされる鐘ばかりではなく、ある意味であらゆるものが音を持っているという観点を掲げているからです。そして人間の魂とこの表現要素すなわち対象の本質的な性質のようなものとの間に関係を確立する人間の能力がその魂の中に対象の内的な音存在を表現する能力を呼び起し、そして鐘の本質的要素が「キンコンカン」という音の中で経験されるというようにです。そして、マックス・ミューラーの反対者達は彼のからかいのお返しに彼の理論を「キンコンカン」理論と呼びました。
参照画:マックス・ミューラー



より詳細に検討すれば、人間がものの本性について彼の魂の中で残響のように経験するところのものをこのように外的な方法で性格づけようと試みるときにはいつでも何か不満足なものが残るということが分かります。人間の内的な存在の中へとより深く貫き至ることが要求されるのです。精神科学の観点から見ると基本的に人間は非常に複雑な存在です。彼は彼の肉体を有していますが、それは鉱物界を支配する法則と同じ法則によって支配され、鉱物界と同様に構成されています。同様に、人間は彼の存在における第二の、より高次の構成体であるエーテル体もしくは生命体を有しています。次いで、楽と苦、喜びと悲しみ、本能、願望、熱情の担い手であるアストラル体があります。これは精神科学にとっては人間が目で見、手で触ることができる体よりさらに現実的ではないにしても、それとちょうど同じくらい現実的な人間の構成体のひとつです。そして人間の第四の構成体を私たちは自我の担い手と呼びます。私たちはさらに現段階における人間の発達は自我の働きかけによって他の三つの構成体を変容させることにあるのを見てきました。私たちはまた、未来において自我は、自然あるいは自然の中で活動している精神的な力がこれら三つの人間構成体から作り出したものは何も残っていないというような仕方で、これら三つの構成体を変化させているだろうということも指摘しました。と申しますのも、苦と楽、喜びと悲しみ、イマジネーション、感情、そして知覚の波打つ力の担い手であるアストラル体は元来私たちがそれに参加することなく、つまり私たちの自我のいかなる貢献もなしに創造されたからです。しかし今や、自我は活動的となり、アストラル体のすべての性質と活動を純化し、清め、従属させるというような仕方で働いています。もし自我がアストラル体にわずかしか働きかけていなければ、人間は彼の本能や願望に支配されますが、もしそれが本能や願望を徳へと浄化するならば、そして乱れた思考を論理の糸で秩序づけるならば、その時には、アストラル体は自我が参加することなく作られたものではなく自我の産物へと変化しているでしょう。もし自我がこの仕事を意識的に成し遂げるならば、そしてそれは今日では人間進化の中でスタートが切られたところであるに過ぎないのですが、私たちはこの自我によって意識的に変化させられたアストラル体の部分を「霊我」、あるいは東洋の哲学の用語を使えば、「マナス」と呼びます。自我がアストラル体ばかりではなく、異なる方法、より強力な方法でエーテル体にまで働きかけるとき、私たちは自我によって変化させられたエーテル体の部分を「生命霊」、あるいは東洋の哲学の用語で、「ブッディ」と呼びます。そして最後に、自我が非常に強力になり、これははるかな未来において生じるだけなのですが、肉体を変化させ、その法則を規制し、それに浸透することによって肉体の中に生きるあらゆるものを支配するとき、私たちはこの肉体の部分を「霊人」、あるいはまたこの働きは呼吸過程をコントロールすることから始まるゆえに、東洋の哲学の用語で「アートマン」と呼びます。ドイツ語のatmen、「呼吸する」と比較して下さい。このように、私たちは人間を最初は四つの構成体、つまり、肉体、エーテル体、アストラル体そして自我から構成されていると見ます。そして過去に由来する私たちの存在の三つの構成体と同様に、私たちは私たちの自我の働きによって創造され、未来に向かって発展する人間の三つの構成体について語ることができます。こうして私たちは肉体、エーテル体、アストラル体に霊我、生命霊、霊人を加えることによって七つの構成体から成る人間について語ることができます。しかし、私たちがこれら最後の三つの構成体を何かはるかな存在であると、つまり人類の未来の進化に属するものと考えるとき、人間はある意味で既に現在においてもそのような発展のための準備をしている、ということが付け加えられなければなりません。人間が彼の自我によって意識的に肉体、エーテル体、アストラル体に働きかけるのははるかな未来においてに過ぎませんが、自我は既に無意識の中で、つまり充分な意識のない状態で人間存在のこれら三つの構成体をまだぼんやりとした活動に基づいて変化させつつあります。その結果は既に存在しています。以前の講義において、私たちが人間の内的な構成体として記述したところのものは、ひとえに自我によるこの働きのゆえに生じることができたのです。それによってアストラル体からは感覚魂が感覚体のいわば内的な鏡像として形作られました。感覚体が(感覚体とアストラル体は人間に関する限り同意語です。感覚体なしには私たちは満足というものを有することはないでしょう。)満足を伝える一方、それは願望として魂の中に反映されます。ですからそのとき私たちが魂に帰するのは願望です。このようにしてふたつのものが、つまり、アストラル体と変化したアストラル体あるいは感覚魂がお互いに属すことになります。満足と願望がお互いに属しているようにです。同様に、自我は過去において既にエーテル体に働きかけていました。自我が人間の魂の中に悟性魂もしくは心魂を内的に創造したのです。このように記憶の担い手でもある悟性魂は自我によるエーテル体の無意識的な変化と結びつけられています。そして最後に、自我は過去に肉体の変化に向けても働きかけ、人間が今日の形態において存在することができるようにしました。その変化の結果が意識魂であり、それが人間に外的な事物についての知識を獲得することができるようにさせるのです。このように七つの構成体からなる人間は次のように性格づけることができます。自我の無意識的な準備活動を通して三つの魂の構成体、すなわち感覚魂、悟性魂そして意識魂が創造されたと。
参照画:Mikrokosmos1





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最終更新日  2024年03月17日 06時02分34秒
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