Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

2024年05月18日
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カテゴリ: 霊魂論
ルドルフ・シュタイナー
人智学の光に照らした世界史 (GA233)翻訳紹介:yucca
第9講  1924/1/1 ドルナハ 
 今、私たちは、人智学運動のための力強く重要な出発点とせねばならないこの会議の最終回に集っておりますので、この講義を次のように展開させていただきたいと思います、つまりこの講義がその衝動にしたがって、この連続講義によって与えられたさまざまな観点に内的につながりながらも、他方においては、ある意味で感受力に応じて、とでも申し上げたいしかたで、未来を、とりわけ人智学的努力の未来を示唆することもできるように、そのように展開させていただきたいのです。今日世界を眺めますと、なるほどもう数年来、きわめて夥しい破壊的様相が現れています。西の文明がさらにいかなる破滅の淵へと導かれるかを予感させる諸々の力が働いています。けれども、こう言ってよいかもしれません、生活のきわめてさまざまな分野においていわば外的な主導権を握っている人々を直視してみれば、これらの人々がいかに恐るべき宇宙的眠りにとらわれているかに気づくだろうと。彼らはほぼ次のように考えます。そしてつい最近までたいていの人はこう考えていました。十九世紀まで、人類は理解力と観照に関しては素朴で子供じみていたと。それからきわめてさまざまな分野に近代科学が到来した。そして今や、末永く真実として保存されねばならないものがきっとあるのだと。このように考える人たちは実にとほうもない高慢のなかに生きているのですが、ただそのことをわかっておりません。これに対して、今日の人類の内部には、事態はやはり、私がたった今大多数の人々の意見として示したようなものではないという何らかの予感が現れることもあるのです。少し前にドイツで、ヴォルフ事務所によって企画されたあの講演(☆1)を行うことができ、非常に多くの聴衆を得て、実際いかに人智学(アントロポゾフィー)が求められているか、少なからぬ人が気づいたわけですが、このとき、数多くのたわいない敵対の声に混ざって、ひとつの声が発せられました、なるほどほかのものに比べて取り立てて内容的に思慮深いところはないのですが、それでも独特の予感を示している声です。それは新聞の小記事で、私がベルリンで行うことのできた講演のひとつが引き合いに出されていました。その新聞の論評というのはこうでした、このようなこと、私があの時ベルリンでの講演で述べたようなことですが、それを傾聴するなら、人間たちを今までとは異なる霊性へと駆り立てる何かが、単に地上のみならず、私はほぼその記事どおり引用しています、全宇宙において起こっているということに気づかされるだろうと。今、単に地上的な衝動のみならず、いわば宇宙の諸力が、人間に何かを要求している、宇宙における一種の革命を、その成果がまさに新たな霊性への努力でなければならない一種の革命を要求していることがわかると。ともかくもこのような声がありました、そしてこれは実際注目すべきことです。と申しますのも、今や私たちがドルナハから始めようとするものに正しい衝動を与えなければならないもの、それは、私がここ数日間さまざまな観点から主張しましたように、地上で芽生えた衝動ではなく、霊的世界で芽生えた衝動でなければならないからです。私たちはここで、霊的世界からの衝動に従う力を発達させようとしているのです。ですから私は、このクリスマス会議の期間中夕方の講義で、歴史的進化のなかにあったさまざまな衝動についてお話ししました、霊的衝動を受け入れるために心を開くことができるようにです、まず地上世界へと流れ込ませなければならず、地上世界そのものにとらえられてはならない霊的衝動を。と申しますのも、今まで正しい意味で地上世界が担ったものはすべて、霊的世界に起源を有していたからです。そして私たちが地上世界のために実り多いことを成し遂げるべく定められているなら、そのための衝動は霊的世界から取ってこられねばなりません。このことは、愛する友人の皆さん、この会議から今後の活動のなかに私たちが持ち帰るべき推進力が、いかに大きな責任と結びつかねばならないかを指摘させずにはおかないのです。この会議を通じて私たちに大きな責任として負わせられるもののそばに、数分ばかりとどまらせてください。過去数十年間、霊的世界に対するある感覚をもつひとは、幾人もの人物のそばを通り過ぎることができたでしょう、霊的に観察し、この観察から地球の人類に到来しつつある運命に対して辛い感情を覚えながら。まさに霊において可能なあのしかたで地上の同胞のそばを通り過ぎ、そしてこうした人々を観察することができたでしょう、睡眠中に物質体とエーテル体を去り、自我とアストラル体とともに霊的世界に滞在しているときのこうした人々を。過去数十年間、人々が眠っている間の自我とアストラル体の運命の上方を逍遙するのですが、これがすでに、こういうことを知ることができる人に対して責任の重さを指摘する経験へのきっかけだったのです。眠りについてから目覚めるまで物質体とエーテル体を離れていたこれらの魂が、それからしばしば境域を守る者(境域の守護霊/Hueter der Schwelle)へと近づいていくのが見られました。この霊的世界への境域の守護者は、人類進化の経過にともない、きわめて多種多様に人間の意識の前に登場しました。少なからぬ伝説、神話、なぜならもっとも重要な事柄は、歴史的伝承という形式ではなく、こういう形で維持されるのが常なのですから、それが、かつての時代において、あれこれの人物が境域の守護者と出会い、そしてこの守護者から、霊的世界へといかに参入し、物質界へとまたもどってくるべきか教えられたことを示しています。と申しますのも、霊的世界への正しい参入にはすべて、どの瞬間においても物質界へと帰還することができるという可能性がともなっていなければならないからです、夢想家ではなく、夢想的な神秘家ではなく、まったく実際的で思慮深い人間として物質界のなかに現実的にしっかりと両脚で立つ可能性が。結局のところ、霊的世界への参入を目指す何千年にもわたる人間の努力のすべてを通じて境域の守護者に対して求められたのはこのことでした。けれどもとりわけ十九世紀の最後の三分の一の時期には、目覚めた状態で境域の守護者のところまで達する人間はほとんど見られなくなりました。何らかの形で境域の守護者のかたわらを通過することが歴史的に全人類に課せられている現代においては。しかし、申しましたように、霊的世界のなかをふさわしく逍遙してみると、眠っている魂が自我およびアストラル体として境域の守護者に近づくのがますますいっそう見出されます。今日得ることのできる重要な形象(光景)とは、目覚めた状態では境域の守護者に近づく力を持たないため、睡眠中に接近してくる、眠れる人間の魂集団に取り囲まれた厳格な境域の守護者なのです。そしてそのとき起こっている光景を見ると、不可欠の大きな責任の芽生えと名づけたいものと結びついている考えに至ります。このように眠った状態で境域の守護者に近づく魂たちは、人間が睡眠中に有している意識、目覚めた意識にとっては無意識的かあるいは下意識的なものをもって、霊的世界への参入を、境域を踏み越えることを要求します。そして数え切れないほど多くの場合、厳格な境域の守護者の声が聴こえます。お前はお前自身の救済のために境域を踏み越えることは許されない、お前は霊界への参入を許されない、お前は戻らなければならないと。と申しますのも、境域の守護者がこういう魂たちにあっさりと霊的世界への参入を許すとしたら、こういう魂たちは、境域を通過し、今日の学校、今日の教育、今日の文明に与えられた概念とともに、霊的世界に参入してしまうだろうからです、今日人間が六歳から結局は地上生活が終わるまでの間、それとともに成長していかざるを得ない概念や理念とともにです。これらの概念や理念にはこういう特性があります、現代の文明や学校を通じてこれらの概念や理念とともに人はこうなったわけですが、こういう概念や理念をもって霊的世界に参入すると、人は魂的に麻痺してしまうのです。すると思考も理念も空虚な状態で物質的世界に戻ってくることになるでしょう。もし境域の守護者がこれらの魂を、現代の人間たちの多くの魂を、厳格に突き返さないなら、これらの魂を霊的世界に入らせてしまうなら、これらの魂は、目覚めて再び帰還するとき、決定的な目覚めの状態で戻ってくるとき、こういう感情を持つことでしょう。私は考えることなどできない、私の思考は私の脳をとらえない、私は考えることなく世界を歩いて行くしかないと。と申しますのも、今日人間があらゆるものに結びつけている抽象的な理念の世界とは、その理念とともに霊的世界に入っていくことはできても、その理念とともに出てくることはできないというものだからです。そして、今日ふつう思われている以上に数多くの魂が今日睡眠中に実際に体験しているこの光景を見ると、人はこう言うのです、おお、これらの魂が睡眠中に体験していることを、死においても体験しなくてすむよう、これらの魂たちを守ることに成功しさえしたらと。と申しますのも、このように境域の守護者の前で体験される状態がじゅうぶん長く続いていくとしたら、すなわち、人間の文明が、今日学校で受容され、文明を通じて受け継がれ保存されるもののもとに長くとどまるとしたら、眠りから生が生じるようになるでしょうから。人間の魂は死の門を通過して霊的世界に入っていくでしょうが、理念の力をふたたび次の地上生へともたらすことはできないでしょう。今日のような思考とともに霊的世界に入っていくことはできますが、その思考とともにまた出てくることはできないからです。魂的に麻痺した状態で再び出てくることしかできません。よろしいですか、現在の文明は、これほど長期にわたって育成されてきた霊的生活のこういう形式に基づいていますが、生はこの形式には基礎を置くことはできないのです。この文明はしばらく続いていくでしょう。魂はまさに目覚めている間は、境域の守護者について何ら予感することもなく、麻痺してしまわないように睡眠中に境域の守護者に拒絶され、とどのつまり「*鯔の詰まり」、未来において、この未来の地上生のなかで知性も、人生における理念も示すことのない種類の人間が生まれるでしょう、そして、思考は、理念のなかの生命は、地上から消えてしまうでしょう。地球は、病的な、単に本能的な人類を住まわせるしかなくなるでしょう。理念の力に導かれることのない、劣悪な感情と情動だけが人類進化のなかに蔓延(はびこ)るでしょう。そう、悲惨な形象(光景)が霊視する者の前に現れるのは、単に描写しましたようなしかたで、霊界に参入できない境域の守護者の前にたたずんでいる魂たちを観察することによってのみではありません、別の関連においても現れるのです。特徴をお話ししましたあの逍遙、境域の守護者の前の眠っている人間の魂を観察することのできるあの逍遙の際に、今度は西ではなく、東の文明に起源を持つ人類を見てみますと、そのような東の人類を見てみますと、彼らから、西の全文明に対する恐るべき非難のように霊の声が高まってくるのが聞こえます。「見るがいい」このようなことが続けば、今日生きている人間たちが新たに地上に受肉して現れるとき、もう地球は荒れ果てているだろうと。人間たちは理念を持たず、本能のなかでのみ生きるだろう。お前たちも落ちぶれたものだ、お前たちが東洋の古の霊(Spiritualitaet)にそむいたからだと。実際のところ、人間の課題であるものにとって、霊的世界への私が描写しましたこのような眼差しこそが、強い責任の所在を明白に示すことができるのです。そしてここドルナハには、それを聴きたいと思う人たちにとって、霊的世界におけるあらゆる重要な直接的体験について語られることのできる場所がなければなりません。ここは単に、思案の限りを尽くし論理を操る経験的な現代の科学性のなかに、霊的なもののかすかな痕跡があそこあるいはここにあるということを示唆する力が見出されるだけの場所でなければならないというのではありません。ドルナハがその課題を実現しようとするなら、ここは、霊的世界において歴史的に生じるもの、霊的世界で衝動として起こり次いで自然的存在のなかに入り込んでいって自然を支配するものによって開かれていなければなりません、ドルナハにおいては、真の体験について、真の力について、人間の霊的世界での真の本質について聞くことができなければなりません。ここは真の精神(霊)科学の大学でなければなりません。そして、私が描写しましたように眠っている人間を厳格な境域の守護者の前に導いていく今日の科学性の要請を前にして、私たちは今後、退却することは許されません。ドルナハにおいていわば、これは霊的な意味で申し上げたいのですが、霊的世界に真正面から真に対峙し、霊的世界について経験する力を獲得することができなければならないのです。ですから、ここで今日の科学理論の不十分さについて論理を弄ぶ長弁舌を振いたいわけではありません、そうではなく人間が通常の学校のなかにその末端の見られる科学理論に貫かれて、どういう状態で境域の守護者の前にやってくるか、そのことに注意を喚起しなければならなかったのです。今この会議に際して、一度このことを真剣に自らの魂に対して認めたなら、このクリスマス会議は力強い衝動を魂のなかに送り込むことでしょう、そしてこの衝動はこれらの魂を今日人類に必要な力強い働きへと導いていくことができるでしょう、人間たちが真に境域の守護者に出会うことができ、つまり、文明そのものが、境域の守護者の前で耐えられる文明になるような次の受肉を人間たち見出すために必要な働きへと。今日の文明を以前の文明と比べてみてごらんなさい。かつてのあらゆる文明には、まず超感覚的世界へ、神々へと上昇してゆく概念、理念、つまり産出し、創造し、生み出す世界へと上昇していく概念、理念がありました。次いで、仰ぎ見るなかでとりわけ神々に属している概念とともに、ひとは地上世界を見下ろし、今度はこの地上世界をも神々にふさわしい概念と理念で理解することができたのです。神々にふさわしく神々に値するよう育成されたこれらの理念とともに境域の守護者の前にやってくると、境域の守護者はそのひとにこう言ったのです、お前は通過することができる、地上生の間に物質体のなかですでに超感覚的世界に方向づけられたものを、お前は超感覚的世界のなかへと携えていくからだと。それなら、物質的ー感覚的世界に帰還するときにも、超感覚的世界を見ることによって麻痺させられないための力がお前に残されるだろうと。今日人間は、時代の精神にしたがって単に物質的ー感覚的世界にのみ適用しようとする概念と理念を発達させています。これらの概念理念は、ありとあらゆる計量できるもの、測定できるものその他を扱いますが、ただ神々を扱うことはできません。これらの概念理念は神々にふさわしくありません、神々に値しないのです。それゆえに、神々に値せず神々にふさわしくない理念の唯物主義にまったく陥ってしまった魂たちに雷のような声が轟きます、眠りながら境域の守護者のところを通りかかるとき彼らに対して雷のような声が轟くのです、境域を越えてはならぬ!と。お前はお前の理念を感覚界に対して誤って用いた。それゆえお前はお前の理念とともに感覚界にとどまらねばならない、魂的に麻痺してしまいたくないなら、お前はその理念とともに神々の世界に入ることはできないと。よろしいですか、こういう事柄について語られねばなりません、それについてあれこれ考えをこね回すためにではなく、その心情が、これらの事柄によって貫かれ、浸透され、かくも厳粛な人智学協会クリスマス会議より持ち帰るべき正しい気分に至るために、語られねばならないのです。と申しますのも、私たちが持ち帰るほかのすべてにもまして重要になるのは、私たちが持ち帰る気分、ドルナハにおいて、霊的認識の中心が生み出されるだろうという確信を与える気分だからです。ですから、今日の午前、ここドルナハにおいて育成されるべきひとつの分野、つまり医学の分野のために、ツァイルマンス博士(☆2)によって次のように語られたことは、非常に真実味をもって響きました、つまり、今日、通常の科学の方からはもはや、ここドルナハで基礎固めをしなければならないものへと橋を架けることはできない、ということです。私たちの地盤の上に医学的に育つものについて、私たちが、我々の論文は現代の臨床的な要求にも耐えうると自負している、というように述べるなら、私たちの本来の課題である事柄をもってしては、私たちは決して特定の目標に到達することはないでしょう、なぜなら、そうすればほかの人々はこう言うだろうからです、ああ、新薬ですね、我々ももう新薬を造りましたよと。けれどもやはり重要なのは、人智学の生のなかに、医学のような生の実践の一部門が取り入れられるだろうということです。このことを私は今日の午前ツァイルマンス博士(☆2)の切望と解しました。と申しますのも、この目標に対し彼はこう語ったからです、今日医者になった人は、私はまさしく医者になったと言います。けれども彼は、新たな世界の一角から衝動を与える何かを切望しているのですと。そしてよろしいですか、医学の分野では、将来疑問の余地なく、これをここドルナハから実行していかなければなりません、人智学的なもののなかに胚胎されていた人智学的活動の数多くの他部門がまさに活動してきたように、そして今、私の協力者であるヴェークマン博士(☆3)とともに、まさにあの人智学そのものから形成される医学システム、人類はこれを必要とし、まずこれが人類の前にあらわれるでしょうが、あの医学システムが作り上げられたように。同様に私が意図しているのは、あれほど祝福に満ちた活動をしているアーレスハイムの臨床医療研究所との緊密な関係を、ゲーテアヌムとこの研究所とのできるだけ密接な結びつきを、できるだけすみやかに近い将来確立することです、そうすれば実際に、そこでの成果が人智学の真の方向づけのラインに乗っていくことでしょう。これはまた、ヴェークマン博士自身の意図するところでもあります。さて、これとともに、ツァイルマンス博士はある分野のために、ドルナハの理事会が人智学的活動の今やあらゆる分野において課題とするであろうことを指摘されました。したがってどういう事情なのか、今後わかってくるでしょう。ひとはこうは言わないでしょう、あそこにオイリュトミーを持っていこう、人々がまずオイリュトミーを見て、人智学について何も知らないなら、オイリュトミーは人々の気に入るだろう。それからその後、オイリュトミーが気に入ったのでひょっとしたら彼らはやってくるかもしれない、そしてオイリュトミーの背後に人智学があることを知るかもしれない、そうしたら人智学も彼らの気に入るだろうと。あるいは、まず最初に、人々に薬の実用を示さなければならない、そうすれば人々はこれを買うだろう。そうすれば彼らは後になっていつか、その薬の背後に人智学が潜んでいると知るだろう。そうすればそのときは彼らも人智学に近づくだろうと。
注:オイリュトミー(Eurythmie)は、ドイツの哲学者・教育者ルドルフ・シュタイナーが1911年ごろに創出した教育法で、ギリシャ語で「調和のとれた美しいリズム」を意味します。音楽や言葉のリズムに合わせて身体表現を行う運動芸術で、手足を使った固有の動きに母音や子音の響き、音楽のリズムなどを表します
 私たちは、このようなやり方をとることを不誠実とみなす勇気を持たなくてはなりません。私たちがこのようなやり方を不誠実とみなす勇気を持ち、そういうことに内的な嫌悪を覚えてはじめて、人智学は世界へと通じる道を見出すことでしょう。そしてこの点において、将来ここドルナハが、ファナティスムなしに、誠実でまっすぐな真理への愛のなかで堅持しなければならないものとは、まさに真理への努力でしょう。そうすることによってこそ、過去数年にかくも甚だしく働かれたかなりの不正を糺していくことができるかもしれないのです。軽々しい思いではなく厳粛な思いをもって、私たちは一般人智学協会設立に通じたこの会議を去らねばなりません。けれども私が思いますに、クリスマスにここで起こったことから誰もペシミズムを持ち帰る必要はなくなりました。なるほど私たちは毎日、悲惨なゲーテアヌムの廃墟の前を通っております、けれども、この会議のためにこの丘を登ってきてこの廃墟のそばを通り過ぎたどの魂のなかにも、同時に、ここで行われたことを通じて、つまりありありと目に見えるように、ここで私たちの友人たちによっておそらく心のなかで理解されたであろうことを通じて、あらゆるものからやはりこういう思いが起こってきたと思うのです、まさに再建されつつあるゲーテアヌムからの真の精神生活として将来の人類の恵みのためにぜひとも生み出さねばならない霊的な炎が、私たちの勤勉を通じて、私たちの帰依を通じて生み出さねばならない霊的な炎が、きっと出てくるのだ、という思いが。そして私たちが、人智学上の事柄を行う勇気をもってここから出かけて行けば行くほど、私たちの集いによってこの会議においてともかくも希望に満ちた霊の行進のように進行したことを、私たちはいっそうよく聞き取ることになるでしょう。と申しますのも、皆さんに描写しましたあの光景、しばしば目にすることのできあの光景、境域の守護者の前で眠っている退廃した文明と学校とともにある今日の人間、これは本来、感受性のあるアントロポゾーフたちのグループにはやはり存在しないからです。それでもやはり、状況によっては、勧告のみを要するものもあります、その勧告はこのようなものです、お前は霊の国からの声を聞くために、この声を自ら認め、発展させる強い勇気を持たなければならない、お前は目覚め始めているのだからと。ただ勇気の欠如だけが、お前を眠りに導くことができると。勇気を出すように勧める声、勇気による目覚めへと勧告する声、これが別のヴァリアンテ(変形)、現代の文明生活におけるアントロポゾーフたちのためのヴァリアンテです。アントロポゾーフでない人たちにはこのように聞こえます。霊の国の外にとどまるがいい、お前は理念を単なる地上的な対象に誤用した、お前は、神々に値するような、神々にふさわしいようなどんな理念も集めなかった。それゆえお前は、物質的ー感覚的世界に再び帰還する際、麻痺せざるを得ないだろうと。しかしアントロポゾーフの魂であるような魂にはこう語られるでしょう、お前たちの心情の傾向により、お前たちの心の傾向により、お前たちが声として聞き取ることができるであろうものを認める勇気においてのみお前たちを試すこととしようと。親愛なる友人の皆さん、私たちがかつてのゲーテアヌムを焼き尽くした燃え上がる炎を見たときから昨日一年目を迎えましたが、きょう私は、私たちは一年前に外で炎が燃え上がっていたときでさえ、ここでの仕事の継続を妨げられはしませんでしたので、こう望むことを許されるでしょう、物質的なゲーテアヌムが立つときには、私たちはもう活動していて、物質的ゲーテアヌムは、今世界へと出ていく私たちが共に理念として受け取りたい霊的ゲーテアヌムの単なる外的な象徴(シンボル)になっていることを。私たちはここに礎石を据えました。この礎石の上に建物を築いていかなければなりません。私たちのすべてのグループにおいて今や広い外の世界でひとりひとりによって成し遂げられる働きがそのひとつひとつの石となるような建物を。精神において今、こういう働きを眺めましょう。すると、今日お話ししました責任が私たちに意識されるでしょう、境域の守護者の前にたたずんでいる現代の人間たち、霊的世界への参入を拒まれねばならない人間たちに対する責任が。私たちに一年前にふりかかったことについて、この上なく深い苦痛と悲しみを感じる以外、決して思い浮かばないというのはまったくたしかです。しかしながら、世界においては何事も私たちはこれも心に刻みつけておいてよいでしょう。世界においてある一定の偉大さに到達したものはすべて、苦しみから生まれるのです。ですから愛する友人の皆さん、皆さんの働きによって力強く輝かしい人智学協会が苦しみから生まれるように、そのように私たちの苦しみが用いられますように。これを目指して、私が最初に語りましたあの言葉のなかに私たちは沈潜しましたが、あの言葉をもって私はこのクリスマス会議を終えたいと思います、単に年の始まりのためのみではなく、霊的生を帰依に満ちて育むために献身しようとする宇宙紀元の始まり(Welten-Zeitenwende-Anfang)のためにも、私たちの聖夜、クリスマスとせねばならないこのクリスマス会議を(☆4)。

人間の魂よ!
お前は四肢のなかに生きる、
宇宙空間を貫き

魂の深みに
霊を思い出せ、
そこにしろしめす
宇宙創造存在のなかで
自身の自我は
神なる自我のうちに
ある。 
かくてお前は真に生きるだろう
人間宇宙存在のなかで。

なぜなら高みの父なる神は
存在を生み出しつつ宇宙の深みでしろしめすのだから。

高みより響きわたらせよ、
深みに反響(こだま)すものを。
それは語る、
エクス デオ ナスキムル(神より生まれる)。
元素霊たちがそれを聴く、

どうか人間がこれを聴くように。

人間の魂よ!
お前は心臓と肺の鼓動のなかに生きる、
時のリズムを貫きお前を
自身の魂の本質を感じることに導く鼓動のなかに。
魂の均衡のなかに
霊を思え、
そこにうねる
宇宙生成行為は
自身の自我と
宇宙自我を
ひとつにする。
かくてお前は真に感じるだろう
人間の魂の働きのなかで。

なぜなら経巡るキリスト意志は
魂を祝福しつつ宇宙のリズムのなかでしろしめすのだから。
キュリオテテス、デュナーミス、エクスシアイよ、
東より鼓舞せよ、 
西によって形作られるものを。
それは語る、
イン クリスト モリムル(キリストにおいて死ぬ)。
元素霊たちがそれを聴く、
東で、西で、北で、南で。
どうか人間がこれを聴くように。

人間の魂よ!  
お前は休らう頭のなかに生きる、
永遠の奥底からお前に
宇宙思考を明かす頭のなかに。
思考の静寂のなかに
霊を観よ、
そこでは神々の永遠の目的が
宇宙存在の光を
自由な意志のために
自身の自我に
贈る。
かくてお前は真に思考するだろう、    
人間の霊の奥底で。

なぜなら霊の宇宙思考は
光を懇願しつつ宇宙の本質のなかでしろしめすのだから。
アルヒャイ、アルヒアンゲロイ、アンゲロイよ、
おお、深みより請い求めよ、
高みにおいて聴かれるものを。
それは語る、
ペル スピリトゥム サンクトゥム レヴィヴィスキムス
(聖霊により甦る)
[元素霊たちがそれを聴く、
東で、西で、北で、南で。
どうか人間がこれを聴くように。]
(☆[ ]内の言葉は速記原稿によればここでは語られていない)

紀元の初めに
宇宙の霊の光が
地上存在の流れに歩み入った。
夜の闇が
蔓延(はびこ)っていたが  
真昼のように明るい光が  
人間の魂を照らした。
光、
それは貧しい羊飼いの心を
暖める。
光、
それは聡い王者の頭を
照らす。

神的な光よ、
キリスト太陽よ、
暖め給え、
私たちの心を。
照らし給え、
私たちの頭を。
私たちが心の底から
目的を定めて導いていこうとするものが
良くされるように。

 このように、わが愛する友人の皆さん、皆さんが人智学協会のための礎石を据えたときの暖かい心を担っていってください、この暖かい心を、世界への力ある、治癒力ある働きかけへと担っていってください。そして、今皆さん全員が目的意識をもって導いていこうとするものが皆さんの頭を照らすことが、皆さんの助けになるでしょう。きょう私たちはこのことを全力で決心したいと思います。けれども私たちにはわかるでしょう、私たちがそれにふさわしく自己を示せば、ここから意志されたものの上に良き星がしろしめすであろうことを。従いなさい、わが愛する友人の皆さん、この良き星に。神々がこの星の光によって私たちをいずこに導いていくか、私たちは見てみたいのです(*)。

神的な光よ、
キリスト太陽よ、
暖め給え、
私たちの心を。
照らし給え、
私たちの頭を!

□編集者註
☆1 ヴォルフ事務所によって企画されたあの講演:1921年の秋冬と1922年の新年に、当時最大のコンツェルトディレクション、ベルリンのヘルマン・ヴォルフ及びユーレス・ザックスが、シュタイナーとの講演旅行を企画した。ベルリン、シュトゥットガルト、フランクフルト、ケルンその他の大都市において、シュタイナーは人智学の本質、人智学と科学、人智学と霊認識といったテーマについて語った(GA80として出版予定)。1922年ミュンヘンにおける不幸な暗殺計画の後、もはや講演者の安全が保障されないことが明らかになった。この後シュタイナーはもはやそれ以上の公開講演の義務にもはや応じなかった。
☆2 ツァイルマンス博士:F. W. Zeylmans van Emmichoven ツァイルマンス ファン エミヒョーベン 1893-1961 医学博士、オランダの医師、著述家、オランダ地区協会事務総長。とくに『ルドルフ・シュタイナー 伝記』(シュトゥットガルト1961)を著した。
   *邦訳『ルドルフ・シュタイナー』伊藤勉・中村康二訳(人智学出版社)
☆3 イタ・ヴェークマン:Ita Wegman 1876-1943 医学博士、チューリヒ大学で研究、診療の後、1921年アーレスハイムに臨床医療研究所(現在イタ・ヴェークマン・クリニック)を設立。1923年クリスマスから1935年まで一般人智学協会理事会書紀、自由大学医学部門の長。1924/1925年、シュタイナーの主治医及び『精神科学的認識による治療芸術拡張のための基礎』(GA27)をシュタイナーと共著。
☆4 以下の朗唱詩は速記原稿により、シュタイナーに語られたままがここに再現されている。旧版では、この詩はシュタイナーの最初の手書き草稿にしたがって印刷された。これについては『一般人智学協会設立のためのクリスマス会議1923/1924年』(GA260 1985年版、300 頁)の巻の特註を参照のこと。
□訳註
* この最後の数行でシュタイナーは、聴衆に向かって今までのSie(通常の敬称二人称) に代わって、古い形のIhr (十七世紀以前に使われた敬称二人称)によって呼びかけています。
   (第9講了)人智学の光に照らした世界史完了
参考画:Aヒトラー とR・シュタイナー-1




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最終更新日  2024年05月18日 06時20分39秒
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