Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2024年05月19日
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カテゴリ: 霊魂論
真相から見た宇宙の進化
Die Evolution vom Gesichtspunkte des Wahrhaftigen(GA132) 佐々木義之さん訳
■第1講:土星紀における地球の内的側面 ベルリン 1911年10月31日
 去年の支部の夕べにおいて私たちが行った考察をさらに進めていきたいと思うのであれば、私たちがこれまでにお話ししてきたものとは別の何らかの概念、考え方、あるいは感じ方を自分のものとしなければなりません。と申しますのも、もし、私たちが私たちの宇宙体系全体の発展を前提としない限り、人類が残してきた福音書やその他の精神的な文献について私たちが語るべきことがらは、それだけでは十分であるとは言えないと思われるからです。私たちはこの進化を私たちの惑星そのものが「土星」、「太陽」、そして「月」の存在状態を通過し、ついには現在の「地球」としての存在状態を取るに至ったものとして記述してきました。私たちがこれらの基本的な原則にいかにしばしば言及してきたかを思い出す人であれば誰でも、それらが人類の進化に関するあらゆる秘教的な観察にとってもまたいかに必要なものであるかを知っています。けれども、もし皆さんが「神秘学概論」の中に記述されている「土星」、「太陽」、「月」、そして「地球」の発展段階に関する説明をご覧になるならば、そこに書かれていることは、たとえ拡張されているとはいえ、単なるスケッチに過ぎず、それ以外のものではあり得ないということを認めざるを得ないでしょう。それはある観点から描かれたスケッチに過ぎませんから、また別の特定の観点から説明することもできます。と申しますのも、ちょうど地球の存在状態が詳細な内容を途方もなく豊かに提供するように、「土星」、「太陽」、そして「月」の存在状態についてもまた、記録すべき無数の詳細な内容があるというのは当然のことだからです。とはいえ、これらの詳細についての大まかなスケッチや概要を描いてみせるということは、まさにいつでも可能なのです。ですから、今回の連続講義では、さらに別の面から進化の特徴を描いてみるということにならざるを得ないでしょう。私たちがこれらの説明すべては一体どこから来たのかと自らに問うとき、私たちは、それらはいわゆるアカシャ年代記への参入に由来するものであるということを知っています。私たちは、宇宙的な発展の経過の中で一度生じたことであれば何であれ、アカシャ実質と呼ばれる精妙な精神的実質の中に刻まれた印象を用いて、ある程度読みとることができるということを知っています。かつて生じたことがらすべてが残したこの種の刻印から、物事はかつてどのように存在していたのかを聞き取ることができるのです。物理的な世界においては、私たちが何かを見るとき、私たちのより近くにあるものは、その詳細において、一般に明確ではっきりとしているけれども、それがより遠くになるにしたがってあまり明確ではなくなると考えることができます。物事が、時間的に、私たちにより近い場合にも、より遠く離れている場合に比べて、より正確な姿で現れてきます。超感覚的な能力をもって振り返るときも同様です。例えば、「土星」や「太陽」の存在状態は「地球」や「月」の発達期に比べてその概要はより不明確なものとなるでしょう。しかし、一体何故そのようなことをする必要があるのでしょうか。何故、私たちは私たちの時代からそれほどまでに遠く離れている時代を追跡することを重要だと考えるのでしょうか。誰かが次のように問うかもしれません。「何故、この人智学者たちはそんな大昔のことを今さら持ち出すのか。私たちはそんなことに関わる必要は全くない。私たちには現在進行中のことが沢山あるのだから。」と。そのように言うのは間違っています。何故なら、時間の流れの中にかつて置かれたものは、今日においても、実りを迎え続けているからです。土星期の間に存在へともたらされたものは、単にその時代だけに、あるいは、その時代のためだけに存在したのではありません。当時起こったことは私たちの時代にまで影響を及ぼし続けているのです。とはいえ、それは人間をとりまく物理世界の中で外的に存在しているものとの関係においては、ヴェールをかけられ、見ることができないものとなっています。実際、はるか昔の古「土星」存在期に起こったことは今日ではほとんど見ることができなくなっています。にもかかわらず、古「土星」存在期は人類にとって今でも重要なのです。それが私たちにとって何故重要なのかを考えるために、次のことがらを私たちの魂の前に置いてみましょう。私たちは、私たちの存在の最奥の核は私たちが「私」と呼ぶところのものとして私たちの前に立つということを知っています。私たちの存在の最奥の核であるところのこの自我は今日の人間にとっては本当に実体がなく、知覚できないものとなっています。それがいかに知覚不可能なものになっているかということは、いわゆる「公的な」心理学の中で魂についてどのように語られているかを見れば推し量ることができます。それらはもはや自我を構成するものについてのいかなる考えも、あるいは、実際にはそのような自我を示唆することができるかもしれないという考えすら持っていないのです。私は19世紀のドイツ心理学において、「魂なき魂理論」という表現が徐々に使われるようになったという事実に注意するようにということをしばしば言ってきました。ウイルヘルム・ヴントの世界的に有名な学院は、ドイツ語を話す地域だけでなく、心理学について語られるところであればどこでも、大いなる尊敬を集めてきましたが、その学院が「魂なき魂理論」を流行らせたのです。この「魂なき魂理論」は、魂の特質を記述するにあたって、独立した魂の実存を前提としません。そのかわり、あらゆる魂の特質が最初に一種の焦点に集まるのです。つまり、自我の中へと集合するのです。かつて魂に関する理論に関連づけられたものの中で、これほどの愚考はありません。けれども、今日の心理学は完全にその影響下にあるのです。つまり、今日では、この概念は世界中でもてはやされているのです。将来、私たちの時代を研究するであろう文化歴史学者は、一体何故そのような理論が19世紀から20世紀に至るまで心理学の分野における最大の成果とまで見なされるようになったのかということを知るために、それらの仕事を切り抜きして利用することになるかも知れません。私がこのようなことを申し上げるのは、単に、「公的な」心理学が、自我すなわち人間の中心点に関して、いかに不明確であるかを指摘したかったからです。もし、私たちが自我をその真の性質において把握し、肉体を目の前に置くような仕方で、それを私たちの前に置くことができるとしたら、そして、肉体が目によって外的に見ることができ、感覚を通して知覚することができるものに依存し、栄養を必要とし、そして雲や山やその他のものを周囲の物理的な世界の中に見いだすのと同様の意味で、自我が依存している環境を見いだそうと努めるならば、つまり、もし、私たちが肉体についての文脈を知るのと同じ意味で自我にとって本質的な文脈を見いだそうと努めるならば、私たちは今日においても私たちの周囲に不可視的に浸透している宇宙の像あるいは絵巻物に至るのですが、それは古「土星」期の宇宙像と同じものなのです。言い換えれば、自我をそれ自身の世界において知ろうとする人であれば誰でも、古「土星」期の世界に似た世界を想像できなければならないのです。この世界は隠されています。つまり、それは人間にとって感覚知覚を超えた世界なのです。実際、私たちの現在の発達段階においては、その知覚を担うことは不可能なのです。それは境域の守護霊によりヴェールがかけられていることで、隠されたままになっているのですが、それは、そのような像を見ることに耐えられるためには、ある一定段階の精神的な発達が必要とされるからです。実際、人が最初に慣れなければならないのは、古土星が提示するような像を見る、ということです。皆さんは、何にもまして、一体どうすればそのような宇宙像を何か現実的なものとして経験することができるのかということについてのイマジネーションを形成しなければなりません。皆さんが感覚をもって知覚するあらゆるものを皆さんの思考から取り除かなければなりません。同様に、皆さんの内的な世界は魂の内部における潮の満ち引きから構成されていますから、皆さんはそれを捨て去らなければなりません。皆さんは世界に存在するものについての思考を消し去り、思考そのものもすべて解消するのです。感覚を通して知覚されるあらゆるものを外的な世界から取り除かなければなりません。つまり、皆さんは皆さんの内的な世界における魂や思考活動を消去しなければならないのです。このことを行った後、もし、皆さんが、この考えを本当に把握しようとするときに到達しなければならない魂の状態、あらゆるものが完全に取り除かれ、人間だけが残るということを思い出し、それについての考えを形成したいのであれば、皆さんが言うことができるのは、私たちの周囲に口を開けている底なしの空虚、無限に続く無の恐怖に耐えることができなければならないということだけです。完全に恐怖に満たされた環境を経験できなければならないのですが、同時に、自分自身の存在の内的な堅固さと確かさによってこれらの感情を克服できなければなりません。魂におけるこれらふたつの傾向―存在の無限に続く空虚への恐怖とそれを克服すること―なしには、古土星存在がいかに私たちの宇宙存在の基盤に横たわっているかを暗示するいかなるものも経験することはないでしょう。今、私が性格づけしたふたつの経験を、人々が自分で発達させることはめったにありません。また、この状態について書かれたものを見つけることもほとんどありません。もちろん、それを何年にもわたって超感覚的な力を用いて探求しようとしてきた人々はそれについて知っています。けれども、書かれたり出版されたりしたものの中には、人々が無限の深淵を前にしたときの恐怖やその克服について経験したということを示唆するものはほとんどないのです。私は、このことについての何らかの洞察を得る目的で、計りがたい空虚を前にしたときの恐怖らしきものが表現されている最近の文献を調査してみました。一般に哲学者はきわめて賢いので、概念については物知り顔にしゃべっても、恐怖を起こさせる印象については触れるのを完全に避けているのです。ですから、哲学的な文献の中に何かがこの問題について記録されているのを見つけるのは容易ではありません。何も見つけられなかった文献について今話すつもりはありませんが、それでも、ヘーゲル派の哲学者、カール・ローゼンクランツの雑誌の中に、この経験の残響のようなものを見いだすことができました。この雑誌の中で、ローゼンクランツは彼がヘーゲルの哲学に没頭しているときに経験した非常に親密な感情を記述しています。私は彼が全くそれとは知らずに彼の雑誌の中に載せている注目すべき文章に出会ったのです。ローゼンクランツにとって全く明白であったのは、ヘーゲルの哲学はヘーゲルによる「純粋存在」の理解に基づいているということです。ヘーゲルの原則である「純粋存在」については、19世紀の哲学文献の中で、非常に多くの表面的なことがらが語られてきましたが、実際には、それはきわめて貧弱にしか理解されていません。19世紀後半の哲学がヘーゲルの「純粋存在」について理解しているのは、雄牛が1週間ずっと飼い葉を食べ続けてきた日曜日について理解しているのと同じ程度においてであると言ってもいいくらいです。「純粋存在」というヘーゲルの概念―存在の経過ではなく、存在するという状態そのもの―は私が定義づけたような恐怖が流れ込む恐ろしい空虚のようなものと全く同じではありません。そうではなく、ヘーゲルの「存在」における空間のすべては人間が経験することができない特質、つまり、存在というものに満たされた無限の色合いを有しています。そして、カール・ローゼンクランツはかつてこれを、単なる存在以外の内容をもたない空間の宇宙的な広がりという恐ろしく打ちひしがせるような冷たさの状態として経験したのです。宇宙の根底に横たわるものを把握するためには、それを概念において語ったり、それについての考えを作り出したりするだけでは不十分です。古土星存在を特徴づける無限の空虚に直面したときに経験するものの像を呼び起こすことの方がずっと重要なのです。そのとき、魂は恐怖の感情を、たとえそれがそれを暗示するものに過ぎないとしても、把握します。山のように高い場所におけるめまいの感情、しっかりとした足場もなく深淵の縁に立つときの感情、あるいは、自分ではどうしようもない力に圧倒されながらあちこちと振り回されるときの感情を再現することによって、この土星状態を超感覚的に見上げることができるようになるための準備をすることができます。これが最初の段階、初めの感情です。次に、足下の大地だけではなく、目で見るもの、耳で聞くもの、手で触るもの-周囲の空間中に存在するありとあらゆるものが失われます。そして、不可避的に、人はあらゆる思考を失い、一種の黄昏あるいは眠りの状態に沈み込むのですが、そこでは何も認識的に把握することができません。あるいはまた、人はあらゆる感情の中に浸り、そして、しばしば克服することのできない目眩(めまい)の状態に捉えられ、死の状態に落ち込むことしかできなくなるのです。今日の人間には、深淵を前にして恐怖に捉えられることに打ち克つために、ふたつの可能性があります。ひとつの確立された方法は、福音書の理解、ゴルゴダの秘儀についての理解を通過する道です。福音書を本当に理解する人、福音書について現代の神学者が語るような方法によってではなく、内的に経験することができるその最奥のものを吸収する人は、彼あるいは彼女とともにその深淵の中に何かを持ち込むのですが、それは、まるで一点から広がっていき、勇気の感情、ゴルゴダにおいて供儀を完成させた存在と一体になることを通して守られているという感情によってその空虚を完全に満たしていくような何かです。これがひとつの道です。もうひとつは、福音書ではなく、真の、真正な人智学によって精神的な世界に貫き至る道です。これもまた可能なのです。ご存じのように、私がいつも強調しているのは、私たちのゴルゴダの秘儀についての考察は福音書から始めるのではない、ということです。その理由は、たとえ福音書が存在しなかったとしても、私たちはゴルゴダの秘儀を見いだすはずだからです。このことは、ゴルゴダの秘儀が生じる「以前」には不可能なことでした。しかし、それが今日可能になったのは、精神的な世界を精神的な世界の印象そのものから把握することを人々に可能にするような何かがゴルゴダの秘儀を通して世界の中にやって来たからです。これは世界における聖霊の存在、宇宙的な思考による世界の統治と呼んでもいいようなものです。とはいえ、人はそのための準備ができていなければなりません。私たちが恐怖を呼び起こすような空虚に直面しなければならないときでも、福音書あるいは人智学を携えているならば、道を失ったり、無限の深淵の中に飛び込んだりすることはないでしょう。もし、私たちが「いかにして超感覚的な世界の認識を獲得するか」、そして、それに続く他の著作の中で紹介されている準備を経てこの幽鬼的な空虚に近づき、精神的な世界、そこで生じるあらゆるものは私たちの感情は痙攣させ、私たちの思考を飲み込無事に貫き至るならば、私たちは動物、植物、あるいは鉱物界における存在たちとは全く似ていない存在たちに出会うことになるでしょう。私たちが「土星」という存在、そして、そこには雲も、光も、音もないのに親和し、適応するようになれば、私たちは存在たちを知るようになります。実際、私たちは、私たちの呼び方で、「意志の霊」あるいは「トローネ(座)」と呼ばれる存在たちを知るようになるのです。私たちが具体的な現実として知るようになる「意志の霊」たちは、いわば波打つ勇気の海から構成されているのです。人間にとって最初は想像することしかできなかったものが、超感覚的な能力によって、具体的な「存在」となります。皆さんが海の中に浸されていると考えてみてください、そして、キリスト存在とひとつになり、キリスト存在によって支えられていると感じている精神的な存在としてその中に浸され、泳いでいるのですが、それは今や水の海ではなく、流れる勇気、波打つ力で構成され、無限の広がりを完全に満たす海の中なのです。それはただの無関心で未分化な海ではありません。そこでは、勇気の感情として記述することができるようなもののあらゆる可能性と多様性が私たちのところへとやって来ます。私たちがそこで知るようになるのは勇気から構成されている存在たちなのですが、全く個別化されているのです。彼らは完全に勇気から成っているとはいえ、私たちが出会うのは勇気だけではなく、具体的な存在としての彼らなのです。肉からなる人間と同様に現実的でありながら、肉ではなく勇気からなる存在たちに出会うというのは確かにおかしなことのように思われるかも知れません。しかし、そうなのです。私たちは正にこの種の存在であるところの「意志の霊」に出会い、そして、彼らに出会うとともに、それによって、「土星」存在について記述しているのです。と申しますのも、それこそ勇気から成る「意志の霊」によって表現されているものだからです。それが「土星」なのです。それは球のような形をした世界ではありません。六つの角も四つの角も持っていません。空間的な側面を適用できないのです。ですから、「土星」存在には「終点」というものを見いだす可能性がありません。ここでも「泳ぐ」というイメージを用いたいのであれば、「土星」は海面を持たない海であると言うことができるかも知れません。その代わり、あらゆる場所で、あらゆる方向に、「勇気の霊」あるいは「意志の霊」が見いだされるのです。人はこのような洞察にすぐには到達しないのですが、何故そうなのかについては、後の講義で説明するつもりです。と申しますのも、ここでは以前に用いた「土星」、「太陽」、「月」という順番を用いようとしているのでが、本当は、反対の順番で、超感覚的な方法で実際に知覚される順番、つまり、「地球」から「土星」へという方向に-進む方がよいからです。しかし、今のところは、「土星」、「太陽」、「月」の順に特徴づけしていきたいと思います。順番そのものは重要ではありませんから。このようなものの見方に特徴的なのは、もし、人が少しずつ、慎重にその考えに到達するように注意していなかったとしたら、想像するのがきわめて難しいような何かが生じてくるということです。と申しますのも、そのとき何かが存在するのをやめるのですが、それは何にもまして通常の想像力に密接に結びついているものだからです。つまり、「空間が存在しなくなる」のです。例えば、「の頂上で」、「の下で」、「の前で」、「の後ろで」、「右へ」、「左へ」私は泳ぐというような、あるいは、実際、空間に関連したその他のあらゆる表現がもはや意味をなさなくなるのです。古「土星」においては、空間的な関連は全く意味をなしません。「至るところで」というのも「同様」です。けれども、最も重要なのは、「土星」の最初期の時代に入るときには、時間もまたなくなるということです。正に、後も先もなくなるのです。当然のことながら、それは今日の人間には想像するのがきわめて難しいことがらです。何故なら、ある考えは別の考えの前あるいは後に現れるというように、今日では人の考えそのものが時間の中を流れているからです。とはいえ、時間の欠如は感情を通して見積もることができるでしょう。しかし、この感情は心地よいものではありません。皆さんの思考形成能力が麻痺して、皆さんが思い出すことを可能にしているあらゆるもの、皆さんが行おうと計画しているあらゆるものが固まった棒のように麻痺したと想像してみてください。こうして、皆さんは、まるで皆さんの考えがしっかりと捕捉されて、もはやそれに触ることができないかのように感じます。この状態においては、皆さんは、皆さんが「以前に」経験した何かは、時間の中のある「時点」において生じたと言うことができません。皆さんはそれに結びつき、それはそこにあるのですが、それは完全に固定されているのです。時間が意味をなさなくなっているのです。時間は全く存在していません。ですから、次のように問うことは無意味なのです。「ところで、「土星」、「太陽」、あるいはその他の存在について記述したわけだが、「土星存在の前には何があったのかね」と。この文脈の中では、「前に」というのは無意味なのです。当時、時間は存在していなかったので、私たちは時間に関連したものを示すあらゆるものなしにやっていかなければなりません。「土星」存在というのは板張りされた世界の中にいる状況と似ています。思考は行き止まりになっているのです。超感覚的な能力も同様です。通常の思考はずっと前に置き去りにされています。それはそれほど遠くまで行けません。イメージ的に表現すれば、皆さんの脳は凍りついてしまいます。皆さんがもはや時間を包含しない意識についてのイメージに近づくことができるのは、皆さんがこの麻痺した状態を知覚できる程度においてです。ここまで来ますと、その全体像の中に生じる顕著な変化に気づきます。別のヒエラルキアに属する存在たちが、「意志の霊」とともに存在し、勇気からなる無限の海という時間のない世界であるところの麻痺の中に入り込み、活動するようになるのです。時間の不在が明らかになる正にその瞬間に、他の存在たちの活動に気づくのです。勇気からなる無限の海の内部に何かが存在しているのに気づくのですが、それは不明瞭な意識によってです。まるでそのことを経験しなかったかのようなのです。この広がりの中に何かが点灯するのですが、それは稲妻の素早い発光というよりは、明かりのようなものです。それは最初の差別化であるところのひとつの明かりなのですが、明るい光の印象を与えるような明かりではありません。皆さんは別の方法でこれらのことを理解するように努めなければなりません。例えば、次のようなことを想像してみるのもよいでしょう。皆さんは皆さんに何かを語りかける誰かに出会い、「この人物は何と知的なのだろう。」という感情を抱きます。この人物が語り続けるにつれて、この感情は強くなり、皆さんは「この人物は賢い、無限を経験している、だから、賢明なことがらを語ることができるのだ」ということに気づきます。さらに言えば、この人物は魅惑的なオーラを発散しているかのような感じを起こさせるのです。そして、この魅惑の要素が無限に強化されると想像してください。勇気の海の中に雲が現れるのですが、その中に、稲妻の光というよりは、正確にはきらめく放射が見られるのです。全体として、皆さんが想像することになるのは、今や「意志の霊」の内部で活動する存在、単なる叡智ではなく、放射する叡智の流れであるところの存在についてです。ここで、皆さんは、「ケルビーム」とは何かについて、超感覚的な知覚によるところの考えを持つことができます。つまり、「ケルビーム」とは、勇気の海に流れ込む存在たちのことなのです。さて、私が記述したもの以外には皆さんの周りには何もないと想像してください。実際、既に強調してきましたように、皆さんは、皆さんの「周囲」に何かがあると言うことはできないのです。皆さんが言うことができるのは、「そこに」それがある、ということだけです。そのように考えるようにしなくてはなりません。さて、何かが点灯しているというイメージは全く正確というわけでありません。そのため、私は瞬間的な煌めきというよりも、どちらかというと燃えるような輝きと言ったのです。と申しますのも、あらゆることが同時に起こっているからです。何かがある瞬間に存在するようになり、別の瞬間に消え去るというようなものではありません。すべてが同時なのです。とはいえ、「意志の霊」とケルビームの間には結びつきがあるという感情を持ちます。彼らがお互いに関係しているという感情を持つのです。このことが意識されるようになります。そして、「意志の霊」、トローネが彼ら自身の存在をケルビームに捧げる、ということが意識されるようになります。これが「土星」を逆向きに辿るときに得られる最終的なイメージです。「意志の霊」がケルビームにこの供儀を捧げる、というイメージを受け取るのです。それより先は宇宙がまるで「板張り」にされているかのようです。けれども、私たちが「意志の霊」によるケルビームへのこの供儀を経験する程度に応じて、何かが私たち自身の存在から絞り出され―押し出されて来ます。このことを言葉で表現するならば、「意志の霊」からケルビームにもたらされる供儀から「時間が生まれる」と言うことができます。けれども、この時間は私たちがそれについていつも話しているような抽象的な時間ではありません。それは独立した存在です。この時点で、私たちは初めて、何かが始まるということについて語ることができるようになります。最初は、時間とは時間存在、完全に時間から成る存在なのです。時間だけから成る存在が生まれて来るのですが、この存在は「人格の霊」、私たちがヒエラルキア存在の中の「アルカイ」として知っているところの存在です。「土星」存在においては、「アルカイ」とは全くの時間なのです。私たちは彼らのことを「時間*霊時間を司る霊」としても表現しました。彼らは霊として生まれてくるのですが、実際には、完全に時間から成る存在なのです。「意志の霊」によるケルビームへの供儀、そして、「時間の霊」の誕生に与る(*関与する)ということはとてつもなく重要なことです。時間が生まれた後で初めて、「土星」の状態、つまり、現在、私たちの周りを取り巻いているものに似た何かであるかのように語ることを私たちに許すような何か別のものが生じることになります。私たちが「土星」における熱の要素と呼ぶのはトローネによる供儀の煙であり、時間を生じさせるものです。私はいつも、「土星」は熱の状態として存在していると言って来ましたが、そのように言うことによって、そこに存在しているものを記述して来たのです。と申しますのも、現在、私たちの周囲にあるすべての要素の中で、古い「土星」にも存在していた要素として、熱だけを認めることができるからです。熱は「意志の霊」がケルビームに捧げた犠牲から生じたのです。このことはまた私たちが火についてどのように考えるべきかを私たちに示します。私たちが火を見たり、熱を感じたりするところでは、今日の人間が当然のこととして習慣的にそうするように、それを物質的に考えるべきではないのです。むしろ、それは、私たちが火を見たり熱を感じたりするところではどこでも、今日においてもなお「意志の霊」によるケルビームへの供儀なのです。熱の精神的な基礎を私たちの周囲に見ることはできないとしても、それは存在しています。あらゆる熱の顕現の背後に立っているのは供儀であるという真実に世界が至るのはこの洞察を通してなのです。「神秘学概論」の中では、人々を過度に怒らせることがないように、古土星の外的な状態だけが述べられていますが、それでも怒りを買ってしまいました。現代の科学的な文脈の中でしか考えることができない人々はこの本を全くのナンセンスであると見なします。けれども、もし、人が実際に次のように言うことができたとしたら、それは何を意味しているかということを考えてみてください。・古土星は、その最奥の存在として、正にその根底として、「意志の霊」に属する存在たちを有しており、彼らは彼ら自身をケルビームに捧げた。
・「意志の霊」のケルビームへの供儀により生じた煙から、時間が生まれた。
・時間が誕生したことにより、アルカイあるいは「時間の霊」がもたらされた。
・私たちが知っているような熱は「意志の霊」による供儀の外的な表現、反映である。
・したがって、外的な熱は幻想(マーヤ)である。もし、真実を語りたいのであれば、熱が顕現するところではどこでも、実際には、供儀(*ケルビームの前に捧げられるトローネの供儀)があると言わなければならない。
 イマジネーションの能力を発達させることは薔薇十字的な秘儀参入の第2段階に当たります。このことは「いかにして超感覚的な認識を獲得するか」やその他のところでしばしば触れられています。人智学徒は、世界についての健全な表象からイマジネーションを形成しなければなりません。そのようにして、私たちは思考を想像力に染められたイマジネーションへと変容させることができるのです。私たちは今日お話ししたことがらを例として取り上げることができます。トローネあるいは「意志の霊」は完全な献身をもってケルビームの前にひざまずくのですが、それは卑しさの感情からではなく、捧げることができる何かがあるという意識から生じるものです。強さと勇気に基づき、喜んで供儀を捧げようとするトローネたちはケルビームの前にひざまずき、その捧げものを彼らに向けて差し上げます。トローネたちはその供儀を泡立つ熱、燃え上がる熱として送り出し、そのため、供儀の炎から立ち上る煙は翼をもったケルビームに向けて燃え上がるのです。私たちはそのようにこの現実を描写できるでしょう。そして今や、この供儀から生じるものとして、そして、それはまるで私たちが言葉を空中に向けて発し、その言葉が時間、それも「存在」としての時間であるかのようなのですが-これらのできごとの全体性から生じるものとして、「時の霊」あるいはアルカイが現れます。このアルカイを発生させるというイメージは非常に力強いものです。そして、私たちの魂の前に置かれたこのイメージは、私たちを隠された知の領域へとますます深くもたらすことができるようなイマジネーションにとって、きわめて強い効力を持っているのです。私たちがイマジネーション、すなわち像の中へと受け入れるアイデアをこのようにして変容させるということは、私たちが成し遂げるべきことがらです。たとえ私たちが形成する像が原始的なものであったとしても、それらが擬人化されたものであったとしても、たとえ私たちが描写しようとするこれらの存在たちが翼をもった人物であったとしても、それは重要ではありません。それが問題ではないのです。私たちの努力につけ加えられる必要があるものがあれば、それが何であれ、最終的には私たちに与えられるでしょう。私たちのイマジネーションが有するべきでないものは消え去るでしょう。もし、私たちがそのような像の中にひたすら浸るようにするならば、そのような活動そのものが私たちを実際にそのような存在の元へと導くことになるでしょう。もし、皆さんが、勇気に満たされ、叡智に満ち溢れた存在を特徴づける、という試みを受け入れることができるならば、皆さんは、魂がすぐに頼らなければならなくなるのは、理性によって形成される概念とはかけ離れた、ありとあらゆる種類の像である、ということが分かるようになるでしょう。知性的な概念が存在するようになったのはずっと後のことです。いずれにしても、純粋に知性的な方法で「土星」存在に近づくべきではありません。超感覚的な能力が、知性的に方向づけられた人たちとは異なる仕方で、素朴な超感覚的能力から何かを描き出そうとする人物の心の中で展開するということが何を意味しているかを、皆さんは理解するようにしなければなりません。知性的な人たちの側からそのような心が適切に理解されるということは決してありません。そのような例を皆さんに示したいと思います。アルバート・シュヴェグラー(1819-57年)の「哲学の歴史」(シュテュットガルト、1848年)を取り上げてみましょう。この本は、かつて学生たちが試験の前に勉強するのを好んだものですが、哲学から魂が取り除かれたことにより、もはや役に立たないものとなっています。しかし、後の版では改訂を受けているとはいえ、初版本の重要なところは完全には失われていません。つまり、それはヘーゲル哲学の観点から見た哲学の歴史書なのです。ですから、皆さんがシュヴェグラーの「哲学の歴史」を取り上げますと、皆さんはそれが書かれた当時の哲学像を知るためのよい例、ヘーゲル哲学の優れた参考文献をそこに見いだすことになります。けれども今、ヤーコブ・ベーメに関する短い章を読んでみますと、知的な哲学書を書く人物が、ヤーコブ・ベーメのような精神に直面するときには、いかに無力なものであるかを知ることができます。幸いなことに、彼はパラケルススを取り上げていませんが、もし取り上げていたとしたら、彼についての相当にひどい代物を書いていたことでしょう。とはいえ、シュヴェグラーがベーメについて何を書いているか読んでみましょう。彼はベーメの中にひとつの心を見いだしました。そして、その心の中では、古「土星」の像ではなく、「土星」の繰り返しの像が素朴な仕方で夜明けを迎えていたのです。この「土星」像の繰り返しは「地球」期において繰り返されたものです。シュヴェグラーがベーメの中で出会ったのは、知性を通しては理解できないような何かを言葉と像で記述しようと試みることしかできない精神でした。「土星」の繰り返しを把握しようとする純粋に知的な方法のすべては失敗するしかありません。つまり、それは、まるでこれらのことがらを全く理解できないかのようであるというよりは、もし、通常の、無味乾燥の哲学的論理にしがみつくだけならば、それらを把握することができないということです。お分かりのように、重要な点は、通常の知性の十全さを越えて自らを上昇させる、ということです。通常の知的な能力をもってしても、まだシュヴェグラーの「哲学の歴史」のように優れた作品を作り出すことはできますが、だからこそ、それは並はずれた知性が、ヤーコブ・ベーメのような精神に直面したとき、いかに完全に立ち止まらざるを得ないかということを示すよい例となっているのです。私たちは今日、古「土星」に関する考察の中で、私たちの「地球」が太古に体現した惑星状態の内的な側面に貫き至ろうとしました。私たちは古「土星」存在を振り返り、トローネたちが自らをケルビームに捧げることよって時間存在を創造したときの印象を生じさせるようにしましたが、この後の講義では、私たちがそれによって達成した概念に負けず劣らず印象深い概念に到達するために、「太陽」と「月」存在について同じことをしていくことにしましょう。時間とは犠牲から生じたものであり、生きた「時間」から成立っているのですが、「太陽」存在の間に、いかにこれらのことすべてが変化していくのかを、そして、私たちが「土星」存在から「太陽」そして「月」存在へと進むとき、宇宙におけるその他の力強いプロセスがいかに生じるのかを見ていくことにしたいと思います。   (第1講了)




記:ヤーコプ・ベーメ(Jakob B?hme):[1575~1624]ドイツの哲学者。靴屋職のかたわら、神秘主義思想家として、独特な汎神論的自然哲学を形成。のち、シェリング・ヘーゲルにより再評価された。主著「曙光」。
参考画:haublin_result(Jakob B?hme)





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最終更新日  2024年05月19日 06時06分35秒
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