ルドルフ・シュタイナー 真相から見た宇宙の進化 Die Evolution vom Gesichtspunkte des Wahrhaftigen 第5講 地球期における地球の内的側面 ベルリン 1911年12月5日 佐々木義之 訳 今回の連続講義の中で、これまで私たちが私たちの魂の前に置いてきたのは、私たちがマーヤあるいは大いなる幻想と呼ぶあらゆるものの背後には精神的なものが立っているということを示す一連の観察結果でした。今日は、もう一度、私たち自身に問いかけてみましょう。私たちは、私たちを取り巻くすべてのものの背後には精神的なものが認められる、ということを、私たちの物理的な身体を通してもたらされるような私たちの感覚や宇宙についての理解という観点から、どうすれば知るようになるのかと。これまでの探求の過程で、世界の直接的、外的な現象はさておき、真の現実についての特徴に貫き至るように努めることによって、私たちは精神的なものを特徴づけることができました。そして、その特徴を、喜んで犠牲を捧げること、与える徳、そして、諦め、あるいは拒絶、それらは私たちが私たち自身の魂の中をのぞき込んだときにだけ知るようになる特徴でと見なしました。実際、その特徴は私たち自身の魂の文脈においてのみ理解し、受け取ることができるようなものなのです。言い換えれば、もし、幻想世界の背後で、現実的かつ真実なるものを体現していると考えられる、あの特徴を理解したいのであれば、それらをその真の本性において理解したいと望むのであれば、私たちは次のように言わなければなりません。真の存在や実在から成るこの現実の世界は現実的で生きた特徴あるいは性質を含んでいる。しかし、それは私たちが私たち自身の魂の中で知覚することができる特徴とだけ比べられるようなものであると。例えば、外的には熱として自らを現しているものを特徴づけたいのであれば、それを、捧げられる犠牲、世界の中に流れ出す犠牲というようなその真の本性との関連で特徴づけようとするのであれば、私たちは熱の要素を精神的なものにまで辿るとともに、外的な存在性のヴェールを取り払い、それによって、外的な世界の中のこの特徴は私たち自身の精神的な本性と同じものであることが分かるということを示さなければなりません。私たちは、観察を続ける前に、もう一つ別の考えについて考察しなければなりません。それは、私たちが幻想の世界の中に見いだすあらゆるものは本当に一種の無の中に消え去るのかということについてです。感覚知覚と外的理解の世界には、いわゆる真実あるいは現実であるところのものに対応するものは何もないのでしょうか。次のような比較をしてみてもよいでしょう。私たちは、ちょうど水塊の中には流れの内的な力、あるいは、正に大海そのものが隠されているように、真実あるいは現実の世界はさし当たり隠されていると言うかも知れません。ですから、マーヤの世界は水の表面の波の働きと比べられるかも知れません。それは、何かが実際に大海の底からわき上がって来て、表面にさざ波を生じさせるということを私たちに示します。ですから、それは正しい比較であり、それはまた、この何かとは水の実質であり、水の力による一定の配列であるということをも私たちに示します。けれども、あれこれの比較を行うことが重要なのではありません。私たちはさらに、広大なマーヤの領域内には「本当に」存在しているものはあるのかと問わなければなりません。今日、私はこれまでの講義で行ってきたようにして話を進めて行きたいと思います。ここでは、私たちの魂の経験を出発点として、私たちが私たちの魂の前に置こうとしているものへと徐々に近づいていくことにしましょう。「土星」、「太陽」、そして「月」存在としての進化を精神的に辿った後、私たちは今や「地球」存在へとやって来ました。ですから、前回までに比べると、より親しみのある、より一般的とさえ言える魂の経験から始めることになります。前回は、魂生活の隠れた深み、すなわち、精神科学がアストラル体と呼ぶものの中に生じるところのものを見てきました。そこでは、あこがれがざわめくのを感じるとともに、ある存在の内部で、この場合には人間ですが。あこがれがいかに作用するかを見てきました。私たちはまた、魂生活におけるそのようなあこがれが、いかに像の世界においてのみ和らげられ得るかということも見てきました。私たちは像の世界を魂生活における内的な動きとして理解するようになりました。そして、それによって、個々の魂の小宇宙から、私たちが運動霊に帰属させた創造する世界の大宇宙へと続く道を見いだしたのです。ですから、今日は、よく知られた魂の経験、そして、それは古代ギリシャ人に示唆され、よく知られていたと同時に、今日でもその真実性においてきわめて意味深いものですが、そのような経験を私たちの出発点にしたいと思います。この経験は次のような言葉によって暗示されるでしょう。すべての哲学は、つまり、ある種の人間の知へと向かうすべての努力は驚きから生じる。実際、この言い方は正当なものです。多少なりとも、ものを考え、何らかの学びに近づこうとするとき、自分の魂の中で生じるプロセスに注意を払う人であれば誰であれ、認識への健全なる道はその起源を、驚き、あるいは、何かに驚くことに有しているということを既に見いだしているでしょう。、すべての学びの過程はそこから生じる驚きと不思議は、単調で、空虚で、無味乾燥なものを高揚させ、それに生命を吹き込みます。と申しますのも、私たちの魂の中に生じた知識で驚きから生じなかった知識とはどういう種類のものでしょうか。それは空虚と学者趣味に浸かった知識に違いありません。驚きから生じて、謎を解く中で経験する無上の喜びへと導く魂の過程だけが―それは驚きを越えたところへと上昇します。つまり、驚きに始まる魂の過程だけが、学びを高貴なものにし、それを内的に生き生きとしたものにします。皆さんは、実際、これらの内的な感情に満たされていない知識がいかに無味乾燥なものかを感じ取るようにしなければなりません。真の健全な知識は、驚きと、謎を解く喜びという文脈から生じます。他の種類の知識は外側から獲得され、あれこれの基盤の上に適用されます。しかし、これらふたつの感情に包み込まれていない知識は、それがいかに真剣なものであれ、本当には人間の魂からわき上がって来るものではありません。知識の中の生きた要素が醸し出す雰囲気によって生じる知識の「アロマ(芳香)」はすべてこれらふたつのことがら、驚き、不思議を解く喜びから生じるのです。しかし、驚きそのものの起源とはどのような種類のものでしょうか。驚き、すなわち外なるものへの驚嘆が魂の中に生じるのは何故でしょうか。驚きや驚愕が生じるのは、私たちが何らかの存在、事物、あるいは事実の前に立ち、それによって不思議な喜びを感じるからです。この不可思議さが驚きや驚異に導く最初の要素です。けれども、私たちは、私たちにとって不思議なものすべてについて驚きや驚愕を感じるわけではありません。私たちが何らかの不可思議なものに対する驚きを体験するのは、同時に、私たちがそれと関係していると感じられるときだけなのです。この感情は次のように言うことによって表現することができるでしょう。この物、あるいは存在の中には、まだ自分の一部にはなっていないけれども、自分の一部になるかも知れない何かがあると。私たちが驚きや驚愕をもって何かを受け取るとき、私たちはそれを不思議であると同時に、私たちに関係していると感じているのです。「(*不可思議なものに対する)驚き」という言葉は、「(*雷に打たれたような)驚愕」という言葉と関係があります。知覚可能な関係を見いだすことができないような驚きという現象に、何かが付け加えられるのです。けれども、それは単にその人の間違いかも知れません。少なくとも、責任はその人にあるはずです。そして、その人物は、仮に、彼または彼女がその「不可思議な」何かは、彼または彼女に関係しているはずだと結論づけないかぎり、拒絶や反論の精神をもって、その物あるいはできごとにアプローチすることはないでしょう。と申しますのも、唯物論的な、あるいは純粋に知的な概念に基づいて行動する人たちは、例えば、他の人たちがひとつの驚きであると認識しているものを、それが嘘あるいは不真実であるという直接的な証拠がないにもかかわらず、何故、否定するのでしょうか。今日では、哲学者でさえ、人間の目の前に広がっている世界の現象に基づいたのでは、ナザレのイエスの中に受肉したキリストは死者の中から甦らなかったと証明することは決してできないということを認めざるを得ないでしょう。この主張に対する反論は可能ですが、それらがどのような反論であれ、論理的な意味では、持ちこたえられません。今日の啓蒙主義的な哲学者たちは既にそれを認めています。何故なら、唯物主義の側から持ち出され得る反論、例えば、今まで、キリストが死者の中から甦ったようにして甦った人を見た者はいないというような反論は、論理的には、魚しか見たことがない者は、鳥は存在しないと結論づけなければならないという主張と同じレベルにあるからです。ある種の存在がいるということに基づいて、別の存在がいないということを導き出すのは、論理的に首尾一貫した方法によっては、不可能なのです。同様に、物理的な世界の中で人間が経験することに基づいたのでは、ゴルゴダのできごと、それは「驚き」として記述されなければならないについて、何も導き出すことができません。とはいえ、もし、皆さんが誰かに「奇跡」として記述されなければならないようなことについて語り、その人物が「私には理解できない」と言ったとしても、この人物は私たちが驚きの概念について話したことに対して反対しているのではありません。何故なら、その人物は、彼または彼女にとって同じように真実であるようなあらゆる知識へと向かうときには、それと同じ出発点に立つということを示しているからです。その人物は皆さんの記述が彼または彼女自身の内部でこだますることを求めているのです。ある意味で、その人は、自分に伝えられることを精神的あるいは概念的に自分のものにしたいのですが、それが可能であるとは信じられず、自分に関係があることであるとも考えられないために、その受け入れを拒否するのです。私たちは自分自身の「驚き」の概念に到達することができますが、驚きや驚愕が生じるためには、すべての古ギリシャ哲学の観点から言えば、人間が何か不可思議なものに直面し、それと同時に、何か関係があるもの、よく知っているものがそこにあると認識できなければならない、ということを認めなければならないでしょう。さて、ここで、以上の概念と、前回、私たちが私たちの魂の前に置いたあれらの概念との間に橋を架けることを試みてみましょう。前回お示ししたのは、喜んで犠牲を捧げようとする存在たちがいるということ、そして、ある存在たちがこれらの捧げものの受け取りを拒み、その犠牲がそれらを捧げた存在たちに戻ってくることによって、いかにある一定の前進が進化の中にもたらされるかということでした。私たちは、差し戻される犠牲の中に、古「月」進化期における重要な要素のひとつを認めました。実際、ある存在たちがより高次の存在たちに犠牲を捧げ、そして、後者がそれを差し戻したということが、古「月」進化期における最も重要な側面のひとつなのです。こうして、月存在たちの犠牲の煙がより高次の存在たちに向かって立ち上りますが、その存在たちは犠牲を受け取ろうとはせず、そのため、その煙は、実質として、犠牲を捧げようとした存在たちの中に導かれ戻されました。「月」存在たちに関して最も特徴的なのは、彼らがより高次の存在たちの元へと送り届けようとしたものが犠牲の実質として彼ら自身の中へと突き返されるのを感じたという点であるということもまた私たちは見てきました。そうですね、確かに、私たちが見てきたのは、より高次の存在たちの一部になろうとしたけれども、そうすることができなかった実質は、正にそれを送り出した存在たちの中に取り残されるということ、そして、そのことによって、拒絶された犠牲を差し出したこれらの存在たちの中に、あこがれへと向かう能力が生じたということでした。実際、私たちが私たちの魂の中であこがれとして経験するものすべての中には、古い「月」の上で生じたものの遺産、その犠牲が受け入れられなかったことを知った存在たちの遺産が今なお存在しているのです。古い「月」の発達期と、その精神的な雰囲気を精神的な観点から理解するとすれば、それは、当時、犠牲を捧げようとしたけれども、より高次の存在たちがその受け取りを差し控えたために、それが受け入れられなかったことを知った存在たちがいたという事実によって特徴づけられるでしょう。古い「月」の特徴的な雰囲気の背後にあるのは、他に類を見ないような憂鬱な状況、つまり、拒絶された犠牲なのです。そして、カインもまた彼の犠牲が受け取られなかったのを見たのですが、地球における人類進化の出発点を指し示すこのカインの拒絶された犠牲は、カインの魂を捉えた古い「月」進化の基本原則の繰り返しであるかのように現れます。ちょうど、古い「月」状態における存在たちの場合のように、そのような拒絶とは、あこがれを生み出す悲しみや痛みを私たちの中に生じさせるような何かなのです。私たちは、前回、古い「月」上に運動霊が入ってきたことによって、犠牲とそれが受け取られなかったことで存在たちの中に生じたあこがれとの間にバランスあるいは矯正が生じたということを見てきました。少なくとも、犠牲が拒絶された存在たちの中に生じたあこがれがある程度満足させられる可能性が創出されたのです。最も生き生きとした方法で次のように想像してください。犠牲を捧げられるべきより高次の存在たちがいますが、彼らはその犠牲の実質を送り返します。犠牲行為を行おうとした存在たちの中にあこがれが生じ、彼らは今や次のように感じます。「もし、私が犠牲を与えることができていたとしたら、私の中の最良のものがあれらの存在たちの中で生きることになっただろう。実際、私自身があれらの存在たちの中に生きていたことだろう。けれども、私はこれらの存在たちによって排除された。私はここに、そして、より高次の存在たちは向こうに立っている。」けれども、今や、運動霊に(私たちはこのことをほとんど文字通り理解しなければなりません)よって、これらの存在たちは、その中では拒絶された犠牲から来るあこがれが、より高次の存在たちに向かって煌めいているのですが、多くの異なった側面から、より高次の存在たちに近づくことができるような地点へともたらされます。拒絶された犠牲を捧げた存在たちを取り巻く、それのより高次の存在たちから受け取る豊かな印象によって、拒絶された捧げものとしてこれらの存在たちの中に留まっているものに均衡と補償がもたらされます。こうして、犠牲を捧げようとした存在たちとそれを拒絶したより高次の存在たちとの間にひとつの関係が創り出されます。それらの新たな関係によって、捧げものが差し戻されたために満たされることがなかったものが、あたかも犠牲が受け取られたかのように補償されるのです。もし、私たちが、より高次の存在たちを象徴的に太陽として視覚化し、より劣った存在たちが、ある一点にひとつの惑星として集まるものとして視覚化するならば、ここで意味していることを明確にすることができます。より劣った惑星の存在たちがその犠牲をより高次の惑星、つまり太陽に捧げることを欲すると仮定してみましょう。けれども、太陽はそれを差し戻し、犠牲の実質はそれを捧げた存在たちとともに留まらなければなりません。これらの存在たちは、その孤独と隔離の中であこがれに満たされます。そして、運動霊が彼らをより高次の存在たちの周りを巡る周回へともたらします。今や、犠牲を自分自身の中に保持する存在たちにとっては、より高次の存在たちに向けて直接、犠牲実質の流れを送り出す代わりに、その実質を彼らの周りを巡る動きへともたらし、それによって、その犠牲をより高次の本質を有する存在たちとの関係へともたらすことが可能になりました。それはちょうど、深いあこがれが、ひとつの大いなる達成によってではなく、一連の部分的な満足を経験することによってなだめられるようなものです。その人の魂全体が、そのような一連の部分的な満足によって、動きへともたらされるのです。私たちは前回このことを非常に正確に記述しました。私たちは、より高次の存在たちと内的に結ばれていると感じられない存在に、外から来る印象がひとつの代替物として生じるのを見てきました。これらの代替物としての満足は、そのような存在がいかに部分的な充足を達成するかということを私たちに示しているのです。けれども、捧げられるように意図された犠牲は、より高次の存在たちの中では、より低次の存在たちの中に留まったときに取る形態とは異なる形態を取ったであろうということは否定できません。と申しますのも、実際には、その意図された存在形態にとっての必要条件はより高次の存在たちの中にあるからです。ここでもまた、私たちはこれを図象的に想像することができます。もし、ある惑星の実質全体が「太陽」の中に流れ込んでいたとすれば、「太陽」がそれを拒絶しなかったとしたら、この惑星存在たちは、「太陽」存在として、「太陽」がその実質をその惑星に差し戻していたとしたら見いだしていたはずの条件とは異なる存在条件を見いだしていたはずです。私たちが犠牲の内容と呼ぶべきものの疎外(それはこの犠牲実質のその起源からの疎外)はその拒絶を通して生じるのです。次のことについてよく考えてみてください。存在たちが喜んで犠牲として捧げようとしたもの、つまり、その真の目的が達成されるのはそれが捧げものとして差し出されるときだけであると彼らが感じるようなもの、それを彼らは彼ら自身の内に保持せざるを得ません。もし、皆さんがそのような存在たちの経験を甦らせることができるならば、私たちが、「宇宙存在たちのある部分が自らの本質的な意味から、そして、偉大な宇宙の目的から排除されたできごと」と呼ぶところのものを経験するはずです。存在たちは絵画的に語るとすれば、実際には別の場所でその目的を達成できたはずの何かを彼ら自身の内に保持します。その結果、拒絶された犠牲の煙が排除されたこと、そのような犠牲の実質の排除によって、その犠牲実質はそれ以外の宇宙進化の過程から排除されるのです。もし、皆さんが、表現されていることを、単に皆さんの知性によってではなく、と申しますのも、知性はそのようなことがらに関しては機能しないからですが、皆さんの感情で把握するならば、皆さんは、普遍的な宇宙のプロセスから引き離されるということがどういうことなのかを経験するでしょう。犠牲を拒絶した存在たちにとっては、何かを彼ら自身から遠ざけたということに過ぎません。けれども別の存在たち、その中に犠牲の実質が留まる存在たちにとっては、それは自分自身の起源からの疎外という刻印を担っているような何かです。そのとき、そこにいるのはその実質が自分自身の起源から疎外されたことを示しているような存在たちです。このことを注意深く理解するならば、もし、それ自身の起源からの疎外がその中に潜んでいるような何かについてのこの考えを注意深く魂の前に置くならば、それは死についての考えであるということが分かります。宇宙における死とは、その犠牲が拒絶されたために、それを自分自身の内に保持せざるを得なかった存在たちの内部で生じたものに他なりません。こうして、私たちは、私たちが進化における第3の段階で見いだした諦めと拒絶から、より高次の存在たちによって拒絶されたもの、すなわち死へと進んで来ました。そして、死の真の意味とは、本来の場所に居るのではなく、本来の場所から排除された状態にあるということに他なりません。死が人生において具体的に発生するときにも同じ原則が当てはまります。幻想の世界に取り残される死体を見ますと、それは、死に際して、自我、アストラル体、そしてエーテル体から引き離され、それによって、肉体としての唯一の真の意義をそれに付与したものから疎外されることになった実質だけから構成されているのが分かります。人間の肉体は、エーテル体、アストラル体、そして自我なしには意味がないものだからです。死の瞬間に、肉体はその意味を失うのです。それはその意味の源泉から疎外されます。人が死ぬとき、もはや感覚では知覚できないものが、大宇宙の中で、自らを私たちに開示します。より高次の領域における宇宙的な存在たちが、犠牲として彼らにもたらされようとしたものを投げ返したために、この犠牲の実質は死を免れないものとなりました。死とは宇宙的な実質あるいは宇宙的な存在がその真の目的から除外されるということだからです。