Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2024年05月29日
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カテゴリ: 霊魂論



ゲーテの自然科学論序説並びに精神科学(人智学)の基礎(GA1)
第6章 ゲーテの認識方法 佐々木義之訳
 1794年6月にヨハン・ゴットリープ・フィヒテは彼の「科学理論」の最初の部分をゲーテに送りました。
参考画:Johann Gottlieb Fichte-01



 6月24日にはゲーテは此の著名な哲学者に次のように応えています。「私は哲学者なしで済ますことなど決してできませんでしたが、同時に、彼らとの一体感を持つことも決してできませんでした。もし、貴方が私を哲学者たちとの最終的な和解に導くことになるならば、私としましては、途方もない恩義を貴方に負うことになるでしょう。詩人がフィヒテに求めていたもの、以前はスピノザから得ようとし、後にはシェリングやヘーゲルに求めることになったものとは、彼自身の思考方法に完全に対応する哲学的な世界観でした。けれども、彼が出会った哲学的なアプローチのどれもが彼を完全には満足させませんでした。私たちは哲学的な観点からゲーテにアプローチしようとしていますから、このことは私たちの使命をよけいに難しくします。もし、彼が科学的な立場を求めていたならば、私たちはそれに言及することもできたでしょう。しかし、そうではありませんでした。したがって、私たちの使命は、私たちが入手可能な詩人の作品の全てを考慮しながら、その哲学的な中心を見極め、その際立った特徴を描き出すということです。この問題への正しいアプローチとは、ゲーテやシラーがその生涯を捧げたのと同じ「最高の」人間的な要求を満足させようとしてその道を歩んできたドイツ理想主義哲学を基盤とする思考の系譜に従うことであるというのが私たちの主張です。それは同じ文化的な運動から生じたので、今日一般に科学を支配している観点よりもはるかにゲーテに近いものがあります。この哲学から始めることにより、ゲーテの詩や科学に関する作品を導きだすことができるような観点をそこから構築することができるでしょう。科学における今日の傾向に基づいてそれを行うことは決しできません。それは、今日、私たちがゲーテの特質に生来備わっていた考え方から遠く隔てられているからです。実際、私たちがあらゆる文化的な領域で進歩したことは確かですが、それが「深さ」方向への前進であったと主張することはほとんどできないでしょう。結局のところ、ある時代の重要性は発達の深さによってしか測ることができませんが、私たちの時代は真の人間的な深化の可能性をことごとく拒絶したという事実によって最もよく特徴づけられる、と言いたくなります。私たちはあらゆる分野で気弱になってしまいましたが、それは特に私たちの思考と意志においてそうなのです。思考に関して言えば、際限なく情報は集積されますが、それを包括的な現実に関する科学的な観点という文脈の中に据える勇気がありません。一方、ドイツ理想主義哲学が科学的ではないといって責められるのはそのような勇気を持っていたからです。今日、人々は感覚によって「知覚」したいのであって、「思考」したいとは思っていないのです。思考への信頼は全く失われてしまいました。世界と人生の謎に貫き至る力は思考にはないと考えられているのです。人々は存在の大いなる謎に対する解決策なしに生きることに完全に甘んじており、唯一可能であると考えられているのは、「感覚的な経験によって与えられるものを体系化する」ということだけなのです。この観点は、はるか昔に克服されたと信じられている立場へと私たちを導くということが忘れられています。よく考えてみてください、あらゆる思考を拒絶し、感覚的な経験だけに頼るということは、宗教に見られる啓示に対する盲目的な信仰と同じものです。いずれにしても、そのような信仰は、お仕着せの真実として教会から与えられるものを信じなさいと言われることに基づいています。それらのより深い意味にまで貫き至ろうと努力したとしても、思考は「真実にアプローチする」能力、それ自身の力によって世界の深みへと貫き至る能力を欠いているのです。感覚的な経験に限定された科学は思考に何を要求するでしょうか?事実に基づく情報の考察とその説明、そしてその整理です。この科学は世界の中心にまで浸透する思考の独立した力を否定します。神学は人の思考に対して教会による支配への盲目的な服従を要求する一方、科学は感覚による支配への盲目的な服従を要求します。どちらも、独立した、深く洞察する思考には何の重きも置きません。経験主義的な科学が忘れているのは次のようなことです。つまり、何千何万という人々がある感覚知覚可能な事実を観察しながら、それについて何も特別なことに気づくことなく、そのそばを通り過ぎた後、誰かがそれを見て、ある重要な法則がその中に働いているのに気づく、というようなことがありますが、私たちはこれをどのように説明すればよいのでしょうか?その発見者はそれ以前にやって来た人たちとは異なる仕方で見ることができたはずなのです。その発見者は異なる目でその事実を知覚し、その事実を他の事実に「いかに」関係づけるかについて、あるいは、そこでは何が重要で何が重要ではないかについて、ある一定の考えを持っていた、ということです。そのように、科学的な発見を行う人たちは「思考」を通して彼らの経験を理解し、秩序づけますが、その結果、他の人たちに比べてより多くを見ることになるのです。「彼らは精神の目をもって見るのです。」あらゆる科学的な発見の基礎には観察者が正しい思考によって導かれるような仕方で観察できる状況が横たわっています。「考える」ということが観察を導くのは当然ですが、探求する人がそれへの信頼を失い、その適用範囲と重要性を理解しないのであれば、そうはいきません。何の助けもなく現象の世界をさまよい歩く経験的な科学はその経験へと貫き至る思考のエネルギーを欠いています。そのため、それにとって世界は個別的なものの混乱した多様性となります。今日、人々が認識の限界について語るのは、思考の使命を理解し損なっているからです。彼らは自分たちが「何を」達成したいのかについて、明確な観点を欠いており、それを達成する能力に疑いを抱いています。今日、誰かがやってきて存在の神秘に対する解答を私たちに示したとしても、私たちはそれをどうしてよいか分からず、それから得られるものは何もないことでしょう。私たちの意志や行為についても全く同様です。人々は実際に達成することができる明確な人生の使命を自分たちに課すことができないでいるのです。彼らは不明確で漠とした理想について単に想像するだけです。そして、彼らは彼らがほとんど思い描くこともできないようなものを達成できないからといって不平を言います。今日の厭世主義者たちに、彼らが実際何を望んでおり、何が達成できないからといって絶望しているのか聞いてみるとよいでしょう。彼らには何の考えもありません。彼らの本質は問題の中に絡め取られ、いかなる状況にも対処できず、いかなるものにも満足することがありません。誤解しないでいただきたいのですが、私は人生における瑣末な喜びに満足し、何らより高次のものに憧れることのない表面的な楽観主義を奨励したいのではありません。私たちのあらゆる行為を麻痺させる状況、私たちがそれを変えようとして無駄な努力をしている状況へのきわめて悲劇的な依存に対して、苦痛に満ちた意識を有する人々を責めるつもりもありません。苦しみは楽しみの先駆けであることを忘れないようにしましょう。子供たちの繁栄という母親の楽しみは、その楽しみが心配や苦しみ、そして努力によって勝ち取られたものであればあるほど、より甘美なものとなります。実際、考える人であれば誰であれ、外的な手助けによって差し出されるどんな幸せも拒否しなければならないでしょう。何故なら、私たちは、結局のところ、努力せずに手渡される賜物によっては本当の幸せを経験することはできないからです。もし、創造主が幸せを遺産として人間に付与するつもりであったのであれば、そもそも私たちを創造しなければよかったのです。そうすればもっとうまくやれたはずです。人間の尊厳が高まるのは、私たちが創造したものがいつも無残にも破壊されるときなのです。いずれにしても、その結果、私たちは絶えず新たに構築し、創造しなければなりません。私たちの幸せは私たちの行為の中に、私たちが達成するものの中にあります。顕現された真実は苦労せずに与えられた幸せのようなものです。私たち人間の尊厳は、感覚的な経験や顕現によって導かれるかどうかではなく、私たち自身で真実を追い求めるかどうかにかかっています。一度このことが完全に認められるならば、顕現された宗教は自らの役割を果たしたことになります。もはや人々は神の顕現を求めたり、いくらでも与えられる祝福を望んだりはせず、彼ら自身の思考を通して得られる認識や彼ら自身の努力を通して得られる幸せを欲することでしょう。私たちにとって、より高次の力が私たちの運命をより良い方向に導こうとしているのか悪い方向に導こうとしているのかはどうでもよいことです。私たちは自分で自分たち自身の道を決定しなければなりません。神性についてのもっとも高められた考えとは、それでもやはり神なのですが、それは、人間を創造した後、完全に世界から手を引き、全面的に私たち自身の工夫に委ねる神なのです。 感覚による知覚能力を超えた知覚能力を思考に帰する人であれば誰であれ、この能力は感覚知覚可能な現実を超えた対象に狙いを定める、ということもまた認めなければならないでしょう。思考の対象は「アイデア」です。私たちの思考が、あるアイデアを理解するとき、それは宇宙的な存在の根本と一体化します。外的な世界の中で生き生きと活動するものが人間の精神の中に入ってきます。すなわち、人間はその最高の力を持って、客観的な現実と「ひとつになる」のです。「外的な現実の中にアイデアを見ることは、人間の真のコムニオン(聖体拝領、交わり)なのです。」。思考のアイデアに対する関係は、目の光に対する、耳の音に対する関係と同じです。すなわち、「知覚器官」なのです。この観点は、現在、完全に相容れないものと考えられている二つのアプローチ、科学的な世界観としての経験主義的な方法と理想主義を統合するものとなります。今日、経験主義的な方法を受け入れるということは必然的に理想主義の拒絶につながると信じられています。これは確かな真実ではありません。もちろん、もし、私たちが、客観的な現実の唯一の知覚器官は感覚であると信じているとすれば、私たちの結論はそうなるでしょう。感覚が提供するのは機械的な法則へと還元できるようなことがらの間の関係だけです。それに基づけば、機械論的な世界観が唯一のものとなります。しかし、この観点は、機械論的な法則に還元することが「できない」ような、他の同様に客観的な現実の要素を単に無視するという間違いを犯しています。「客観的に」与えられるものは、機械論的な観点が主張するような「感覚に」与えられるものとは決して一致しません。感覚に与えられるものは、与えられるものの半分に過ぎません。他の半分は「アイデア(*ルドルフ・シュタイナーの語彙:観念、理念)」から成っています。それはまた経験、それは確かに、より高次の経験での対象でもあり、思考器官によってアクセスすることができるものです。ですから、アイデアは帰納法によっても達成することができます。現代の経験主義的な科学は全く正しい方法に従っています。つまり、その方法は与えられたものに忠実に従うのですが、受け入れられない規定をつけ加えるのです。つまり、その方法は感覚知覚可能で事実に即した結果に導かなければならないという規定をつけ加えます。私たちは、「いかにして」私たちの観点に到達するかという問題に自らを限定するのではなく、むしろ、初めから、これらの観点の本質とは「どのような」ものかということを決定します。唯一満足できる科学的なアプローチとは、その結果として、アイデアへと導く経験主義的な方法です。それは理想主義なのですが、漠然と想像された「普遍的な統一性」を追及するような種類のものではなく、今日のきわめて正確な科学が事実を追い求めるときと同じ経験の確かさをもって、現実に関する具体的なアイデアを把握しようとする理想主義なのです。私たちは、これらの観点をもってゲーテにアプローチすることにより、彼の存在の正に本質へと突き進んでいると信じています。私たちは理想主義を掲げているのですが、私たちがその発達の基礎とするのはヘーゲルの弁証法ではなく、より高次の、より純化された経験主義です。エドゥアルト・フォン・ハルトマンの哲学もまた同様の観点に基づいています。彼は、理想的な統一体が、実際の形態の中で、内容に満たされた思考に自らを譲り渡すときのその統一体を自然の中に追い求めました。彼は単なる機械論的な世界観や外観にしがみつく超ダーウィン主義を拒絶しました。科学において、彼は具体的な一元論を打ち立て、歴史や美学においては、具体的なアイデアを追求しました。このすべてにおいて、彼は経験論的、帰納的な方法論に従いました。ハルトマンの哲学が私のそれと異なっているのは、厭世主義の問題、そして、彼の「無意識的なるもの」を形而上学的に強調する点に関してだけですが、これについては後で議論することにします。ハルトマンが厭世主義の「基礎」として提示するもの、世界には何も満足すべきものはなく、不満足はいつも楽しみよりも多いという観点は、正に、私たちが人間として、私たちの「幸運」と呼ぶところのものです。彼が提供するものは、私にとっては、幸福を追求することに意味はないということの証明に他なりません。私たちは確かに、あらゆるその手の努力を放棄し、私たちの理性により設定される理想主義的な使命を無私の態度で達成することに私たちの人生の目的を見出さなければならないでしょう。このことは正に、私たちは「創造」という絶えざる活動の中にのみ自分たちの幸せを追究すべきであるということを意味しているのではないでしょうか。自分たちの運命を何とかして成就しようとする人々とは、活動する人々、実際、その活動において鷹揚な人々、何ら報酬を望まない人々をおいて他にありません。私たちの活動に対する報酬を望むことは馬鹿げたことです。つまり、真の報酬などあり得ないのです。ハルトマンはこのような洞察の上に立脚すべきです。彼が指摘しなければならないのは、そのような状況下で、私たちの活動に対する動機づけは実際にはひとつしかあり得ないということです。望む目標を達成する見通しが崩れ去るやいなや、その動機づけとなる力はその対象自体への無私の献身以外にはあり得ません。つまり、「愛以外にはあり得ないのです。」、愛から生じる行為のみが道徳的であり得ます。科学においては、私たちを導く星は「アイデア」でなければなりません。私たちの行為においては、それは「愛」でなければなりません。そして、このことは私たちをゲーテに引き戻します。「活動的な人間は正しいことを行うことに関心があるのであって、正しいことが起こるかどうかにではない・・・。生きるという行為には、存在するために自分たちの存在を諦めるということが含まれる。(散文における韻)」。このことに関しては、私はゲーテやヘーゲルを研究することによってのみ私の世界観に到達したわけではありません。私は、機械論的、自然主義的な世界観から始めたのですが、そのとき気がついたのは、強化された思考はそのような見通しを受け入れがたいものにする、ということです。私は厳密な科学的手法に従って前進しながら、客観的な理想主義が唯一満足すべき世界観であることを見出したのです。私の「認識論」は、いかに思考が、それがそれ自身を理解し、それ自身と矛盾しないときにこの観点に到達するかを示しています。そして、私は、この客観的な理想主義が、その根本的な洞察において、ゲーテの世界観に十分に浸透するということに気づきました。私自身の観点は、実際、何年にもわたって、私のゲーテ研究と平行して発展してきました。そして、私の基本的な見通しは「原則として」ゲーテの科学的な仕事とは決して衝突しないということが分かりました。もし、私が、第一に、私の観点をそれが他の人たちの中にも生きるような仕方で発展させることに、そして、第二に、これは確かにゲーテの立場であるということを彼らに確信させることに、少なくとも部分的にでも成功していたならば、私の使命は達成されたと考えられます。    (第6章了)
参考画:ドイツ国民に告ぐJohann Gottlieb Fichte-02




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最終更新日  2024年05月29日 06時11分26秒
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