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かなり久々に、鉄道忌避伝説のカテゴリでエントリを書きます。もっとも、鉄道忌避とは直接関係がなく、約100年前の駅名をめぐるお話ですが。昨日のことなんですが、1928年に総武線の新小岩駅が開業した際、地元住民が「下総小松」の駅名を希望していた…という話を、初めて聞きました。即座に違和感。だって、新小岩の所在地って、武蔵国だったじゃないですか。ちょっと歴史を聞きかじった方なら「昔の武蔵国と下総国の境界は隅田川。だからその畔に『両国』という地名がある」なんて得意気に語ったりするところでしょうが、そもそも武蔵国と下総国の境界は江戸時代初期に隅田川から江戸川に変更されており(参考)、そのまま廃藩置県を迎えている訳だから、歴史の連続性を考えれば墨田川東岸に住む都民にとっては武蔵国への帰属意識の方が強いんじゃないかと思うんですよね。住民側から「下総小松」案が出たとはちょっと考えづらいです。今現在に関して言えば、帰属意識は明らかに武蔵国。じゃなきゃ墨田区にある東京スカイツリーの高さが634メートルなんて数値になることはないはずです(参考)。ただ、100年前となるとちょっとわかりませんね。当時の資料を漁る必要性を感じますが、ネット上ではちょっと出てこない。一応「葛飾区史編さんだより」にこのような記述(2ページ目を参照)がありますが、あくまで伝聞の域を出ないような書き方ですし…興味関心は湧くところなんですが、わざわざ調べようと思って新小岩まで出向くほどのことでもない。鉄道関連の昔話の真偽を探る難しさは、この点にあります。今回は駅名に関するネタを紹介しましたが、鉄道忌避伝説に関しても、同様のことが言えると痛感します。新小岩 オリジナル Tシャツ 書道家が書く おすすめ プリント Tシャツ 【 地名 】 メンズ レディース キッズ S M L LL XL XXL 120 130 140 150 G-S G-M G-L 【 格言Tシャツ おもしろtシャツ ポイント消化 サプライズ 等 】
2024.06.16
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え~、当ブログには「鉄道忌避伝説」というカテゴリが一応あるのですが、殆ど活用されていないんですよね(苦笑)実はこのカテゴリ、福島県内の東北本線沿線に残る鉄道忌避伝説について「ウソだろ、これ!」と突っ込むために作成したのですが、ネタ切れのためここ数年放置状態だったという訳。でも、福島県内を見渡してみると東北本線の他にも鉄道忌避伝説が残っていることを、今日初めて知った次第。ネタ元はこちらのブログなのですが、いわき市南部の窪田や小名浜で鉄道忌避伝説があるらしい。でも、このブログはこの辺についてきちんと考察していて「鉄道忌避伝説については恐らく史実ではないだろう」というニュアンスで結論付けているのは、非常に私好み(笑) 特に郷土史家の中には鉄道忌避伝説を無条件に信じる人も少なくなく、結果伝承が無批判に拡大された傾向があるのですが、このブログを執筆された方は同じ郷土史をブログのテーマにしつつも史実を丹念に紐解こうとする姿勢が、非常に良いと思います。クリアファイル常磐線
2014.11.07
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いわゆる鉄道忌避伝説の類は一切信じない性質なんですが、仮にその伝説が正しかったとして住民の反対や誘致がなく当初のルート通りに線路が敷かれたらどうなっていただろうかと思うことは、時々あります。妄想の代表例が、仙台駅でしょうか。ちなみにこのケースでは、1887年の鉄道開通当時、当初の予定では市街地東側の宮城野(あるいは榴岡)に駅が設置される予定だったのを住民が誘致して市街地まで線路を引っ張り込んだという逸話が残っています。鉄道忌避伝説というよりは、鉄道誘致伝説の事例ですね。現在、当初の予定とされるルートにほぼ沿う形で、1961年に開通した貨物線が通っています。そして、貨物線の沿線にある宮城野貨物駅付近が、仙台駅の予定地として語られるケースが多いようです。この辺りにもし駅が開業していたとするならば、確かに、国分町や大町といった(当時の)繁華街からは距離がありますね。ただその分、駅と繁華街とを結ぶ軌道系交通機関はかなり発達していたようにも思うんです。1976年に廃止された市電も、まだ健在だったかも。現在の熊本みたいな感じですかね。また、その熊本の交通センターのような大規模なバスターミナルが、市電の停留所に隣接してできていたかもしれません。戦後の仙台市は市街地東部に広がる田園地帯の市街化を規制していたため市街地西部の丘陵地で宅地開発が進んだ経緯があるから、バスターミナルはかなりの重要度を誇っていたであろうと推察されます。一方、駅前に目を移すと、近くに寺院が建ち並ぶ新寺小路があるため、開発が難しそうなイメージがあります。首長の鶴の一声で寺院が集団移転して「新・新寺」が新たに造成されていたであろう可能性はあるのですが、寺院をどかして新しい市街地を開発したところで、縁起の悪さは付きまといそう。「あそこは昔墓場だったんだ」などと気味悪そうに語る古老も続出しそうだし、他地域からの移住者が少なかった高度経済成長期以前まではさほどの発展が見られなかったような気はします。でもその分、バブル期に高層ビル街へと変貌を遂げていたかも… という予感はなきにしもあらずなんですけどね。ただ、仙台城大手門から大町、新伝馬町、名掛丁、二十人町と続いている仙台城下町の東西軸であった道路を駅前まで上手く引き入れることができたならば、そこは発展が望めそう。ひょっとしたら、駅前から大町まで3キロ以上の区間がオールアーケードなんてなっていたかもわかりませんね。また、この道路の東の延長上にあり駅の真北に位置する原町(はらのまち)も、繁華街の一つとして現状よりも発展していたものと推察されます。 JRE 駅名キーホルダー(仙台駅) 東北新幹線 キーホルダー【鉄道グッズ/鉄道雑貨】
2010.06.01
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では、どうして、常葉に鉄道忌避伝説が起こってしまったのか。実は、磐越東線開通当時の常葉は福島県田村郡(現在の田村市、田村郡及び郡山市のうち阿武隈川東岸)においてそれなりに人口の多い地域だったいう事実があります。ウィキペディアにおける田村郡の記事によると、常葉の町制施行は1898年で、三春(1889年)、小野新町(現・小野町。1896年)に次いで三番目という早さ。現在の常葉町域は人口6,000人ほどしかないので、意外な感じすらします。意外と言えば、磐越東線の主要駅があり現在田村市の市役所が置かれている船引は逆に町制施行が遅く、なんと常葉から遅れること36年も経った1934年の施行。磐越東線が開通した1915年時点では片曽根村という名前でした。ちなみに、片曽根とは町の南方に位置しその円錐状の形から「田村富士」とも形容される片曽根山のこと。一般に自治体名は規模の大きな大字があった場合その名前が付けられるものですが、そうではなかった点に逆に船引の規模が小さかったことが伺えます。この歴史が今なお尾を引いている証左として、三春と小野には警察署があるのに船引にはないという現実を挙げることができます。また、田村郡においては、船引に続いて1940年に滝根、1942年に大越と、磐越東線沿線の地域で町制施行が相次いでいます。この背景には当地で多く産出される石灰石を基盤とした鉱工業の発展という側面もあるのでしょうが、これらの重要な輸送手段でもあった(なんと2000年まで石灰石輸送の貨物列車が運行してました)磐越東線開通の影響も、ある程度はあったでしょう。特に鉄路から外れた常葉の人たちにとっては、「自分たちの地域は元々発展していたのに鉄道がなかった故に出遅れた」という思いは強かったものと推察されます。この思いを下敷きにして紡ぎ出されたのが、常葉の鉄道忌避伝説ではなかったでしょうか? 伝説そのものには否定的な見解を下さざるを得ませんが、常葉の置かれた立場には、同情できる面もなくはありません。ゼンリン住宅地図 B4版 田村市(常葉・都路) 発行年月200505 07211C10A
2009.01.15
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先日、適当にネットサーフィンしていたら、ウィキペディアにおける磐城常葉(いわきときわ)駅の記事に、面白い文章を発見しました。以下、少々長くなりますが引用します。「(1917年に全通した磐越東線は)本来の計画では常葉町七日市場地区に駅が設けられ、同町関本地区を経由して大越駅に抜ける予定であったが、鉄道敷設に反対の声が上がった。 それは三春町から物資の輸送を担当していた60台からなる馬車組合と農地の解放を渋る農民であった。また、政治的な感情も鉄道敷設問題に影響した。当時、憲政会と立憲政友会の対立が強まりつつあった。常葉町民は明治初期に当地の戸長を歴任した河野広中を絶対支持しており、河野が所属する憲政会の勢力が強い地域であった。 そこで憲政会を支持する町民は、この鉄道敷設計画は憲政会と対立する立憲政友会の西園寺公望を総理とする政府の計画であるとして反対運動を展開した。この結果、計画は変更となり常葉町を避けて敷設された。」簡単に言うと、磐越東線の敷設時に田村市常葉町で鉄道忌避の動きがあった、ということです。なお、この文章はどうやら「福島県史」を下敷きにしているらしく、時の政治家や政権の名前まで登場して、もっともらしい話に仕上がっています。しかし、鉄道忌避伝説の面白い所は、「基礎史料の明示がない場合、例え自治体史のようなオフィシャルな歴史書であっても、真実が書かれてない可能性が多分にある」という点。ちょっと調べてみるとわかるんですが、この文章もまた、率直に言ってトンデモ話なんですよね。以下指摘してみましょう。(1)「本来の計画では常葉町七日市場地区に駅が設けられ、同町関本地区を経由して大越駅に抜ける予定であったが」地図については読者各自で確認して欲しいのですが、この部分からして既に噴飯モノ。推察するに磐越東線は田村市船引町から大滝根川や都路街道(現在の国道288号線)に沿って常葉まで東進する計画だったと読めます。ちなみに、七日市場とは常葉の中心街の東端にあたる地域。ここまではいいのですが、その後の「関本地区を経由して大越駅に抜ける」云々が明らかに変。関本は常葉の町の真南にあたりますが、ここから大越の間には標高500メートル前後の山々が連なっており、少なく見積もっても2キロ以上のトンネルを掘らなければ直通できないのです。磐越東線の建設が進められた1910年代の初頭には既にこのクラスのトンネルがいくつか開通してはいるもののいずれも「そこを掘らなければならない」必然性ゆえのものであり、トンネルの回避が可能な路線にわざわざ掘ったケースは皆無でした。また、現行の磐越東線の船引~大越間の距離は8.2キロですが、常葉を経由するとなると、確実に2倍近い距離になります。常葉の馬車組合や農民が鉄道敷設に反対したのかどうかはわかりませんが、そもそも常葉は西の船引方面を除く三方を丘陵や山岳に囲まれており、鉄道建設のリスクが大きい場所なんです。例え当時磐越東線の誘致がすすめられていたとしても、願いがかなえられる可能性はそう高くはなかったでしょう。(2)「当時、憲政会と立憲政友会の対立が強まりつつあった。常葉町民は明治初期に当地の戸長を歴任した河野広中を絶対支持しており、河野が所属する憲政会の勢力が強い地域であった。 そこで憲政会を支持する町民は、この鉄道敷設計画は憲政会と対立する立憲政友会の西園寺公望を総理とする政府の計画であるとして反対運動を展開した。この結果、計画は変更となり常葉町を避けて敷設された。」確かに河野は1870年代前半にこの地域の戸長を務めた経験があります。また、磐越東線の建設当時、反立憲政友会の立場を貫いていたのも事実です。が、当時の日本の政治状況は現在のように一つの政党がずっと与党にいるといったものではありませんでした。その中で河野自身も政権の中枢にいたことがあり、奇しくも磐越東線(当時の呼称は平郡西線)の三春~船引~小野新町間が開通した1915年には、第二次大隈重信内閣において農商務大臣の地位にありました。また、そもそも河野は三春出身であり、その三春には鉄道が通じているのに常葉で反対運動が起こったというのも、おかしな話です。なお、瑣末な話になりますが、憲政会という政党は、田村市内の磐越東線が開通した翌年の1916年に結成されたものです。従って「対立が強まる」云々という話も、正確な情報とは言えない面があります。そんな訳で、この文章(厳密に言えば「福島県史」か?)の執筆者の知識、常識をちょっと疑ってしまうのでありますが、どうしてまたそんな話が出来上がってしまったのか? 次の日記では、その背景を、私なりに探っていきたいと思います。Hi-vision 列車通り ゆうゆうあぶくまライン 磐越東線 いわき~郡山(DVD) ◆20%OFF!
2009.01.14
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今なお信じる人が多い東北本線敷設時に起こったとされる阿武隈急行沿線住民の鉄道忌避伝説には思いっきり否定的な私(参考)ですが、同様の考えを持つ地元民は、何も私だけではないんですよね。こないだ暇つぶしにネットサーフィンしていたら、鉄道忌避伝説発祥の地(?)である伊達市のホームページにこんなページがあるのを発見。以下、気になる文章を抜き出すと、「東北本線が通らなかった梁川・保原 明治20年(1887)に東北本線が開業しました。その建設にあたっては、当初は現在の阿武隈急行ルートが検討されましたが『蒸気機関車の煤煙が桑や繭を汚す』『阿武隈川の水運が寂れる』などの理由で沿線地域の反対にあい、東北本線は現在の経路になったといわれています。 同じような話は『鉄道忌避伝説』として全国にありますが、実際には、当時の土木技術が現在に比べて低く、橋梁やトンネルをなるべく避けたり、地盤や地形の制約があったりしたため、結果的にその地域を通らないルートが選択されたものも多いとされています。 例えば、福島~槻木間で見ると阿武隈急行は福島と丸森で2度阿武隈川を渡り、トンネルも東北本線に比べてかなり多くなっています。昭和40年代以降に建設された鉄道は土木技術の進歩によって長いトンネルや橋梁が多く、一概に比較はできませんが、明治時代に建設が容易だったのは現東北本線ルートであったことは想像に難くありません。」とのこと。伊達市においてこの記述がみられたのには正直驚きです。この文章を執筆された方も、感情論に左右されないさばけた方なんだろうなと推察されます。伝説を信じる人たちは、いい加減に目を覚ますべき時が近づいているのかもしれませんね。【予約販売】一度は食べてみたい♪献上桃(モモ)・の郷福島県産【送料無料】【予約販売】福島県伊達市献上・桃(もも)の郷特秀プレミアあかつき2kg1箱7~10玉入り【0728モバイル送料無料】【0804モバイル送料無料】【0804お得10】
2008.10.21
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先日、ウィキペディアの阿武隈急行の項を見ていたら、「阿武隈急行線(丸森線)と東北本線」とのタイトルで、以下の文章が挿入されているのを見つけました。「地元には、以下のような話が伝わっている。東北本線を開発していた明治時代、本来東北本線は勾配が少ない阿武隈川沿い(現在の阿武隈急行線のルート)を通るはずだった。しかし、当時伊達郡の保原、梁川地域は養蚕で栄えており、蒸気機関車が吐き出す煙や火の粉の桑畑への被害や火災を恐れて反対した。その結果、東北本線の計画は、大きな反対運動がなかった桑折、国見方面に変更され、急勾配のある現在の東北本線ルートとなった。というものである。しかし、この話は都市伝説であり真実ではない。現在の阿武隈急行線をみても福島県と宮城県の県境(阿武隈峡谷)付近の約15kmは、トンネルや高架などを駆使した難工事であり、明治時代の土木技術では阿武隈川沿いのルートを通すのは困難であった。阿武隈川沿いのルートよりは、急勾配であっても国見町、白石市を通る現在の東北本線のルートの方が現実的だったのである。」この文章の趣旨には概ね同意しますね。ついでに言えば、明治時代の土木技術について述べた部分に「橋梁」も加えて欲しかったなぁ。現在の阿武隈急行は阿武隈川を2回渡っていますが、当時はそれだけでも建設上のリスクとなったはずですからね。ところで、文中に「都市伝説」の文字が出てきますけど、阿武隈急行沿線地域の鉄道忌避伝説という都市(?)伝説はいつごろ発生したのでしょう? 個人的には、そっちの方にも興味があります。多分、1960~70年代に阿武隈急行の前身である国鉄丸森線の建設促進運動が盛り上がりを見せた際に、地元の有力者あたりが他地域(それこそ三多摩の甲州街道沿いとか愛知県岡崎市とか)の鉄道忌避伝説を持ち出して「わが地域でもそういう歴史があったに違いない!」なんて口走っちゃったのかな?と推察しますけど。暇ができたら、福島県歴史資料館あたりに出かけて、ちょっと調べてみようかな。
2007.10.26
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仙台駅には、「東北本線が開通する際、仙台駅は現在の宮城野区榴岡付近に設けられる予定だったが、住民の誘致により、繁華街に近い現在の地に設けられることになった」という鉄道誘致伝説が存在します。こういう話を耳にするとやれ「宿場が寂れる」だの「農作物が枯れる」だのといった理由で住民が鉄道敷設に反対した鉄道忌避伝説は少なくともその理由においては正しくないなと思うのですが、仙台の鉄道誘致伝説もまた、個人的には疑問を感じているんですよね。地図で見ると確かに、仙台駅付近の東北本線はまるで仙台駅に立ち寄るためだけのように不自然に西側に偏っているし、また地図上ではわかりにくいですが、標高面でも、東北本線は仙台駅から2キロほど南の三百人町付近では築堤の上を走っているのにそこから1キロほど仙台駅に近い連坊付近では切り通しの下を走っています。つまり、それほどの高低差がある所を無理して通っている訳。仙台の誘致伝説は石澤友隆「流行歌・『ミス・仙台』 ~郷土・仙台の近現代史散歩~」(河北新報社 2005年)に詳しく紹介されており、同書と現地の地形を確認すると伝説が正しいのかな… とついつい思わされてしまうぐらいです。でも、よく考えてみれば、仙台のように「街に立ち寄るために線路が不自然にカーブしている」ように見える箇所は、全国を探せば結構あるんですよね。大阪駅とか会津若松駅とか。会津若松とか西武池袋線の飯能、富山地方鉄道の上市あたりは、路線自体がスイッチバックしてますしね(笑) それぞれに歴史的背景があるのでしょうが、仙台の場合は、二つほど理由が考えられます。まず一つは、駅までの取り付け道路。駅があっても道路がなくては、人間も貨物も運搬に支障を来しますよね。白河以北仙台以南の東北本線で開通と同時にできた駅(白河、矢吹、須賀川、郡山、本宮、二本松、松川、福島、桑折、白石、大河原、岩沼)は、松川を唯一の例外として、すべて古くより通じていた奥州街道の至近に設けられていることを考えると、仙台もまた、道路事情が良くなかった榴岡よりも奥州街道と並んで仙台のメーンストリートだった石巻街道(ちなみに両街道の交点が、仙台城下町の道路原標である芭蕉の辻)に近い現在地に設けたほうがメリットが大きいと考えられたのではないでしょうか。もう一つは、東北本線が捻じ曲がっているのは、結果論に過ぎないこと。敷設者の日本鉄道が現在の仙台市泉区や富谷町、大和町… と奥州街道沿いを直進する東北本線構想を計画していたとするならば、逆に榴岡に駅を設けようなんて考えにはならなかったと思うんですよね。
2007.10.12
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昔の地図を見ると、福島県中通りから会津若松に至るメインルートは、白河から須賀川市西部や郡山市湖南町を経由する現在の国道294号線に近いルートと、本宮から郡山市熱海町に出てそこから西は現在の国道49号線にほぼ該当するルートの二つあったんですね。ところが、明治時代に敷かれた鉄道は、郡山から磐梯熱海に出るルート。当時福島県最大の都市だった若松と県庁所在地の福島とを結ぶルートの結節点となったことが、後の郡山の発展に寄与した部分は少なくなかったでしょう。中通りから会津若松までの地形を見ると、鉄道が敷けそうなルートは熱海から中山峠を越えて猪苗代に出、猪苗代からは日橋川に沿って下り北側から若松に入る方法しかないことが、何となく理解できます。また、磐越西線敷設の所期の目的のひとつが信越本線に続く東京~新潟間の連絡線だったことを考えると、東京方面からだとスイッチバックする線形になってしまう本宮よりもスンナリ出入りできる郡山の方に地の利があります。ただ、謎なのは、若松から西のルート。どうして会津若松でスイッチバックするルートになってしまったのでしょうか? 若松の真北にある喜多方をどうしても通したかった(誘致運動があった)が故のスイッチバックという話もありますが、只見線が若松の街の西端を通りぬけて会津高田~会津坂下と通っていることを考えると、最初からそのルートで行けたんじゃないかと思うんですよね。でもって、坂下からは更に真北に進んで山都で現在の磐越西線と合流すれば、特段きつい勾配もなさそうだなと思うんですけどね。でも、そのルートだと、喜多方経由に比べて距離が長すぎるか(苦笑)直通運転に支障を来すスイッチバックという犠牲は払っても距離を短くするのが得策と、当時の鉄道関係者は考えたのでしょうか? いずれにせよ、それなりの幹線鉄道にしてはまどろっこしい線形になってしまってますね。
2007.02.15
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今日、こちらの掲示板を見て、驚きました。掲示板の[12]の記事に秋田県能代市の鉄道忌避伝説についての議論が掲載されているんですが、書き込んだ方の意見はもちろんのこと、その論拠となる参考文献の内容まで詳細に書き込んでいるので、なかなか読み応えがありました。ただ、書き込んだ方も参考文献を書いた方も、総じて頭から抜け落ちている事柄があるんですよね。それは、「奥羽本線は秋田から能代方面へと建設された」という先入観を、どうやら持っていそうなこと。事実は逆で、このあたりの奥羽本線は青森方面から秋田を目指して建設されているんです。だから、敷設当時の技術者の立場から見ると、能代の市街地の扱いも少し変わってくるのかな? と思うんです。つまり、秋田側から見れば能代は羽州街道~国道7号線と連なる秋田県北部を縦貫するメインルートの延長上(経由地ではない)にあるし奥羽本線も街の手前で直角に曲らずにまっすぐ能代の街へ立ち寄り米代川を渡ってから向きを西へ変えるとか能代でスイッチバックするという発想にもなるんでしょうが、青森側から見れば能代は確かに重要な街だけど秋田を目指す過程においては寄り道するには遠回りだし市街地の至近に駅(現在の東能代駅)を作るにとどめようという話になるんじゃないかと思うんです。いや、あくまで推測ですよ。ただ、地図の見方によって、能代の位置は「奥羽本線が通っていないのはおかしい!」ともとれるし「奥羽本線のルートから外れたのは仕方ない」ともとれるんですよね。
2006.12.24
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ここ数日、東北本線ばかり見てきたので、今日は奥羽本線沿線の地図を見ていました(←あんまり変わらないじゃん・笑)日本鉄道が敷設した東北本線とは違い当初から官営だった奥羽本線ですが、線路の敷き方は、東北本線とそう変わりがないようです。福島と山形との県境の板谷峠は最急38パーミルの急勾配ですが、地図を見る限り、福島市飯坂町茂庭~山形県高畠町間の鳩峰峠や宮城県七ヶ宿町~同じく高畠町間の二井宿峠よりも確実に線路が敷けそうな感じですしね。川は交通路の母とは良く言ったもので、板谷峠の場合、福島側で松川、山形側で羽黒川が流れていたのが、ルート選択の決め手になったような気がします。また、駅や信号所の間隔についても、概ね10キロ弱と、当時の東北本線や常磐線の駅間距離と同程度と言えます※。ただ、東北本線に比べると、市街地から離れて駅が作られたケースが、若干目立ちます。代表的なのが、米沢、赤湯の2駅。ただしこれらについては、米沢が松川(最上川のこと。福島の松川とは別の川)への架橋を避けた結果、赤湯は町の真北にある丘陵越えに備えるため町の近くに駅を作ることができなかった結果で、いずれも建設上の都合によるものと考えられます。特に米沢では鉄道忌避の話が伝わっているようですが、恐らくそれは史実ではないでしょう。ただ、どうしても分からないのが、大石田駅の位置付け。上山から大石田の手前までの奥羽本線は羽州街道沿道をきちっと通っているのに、ここでは羽州街道沿いの尾花沢ではなく、西方約3キロにある最上川の河港・大石田にわざわざ立ち寄っています。これは尾花沢が鉄道を忌避した結果なのか、はたまた逆に大石田が鉄道を誘致したのか。ひょっとして大石田から酒田方面への舟運との接続を考えてのことなのか? でもその割には駅と河畔とは1キロほど離れていて接続が良いとは言えないし、いったいなぜ奥羽本線は、大石田に立ち寄ったのだろう?※1903年に福島~新庄間が開通した段階で開業していた駅、信号所とその間隔は、下記の通りです。福島~6.9キロ~庭坂~7.7キロ~赤岩信号所~6.6キロ~板谷~3.3キロ~峠~4.3キロ~大沢信号所~6.0キロ~関根~5.3キロ~米沢~9.8キロ~糠ノ目(現・高畠)~6.2キロ~赤湯~8.3キロ~中川~8.6キロ~上ノ山(現・かみのやま温泉)~12.1キロ~山形~7.8キロ~漆山~5.5キロ~天童~5.9キロ~神町~7.2キロ~楯岡(現・村山)~13.4キロ~大石田~13.4キロ~舟形~8.3キロ~新庄(ただし、峠は開通当初は信号所、中川、漆山は、開通当初は駅はなく新庄開通までの間に開業)
2006.12.21
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これも以前の日記に書いたことがあるんですが、東北本線の開通と同時に開業し奥州街道の宿場町に所在する駅は、その大半が、宿場町に接して設けられています。南から順に行くと、栗橋、古河、小山、石橋、宇都宮(もっともここは、市街地の外れといえば外れですが…)、白河、矢吹、須賀川、郡山、本宮、二本松、福島、桑折、白石、大河原、岩沼、仙台、一ノ関、前沢、水沢、黒沢尻(現・北上)、花巻、盛岡と、路線自体が無駄な遠回りを避けるルートを選択している割には旧い町を外していないのです。例外は、松川と日詰ぐらいでしょうか。松川のケースは当地の地形が原因と考えられますが、日詰のケースはちょっとよくわかりません。地形的には何の問題もないし、より日詰の町に近い今の紫波中央駅付近に設置されてもおかしくないとは思うんですけどね。まさかこのサイトに書かれていることが史実だとは思えませんが…ところがこの原則、盛岡以北になると、怪しくなってきます。沼宮内(現・いわて沼宮内)、一戸、福岡(現・二戸)、三戸は、いずれも宿場町から1~3キロ程度離れたところに駅があります※。これも地形的な要因が背景にあるのかなぁ? この区間は今はなき「はつかり」で3回ぐらい通ったことがあるけど、どのような場所だったのかいまいち印象に残っていないんですよね。二戸駅から馬仙峡の様子が見え「すごいところに駅があるものだな」と思った記憶はあるんですが(苦笑)ただ、改めて各駅の場所を見ると、いずれも奥州街道ないしは旧国道4号線には面しているんですよね。種々の事情で旧来の市街地とは離れているけれどもアクセスの便は一応図っている形跡がある訳で、いわゆる鉄道忌避とは、一線を画す必要があるとは思います。※ただし、一戸と福岡については、東北本線の開通当時には開業していませんでした。
2006.12.20
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1887年12月に郡山~塩竃間に東北本線が開通したのと同時に開業した駅は、本宮、二本松、松川、福島、桑折、白石、大河原、岩沼、仙台、塩竃でした。前にも何度か書きましたが、駅間距離は一部例外はあるものの、平均して10~15キロ程度でした※ただし、開通から数年以内に新しい駅がいくつか開業しており、この原則はだんだん崩壊していくことになります。開業した駅を列挙していくと、1888年11月 増田(現・名取)、岩切1890年1月 越河、槻木1895年4月 長岡(現・伊達)1896年2月 長町1897年6月 日和田1900年9月 藤田と、10年あまりで倍近く増えた計算になります。ここで気になるのは、駅の開業した順番。決して、規模が大きい町場から順に設けられた訳ではないんですよね。むしろ駅間距離が長い区間を補完し列車の進行をよりスムーズにしたいがための新駅設置という感じなんです。例えば1888年に開業した増田は岩沼から7.2キロ、仙台から10.4キロの地点にあるし、岩切も仙台から8.1キロ、塩竃から7.2キロの地点。特に岩切の場合は一ノ関、盛岡方面への延伸路線の分岐点として選ばれた経緯もあり、その気配を濃厚に感じます。1890年に開業した越河(桑折から12.7キロ、白石から8.2キロ)、槻木(大河原から7.6キロ、岩沼から6.5キロ)も、隣駅との距離を見る限りやはりその系統に属する新駅設置と言えるでしょう。ところが、1895年に開業した長岡は、福島からの距離は9.1キロであるものの、桑折からの距離はわずか4.0キロ。一気に駅間距離が狭まります。これまでの原則からすれば長岡ではなく瀬上(現・東福島。福島から6.0キロ、桑折から7.1キロ)に設置されるべきところを桑折寄りの長岡に設置された点に、奇妙な不自然さを感じます。更に言えば、長岡以前に開業していた駅が(奥州街道沿道ではない岩切、塩竃を除いて)すべて奥州街道の宿駅を起源としている地域なのに対し、長岡は奥州街道沿いではあるものの宿駅ではなく(当時は)人口もさほど多い地域ではなかったという点にも、引っ掛かりがあります。この、列車運行上からも経営効率上からも不自然な新駅設置から「長岡駅は誰かの手によって誘致されたものだ」という推察が成り立ちます。ではいったい誰の手に? 長岡、後の伊達が西方約4キロにある飯坂温泉の玄関口でもあった経緯を知っている人は「飯坂」と答えるでしょうが、私はそうは思いません。というのも、伊達の駅舎は飯坂とは反対の東側に向けられているし、しかも現在建っている寺社ないしは武家屋敷風の駅舎は阿武隈川を挟んで駅の東方10キロほどの地点にある霊山神社の建物をモチーフにしているからです。そう。「誰か」の正体は、阿武隈川を越えた先にある今の伊達市保原、霊山の人達ではないでしょうか。同じ伊達郡内には既に桑折駅がありましたが、ここは河岸段丘上にあるので、特に阿武隈川対岸の地域からだと、物資の運搬は若干不便。そこで阿武隈川とほぼ同じ標高にある長岡に新駅を設けるべく、誘致運動を進めてきたのではないでしょうか。長岡の開業以降に設置された駅についても、長町(増田から5.9キロ、仙台から4.5キロ)、日和田(郡山から5.7キロ、本宮から8.3キロ)、藤田(桑折から3.4キロ、越河から9.3キロ)と、総じて隣駅との距離への拘泥がなくなっています。やはりこれらの地域においても、新駅誘致運動があったのでしょうか。ただ、誘致運動があったとしたら、いつから始まったのかは気になるところですよね。案外、東北本線が開通する前から、その手の声はあちこちから上がっていたのかもしれません。※郡山~14.0キロ~本宮~9.6キロ~二本松~9.2キロ~松川~13.3キロ~福島~13.1キロ~桑折~20.9キロ~白石~13.3キロ~大河原~14.1キロ~岩沼~17.6キロ~仙台~15.3キロ~塩竃
2006.12.19
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昨日の鉄道忌避伝説ネタに関連して、気になったことをひとつ。東北本線を筆頭に石巻線、陸羽東線、気仙沼線の列車が発着する美里町小牛田は、鉄道の町と言われます。それだけならいいのですが、残念なことに「鉄道が開通する以前は何もなかったところ」という意味で、しばしば使われることがあります。城下町だった大崎市松山や涌谷町の人の一部には小牛田を「歴史のない町」と半ば見下す傾向があり、平成の大合併で小牛田と涌谷の合併が破談したのも、その辺の複雑な感情が伏線となっていた部分があります。しかし、小牛田という地域は、鉄道が通じるまで何もなかったところなんでしょうか? 確かに、駅前を見る限りでは駅の規模に比べて人家の張り付きが少ないし、裏手に至っては一面の田んぼ。鉄道がなかったら田んぼしかない地域ではあったでしょう。でも、小牛田駅の所在地は、駅が設置された1890年の時点では、遠田郡不動堂村(1950年に町制施行。1954年に旧小牛田町などと合併して新小牛田町となる)。駅名の由来となった小牛田という地域は、駅の北方約2キロ、江合川のほとりにあるんです。調べてみると、小牛田は1907年には町制施行しています。施行の時期及び駅からの距離を考えると、小牛田は昔からそれなりに栄えていた地域だったことがわかります。加えて、小牛田という駅名にも、注目する必要があります。というのも、1890年当時の駅の命名は、所在地の地名を採ることが大原則。一例を挙げると、宮城県登米市にある石越駅(1890年開業)は、駅自体が地域のはずれにありしかも駅舎は東側に位置する石越の中心集落ではなく西側に位置する栗原市若柳を向いているにも関らず、駅名だけはあくまでも石越なんです。現在の命名基準ならば「若柳駅」と名乗ってもおかしくないケースです。類似の傾向は、福島県の松川駅(1887年開業)でも見られます。となると、小牛田駅も「不動堂駅」と名乗ってもおかしくない(ついでに言うと、小牛田駅もまた不動堂の中心集落の反対側に駅舎がある)のですが、結局駅名は小牛田駅。ということは、駅開業当時の小牛田が多少離れたところに駅があっても駅名として名乗られるに相応しい特別な地域だった、ということになります。そこで、小牛田の歴史をネットで調べてみると、どうやら山神社(やまのかみしゃ)の門前町として発展したところらしいことがわかってきます。山神社は安産の守り神で、東北一円に信仰者がいたという由緒ある神社だったとか。となると、駅開業当時小牛田の知名度はそこそこ高く、であるからこそ敢えて小牛田の名前を駅につけた可能性が高いのかな? と考えます。恥ずかしい話なんですが、私自身宮城県に20年近く住んでいた経験がありながら、山神社の存在についてはまったく知りませんでした。美里町小牛田地区の名誉のためにも、山神社の存在そしてこの神社を中心とした「鉄道開通以前の小牛田の歴史」は、もう少しクローズアップされてもいいんじゃないかと思います。
2006.12.17
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またまた鉄道忌避伝説ネタです。くどくてすいません(苦笑)宮城県北部も、東北本線敷設にまつわる鉄道忌避伝説が残る地域です。私の知る限り、大崎市古川をはじめ、涌谷町、大崎市松山など歴史ある町に、強く残っているようです。確かに、地図で見る限り東北本線は奥州街道(国道4号線)のはるか東側の人口希薄な地域を縦貫しておりかつこれより遠回りのルートになるため、その限りでは、伝説に正当性があるように見えます。しかし、東北本線の敷設の歴史を細かく調べると、1887年に仙台ではなく塩竃(現在のJR塩釜駅とは別物で、1997年に廃止された塩釜線の塩釜埠頭駅のこと)まで開通してから3年後の1890年に仙台~塩竃間の岩切から一ノ関までの区間が開通したのであり(ただし、岩切~品井沼間は現行の路線ではなく利府経由の路線(1962年廃止))、仙台~塩竃間の既設線上に分岐点を設けた方が建設上都合が良かったことが推察できます。また、仮に仙台駅から分岐していたとしたら仙台市中心街の用地買収に手間取ったであろうことも、奥州街道沿いのルートが避けられた一因であるでしょう。でも、最大の理由は、宮城県北部では河川が東西方向に流れているケースが多く、従って南北に連なる奥州街道沿いの地域は河川と河川の間の丘陵が連続していたという地形的な背景ではないでしょうか。仙台から順に挙げると、仙台市中心部~丘陵A~仙台市泉区七北田(七北田川)~丘陵B~富谷町・大和町(吉田川)~丘陵C~大崎市三本木・古川(鳴瀬川・江合川)~丘陵D~栗原市高清水(小山田川)~丘陵E~栗原市築館・金成(一迫川、二迫川、三迫川)~丘陵F~栗原市金成藤渡戸(金流川)~丘陵G~栗原市金成有壁(有馬川)~丘陵H~一関市となる訳で、明治中期の鉄道敷設技術では、これだけ丘陵が連続する地域は敬遠されても仕方なかったでしょう。逆に、東北本線のルートならば、上記の丘陵のうちA、D、F、Gは完全に回避可能であり、C、Eも河口に近くなる分鞍部の標高が低く、従って勾配も緩和されています。もっとも、この理屈でいけば松島から現在の国道346号線~国道398号線のルートで敷いた方が涌谷北方の箟岳(ののだけ)以外に丘陵はなくなりまた涌谷や登米市佐沼などこの地の主要都市を結ぶことが可能と思われますが、これだと遠回りになり過ぎます。従って、現ルートはやはり「選ばれるべくして選ばれた」と考えざるを得ないのです。ただ、このルートでどうしても気になって仕方がないのが、駅の設置場所。この区間の東北本線が開通した当時の駅は、既存線との分岐点となった岩切をはじめ、松島(現在の松島駅とは別物。現在のJR愛宕駅の西方約1キロの地点にあり、1962年廃止)、小牛田、瀬峰、石越、花泉、一ノ関でした。ちなみに、この区間の駅間距離を示すと、仙台~8.1キロ~岩切~約20キロ~松島~約19キロ~小牛田~12.8キロ~瀬峰~15.7キロ~石越~7.7キロ~花泉~13.9キロ~一ノ関となります(岩切~小牛田間の駅間距離は旧松島駅の正確な位置を示す資料が手元になかったので、推定で記載。なお、同区間の距離は39.0キロ)。当時の駅間距離は10~15キロが標準だったから、岩切~小牛田間の駅間距離がやや離れ気味なのが若干気になります。当時の駅間距離が何を基準にして10~15キロ程度としていたのかは詳しくはわかりません(一説には機関車の加速性能を考慮してのものということだが… ダイヤグラムとの関連もあるのではと個人的には思っています)が、東北本線を敷設した当時の日本鉄道はこの原則を頑なに守っていて、1887年に開通した栃木福島県境の黒磯~13.4キロ~豊原~11.5キロ~白河(ただし、距離は1920年に線路の付け替えが行なわれて以降のもの)や1891年に開通した岩手県北部の沼宮内(現・いわて沼宮内)~12.4キロ~中山(現・奥中山高原)~15.4キロ~小鳥谷~11.0キロ~福岡(現・二戸)(厳密に言えば、この区間は1891年9月の開通だが福岡のみ同年12月の開業)といった例があったように、駅間距離を守るためなら黒田原や一戸などそこそこの町でも平気でおっ飛ばして人家の少ない地域にに駅を作ることもいとわない傾向があります。であるならば、岩切~小牛田間においても、例えば、岩切~約10キロ~利府町赤沼(現在の三陸自動車道松島海岸IC付近。なお、ここには1913年以降信号場が所在した)~約15キロ~品井沼~13.4キロ~小牛田と、駅の設置場所を調整することは難しくはなかったはず。が、それがなされなかったということは、どういう事情によるものなのだろう? 個人的には、ちょっとした謎です。
2006.12.16
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すいません。また鉄道忌避伝説ネタです。今回の舞台は、北関東のさいたま市岩槻区、そして栃木市。両方とも、明治初期は県庁所在地であった両地域(ただし、岩槻に関しては県庁所在地に内定していたものの仮県庁が置かれていた浦和にそのまま県庁が据え置かれた計経緯がある)は、ともに東北本線のルートから外れ、また鉄道忌避伝説の残る地域でもあります。特に岩槻なんか、「東北本線の開通に際して岩槻と東京とを結ぶ馬車鉄道の女親分が強硬に反対したため岩槻には東北本線が通らないことになった」という強烈な伝説が残っています。でも、よく考えてみると、当時の土木技術では、現在の東北本線のルートが最適であり、岩槻や栃木は「外れるべくして外れた」可能性が高いんですよね。注目すべきは、利根川の架橋位置。橋梁の架橋技術が進んでいなかった明治時代中期においては、橋梁をなるべく避けるのが鉄道敷設の原則。従って、埼玉県と北関東3県との県境を流れる利根川に架橋する場合は、渡良瀬川が合流した先でかつ江戸川が分岐する手前の栗橋~古河間しか選択の余地がありません(なお、東北本線の西を通り利根川と渡良瀬川の両方に架橋している東武日光線は、東北本線の開業(1885年)から40年以上遅れた1929年の開業)。この区間を支点として栃木県の県庁所在地である宇都宮と当時既に開業していた中山道ルートの鉄道(現在の大宮以南の東北本線及び高崎線)とをなるべく直線に近いルートで結べば、現在の東北本線のルートが最適となり、少なくとも岩槻は住民の意向いかんに関らずこの段階でルートから外れたと言っていいでしょう。ただし、栃木については、もう少し説明が必要になります。というのも、栃木県庁が栃木から宇都宮に移転したのは鉄道開業からわずか1年前の1884年のこと。であるならば、当時の栃木県の利益を考えるならば、古河と宇都宮とを直線で結ばず「敢えて」栃木を経由するルートはありだと思うんです。ただ、ここで問題となってくるのが、古河の真北、利根川と渡良瀬川との合流地点が大規模な洪水多発地帯であったこと。しかもここ、鉄道開業の数年後には渡良瀬川上流の足尾銅山から流れる鉱毒が滞留して問題となり、結果地域住民が退去して大規模な遊水池となっています。この地域を避けて古河から栃木まで鉄道を敷設しようとなると、現在の東武日光線のように西側に迂回するルートか野木あたりから河岸段丘を下って思川や巴波川に架橋するルートとなり、いずれを採るにせよ古河以南で敷設距離や橋梁を削った効果が無意味になってしまいます。もっとも、栃木から宇都宮への県庁移転の背景には栃木で盛んだった自由民権運動を嫌った当時の県令・三島通庸の意向があったともされ、栃木県北部での東北本線のルート設定が当時行われていた那須野ヶ原扇状地開拓の一躍を担っていたことを考えると鉄道敷設の背景にもひょっとしたら政治的な背景が絡んでいた可能性は否定できませんが、現地の地形を見る限りでは、古河から宇都宮まで洪水の心配が少ない河岸段丘上を通りかつ大規模な架橋も少なくて済む(田川ぐらいか)現在の東北本線のルートが当時としては敷設には最適であり、逆に栃木で「鉄道誘致運動」が起こらない限りは、このルートが本命だったと考えるのが自然でしょう。
2006.12.15
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昨日の日記で鉄道忌避伝説について書きましたが、実は南東北の東北本線沿線では、住民が鉄道を誘致したという伝承も、残っていたりします。もっともこれは、現在も地元で語り継がれているのかどうかわかりませんが、こちらのサイト。岡田益男という人が河北新報紙上で連載していた記事なんですが、ここのページの下の方に「初代尾形安平翁 株式募集に大奮闘」という文があり、宮城県大河原の資産家であった尾形安平が鉄道の将来性を信じて大河原に鉄道を通そうと奮闘した様子が描かれています。この文章で何と言っても目を引く部分は、後半の、大河原と角田との間での日本鉄道株取得や用地買収などの場面で展開された鉄道誘致合戦。角田は鉄道忌避伝説が残る地だとばかり思ってましたが、文章を見る限りでは忌避の様子は見えず、逆に積極的な誘致とはいかないまでも「自分のところは城下町だからほっといても鉄道が通るだろう」と鉄道敷設にはそれなりの期待を寄せている様子が伺えます。この文章、鉄道忌避伝説を記した文章よりはもっともらしいことが書いてありますが、100%の史実かどうかは、正直言って疑わしいものがあります。例えば、鉄道が開通する8年前(正確には9年前)の明治11年(1878年)に鉄道の回通を見越して大河原町内を流れる白石川に現在の尾形橋(当時の名称は開運橋)を架け、尾形町(現在の大河原駅周辺か)の土地を買い占めたというくだりがありますが、尾形橋の架橋は史実としてもそこまで先見の明があったかどうかは甚だ疑問。そもそも東北本線を敷設した日本鉄道が発足したのは1881年のことだし、1878年の時点では鉄道が大河原どころか東北にいつ来るのかは未知数の状態だった訳ですからね。また、文中では東北国道(現在の国道4号線か)を尾形橋経由に移したとなっていますが、実際に国道がこのルートに移ったのは、船岡に海軍省第一火薬廠が開設された1930年代に入ってからのこと。こういう細部の間違いがところどころに目立つのもまた、この文章に全幅の信頼を寄せきれない一因です。ただ、この文章が脚色に満ちたものであったとしても、東北本線沿線の地域が鉄道誘致に積極的であったというケースが見られることは、ひとつの収穫。ついでに言えば、このテの「鉄道誘致伝説」は仙台駅の設置をめぐる経緯(最初は現在の宮城野貨物駅付近に設けられる予定だったが、街の衰退を危惧した住民が発起して現在の仙台駅の地点まで引っ張り込んだ。だから仙台駅付近の東北本線は西に不自然にカーブを描いた格好になっている)などでも見られます。まぁ、これもまた史実かどうかはアヤシイところなんですけどね。
2006.12.10
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この日記にも何度か書いてますが、いわゆる鉄道忌避伝説って、はっきり言って、眉唾物だと思ってます。私の地元の福島県北部、阿武隈急行沿線に伝わる「東北本線は阿武隈川沿岸を走る予定だったが、地元の反対で走らないことになった」という伝説だって、東北本線が敷設された1880年代の土木技術の状況を考えれば阿武隈川を2度も渡りかつ福島と宮城の県境で2,000メートル級のトンネルを掘らねばならない現・阿武隈急行のルートが却下されるのは火を見るより明らかなはず。だって、東北本線(敷設当時日本鉄道)は利根川の鉄橋の完成が周囲の区間よりも遅れたために1年近く栗橋~古河(厳密には古河の南にある中田仮駅)で連絡船を使用せざるを得なかったという過去があるし、2,000メートル級以上のトンネルの建設は1901年に完成した中央本線の小仏トンネルまで皆無だった訳ですから。全国に鉄道網の早期促進が叫ばれていた時代にあっては、そんな(あくまで当時の時代背景の中で)リスキーなルートは普通選ばないですよね。なのに、待てど暮らせど建設が進まなかった阿武隈急行(旧・国鉄丸森線)の建設促進運動の広まりもあってか、この伝説は福島県では常識化しちゃってるんですよね。笑えるのは、この伝説、宮城県側ではほとんど知られていないこと。阿武隈急行沿線の角田市や丸森町には同様の伝説が残っており特に角田では「鉄道開通が回避されると住民は提灯行列でお祝いした」なんて話が広まっていますが、この話、全県的には支持を得ていません。だって、宮城県に地理に多少なりとも明るい人間の正直かつ残酷な認識を敢えて言ってしまうと、より人口稠密で結果的に東北本線が通った大河原町や白石市を差し置いて角田や丸森に鉄道が通るはずがないですから。※福島県におけるケースも同様で、当地に伝わる鉄道忌避伝説は、東北本線沿線の桑折町や国見町よりも阿武隈急行沿線の伊達市(保原町、梁川町)の方が人口が多く、かつ前述の丸森線建設促進運動という背景が加わっての、まさに「伝説」だった可能性が極めて高いと言わざるを得ません。それでも伝説を信じる人は、まず史料を探してください。私の知る限りでは、1960年代に編纂された「福島県史」以前に鉄道建設反対運動を記した書物はないし、その福島県史の文章も、鉄道建設当時の史料にあたって書かれている訳ではありませんからね。あしからず。でも、鉄道忌避伝説を史実として認識している人って、福島に限らず全国的に少なくないんですよね。歴史って、結局のところ勝者の自慢話と敗者の言い訳。特に郷土史といわれる分野では簡単な検証作業すらなしに単なる言い伝えが歴史的事実として伝えられるパターンが多いだけに、その傾向が強く残っているのでしょう。だもんで、この辺のもどかしさを上手く伝えてくれる書物がないかなぁ? と思っていたら、このほど、吉川弘文館から「鉄道忌避伝説の謎」(青木栄一著)という本が出版されたので、買ってきました。各地の鉄道忌避伝説を、建設史や地形学など多彩なアプローチから否定的に捉えていくというなかなか読み応えのある本でした。秀逸だったのは、東京都多摩地区における中央本線(1889年開通)の鉄道忌避伝説(甲州街道沿いの調布や府中の住民の反対で東中野から立川まで一直線に線路を敷くことになった、というやつね)についての記述。関係各市の市史から該当する部分を抜き出して紹介していたのですが、これがまたすごいこと。その大意を抜き出して紹介すると、こんな具合。「甲武鉄道(現・中央本線)は調布や府中を通る予定だったが東海道線開通後に宿場町の衰退した事例や煤煙や振動による養蚕への被害を憂慮した住民の反対により、現在のルートに決定した」(調布市)「調布や府中で反対運動があったので、甲武鉄道は第一案を捨てて青梅街道沿いのルートを検討したが、田無の住民が反対を表明し測量を拒否。逆に武蔵野や立川の住民が誘致運動を展開したため、現在のルートに決定した」(八王子市。立川市、府中市でも類似の記述あり)「甲州街道や青梅街道沿いの地域住民から反対運動を起こされた甲武鉄道のルート案には、三鷹市の新川や野崎を通る案もあったようだ。でもこの地でも住民の反対にあい、結局武蔵野を通過するものに決定した。この決定は、武蔵野が原野で三鷹より発展の遅れた地域だったからなされたのではないだろうか」(三鷹市)「田無は東京に近い宿場町として繁栄していたため、甲武鉄道や川越鉄道(現・西武国分寺線及び新宿線)の敷設に消極的だった」(田無市(現・西東京市))ちなみに同書では甲武鉄道のルート決定プロセスについて史料にあたっており、それによると、そもそも甲武鉄道が甲州街道沿いにルートを選定した形跡は見られないとのこと。ではどうして、忌避伝説が流布してしまうのか?でもこうして見ると、これらの記述から仄見えるのは、結局のところ各地域のエゴ。だって、意見を総合すると「我々の住む地域は中央本線沿線の地域よりも発展した地域だった」ってことなんでしょ。要するに。同書でも触れていたけど、中央本線がこの地域を一直線に突っ切っているのは単にそれが建設上もっとも都合がいいからであり、また、この鉄道の目的地ははるか先の甲府で、そもそも甲州街道沿いの宿場町なんか関心がなかったんじゃないのかなぁ?※純粋に歴史学的な視点から見れば、これは言い過ぎです。東北本線が開通する明治時代中期の宮城県南部の人口規模は、東北本線沿線も阿武隈急行沿線も大差ありませんでした。
2006.12.09
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