吟遊映人 【創作室 Y】

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2010.03.11
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カテゴリ: 月下書人(小説)
 ラッシュアワーの電車で、もみくちゃにされるのを避けるためもあるが、おそらく本人の性格的なこともあり、麻子はいつも一時間以上早く家を出る。

 葉を落としたイチョウの並木道を通り、駅への近道でもあるが、児童公園を横切る。今朝もジャングルジムの前で発声練習に勤しむ若き女優の卵や、ダイエットのためか園内を黙々とウォーキングする三十代半ばの女性とすれ違い、再び路地に出る。

 毎朝欠かさず立ち寄るのは、二十四時間営業のマルミツストアーだ。台頭するコンビニに負けじと切磋琢磨する同族経営の店で、その証拠に従業員の名札は、皆一様に〈三田〉と書いてある。

 そこでは、おにぎり一個、アロエ入りヨーグルト、それにペットボトルのあったかいお茶を買う。

 おにぎりの具は鮭か昆布と決めていて、興味はあってもツナマヨにはこれまでのところ手を出していない。

 職場に着くと真っ直ぐに更衣室に向かい、ロッカーにダウンジャケットとマフラーとバッグをしまい、貴重品を入れた小さなトートバッグとスーパーのレジ袋を提げ、席に着く。

 オフィスはビルの八階にある。

 パソコンにスイッチの入らないオフィスは、冷んやりとしていて、朝の惰眠を貪っている。

 半ば開き案配のブラインドの向こう側には、ひしめき合う雑居ビルと、圧倒的な存在感を誇る高層ビル群が見える。



 時計は七時二十四分を指している。

 何を考えるわけでもなくぼうっとしていると、視線の先に課長の片桐の顔がぬっと現れ、麻子は慌てて頭を下げる。

「おはようございます」

 片桐は目だけこちらへ向けて「おはよう」と返す。まるで一分一秒を惜しむかのようにいそいそと席に着くと、早速アイポッドに夢中だ。

 男子四十歳、働き盛りの片桐が、気持ちくたびれて見えるのはなぜだろう?

 パソコンに向かう際、やや猫背気味の姿勢や、書類の小さな字面を追う時に目を細めるしぐさなどが、若さを減退させている要因かもしれない。しかも額の生え際が以前と比べると、若干、後退したのではと思う。

 麻子がレジ袋をガサガサさせながら席朝(せきあさ)している一方で、片桐は缶コーヒーを口に運びながら、「ププッ・・・」と噴き出した。さもおかしそうに。

「ごめん、(柳家)小さんの『時蕎麦』聴いてるんだ」

「落語ですか? なんだかとても楽しそうですね」

 ふと、父のコレクション・ボックスを思い出す。お菓子の空き缶の中に、小さんを始め、志ん生、文楽、金馬、三木助などいくつもカセットテープを集めていたからだ。なにしろ家に一台しかないラジカセを独り占めして、四六時中聴いていた。余りに繰り返し聴いているせいで、聴衆の笑い声より先に笑い、落語家と声を合わせてオチを言い、悦に入る父であった。

 麻子は片桐のことを多くは知らないが、悪い印象は持っていない。真面目で人の好い父が、唯一、落語狂であることを思えば、落語好きに悪い人はいないという先入観があるのかもしれない。



 麻子がレジ袋をガサガサさせる音、片桐が足を組み替える時に軋む椅子の音、そして空調の音が、あてもなくオフィスの中をふわりふわりと漂っている。

 しかし、時計の針が八時に向かって勢いを増して来ると、人も徐々に増え始める。

 昨年、郊外にマイホームを購入した谷本が、遠距離通勤のため余裕を持って出社する。

「・・・はようございます」

 いつも谷本のあいさつは、最初の「お」が聞き取りにくい。あるいは発声していないかもしれない。終業時は「・・・つかれさまです」となる。おそらくクセであろう。



「おはようございます!」

 朝から野太い声が社内に響き渡る。雑然とした席で得意のトマトジュースをグビグビと飲む姿に、余り季節感はない。

 山下と僅差で出社するのが吉田だ。彼女は密かに「お局様」と呼ばれる勤続二十年のベテランなのだ。地味だが面倒見が良く、年若い女子社員に無理なく溶け込んでいる。実は麻子も仕事の引継ぎは全てこの吉田から受けた。

「おはようございます」

「おはよう・・・あら、桜井さんちょっと声が嗄れてるみたい。大丈夫?」

「はい、大丈夫です」

「良かったら、これ、どうぞ」

 和柄の巾着袋から、パステルグリーンの飴を取り出し、麻子にそっと手渡す。

「ふふふ・・・わさび飴よ」

「えっ、わさび飴?」

 思わず面食らって二の句が継げない。たまに吉田は予想だにしない行為に出る。それを相手が望むと望まざるとに関係なく、である。おそらく婚期を逃したのはその辺りに原因がありそうだ、と麻子は思う。

「初詣で三島大社に行ったんだけど、お土産に買ったの。伊豆の名物らしいのよ。でもなかなか食べ切れなくって・・・」

「伊豆の名物・・・?」

 伊豆は私の地元ですが、わさび飴が名物だとは初耳です・・・と言おうとしてやめた。わさび飴でも、わさびふりかけでも、わさびソフトクリームでも、イメージの中に伊豆の香りが生かされていることで、麻子は納得しようとする。

「まだたくさん残っているから、欲しかったらいつでも言ってね」

 こう言うさり気ない優しさは心に染みる、はず。だが如何せん、わさび飴だ。麻子は気付かれないように、そっと引き出しの中にしまった。

 吉田の後は、一時、人の流れが止む。

 席朝族の面々は、思い思いに自分のデスクで精神の均衡を保っている。少しでも稼働率を上げるための、アイドリングみたいなものかもしれない。

 暖房が行き届いて心地良い反面、喉が渇く。ペットボトルのぬるくなったお茶を飲干すと、体中に水分が行き渡り、瞳まで潤んだ。吉田には「大丈夫です」と答えてみたものの、実は昨夜から喉の調子が怪しい。唾を呑み込むとヒリヒリ傷む。

 風邪をひいたのかもしれないなぁ、困ったなぁ・・・。

 麻子は小さくコンコンと咳をしながら、お手洗いに立った。


【次回につづく】

・・・時々内心おどろくほどあなたはだんだん読みたくなる。(^_^)v





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最終更新日  2010.03.14 18:16:37
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