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【17歳】「売春の目的はお金かい?」「いいえ」「自分の価値を知るため?」「そんなんじゃない!」「あーあ、女子高生(JK)に戻りたいなー」などとぼやく友人がいる。ちょっとしたおしゃべりに興じている最中の戯言なので、どこまでホンネかはわからない。とはいえ、少なくとも高校時代が楽しい思い出の1ページであることにはまちがいなく、青春を謳歌していたのだと思う。でも私はそうではなかった。家庭環境のこともあるし、自分自身に対する言いようのない嫌悪感や、鬱屈したものを抱えていたからだ。とてもじゃないが、テレビドラマにありそうな恋とか友情などに彩られたバラ色の青春などではない。もっと暗く、内向的な思春期だった。私は今さら高校生のころになど戻りたくはない。だが、四十代も半ばを過ぎてみると、あのころを思い出すことはある。決して甘美なものではなく、「若さ」という期間限定のアイテムである。あのころの若さは、言葉は悪いが、核兵器みたいなもので、敗北を知らない恐ろしい武器なのだ。 今回はTSUTAYAでフランス映画の『17歳』をレンタルしてみた。フランソワ・オゾン監督による作品だ。この監督の過去の作品からするとサスペンスモノが多いのだが、『17歳』はどちらかと言うとヒューマンにスポットを当てている。ざっくり言ってしまえば、不機嫌な17歳(女子高生)の物語だ。 ストーリーはこうだ。高校生のイザベルは、夏のバカンスで家族とともに別荘に来ていた。ランチのあと皆はそれぞれ昼寝をするのだが、イザベルの弟ヴィクトルはなかなか寝付けない。興味本位でこっそり各人の部屋をのぞいて回るヴィクトルは、イザベルの部屋を見て息を呑む。なんとイザベルは裸で自慰行為に耽っているのだった。その後、イザベルはドイツ人青年フェリックスと出会い、夜の海辺で初体験を済ます。だがイザベルは冷静で、取り立ててフェリックスに恋をしているわけでもない。翌日になるとフェリックスに素っ気ない態度を取り、自分の17歳のバースデーパーティーにも呼ばない。こうして短い夏のアバンチュールは終わった。高校では後期の授業が始まったものの、イザベルはいつも物憂げで不機嫌な感情を抱えていた。そのはけ口としてSNSで知り合った様々な男たちと密会を重ね、300ユーロと引き換えにその肉体を提供していた。ケチでつまらない男がほとんどの中、とても紳士的な老人ジョルジュは、女性の扱い方をよく知り、イザベルでさえも安心できる相手だった。そんなジョルジュとは定期的に会い、肉欲を満たしていた。ある日、心臓に持病のあるジョルジュはバイアグラを使用したことで、イザベルとの行為の最中に発作を起こす。イザベルは息をしていないジョルジュに必死で心臓マッサージを行うなどの応急処置をしたものの、再び息を吹き返すことはなかった。イザベルは売春の発覚を恐れ、助けを呼ぶこともなくその場を立ち去ってしまうのだった。 私は『17歳』を見て「これが青春のリアリティだ」と思った。女子高生のみんながみんな援助交際に手を染めているわけではないし、年がら年中不機嫌なわけでもない。だが、少なくともドラマや漫画で描かれている理想的な青春は、あくまでも「学生とはこうあるべき」だとする大人の視点から表現したものに過ぎない。その点、『17歳』は見事に現実をあぶり出している。思春期は人間ならばだれもが通る通過点だが、とても入り組んだ迷路のような難しい時期である。性というものに興味を持つ一方で、精神が成熟していないのでいつも自分を持て余し、行き場のないエネルギーの放出に囚われてしまいがちになる。主人公のイザベルがお金に不自由しているわけでもないのに売春に手を染めているのは、一体なぜなのか?その部分を突き詰めていくと全体像がより鮮明になるかもしれない。 主人公イザベルに扮するのは、マリーヌ・ヴァクトである。やや小ぶりの胸のふくらみが成熟していない少女の美しさをかもし出している。この作品が初の主演作品らしいが、何やら堂々とした演技で見事なものだった。濡れ場も多くあるのに、エロスや官能というものからは離れ、クールでドライな美しさに魅せられた。親への反抗や退屈な日常との決別、刺激を求めてやまない若さゆえの加速。我々は親の立場となった今なら、あのころの自分に伝えたい何かがあるはずだ。私は決してイザベルのような思春期を送ったわけではない。なのにあのころの自分を思い出し、不思議と共鳴するものを感じるのだ。 さてみなさんはこの作品を見て、しょせんドラマ上の作り話だと思うだろうか。それとも・・・ 2013年(仏)、2014年(日)公開【監督】フランソワ・オゾン【出演】マリーヌ・ヴァクト
2017.05.21
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「もう戦わなくていい。十分証明できた」「僕が弱くてすぐあきらめるってことを? 本当のカンフーは違う。“絶望から立ち直るのは自分次第”って言ったよね? (僕が)立ち上がるのに手を貸して!」こういう作品は、青春映画の代表格と言って差し支えないだろう。弱虫で臆病な少年が、自分に自信を持つことで克服してゆく。その自信は人によって様々だが、本作においてはたまたま“カンフー”であっただけのこと。だがその“カンフー”との出合いにより、少年は大きく成長を遂げるのだ。本作でカンフーの師匠役になるのはジャッキー・チェンだが、やっぱりこの人のアクションは本物だ。ここ最近は、アクションに頼らないシリアス・ドラマに傾倒していたジャッキー・チェンだが、本来の持ち味からして、やっぱりアクションあっての役者さんのような気がする。そういう点で、本作「ベスト・キッド」におけるカンフーの師匠という役柄は、ジャッキー・チェンにとって面目躍如たるものであろう。ジャッキー・チェンの代表作に「ドランクモンキー酔拳」「スネーキーモンキー蛇拳」「クレイジーモンキー笑拳」などがあり、香港ではもちろん、日本でも大ヒットを博した。当時のジャッキー・チェンの凄まじい人気を、今の若い人たちは知っているだろうか? 母子家庭に育つドレは、デトロイトから北京へと引っ越す。黒人少年で、しかも北京語の分からない12歳のドレにとっては、戸惑うことばかりであった。公園でバイオリンの練習をしている少女メイと出会い、仲良くしゃべっていたところ、いきなりドレは数人の少年たちからからまれる。カンフーに長けた、少年たちの執拗ないじめを受けたドレは、学校に通うのも億劫になる。ある日、いじめを受け、トドメをさされそうになったドレを助けたのは、アパートの管理人のハン。ドレは強くなりたいと思い、ハンにカンフーの教えを請うのだった。主人公ドレ役に扮するのはジェイデン・スミスで、周知の通り、ジェイデンの父親はウィル・スミスである。吟遊映人が察するに、ウィル・スミス自身が強くなりたいと思って、ブルース・リーあたりに傾倒したのかもしれない。根強い人種差別や、将来的な不安などを抱えた若かりし頃、強い男になって他者を見返してやりたいと、意気込んだ時期があるのではなかろうか。その執念が、息子であるジェイデンに受け継がれるようにして、ウィル・スミス自身は製作者サイドに回り、思いを託したのかもしれない。作中にある(上着を)脱ぎ→落とし→拾い→(ラックに)掛ける、という一連の行為が、カンフーの中に生きるというくだりがすばらしい。日常の何気ない動作が、身を守る防御となり、攻撃の姿勢にもなるという自然主義的発想は、東洋哲学にも似て大変おもしろかった。本作は、青春の苦悩と克服を描いた、力強く爽やかな作品であった。2010年公開【監督】ハラルド・ズワルト【製作】ウィル・スミス他【出演】ジェイデン・スミス、ジャッキー・チェンまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2011.03.25
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「俺はヤクザに向かなかった・・・ってことなのかな」「俺は後悔してねぇ。・・・美藤のことだ。鈴蘭の負けは見えてた」「だからって言って刃物振り回していいってことにはならねぇぞ」時代に左右されることのないのは、青春期のカオスであろうか。誰もが自分の存在理由を突き詰めたいと思うし、自己主張したいと願う。逆に、自分を押し殺して決められた枠の中を這いつくばって生き抜く者もいる。何が正しくて、何が間違っているのか、杓子定規で計ったような正義に跪くのがイヤで、他人とは違うことをやって目立とうとする。ドロドロとしていて、混沌としていて、何も見えない、見ようとしない現状。それが青春だ。本作「クローズZERO2」は前作の続編であるが、やり場のない鬱屈したエネルギーを喧嘩という手段で発散していくプロセスは、何ら変わるものではない。頂点を取り、己の存在価値を自他ともに認めさせるべく日夜喧嘩に明け暮れる。そんな修羅場があっても良いだろう。2年前、鈴蘭高校のリーダー的存在であった川西は、鳳仙学園と戦った際、鳳仙の王者・美藤真喜雄をナイフで刺し殺してしまった。以来、少年院で服役していたのだが、ついに出所。川西の出所を待ち受けていたのは現在の鳳仙の王者・鳴海であった。かつて鈴蘭との抗争で命を落とした美藤の仇を討とうと、てぐすねひいて待っていたのだ。本作では小栗旬がとてもいい味を出している。ふて腐れたような態度や、どうしていいのか分からず途方に暮れる姿など、演技に込められた熱を感じた。グリコのCMでは大人になったイクラ役を演じたり、大河ドラマ「天地人」では石田三成役を好演し、今とても脂の乗った役者さんであることは間違いない。学校という限られた社会の中で、絶え間ない葛藤と軋轢の中をひたすら疾走する男子たちの姿は見ものである。青春真っ盛りのティーンはもちろん、大人たちも社会常識などに縛られず、我を忘れて鑑賞して頂きたい。熱い青春学園ドラマなのだ。2009年公開【監督】三池崇史【出演】小栗旬、山田孝之、やべきょうすけ
2009.11.23
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「わりぃな。おめぇ倒さねぇと、鈴蘭のてっぺん取れねぇんだ」「鈴蘭にてっぺんはない。あんたが芹沢を倒したように、新しい奴が次から次へと出て来る。それが鈴蘭だ。その相手をしているうちに卒業ってことになる。制覇は夢となって消える」「それはどうかなぁ」今も昔も変わらないのは、マンガの世界におけるドラマ性とか勢い、あるいはユーモア力である。現実社会では到底起こりえないような事柄でも、マンガの世界では実に生き生きと瑞々しく表現されているのだ。また、そういう世界観につかの間の娯楽を求めてどっぷりと浸かるのも、日本人固有の醍醐味とも言える。本作「クローズZERO」で目を見張ったのは、何と言っても山田孝之の存在ではなかろうか。数年前、社会現象にもなった「電車男」では、冴えないアキバ系の男子を女々しいほど純朴に演じていた。あれから数年の間に、これほどまで変身するのかと思うほど男クサく、格好良くなった。 主役の小栗旬も、ルックスの面では申し分ないが、山田孝之の存在感に完全に呑まれてしまったような感もする。不良の集まる鈴蘭高校は、喧嘩の強い者が猛者となり、派閥を作り、他者を牽制し、全校統一をかけて争っているが、いまだかつて君臨する者はいない。主人公の滝谷源治は、父親が劉生会というヤクザの組長で、元鈴蘭高校の出身であるが、その父さえも全校統一出来ずに卒業していた。そんな父を越えるべく鈴蘭制覇に躍起になる源治は、宿命のライバル芹沢多摩雄と決闘を果たすべく、徐々に仲間を増やしていく。「クローズZERO」の何がおもしろいかと言えば、やはり一人一人の豊かな個性に溢れたキャラクター設定にあると思われる。中でも吟遊映人が個人的に好きなキャラは、群れない一匹狼的存在で、“別格”とされていたリンドマンである。群雄割拠の乱世を生き抜く周囲の生徒たちを冷静に見つめ、己のスタンスを貫き、孤高な学園生活を送るのだ。本作「クローズZERO」は、他にはない新しい形の熱き学園ドラマなのだ。2007年公開【監督】三池崇史【出演】小栗旬、山田孝之、黒木メイサまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2009.11.20
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「ぼく変人かい?」「モチ」「本気で聞いてんだ。・・・変かな?」「人はみな変わってるさ」専らホラー作家として名高いスティーブン・キングだが、中でも毛並みの違う「スタンド・バイ・ミー」も素晴らしく良かった。青春の瑞々しさ、儚さ、記憶の残像をノスタルジックに描いた作品なのだ。本作を分析してみたわけではないが、これほどまでに起承転結のはっきりした脚本というのも珍しい。しかしだからこそ作品に惹き込まれ、お約束のようにえもいわれぬ切なさや甘美な気分に浸れるのかもしれない。とすると、いかに脚本の出来・不出来が左右するかが窺い知れる。舞台はアメリカオレゴン州キャッスルロックの田舎町。12歳の仲良し4人組、ゴーディ、クリス、テディ、バーンは、死体捜しの旅に出る。 と言うのもバーンが、兄とその友人の話を盗み聞きしたところ、行方不明中の少年が森の奥で列車にはねられ死体が野ざらしになっている現場を目撃したとのことだった。4人組はさっそくその場所を捜しに線路づたいに30キロ先の森を目指して行くのだった。彼らは死体を発見することで、有名人になれると思ったからだ。作中のクリスは、後に弁護士となって活躍するという設定になっている。(その場面は映像化されていない)しかしある日、喧嘩の仲裁に入ったところ逆に刺殺されてしまうという記事が新聞に掲載され、それを主人公ゴーディ(後に作家となる)が目にして感慨に耽る。そんな正義感の強いクリス役を、今は亡きリバー・フェニックスが演じている。リバー・フェニックスは23歳という若さで他界しているのだが、正義とは程遠く、薬物中毒が原因であった。(だが今なおその人気は高い)本作「スタンド・バイ・ミー」は、わずか2時間という短く限られた時間内において、完全に外界を忘れさせてくれるほどに視聴者を夢中にさせてくれるものだ。たとえそれがスティーブン・キングという類稀なる才能の持ち主の手で仕掛けられたストーリー展開によるものだったとしても、事実として我々は映画という「拡張された現実」に没入させられる。これは、いかに「スタンド・バイ・ミー」が優れた作品であるかを物語っているのに他ならない。80年代を代表する青春映画なのだ。1986年(米)、1987年(日)公開【監督】ロブ・ライナー【出演】ウィル・ウィートン、リバー・フェニックス、コリー・フェルドマンまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2009.10.13
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「旬太郎、俺・・・会社辞めて女房と一緒にいること、後悔してないんだ。幸せってな、自分の気持ちに嘘つかないで生きることだって・・・この歳になってようやくわかったよ」ホームドラマは、どんな時でも我々庶民の味方だ。派手なアクションやスリリングな場面からは程遠いけれど、お茶の間で肩の力を抜いてあっさり風味で軽くいただくスナック菓子のような役割を持っている。本作「築地魚河岸三代目」も青春コメディ、あるいはラブコメディのようなジャンルに区分され、視聴者に優しい作品に仕上がっている。原作はマンガのようだが、映画ではキャラクターのそれぞれに個性を持たせ、誰一人として浮いた存在を作らない自然な演出を心がけているように思えた。東京は青山に本社を置く商社に勤務する赤木旬太郎は、上司からリストラ対象者の名簿を渡されていた。その中にはかつて世話になった上司の名前も含まれていて、リストラの宣告をすることに思い悩む。一方、恋人の明日香が早朝から自転車に乗ってどこかへ出掛けるところをたまたま目撃し、追いかけてみたところ、なんと築地市場の仲卸「魚辰」の一人娘であることが判明。しかし、明日香が装飾デザイナーの仕事と家業を掛け持ちでがんばっている姿に心動かされる。旬太郎は足手まといを承知の上で、市場の手伝いを始めるのだった。主人公の旬太郎役を演じた大沢たかおだが、この役者さんは主婦層にとりわけ支持されている。甘いマスクに高身長、洗練されたファッション感覚などが人気の所以かもしれない。そんな彼のモデル時代からの熱狂的なファンも、今は子を持つ主婦となり、役者として活躍する彼を影ながら見守り続けている図式になるのだろうか。大沢たかおの代表作に、「世界の中心で、愛をさけぶ」「ミッドナイト・イーグル」「解夏」などがある。どの作品も大沢たかおの持ち味をグッと引き出してくれる要素のある、すばらしい映画であった。本作「築地魚河岸三代目」も、例外ではなく、二枚目半のキャラを大沢たかお独自の世界観で、イヤミのない魅力的な主人公に仕立てている。また、彼を取り巻く魅力的な脇役陣も見逃せない。ハートウォーミングなホームドラマなのだ。2008年公開【監督】松原信吾【出演】大沢たかお、田中麗奈また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2009.09.25
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「お待たせしてしまってどうも・・・早稲田大学野球部顧問の飛田穂洲です」「慶應義塾の小泉信三です」「どういう・・・ご用件でしょうか?」「実は、折り入ってのお願いなんです。ぜひとも飛田さんのお力をお借りしたいのです」 「なんでしょうか?」「早慶戦をやりませんか?」我々が当たり前のように観戦する野球は、その昔、敵国の国技であるとされ様々な場面で制限された。利潤目的ではない大学野球でさえ、人ごみは敵の標的になりやすいという理由から、つかの間の楽しみは奪われていたのだ。吟遊映人も含めてのことだが、戦後生まれの我々は、戦時下における言論統制や思想弾圧なんて、頭の片隅でちょこちょこっと想像してみる程度が関の山だ。軍部が台頭していた当時のような、楽しむべきスポーツさえ制限されていた、自由を奪われ、暗く陰鬱とした社会を簡単に考えてはいけない。本作は、そんな厳しい社会情勢の中、学徒出陣を目前に控えた学生たちを慮り、“出陣学徒壮行早慶戦”と銘打って行なわれた最後の試合をモチーフにした作品なのだ。太平洋戦争中、野球は敵国の国技だという理由で六大学野球は解散の憂き目に遭う。戦争が激化する中、いよいよ学生たちも戦争に駆り出されることになった。そんな折、学徒出陣を控える学生たちの思い出作りにと、慶應義塾大学学長の小泉信三が早稲田大学野球部顧問の飛田のもとに、「早慶戦をやりましょう」と申し込みにやって来るのだった。早稲田と慶應、両大学の試合の何がそれほどまでに心を揺さぶられるのかと言えば、「もう二度と生きて野球をやれまい」とする学生たちの悲壮なる想いが込められているからだ。好きな時に好きなだけスポーツを楽しめる現代では想像もつかない心情に駆られての試合であった。戸塚球場において、慶應の小泉学長が座布団代わりに新聞紙をさりげなく敷くシーンが、なんとも紳士的であった。さらに、試合後、両大学の応援団による力強いエール合戦はすばらしかった。それを目にし、耳にした選手、そして聴衆は人目も憚らず滂沱として涙を流すのである。 この作品は、巷にあふれる単なる青春ドラマとは一線を画し、二度と繰り返してはならない戦争を糾弾した、最高の反戦映画なのだ。2008年公開【監督】神山征二郎【出演】渡辺大、柄本明、石坂浩二また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2009.07.28
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『でもボクはあの煮詰まった日々を超えて、普門館よりも大事なことに気付いてしまった。それは、好きなように、感じたように演奏する・・・それが音楽だっていうこと。』なんだか妙に色気のあるヒロインが登場して来たと思ったら、やっぱり主役の安良城紅は国民的美少女コンテストのグランプリ受賞者であった。なんと言うか、顔立ちはもちろんのこと、かもし出すオーラのようなものが、そんじょそこらの児童劇団の子役とは違っていた。国民的美少女と言えば、元祖は後藤久美子である。当時は“ポストゴクミ”などと言う言葉が一人歩きして、ルックスと体型に自信のあるティーンの女の子たちが、その座を競い合ったものだ。だがその実、国民的美少女コンテストでは惜しくもグランプリを逃した落選者の方が、後日、有名になっていたりするから、世の中わからない。例として、米倉涼子、上戸彩あたりなどがそうだ。本作「ブラブラバンバン」は、柏木ハルコのマンガが原作の、ファンタジー仕立ての青春ストーリーになっている。一風変わった芹生(せりう)は、音楽に酔いしれると奇妙な行動に出る持ち主である。 ある日、廃部寸前のブラスバンド部をもう一度立て直そうという動きの中、なりゆきで芹生は指揮者になる。当初は寄せ集めのまとまりのない部員たちであったが、普門館を目指し、少しずつ演奏することの楽しさを覚えてゆくのだった。おそらく原作はもっと長く、高校生たちの機微な心の動きが丁寧に表現されているに違いない。映画は大味に仕上げられているため、メンタル面より、若さやルックス、初々しさなどが全面に打ち出されているような気がした。チョイ役だが、おヒョイさんや宇崎竜童なども出演していて、ところどころアクセントのついた演出に納得。これは吹奏楽だけに限らないが、一つのことをみんなで力を合わせてやり遂げることの素晴らしさを謳った、青春ストーリーなのだ。2008年公開【監督】草野陽花【出演】安良城紅、福本有希また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2009.05.05
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「田中君が砂高(さごたか)部屋に入門が決まった。本人のどうしてもという熱意に負けて、俺が紹介した。来年からの貴重な戦力を失うのは残念だがな・・・。」「最後の試合で神様の声聞きました。“お前にはこれしかない”そう言ったんです。」 地味だが、地に足の着いた作品・・・それが本作の感想である。若さだけを全面に打ち出してエネルギッシュに表現する作品もあるが、地道にコツコツ、無理せず、日に一度の神様への感謝を捧げ・・・のような青春映画があっても良いと思う。漲るパワーとほとばしる汗なんて、所詮映画に求められていないことをこの監督はよく心得ている。そういう熱いものは、スポーツ観戦をライブで見れば満たされるのだから、映画ではもっと違った形で表現世界の扉を開けねばならないのだ。周防正行監督は、立教大学文学部仏文科を卒業しておられるためか、ロケは立教大学のキャンパスが使用されたらしい。ユニークなのは、実際にある大学の名前をもじった架空の大学の名前で、たとえば次ようなものが登場する。立教大学→教立大学日本医科大学→本日医科大学東北学院大学→北東学院大学などである。(笑)教立大学4年生の山本秋平は、すでに就職先も決まっていたが、フランス語の単位が取得できそうになかった。フランス語の先生であり相撲部の顧問である穴山は、相撲大会に参加することで秋平に単位を与えるという駆引きを持ちかける。廃部寸前の相撲部には、現在、青木という8年生の部員しかおらず、大会に出るためにはまず頭数を揃える必要があったのだ。ストーリーとしては、廃部寸前の相撲部に新しい風を吹き入れた爽やかな青春ドラマに仕上がっているが、何と言ってもおもしろいのは一人一人の豊かな個性であろう。キャラの違いを認め、受け入れた中にある友情、仲間としての絆、それでいてギトギトした嘘くさいものを感じさせない絶妙な距離間、さらにはところどころツボを押さえた笑い。良い意味で計算し尽された青春映画は、正に周防監督のストライクゾーンかもしれない。 後味の良い、スッキリとした甘さの映画であった。1992年公開【監督】周防正行【出演】本木雅弘、清水美砂また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2009.02.11
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「お帰り、ミッキー。」「授業以上に私ができることを見せてやりたくてね。このゲームには過去と未来がある。今夜は過去を忘れよう。未来だけを見る。」「ああ、これが最後(のゲーム)だ。」邦題が今一つに思えたのは自分だけだろうか?とは言うものの意味的にはわかり易い。ラスベガスで多いに儲けてやるという意気込みは伝わって来る。この作品で注目していただきたいのは、しがない貧乏学生が大金を手にすることで、短期間のうちにどんどんと変貌していく様子だ。お金の魔力をイヤというほど味わって欲しい。人相・風体どころか、性格まで変えてしまうのだから、これほど恐ろしいものはない。 お金が全くなければ、今日食べるパンさえままならない。だが身に余る富は、人格さえ破壊してしまうということだ。マサチューセッツ工科大学に通うベンの夢は、ハーバード大学医学部へ進学すること。 だがそのためには、30万ドルという途方もない学費が必要であった。頼みの綱である奨学金も、自己アピール・プレゼンテーション能力に欠け、受けられる目途がつかなかった。そんな折、ミッキー・ローザ教授から謎の研究チームに誘われる。それはなんと、ブラック・ジャックの必勝法であるカード・カウンティングの習得であり、ねらうのはラスベガスで大金を手に入れることであった。本作では、主人公のベンがラスベガスで大金を稼ぎ、または失い、挫折し、再びリベンジするという青春の一ページをストーリー化している。目のくらむような大金を一夜のうちに稼ぎ出す技を、誰もが夢見ている。それは他でもない、己の欲望を満たすためだ。若さが許す一抹の衝動も、加速し過ぎれば止まらなくなってしまう恐れがある。我々は常に良識を持ち、冷静で客観的に物事の判断を下していかねばならない。ギャンブルをテーマにした作品だが、ラストは痛快なハッピーエンドで締めくくられている。2008年公開【監督】ロバート・ルケティック【出演】ジム・スタージェス、ケイト・ボスワースまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.11.11
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「俺は朝から晩までワインを煮詰める仕事をしてる。誠実に仕事するなら君がストリッパーでも構わない。(君は)以前は“ランウェイ”の女たちを鼻で笑ってた。今や君もその一人だ。」「バカな(こと言わないで)。」「自分をちゃんと認めろよ。もう俺たちに共通点はない。」作中では、女性が仕事を持って生きていくことの大変さをモチーフにしたところからストーリーが展開していく。大学を出たばかりの娘が、都会で貧乏生活に甘んじている姿を見かねて、父親がさり気なく金銭を援助するシーンも出て来た。だが今や働く人にとって、男も女も関係なく大変なのだ。ヒロインの夢はジャーナリストになること。しかし、若さだけで叶うほど簡単なものではなかった。食べていくためには稼がねばならない。畑違いとわかっていながらも、アパートの家賃、生活費を捻出するためにファッション雑誌の出版社の面接を受ける。「だって仕方がないじゃない。」彼女は望まないファッション業界への就職をグチるのだ。鬼上司の下での雑用係は多忙を極め、やがて恋人との関係もギクシャクしてくる。「だって仕方がないじゃない。」先輩アシスタントであるエミリーに代わって、ヒロインのアンディがパリ行きを示唆された時、アンディは躊躇した。なぜならエミリーが夢にまで見た念願のパリ行きで、それを横入りして奪ってしまうような気がしたからだ。しかしアンディは、結局パリ行きを選ぶ。「だって仕方がないじゃない。」全て彼女は責任を周囲に押し付け、誰かに転嫁してして来た。しかし、それは違った。ノースウェスタン大学を卒業し、ジャーナリストを目指すアンディは、ニューヨークで目下求職中。恋人と同棲しながらの貧乏生活に甘んじる中、いくつかの求人情報からファッション雑誌“ランウェイ”編集部での仕事に目を留めたアンディは、さっそく面接を受ける。編集長はファッション業界に君臨するミランダで、仕事はその第二アシスタントとして彼女の身の回りの世話をする役回りだった。鬼のような上司であるミランダの横暴な要求に耐えながら、アンディは本来の目的であるジャーナリストへの足がかりとして必死に働くのだった。自立して生きていくということは、自分で物事を選択して実行に移して行くことだ。成り行きとは言え、拒否せず受け入れた自分が全て選択した人生ではないか。ヒロインのアンディの生き方は、観る側の立場とか背景によってずい分捉え方が違ってくるかと思われる。だが、一つ言えることは、被害者面して「仕方がない」とグチるのは、大人としてみっともない。今ある状況を選んだ自分を受け入れ、自分の信じた道を歩いて行こうではないか。泣いても笑っても「全ては自分の責任」なのだと、この作品は教えてくれる。2006年公開【監督】デビッド・フランケル【出演】メリル・ストリープ、アン・ハサウェイまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.09.16
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「だが君がいつも口にするレディーとの交際にアドバイスを。」「どんな?」「女のハートを開く鍵は・・・思いがけない時の、思いがけない贈り物だ。」実はこういう人物、身近なところにいるのだ。作中、W.フォレスターという小説家として登場するのがショーン・コネリーなのだが、この人物、神経症を患っていて人ごみに出られない。外出できなくなったきっかけは多くは語られていないため、フォレスター氏の若かりし頃に「何か」あったのだろうと推測するしかない。しかしこういう事例は現実にも多々存在する。それまでバリバリ働いていた人が、何かをさかいにぱったり意欲を失くす。その場合、症状が進んでしまうと自殺行為にまで及んでしまうわけだ。人は本能的に身を守る術を知っている。それが社会との隔絶、つまり、引きこもることで世間から受ける苦痛から身を守ろうとするわけだ。おそらく、作中のフォレスター氏はこのタイプで、俗世間との交わりを極力避けることで心のバランスを保って来たに違いない。一方、主人公である黒人の高校生ジャマール。この人物も経済的な問題や進学問題、人種問題などに苦悩する。そんなワケあり、問題ありの二人がコラボすれば、ストーリーは自在に広がりを見せ、膨らみを帯びていく。非常に豊かな教養と、鬱屈した青春の淀みをバランス良く表現していたように思えた。 N.Y.の貧民街ブロンクスの高校生であるジャマールは、得意のバスケを仲間たちと楽しみながら、近所のアパートに住む謎の老人のことをいつも噂し合っていた。その老人は、いつも窓から双眼鏡で外を眺めていて、その正体を見た者はいなかった。 噂では“殺人犯”であるとか“変質者”など、様々な憶測が少年たちの間でされていた。 度胸だめしにジャマールは老人の部屋に梯子を使って窓から潜り込んだものの、そこで目にしたのは本棚にズラリと並べられた文学書の数々。ジャマールは思わず、その膨大な量に目を見張った。嫉妬深く、いかにも何か腹に逸物ありそうな教師役のF.M.エイブラハム。やっぱりこの役者さんは最高だ!「アマデウス」でサリエリ役を演じた人物ではないか。なぜだかこういう憎まれ役が、妙にハマってしまうのが不思議だ。さらに、ラストの方で弁護士役としてマット・デイモンが出演。おそらく“特別出演”とか“友情出演”などの名目だと思うが、こういうご愛嬌も必要だろう。だが、何と言っても威風堂々たるショーン・コネリーの圧倒的な存在感には誰も敵わない。作品を単なる青春ドラマに終わらせることなく、年齢や人種、職業を超えたところに存在する真の友情の意味を教えてくれる。2000年公開【監督】ガス・ヴァン・サント【出演】ショーン・コネリー、ロブ・ブラウンまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.09.14
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「昔のことは知らねぇけど、お前知り合った時に言ってたろ。勝ち負けのあるスキーは嫌いだって。・・・あのセリフ俺には結構響いたんだけどなぁ・・・。自分で決めてやめたヤツが・・・どうして逃げたことになんだよ?」青春とスキーがコラボして、感動しないわけがない。泣いたり笑ったりケンカしたり、ドタバタとストーリーが展開しても許せてしまう。それが青春だ。この作品は長野県白馬村のスキー場がロケ地となっており、見事な白銀の世界を披露してくれた。銀と祐次と次郎の3人組が、シュプールを描きながら爽快な滑りを見せてくれる。それはまるで「若さ」という加速度のついた青春の勲章なのだ。冬場、雪とは無縁の地域の人々ならば、その混じりけのない純白の雪景色にあこがれ、「一つ今年の冬はスキーにでも挑戦してみるか」と言う気持ちになるかもしれない。もちろん、雪国の人にとってもさらにウインタースポーツを極めてみたくなるのではなかろうか。「銀色のシーズン」は、そういう爽やかな気持ちにさせてくれる青春ドラマなのだ。雪深い田舎町、桃山町に東京から一人の若い女性が訪れる。彼女(七海)は、この町の名物、雪でできた教会で挙式する予定の新婦であった。一方、町営のスキー場では、ゲレンデの厄介者呼ばわりされる3人組がいた。銀と祐次と次郎である。彼らは“雪のなんでも屋”と称し、スキー場を舞台にどんなことでも商売にしていた。 そんなある日、七海は全くスキーができなかったため、銀にスキーの個人レッスンを依頼することにした。式の段取りの都合上、どうしても人並みに滑る必要があったのだ。この作品に出演している若い役者さんたちが皆、伸び伸び、生き生きと演じている姿に感動した。セリフの一つ一つをかみしめるようにして、一生懸命演じているのも好印象を受けた。 また、当管理人はこの夏の暑さに半分朦朧としていたせいか、冬を舞台にしたこの作品に癒され、涼しささえ提供してもらい、願ったり叶ったりであった(笑)。視聴者には、若者たちが思う存分青春を謳歌するシーンを楽しんでもらいたい。※深刻な雪不足のため、本作における白馬村でのロケは途中で断念され、比較的雪に恵まれた北海道に移動しての続行となったらしい。我々は、本腰を入れて地球温暖化対策に乗り出さねばならない。2008年公開【監督】羽住英一郎【出演】瑛太、田中麗奈また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.08.23
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「エレーン、君が好きだ。本当だ。昔から好きだった。一緒にいると心がなごむ。僕の人生は無意味だ。何もない。・・・ごめん、家まで送ろう。」「女の人がいるのね。・・・ごめんなさい、余計な事を(言ってしまったわ)。」「成り行きさ・・・成り行きでそうなった。」失われてゆくものの象徴や、喪失感を描くのを得意とする作家がいる。言わずと知れた、村上春樹である。この村上文学に触れたことのある者ならば、「卒業」の背景、テーマは自ずと理解できるはずだ。酒とドラッグとセックスの混沌とした60年代。行き場のない鬱屈とした精神を、若者たちは持て余していた。漠然とした将来への不安や、急激な世相の変動に取り残されていく焦燥感。現実を直視することができず、なかなか進むべき方向が定まらないのだ。逃避願望を埋め合わせするのには、酒に溺れるか、ドラッグで身を滅ぼすか、あるいはゆきずりの誰かと無意味な性交を繰り返し、快楽に耽ることが何よりの対策だった。社会のモラルなんて関係ない。その場しのぎの、幼稚なゲームを続けているに過ぎない。舞台は60年代後半。親類縁者の集う、大学卒業記念パーティーで、ベンジャミンは皆から祝福を受ける。だが彼には漠然とした将来への不安や、現状から回避したい苦悩を抱えていた。そんな折、両親の友人であるミセス・ロビンソンから誘惑を受ける。いったんはその誘いを断ったものの、彼の中に眠る肉欲や若さの塊が加速を増す。親子ほどの年齢差があっても、ベンジャミンの飽くなき快楽への欲望はやまず、毎晩足しげくホテルへ通う。愛息子ベンジャミンの背徳を知らない両親は、友人であるロビンソン夫妻の一人娘、エレーンとの交際を薦める。だがエレーンの母親は、ベンジャミンにとっての不倫相手。彼は、これまでに経験したことのない焦燥感と、そして刺激を覚える。この作品を単なる青春映画と捉えてしまうのは、あまりに短絡的すぎやしまいか。ラストは、ベンジャミンが教会に乗り込んで、エレーンを連れ出しバスに飛び乗るシーンだが、その二人の表情に注目していただきたい。決して、決してハッピーエンドではない。二人の未来が、前途多難であることの象徴に他ならないからだ。非常に文学性に富んだ、優れた名画である。1967年(米)、1968年(日)公開【監督】マイク・ニコルズ【出演】ダスティン・ホフマン、キャサリン・ロスまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.06.01
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「あなたは彼にないハートを持ってるわ。ミッキーはそれを見抜いて死んでいった! 彼に教わった事を伝えたいなら(トミーではなく)息子に伝えて! あなたの息子に! 息子を救って! トミーに気持ちを託したいのはよく分かるわ。でもそのために家族を失いかけてるのよ!」ロッキーシリーズが始まって、前作の時点ですでに10年が過ぎていた。出演者たちの顔には皺も見られ、動きにも敏捷さというよりは落ち着きが目立つようになった。そのせいか、脚本はリング上での試合には重きを置かず、“家族の絆”とか“親子愛”のようなメンタルな部分がクローズアップされた。親子関係に希薄さを感じているのは、何も日本だけではないことがよくわかる。アメリカでも社会問題になっているのだ。“もっと親子は話し合うべきだ”“親子の時間を大切にしろ”そういう切実な訴えかけが、作品からそこかしこに現れている。前作ではソ連のボクサー、ドラゴを破ったところでエンディングだった。本作ではその後、ロッキーがアメリカに帰国したところからストーリーは展開する。ある日、ポーリーが勝手にロッキーの財産運用を会計士に一任したことでエイドリアンと口論。会計士の不正により負債を負ったロッキーの財産は没収される。家は競売にかけられることに。さらに、これまで試合で受けて来た強打のパンチが脳に与えた影響は大きく、ロッキーの脳に障害が見つかる。ドクターストップをかけられたロッキーは、いよいよ引退を決める。そんな時、ロッキーにあこがれてフィラデルフィアにやって来た若きボクサー、トミーが現れた。ロッキーは、気性の荒いハングリー精神のあるトミーに、若かりし頃の自分の姿を投影し、彼のトレーナーとして歩み始める。今は亡きミッキーから受け継いだ教えをトミーにも伝え、ロッキーは全力でコーチするものの、黒人プロモーターが金儲けに利用しようとトミーをロッキーのジムから引き抜いてしまう。一方、トミーのトレーニングに夢中で、ロッキーは大切な息子をなおざりにしていた。 せっかくのクリスマスも、楽しい家族団欒になるはずが息子はロッキーに反抗的で、家族の絆が壊れかかっているのだった。この作品も、これまで通りのロッキーシリーズから逸脱することなく、シンプルなテーマで視聴者を魅了する。それは“家族”だ。たとえ無一文になっても家族だけは強い絆で結ばれている、ゆえに孤独ではない、すなわち、家族は宝である、と言っている。さらに付け加えるなら、“人生とは闘い”なのだと。リングの上だけではない、場末の飲み屋であろうと街角であろうと、闘いは挑まれる。 逃げてはならない。・・・そういう人生の教訓をしみじみと教えてくれるのだ。1990年公開【監督】ジョン・G・アヴィルドセン【出演】シルヴェスター・スタローン、タリア・シャイアまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.04.25
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「孤独なトレーニングだが俺がついてる。」「分かってる。」「アポロは俺が育てた。奴が死んで俺の一部も死んだ。だが今は君がいる。君があいつの精神を受け継いで彼の死に意味を持たせる。君の前には地獄がある。悪夢よりつらい日々だ。だが最後までリングに立ってるのは君だ。」ロッキーシリーズに限らず、大ヒット作品の続編を生み出していくのは至難の業である。 その生みの苦しみは制作者サイドに後遺症すら残す恐れもあるのだから、ショービジネスの世界は生半可な博打など打てやしまい。映画とは非常に皮肉な娯楽である。興行的にどれだけ成功をおさめようとも、作品としての評価は著しく奮わない場合も多々あるからだ。その反対に興行的に奮わなくても、芸術性に溢れ、作品としての完成度が高ければ各界の評価が賞賛を極めることもあり得るのだ。「ロッキー4」はそういう意味で前者に当たるだろう。シリーズ中では過去最高のヒットを決めた。だが、ゴールデンラズベリー賞(ラジー賞)に8部門ノミネートされ、そのうち5部門受賞するという、非常に不名誉な評価を受けたのも事実である。宿敵から親友となり、またロッキーの良きトレーナー役となったアポロは、再びリングに立ちたいと熱望する。ボクシングを引退した後は、街でサインをねだられることもなくなり、人々から忘れ去られていく自分に嫌気がさし、過去の栄光を取り戻したいと考えたのだ。対戦相手はソ連のアマチュアボクシング・ヘビー級チャンピオンのドラゴであった。だがドラゴは、ソ連の誇る最新鋭科学トレーニングを受けたサイボーグのような肉体を作り上げていた。アポロ対ドラゴ戦は、ラスベガスで行われた。ロッキーは無謀なアポロを諭し、「トレーニング期間が短すぎる」と苦言を呈するが、アポロは耳を貸さない。リングに上がったら「たとえどんなことが起ころうともタオルは投げるな」と、アポロは必死の覚悟で試合に臨む。そのアポロの意気込みも空しく、ドラゴは屈強な肉体をフルに生かし、アポロを打ち付ける。そこに手加減は一切なかった。やがてアポロはリングに倒れ、そのまま絶命する。その後、ロッキーは親友アポロのファイターとしての精神を受け継ぎ、リベンジを誓う。 そして敵地である極寒のモスクワへと乗り込むのであった。この作品で注目すべきは、ソ連人がアメリカに降り立ち、アメリカ人がソ連へ降り立ったこと。正に、米ソ冷戦時代の終結を謳っているのだ。政治的な絡みはそれほど強くは感じられないが、これまでのロッキーシリーズとは確かに異色である。大変ユニークなのは、ジェームス・ブラウンご本人が登場し、ファンキーなダンスミュージックを披露してくれるシーンだ。“これこそが正にショービジネスである”と、世界に鼓舞するような、明るく陽気なアメリカ映画の典型であり、エンターテイメント性に徹した作品なのだ。1985年(米)、1986年(日)公開【監督・脚本・出演】シルヴェスター・スタローンまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.04.24
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「ミッキーの為でもなく、人々の為でも、タイトルでも、私の為でもない。・・・あなたの為よ。あなただけの為。」「(もしも)負けたら?」「(負けは)負けよ。でも言い訳はない。恐れも。(何より)生きていけるわ。」「(君は)強くなったな。」「(だって私は)ボクサーの妻よ。」前ニ作の評価が高かっただけに、この三作目はスタローンにとってもプレッシャーだったかもしれない、などと勝手に想像していた。だが予想に反しスタローンはスクリーンを通して、何となく楽しげに映っていた。肩肘張らず、周囲の出演者たちとわきあいあいと演じることを楽しんでいるようにさえ思えた。当初、売れないB級映画の役者でしかなかったスタローンが、わずか3日で書き上げた「ロッキー」の脚本を制作会社に持ち込んで、見事大ヒットをおさめた彼は、正に「ロッキー」そのものだった。“この映画がダメならもう役者なんてやめてしまおう。”きっとスタローンはそのぐらいの覚悟で撮影に挑んだに違いない。その後「ロッキー2」も興行的に成功をおさめ、スタローンは名実共に肉体派俳優として活躍の場を広げていったのだ。先のチャンピオン、アポロに勝利したロッキーは、その後10度の防衛に成功をおさめていた。チャリティーでプロレスラーのサンダーと対戦したり、フィラデルフィア美術館庭園にロッキーのブロンズ像が設置され、ロッキーにまつわるグッズが数多く発売されるなど、キャラクター的存在になりつつあることは否めなかった。そんな中、地位も富も手に入れたロッキーは、引退を発表。だが猛然とロッキーに対戦を挑むボクサーが現れた。それは、クラバーという語気の荒い新鋭のボクサーだった。ロッキー自身だけでなく、妻のエイドリアンまで侮辱されたロッキーは、クラバーの挑戦を受けて立つことにする。だが、トレーナーのミッキーは猛反対。ハングリー精神の失われてしまったロッキーに、すでに勝つ見込みはなかったからだ。 正直なところ、「ロッキー1」にあふれていた不器用で素朴な男の透明性は感じられない。だがそんなことはさして問題にはなるまい。たいていの人間は、時と状況に応じて変わっていくのだから。ロッキーについても同様なのだ。だが、変わらないものもある。それはこの「ロッキー」シリーズのテーマである“やればできる”の精神。このシンプルだが力強いパンチの効いたテーマは、時代を越えても決して揺るぎはしないのだ。1982年公開【監督・脚本・出演】シルヴェスター・スタローンまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.04.23
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“There's one thing I want you to do.”“What ?”“Come here.”“・・・・・?”“Win. ・・・Win・・・!”1976年に公開された前作の登場により、アメリカ映画界はその様相をガラリと変えた。ベトナム戦争が社会に与えた影響は、映画界にも暗く影を落とした。が、前作「ロッキー」が封切られたことで、それまで全盛を誇っていたアメリカンニューシネマは終焉を迎え、前向きで明朗な「個人の可能性」を全面に打ち出した作品が表舞台に立つことになったのだ。そういう意味でも「ロッキー」はアメリカ社会の一つの転機を表現した作品となった。 前作ではアポロとの試合に判定負けしたロッキーではあったが、世間は不屈の精神を見せつけたロッキーを賞賛した。アポロの強烈なパンチのせいで視力を失いかけたロッキーは、医者のすすめやエイドリアンの(ボクシングを続けることへの)反対もあって、ボクシングを引退することに決めた。エイドリアンとささやかながら結婚式を挙げ、新居を構え、その後彼女の妊娠も判明。 ロッキーは生活のために精肉工場で働いてみたものの、人員削減のため解雇。代わりにエイドリアンが身重の体にムチを打ってペットショップで再び働くことにする。 そんな折、アポロから再試合の申し入れが届く。アポロは世間からバッシングを受け、チャンピオンとしてのプライドが先の試合での結果を好しとしなかったのである。「ロッキー2」は、ぜひ字幕スーパーでの鑑賞をお勧めしたい。昏睡状態だったエイドリアンが奇跡的に目を覚まし、身も心も萎えてしまったロッキーを枕元に呼び寄せ、“Win.”(勝ってちょうだい)と激励するシーンは、思わず胸が熱くなる。この一言がどれほどロッキーの支えになったかは、映画を観れば一目瞭然だ。大きな図体をして、力も強く、風邪一つひくこともなさそうな頑強なロッキーだが、エイドリアンにはめっぽう弱く、彼女の支えなしでは試合にもまともに出られないような状態だったのだ。愛がこれほどまで人間の気力に影響するものであったかと、改めて実感するシーンなのだ。自分を奮い立たせたい時、自信を失いかけている時、この作品をぜひお勧めしたい。殴られても殴られても、よろめき、倒れそうになっても起き上がろうとするロッキーの姿に、明日を生きる勇気を与えられるに違いない。1979年公開 【監督・脚本・出演】シルヴェスター・スタローンまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.04.22
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「俺は以前はクズみたいな男だった。」「何、言うの。」「だって本当さ。クズだったよ。・・・そんなことはいいや。試合に・・・負けてもどうってことない。脳天が割れてもいいさ。最後までやるだけだ。相手は世界一なんだ。最後のゴングが鳴ってもまだ立ってられたら・・・俺がゴロツキじゃないことを・・・初めて証明できるんだ。」ストーリーは至ってシンプルなのに、どうしてこれほどまでたくさんの人々を感動させる魅力があるのだろう。たいていの人たちは、現状に満足していない。たいていの人たちは、自分の限界をわきまえている。たいていの人たちは、孤独と不安に苛まれている。たいていの人たちは、お金より大切なものがあることを知っている。この作品はそういう“たいていの人たち”が感じていることを代弁してくれるのだ。人間はいつだって足元を見ようとしない。足元に落ちている小さな石ころに躓くことがあるのを知っていても、面倒くさかったり、あるいは無気力さから危険を回避することを怠りがちだ。では、どうしたら良いのか。答えはこの作品が教えてくれる。ペンシルバニア州フィラデルフィアの安価なアパートに暮らすロッキー・バルボア。本業はボクサーだがその賞金だけでは生活が困難であるため、高利貸しの取立人をしながら日銭を稼いで暮らしていた。そんなロッキーは近所のペットショップに勤めるエイドリアンに好意を寄せていた。ロッキーはどうにかしてエイドリアンを振り向かせたいと、毎日彼女のいる店に出向き、つまらないジョークを考えては彼女の気を引こうと努力していた。だがエイドリアンは内気で人見知りが激しく、なかなかロッキーに対して心を開こうとはしなかった。そんなある時、世界ヘビー級タイトルマッチで世界チャンピオンであるアポロの対戦相手が負傷。代役として候補に挙がったのはロッキーであった。ロッキーには“イタリアの種馬”というネーミングがあったことでアポロの目を引き、指名されたのだった。それから試合までの間、ロッキーは来る日も来る日も過酷な特訓を耐え抜いた。この映画は作品もさることながら、BGMに流れる“ロッキーのテーマ”でもあまりに有名。様々な番組の挿入曲として採用されているので、誰でも一度は聴いたことがあるはずだ。 さらに、ロッキーのトレーニング風景で周知の通り、フィラデルフィア美術館の前の階段を駆け上がるシーンがあるのだが、そのおかげで現在は観光名所にもなっている。一人の不器用な男が、努力と忍耐とそして愛によって「個人の可能性」を打ち出していく物語なのだ。1976年(米)、1977年(日)公開【監督】ジョン・G・アヴィルドセン【出演】シルヴェスター・スタローン、タリア・シャイアまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.04.19
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「君に頼める仕事を考えよう。」「ホント?」「(ホントだとも)念願の自転車が買えるかもな。」「・・・なぜ(僕が自転車を欲しがってると)知ってるの?」「子供なら(たいてい)欲しがる。」どこの国でも“泣かせる”作家はいるものだとつくづく感じた。スティーヴン・キングはその代表格だ。専門はホラーかもしれないが、なかなかどうして人の持つ感情に揺さぶりをかけてくる作家ではある。差し当たり日本では、浅田次郎あたりがこの手の作家に相当するだろうか。スパイスの効いた作品は、読んだ後からも余韻が残り、しばしその世界から抜け出せない自分に気付くのだ。「アトランティスのこころ」も例外ではなく、ノスタルジックな世界観に浸る余り、思わず記憶の扉を開けてしまいたくなる、そんな作品なのだ。初老に差し掛かった写真家ボビーが、生まれ育った故郷の小さな町で、かつての我が家を訪れ昔を回想するところからストーリーは展開する。それはボビーがまだ11歳のころ、当時彼は母親と二人きりの生活。父親やすでに他界していて、その顔は写真でしか知らなかった。ボビーの母親は生活するために懸命だったが、若さとその美貌のためドレス代にお金をつぎ込んだり、職場の上司と研修と称して外泊するなどボビーをないがしろにしていた。せっかくの誕生日にも欲しかった自転車は買ってもらえず、代わりにもらったのは大人用の図書館の貸し出しカードだった。そんなある日、ボビー宅の二階に老人テッドが下宿することになった。テッドはどこかミステリアスでインテリジェンスだったので、ボビーの知的好奇心は多いにくすぐられた。ある時、テッドはボビーに仕事の依頼をする。彼に与えられた週に一ドルの仕事というのは、テッドが老眼のため新聞が読みにくいので代わりに音読すること。そして、テッドをつけねらう危険な者たちの気配を感じたらすぐに報告することだった。 この作品は「グリーンマイル」同様にファンタジー色が濃いにもかかわらず、特殊効果に頼らず、役者の演技力と脚本に重きを置いている。しかしそのアナログな演出が効果的に作用し、テッドがリアルな人物像として存在し、作品を揺るぎないものにしている。作中、キングらしい場面が出て来るが、これは甘ったるいメロドラマに陥らないための楔にもなっている。それは例えば、ボビーの母親が外泊先で職場の上司に乱暴されたり、キャロルがいじめっ子からバットで殴られ片腕を脱臼するなど、かなり刺激の強い演出だ。しかしそういう苦い経験や甘くせつない記憶の向こうに、望むと望まないにかかわらず大人への道が続いているのだと教えてくれる。時間は限りなく永遠であるようにも思えるが、実はちっぽけな自分なんて長い歴史の一瞬のものでしかないことを実感する。2001年公開【監督】スコット・ヒックス【出演】アンソニー・ホプキンス、アントン・イェルチンまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.04.13
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「そうじゃけぇね、巧くんから豪にひと言、“野球の才能ねぇけ、あきらめろ”って言うてもらいてぇんじゃ。こんなん言うたら悪いけど、巧くんのせいなんよ。豪ね、野球はもう卒業て決めとったのに、“やっぱりやりてぇ”言い出して、もともと“小学校まで”いう約束で野球をさせてやっとったんじゃ。それをあの子いうたら・・・」「おばさん、野球って、させてもらうもんじゃなくて、するもんです。」近年、「青春小説」というジャンルの作品に触れることがめっきり減ってしまった。年を重ねるごとに、若さを謳歌した日々のことを忘れてしまうためか、あるいはその青臭さに嫌気がさすからなのかはわからない。だが青春とは、誰にとっても爽やかで輝いているものだと思ったら大間違いなのだ。もっと過酷で、他者から見れば滑稽でさえあるものだ。あさのあつこ原作の児童文学小説「バッテリー」は、実に興行的に成功した。活字離れの甚だしい昨今、この小説の登場により、爽やかな青春ストーリーの展開に様々な年齢層を夢中にさせた。この映画「バッテリー」は、ずば抜けたピッチングの才能に恵まれた原田巧とキャッチャー永倉豪がバッテリーを組み、苦悩を抱えながらも果敢に試合に挑んでいく物語だ。主人公の巧は、もともと東京にいたのだが、父親の仕事の都合により岡山へ引っ越すところからストーリーは展開する。巧の弟である青波は、生まれつき体が弱く、その療養も兼ねていた。巧には性格的な問題があった。母親が体の弱い青波に付きっきりで、巧に対する関心が薄かったからなのか、巧は母親の愛情に飢えているふしが感じられた。また、弟ばかりが特別扱いされていることに、子供らしい嫉妬もあった。そんな理由があれこれ考えられるのだが、野球以外のことには全く興味がなく、自己中心的で他人とのトラブルは多々あり、いわゆる“トラブル・メーカー”であった。ここでは都会の喧騒から離れて、カントリー的な岡山の風土を舞台に青春の1ページを綴っている。様々な個性を持った少年たちが、思春期の苦悩を抱えてぶつかり合う。それは、野球というスポーツを通して自分と向き合い、あるいは他者と向き合い、少しずつ成長していく青春ドラマ。素朴な方言が飛び交う中、ほとばしるような若さの勢い、泥臭さが、映画を盛り立てている。主人公の脇を固める子役たちも、必死の演技がとても健気でいじらしい。とりわけ、お寺の跡取り息子なのに幽霊が怖い(沢口文人の役)という設定で出演した米谷真一は、とても存在感があった。中一らしいあどけなさを残し、気が小さくて臆病者の反面、ムードメーカーで柔和な雰囲気を役の上からも充分にかもし出していた。この映画から、我々が忘れかけている友情、スポーツへの情熱、家族の絆を思い起こすことができれば充分ではなかろうか。大人の視点からではなく、等身大の青春を思い描き、童心に返って、若さに任せた“勢い”を感じ取ることができれば最高であろう。2007年公開【監督】滝田洋二郎【出演】 林遣都、菅原文太また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.04.05
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「リーダーになったとき、君はこの未熟な集団をどう指揮するか悩んでたが、私は安心してた。なぜだ?」「僕がドラムラインを愛してたから。」「君はそれを忘れた。人間はたまに大事なものを忘れる。しかし愛情をなくしたら、デヴォンがいなくても指揮することは難しい。」いつの時代にも青春映画というのは一定の割合で支持され、若者たちのエネルギッシュな姿をスクリーンから体感することができる。人は皆、大人社会にどっぷりと浸かっていくにつれて、若かりし頃の熱い気持ちや仲間との友情、損得なしの探究心を忘れがちである。この作品を観るまで、マーチング・ドラム部の「バンド・バトル」などというものが存在すること自体知らなかった。例えば日本でも甲子園球場などで(高校野球の場合)、各校が競って応援合戦を披露しているが、あくまで競技の中心は野球であり、鼓笛隊やチア・グループは盛り上げ役に過ぎない。あるいはブラスバンド部の全国コンクールはあっても、競技場で顔を突き合わせてのバンド・バトルというのはありえない。「ドラムライン」は、天才的ドラム・テクニックを持つデヴォンが、アトランタにあるA&T大学の名門マーチング・ドラム部にスカウトされるところからストーリーは展開する。マーチ隊はチア・グループと共に競技場で演奏しながら集団でパフォーマンスを披露する。そんな中、入部早々からデヴォンは抜きん出て優秀だったが、自分の才能を過信してバンドの和を乱してしまう。だが、バンド・リーダーのショーンの歩み寄りとガール・フレンドのレイラの支えにより、デヴォンは心の成長を遂げ、ライバル校であるMB大学との対決に臨む。内容に斬新なものは感じられなかったが、若者たちが仲間と一つになって目標に突き進んでいくようすが生き生きと描かれていた。ミュージカルとは少し違うが、音楽とダンスの融合が画面いっぱいに広がっていて、おそらくライブで観たら圧巻するのではなかろうか。ほとばしる青春の瑞々しさを体感できる作品だ。2004年公開【監督】チャールズ・ストーン三世【出演】ニック・キャノンまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.02.02
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「人生ほど重いパンチはない。だが大切なのは、どんなに強く打ちのめされても、こらえて、前に進み続けることだ。」父さん、ボクはたまらなくイヤだったよ。父さんが昔、偉大なるボクサーで、誰もが振り返るような立派で有名な人物であればあるほど、ボクはその影に潜み、周囲の顔色や体裁を気にしていなければならなかったから・・・。友人や職場の同僚、上司、それにすれ違う人々すら、「あのロッキーの息子!」などと声をかけて来る。ボクはボクであって父さんの付属品じゃないんだ!もちろん、父さんがこれまでどんなに辛く、苦しい想いをして来たのか知っているつもりだよ。栄光を勝ち取るために厳しいトレーニングを重ね、世間のくだらない論評などに惑わされない強い精神力を培って来たことも。母さんが亡くなってからは魂の抜け殻のようになってしまい、フィラデルフィアの街を彷徨いながら孤独と必死に闘って来たことも。だけど今回の試合、現役ヘビー級チャンピオン、しかも無敗の若手と勝負を決することになったとき、ボクは父さんを誇りに思ったんだ。過去の栄光にしがみつく惨めな老兵では終わらなかったんだから!そこに男の生き様を見たんだ。年を取ることは少しも恥ずかしいことなんかじゃない。ぶざまでもいい、醜態をさらしてもいい、一生懸命がいかにカッコイイことなのか、父さんは身を持って教えてくれたんだ!ボクは、「ロッキー・バルボア」の息子であることを誇りに思うよ!!2007年公開【監督】シルベスター・スタローン【出演】シルベスター・スタローン(ロッキー・バルボア)また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.01.07
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