《櫻井ジャーナル》

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2013.08.04
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 1945年8月、アメリカは2発の原子爆弾を日本へ落とした。まず6日にウラン235を使った「リトルボーイ」を広島市へ、また9日にはプルトニウム239を利用した「ファット・マン」を長崎市に投下した。

 原爆は核分裂反応で放出されるエネルギーで建造物を破壊し、人間を含む動植物の命を奪うだけでなく、放射線による障害で中長期にわたって生態系へ影響を及ぼす。1945年12月末までに広島では約14万人、長崎では7万4000人程度が死亡したと言われているが、この数字は熱戦や急性障害の犠牲者であり、晩発性の障害や遺伝的な影響は含まれていない。

 この年、2月にヤルタ会談が開かれ、ドイツ敗戦の90日以内にソ連は日本との戦争を始めなければならないことが決められた。その2カ月後、つまり4月にアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領が急死、ハリー・トルーマン副大統領が大統領へ昇格する。

 1944年の大統領選でルーズベルトは勝利しているのだが、この段階で健康面に不安があると考える人は少なくなかった。第4期目を全うできないことも想定され、そうなると副大統領を誰にするかが大きな問題になる。そこで、ニューディール政策を継承するであろう反ファシスト派のヘンリー・ウォーレスを副大統領の座から引きずり下ろすべきだという意見がウォール街では強まる。そして選ばれたのがトルーマンだ。

 トルーマンはミズリー州カンザスシティーを拠点とする政界の黒幕、トム・ペンダーガストの手下。そのペンダーガストは1939年に所得税法違反で有罪判決を受け、45年1月に死亡している。

 ウォーレスは商務長官になるが、そのウォーレスをトルーマンは嫌い、1946年9月に商務長官を止めるように通告、政府から追い出している。

 本ブログでは何度か指摘しているように、日本は1923年の関東大震災を契機にして、アメリカの巨大金融機関、JPモルガンの影響下に入った。JPモルガンの総帥、ジョン・ピアポント・モルガンの妻と親戚関係にあったジョセフ・グルーは1932年から41年まで駐日大使を務めているが、グルーの妻は大正天皇の妻、貞明皇后(九条節子)と子供の頃から親しいことも無視できない。

 JPモルガンとルーズベルトが敵対関係にあり、1933年から34年にかけてモルガンを中心とする勢力が反ルーズベルトのクーデターを計画している。この動きは海兵隊の伝説的な軍人、スメドリー・バトラーが議会で証言、当然、記録に残っている。学者やメディアがこの問題に触れたがらない理由は言うまでもないだろう。

 こうした関係を考えると1945年4月のルーズベルト急死は日本の支配層にとって朗報であったに違いない。アメリカの新政権は日本の支配システム(天皇制官僚国家)を護持してくれることが期待できるからだ。



 これは軍の反対で実現せず、チャーチルは7月に首相の座を降りるのだが、その7月、アメリカでは「トリニティ実験」という人類初の核実験を成功させている。そしてトルーマン大統領は原爆投下を決定する。タイミングはソ連の対日参戦。

 戦後、1949年に出された統合参謀本部の研究報告では70個の原爆をソ連の標的に落とすという内容が盛り込まれ、55年頃になると、アメリカが保有していた核兵器は2280発に膨らみ、57年になると軍の内部でソ連に対する先制核攻撃を準備しはじめる。アメリカは核兵器を「抑止力」ではなく、先制攻撃のために使おうとしていた。「核の傘」も幻影だということ。

 1961年4月にCIAは亡命キューバ人を使ってキューバ侵攻を試みて失敗しているが、本来の計画では、その後、アメリカ軍が介入することになっていたようだ。これを阻止したのが大統領に就任して間もないジョン・F・ケネディ。

 この侵攻作戦から3カ月後、軍や情報機関の幹部からソ連を攻撃する計画について説明をケネディ大統領は受けた。テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授(経済学者ジョン・ケネス・ガルブレイスの息子)によると、1957年初頭にアメリカ軍はソ連に対する先制核攻撃の準備を開始したという。1963年の後半には先制攻撃に必要なICBMを準備できると見通していたようだ。

 当時、ソ連は長距離の核弾頭輸送手段がなかった。中距離ミサイルでアメリカに対抗しなければならないということだ。そこで米ソ両国はキューバに目をつけたわけである。ソ連がキューバへミサイルを持ち込んだ理由はここにある。キューバを装って「テロ」を繰り返し、「旅客機撃墜」を演出するという偽旗作戦、ノースウッズ作戦をアメリカ軍が練り上げていたのもこの時期だ。

 それに対し、ケネディ大統領はミサイル危機を話し合いで解決、1963年6月には、ソ連との平和共存を訴える「平和の戦略」と呼ばれる演説をアメリカン大学の卒業式で行っている。10月にはアメリカ軍のベトナムからの撤退を決断、そして11月22日にダラスで暗殺された。その20日前、シカゴでも暗殺計画があったのだが、これは事前に発覚して防がれていた。ちなみに、日本が核武装に向かって動き始めるのは、この頃からである。





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最終更新日  2013.08.05 14:57:52


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