炬燵蜜柑倶楽部。

炬燵蜜柑倶楽部。

2006.02.26
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「投げ出された…」
 それがどういう衝撃なのか、私にはよく判らない。単に転がった、というだけではないような気もするし、それだけのようにも思えなくもない。
 とにかく、目の前に居る彼女は、それでケガをしているのは確かなのだ。
「…それで、もし脊髄をどうかしているとかだったら、どうなんですか?」
「どうなのかな…」
 まりえさんは口を濁した。
「まだ何とも言えないのよ。何せ、今この病院で、事故に遭ったひと、皆収容してて、その中でも個室に入れられたってこと自体、わたしも気になってはいるのだけど」
「と言うと」
「軽いケガのひとたちは、大部屋でしょう?」

「…とにかく今日はありがとう。ここに泊まる?」
「ええ、一応明日は休む、と言ってきましたから」
「本当に、ありがとう。…いい友達、できたのね、菜野」
 お茶入れましょう、とまりえさんはポットの電源を入れる。私は部屋の隅にあったドーナツ椅子を引っぱり出す。部屋全体の照明が強くないので、椅子の赤がひどくくすんで見えた。血色の悪い女のつけた口紅を思わせた。
「はいどうぞ。紅茶で良かった?」
「ええ…」
 ふう、とまりえさんはもう一度ため息をついて私の隣に椅子を置いた。
「あの子のアドレス帳に、まりえおばさん、って最初にあったから、私のほうに連絡が来たのよ」
「そうですか…」
「で、その中に確かルームメイトであるあなたのケイタイも書いてあったから…」
「アドレス帳なんて、持ってたんですね、サラダ」

「編集の方、なんですよね」
「ええ。一応」
 彼女はある雑誌の名前を出した。驚いたことに、私も時々立ち読みする音楽雑誌だった。そう言えば、サラダのおばさんなのだから、結構歳もいっているはずなのに、そんな風には見えない。若作りではなく、長いウエーブの髪をざっと束ねただけのその姿は、年齢を感じさせないものだった。
「今ちょうど、エアポケットの時期だったから、すぐに飛んで来れたけれど…これがもう少し後だったら、正直、こうすぐにやってこれなかったかもしれないね」
「…そういうものですか?」

「友達だし」
「友達だって、そうそう一緒にいつも居られる訳ではないでしょう?」
「サラダは…一緒に店をやろう、って言ってる…仲間…っていうんでしょうか。何か上手い言葉が今浮かばないんですけど」
「ああそれで、あの子が今一緒に住んでいるのね。あの子にしては、何かすごい上等、というか、進歩というか」
「進歩、ですか?」
「進歩よぉ」
 少しばかり、その口調は彼女の姪のものと似ていた。
「そうかも、しれないんですね」
「聞いてるんだ。あなた」
 まりえさんは首を傾げて、私の顔をのぞきこんだ。
「あの子が引きこもってた子だってこと」
 私はうなづく。言ったんだ、とまりえさんは感心したようにうなづく。
「そうよね。じゃないと、今のあの子を見てるだけじゃあそういうことは言えないよね」
「あなたが、逃げ出せと言ったと聞きました」
「あらそんなことも言ったの」
 あはは、と彼女は小さく笑った。
「そうよ。わたしが言った。そしてそれは間違いじゃなかったと、思うしね。そこに踏みとどまってがんばれ、なんて、言うのは簡単じゃない。だけど当の本人にしてみりゃ、たまったものじゃない。痛みの度合いなんて、皆それぞれ違うのに、あの子より感じ方が鈍い連中が、その鈍い神経であの子を傷つけていたから、生きたいのだったら、生きやすい方においで、と言ってやっただけ。そうしてもいい環境だったら、黙ってることはない、と思ったからね」
「環境?」
「たとえばね」
 彼女は胸の前で腕を組む。
「ものすごく、貧しい環境に生まれてきた子だったとするでしょ。そういう子はそういうところでがんばっているんだから、って言葉で責めることってあるじゃないの」
「ありますね」
 好きではない論法だ。
「でもそういう子は、そこに生まれて、そういう現実を見て育って、ある程度の耐久力がある訳じゃないの。誰に教わるでもなく。でもあの子にしても、たとえばあなたにしてもそうかもしれないけれど、食べることや生活費に困らない子供に、いきなり同じトラブルを突きつけたらどう?」
「困りますね」
「それでも現実は現実、と言えば言えるし、そんな場合にぶち当たったら、そんな甘っちょろいこと言ってどうする、ってこともあるわよ。だけどあの子はそうじゃなかったからね。環境ってのはそういうこと。そういう現実が来る可能性が全くない、とは言わないけど、現実問題として、あの子がそんな状況におかれた訳じゃないでしょ。無理なたとえを持ち出して人を非難するのは楽よね。一人一人傷の負い方ってのは違うのにね」
 伏せ加減にした目の、眉だけ彼女はひょい、と上げた。最後のほうはほとんどつぶやきの様だった。私に話している、というより、自分自身に言い聞かせているような気もした。私は話を変えた。
「…けど、しばらく入院することになると、大変ですよね」
「ああ、あの子保険に入っている、って言ったから、ある程度はそこから出せる様よ」
「保険」
 なるほど。その程度に心配はしていたのだ。
「ただ、もし脊髄のほうに響いていたとすると、もしかしたら、今までのようなバイトをして行くことは」
 ぐっ、と私は両手を握りしめた。
「…まりえさん、あの」
「なあに?」
 こちらを向く。その拍子に髪がざらり、と揺れた。
「それって、確実なんですか?」
「何が?」
「その…サラダが、脊髄がどうの、って…」
 彼女はそのあたりを結構ぼんやりとした言葉で覆っている。その中身が何なのか、私は薄々感づいている。それはひどく嫌な予想だ。聞きたくない、と思わせるたぐいのものだ。
「…それは、どういうことなんですか?」
 彼女はゆっくりと目を閉じた。
「それは、サラダが、どうなってしまう、ということなんですか?」





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最終更新日  2006.02.26 21:00:01
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