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『粋(すい)は身(み)を食(く)う』 『粋は身を食う』花柳界(かりゅうかい)などで、粋人と持て囃(はや)されたりしていると、遊興に深入りし過ぎて、最後には身を滅ぼすことになる。類:●芸は身の仇反:●芸は身を助く*********源五郎たちが働きに出ている間に、あやはお咲の元を訪ねていた。 久々の外出ということもあって、遠回りして、毘沙門(びしゃもん)様へも寄ってきていた。 >あや:六之進様、すっかり、ご無沙汰(ぶさた)してしまいました。 >六:おお、これは、あやさんではありませんか。親方には、お変わりなく? >あや:はい。みんな息災(そくさい)です。 >六:ささ、むさ苦しいところではありますが、お上がりになってください。・・・咲、お茶をお煎(い)れしなさい。上等な方だぞ。 >咲:はーい。・・・ねえ、あやさん、後で慶二ちゃん、抱かせて貰っても良い? >六:これ、端(はし)たない口の利き方をするもんじゃない。 >咲:はーい。気を付けまーす。・・・ねえあやさん、それって、例のお煎餅(せんべい)? >あや:そうよ。お土産(みやげ)。お咲ちゃんも好きでしょう? >咲:だーい好き。父上は下戸(げこ)だから苦手よね、塩煎餅? >六:何を言うか。煎餅は塩辛いものと相場が決まっておる。それに、男子として苦手なものなどあろう筈がない。 >咲:強情(ごうじょう)なんだから。 >あや:味の好みは人それぞれですからね。苦手だとか得意だとかじゃなくって、好きか嫌いかということで良いんじゃありませんか? うちの親方だって、煎餅より饅頭(まんじゅう)の方が好きみたいですし。 >六:そうですな。拙者も、饅頭の方が好きではありますな。 >咲:それに、お酒よりはお汁粉(しるこ)、でしょ? >六:酒については、目下(もっか)修行中である。やがて酒豪にもなろう。 >咲:それは無理。 あやは、煎餅とは別の包みから「金太楼(きんたろう)」の「小金饅頭」を取り出して、六之進に差し出した。 「流石(さすが)気が回るわね」というお咲の言葉ににっこりしてから、あやは本題を切り出した。 >あや:お咲ちゃんはもう気付いているでしょうけど、うちの八兵衛が、お花さんと一緒になりたいって思ってるようなの。 >六:ほう、八つぁんが・・・ >咲:あたし知ってる。もう、ばればれよ(※)。 >六:そうなのか? 私はまったく知らなんだ。 >咲:父上は一々口を挟まないで。間怠(まだる)っこくなるから。 >あや:良いのよ、お咲ちゃん。・・・それでね、その前に、お咲ちゃんの見た感じではどうかっていうことを聞きたいのよ。 >咲:あたしの感じ? うーん、どうかな。そうね、他のお客さんよりは悪くないかもね。少なくとも、三吉さんよりは良く思ってるわね。・・・でも、一緒になる気があるかどうかってことになると、ちょっと難しいかもね。 >あや:どういう風に? >咲:まだ用意ができてないっていうのかな。そんな感じ。 >あや:そう。なんとなく分かるわね。わたしも最初はそうだったもの。 >咲:親方とのとき? >あや:いいえ。その前のとき。・・・まだ子供だったわ。お飯事(ままごと)をしているみたいだった。 >咲:今は違う? >あや:稚児(やや)が産まれちゃうとね。それどころじゃなくなるもの。毎日が一所懸命よ。 >咲:じゃあ、先に稚児を作っちゃえば良いのよ。 >六:こ、これ。お前、何を言っているのか分かっているのか? >咲:そのまんまよ。 >六:そのようなふしだらなことは許さんぞ。 >咲:何言ってるの? あたしがそんなことするっていうことじゃないの。お花さんのことよ。 >六:お花ちゃんでも誰でも、許さん。 >咲:まったく、父上ったら頭が固いんだから。 お花にその気を起こさせるということが先決ということなのだろうか。 あやはちょっと考え込んだ。 が、考えたからといってどうなるものではない。 >あや:ねえ、頼んじゃっても良いかしら? >咲:あたしが縁結びの役をやるってこと? ・・・こりゃあ難題だわ。 >あや:嫌? >咲:嫌な訳ないじゃない。難しいことほど、やる気盛り盛りなのよね。よーし、引き受けた。 >あや:六之進様、お借りして宜しいですか? >六:八つぁんといえば家族も同然です。存分に使ってください。・・・咲、くれぐれもあやさんの指図(さしず)に従うのだぞ。出過ぎた真似だけはせぬよう。 >咲:分かってるわよ。・・・それで? 先ずどこから始めようか? >あや:そうね。お花さんのお父様とお話してきて貰えないかしら。 >咲:八つぁんの話を出しちゃて良いの? >あや:それはまだ待って。・・・お仕事以外のことを、それとなく見てきて欲しいの。 >咲:仕事以外のこと? >あや:そう。好物とか、仲の好い人は誰かとか、そういうこと。 >咲:良いけど、それが何かの足(た)しになるの? >あや:なるかも知れないし、ならないかも知れない。・・・でもね、お花さんが中々本気になれない訳が分かるかも知れないわ。それが分かれば、お花さんは自然とそういう気になる。きっとね。 >咲:成る程。そういうことか。この縁結び役、お咲、確かに拝命(はいめい)いたしました。 お咲からの報告は2日後に来た。 お咲は、大工たちが出払った頃合いを見計らって訪ねてきた。 >咲:近所の女房連(れん)の話に混じってきたわ。あたしって、小母(おば)さん方には受けが良いみたい。 >あや:評判はどうかしら? >咲:上々(じょうじょう)。人柄は柔らかいし、近所付き合いも良好。女房は大事に扱うし、お花さんとも良く散歩に出掛けてたほど仲良しだったって。それに、足の具合いももう治ったみたいなもんだって。 >あや:言うことなしってとこかしら? >咲:唯(ただ)ね、1つだけあったわ。 >あや:なあに? >咲:歌が巧いんだって。 >あや:歌? >咲:あちこちの祝言やら寄り合いに呼び出されて歌うんですって。「高砂や~」って。 >あや:それがいけないことなの? >咲:うん。なんかね、ほんのちょっと包んで貰った駄賃(だちん)よりたくさん振舞い酒しちゃうんですって。耳掻きで集めて熊手で掻き出すってなもんよ。 >あや:そんなにしょっちゅうじゃないんでしょう? >咲:隣りの小母さんに言わせると、月に6回や7回ですって。4,5日に1回よ。こりゃあもう、趣味の域を越えちゃってるわね。 >あや:それがお花さんの悩みの種なのかしら? ・・・お母様はどうな風? >咲:頼りにされてるんだから仕方ないって、諦(あきら)めちゃってるみたい。 >あや:お母様もそんな具合いだとすると、ちょっと大変ね。・・・でも、なんとなく見えてきたわ。 >咲:次は何をすれば良い? >あや:そうね。お花さんとお話してみたいわ。近いうちにお昼ご飯でも食べに来ない? >咲:明日でも良い? 明日が駄目でも明後日(あさって)。 >あや:お義母(かあ)さんからお小遣いを貰ってるから、奮発(ふんぱつ)して鰻(うなぎ)でも取っちゃおうかしら。 >咲:やったあ。 そんなことになっているとは露知らず、八兵衛はじめじめした陽気にうんざりしながら働いていた。 >八:ねえ親方あ、なんだかこういうはっきりしねえ日が続くと、気持ちまで黴(か)びちまうような気がしませんか? >源:なんだ? そいつは催促(さいそく)か? まあ待て。あやの奴が何かこそこそとやってるみたいだからよ。 >八:それもあるんですが、どっちかっていうとこっちの方で。 >源:なんだ、酒か? まだ真っ昼間じゃねえか。 >熊:懲(こ)りねえ野郎だね、お前ぇも。 >八:折角(せっかく)棟梁たちがいないんですから、ちょっとくらい馬銜(はめ)を外しても良いんじゃねえですか? >源:お前ぇなあ、嫁が欲しいって言ってる割には、迎える準備ってもんが全然ねえじゃねえか。ちっとは我慢をして、銭を貯(たくわ)えるとか、そんなことを考えたことはねえのか? >八:へい。そう言や、まったく考えたことがなかったです。 >源:それじゃあ今から考えろ。このままいくとお前ぇは飲み食いだけで身代(しんだい)を潰(つぶ)しちまいそうだ。 >八:そんなあ。いやあ親方、「身代」なんて呼べるほど立派な家(うち)じゃあありませんって。 >熊:褒(ほ)め言葉で言ってるんじゃねえっての。 ※お詫び 時代考証を誤っています。 「ばればれ」は、現代の用法です。 この時代(1804頃)にはこういう使い方はしていなかったと思われます。
2008.02.29
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『推敲(すいこう)』 『推敲』詩や文章を作るにあたって、最適な字句や表現を求めて、良く練ったり練り直したりすること。故事:「唐詩記事-巻40」・「堯渓漁隠叢話」 唐の詩人賈島(かとう)が「僧推月下門」の句を作ったが、「推(おす)」を「敲(たたく)」に改めた方がよいかどうかに苦慮して韓愈に問い、「敲」に決めた。 出典1:唐詩紀事(とうしきじ) 詩集。南宋。計有功撰。成立年代不詳。唐の詩人1150人について系統的に詩・小伝、及び詩の背景となる事柄などを纏めたもの。出典2:ショウ[糸+相]素雑記(しょうそざっき) ・・・調査中。*********折り良く、旅立ちの朝の雨は、小降りになっていた。 源蔵とお雅は、4歳[数え]になった静(しずか)に手を引かれるようにして出掛けていった。 源太の足取りがまだまだ心許(こころもと)ないので、源蔵とお雅が交替で背負うということらしい。赤子(あかご)を抱いて門まで見送りに出たあやは、傘も差さず、4人が見えなくなるまで見送っていた。 >源:いつまでも突っ立ってると、慶二が濡(ぬ)れるぞ。 >あや:あらいけない。そうでしたね。 >源:大丈夫だよ。ああ見えても、母ちゃんは子供の扱(あつか)いが巧いんだからな。 >あや:それは分かっています。万が一、旅先で病(やまい)にでもなりはしないかと・・・ >源:家(うち)にいたって病気になるときはなるんだ。気にすることはねえよ。 >あや:そうなんでしょうけど、これまで離れて眠ったことがないですから、なんだか、両腕でも?(も)がれたみたいです。 >源:なんだよ。家にいるお前ぇの方で里心が付いちまっちゃ、話にならねえじゃねえか。 >あや:そうですね。 >源:さ、五月蝿(うるせ)え弟子どもが来るまで暫(しばら)くあるから、茶でも飲むとしようじゃねえか。 >あや:そうしましょうか。・・・でもなんだか、こんなにひっそりしちゃうと、甚兵衛長屋に引っ越したばかりの頃を思い出しちゃいます。 >源:そうか? 俺はずうっとここに住んでるからな。・・・侘(わび)しかったのか? >あや:ええ。ちょっとばかし。 源五郎は、あやが煎(い)れて呉れた茶を飲みながら、八兵衛とお花の話を切り出すべきかどうしようかと迷っていた。 あやは、慶二のお湿(しめ)を替えながら、そんな源五郎の様子を面白がっていた。既に見透(みす)かされていたのである。 >あや:何か厄介(やっかい)ごとでもありましたか? >源:い、いや、別にそんなことじゃあねえんだ。 >あや:そうですか? そうは見えませんけど。なんだか、断わり切れない頼みごとをされたって感じですよ。 >源:まったく、お前ぇには嘘は吐(つ)けねえな。仕様がねえ。・・・八のことだ。 >あや:どこかから見合い話でも来ましたか? >源:そうじゃねえんだよ。八の野郎がな、とある娘に惚(ほ)れたってんだよな。 >あや:それじゃあ、力になってあげなきゃなりませんわねえ。それで、どこの方なんですか? >源:それがよ、選りにも選って「だるま」で働いてる娘だってんだ。 >あや:お花さん? >源:お前ぇ、なんで名前を知ってるんだ? >あや:だって、お夏ちゃんから聞いたんですもの。 >源:なんだと? もう半年以上も前から知ってたってのか? >あや:名前だけですよ。それと、お父さんが漬物を商(あきな)っているってことと、武芸の嗜(たしな)みがあって、ちょっとした荒くれ者くらいじゃとても敵(かな)わないほどだってこと。 >源:そんなのは初耳(はつみみ)だぞ。 >あや:あら、そうでしたの? そんなところへ、五六蔵が早めに現れた。 >五六:親方あ、おはようございやす。早過ぎて済いやせん。 >源:おう、五六蔵。どうしたんだまだまだだろうに。まあ、上がってきて茶でも飲め。 >五六:へい。あい済いません。・・・あ、姐(あね)さん、おはようございやす。いやあ、鉤助(かぎすけ)の奴がぴいぴいと泣きやがるもんで、のんびり寝ちゃいられねえんですよ。 >源:そうか。それに比べたらうちの慶二は妙に大人(おとな)しいな。 >あや:きっと、すぐにお腹(なか)が空(す)いちゃうせいですよ。お三っちゃんのお乳だけじゃ足りないのかも知れないわね。 >五六:へえ、そういうもんですか。今晩早速(さっそく)お三千と相談してみます。 >源:お前ぇんとこのは特別にでけえから、それだけ腹も空くだろうよ。 >あや:でも、あんまり甘やかしちゃ駄目よ。「泣く子は育つ」って言うそうだから、鳴かせておくくらいの方が稚児(やや)のためかも知れないの。 >五六:成る程。流石(さすが)は姐さんだ。伊達(だて)に3人も育てちゃいねえですね。為になりやした。 >源:まあ、当分夜泣きには悩まされるだろうな。だが、多かれ少なかれ、誰もが通る道だからな。 >五六:そうですね。お見逸(みそ)れしやした。・・・ときに、棟梁たちはもう出掛けなすったんで? >源:さっきな。雨っ降りが好きなんだとよ。俺には分からねえな。 >五六:十人十色でやすからね。紫陽花(あじさい)は雨が一番似合うって言いやすし。 >源:お前ぇが言うなってんだ。怖気(おぞけ)が立つぜ。 >五六:そうまで言うことはないでしょう。形(なり)はでかいですが、心は生娘(きむすめ)並みなんでやすからね。 >源:どこがだ。聞いて呆れるぜ。・・・それはそうと、藺平(いへい)父つぁんは、鉤助のことを本当に畳職にするつもりなのか? >五六:無理にとは言ってねえんですが、付けた名前からすると、見え見えですよね。 >源:嫌だって言い張ることも出来たんだぜ。 >五六:ではありやすが、まあ、高々(たかだか)名前でやすから。大工になりてえって言い出したら、錠前の「鍵」の字に変えちまいまさぁ。 >源:はっは。そりゃあ良い。錠前直しかなんかになりゃ、左団扇(ひだりうちわ)で暮らせるかも知れねえな。 >五六:いかんせんあっしの子でやすからね、期待薄でやすけど。 >源:違えねえ。 その頃になって、やっと熊五郎と八兵衛が現われた。 今日は仕事が出来そうだからと、源五郎たちはのろのろと腰を上げた。 >八:親方ぁ、棟梁たちは出掛けなすったんで? >源:喜び勇んで行きやがったよ。半月もいねえかと思うと清々(せいせい)すらあ。 >八:それで、親方。あっちの方はどんな具合いでやすか? >源:もう少し待ってろ。今日の今日で何が出来るってんだ。 >熊:慌てる乞食(こじき)は貰いが少ねえって言うだろ? >八:そうは言うけどよ、おいらとしちゃ、気が気じゃねえのよ。 >源:あやの奴には枕(まくら)くらいは話しといたから、勝手になんとかやって呉れるだろうよ。俺としちゃ、逆に心配なんだがな。 >八:姐さんが乗り出して呉れると決まりゃ、もう大丈夫ですね。 >源:そうとばっかりは決め付けるなよ。あいつの遣りようはどうも危なっかしくて仕方がねえ。全く反対の結果になったって知らねえからな。 >八:そんなあ・・・ >熊:要は、お前ぇに男としての頼もしさとか甲斐性(かいしょう)とかがあるかってことなんじゃねえのか? >八:そういうことなら、上等だろうよ。 >熊:本気で言ってるのか? >八:あたぼうよ。 >熊:こいつ分かってんだかね。お前ぇなあ、今晩でも家に帰ってから「甲斐性」ってのはどういうもんなんだか、母ちゃんととっくり話し合っておけよな。 >八:そんなこと聞かなくたって分かってら。おいらはいつだって快食快便だ。元気なことが何よりも大事だってことだろ? 舐(な)めて掛かるのも好い加減にしろってんだ。 >源:なあ八、1つだけ聞いときてえことがある。 >八:なんですか? >源:お花ちゃんのところは商いをやってるっていうじゃねえか。・・・まあ、別に商人(あきんど)と職人の取り合わせが悪いってんじゃねえんだが、お前ぇ、もしも、商いを手伝って呉れってことになったらどうする? >八:おいらが商いですか? ・・・うーん。まあ、太助辺りよりはよっぽど増しだとは思うんですが、やっぱり、大工でいた方が良さそうですよね。 >源:本心なんだな? >八:おいらが物を売ってる姿なんて、どうもぴんと来ねえんですよね。・・・でも、そういうのって、肝心なことになってきちまいますか? >源:分からねえが、先様(さきさま)次第だろうな。 >八:へ? お咲坊のことですかい? >熊:何を惚(とぼ)けてやがる。お咲様じゃなくって、先方のお父つぁんのこったよ。・・・まったく、どこが頼もしいのかね。 >八:そりゃそうだよな。お咲坊の訳ねえよな。・・・でもよ、お咲坊はお花ちゃんの躾(しつけ)役をやってたんだろ? もしかすると、お咲坊が巧いこと言って呉れるかも知れねえぞ、こりゃ。ふむ。どうだ? 良い考えだろ? >熊:手前ぇに都合(つごう)の良いことばっかり考えるなってんだ。 その頃、あやの方では、お咲に間に立たせて事を運ぶのが、一番良いのかも知れないと考えていた。
2008.02.28
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『水魚(すいぎょ)の交(まじ)わり』 『水魚の交わり[=思い・因(ちなみ)・親(しん)]』水と魚の関係のように、非常に親密な友情や交際を喩えていう言葉。類:●刎頸(ふんけい)の交わり●管鮑の交わり●莫逆(ばくげき)の交わり●膠漆(こうしつ)の交わり参照:「蜀志-諸葛亮伝」 「孤之有孔明、猶魚之有厦水也。願諸君勿復言」出典:蜀志→三国志(さんごくし) 192 呉下の阿蒙 参照。*********空梅雨(からつゆ)であるせいか、八兵衛は今のところ、「なんか面白(おもしろ)いことでも起きねえかな」とは言い出していない。 予定以上に仕事が舞い込み、大女将(おおおかみ)のお雅はほくほく顔である。 >雅:ねえお前さん、温泉にでも行ってこないかい? >棟:なんだよ、藪から棒に。足腰も丈夫だし、どこも痛(いて)えところなんかねえぞ。 >雅:湯治(とうじ)じゃないよ。息抜きと骨休めのためだよ。 >棟:二人っきりで、しっぽりとか? >雅:そんな訳ないでしょう。孫らとあやを連れてだよ。 >棟:うん、まあ、それも良いが、慶二はまだ生まれてから3月(みつき)と経(た)ってねえからな。どんなもんだかな? >雅:そうだねえ。首が据(す)わるには、あと2月くらい掛かるかねえ。 >棟:それじゃあ、それまで待てば良いじゃねえか。温泉は逃げやしねえんだからな。 >雅:そうかい? ・・・でもさ、思い立つ日が吉日だって言うじゃないか。そんなに待ってたら、なんだかんだと用事ができちまって、結局行けなかったってことになったりするもんさ。 >棟:そりゃあ、梅雨の時期と比べりゃ夏の方が忙しいに決まってら。 >雅:それじゃあ、こういうのはどうだい? あやには済まないが、静と源太の2人を連れて4人だけで出掛けちまうってのは? >棟:あやがそれで構わねえって言って呉れたらだな。 >雅:それじゃあ決まりだね。行き先はどこにしようかねえ? >棟:おいおい、まだあやが納得するかどうか分からねえんだぞ。駄目だってことなら取り止(や)めになるんだ。先に行き先の話をする奴があるか。 >雅:へへーんだ。もうあやの了承は取り付けてるのさ。 >棟:なんだと? またお前ぇ・・・ >雅:違うさ。あやの方から言ってきたんだよ。鎌倉の紫陽花(あじさい)が見事(みごと)だそうですよって。 >棟:そりゃあ花見ってことだろう? 温泉とはまた違うだろ。 >雅:出掛けるのには違いがないでしょう? >棟:蜻蛉返(とんぼがえ)りになるか、何日か泊まってくるかだぞ。大きな違いじゃねえか。 >雅:大した違いじゃないでしょ? 要は、日頃の気(け)だるい思いを忘れて、滅多(めった)に行けないところに行って、羽を伸ばすってことだもの。 >棟:そりゃあ理屈じゃそうだろうが、源五郎が怒り出しゃしねえか? >雅:構うことなんかないさ。もしかするとさ、2人きりになれて、却(かえ)って喜ぶかも知れないじゃないか。 「半月くらいのんびりさせて貰うからね」というお雅の言葉に、あんぐりと口を開けた源五郎であったが、言い出したお雅を止めることなど誰にもできないということに思い至り、渋々承服したのだった。 >雅:何も自分たちだけが良い思いをしようってんじゃないよ。お前たちにも特別に小遣(こづか)いを出しといたから、あやに配分して貰いな。 >源:そういうことなら、弟子たちにも話は付くがな。でも、あんまり浮かれた顔ばっかり見せるなよな。 >雅:分かってるよ。それじゃあ、早速(さっそく)準備に取り掛かるとしましょうかね・・・ >源:梅雨なんだから、どこへ行ったってどうせ雨だぜ。 >雅:半月もしたら梅雨だって明けちまうさ。初めが悪くたって終わりが良ければ良いの。 >源:そんなもんかね。俺だったら、雨の中を歩きたいなんて思わねえがな。 >雅:そんなもんこっちの好き好きだろう? あんたみたいな唐変木(とうへんぼく)には、雨っ降りの良さなんか分かりゃしないだろうね。 >源:分かるさ。雨が降りゃあ、仕事を休める。 >雅:そんなこったろうと思ったよ。 >源:はいはい。・・・そんで? どこに行くってんだい? >雅:箱根さ。途中で、鎌倉の紫陽花寺にでも寄ってみようかと思ってるのさ。お前には花の良し悪(あ)しなんか理解できないだろうが、静と源太にはそんな風になって貰いたくないからね。 >源:なんだと? 静と源太を連れてくっていうのか? >雅:あやの了解は貰ってあるよ。・・・偶(たま)には夫婦(めおと)水入らずってのも良かろうよ。 >源:そんなもん、今更・・・ >雅:子守りでもなんでも頼んで、雨の散歩にでも連れ出しておやり。 >源:大きなお世話だって言ってんだろ。 とは言ったものの、そういえばあやの外出はここのところめっきりなくなっていたなと、源五郎は考えていた。 >八:へ? 棟梁たち、出掛けるんでやすか? >源:半月だとよ。 >八:そんなにでやすか? そりゃあ豪勢だ。羨(うらや)ましいですねえ。 >源:そうか? 足腰も弱ってきてるってのに、よくもまあ遠出なんかするもんだよな。 >八:弱ってるから行くんじゃねえですか。いつ足腰が立たなくなるか分からねえですから、行けるときに行っとかなきゃね。 >熊:お前ぇなあ、そういうことは分かっててもはっきり言うもんじぇねえってんだ。 >八:そうか? でもよ、うちの母ちゃんも良く言うぜ。いつくたばるか分からないから早く嫁を貰って、孫の顔を拝(おが)ませて呉れって。 >熊:そりゃあ随分と際疾(きわど)い脅(おど)し文句だな。 >八:そうだろ? ・・・ねえ親方、そろそろおいらの嫁の話をなんとかして貰えねえもんですかねえ? >源:そんなもん自分で何とかしろ。目当ては疾(と)っくに決まってるんだろう? >八:へ? そんなこと、誰が言いました? 嫌だなあ親方、そんなありもしねえことを言い出さねえでくださいよ、ははは。 >熊:何を言ってやがるんだか。そんな期待に満ちた目をするんじゃねえったら。 >源:ま、あんまり気乗りはしねえんだが、その話は爺さんと婆さんがいなくなってから、あやの奴と相談してみるよ。 >八:ほんとですかい? >源:あんまり期待するなよ。 >八:へい。・・・へい。あんまり期待せずに、色好い結果を待っていやす。 >熊:何を言ってるか分かってるのかね、滅茶苦茶(めちゃくちゃ)じゃねえか。 >八:話し言葉は滅茶苦茶でも、心の中身はちゃんと伝わってるのさ。なんてったって、おいらと親方とはそりゃあ長い付き合いなんだからよ。・・・ねえ、親方? >源:分かりたくねえほど分かるから、もうそれくらいにしとけ。・・・あーあ、厄介(やっかい)なことにならなきゃ良いがな。 「今日はお前ぇらに任せるから、適当にやっとけ」と言うと、源五郎は奥の間へ引っ込んでしまった。 源五郎が言うところの「厄介なこと」というのは、あやが張り切り過ぎてしまうこと、である。 なんといっても、こういう話は嫌いではないのだ。目がないといっても過言(かごん)ではない。 >八:なあ、熊よ。あんまりでかい声で言えたもんじゃねえんだけどよ、大女将さんが半月もいねえとなると、なんだかこう、軽くなるよな気がするよな。 >熊:十分にでかい声だな。聞こえちまうぞ。 >八:あ、いけね。そう言や地獄耳なんだっけな。・・・ふう。大丈夫だったみてえだな。きっと、旅支度(たびじたく)のことでそれどころじゃねえんだな、多分。 >熊:そうだと良いんだがな。 >八:・・・なあ。親方と姐さん、なんとかして呉れると思うか? >熊:姐さんはどうにかしてくださるだろ? それに親方だって、ああは言ったって、最後にはちゃんと立ち回ってくださるって。お前ぇだって長い付き合いなんだから、そのくらい分かってんだろ? >八:頭じゃ分かってるんだけどよ、ことが自分のこととなると、やっぱり心配なんだよな。 >熊:そりゃあそうかも知れねえな。 >八:分かって呉れるか? >熊:ああ。分かりたくねえほどにな。>八:そんでよ、聞くのが怖かったからまだ聞いてなかったんだがよ、お前ぇ、お花ちゃんのことどう思う? >熊:どうってったってなあ。良い娘なのは間違いねえだろうが、八と夫婦になってどうかってことになると、なんとも言えねえな。悪い話じゃねえ。お前ぇにとってはな。 >八:そうだよな。当のお花ちゃんにとってどうなのかってことだよな。そうなるとおいらもちょいとばかし自信がねえんだよな。 >熊:なんだよ。お前ぇがそんなじゃ、話が前へ進まねえじゃねえか。しっかりしろ。 >八:しかしよ、職人は職人で、商人(あきんど)は商人だからな。 >熊:そんなこと気にしてたって始まらねえだろ? どーんとぶつかっていくしかねえのさ。 >八:それで、見事(みごと)玉砕(ぎょくさい)か? >熊:そんときゃそれで仕方がねえ。もしそうなっちまったら、鰻かなんかを奮発(ふんぱつ)してやるさ。 >八:ああ。そんときゃ頼むな。 食い物の話をしても乗ってこない八兵衛を見て、こりゃあよっぽど本気だぞと、熊五郎は感じていた。
2008.02.27
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『尻馬(しりうま)に乗(の)る』 『尻馬に乗る』[=付く・出る]1.他の人が乗っている馬の尻に乗る。他の人が乗っている馬の後ろに乗る。2.節操もなく他人の言説に付和雷同する。無批判に人のすることに便乗して行動する。 類:●付和雷同3.人の尻に乗る。*********日付けが変わって間もなく、五六蔵の妻・お三千が男の子を産んだ。五六蔵に似たせいか、大きな稚児(やや)だった。>五六:思いの外(ほか)長引いちまいました。休みまで取らして貰っちまって、済いやせんでした。>源:初めてのときは心配なもんだ。付いててやるに越したことはねえ。それより、お前ぇ、夜中のことじゃ、十分には寝てねえんじゃねえのか? なんなら半日休んでても構わねえんだぜ。>五六:産んだのはお三千の方で、あっしじゃねえんですぜ。それに、朝方まで掛かった四郎が仕事をしたってのに、あっしが休んでちゃ、合わせる顔がありませんや。>四:おいらの方は、昼飯を食ってから居眠りをしちまいましたけど・・・>熊:起こさなかったのは、手が要(い)らなかったからだ。怠(なま)けてた訳じゃねえさ。>源:今日は昨日とは違って、手が有り余ってるからな。1人や2人足りなくたってなんとでもなる。>五六:それじゃあ、みんなで寄って集(たか)って働いて、早いとこ片付けちまうってことにしやしょう。・・・今日は、藺平(いへい)父つぁんから小遣い銭を貰ってきてるんです。>八:ほんとか? そりゃあ凄(すげ)え。・・・これで、今晩も鰹(かつお)が食えるな?>源:お前ぇ、朝っぱらから酒臭(くせ)えんだが、そんな調子で今晩も飲もうなんて気に、良くなれるな。>八:こんなの、昼飯を食えば治っちまいますって。>三:鰹のためなら、意地でも治してみせるってことでしょう?>源:鰹だと? あの「だるま」でか?>三:へい。あの親爺(おやじ)、何を思ったのか大枚(たいまい)叩(はた)いて初鰹を仕入れてきやがったんでさ。>源:へえ。似合わねえな。>五六:親方も一緒にどうですか? 慶二坊ちゃんの方もちょっとは落ち着いたでしょう?>源:そうだな。偶(たま)にはそういうのも良いかもな。みんなが揃(そろ)うのも久方振りだもんな。>八:やったあ。親方が来て下さるってんなら、これほど心強いことはねえ。>源:お前ぇが当てにしてるのは、俺じゃなくって、俺の懐(ふところ)具合いだろう?>八:へい。まったくその通りで。>源:・・・この野郎。ご愛嬌(あいきょう)でも、「そんなことありません」くらいのことを言うもんだ。>八:こりゃあ失礼いたしました。・・・あ、そうだ。親方はまだお花ちゃんと一遍(いっぺん)も会っちゃいねえですよね? 折角だから、とっくりと見といて貰いたいですねえ。 そういう魂胆(こんたん)である。あわよくば、源五郎に仲立ちを頼めるかも知れない。 今日は巧く立ち回って、そういう風に持っていきたいところである。昼時に、お咲がやってきて、「五六ちゃん、生まれたの?」と聞いてきた。「へい、男の子でやした」という五六蔵の返事を聞くなり、お咲は「だるま」の亭主と、六之進に伝えるべく、駆け出した。(よし、これで今夜も「だるま」へ行く口実ができる。・・・父上は、二日酔いが酷(ひど)くて、今夜は行かないだろう。) そんなことを考えて、にんまりしていた。>五六:熊兄い、お咲ちゃん、どうかしちまったんですかい?>熊:大方、「だるま」の親爺に「ちゃんと鰹を仕入れといてね」とでも言いにいったんだろうよ。現金な小娘だぜ、まったく。>五六:でも、気にして呉れただけでも、なんだか嬉しいですよ。>熊:「名前はどうするの?」くらいのことが言えねえのかね。下心(したごころ)が丸見えじゃねえか。>五六:そんなこと、どっちだって良いんですよ。あっしは、稚児が生まれたってことを知って貰うだけで嬉しいんですから。>熊:そんなもんかね。>四:それで、兄貴。稚児の名前はなんていうのにするんですか?>五六:さあな。藺平父つぁんが決めて呉れるだろ。お三千が良いというならそれで良い。>四:強そうな名前になるでしょうね、きっと。うちのと、良い釣り合いになりそうだ。>五六:お前ぇんとこのはなんて付けて貰ったんだって?>四:「元吉」ってんです。元気そうな名前でしょう? およねも気に入って呉れました。>五六:そいつは良かった。・・・うちのは、まあ藺平父つぁんのことだから、畳職に関係ありそうなもんでも付けるんだろうよ。>四:でも、大工にさせるつもりじゃないんですか?>五六:今から決めてても仕方がねえだろう。でかく育ってから自分で決めさせりゃ良い。選べるのが2つもありゃ、立派なもんじゃねえか、なあ?>四:確かにね。おいらたちは、百姓しか選ばせて貰えなかったんですもんね。日が西に傾(かたむ)くほどに、「だるま」の亭主は焦(あせ)りを募(つの)らせていた。鰹がないのである。出入りの棒手振(ぼてふ)りも、市場も、海鮮問屋に至るまで、首を横に振るばかりだった。一様に口を揃(そろ)えて「買い占められた」と答えた。>亭:こりゃあ、いよいよやばいぞ。五六蔵の野郎のこったから、「四郎に出せて俺に出せねえのはどういうこった」とかと言って、暴れ出さないとも限らない。・・・それに、折角(せっかく)の好い鴨だってのに、儲(もう)けられねえじゃないか。勿体ねえ勿体ねえ。どちらかというと、儲けの方が優先であるらしい。 しかし、どこをどう回ってみても鰹の「か」の字も見付け出せず、足が棒になるほど歩いた末に、這(ほ)う這うの体(てい)で戻ってきた。 何も出さない訳にもいかないということで、再度回ってきた棒手振りから活(い)きの良さそうな蛸(たこ)を買った。 夕方早い刻限に、源五郎を含めた8人がどやどやと「だるま」に入ってきた。序(つい)でに、お咲も現われ、急に火が灯(とも)ったように騒がしくなった。 亭主は源五郎を見て、「ちっ、親方まで連れてきちまったのか」と舌打ちした。 そういうことになるのを察してか、お花も早めにやってきていた。 >八:お花ちゃん。このお方がおいらたちの親方だ。宜(よろ)しく頼むぜ。 >花:まあ。始めまして、お花と申します。八兵衛さんたちには特別に良くして貰ってまして、助かってます。 >源:今日は大人数になっちまって済まねえな。こっちはこっちで適当にやるから、ほかの客たちの方に専念して貰って良いからな。 >花:どうも、お心遣い有難う御座います。・・・お話で伺(うかが)っていた通り。 >源:そりゃあ、どっちの方ってことだい? >花:良い方ですよ、勿論。ちょっと見は怖そうだけど、心根は飛び切りだって。 >八:そりゃあ、おいらたちの親方だもんよ。当たり前だろ? そんでもって、その一番弟子の八兵衛さんの心根も飛びっ切りだ。そうだろ? >花:はいはい、そういうことにしときます。・・・それじゃあ親方、ゆっくりしてってくださいまし。 お花が奥へ向かいながら、今日のお勧めは何かと尋ねると、亭主は渋々「蛸だ」と答えた。 >八:親爺、なんだと? 蛸だと? 鰹じゃねえのかよ。蛸なんざ間に合ってるぞ。そんなもん堺屋の徹右衛門で十分だ。 >咲:その名前は出さないでったら。 >熊:八、まあそうかっかするなよ。怒ったって鰹が出てくる訳でもねえだろ? それに、見ろよ、お花ちゃんが困ってんだろ。 >八:え? ああそうか。そうだな。まあ、今夜は鰹は諦(あきら)めるとするか。 >三:もう諦めちゃうんですか? >咲:あたしは嫌(や)だ。鰹じゃなきゃ駄目。 >八:まあそう言うなって。な? 蛸も捨てたもんじゃねえぞ。 >咲:蛸も徹右衛門も嫌あ。顔も見たくない。 >八:そうなのか? うん、そうだよな。誰が見たって、徹右衛門よりは熊の方が増しだもんな。 >熊:そ、そ、そんなこと言ってる場合じゃねえだろう。食いもんの話だ。五六蔵の倅(せがれ)の祝いに、贅沢なもんを食いてえんだろう? >八:そうだよ。蛸じゃいつもと変わらねえ。もっとなんだ、滅多(めった)に口にすることができねえもんだよな。そんでもって、親方の口に合いそうなもんだよな? >源:俺は別になんだって構わねえぞ。・・・そんなことより、直ぐに出てきそうなもんと銚子を頼んじゃどうだ? >八:そ、そ、その通りぃ。・・・えーと、お花ちゃん、取り敢えず、昨夜(ゆうべ)の残りもんと銚子5、6本出して貰えねえか? >花:はい、分かりました。>熊:八よ。なんだか今日のお前ぇは変だぜ。 >八:何が変だってんだ? 別に変わりゃしねえぞ。 >熊:ころころと態度を変えやがってよ。見苦しいったらねえぞ。 >八:そんなこと言うけどよ、こっちにはこっちの事情ってもんもあるんだよな。なあ、そうだろ? 親方に気持ち良く飲んで貰わなきゃならねえしよ。四郎と差を付けられちゃ五六蔵が可哀想だしよ。お咲坊を怒らしたらお前ぇに申し訳ねえしよ。ここの親爺と険悪になってもしようがねえしよ。・・・まあ色々と気を遣(つか)ってる訳さ。 >熊:お前ぇがか? 嘘を吐(つ)け。何か魂胆があるに違いねえ。 >八:そ、そ、そ、そんなことはねえさ。ははは・・・ >熊:まったく分かり易い奴だな、お前ぇってやつは。 八兵衛以外の全員が、一斉(いっせい)にお花の方へ顔を向けた。
2008.02.26
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『白羽(しらは)の矢(や)が立(た)つ』 『白羽の矢が立つ』1.多くの中から、犠牲者として選び出される。 2.多くの中から、特に指名して選び出される。また、狙いを付けられる。俗説:神に人身御供(ひとみごくう)として望まれた女の家には、白羽の矢が立った。*********好物(こうぶつ)の筍(たけのこ)が目の前に出されたというのに、半次は浮かぬ顔をしていた。 「だるま」の亭主の魂胆(こんたん)を熊五郎に明かすべきかどうか、迷っていたのである。 >半:なあ、熊さんよ・・・ >熊:なんだ、鰹(かつお)なんか食っちまったもんだから、箸(はし)が進まねえか? >半:そういう訳じゃねえんだがよ。 >熊:じゃあなんだ? 松つぁんのとこの稚児(やや)を見たら、自分とこも欲しくなっちまったんだろ、え? >半:ま、まあな。跡取りも良いけど、娘も可愛いな、確かに。 >八:良いよな、お前ぇには嫁がいてよ。 >半:なんだよそりゃ。そんなもん、自分でなんとかして呉れよな。 >八:そりゃそうだ。ご尤(もっと)もご尤も。 八兵衛が混じると、どうしても話が脇道(わきみち)に逸(そ)れてしまう。 >半:なあ熊さん、今日の八つぁんはどうかしちまったのか? 拗(す)ねてみたり、妙に物分かりが良くなったり。 >熊:いよいよ焦(あせ)ってるんだとよ。 >半:焦ってどうなるもんでもねえじゃねえか、そんなの。 >八:そんなのとはなんだ。こちとら、本気も本気、短気も損気なんだからな。 >半:なんだそりゃ? >熊:動揺してるのよ。 >半:野郎ばっかりで飲んでるだけだってのに、どうして動揺することなんか・・・。ははあ。するってえと、あれか? >熊:そうなんだとよ。 >半:こりゃまた。いつものことにならなきゃ良いがな。 >友:あの。・・・その「いつものこと」ってのは、どんなことなんですか? >半:友助さんはこの「だるま」の看板娘を誰と誰がしてたか知ってるかい? >友:お夏という方と、その前がうちの姐(あね)さんだと聞いてます。 >半:その全部に逆上(のぼ)せ上がっちまってるのさ。 >友:だって、姐さんは親方の・・・ >半:親方とくっ付くのに、半年も掛かったんだぜ。その間、淡い恋心を抱いていやがったのさ。 >八:何を言ってやがるかね。姐さんは端(はな)っから親方にぞっこんだったってのに、それを知ってておいらが横恋慕(よこれんぼ)なんかするかってんだ。 >半:でも、次はお夏ちゃんで、お夏ちゃんがいなくなったらお花ちゃんか? 分かり易い男だねえ。>八:五月蝿(うるせ)えや。仕方がねえだろ。どういう取り合わせだか知らねえが、好い女ばっかりが来るんだからよ。 >半:そうか? >八:そうなの。・・・なあ、三吉? >三:お、おいらに聞きますか? ・・・ええ、まあ。でも、おいらはやっぱりお夏ちゃんが一番だと思いますよ。それから、お咲ちゃんだって。 >半:ほお、しっかりとお咲坊のことまで付け足すじゃねえか。こいつ、胡麻磨(ごます)りの骨(こつ)も弁(わきま)えてやがら。 >熊:お前ぇらなあ。そんなことをぐだぐだと言ってねえで、黙って鰹でも食ってろってんだ。 >友:やっぱり、熊五郎さんとお咲ちゃんはそういう間柄だったんですね? 結局そういう話になってしまった。好い加減酔っ払ってきた八兵衛が三吉に命じて、お咲を迎(むか)えに行ってこいということになった。 >三:そういう話になると、いっつもおいらじゃないですか。偶(たま)には四郎にでも行かせてくださいよ。 >四:おいらは構いませんよ。行ってきましょうか? >八:お前ぇと松つぁんは、今日の主役じゃねえか。そんなもんを使いっ走りになんか遣れる訳がねえだろ? >友:それじゃあ、私が行って参りましょうか? まだそれほど酔ってはいませんから。 >八:そりゃぁ駄目だよ、友さん。最年長の人を使いになんか出せねえよ。 >熊:そんならお前ぇが行ってくりゃ良いじゃねえか。おいらは、今日はくたくただから一遍(いっぺん)帰ったら戻ってこられねえぞ。 >八:おいらだって、三吉の分まで働いたからくたくただぞ。・・・な? そういうことだからよ、三吉、お前ぇしかいねえの。戻ってきたらたっぷり飲み食いさせてやるからよ。 >三:分かりましたよ。八兄いのご上位(じょうい)なら仕方がねえですよね。・・・でも八兄い、今日の仕事は八兄いとおんなじくらいできましたから、2人分働いたなんてことは言わないで貰いたいですね。 >八:あれ、そうだったっけ? あそっか、今日は角蔵棟梁(とうりょう)のとこに行ってたんだっけな。忘れてたぜ。 >三:こんなんだもんな。有り難味もへったくれもあったもんじゃねえな。・・・そんじゃ、行ってきますぜ。 >八:頼んだぜ。・・・あ、そうだ。なんなら、六さんも連れてきて呉れ。傘張り浪人じゃ鰹なんか食えやしねえだろうからな。 >三:へーい。 先ほどからあまり話に加わろうとしていなかった松吉は、三吉の出て行ってからもだんまりを続けていた。 >熊:どうしたんだよ、松つぁん。寝不足か? >松:ん? ああ。そういうことじゃねえんだよ。・・・なあ、稚児の名前ってのはどういう風に決めるもんなんだ? >熊:そうだな。親や爺(じい)ちゃんの名前の一字を取ったり、贔屓(ひいき)の役者や相撲取りの名前を貰ったり、然(さ)もなきゃ、世話になってる親方に名付け親になって貰うとか、そんなもんじゃねえのか? >松:そうだよな。おいらんとこは、女だから難しいよな。「松」じゃ変だし、数の「五」「六」に、字こそ違うが「なな」だぞ。別に、決まった親方がいる訳でもなし、役者とか相撲なんか見たこともねえ。考えりゃ考えるほど行き詰まるんだよな。 >熊:そんなもんかね。うちの棟梁なんか、20も30も考えたっていうぜ。分けて貰っちゃどうだ? >松:30もか? そいつは凄(すげ)えな。・・・ってことは、四郎んとこの倅(せがれ)ってのは、棟梁が名付け親か? >熊:そういうことだ。 >四:「元吉」って付けていただきました。 >松:へえ。中々好い名前じゃねえか。 >熊:謂(いわ)れを聞かなきゃぁな。 >松:なんか変な訳でもあるのか? >熊:い、いや。元吉の為だ。そればっかりは聞かねえで呉れ。おいらに喋(しゃべ)らせねえで呉れ。 >松:そんなに凄(すげ)えのか? ・・・そんじゃあ、止(や)めとく。 >熊:もしかすると、菜々ちゃんが考えてるかも知れねえじゃねえか。決めて貰え、な? >松:だがな。菜々が言うには、稚児の名前は父親(てておや)が決めるもんでしょう? だとよ。 >熊:なんだよ、考えてもいねえのか。・・・うちの大女将(おおおかみ)とは豪(えら)い違いだな。爪の垢(あか)でも・・・ >四:熊兄い、それ以上は言わない方が・・・。噂をすれば影が射すとか言いますし。 >熊:あの人がこんなとこに来る筈はねえだろ、幾らなんでも。 >四:でも、地獄耳だそうですから。 「鰹」と聞いて、お咲と六之進は勇(いさ)んで駆け付けた。 なんといっても、初鰹は、江戸の者にとっての「粋(いき)」なのである。 >六:ど、ど、どうして、このような小汚いところに初鰹が出回っておるのか? >八:なんだよ、六さん、そんなんでも武士の端くれなんだろう? 見苦しいぜ。 >六:そんなことはどうでも好い。1切れ、いや、できれば2切れ摘(つ)まませて呉れ。 >熊:どうぞどうぞ。今日は、親方から多少の飲み代(しろ)を貰ってきてるんだ。鰹の一尾(び)や二尾、どうってこはねえ。 >六:本当だな、熊さん。良いんだな? 武士に二言はないな? >熊:おいらたちは武士じゃねえってんだ。 >六:この際、そのようなことはどうでも宜(よろ)しい。さ、咲、お前もいただきなさい。 >咲:はーい。・・・それじゃあ、お花さーん、お銚子4本くらい出してーっ。 >熊:なんだ、飲むのか? >咲:決まってるじゃない。お祝いなんだもの。 >熊:いやはや。次には五六蔵んとこのが控(ひか)えてるってのに、またこんなことになっちまうのかな? >咲:え? 五六ちゃんのときもお祝いの会をやるの? あたしも出る。明日? 明後日(あさって)? >熊:そんなもんは聞いてみなきゃ分からねえが、多分、明日になるだろうよ。 >咲:凄い凄い。二日も続けて鰹が食べられるの? どこかのお大名様みたいじゃない。 >松:なあ、六さん。頼まれちゃ呉れねえか? >六:頼みごとか? 今、忙(いそが)しいのだ。後にして呉れぬか? >松:後でもなんでも良いんだが、うちの娘の名付け親になっちゃ呉れねえか? >六:なんと。 >熊:おい松つぁん、そりゃあ・・・、いや、そんなんで良いのか? >咲:「そんなの」とは何よ。 >熊:あ、いや。言葉の綾(あや)ってやつよ。別に深い意味はねえ。 >松:おいらの知り合いの中で、一番正面(まとも)に考えて呉れそうなのは六さんしかいねえんだ。なあ、頼むよ。 >咲:あたしも手伝ってあげる。 >熊:それは止(よ)せってえの。 >咲:なんでよ。 >熊:こういうもんは何人もで考えると、こんがらかっちまうもんなの。 >咲:そうなの? つまんないな。 >半:俺は、六さんに任せるってのに賛成するぞ。・・・なあ、頼まれてやんなよ。 >六:そうか? そうまで頼りにされては無下(むげ)には断れぬな。良かろう。引き受けるとしよう。 >松:助かるぜ。これで今夜は枕を高くして眠れるな。 >八:だがよ、六さん。飲み過ぎて何を頼まれたか忘れちまったなんてことにはなるなよな。さもなきゃよ、二日酔いが酷(ひど)くって、人のことなんか考えちゃいられねえってことになるんじゃねえのか? >六:何を抜かすか。こう見えても、少しは酒も強くなっておるのだ。 >八:そんじゃ、飲み比べでもしてみるかい? >六:半(なか)ば酔っ払いだからとて、手心など加えぬからな。舐(な)めて掛かると痛い目を見るぞ。 >八:面白(おもしれ)えじゃねえか。・・・お花ちゃーん、銚子を6本ばっかり出して呉んな。 そうして案の定(じょう)、八兵衛も六之進も、べろべろに酔っ払い、それぞれ熊五郎と松吉に背負われて帰った訳である。
2008.02.25
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『信念は、あなたが望むものをもたらしてくれるのではなく、 あなたが自分のために進むべき道を示してくれるのです』 ある辞典では、信念を“ 真実、価値、人の信用性、アイディアや物 事についての確信であり、論理的な証明や物質的な形として存在しな いものを信じること ”と言っています。 そのように、信念とは形のない抽象的なアイディアであり、まだ実証 されていないものを受け入れる意欲です。 「自分は何かを達成できる」という信念を持つだけで、目標が達成で きるわけではありませんが、目標に到達するために、しなければなら ないことを実行する勇気を与えてくれるのです。 人生においては、自分自身が確信を持っていることの正しさを、示す ことができないような時期もあることでしょう。しかし、「自分は素 晴らしいことができるのだ」という直観に基づいた、その事実は信じ なければなりません。 自分の期待に応えることができない時は、自分自身に対して、非常に がっかりすることもあるでしょう。しかし、自分自身に対する確信を 捨ててはいけません。やろうという意欲がない限り、潜在脳力が引き 出されることはないからです。-------------------------------------『自由な人は、何も恐れません。』 自由でいる限り、克服できない障害に直面することはありません。 自分が選んだ道を追求するという“ 選択の自由 ”がある場合、あな たを唯一束縛するのは、あなたが自らに課してしまう、限界だけなの です。 アメリカ合衆国はこれまでに、南北戦争、2つの世界大戦、大恐慌、 制度に反対する暴動など、様々な困難を生き抜いてきました。この国 が生き残ってきたのは、合衆国の民主主義が、人類固有の善意に基づ いていたからです。 民主主義は、暴政や抑圧などではなく、楽観主義と希望に基づいてい る制度です。一人ひとりの自由を大切にしましょう。---------------------------------------- 『自分自身について心穏やかでいることができる人は、 世間に対しても心穏やかでいられます』 “ 平和 ”とは、与えられるものではなく、自分自身の心の内側から のみ生じるものです。 “ 心の平和 ”を育てる努力は一生続き、周囲が変化し、人との関係 が進展するにしたがって、あなた個人の安全は脅かされるようになり ます。変化、特に大きな変化には、常に脅威を感じるものです。 困難をうまく克服できるようになれば、人生における変化にも非常に うまく対処できるようになります。人間として成長する過程において は、身体と心のみならず、“ 心構え ”も育てるようにしましょう。
2008.02.24
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『白羽(しらは)の矢(や)が立(た)つ』 『白羽の矢が立つ』1.多くの中から、犠牲者として選び出される。 2.多くの中から、特に指名して選び出される。また、狙いを付けられる。俗説:神に人身御供(ひとみごくう)として望まれた女の家には、白羽の矢が立った。*********好物(こうぶつ)の筍(たけのこ)が目の前に出されたというのに、半次は浮かぬ顔をしていた。 「だるま」の亭主の魂胆(こんたん)を熊五郎に明かすべきかどうか、迷っていたのである。 >半:なあ、熊さんよ・・・ >熊:なんだ、鰹(かつお)なんか食っちまったもんだから、箸(はし)が進まねえか? >半:そういう訳じゃねえんだがよ。 >熊:じゃあなんだ? 松つぁんのとこの稚児(やや)を見たら、自分とこも欲しくなっちまったんだろ、え? >半:ま、まあな。跡取りも良いけど、娘も可愛いな、確かに。 >八:良いよな、お前ぇには嫁がいてよ。 >半:なんだよそりゃ。そんなもん、自分でなんとかして呉れよな。 >八:そりゃそうだ。ご尤(もっと)もご尤も。 八兵衛が混じると、どうしても話が脇道(わきみち)に逸(そ)れてしまう。 >半:なあ熊さん、今日の八つぁんはどうかしちまったのか? 拗(す)ねてみたり、妙に物分かりが良くなったり。 >熊:いよいよ焦(あせ)ってるんだとよ。 >半:焦ってどうなるもんでもねえじゃねえか、そんなの。 >八:そんなのとはなんだ。こちとら、本気も本気、短気も損気なんだからな。 >半:なんだそりゃ? >熊:動揺してるのよ。 >半:野郎ばっかりで飲んでるだけだってのに、どうして動揺することなんか・・・。ははあ。するってえと、あれか? >熊:そうなんだとよ。 >半:こりゃまた。いつものことにならなきゃ良いがな。 >友:あの。・・・その「いつものこと」ってのは、どんなことなんですか? >半:友助さんはこの「だるま」の看板娘を誰と誰がしてたか知ってるかい? >友:お夏という方と、その前がうちの姐(あね)さんだと聞いてます。 >半:その全部に逆上(のぼ)せ上がっちまってるのさ。 >友:だって、姐さんは親方の・・・ >半:親方とくっ付くのに、半年も掛かったんだぜ。その間、淡い恋心を抱いていやがったのさ。 >八:何を言ってやがるかね。姐さんは端(はな)っから親方にぞっこんだったってのに、それを知ってておいらが横恋慕(よこれんぼ)なんかするかってんだ。 >半:でも、次はお夏ちゃんで、お夏ちゃんがいなくなったらお花ちゃんか? 分かり易い男だねえ。>八:五月蝿(うるせ)えや。仕方がねえだろ。どういう取り合わせだか知らねえが、好い女ばっかりが来るんだからよ。 >半:そうか? >八:そうなの。・・・なあ、三吉? >三:お、おいらに聞きますか? ・・・ええ、まあ。でも、おいらはやっぱりお夏ちゃんが一番だと思いますよ。それから、お咲ちゃんだって。 >半:ほお、しっかりとお咲坊のことまで付け足すじゃねえか。こいつ、胡麻磨(ごます)りの骨(こつ)も弁(わきま)えてやがら。 >熊:お前ぇらなあ。そんなことをぐだぐだと言ってねえで、黙って鰹でも食ってろってんだ。 >友:やっぱり、熊五郎さんとお咲ちゃんはそういう間柄だったんですね? 結局そういう話になってしまった。好い加減酔っ払ってきた八兵衛が三吉に命じて、お咲を迎(むか)えに行ってこいということになった。 >三:そういう話になると、いっつもおいらじゃないですか。偶(たま)には四郎にでも行かせてくださいよ。 >四:おいらは構いませんよ。行ってきましょうか? >八:お前ぇと松つぁんは、今日の主役じゃねえか。そんなもんを使いっ走りになんか遣れる訳がねえだろ? >友:それじゃあ、私が行って参りましょうか? まだそれほど酔ってはいませんから。 >八:そりゃぁ駄目だよ、友さん。最年長の人を使いになんか出せねえよ。 >熊:そんならお前ぇが行ってくりゃ良いじゃねえか。おいらは、今日はくたくただから一遍(いっぺん)帰ったら戻ってこられねえぞ。 >八:おいらだって、三吉の分まで働いたからくたくただぞ。・・・な? そういうことだからよ、三吉、お前ぇしかいねえの。戻ってきたらたっぷり飲み食いさせてやるからよ。 >三:分かりましたよ。八兄いのご上位(じょうい)なら仕方がねえですよね。・・・でも八兄い、今日の仕事は八兄いとおんなじくらいできましたから、2人分働いたなんてことは言わないで貰いたいですね。 >八:あれ、そうだったっけ? あそっか、今日は角蔵棟梁(とうりょう)のとこに行ってたんだっけな。忘れてたぜ。 >三:こんなんだもんな。有り難味もへったくれもあったもんじゃねえな。・・・そんじゃ、行ってきますぜ。 >八:頼んだぜ。・・・あ、そうだ。なんなら、六さんも連れてきて呉れ。傘張り浪人じゃ鰹なんか食えやしねえだろうからな。 >三:へーい。 先ほどからあまり話に加わろうとしていなかった松吉は、三吉の出て行ってからもだんまりを続けていた。 >熊:どうしたんだよ、松つぁん。寝不足か? >松:ん? ああ。そういうことじゃねえんだよ。・・・なあ、稚児の名前ってのはどういう風に決めるもんなんだ? >熊:そうだな。親や爺(じい)ちゃんの名前の一字を取ったり、贔屓(ひいき)の役者や相撲取りの名前を貰ったり、然(さ)もなきゃ、世話になってる親方に名付け親になって貰うとか、そんなもんじゃねえのか? >松:そうだよな。おいらんとこは、女だから難しいよな。「松」じゃ変だし、数の「五」「六」に、字こそ違うが「なな」だぞ。別に、決まった親方がいる訳でもなし、役者とか相撲なんか見たこともねえ。考えりゃ考えるほど行き詰まるんだよな。 >熊:そんなもんかね。うちの棟梁なんか、20も30も考えたっていうぜ。分けて貰っちゃどうだ? >松:30もか? そいつは凄(すげ)えな。・・・ってことは、四郎んとこの倅(せがれ)ってのは、棟梁が名付け親か? >熊:そういうことだ。 >四:「元吉」って付けていただきました。 >松:へえ。中々好い名前じゃねえか。 >熊:謂(いわ)れを聞かなきゃぁな。 >松:なんか変な訳でもあるのか? >熊:い、いや。元吉の為だ。そればっかりは聞かねえで呉れ。おいらに喋(しゃべ)らせねえで呉れ。 >松:そんなに凄(すげ)えのか? ・・・そんじゃあ、止(や)めとく。 >熊:もしかすると、菜々ちゃんが考えてるかも知れねえじゃねえか。決めて貰え、な? >松:だがな。菜々が言うには、稚児の名前は父親(てておや)が決めるもんでしょう? だとよ。 >熊:なんだよ、考えてもいねえのか。・・・うちの大女将(おおおかみ)とは豪(えら)い違いだな。爪の垢(あか)でも・・・ >四:熊兄い、それ以上は言わない方が・・・。噂をすれば影が射すとか言いますし。 >熊:あの人がこんなとこに来る筈はねえだろ、幾らなんでも。 >四:でも、地獄耳だそうですから。 「鰹」と聞いて、お咲と六之進は勇(いさ)んで駆け付けた。 なんといっても、初鰹は、江戸の者にとっての「粋(いき)」なのである。 >六:ど、ど、どうして、このような小汚いところに初鰹が出回っておるのか? >八:なんだよ、六さん、そんなんでも武士の端くれなんだろう? 見苦しいぜ。 >六:そんなことはどうでも好い。1切れ、いや、できれば2切れ摘(つ)まませて呉れ。 >熊:どうぞどうぞ。今日は、親方から多少の飲み代(しろ)を貰ってきてるんだ。鰹の一尾(び)や二尾、どうってこはねえ。 >六:本当だな、熊さん。良いんだな? 武士に二言はないな? >熊:おいらたちは武士じゃねえってんだ。 >六:この際、そのようなことはどうでも宜(よろ)しい。さ、咲、お前もいただきなさい。 >咲:はーい。・・・それじゃあ、お花さーん、お銚子4本くらい出してーっ。 >熊:なんだ、飲むのか? >咲:決まってるじゃない。お祝いなんだもの。 >熊:いやはや。次には五六蔵んとこのが控(ひか)えてるってのに、またこんなことになっちまうのかな? >咲:え? 五六ちゃんのときもお祝いの会をやるの? あたしも出る。明日? 明後日(あさって)? >熊:そんなもんは聞いてみなきゃ分からねえが、多分、明日になるだろうよ。 >咲:凄い凄い。二日も続けて鰹が食べられるの? どこかのお大名様みたいじゃない。 >松:なあ、六さん。頼まれちゃ呉れねえか? >六:頼みごとか? 今、忙(いそが)しいのだ。後にして呉れぬか? >松:後でもなんでも良いんだが、うちの娘の名付け親になっちゃ呉れねえか? >六:なんと。 >熊:おい松つぁん、そりゃあ・・・、いや、そんなんで良いのか? >咲:「そんなの」とは何よ。 >熊:あ、いや。言葉の綾(あや)ってやつよ。別に深い意味はねえ。 >松:おいらの知り合いの中で、一番正面(まとも)に考えて呉れそうなのは六さんしかいねえんだ。なあ、頼むよ。 >咲:あたしも手伝ってあげる。 >熊:それは止(よ)せってえの。 >咲:なんでよ。 >熊:こういうもんは何人もで考えると、こんがらかっちまうもんなの。 >咲:そうなの? つまんないな。 >半:俺は、六さんに任せるってのに賛成するぞ。・・・なあ、頼まれてやんなよ。 >六:そうか? そうまで頼りにされては無下(むげ)には断れぬな。良かろう。引き受けるとしよう。 >松:助かるぜ。これで今夜は枕を高くして眠れるな。 >八:だがよ、六さん。飲み過ぎて何を頼まれたか忘れちまったなんてことにはなるなよな。さもなきゃよ、二日酔いが酷(ひど)くって、人のことなんか考えちゃいられねえってことになるんじゃねえのか? >六:何を抜かすか。こう見えても、少しは酒も強くなっておるのだ。 >八:そんじゃ、飲み比べでもしてみるかい? >六:半(なか)ば酔っ払いだからとて、手心など加えぬからな。舐(な)めて掛かると痛い目を見るぞ。 >八:面白(おもしれ)えじゃねえか。・・・お花ちゃーん、銚子を6本ばっかり出して呉んな。 そうして案の定(じょう)、八兵衛も六之進も、べろべろに酔っ払い、それぞれ熊五郎と松吉に背負われて帰った訳である。
2008.02.23
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『知(し)らぬが仏(ほとけ)』 『知らぬが仏』知れば腹も立ち、苦悩や面倒も起こるが、知らないから腹も立たず、仏のように済ました顔でいられる。転じて、当人だけが知らないで平気でいることを嘲(あざけ)っていう。類:●見ぬが仏●What the eye does not see the heart does not grieve over.(目にしなければ、心も痛まない)●What you don't know won't hurt you.(気付かなければ、傷付かない)<「英⇔日」対照・名言ことわざ辞典>*********「だるま」では、半次と松吉が、日の高いうちから飲み始めていた。 <仕込み>とは名ばかりの開店準備をしていた亭主は、初めのうちこそ駄目だ駄目だの一点張りだったが、赤子が産まれたのだと話すと、それじゃあ仕方がねえなと、2人を招(まね)き入れた。 >松:半次、仕事を休ませちまって済まなかったな。 >半:なあに、そんなもん1日や2日ずれたところで、家主殿は気付きもしねえよ。 >松:そんなもんなのか? でもまあ、そう言って貰えると気が休まる。 >半:そんなに気にするなって。俺んとこがそうことになったときにゃ、こっちから頼まなきゃならねえからよ。 >松:それなら任(まか)せとけ。おいらの方は長屋仕事だからな、3日でも4日でも面倒を見てやる。それに、お産をしたことがある菜々が付いててやるのが一番安心だろう? >半:まあな。宜しく頼むぜ。・・・今回のことで分かったんだがよ、ことお産となると、男は丸っきり役立たずだよな。 >松:まったくだ。 >半:乳をやるのも女だし、躾(しつけ)をするのも女に敵(かな)わねえ。 >松:慣れた母親は泣き声を聞き分けるって言うじゃねえか。お前ぇにできるか? >半:まだ生んでもいねえってのにそんなこと分かる訳ねえじゃねえか。お前ぇさんはどうだい、松つぁん? >松:おいらになんか分かりっこねえじゃねえか。赤ん坊の泣き声と、盛りの付いた猫の鳴き声の区別も付かねえんだぜ。 >半:はっは。そりゃあ、俺も一緒だ。・・・どうやら、男の耳はそういう風にしかできてねえらしい。 >松:そんな訳はねえだろうがよ。・・・きっと、真剣みが足りねえのさ。女房任せにしてりゃ間違いねえってな。 >半:違(ちげ)ぇねえ。 台所では、材料を大鍋に入れ終わってしまったのか、亭主が酒樽(さかだる)に腰掛けて煙草を吸っていた。 >半:親爺(おやじ)ぃ、何か肴(さかな)はねえのか? >亭主:昨日の残りもんで良きゃ、身欠(みが)き鰊(にしん)があるぜ。 >半:ほんとに昨日のだろうな? >亭:当たり前だ。父親(てておや)になったばっかりの奴を殺しちまったら、2人から仇(かたき)と狙(ねら)われるじゃねえか。 >半:成る程。そうまで言うんなら大丈夫だろうな。そんじゃあ、そいつを出して呉れ。それと、銚子を2本。 >亭:今日だと分かってりゃ、鯛(たい)の尾頭(おかしら)付きでも用意しとくんだったな。 >松:なんだい? 親爺の奢(おご)りか? >亭:冗談じゃねえ。そんな高価なもんを誰が奢るかよ。 >半:じゃあ、どうするってんだ? >亭:売り付けるに決まってんじゃねえか。浮かれちまってる父親とその仲間によ。祝い事とくりゃ、金に糸目は付けねえだろ? 鯛を右から左へやるだけで、こっちには手間賃がたんまり転がり込むって寸法よ。>半:下(くだ)らねえことを考えてやがるな。こんな小汚(こぎたな)い飲み屋に来る客が鯛なんか食うかってんだ。 >亭:何をー? ここのどこが小汚えってんだ? >半:全部だよ、全部。 >亭:言いやがったな? 掃除(そうじ)の係りはお花ちゃんだからな。給金を減らしとくしかねえな、こりゃ。 >半:なんてことを言いやがるんだかね、この親爺は。元から汚えものをどう拭いたって綺麗になんかなるもんか。そんなんで給金をどうこうしてたら誰も寄り付かなくなるぞ。 >亭:けっ。そんなこと誰が本気で言うかってんだ。細かい冗談に一々ぴりぴりするなってんだ。・・・ほらよ、鰊の煮付けと、鰹(かつお)の刺身だ。 >半:おおっ、凄(すげ)えなこりゃ。初鰹じゃねえか。どうしたんだ、こんな高いもん? >亭:ひょろっとした末成(うらな)りの瓢箪みてえな大工の見習いが、人の親になるかも知れねえって言うからよ、ちょっとばかし奮発(ふんぱつ)したのさ。 >半:ああそうか。四郎のところも今朝方だって言ってたぜ。倅(せがれ)だとよ。 >亭:ほう、無事に産まれたか。 >松:しかし、親爺が四郎のために鰹を仕入れるなんて、考えてもみなかったな。 >亭:世話の焼ける餓鬼(がき)ほど可愛いって言うじゃねえか。・・・覚えてんだろう? あいつらがごろつきだった頃のこと。 >半:ああ。あやさんと源五郎親方の馴れ初(そ)めだな。何年になるかな? >亭:4年半だ。 >松:へえ。良く覚えてるじゃねえか。 >亭:当ったり前ぇじゃねえか。こっちは卓を壊されるわ銚子や猪口(ちょこ)を割られるわで、豪(えら)い損をしたんだからな。 >半:何を言ってやがる。源五郎親方が全部払って呉れたじゃねえか。 >亭:銭では済んでも、気持ちは別物ってことよ。・・・でもま、あれからもずっと常客でいて呉れるんだから、もう疾(と)っくに元は取り返してるし、気持ちも収まってるがな。 >半:それで、その「ご愛顧のお礼方々」ってことなのか、初鰹は? >亭:なんだと? お前ぇ、何か勘違いしちゃいねえか? >半:何をだ? >亭:安くはねえ鰹を只(ただ)で食わせるとでも思ってるのか? >半:だって、赤ん坊の祝いなんじゃねえのか? >亭:そうさ。だから言ったじぇねえか。祝い事とくりゃ金に糸目は付けねえだろうってよ。 >半:なんだと? ・・・じゃあ、こいつも勘定に入れてるってのか? >亭:当たり前だろう? 飲み屋で物を食えばそれ相応の銭は掛かる。 >半:そんなら要(い)らねえよ。 >亭:箸(はし)を付けちまったもんは下げられねえな。 >半:手前ぇ、騙(だま)しやがったな? >亭:八兵衛たちには黙ってろよ。お前ぇたちだけを食い物にしようってんじゃねえんだからよ。うっしっし。八公なら大喜びでがつがつ平らげやがるぜ。 >半:なんてことを考えてやがるんだかな、この親爺は。 >松:まあ良いじゃねえか。こんなとこで初鰹を食うのもなんかの巡(めぐ)り会わせだ。稚児(やや)も無事生まれたんだし、ちょっとくらい贅沢(ぜいたく)しても罰(ばち)は当たらねえさ。 >亭:それ見ろ。目出度いことってのは有難えじゃねえか。 そういえば、熊五郎から「飲ましてやる」のようなことを言われていなかったかと、半次は思い当たった。・・・まあ良い。どうせ俺たちが来なくても、丸々払わされていたのは熊五郎たちだったのだから。 半次は、そう自分を納得させた。6つ(18時頃)を少し過ぎた時分に、熊五郎たちがどやどやと入ってきた。 熊五郎は、半次と松吉を見付けると、満面の笑みを浮かべて近寄ってきた。 >熊:松つぁんとこも今日だって? >松:あ、ああ。娘だ。・・・四郎のとこは男だってな? >四:はい。朝方に産まれました。 >熊:五六蔵とはまだ会ってねえのかい? >松:あいつんとこはこれからだからな。それどころじゃねえみてえだ。明日辺り、陣中見舞いにでも行ってみるさ。 >熊:そうして呉れると助かるよ。 >八:おっ、松つぁん、そいつは鰹じゃねえのか? >半:ここにしちゃ珍しいだろ。親爺が四郎のために仕入れたんだとさ。 >八:四郎のためだと? >半:今日辺りに産まれるとか、そういう話をしたんだろう? >八:そういやあ、お花ちゃんにそんなことを言ったような言わなかったような。 >熊:お前ぇは寝てやがったじぇねえか。おいらが話したの、お花ちゃんには。 >八:なんだと? お前ぇ、余計なことをしやがって。お花ちゃんと話すのはおいらを通してからにして貰いてえな。 >熊:お前ぇのもんって訳じゃあるまいし、偉そうに言うんじゃねえ。 >八:何をぅ? そんじゃあ、おいらのもんにしちまっても良いっていうんだな? >熊:そんなこと言ってねえじゃねえか。 >八:いや、言った。・・・分かった。おいらがなんとかする。見てろよ、この八兵衛さんの手に掛かりゃ、お花ちゃんの1人や2人・・・ そこへ、「あら、皆さんお早いんですのね」と言いながらお花がやって来た。 八兵衛は、言おうとしていた言葉を飲み込み、決まりが悪そうに「や、やあ」とだけ挨拶(あいさつ)した。 >熊:お花ちゃん、今日は活(い)きの良さそうな鰹があるらしいんだが、こっちにも出しちゃ呉れねえか? それと、半次が筍(たけのこ)を食いてえって言うんだが、あるかな? >花:聞いてみますね。あと、お銚子は一先(ひとま)ず4本くらいで良いかしら? >熊:ああ。頼むよ。 >八:お前ぇが喋るなって言っただろう? >熊:何を言ってやがる。お前ぇが勝手に黙っちまったんじゃねえか。 >八:そ、そ、そんなことあるか。おいらはだな・・・ 八兵衛と熊五郎が毎度の掛け合いを始めたころ、台所では、鰹を切りながら亭主が北叟笑(ほくそえ)んでいた。 今日は幾ら吹っ掛けてやろうかと、算段(さんだん)していた。 しかし、こういう目論見(もくろみ)は、往々にして悪い方に出るものである。但(ただ)し、そんなことは「だるま」の亭主には考え及べる筈もないことだったが。
2008.02.22
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『食指(しょくし)が動(うご)く』 『食指が動く』1.食欲が兆(きざ)すこと。 例:「とろけそうな大トロを見て食指が動いた」2.何かをしてみたい気持ちが起こること。また、広く、ものごとに興味や関心が湧(わ)くこと。 例:「現品限りと聞いて食指が動いた」故事:「春秋左氏伝-宣公四年」「子公之食指動、以示子家曰、他日、我如此、必嘗異味」 中国、春秋時代、鄭(てい)の子宋が霊公に呼ばれた時、自分の人差し指が動いたのを見て、ご馳走にありつける前触れだと子家に言った。その通り鼈(すっぽん)の料理が出されたが、その話を聞いた霊公は意地悪して子宋に食べさせなかった。この恨みで、やがて霊公は子宋に殺されることになる。*********午飯(ひるめし)を食べ終えると、源五郎と友助は角蔵棟梁の現場の視察に出掛けていった。四郎は、気が緩(ゆる)んだのか、こっくりこっくりと舟を漕(こ)ぎ始めていた。こんな調子じゃ四郎の手伝いはあまり当てにはならないなと、熊五郎は溜め息を吐(つ)いた。 そんなところへ半次が現れた。 >半:あれ? 今日はやけに人が少ねえじゃねえか。どうしちまったんだ? >熊:おお半次か。八と三吉は頼まれて別のところへ行ってる。 >半:そうか。・・・ごろつきの五六蔵は? >熊:そんな呼び方するなってんだ。もう4年も経(た)つんだからな。 >半:何年経とうが、俺にとっちゃあいつはごろつきの五六ちゃんなの。・・・で、どうした? >熊:お三千(みっ)ちゃんが産気付いたようだっていうんで帰らせた。 >半:なんだそうだったのか。折角(せっかく)知らせに来てやったってのによ。 >熊:ってことは、生まれたのか? >半:さっきな。女の子だ。うちの母ちゃんが魂消(たまげ)るくらいの安産だったとよ。 >熊:そうか、そりゃあ良かった。・・・なあ、五六蔵の長屋へ知らせに行ってやっちゃ呉れねえか? >半:そうだな。物の序(つい)でだ。行ってくるとするか。 >熊:ときに、お前ぇ、仕事はどうしたんだ? >半:そんなことやってられるかよ。母ちゃんとお八重が菜々ちゃんに掛かりっ切りでよ、その上、松つぁんの奴がそわそわしちまって「一緒にいて呉れよ」なんて泣きを入れやがるんだからよ。 >熊:へえ、そうかい。お前ぇにしちゃ上出来じゃねえか。案外、友達甲斐(がい)なんてもんも持ち合わせてるんだな。 >半:けっ。そんなもん、食ったこともねえや。じゃあな、俺は行くぜ。 >熊:有難うよ。今晩「だるま」に来いよ。祝杯を上げようじゃねえか。四郎のとこも今朝生まれたんだ。 >半:なんだと? おんなじ日なのか? こりゃあ凄(すげ)えや。・・・もしかして、五六蔵んとこも一緒だったら面白(おもしれ)えな。 >熊:そう巧(うま)くいくかってんだ。 >半:そりゃあそうだな。・・・それにしても、この情けねえ四郎が人の親ねえ。 >熊:こう見えても、ちょっとは父親(てておや)らしくなったんだぜ。 >半:そうか? どれ? ・・・こら、四郎、餓鬼ができたってのに居眠りなんかしてるんじゃねえ。 >四:は、は、はい、済みません。・・・あれ? 半次さん。こんなところでどうしたんですか? >半:熊公にでも聞け。そんじゃ夜にな。美味(うま)い筍(たけのこ)の煮付けでも出てりゃ良いな。俺は、筍には目がねえのさ。特に、根っこんとこの硬いのが良い。 半次は、急ぐでもなしに五六蔵の長屋の方へ向かっていった。 半次が辻を曲がっていくまでの短い間に、四郎はもう、立ったまま前後に揺(ゆ)れ始めていた。「手が必要になったら叩き起こすから、暫(しばら)く寝てろ」という熊五郎の言葉に、素直に従ってその場に横になった。 そうは言ったものの、起こすのを憚(はばか)っているうちに、7つ(16時頃)時分になってしまっていた。 やってみれば、1人でもなんとかなるものである。 残りの半時(はんとき)ばかりを手伝わせたら引き上げようかと、熊五郎は四郎を起こした。 >四:あ、あれ? こんなに寝ちゃったんですか? 済みません。 >熊:なあに、良いってことよ。その代わり、日が暮れるまでがんがんやって貰うからな。 >四:はい。分かりました。なんでも指図(さしず)してください。 その頃、角蔵の現場の方では、最後の工程も仕上げに差し掛かっていた。 >八:親方、どうです、あっという間に出来上がっちまったでしょう? >源:ああ。流石(さすが)だな。1人1人の大工が分かってなくても、角蔵棟梁に掛かりゃ、きちんとしたものが出来上がる。 >八:まったく大(たい)したお人でやすね。 >源:大工たちの方も結構な腕前だぜ。お前ぇたちよりよっぽどな。 >八:そうですかい? それほど違いやしませんけどね。 >三:随分違うようですけど。 >八:そりゃあ、お前ぇみてえな駆け出しと比べりゃ月と月見団子くらい違うけど、おいらとはどっこいどっこいだぜ。 >三:それを言うなら月と鼈ですよ、すっぽん。 >八:そんなのどっちだって良いだろう。要は、お前ぇがまだまだだってことよ。 >三:へーい。精々(せいぜい)精進(しょうじん)します。 >八:そうともよ。もうちょっとおいらたちに楽をさせて呉れるようにならなきゃな。 >三:楽するためだけなんですか? >八:その通りだ。決まってんじゃねえか。有能な弟弟子(おとうとでし)が3人もいりゃ、ここみてえにてきぱき出来上がるだろうよ。・・・ねえ、親方? >源:うん? ああ。まあな。 >八:どうかしたんですかい? >源:ちょいとばかし気になることがあってな。 >八:どういうことですか? >源:挨拶(あいさつ)がてら、棟梁に聞いてくるとする。お前ぇたちはここで待ってろ。 >八:へい・・・ 気にはなったものの、八兵衛の頭には、「もしかすると今夜の飲み代(しろ)くらいは出るかな?」くらいの考えしかない。源五郎は、仮設住居の南側に積まれた屋根瓦(やねがわら)に腰掛けて、煙草(たばこ)を吹かし始めた角蔵のところに近付いていった。 >角:よう、源五郎。2人を借りちまって済まなかったな。お陰で早く出来上がったぜ。 >源:足手纏(まと)いになりやせんでしたか? >角:よく躾(しつけ)てるな。ちゃんと自分で考えながら働くじゃねえか。俺の指示する段取りを興味深そうな目で見ていやがった。上等なもんだ。 >源:そりゃあ誉(ほ)め過ぎってもんです。あっしには棟梁みてえな纏(まと)める力がねえから、手前ぇらで考えるようになったってことでやしょう。 >角:それでも良いのさ。あれこれに興味を持つってことは良いことだ。それが家を建てる段取りのこととなりゃ尚(なお)のことだ。・・・手先ばっかり立派になっても、次の段階を追い求める気持ちがなきゃどうにもならねえ。 >源:どうにもならねえってことはねえでしょう。 >角:どうにもならねえんだよ。・・・なあ源五郎、20年大工をやってたらどうなる? >源:そりゃあ、弟子を何人か持って一本立ちするんじゃねえですか? >角:それが普通だよな? ところがこいつらには、立派な腕はあるが、教え方が分からねえ。おんなじ技を教えることはできるが、それだけじゃ家は建たねえんだよ。 >源:そういうこともあるでしょうが、人ってのはそれほど馬鹿じゃありませんよ。何かは学び取ってるから弟子を持てるんじゃねえですか。ちゃんとした親方にだってなれるでしょう? >角:そうじゃねえのだっている。・・・ほれ、あっちの現場を差配(さはい)してる野郎だよ。 >源:そりゃあ、金吾さんのことでやすか? >角:ああ。・・・俺はどうやら育て方を間違っちまったようだ。 >源:あっしにはそうは見えませんがね。 >角:威張(いば)ってだけいりゃ弟子は着いてくると思っていやがる。とんだ「虎の威を借る狐」だ。 >源:仮令(たとえ)そうだとしても、今から治してやりゃあ良いじゃねえですか。 >角:もう間に合わんさ。遅かれ早かれ弟子たちは散り散りになって、あいつだけが残されるだろうよ。 角蔵は、煙管(きせる)の雁首(がんくび)を瓦に打ち付け、疾(と)うに燃え尽きてしまった煙草の火玉を落とした。 とても一仕事(ひとしごと)を遣り遂(と)げた男の表情ではない。 >源:ちょいと聞いときたいことがあるんですが良いですかい? >角:良いともよ。なんだ? >源:ちょっと見たところ、仮住まいにしちゃ良過ぎる材木を使ってるように思うんでやすが。それに、瓦も良い奴ですよね? 仮住まいに瓦なんか使わねえでしょう? >角:ほう。良く気が付いたな。 >源:真逆(まさか)、打ち壊(こわ)すときに貰い受けて、別の家を作る方に回そうってことじゃねえですよね? >角:その真逆よ。 >源:そりゃあ、一種の騙(かた)りなんじゃねえですか? >角:そうかもな。・・・だがな源五郎、お前ぇ、武家の内証(ないしょう)のことなんか考えたことはあるのか? >源:い、いえ。 >角:ここの藩はな、2棟(むね)の長屋を建ててやれるほどの銭なんか持っちゃいねえ。 >源:それじゃあ・・・ >角:そうだ。きっと金吾のところは、なんのかんのと難癖(なんくせ)を付けられて半分の手間賃くらいしか貰えねえだろう。するってえと、材木問屋にも瓦職にも半分しか払ってやれねえ。そして、一番肝心の長屋のみんなには、この仮住まいしか残らねえ。 >源:そんなのってねえじゃねえですか・・・ >角:だが、多分そういうことになる。 >源:それが分かっててこの仕事を請(う)けたんですかい? >角:誰かがやらなきゃ長屋の住人は焼け出されたまんまだろう? 誰かが損をしなきゃならねえのさ。 >源:でも・・・ >角:俺は以前、ここの仕事で名を揚(あ)げさせて貰った。材木問屋にも瓦職にも少しは儲(もう)けさせてやった。その幾らかを返すだけのことさ。差し引きすりゃ、そんなに悪い話じゃねえ。・・・だが、長屋の住人らは訳が違う。割りを食っただけってことだ。それじゃ、あんまりだからよ、梅雨(つゆ)が明けた頃にでも、ちゃんとした長屋に建て替えてやるさ。 >源:このことは、金吾さんもご存知なんで? >角:あいつにゃ、そこまで考えられる頭はねえよ。 >源:棟梁。あんたはとっても立派なお人だ。爪の垢でも煎じて飲まして貰いてえほどですよ。 >角:止(よ)せやい。隠居した年寄りをあんまり持ち上げるもんじゃねえよ。 >源:なんだか、あっしも、色々と学ばなきゃならねえって気になりやした。 >角:八兵衛と三吉っていったか、あいつらのこと、精々労(ねぎ)ってやって呉れよ。値切られる前に、ちっと多めに包んでやる。 >源:痛み入りやす。銭よりも何よりも、あいつらがちっとはやる気を出したってことが嬉しいです。
2008.02.21
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『上知(じょうち)と下愚(かぐ)とは移(うつ)らず』 『上知と下愚とは移らず』生まれながらの賢明さや愚かさは、境遇や環境によって左右されたり変化したりするものではない。生まれながらの賢人は常に賢く、生まれながらの愚人は常に愚かである。出典:「論語-陽貨」 「惟上知与下愚不移」*********およねが産気(さんけ)付いたという話を聞いたせいなのか、お三千(みち)も「もうそろそろみたいな気がする」と言い出したという。 五六蔵は「今日1日は何があっても仕事をします」と熊五郎に約束して呉れた。 >源:無理することはねえんだぞ。傍(そば)に付いててやれ。 >五六:なあに、男がいたってなんの役にも立たねえですから。 >源:しかしな、罷(まか)り間違ったらっていうこともあるぞ。今でこそ少なくはなってるがな。人1人を産み落とすってことは並大抵のことじゃねえんだ。 >五六:大丈夫ですよ。お三千は足こそ悪いが、ああ見えて頑丈(がんじょう)でやすから。 >源:そうは言ってもだな。 >熊:親方、頼(たの)むから今日だけは五六蔵をいさせてくださいよ。幾らなんでも1人じゃきつ過ぎます。おいらを殺す気ですか? >源:お前ぇのきつさなんか、赤ん坊を産むのと比べたら屁(へ)みてえなもんだ。泣き言ばっかり言ってるんじぇねえ。 >熊:そりゃあ、お三っちゃんとかおよねちゃんとかと比べられちまったらなんにも言えませんけど。ですがね、今日は親方も友さんもいなくなっちまうんでしょう? 今日だけは頼みますよ。 >源:いつ産まれるかなんてのは巡り合わせだからな。こればっかりは仕方ねえ。・・・五六蔵、お前ぇ、やっぱり長屋に帰ってろ。その方が良い。 >五六:そうは言っても「はいそうですか」って帰れるような状況じゃありませんぜ、こいつは。 >源:駄目だ。これは命令だ。お前ぇは帰れ。それから、序(つい)でで済まねえんだが、四郎んとこに顔を出して、様子を見てきちゃ呉れねえか? >五六:へい。分かりやした。・・・熊兄い、済いやせんが、そういうことですんで。 >熊:親方が決めたことなんだからな、仕方がねえな。ちゃんと付いててやれよ。 >五六:四郎のところが無事に済んでるようなら、昼過ぎまでに来られねえかどうか聞いておきやすよ。 五六蔵は表情とは裏腹に、疾風(はやて)のようにすっ飛んで帰っていった。 熊五郎は、半(なか)ば投げ遣りで、もうどうとでもなれと腹を決めた。 >熊:そうとなりゃ、朝の内にばりばりやりますからね。親方、しっかり働いてくださいよ。 >源:お前ぇが指図(さしず)するなってんだ。さて、出掛けるとするか。 そんなところに、四郎が眠そうに目を擦(こす)りながら現れた。 >四:おはよう御座います、親方。 >源:無事産まれたのか? >四:はい。男です。今朝方まで掛かっちゃいましたが、元気みたいです。 >源:およねちゃんも元気か? >四:大丈夫なようです。流石(さすが)に疲れてるみたいですが、稚児(ややこ)の顔を見たら疲れなんか吹っ飛んじまったって言ってました。 >源:そうかい。そりゃあ良かったな。早速(さっそく)親父に言って名前を付けて貰わなきゃならねえな。・・・ちょっと話してくる。 >四:宜(よろ)しくお伝えください。 >熊:・・・なあ四郎、お前ぇ、もしかして寝てねえんだろ? >四:い、いえ、1時(とき)ばかり寝ました。大丈夫です。 >熊:そんなんじゃ寝た内に入らねえじゃねえか。今日も休んだ方が良いんじゃねえか? >四:とんでもない。2日続けて休んだりしたら、およねにどやされます。「これからは3人分稼(かせ)がにゃなんねんだど」なんて言ってますんで。 >熊:五六蔵がいねえだけじゃなくって、昼からは親方と友さんまで出掛けちまうってんだ。寝不足のお前ぇじゃ持たねえぞ。 >四:その話はそこで兄貴から聞きました。だからこそ仕事をしなきゃならないんじゃありませんか。 >熊:2人っきりなんだぜ。相当きついぞ。 >四:でも、熊兄いが1人で働いてるのにぐうすか寝てなんかいられません。今夜十分に寝れば元に戻りますから。 >熊:そうか。そう言って貰えると、正直(しょうじき)有り難えよ。・・・決して逞(たくま)しくもねえ四郎が、今日は頼もしく見えるぜ。 >友:父親になると、そういうところもどこか変わるんでしょうね。羨(うらや)ましいですよ。 >四:へ? ・・・熊兄い、友さん、どうしちまったんですか? >熊:まあ、その話は昼飯のときにでも聞かしてやるよ。四郎の倅(せがれ)のために、源蔵が付けて呉れた名前は「元吉(げんきち)」だった。 >熊:元気そうな好い名前じゃねえか、なあ四郎。 >四:ええ。とっても好いと思います。 >熊:「元気」から取りなすったんですか、棟梁は? >源:それがな、言い難(にく)いんだがな・・・ >四:なんだったんですか? >源:うちの倅が「慶二」だろ? そんで、慶長小判の慶だっていうから、次は元禄小判の「元」だろうだってよ。まったく、好い加減なことを考えやがる。 >熊:それって本当のことなんでやすか? >源:どうやら本当らしい。 >友:そうすると、その次は宝永(ほうえい)の「宝」で、その次が享保(きょうほ)の「享」だってことですか? >四:流石に詳しいですね、友さんは。 >熊:感心してる場合か? そんなもんで名前を決められちまっても良いのか? >四:ええ、良いですよ。元吉って、好い名前だと思いませんか? >熊:理由を聞かなきゃな。 >源:俺もそう思うぜ。およねちゃんには「元気」の元だって説明してやれ。 >四:実のところ、訳なんてどうだって良いんです。棟梁が付けてくだすったってだけで十分なんです。おいらのような百姓上がりに仕事を教えて呉れて、生まれた倅に名前まで付けて呉れる。・・・勿体無いことです。 >源:朝っぱらからそんなに神妙になんかなるな。 >四:ですが、ずぶの素人(しろうと)のおいらたちを、ここまで鍛(きた)えていただいたことは間違いないことですから。 >源:何も俺や親父だけが面倒を見た訳じゃねえんだぞ。お前ぇら3人が頑張ったお陰でもある。 >四:おいら、親父から、百姓の倅は百姓になるしかないって言われ続けていました。餓鬼(がき)だったおいらは、勝手に決め付けないで呉れって逆らってばかりいましたが、今は違う意味だったんじゃないかって気が付きました。 >熊:どういうことなんだ? >四:分を弁(わきま)えろってことだったんです、きっと。「俺の子供なんだから、人の上に立つようなもんになれる訳はねえ。せめて人様に迷惑を掛けないようなもんになれ。」 ・・・そういうことです。 >熊:ふうん。そういうもんかね。 >四:だから、おいらは弟子を持つほどにはなれないけど、ちゃんとした仕事ができる大工になりたいと思うんです。そして、元吉にも、そんなことを教えるつもりです。元気なのだけが取り柄だなんて言われて暮らすのって、一番合ってるのかも知れません。 >熊:なあ、それって、八みたいになれってことだぞ。 >四:へ? あ、いや、八兄いまで能天気だと流石に参っちゃいますが・・・ (身の程を弁えるか・・・) 友助はそれとなく、四郎の言葉を反芻(はんすう)していた。 果たして、自分は大工を続けていけるのであろうか。生まれ付いての商人(あきんど)は、大工にはなり切れないのであろうか。 >源:どうかしたのか、友助。 >友:え? いえ、ちょっと考えさせられてしまいまして。 >源:何をだ? >友:蛙の子は蛙と言いますが、商人の子として生まれた私が大工になろうなどというのは、分を超えているということなのでしょうか? >源:そうでもねえさ。大工が商人になるのは大変だが、その逆だったらできないこともあるめえよ。 >友:こっちができなくて、あっちならできるなんてことあるんですか? >源:場合に拠(よ)っちゃな。 >友:でも・・・ >源:お前ぇさんにはな、材木の仕入れとか家主さんとの手当ての話とか、そういうことをやって貰おうかと思うんだが、どうだい? >熊:昼過ぎに角蔵さんとこに行くってったのは、そういう事情なんですかい? >源:そうだ。・・・なあ友助、四十(しじゅう)を過ぎた男がいつまでも見習いなんかしてられねえだろう? >友:だって、それって親方がやってたことじゃないんですか? >源:俺より巧(うま)くできるんならそれに越したことはあるめえ? 1人1人の手当ても良くなるだろうしよ。 >熊:ほんとですかい? そんなに巧く運びますかい? >源:そりゃあ大丈夫だろう。何しろ、友助は生まれ付きお頭(つむ)の出来が良いんだからな。俺たちとは材料が違うんだからよ。・・・任せたからな。 >友:そんなこと言われましても、材木なんか扱ったこともないんですよ。それに、折衝(せっしょう)ごとなど私には・・・ >源:生まれたばかりの元吉や間もなく生まれてくる五六蔵の稚児やらを、干上がらせる訳にゃいかねえだろ? やるしかねえんだ。 >友:はあ。そういうことなら頑張ってみますが・・・。でも、1つだけ確認させてください。今までみたいに皆さんと一緒に現場仕事をするのも、やらせて貰って良いんですよね? >源:ああ。勿論だ。 友助はにっこりと頷(うなず)いた。 五里霧中だった自分の将来に、日が射し始めたのだ。 >熊:ときに親方。これまで親方がやってた仕事を友さんに譲(ゆず)っちまった後は、一体何をするってんです? 真逆(まさか)隠居するとか言わないですよね? >源:隠居か。それも悪くないかも知れねえな。 >熊:じょ、冗談でしょう?
2008.02.20
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『正直(しょうじき)の頭(こうべ)に神宿(やど)る』 『正直の頭に神宿る』正直な人にはいつか必ず神様の助けがある。神様は正直な人を守護し給(たま)う。類:●神は正直の頭に宿る反:●正直者が馬鹿を見る*********明くる日、およねが産気(さんけ)付いたということで、四郎は朝から仕事を休んだ。 五六蔵が抜けるのも時間の問題ということで、熊五郎と友助は目が回るような思いをしていた。 一方、八兵衛と三吉は、角蔵の指図(さしず)に従って、順調に仕事をこなしているようだった。 夕方戻った八兵衛は、源五郎に「明日で終わりそうですから、明後日(あさって)には合流できますぜ」と伝えた。 >源:どうだ、角蔵さんの仕事っ振りは? 大したもんだろう? >八:へい。1つ片付くと、もう次の準備が整ってるって感じですよ。材木の仕入れ方ですかね、ありゃあ。とんとん拍子ってのは、ああいうのを言うんですね。 >源:そうか、そんなに凄いか。 >八:凄(すげ)えのなんのって、三吉なんか魂消(たまげ)過ぎて、咥(くわ)えてた釘を飲み込んじまうほどでしたよ。 >三:死んじまいますって。 >源:ほう、そうか。こいつぁあちょっと、見習わなきゃいけねえかも知れねえな。 >八:明日辺り、親方も見にきてみちゃあどうですか? >源:そうさな。五六蔵次第だが、半日くらい抜け出しても平気かもな。 >熊:ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいよ。その間こっちは、おいらと五六蔵と友さんとでやってなきゃならねえってんですか? そりゃあ困りますよ。 >源:まあ良いじゃねえか。明後日には八たちも戻ってくるんだからよ。1日くらい忙しい思いをしたってくたばりゃしねえ。 >熊:そりゃあないですよ。師走(しわす)んときでもう懲(こ)り懲りですよ。 >源:師走にできたんなら、明日できねえって道理はねえじゃねえか。・・・友助も気張れよ。 >友:は、はあ・・・ >熊:そんじゃあ親方、友さんに鋸(のこ)を持たしても良いってことですかい? >源:そいつはまだ駄目だ。友助は今まで通りのことを・・・。あ、そうだ。 >熊:なんでやすか? >源:今思い付いたんだが、友助、明日はお前ぇも俺と一緒に来て呉れ。 >友:良いんですか? >源:お前ぇさんには、ちょいとばかしやって貰いてえことがある。 >熊:ってことは、おいらと五六蔵の2人ですかい? そりゃあねえですよ。 >源:半日だけだ。朝のうちはちゃんと手伝ってやる。 >熊:ほんとですね? また急に元締めから呼ばれたなんてことにはならないでしょうね? >源:大丈夫だ。・・・多分な。 源五郎は何やら1人納得して、奥へ引っ込んでしまった。 熊五郎はがっくりと肩を落として、恨めしそうに奥の方を見ていた。 >八:なあ熊、決まっちまったことは仕方がねえ。明日は明日だ。今晩は今晩だってことだからよ。酒でも飲んで気を紛(まぎ)らわそうぜ。 >熊:そういう気分にはなれそうもねえ。 >八:まあそう言うなって。おいらが慰(なぐ)めてやるからよ。 >熊:お前ぇに慰められたって嬉しかねえや。 >八:そんじゃあ、お咲坊にでも声を掛けようか? >熊:よ、止せったら。手前ぇは飲む前から、もう酔っ払ってるのか? >八:おうともよ。おいらはな、飲むほどに酔いが醒(さ)めてって、お頭(つむ)がはっきりしてくるのよ。 >三:そうは見えないんですけど。 >八:何を? ようし、証(あかし)を立ててやるから見ていやがれってんだ。・・・おい、熊。お前ぇにも見せてやるから来い。 >熊:結果は見えてるがな。・・・仕方ねえ、茶番(ちゃばん)に付き合ってやることにするか。 >八:何が番茶(ばんちゃ)だ? 茶じゃねえよ。酒だってんだ。番茶はな、十八になった鬼が啜(すす)ってりゃ良いの。 >熊:訳が分からないこと言ってねえで、飲みに行くんなら行く。止すんなら止す。 >八:行くに決まってんじゃねえか。お前ぇのために行くの。そうだろ? な? 熊五郎のためだとかなんだとか言っておきながら、八兵衛は自分で飲み食いを楽しみ、好きなことを喋り捲(まく)って、勝手に酔った。 まったくもって、身勝手な酒飲みである。 >熊:どうにかならねえもんかな、こいつの質(たち)はよ。 >三:そりゃあ無理ってもんですよ。習い性となるとか言うじゃねえですか。 >熊:そりゃあそうだけどよ。こいつの悪いとこをぎゅうっと締(し)め上げて呉れる女房でもいりゃあ、しゃきっとするかも知れねえぞ。 >三:成る程。男なんて生き物は女房1人でがらりと変わる、でやすね? >熊:そりゃあ、全部が全部って訳じゃねえがな。 >友:・・・変わってみたいもんですよねえ。 >熊:な、なんだよ友さん、藪から棒に。何を言ってるのか分かってるのかい? >友:そりゃあ分かってますとも。私もね、真面目(まじめ)一本できましたが、そういうのももう飽きてきたということです。力仕事をして、汗を流した分をここで補給する。こういう暮らしに向く性分(しょうぶん)に変わりたいのです。 >熊:確かに、そいつは見上げた心意気ですよ。しかし何もそんなに思い切らなくっても・・・ >友:だから言っているのです。女房1人が変わるきっかけになるのなら、それを頼みにしたいのも当然のことでしょう? >熊:しかしねえ。友さんはそういう風だから良いんじゃないですか。なあそうだろ、三吉? >三:へ、へい。今のままで良いと思いますよ。 >友:まあ、そう言って呉れるのは有り難いですよ。・・・でも、この年から始めて、一人前の大工になれる訳もない。熊さんたちの足を引っ張るだけでは心苦しいんです。 >花:あの。・・・盗み聞きしちゃったみたいで悪いんですけど。あたしの知り合いの人と会ってみる気はありませんか? >熊:お花ちゃん、そいつは真面目な話かい? >花:勿論です。ちょっとばかし薹(とう)は立っちゃってるんですけど、中々どうして威勢の良い方です。 >友:ぜ、是非(ぜひ)お願いします。威勢の良い方なら願ってもないことです。 >三:そんなに簡単に決めちゃっても良いんですか? >友:良いのです。こんな私でも構わないと言って下さる人であれば、こちらとしては何も求めません。 >三:おかちめんこでもですかい? >友:そんなこと、一番どうでも好いことじゃありませんか。要は、間に立って呉れるお花さんが親身(しんみ)に考えて呉れる人かどうかということです。私は、お花さんの気持ちを疑いませんから。 >三:へえ。できたお人ですねえ、友さんは。おいらにゃ真似(まね)できねえな。 >熊:それだけ、たくさんの人を見てきたってことだろうな。おいらたちみてえな青二才とは年季が違うよな。 >友:そんなもんじゃないですよ。身の程を弁(わきま)えているというだけのことです。 >三:それにしても凄いですよ。 >花:それじゃあ、明日か、遅くとも明後日には本人と話してみますね。 >三:なあお花ちゃん。薹が立ってるって言ってたけどよ、年はいくつなんだい? >花:あたしの2つ上だから、26でしたか、・・・確かそうです。 >三:なんだって? ちょっと待って呉れよ。そりゃあ、おいらとの方が釣り合いが取れる年頃じゃねえかよ。おいらのことも話して呉れよ。 >花:だって、「真面目を絵に描いたような人が良い」って言うんですもの。三吉さんや八兵衛さんじゃ無理でしょう? >三:八兄いと一緒にしねえで呉れよ。そう思われねえようにするにはどうしたら良いかって、近頃、そればっかり考えてるんだからよ。 >花:友助さんみたいに、自分のことより誰かのことを思うようにならなきゃ無理かも知れませんね。 >三:おいらそういう風には見えねえかい? >花:全然。 >三:八兄いは? >花:八兵衛さんの方がちょっとはあるかも知れませんね。こうは見えても。 >三:そりゃあ解(げ)せねえな。こんな相手のことなんかお構いなしで、勝手に寝ちまうような八兄いなんだぜ。 >花:少なくとも、誤魔化(ごまか)したり、小さな嘘を吐(つ)いたり、そういう小手先のことはしないでしょう? >三:全部が冗談みてえな人ではあるんだけどね。・・・まあ、そういう見方をすればそうだな。見え透いた冗談しか言わねえもんな、だからってって、おいらが嘘吐きだなんて思い込まねえで欲しいな。 >花:分かってはいるんですけど。・・・やっぱり、年季ってことなんでしょうか? でも、こんな考え方をするのって、あたしだけかも知れませんけど。 >熊:ふうん。こんな能天気野郎でも、ちっとは認めて呉れる娘もいるんだな。捨てる神あればなんとやらだな。卓に突っ伏している八兵衛は「うん? 呼んだか?」と顔を上げたが、また直ぐに寝てしまった。
2008.02.19
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『朱(しゅ)に交(まじ)われば赤(あか)くなる』 『朱に交われば赤くなる』人は交際する仲間によって人は感化されるものだ。人はその置かれた環境によって善くも悪くもなる。類:●水は方円の器に随(したが)う●善悪は友による●He who touches pitch will be defiled.(ピッチに触れる者はよごれる)●The rotten apple injures its neighbo(u)rs.(腐ったりんごは仲間まで腐らせる)<「英⇔日」対照・名言ことわざ辞典>★中国の古諺「近朱必赤」による<国語辞典(旺文社)>※古諺(こげん) 古いことわざ。昔からのことわざ。参照:傳玄の「太子少傳箴」 「近墨必緇、近朱必赤」(墨に近づけば必ず緇(くろ)く、朱に近づけば必ず赤し)出典:太子少傳箴(たいししょうぶしん??) 中国、西晋。傳玄(ふげん)。・・・調査中。 *********八兵衛は、込み上がってくる虫唾(むしず)を飲み込み飲み込み、角蔵の後から付いていった。「笊(ざる)」だと自認する三吉の方は、対称的に、平気の平左である。やがて現場に着いてから、向き直った角蔵が八兵衛に尋ねた。 >角:八兵衛とやら。 >八:へ、へい。なんでやしょう? ・・・うっぷ。 >角:源五郎んところでは、弟子が二日酔いで来てるってのになんとも言わねえのか? >八:昨夜(ゆうべ)は特別な日だったんでやすよ。親方んとこに3人目が生まれたんです。 >角:ほう、そうか。知らねえこととはいえ、そいつは不調法(ぶちょうほう)しちまったな。後で祝いの品を用意させるから、持って帰って呉れ。 >八:へい。お心遣(づか)い、痛み入りやす。・・・余計(よけい)なことですが、食いもんですかい? >角:そんなのはどうでも良かろう? まあ、酒でないのだけは確かだ。・・・尤(もっと)も、そんな様子じゃ、お流れが下ったとしても、飲めねえだろうがな。 >八:そんなことねえですって。一汗(ひとあせ)掻(か)きゃあ、喉(のど)も渇(かわ)くってもんです。・・・うっぷ。 >角:信じ難い意地汚さだな。・・・まあ良い。それとは別に、こっちの仕事が片付いたら鱈腹(たらふく)飲ませてやる。 >八:ほんとですかい? 確(しか)と聞きましたからね。忘れないでくださいよ。 >角:ああ。大丈夫だ。 >八:やったあ。こういう飛び込み仕事なら、いつでも歓迎しますぜ。 >角:ときに、あとの2人のところも生まれそうだとか言ってなかったか? >八:そうなんでやすよ。五六蔵っていう図体(ずうたい)のでかいのと、四郎っていうなよっとした奴なんですがね、仲が良いんだか腐れ縁なんだか・・・ >角:まあ、なんにしても、稚児(やや)ができるのは目出度(めでた)いこったな。源五郎も、今が一番良いときだな。 >八:「後厄(あとやく)だ」って言ってやしたが。 >角:そうか。もうそんな年になったか。源蔵も老(ふ)ける訳だな。もうそろそろ隠居かな。 >八:そりゃあいくらなんでも早いでしょう。五六蔵たち3人が弟子入りしてからまだ4年半ですぜ。もうちょっと鍛(きた)えて貰(もら)わねえとな。なあ、三吉。 >三:え? ええ。足腰の丈夫なうちはもうちょっと頑張って貰わないことには。・・・そういう意味じゃ、角蔵棟梁だって、まだまだでやしょう? >角:はは。4年にしちゃ気の利いたことを言うじゃねえか。 >八:三吉の野郎は、調子が好いのだけが取り柄(え)でやして。 >角:三吉に四郎に五六蔵か、面白えな。 >八:そんでもって、八に熊(九万)でやすからね。まるで冗談みてえでしょう? >角:賑(にぎ)やかで楽しそうで結構なことだ。・・・だがな、仕事はきりりと引き締めた顔でやれよ。大工仕事ってのは案外危なっかしいもんだからな。 >八:分かってますって。あの鬼瓦みてえな親方に睨(にら)まれながら修行してきたんですぜ。半端な仕事なんかしてたら今ごろ放り出されてますよ。 >角:そうか。まあ、そのへんは、実際の働きっ振りで見極(みきわ)めることにしよう。 12世帯27人分の仮住まいを拵(こしら)えるということで、思ったよりも大掛かりなものになってる。 それよりも、火元のお屋敷の方は、更に大掛かりである。焼け崩れた炭の撤去に当たっている者たちの目には、鬼気迫るものさえある。 >八:なあ三吉よ。おいらたち、あっちの手伝いじゃなくて良かったな。 >三:まったくですね。あんなに走り回ってたら、八兄いは、昨日飲んだ酒を全部吐き出しちまいそうだ。 >八:それくらいで済みゃあ良いぞ。相手はお武家様だからな、下手(へた)したら命まで落とし兼ねねえ。 >三:真逆(まさか)。 >八:そうでなきゃ、あそこまでぴりぴりしちゃいねえだろ? >三:よっぽど怖いお武家さんなんでしょうかねえ。 >八:そうかもな。関わらねえに越したことはねえな。昼時ともなると、然(さ)しもの八兵衛の二日酔いも、随分楽になってきた。 大振りの握り飯をもう3個も平らげている。 角蔵の指示が堂に入っているということもあるのか、仮住まいは着々と出来上がっていく。 >八:凄(すげ)えな。この調子なら明後日(あさって)には出来上がっちまう。 >三:あの棟梁は、まったく大したお人ですよね。大工のみんなもちゃあんと躾(しつけ)ができてら。 >八:それだけじゃねえぞ。材料だって、進み具合いに合わせて運ばれてくる。ちょいとばかり銭は掛かるだろうが、急ぐだけってことなら、間違いなく早く進む。 >三:良いですねえ、名の通った棟梁ってのも。どこの材木問屋に頼んだって断られやしないでしょう? >八:あっちのお屋敷と一緒の仕入れにしてるんだろうな、きっと。結構良い材木だぜ。一時の雨凌(しの)ぎにするにゃ勿体無えもんが出来上がるぜ。うちの長屋より良いかも知れねえぞ。 >三:そりゃあねえでしょう。漆喰(しっくい)を塗(ぬ)る訳でもねえし、瓦だって葺(ふ)かないんでしょう? >八:それを差し引いてってことだよ。当たり前ぇじゃねえか。 >三:本当の長屋ができたら壊(こわ)しちゃうんでしょう? 惜(お)しいなあ。 >八:お前ぇが住むか? >三:流石(さすが)にそいつは遠慮しますよ。だって、縁の下がねえじゃねえですか。風通しは悪いし、そのうち雨漏(も)りだってしてくるでしょう? 梅雨の時期にゃ黴(かび)が生えるんじゃないですか? >八:そうかもな。・・・でもま、この勢いだったら長屋の完成だってそう掛からねえだろ。 >三:そっちには呼ばれないですから知ったことじゃないですけどね。 >八:まあ、そういうこった。・・・なあ三吉、そこの握り飯、お前ぇが食わねえんなら食っても良いか? >三:さっきまで吐きそうだったってのに大丈夫なんですか? >八:あたりきしゃりきのこんこんちきよ。この八兵衛さんを誰だと思ってやがるんだ? ・・・と言ってはいたが、夕方になると腹がぐうぐうと鳴り出した。 「もう腹が減ってきちゃったんですか?」と尋ねられたが、それどころではない。脂汗まで出始めたのだ。 >八:三吉よ、おいらも焼きが回ったな。一晩飲み過ぎたくらいでこんなになっちまうなんてよ。 >三:それだけじゃないかも知れませんよ。昼飯の食べ過ぎなんじゃないですか? >八:おいらが食べ過ぎだ? 冗談じゃねえ。いつもとそう変わりはねえじゃねえか。 >三:4つですよ、4つ。 >八:あれ? 3つじゃなかったか? >三:ほら、食べ過ぎでしょう? >八:そうかもな。それに、茶もがぶがぶ飲み過ぎたかな。・・・済まねえが、今日は真っ直ぐ帰らして貰うわ。親方にはお前ぇの方から説明しといて呉れ。 >三:角蔵棟梁からのいただきものもおいら1人で持って帰るんですか? >八:高々酒樽(さかだる)2つくらいなんてこともねえだろ? >三:大工道具を担いでるんですよ? >八:大丈夫だって。若いんだからよ。じゃあ、任せたぜ。明日は直接こっちだからな。間違えるなよ。 三吉はよろよろしながら源五郎のところへ戻り、報告を済ませた。「へえ、八の野郎が脂汗をねえ」といは言ったものの、それほど心配している様子でもない。 >源:なあ熊。確か前にもそんなことがあったよな? >熊:へい。なんのことはねえ。朝寝坊して厠(かわや)に寄ってくるのを忘れててよ。その癖、食い忘れた朝飯の分は取り戻そうと、豚みたいに昼飯を詰め込みやがる。 >源:今ごろは長屋の厠にしゃがんでる頃だ。すっきりすりゃあ「だるま」に行くだろうよ。・・・ほれ、無理に行かせた分の駄賃(だちん)だ。銚子の2~3本余計に飲ませてやれ。 >三:良いんですかい? また明日の朝もおんなじことになりゃしねえですか? >源:そいつは大丈夫だ。 >三:どうしてですか? >熊:そりゃあな。厠を我慢してたんだってことが分かったからよ。大方、角蔵棟梁の立派な差配(さはい)に圧倒されて、すっかり忘れちまっていただけだろ。 >三:そりゃあ、おいらだって圧倒されて、ついついいつもより余計に頑張っちまいましたが、厠を忘れるほどじゃありませんでしたよ。 >熊:それをやっちまうのが八なのさ。笑えるだろ? >三:そんな八兄いに付いてて、おいらは大丈夫なんでしょうか? なんだか将来が心配になってきちまいます。 >熊:親方が見捨てねえ限りは大丈夫だよ。 >三:そうでしょうか? なんだか、段々八兄いと同じような人間になっていくような気がしてならないんですけど。 >源:そういうのも悪くねえかも知れねえな。 >三:親方までそんなこと言わないでくださいよ。 >熊:あんな八だって、良いとこもあるんだから、そこだけ似るようにすりゃ良いさ。 >三:そんなことなんてできるんでしょうか? なにしろ、あまりにも強烈ですからね、八兄いは。 熊五郎・三吉・友助の3人が「だるま」に入っていくと、八兵衛は案の定、ちゃっかりと座って、飲み始めていた。「なんだよ、手前ぇら、遅かったじゃねえか」と言って、亭主に銚子を4本注文した。
2008.02.18
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今日はちょっと趣向を変えて話し方教室からの抜粋 貴方は話し上手ですか? そんな質問をされて、ハイ 私は上手です という人は少ないと思いませんか 私もそうです でも今まで疑問にも思わないでいつも相手のせいにしている自分が居ませんか そうなんです それってやっぱり自分のせいなんですよね 会話のコツ これってやっぱりあるみたいで そんな会話のこつをきちんと教えてくれるのが話し方教室なんですね それではその一部を下記に紹介します----------------------------------------「質問話法を使おう」「佐藤さん、私、今朝寝坊してしまって会社遅刻してしまったんですよ」「エ・・・そうだったんだ・・・」その後も、こちらからいくら言葉をかけても、会話が途切れてしまい続きません。いつも気まずい思いをしていました。“話し方の勉強をすれば、会話がたのしくできるようになるのかな・・・”と、淡い期待を抱いて話し方センターの門を叩きました。話を聞いていただくための一つの方法として「質問話法」を教えていただきました。この方法はスピーチの時だけではなく日常会話にも使えそうだ・・・とすぐに試してみました。「佐藤さん、好きな食べ物何かありますか」「ウーン、特にないかな・・・」「じゃ、肉と魚とどちらが好きですか」「肉かな・・・焼肉好きだよね・・・」「焼肉おいしいですよね。実は美味しい焼肉屋さん見つけたんですが、今度一緒にいきませんか・・・」「いいね・・・行こうよ」質問話法を使って、相手の好きな話題を探りながら話をすると、今まで自分から無理をして言葉を捜しながら話していた頃と比べると、とても気分がラクになり楽しくなりました。そして、あんなに苦手だった会話が楽しくなって、好きになりました。「好きこそ物の上手なれ」という言葉があります。会話をすることが好きになった今、もっと話し方の勉強をしたいと意欲が湧いてきました。これからも話し方の勉強を続けていきます。 (平成19年7月話し方教室修了式スピーチより一部抜粋)■今日のポイント「質問形をたくさん使おう」───────────────────────────────────質問形は日常会話に取り入れることも効果的ですが、スピーチをする時に、話し手と聞き手を一体化するためには質問形を使って話を進めるのが効果的です。スピーチは、話し手だけが一方的に声を出し、話を進めているように見えますが、実はそうではありません。聞き手は声には出しませんが、心の中では“なるほどそのとうり”“いや、それは違うんじゃないの”“私も頑張ろう”と様々に反応しているのです。ただ聞き手はおおぜいいますから、一人一人声を出していわないだけです。スピーチの上手な人はこの反応のさせ方も上手で、たえず聞き手と会話をかわします。切り出しで意表をつく。相手の欲望に訴えて話をする。このような時でもさりげなく聞き手に問いかけます。“玉の輿に乗りたいと思いませんか”“楽ななダイェツト法を知りたいと思いませんか”“あがらぬ法をご存知ですか”いつも「か」の字で展開します。こうしますと聞き手は問題を投げかけられますから考えます。考えるということは問題を共有化して、聞き手を話し手の土俵の上に乗せることになります。話し手が聞き手の興味も考えずに、自分の好きなことを一人で話していたのでは、ソッポを向かれるのは当たり前です。常に心の中で無言の返事をさせるべく問題を投げかけていくことです。ただし、なんでもかんでも「か」の字を使えばよいというものではありません。たとえば、“命は大事なものだと思いますか、○○さんどうですか”こういうわかりきったことを聞くと、なんて当たり前のことを聞くのだろう・・・と怪訝に思われてしまいます。こういう時はむしろ“命は大事なものでしょう”と強く言い切って充分間をとり、言外に“どうですか、そうではないですか?”と聞いていくのです。質問形は問題を共有化するほかに、説得力を強化するのにも効果があります。人間は押しつけに反発するという性質があります。“話しべたは損ですよ”と言われれば“そんなこと言われなくてもわかっているよ”と反発する人もでてきます。ところが“あなたは話しべたで損をしていませんか?”“人前であがったことはありませんか”“失敗したことはありませんか”と問いかけの形をとってみると、聞き手は“私もあがって恥をかいたことがある”“人前で上手に話せない”“たしかに話しべたは損”と自分で考え、自分で答えを出します。こういう形の説得は、聞き手に、説得されていると感じさせないで説得をしてしまう一番上手なやり方です。古今東西の名演説家は皆さんこういう形をとっています。話し手の言いたいことを聞き手の問題として考えさせ、共通化する。説得力を強化する上でも、ぜひこの質問形のスピーチのすすめ方を工夫してみてはいかがでしょうか。
2008.02.17
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『出盧(しゅつろ)』 『出盧』「盧」は、庵(いおり)のことで、隠遁(いんとん)の草庵のこと。世間を逃れて隠遁していた者が、再び世に出て、官職などに就いて活躍すること。故事:「三国志」 諸葛孔明が劉備の三顧の礼に感激して、草廬を出て仕官した。出典:三国志(さんごくし) 192 呉下の阿蒙 参照。*********源蔵は、四郎の稚児(やや)の名付け親になっても良いと請(う)け合った。「金吾」なんて付けるんじゃねえだろうなという源五郎の嫌味(いやみ)も軽く受け流し、慶二のために考えていたものが幾つかあると胸を叩いた。 >棟:茂太に智太に昌太に達太。どうだ? 然(さ)もなきゃ、太一なんてのもあるぞ。 >源:なんだよ、男ばっかりじゃねえか。女かも知れねえんだぜ。 >棟:お美奈におそのにお麻巳にお晃(あき)なんてのはどうだ? 然もなきゃ早苗とかさゆりなんてのも良いぞ。 >源:なんだってそう色々と湧(わ)いて出るかね。 >棟:そんなの当たり前じゃねえか。自分の孫なんだぞ。孕(はら)んだと聞いたその日から考えてりゃ、10や20くらい造作(ぞうさ)もねえことだろう。 >源:そういうもんかね。 >棟:お前は冷たいんだな。自分の稚児だってのに、可愛くねえのか? >源:可愛くねえ親なんかいるか。 >棟:それじゃあ、お前が考えていた名前を挙(あ)げてみろ。 >源:そんなもん、今更言ったって始まらねえだろう。 >棟:ははあ。さては、考えてなかったな? 産まれてから決めりゃ良いなんて思っていやがったんだろう? 嗚呼(ああ)、まったく情けねえ。お前ぇって奴は、本当に人でなしだな。 >源:そうじゃねえって。なんでもかんでも勝手に決め付けるな。 >棟:それじゃあ言ってみろ。俺が判断してやるからよ。 >源:あ、あま・・・、「甘太郎」か「おやつ」だ。 >棟:なんだと? そりゃあ、亡くなったあやの両親の名前じゃねえか。 >源:も、文句あるのかよ。 >棟:そうか。お前ぇ、丸っきり唐変木(とうへんぼく)って訳でもねえんだな。・・・ちっとは安心したぜ。 >源:母ちゃんには黙ってて呉れよ。 >棟:分かってるって。俺の口が堅いのを知らねえ訳でもあるめえ? まったく顔から火が出るようなことを言わせやがってと、源五郎は仕事場へと逃げ込んだ。 6人の弟子たちがいない仕事場は火が消えたように静まり返っている。 静(しずか)と源太は慶二のことに夢中らしく、夕飯もそこそこに、奥の間に引っ込んでしまっている。 こういう幸福も良いなと、暫(しばら)く道具類に触れて回り、やがて、帰るべき部屋へ戻っていった。 その頃「だるま」では、八兵衛が酔っ払い始めていた。 >八:よう、半次。お前ぇんとこはどうなんだ? >半:どうって、何がだ? >八:稚児に決まってんじゃねえか。まだできねえのか? >半:そんなこと、俺に分かる訳ねえじゃねえか。・・・そうなりゃ、お八重がなんとか言って呉れるだろうよ。>八:腹のでかい菜々ちゃんを毎日見てたら、自然に腹が膨れてきたりしねえか? >半:するか、そんなもん。 >八:ものの序(つい)でだ。作っちまえ作っちまえ。こうなりゃ自棄(やけ)だ、熊、手前ぇもとっとと作っちまえ。 >熊:おいらにまで言うことねえだろう。>八:お負けにもひとつ、友さん、あんたも身を固めた方が良いぞ。>友:私はお負けですか・・・ >三:八兄い、どうしちまったんですか? 酔っ払っちまったんですか? >八:これくらいで酔うかってんだ。楽しくって幸せなことは、のろのろやってねえで、さっさとやっちまえってことよ。そうだろ? >三:そりゃそうでやすが。じゃあ、八兄いはどうするんですか? >八:おいらか? そんなこと三吉が心配することじゃねえ。おいらはだな、今までこそ、娘どもを寄せ付けねえで生きてきたがよ、重い腰を上げりゃ、寄ってくる町娘なんかごまんと・・・ >熊:分かったから、もう飲むな。 >八:なんだと? お目出度(めでた)い日だってのにそうしみったれたこと言うなよ。・・・おーい、お花ちゃん。お銚子3ぼーん。それと、お花ちゃんもこっち来て飲まねえか? 今日はな、親方んとこに稚児が生まれた目出度い日なんだ。お花は「はーい」と答えたものの、客と一緒になって飲むことなど考えたこともなく、唯(ただ)うじうじとしていた。 「うちはそういう飲み屋だから構わねえよ」と亭主から言われて、決心をした。 >花:お待ちどうさま。でも、こんなに飲んで大丈夫なの? >八:なあに。こんなもん、飲んだうちには入らねえって。・・・どうだい、ちょこっとだけでも座ってかねえかい? >花:でも・・・ >熊:無理強(じ)いはするなよ。 >花:無理強いだなんて、そんなことはないんだけど、あたし、お酒はそんなに・・・ >八:舐(な)めるだけで良いさ。一緒に、親方んとこの「幸せのお裾分け」ってのを、分かち合おうってんだ。別に深い意味はねえさ。 >花:「お裾分け」? ・・・素敵ね。じゃあ、そうまで言うんなら、ほんとにちょっとだけね。 >八:そうこなくっちゃ。三吉、注いでやれ。 >三:へ、へい。それじゃあどうぞ。 >花:今日だったんですか。お目出度うございます。 >八:別に、おいらたちが言われるようなことじゃねえんだけどな。 >花:でも、甥(おい)ごさんや姪(めい)ごさんが生まれたのと同じじゃありませんか。名前は? >八:「慶二」だってさ。慶長小判が二枚。 >花:へえ。男の子ね。それに、お目出度い名前。喜びが2つってことでしょう? >八:そうなのか? >花:だって、「慶祝行事」とかって言うじゃない。 >八:へえ、お花ちゃんって頭が良いんだ。凄(すげ)えな。 >花:そんなの、ちっとも凄くないわよ。あたしなんか・・・ >三:そんなことどうだって良いじゃないですか。乾杯しましょうよ、ね? そんじゃ、かんぱーいっと。 お花はくいっと酒を呷(あお)ると、猪口(ちょこ)の飲み口を拭(ぬぐ)い、卓に伏せて、台所へ引っ込んでいってしまった。 八兵衛は、朧(おぼ)ろな頭で、拙(まず)いことを仕出かしてしまったのかと、ちょっとばかり不安になっていた。 八兵衛には、その後の記憶がない。 >八:あいたたたた。なあ熊よ、おいらたち昨夜(ゆうべ)何を話してたんだっけ? >熊:五六蔵と四郎の稚児にはどういう名前が良いかってことだ。 >八:ああそうか。そんで、結論は出たんだっけ? >熊:出る訳ねえだろ? お前ぇが早々に潰れちまいやがったんだからな。 >八:なんだよ。おいらのこと抜きで決めちまえば良かったじゃねえか。なんだよ、おいらが混ざらねえとなんにも決められねえのか? だらしがねえな。 >熊:何を言ってやがる。自分のことは棚に上げやがって。お花ちゃんに絡(から)みやがって、まったく。 >八:何? おいら、絡んだのか? >熊:ああ。そうだ。 >八:そんで? お花ちゃんは怒ってたか? >熊:怒っちゃいねえさ。でもな、あんまりしつこくするなよ。お花ちゃんだって嫁入り前なんだからな。 >八:・・・そうか、怒っちゃいねえか。良かった。 >熊:お前ぇ・・・? >八:ん? なんだ? >熊:いや、なんでもねえ。・・・おらおら、愚図愚図(ぐずぐず)してねえで、とっとと顔を洗ってきやがれ。 そんな朝、源蔵の元を訪ねてきた者があった。 角蔵(かくぞう)というその男は、件(くだん)の「金吾」の父親の、元(もと)大物の棟梁である。今では隠居して左団扇(ひだりうちわ)で暮らしている筈であった。 >棟:どうしたんですかい、そんな形(なり)しちまって。隠居してたんじゃねえんですか? >角:朝っぱらから済まねえな。 >棟:そんなことはどうでも良いんですよ。年を取ると、朝が早くて適(かな)わねえ。・・・それで? >角:ちょいと若いもんを2人ばかし貸して貰いてえんだ。 >棟:そりゃあ良いですが、訳は聞かして貰えるんでしょうね? >角:勿論(もちろん)だとも。だがな、刻(とき)があんまりねえんだ。話は1回で済ましてえから、その若いもんも一緒に呼んで貰えねえか? >棟:分かりやした。丁度うちの倅(せがれ)と、その子分どもが揃(そろ)ってるようだから、仕事場の方へ回って貰っても良いですかい? 誰を行かせるかは倅に決めさせやすんで。 >角:源五郎か。もう一端(いっぱし)の大工になったことだろうな。 角蔵の話というのは、こんなものであった。 以前改築を請け負った然(さ)る藩の上屋敷(かみやしき)が火を出した。その建て直しには倅の金吾を当たらせるとして、延焼させてしまった長屋2棟の世話も見なければならなくなり、手が足りなくなってしまった。間もなく梅雨の時期がやってくるので、急ぐのは当然だが、一先ず、仮住まいができるような簡易住居を建ててやらねばならない。 >棟:そういうことでしたか。それなら、協力させて貰いますよ、棟梁。 >角:有難い。・・・それで、早速今日からなんだが、それでも良いかい? >源:今日からですかい? そりゃあ・・・ >棟:お前ぇを混ぜて7人もいるんだ。2人や3人抜けたからって、そうそう遅れやしねえだろう? >源:うん。まあ、事が事だからな。・・・それじゃあ、八と三吉。行ってやれ。 >八:お、おいらですかい? あの、二日酔いなんでやすが・・・ >源:お頭(つむ)は鈍(にぶ)ってても、手足はちゃんと動くだろう。任(まか)せたからな。 >八:そんなら、もう1人付けてくださいよ。2人だけじゃ忙(いそが)し過ぎますよ。 >源:駄目だ。五六蔵も四郎も、今日明日にゃ生まれるってときなんだ。途中で抜けたりしたら先様にも迷惑だろう。>八:ああそうか。仕方ねえな。・・・しかし、なんでこんなときに生まれてくるんだ? まったくよ。 >源:そんなのこいつらのせいじゃねえだろう。ほれ、とっとと出掛けやがれ。 >棟:それで? 指図(さしず)は角蔵さんのところで都合を付けてくださるんで? >角:生憎(あいにく)出払っちまっててな。仕方がねえんで俺が出張(でば)るよ。耄碌(もうろく)しちまったが、何とかなるだろう。昔取ったなんとかってやつだな。 >棟:へえ、こりゃあ有難え。・・・こら八、勿体無くも角蔵棟梁が直々に面倒を見て呉れるそうだ。しっかり勉強させて貰えよ。 >八:へーい。
2008.02.16
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『守株(しゅしゅ)』 『守株』1.いつまでも古い習慣を固守して、時に応じて処理する能力が乏しいこと。2.進歩がないこと。類:●株を守りて兎を待つ●杭(くい)を守る●株を守るの類(たぐい)なり故事:「韓非子-五蠹」 昔、兎が偶然木の切り株に頭をぶつけて死んだのを見た宋の農夫が、以来百姓仕事を辞め、また兎を手に入れようとして木の株の番をして暮らしたという。★なぜ「宋」の農夫かというと、「杞憂」の「杞」国と同様、寓話に取り沙汰し易い国名であったことによる。周代に、殷(いん)王朝の子孫が集められ土地を与えられたのが「宋」であり、「宋人(そうひと)」は、祖先の霊を鎮(しず)めることだけを許され、細々と暮らしていた。[阿辻哲次教授]参考: 北原白秋作詞の『待ちぼうけ』の歌詞はこんなもの。「待ちぼうけ 待ちぼうけ ある日せっせと 野良(のら)かせぎ、そこへ兎(うさぎ)が飛んで出て ころり ころげた 木の根っこ」********桜の花弁(はなびら)もすっかり散ってしまい、江戸は、若葉の緑に染まり始めていた。 そんな清清(すがすが)しい季節に、あやは稚児(やや)を産んだ。男の子であった。年号が「享和」から「文化」に変わたばかりのことである。(旧暦1804年2月11日…新暦だと3月22日) >八:親方ぁ、お目出度う御座います。どっちでやした? >源:男だ。俺にそっくりだそうだ。 >八:喜んで良いんだか悲しんで良いんだか。 >熊:稚児が生まれたってのに、悲しむ奴があるか。 >八:あっはっはっは。それもそうだな。 >熊:名前はもう決めたんですかい? >源:いや、まだだ。源太のときは、一応俺が付けたってことになってるからな。あやの奴に任(まか)せてある。・・・でも、また出しゃばりな母ちゃんが、勝手に決めちまうかも知れねえがな。 >雅:誰が出しゃばりだって? 浮かれてばっかりいないで、餌(えさ)を稼(かせ)ぎに行ってきな。 >源:今日ぐらいのんびりしてても良いだろう? >雅:何言ってるんだい。お前は3人もの子持ちなんだよ。ほうれ、聞いてみなよ、餌が欲しいってぴいちく鳴いてるだろう? >源:分かったよ。出掛けりゃ良いんだろ、出掛けりゃ。・・・あやのことは頼んだぜ。 >雅:任せときな。・・・あ、そうだ。稚児の名前だけどね、「慶二(けいじ)」にしといたからね。お前は考えなくても良いよ。 >源:なんだと? もう決めちまったのか? >雅:こういうのは早いに越したことがないのさ。 >源:ちゃんと、あやが決めたんだろうな? >雅:「良いですね」って言ってたよ。 >源:なんだよ結局母ちゃんが決めたんじゃねえか。まったく、産みの親の意向も何もあったもんじゃねえな。 >雅:玄翁(げんのう)を振るうしか能がないお前になんか決めさせられるかい。・・・忘れるんじゃないよ。慶長小判の慶に一枚二枚の二だからね。 自分の思う通りの名前を付けたかったら、もう1人作らなきゃならないのかと、源五郎は溜息を吐(つ)いた。 そんな情けない顔を見て、八兵衛は大笑いしている。 その後ろでは、五六蔵と四郎と、友助までもが、にこにこ笑っている。 >五六:あっしらんとこもそろそろでやすから、早いとこ名前を決めちまわねえといけませんね。 >熊:もう、お三千(みっ)ちゃんが決めちまってるかも知れねえぜ。 >五六:そんならそれで、何の文句もねえんですが、藺平(いへい)父つぁんが、このごろ物凄く張り切っちまってですね・・・ >熊:どうしたんだ? >五六:1日と置かずに見にくるんですよ。そのたんびに「まだかまだか?」って聞いていくってんです。 >熊:ちゃんと仕事をしてねえんじゃねえのか? >五六:とんでもねえ、その逆でやすよ。生まれたら畳(たたみ)を全部取り替えてやるって言ってね、6畳どころか18畳も仕上げちまった、なんてことなんで。 >八:へえそりゃあ凄(すげ)え。うちの長屋の畳も替えて呉れねえかな? >五六:駄目ですよ。商売ものなんでやすから。 >八:ちぇ。美味いこと丸め込めるかと思ったんだがな。 >五六:八兄いんとこに稚児でも生まれるってんなら、頼んでみても良いですがね。 >八:おっ、言いやがったな? 忘れるなよ。こうなったら意地でも稚児を作ってやるからな。 >五六:おっ? 本気なんでやすか? >八:あたぼうよ。こうなりゃ稚児の1人や2人・・・ >熊:それ以前に、相手がいねえんだからどうしようもねえじゃねえか。 >源:五六蔵よ。菜々ちゃんの方はどうなんだ? >五六:へい。あいつは田舎(いなか)もんですから、心配(しんぺえ)は要りませんって。一応、半公の母ちゃんに頼んでありやす。 >八:お梅婆(ばあ)さんかい? 大丈夫かよ。・・・まあ、うちの母ちゃんよりは増しか・・・。 >源:嫁と妹が一緒にお産じゃ、お前ぇも大変だな。なんなら早めに引けても良いぜ。・・・四郎、お前ぇもだ。 >四:おいらんとこも田舎もんですから、お産自体には心配してないんです。むしろ、気になるのは名前の方でしょうかね。良い名前が浮かばなくって。 >八:権兵衛(ごんべえ)とか田吾作(たごさく)とかじゃどうだ? >四:近所にはそういうのしかいなかったから、困ってるんじゃないですか。およねのところにしたってそうですよ。 >熊:大女将(おおおかみ)さんにでも付けて貰っちゃどうだ? >八:おお、そりゃあ良い。静(しずか)嬢ちゃんみたいな可憐(かれん)な名前を付けて呉れるぞ。 >四:男でもですか? そりゃあ困りますね。 >八:慶二ってのは男らしい名前だぞ。そんなら文句はねえだろ? >四:はあ。そうですね。 >源:あんまりお勧めはできねえな。一生涯恩を売り付けられそうだ。何が慶長小判二枚だ。商人じゃねえんだぞこちとら。 >熊:そんなら、棟梁にでも名付け親になってもらっちゃどうだ? それなら角も立たねえだろ。 >四:頼んでみていただけますか、親方? >源:まあ良いが、引き受けるかどうかは別だぞ? >熊:どうしてですか? 大概の人は喜んで引き受ける話でしょう? >源:それがな、変なことを聞き付けてきちまってな。 >五六:どんなことでやすか? >源:甚兵衛の父つぁんなんだ。 >八:うちの大家の爺さんがどうしたってんです? また縁組みの話ですかい? それも、おいらの? >源:そんな筈あるか。・・・昔、甚兵衛さんが名付け親を頼まれたことがあってな。そのとき思い付きで付けた「金吾」っていう大工がいたんだけどよ。その途端その父親に運が巡ってきちまって、御用の仕事が回ってくるわ弟子は増えるわで、とんとん拍子で押しも押されもしねえ立派な棟梁になっちまったのよ。 >八:凄えじゃねえですか。あの爺さんも捨てたもんじゃねえですね。 >五六:でも、ほんとにその名前のせいなんですか? >源:少なくとも、その棟梁と女将さんはそうだって信じてる。 >五六:そういうことなら、ほんとなんでやしょうね。 >源:ところが後が悪い。名付け親の話が来るたんびに「金」とか「吾」とかを矢鱈(やたら)付けやがるのさ。頼んじまった方も、後からじゃ断れねえだろう? 好い迷惑だよな、まったく。 >四:それで、その後の人たちにはご利益(りやく)はなかったんですか? >源:さっぱりさ。 >四:そんなことがあったんですか。 >源:いまでも時々その棟梁の口利きとかで訪ねてくる奴がいるらしいが、相も変わらず似たような名前を付けてるそうだ。 >八:懲りないねえ、大家の爺いも。 >源:まあそんな訳だ。 >四:まあ良いです。棟梁に断られたら、親方か姐(あね)さんが付けてください。そういうことなら、およねだって喜びますから。 その日の夕方、五六蔵と四郎が飛んで帰った後に残された4人は、例によって「だるま」に座り込んで、どんな名前が良いかという話をしていた。 そこへ半次がやってきて、合流してきた。 >半:松つぁんが飲みに付き合って呉れねえもんで、寂しくってよ。混ぜて貰っても良いだろ? >熊:こっちも溢(あぶ)れもんだからな。 >八:なあ、松つぁんのとこはいつ頃生まれそうだって? >半:もういつ生まれたって不思議はねえとよ。母ちゃんの話だと初産(ういざん)だから、4・5日は遅れるだろうってことだ。・・・でも、血筋かね。至極(しごく)順調だから心配はないだろうとよ。まるで、自分の孫かなんかみてえだぜ。 >熊:もう直ぐか。長屋も賑(にぎ)やかになるな。 >八:お咲坊から「あたしも稚児が欲しい」なんて言われたらどうする、熊? >熊:な、何を言い出すかと思えば。止しやがれってんだ。 >八:まあそんなに怒るなよ。羨(うらや)ましいって思ってるんだからよ。 >半:ほう。八つぁんにしちゃ、珍しく神妙(しんみょう)じゃねえかよ。 >八:放っとけ。おいらだって心配なんだからよ。・・・四郎が片付き、五六蔵が片付き、この上三吉に先立たれたらおいら・・・ >三:先立つなんて言葉使わないでくださいよ、縁起でもねえ。 >半:あっはっは。面白(おもしれ)えな、八公はよ。・・・そんで、なんの話をしてたんだ? >熊:五六蔵と四郎のとこは稚児にどんな名前を付けるのかなってことさ。 >半:「幸せのお裾分け」ってとこか? >八:なんだ、そりゃ? >熊:似合わねえな、半次にはよ。 >半:放っとけ。俺だってな、嫁と暮らしてりゃちょっとは気の利いたことを言うようになるんだぜ。 >三:へえ、お裾分けねえ。洒落(しゃれ)たことを言うもんですね。そんでもって、ほんとにお裾分けをいただけると良いですよね。 >八:縁組みの話とかか? >三:そうですよ。稚児を授(さず)かる前に、先ずそっちをなんとかしなきゃならならないでしょう? >八:手前ぇ、やっぱりおいらより先になんとかしようと考えてやがるな? >三:良いじゃないですか。これについちゃ、年の順じゃないですからね。負けませんよ。 >八:おう、良く言った。受けて立とうじゃねえか。こう見えても、おいらのことを憎からず思ってる町娘なんざ、掃いて捨てるほどいるんだからな。 >熊:また始まりやがった。
2008.02.15
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『重箱(じゅうばこ)の隅(すみ)を楊枝(ようじ)で穿(ほじく)る『重箱の隅を楊枝で穿る』[=突付く]些細な点まで詮索(せんさく)すること。どうでも良いようなつまらない事柄にまで口出しして、干渉をすること。********伝蔵の約束通り、2日後に、4人の似顔入りの瓦版が配られた。揃いも揃って、一癖も二癖もありそうな面構(つらがま)えである。あっという間に売り切ってしまった太助は、することがなくなってしまって、熊五郎たちのところへ昼飯を集(たか)りにやってきた。 >熊:よう、太助。読売りの売れ具合いはどうだったい? >太:飛ぶように売れるっていうのは、ああいうことを言うんでしょうね。手分けして配ったから、400枚は売れたんじゃないかと思いますよ。 >熊:そうか。それなら、あとは梨元の旦那の首尾(しゅび)次第ってことだな。 >八:梨ちゃんは頼りねえけどな。まあ、伝六が付いてりゃ大丈夫だろ。 >太:それじゃあ、もう解決したも同然ですね? あの、昼飯でも・・・ そこへお咲が「大変よーっ」と叫びながら走ってきた。 >八:なんだお咲坊、そんなに泡を食って? >咲:泡を食いもするわよ。太郎兵衛が姿を暗(くら)ましちゃったのよ。 >八:なんだと? 本当かそれは? >咲:この目で確かめてきたんだから間違いないわ。 >熊:お前ぇ、また独(ひと)りで行ってたんじゃねえだろうな? >咲:え? ・・・えへへ。ちょっと気になっちゃってね。 >熊:危ねえから止(よ)せって言ったじゃねえか。権太(ごんた)の野郎にでも捕(つか)まったら、何をされるか分かったもんじゃねえんだぞ。 >咲:だって、じっと待ってなんかいられなかったんだもん。 >熊:松つぁんでも半次でも引っ張ってきゃ良いじゃねえか。どうして独りでなんか・・・ >八:もう良いじゃねえか。こうやって無事に帰ってきてるんだからよ。 >熊:そうは言うけどな。1回や2回だったら仕方がねえが、いつもだぞ。・・・まったく、心配するこっちの身にもなれってんだ。 >咲:・・・でも、あたしが行ってなかったら、太郎兵衛が逃げたのだって分からなかったじゃない。 >八:そうだよ。誉(ほ)めてやれよ、熊。 >熊:他人に心配を掛けるような奴を誉められる道理がねえ。図に乗らせるだけじゃねえか。 >八:分かった分かったって。お前ぇがお咲坊に惚(ほ)れてるってのはもう分かったから、もうそのくらいにしとけ。 >熊:そ、そ、そういうことじゃねえだろ。 >太:・・・あの。そういうことじゃあ、なかったんですか? 騒ぎを聞き付けて、源五郎たちが寄ってきた。 >源:油なんか売ってるんじゃねえぞ。 >八:怠(なま)けてる訳じゃねえんですよ、親方。 >源:近頃、また何かこそこそとやってやがるようだが、変なことに首を突っ込んでるんじゃねえだろうな? >八:変なことなんかじゃありませんよ。大変なことになっちまったんですぜ。 >五六:どうかしたんですかい? >咲:太郎兵衛が雲隠れしちゃったのよ。 >三:なんだって? >四:それじゃあ、伝蔵さんの計画も駄目になっちゃったんですか? >八:そういうこったな。 >源:待て待て。太郎兵衛ってのは、あの淡路屋の太郎兵衛か? >五六:そうでやすとも。年寄りばかりを狙(ねら)うっていう騙(かた)りが起きてるでしょう? 後ろで糸を引いてたのが太郎兵衛だったんでやすよ。 >源:なんだと? お前ぇら、そんなことに関わってやがったのか? >熊:へい。黙ってて済(す)いやせんでした。 >源:そうか・・・。しかしな、相手はちんぴらじゃねえんだぞ。やくざの親分だ。ちっとは、自分らの心配もしろ。・・・まあ、細かいことを聞いたからって、止(や)めろとは言わなかったろうがな。 >熊:経緯(いきさつ)を聞かねえんで? >源:だって、当の太郎兵衛の野郎がいなくなっちまったんだろ? 今更(いまさら)根掘り葉掘り聞いたところで、どうしようもねえじゃねえか。 >咲:ねえ親方、手伝って呉れないの? 折角(せっかく)追い詰めたのに、放っといたらほんとに逃げられちゃう。 >源:太郎兵衛くらいになりゃ、顔だって割れてるんだ。舞い戻ってくれば、どうせまた追っ掛け回されるさ。 >熊:でやすが、いなくなっちまったとあっちゃ、今回のことの詮議(せんぎ)はもうできねえんでしょう? 戻ってきたときはなんの咎(とが)もねえじゃねえですか。 >源:そんなこともねえだろ? 幾(いく)ら当人がいねえったって、手配書きくらいは作るだろうよ。 >八:あの盆暗(ぼんくら)同心じゃ、それだって、知れたもんじゃねえけどな。 源五郎は、「うちではその話はするなよ。あやの奴が興味を持つと困る。臨月(りんげつ)だってのに・・・」と、ぶつぶつ言いながら仕事に戻っていってしまった。「あの、昼飯は・・・」という太助の声には、誰も耳を貸さなかった。 >熊:できることなら、並助の母ちゃんの臍繰(へそく)りくらいは、取り戻してやりたかったな。 >八:こうなっちゃ無理だな。 >咲:ちょっと、諦(あきら)めるのが早過ぎよ。行ってみなくちゃ分からないじゃない。 >八:行くってどこへだ? >咲:梨元の盆暗旦那のところよ。太郎兵衛と権太はいなくなっちゃったけど、片棒を担いでた多作とかいう元目明かしくらいは捕まえられるでしょう? >熊:居所が分かればな。・・・一緒に逃げちまってるんじゃねえのか? >咲:伝蔵さんが言ってたじゃない。太郎兵衛たちが一番信じていないのが目明かし上がりだって。 >熊:成る程。そういうことなら、連れてきゃしねえな。 >五六:消されちゃってませんかね、権太の野郎に? >四:有り得ますね。 >熊:・・・まあ、ここで考えてても仕様がねえ。確かめに行くとするか。 >三:でも、まだ昼飯前ですぜ。みんなで抜け出すって訳にもいかねえですよ。 >熊:そうだな。それじゃあ、おいらと三吉の2人が行くとしよう。親方に頼んでくる。 >咲:ちょっと待ってよ。あたしも行く。 >熊:お前ぇは大人しくしてろ。 >咲:嫌よ。並助さんの長屋を知ってるのはあたしだけだもん。あたしが案内しなきゃどこへ言って良いか分からないでしょ? 源五郎の了解を得て、熊五郎と三吉、それにお咲が奉行所へと向かった。 門の前には、丁度伝六がうろうろしていて、梨元が出てくるのを待っているところだという。 >咲:ねえ伝六さん、太郎兵衛が逃げちゃったの知ってる? >伝:ああお咲ちゃん、俺もさっき見てきたよ。 >咲:それで? これからどうするの? >伝:伝蔵さんが立てて呉れた計画だけでもやっとかないとな。多作と、もう2人を探し出すんだ。 >咲:できるの? >伝:なんとかなるだろう。・・・でも、その前に、瓦版に書いてあった4人を召し取りに行ってくる。淡路屋の奥の部屋に縛(しば)り付けられてたんだ。見張りを付けてそのままにしてある。 >咲:だって縛られてるんでしょ? そのまま引っ張ってきちゃえば良いじゃない。 >伝:梨元の旦那の手柄(てがら)にしてやらねえとな。 >咲:何よそれ。太郎兵衛が縛ったんならあの盆暗の手柄でもなんでもないじゃない。 >伝:役人には役人の遣り方ってのがあるのさ。 >咲:馬鹿みたい。そんなら、似顔絵を描いた伝蔵さんにはちゃんと礼金みたいなのは出るんでしょうね? >伝:さあな。あんまり期待はできねえな。 >熊:それじゃあよ、手柄は盆暗同心1人だけってことか? >伝:そうかもな。 >咲:納得できない。・・・良いわ。太助さんに言って、縛り上げたのは太郎兵衛だっていう瓦版を配って貰うから。 >伝:それはあまり賢(かしこ)い遣り方とは思わねえな。瓦版を読む者たちにとっちゃ捕り方が縛ろうが誰が縛ろうが、そんなことどうでも良いことだろう? >熊:太郎兵衛を捕まえられなかった以上、こっちにとってもどうでも良いことだな。 >咲:じゃあ、どうしたら良いの? 臍繰りを騙し取られた人たちに、どうやって説明できるっていうの? >伝:届けがあって、分かってる家(うち)には、奉行所から何がしかのものは下されるだろうよ。 >咲:どうせ端(はし)た金でしょう? >伝:出ねえよりは増しさ。 >咲:随分及び腰なのね、伝六さん。 >伝:俺だって、食っていかなきゃならねえんだ。・・・あんな旦那でも、無下(むげ)にはできねえのさ。 >咲:良いわよ。こっちはこっちであの盆暗同心を脅してやるんだから。伝蔵さんの分と並助さんの分を毟(むし)り取ってやるんだから。 >熊:まあ、そう熱くなるなって。 >伝:桃山の旦那だったら、太郎兵衛のことを地の果てまで追っ掛けただろうにな。 >熊:違えねえ。 >伝:あーあ。今頃何をしてるんだろうな。ちゃんと長崎ってとこには着いたのかな? >熊:「太郎兵衛が逃げた」って文(ふみ)でも書いたら、すっ飛んでくるかも知れねえぞ。 >伝:そんな野暮天(やぼてん)みてえなことを、この俺がするとでも思うか? 盆暗役人に媚(こ)びはするが、人の恋路の邪魔なんてことは、死んでもするかっての。
2008.02.14
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『蛇(じゃ)の道(みち)は蛇(へび)』 『蛇の道は蛇』同類の者は互いにその社会、またその方面のことに通じている。同類の者がすることは良く分かる。類:●餅は餅屋*********梨元又士郎は、借りてきた猫のように大人(おとな)しくなってしまった。冷めた酒をちびりちびりと舐(な)め、野蒜(のびる)のお浸(ひた)しを摘(つ)まんでいる。反対に調子に乗った八兵衛が、止せば良いのに、内房正道との邂逅(かいこう)の話を、止め処(ど)なく話し始めている。 いつの間にか入ってきていたらしい伝蔵が、興味津々(しんしん)で聞き耳を立てていた。 >八:だからよ。おいらと内房のご隠居さんとは「臭(くさ)い仲」なのさ。分かったかい、梨元の旦那? >梨:うむ。 >八:あっはっは。聞いたか? 「うむ」だってよ。気取っちゃってるぜ。 >伝六:八つぁん、もう4回目だぜ。もうこれくらいで堪忍してやってやりなよ。 >四:5回目ですが。 >五六:お前ぇ、良く数えてられるな、酔っ払うと直ぐ寝ちまう癖によ。 >三:おいらなんか、太助どんが凄まじい勢いで食いもん食ってるんで、見蕩(みと)れちまいましたよ。 >五六:そうじゃなくたって数えていたくはねえわな。ことあるごとに聞かされるんだからよ。 >八:なんだ五六蔵。真逆(まさか)おいらの話が聞きたくねえなんて言うんじゃねえだろうな。 >五六:もうこりごりでやすよ。何十回聞かされてると思ってるんですか? >八:えーと、20回くらいじゃねえのか? >五六:そんな少ない筈(はず)がねえじゃねえですか。耳に胼胝(たこ)でやすよ。 >八:なんだと? そんなことはねえだろう。おいらのべろには胼胝も魚の目もできちゃいねえぜ。 >五六:そんなもんできやすかってんだ。 >熊:・・・もうそれくらいにしとけよ。「臭い仲なんて言わねえぞ」って一々言うのも疲れたぜ。 >八:そうか? そんじゃあ仕様がねえ。食いもんでも突付くとするか。・・・おーい、お花ちゃん。蛸(たこ)の足かなんかねえか? >花:はーい。御田(おでん)の汁に浸(つ)けてたのがあります。 >八:おっ、そりゃあ美味(うま)そうだな。ありったけ出しと呉れよ。 主導権をすっかり取られてしまった梨元は、見咎(みとが)められないように渋い顔をした。それを、伝蔵が丁度見ていて、「おっ、今の顔良いねえ。もう一遍してみてよ」と、指差して催促(さいそく)した。 >梨:あいや。せ、拙者(せっしゃ)は別に・・・ >八:なんだい、梨の旦那。おいらの話は詰まらなかったかい? >梨:そ、そいう訳では・・・ >八:なんなら取って置きの話をしてやろうか? >熊:そいつは止しとけ。先様に迷惑だ。 >八:あ、そうか。そうだったな。・・・でも、なんだか後ろ髪引かれちゃうな。 >伝蔵:なんのことだい? まだあるのか? >咲:・・・伝蔵さん。その話は、後であたしがこっそりと教えてあげるから、今日のところは、ね? >伝蔵:なんだよ。出し惜しみするなって。 >咲:お願い。・・・八つぁん、危なっかしいこと言い出さないで。 >八:へえい。 >伝蔵:あんたら、やばいことに手を染めてるんじゃねえだろうな? >熊:そ、そんなことはねえって。・・・そんなことよりよ、太郎兵衛んとこをどうやって攻(せ)めるかって話をしようじゃねえか、な? なあ五六蔵。 >五六:そ、それじゃあ、こういうことに詳しい梨元の旦那に、段取りを決めて貰うってことにしやしょうよ、ね? >三:梨元の旦那は、淡路屋の太郎兵衛ってのはご存知で? >梨:あ? ああ。知ってるとも、勿論。相当の悪人だ。それがどうかしたのか? >八:梨ちゃんは、なんにも分かっちゃいねえんだな。その人相書きの男を雇(やと)ってるのが太郎兵衛なんじゃねえか。 >梨:何? そ、そこまで突き止めたというのか? >八:あたりきしゃりきのこんこんちきよ。この八兵衛様を誰だと思ってやがるんだ? 内房のご隠居の裏にはだな・・・>熊:止せったら。酔っ払ってやがるのか? ・・・三吉、八の口にその蛸の足でも突っ込んどけ。話が前に進まねえ。 >三:八兄い、はいどうぞ、あーん・・・ >八:お前ぇらな、蛸の足ぐれえでモゴモゲガ・・・ >熊:黙って食ってろ。・・・そんじゃあ、梨元の旦那、段取りの方をお願いいたしやす。 >梨:段取りと言われてもだな、その、なんだ。・・・兎に角、人手(ひとで)を集めて踏み込めば良いのではないのか? >伝蔵:そんなんじゃ片付きやしねえよ。 >梨:なんだと? それに、先ほどからやけに口を挟(はさ)んでおるが、うぬはどこの誰なのだ? >伝蔵:俺かい? 俺は人相書きを書いた絵師じゃねえか。一番手柄(てがら)って、誉(ほ)められたって罰は当たらねえぞ。 >咲:そうよ。あの絵がなかったら今ここで話し合うことだってできなかったんだから。ちょっとくらい礼金を渡したって良いくらいよ。 >梨:そ、そうか。・・・しかし、銭金となると、拙者の一存ではなんとも・・・ >咲:だらしないわね。それでもお侍(さむらい)? >梨:拙者は武士である前に役人であるからして・・・ >咲:ああもう聞いてらんない。後は任したわ、伝蔵さん。 >伝蔵:それじゃあ、続きを話すとしやしょうか。・・・あのですね、捕り方を従えて「御用だ」って行ってみたところで、そいつらが下手人(げしゅにん)だってう証(あかし)がねえんですぜ。 >梨:人相書きがあるではないか。 >伝蔵:まあ、縦(よし)しんば巧くいって、その人相書きの男を捕まえられたとして、その後どうしやす? >梨:全員をお白州に連れて行って泥を吐かせれば良いのではないか? >伝蔵:肝(きも)が小せえこそ泥くらいなら観念するかも知れねえが、相手は百戦錬磨(ひゃくせんれんま)のやくざの親分なんだろ? 知らぬ存ぜぬで通されたらどうするね? あんたの面目(めんぼく)くらいなんてことねえけどよ、お奉行さんの顔を潰すのはどうかと思うぜ。 >梨:そ、そ、それは拙(まず)い。そんなことがあっては拙者の将来も危ういではないか。・・・では、どうせよというのだ? >伝蔵:ちょっとばかし日にちが掛かっちまうが、こういうのはどうだ? 俺が、その淡路屋の近所に隠れてよ、何人かの顔を覚えて絵にする。そんでもって、そいつを瓦版にして太助どんが配りまくる。 >梨:それでどうするというのだ? 自分から捕まりに来るのを待てとでもいうのか? >伝蔵:そんな訳はねえ。勿論、太郎兵衛の方だってお縄になりに来たりなんかしねえだろ? ・・・刻(とき)を稼(かせ)ぐのよ。 >梨:なんのためにだ? >伝蔵:話によると、手引きに使ってるのは元目明かしだって言うじゃねえか。1人は本郷界隈(かいわい)の多作(たさく)って野郎だ。・・・そんでもって、次の狙(ねら)いは神田とか日本橋だっていうじゃねえか。 >梨:だからなんだというのだ? >伝蔵:あんたも血の巡(めぐ)りが悪いねえ。そこいら辺で辞(や)めちまった目明かしとか下っ引きとかがいねえか調べろってことだよ。そのくれえなら1日で分かるだろ? >梨:それで、どうするのだ? >伝蔵:多作と、そいつとに喋(しゃべ)らせるのさ。仮にもお上(かみ)の仕事をしてた奴らだ。喋ったことは信頼できるだろ? 立派な証になるじゃねえか。 >梨:しかし、喋るであろうか? >伝蔵:そりゃああんたたちの腕次第だろう? ・・・それに、1遍寝返ったもんは、もう1遍寝返るもんだって相場は決まってる。そうじゃねえかい? 伝蔵は勝ち誇ったような顔で皆の顔を見回した。こうも自身満々で決め付けられると、そんな気になってくるものだ。 >伝六:あんた凄(すげ)えな。一介(いっかい)の絵師にしとくにゃ惜しいぜ。 >伝蔵:いつも逃げ回ったりしてて、周りにいるのがみんな敵に思えるって、そんな経験あるかい? >伝六:そんなことある訳がない。 >伝蔵:俺にはあるんだよ。・・・そういう暮らしをしてると、どこから足が付くかとか、誰を信じちゃいけねえのかとか、そんなことばっかり考えるようになるのさ。 >伝六:成る程な。太郎兵衛の気持ちになって考えりゃ、一番危ねえのが目明かし上がりの奴らだってことか。 >梨:まるで凶状持(きょうじょうも)ちであるな。 >伝蔵:今の世の中、絵師といったらみんながみんな、似たようなもんじゃねえか。・・・尤(もっと)も、俺はそんなびくびくした暮らしにゃ見切りを付けちまったがな。 >咲:でも伝蔵さん、それって、何日くらい掛かっちゃうの? あんまりのんびりしてたら、また騙(だま)される人が増えちゃう。 >伝蔵:2日もありゃ片付いちまうって。俺を誰だと思ってるんだい? 「箪笥町(たんすまち)の伝蔵」様だぞ。 >八:なんだいそりゃ? そんならおいただって「甚兵衛長屋の八つぁん」だぜ。 >伝蔵:あのなあ・・・。絵師には雅号(がごう)ってもんがあってだな・・・ >八:おいらなんか一晩で5合(ごんごう)くらいなら飲めるぞ。 >伝蔵:そういうもんじゃねえっての。雅号だよ、雅号。 >八:なんだいそりゃ? そんなの食って腹を壊したりしねえか? >伝蔵:食いもんじゃねえってんだ。 >八:そんなら食わねえ方が良いぜ。厠(かわや)に座りっ切りになんかなったら、「臭い仲」じゃなくって「臭い奴」って呼ばれちまうからよ。 >伝蔵:・・・お咲ちゃんよ。お前ぇ、こんな奴らと付き合ってて良く平気でいられるな。 >咲:まあ、言葉は悪いけど「臭い仲」だからね。仕方がないのよ。
2008.02.13
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『杓子定規(しゃくしじょうぎ)』 『杓子定規』昔、杓子の柄は曲がっており、定規の役には立たないことから言われた言葉。1.誤まった基準でものを計ろうとすること。 2.あるものにしか当て嵌(は)まらない規準を、無理に他にも当て嵌めようとすること。一定の基準で全てを律しようとすること。決まり切った考えや形式に囚(とら)われて、融通(ゆうずう)が利かないこと。 例:「杓子定規な処遇」*********八兵衛の楽観は当たらなかった。2日が過ぎようとしているのに、人相書きの男の消息(しょうそく)は、杳(よう)として分からなかった。>八:太助の野郎まで駆り出してるってのに、どうなってやがるんだ?>熊:もうこの辺にはいねえのかなあ?>八:だってよ、本郷の誰とかが騙(だま)くらかされたって、あれは昨日の話だろ? まだ起きてるじゃねえか。>熊:そうだよな・・・>四:あの男は下見(したみ)だけの役だったのかも知れませんよ。>五六:でもよ、そこまで抜かりなくやってるかな? そんなだと、倍の人数が必要になるぞ。>熊:そうだよな。そんな大勢で関わってたら、どっかから襤褸(ぼろ)が出ちまう。そこまではしねえんじゃねえかな。>三:ねえ。お咲ちゃんが、次は日本橋の方に目を付けてるみたいだって言ってましたよね? そっちの方へ回ってるんじゃねえんですか?>五六:成る程。そいつは十分に有り得るな。>八:それじゃあよ、明日っからは、太助に日本橋界隈(かいわい)を歩かせようぜ。>熊:まあ待てよ。もうちょっとだけ待って呉れ。>八:どうしようってんだ?>熊:あんまり気は進まねえんだが、1ヶ所だけ確かめなきゃいけねえとこがあるんだ。>八:そんなこと言ったって、この辺りはあらかた回ってるだろう?>三:そうですよ。虱潰(しらみつぶ)しに当たってるでしょう?>熊:この辺はな。>八:なら、一体どこを当たらせようってんだ?>熊:谷中(やなか)だ。>八:あの辺りは1回も起こってねえんだぞ。そんなとこ回らせたってどうしようもねえんじゃねえのか?>熊:なあ、八。谷中って聞いてなんか思い出さねえか?>八:葉生姜(はしょうが)か? 味噌付けて食うと美味(うま)いよな。>熊:そんな話してる場合じゃねえだろ。>五六:それってもしかすると、淡路屋太郎兵衛のことでやすか?>熊:そうだ。>八:なんだと? あの、お咲坊を勾引(かどわか)したやくざか?>熊:お咲坊の、女の勘(かん)なんだとよ。>五六:しかし、そりゃあ危なっかしいですぜ。まあ、だからこそ、当たりかも知れねえんでやすがね。・・・お咲ちゃんは近付けねえ方が良いんじゃねえですか?>熊:勿論(もちろん)だ。だからって谷中の方は後回しにしてたんだ。日本橋の方へ行かせる前に、一度確かめなきゃななねえ。>八:分かった。太助に頼(たの)んどくよ。お咲坊は連れていかねえようにってな。そして、その結果はすぐに出た。淡路屋の近所の酒屋が、何度も顔を見掛けているということだった。「だるま」に集まって、さてどうしようかという話をしているとき、お咲が現れた。>咲:あたしに内緒(ないしょ)で何をこそこそやってるのよ。>八:べ、別にこそこそなんかしてねえぜ。なあ、熊。>熊:中々見付からねえから、そろそろ日本橋の方まで足を伸ばさなきゃいけねえかなって話し合ってたところだ。>咲:嘘よ。あたし太助さんから聞いたんだもん。やっぱり太郎兵衛だったじゃない。どうして後回しになんかするのよ。真っ直ぐ行ってれば少なくとも1人は騙されなくて済んだのよ。>熊:そう捲(まく)くし立てるなよ。謝るに謝れねえじゃねえか。>咲:あたしが謝って貰っても仕方ないじゃない。要は、1日でも早く太郎兵衛を取っ捕まえることでしょう?>熊:そうだ。だからこうして・・・>咲:そんなんじゃ駄目。話なんかしてたって埒(らち)なんか明きやしないでしょう?>熊:だからって仕様がねえだろう。もうこんな刻限なんだからよ。>咲:どうせそんなことだろうと思って、手を回しておいたわ。>熊:なんだと?>八:お咲坊、一体何をどうしたんだって?>咲:伝六さんに頼んで、お役人を呼んできて貰ってるの。>熊:役人だあ?>八:おいらたちだけで片付けるんじゃねえのか?>咲:そんなことしてたら夏になっちゃうじゃない。今すぐ片付けるのよ。今すぐ。>八:そんなに慌てなくっても・・・>咲:駄目(だめ)よ。八つぁん、身近な人間じゃないから良いだろうなんて考えてるんじゃないでしょうね?>八:そ、そんなことはねえさ。・・・ただ、役人が間に入ったら太郎兵衛の頭をぽかりとできなくなっちまうじゃねえか。やがて、太助と伝六に連れられた同心が入ってきた。名を「梨元又士郎」といった。>梨:梨元又士郎である。このような職人どもの溜まり場に呼び出すとは以(もっ)ての外(ほか)である。>伝六:事情が事情ですから、堪(こら)えてください。>梨:今日限りだぞ。こんなところへ足繁(あししげ)く通(かよ)っているなどと、噂が立っては適(かな)わん。>咲:ご挨拶(あいさつ)ね。鴨太郎さんはそんなこと言わなかったわよ。>梨:なんだこの娘は? それが役人に対して使う言葉か?>咲:言葉使いなんてこの際どうでも良いの。・・・あなた本当に鴨太郎さんの同輩(どうはい)?>梨:失敬(しっけい)な。あんな落ち零(こぼ)れと一緒にするな。禄(ろく)なら桃山の倍(ばい)は取っておる。>咲:禄高の問題じゃないでしょう? 凄腕(すごうで)かどうかってことよ。>伝六:お咲さん。そのくらいにしといた方が・・・>咲:そうね。これくらいで許してあげる。>梨:伝六。な、な、なんなのだこの小娘は?>咲:小娘じゃない。立派な大人(おとな)よ。名前は、杉田咲。あんたなんかよりはよっぽど遣り手よ。>梨:け、け、怪(け)しからん。儂(わし)は帰る。>伝六:お待ちください。咎人(とがにん)が見付かったってのにそれを聞かずに帰るってんですか?>梨:うーむ。>咲:あなたみたいな、やる気のない役人は、机にでもへばり付いてれば良いのよ。>梨:何をー?>熊:まあまあ、梨元様。小娘相手に大人気ないですぜ。ここは一献(いっこん)やって、水に流すとしやしょう。>梨:ほう、お主、少しは話が分かりそうだな。>熊:へい。桃山の旦那には、ちょいとばかし可愛がっていただきやしたんで。>梨:そうか。そういうことなら、少しばかりいただくとするかな。>咲:・・・何よ。結局は手柄が欲しいんじゃない。>梨:何か申したか?>熊:いえいえ。大方、内輪(うちわ)で嫌なことでもあったんでしょう。聞き流してください。>梨:それはそうと、厳(いかめ)しい面々が揃(そろ)っておるな。脛(すね)に疵(きず)を持っていたりはすまいな?>伝六:へい、それはもう、あっしが保証します。至(いた)って真面目な大工たちです。>梨:そうか、大工か。成る程な・・・>八:やい、盆暗(ぼんくら)役人。さっきから聞いてりゃ偉そうに。お前ぇなんか鴨の字の足下へも寄り付けねえ。そんな奴に捕り物の手伝いをされたくねえやい。>梨:なんだと? 捕り物をするのは我々役人であって、大工風情ではないわ。お前たちこそ早々に手を引け。>八:一味の奴を探してきたのは誰だと思ってるんだ? お前ぇじゃねえだろう。>咲:そうよ。人相書きを渡してあるのに、この2日間一体何をやってたの?>梨:伝六。あの人相書きを作ってきたのはこの者たちなのか?>伝六:へい。その通りです。>梨:咎人の居所を掴んできたのもこの者たちなのか?>伝六:へい。正(まさ)に、その通りでやす。旦那も、あんまり無碍に扱わねえ方が良う御座いますよ。>梨:どうしてだ?>伝六:へい。あの、この方たちは、新山(にいやま)様の恩人であって、その、お奉行様とも、ちょっとばかし訳ありの面識が御座います。>梨:な、なんと。うーむ。・・・伝六。>伝六:へ、へい。>梨:どうしてそういうことを真っ先に言わんのだ。とんだ失礼をしてしまったではないか。
2008.02.12
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『釈迦(しゃか)に説法(せっぽう)』『釈迦に説法』[=経(きょう)・心経(しんぎょう)]釈迦に対して仏法を説くように、知り尽くしている人にその事を教えるのは愚行である。類:●河童に水練●孔子に悟道●月夜に提灯本文中の文献の説明:江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき) 黄表紙本。山東京伝作画(北尾政演まさのぶ)。江戸通油町蔦屋重三郎刊。天明5年(1785)。若旦那仇気屋艶二郎が、浮き名を流そう、女にもてようと様々なことを企てるが、元々醜男でもあった上に、通人ぶるところが裏目に出て悉(ことごと)く失敗する。果てには、偽(いつわ)りの心中を図ろうとする。黄表紙の代表作。*********伝蔵の手並みはたいしたものだった。紙は何十枚も費(つい)やしたが、並助が「うん、似てるな」と太鼓判を捺(お)すほどのものが出来上がった。唯(ただ)、紙の隅(すみ)の方に一々蚯蚓(みみず)ののたくったようなものを書き入れるのが玉に瑕(きず)である。>咲:なんなの、それ?>伝:決まってんじゃねえか。花押(かおう)だよ。俺が描いたものだってことを示す印だよ。号(ごう)みたいなもんだな。>咲:なんて読むの?>伝:箪笥町(たんすまち)の箪に伝蔵の伝で、「箪伝(たんでん)」だ。京橋の伝蔵の向こうを張ってるって訳さ。>咲:誰それ? 京橋の伝蔵さんってのは?>伝:知らねえのか? 有名な浮世絵絵師の山東京伝様じゃねえか。>咲:知らない。・・・ねえ、並助さんは知ってた?>並:名前くらいは聞いたことがあるけど・・・>伝:これだから素人(しろうと)は困るってんだ。『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)』ってのは知ってるんだろうな?>咲:それって黄表紙本でしょう? 絵師が描(か)くもんじゃないじゃない。それに、醜男(ぶおとこ)の話なんでしょう? 立派な人とは思えない。>伝:まったく、てんで分かってねえな。艶二郎の顔なんか、まったく憎めねえように愛嬌(あいきょう)十分に描けてるだろう? 並みの腕じゃあこうはいかねえ。ありゃあ、たいした絵師だぜ。>咲:そうなの? まあ良いわ、そういうことにしときましょう。伝蔵さんの腕が確かだってことに免(めん)じて。>伝:なんだよ。話はこれからだってのにもう終(しま)いか? 仕様がねえな。・・・「たん、でん」っと。ほいよ、10枚もありゃあ足りるだろう?>咲:有難う。早速(さっそく)今晩集まらなきゃ。>伝:俺も混ぜて貰って構わねえんだろうな?>咲:勿論(もちろん)よ。伝蔵さんの長屋なら目と鼻の先だから、すぐに分かると思うわ。「だるま」っていう縄暖簾(なわのれん)なの。>伝:おお、あそこか。1遍も入(へえ)ったことはねえが、所は分かるぜ。・・・しかしお前ぇさんは縄暖簾になんか行っても良いのかよ。>咲:子供扱いしないで。あたしもう17よ。飲み屋だろうと番屋だろうと大手を振って出入りできる年でしょう?>伝:17だぞ。そんなのを許す親がいたらお目に掛かりたいもんだぜ。>咲:なんなら会ってみる? しがない傘貼り浪人だけど。>伝:お武家様なのか? ・・・はあ、こいつは魂消(たまげ)た。>咲:時々給仕(きゅうじ)の手伝いをしてあげてるのよ。だから父上も大目に見て呉れてる訳。>伝:なんだそういうことか。そんなら良いや。暮れ6つ(18時頃)で良いのかい?>咲:ええ。待ってるわ。伝蔵と一緒に牛込方向に帰っても良かったのだが、お咲はその足で伝六の長屋へと向かった。鴨太郎が長崎に行ってしまってから、殆(ほとん)ど職にあぶれている状態なのだ。騙(かた)りの一味の人相書きを持っていけば、鴨太郎の同僚が手下として使って呉れるかもしれない。>咲:伝六さん、いるぅ?>伝六:・・・おう、お咲ちゃんじゃねえか。どうしたい?>咲:伝六さん、ちゃんと食べていけてるの?>伝六:ああ、なんとかな。・・・って言っても、塵(ごみ)拾いと変わらねえような半端(はんぱ)仕事だがな。>咲:ねえ、こんなものがあるんだけど、伝六さんの役に立たないかしら?>伝六:どれどれ? ・・・ほう、巧く描けてるな。誰の似顔(にがお)だい?>咲:今世間を騒がしている騙り集団の、一味(いちみ)の顔よ。>伝六:なんだと? それってのは、あのあれか? もし、そうだとしたら、とんでもねえ代物(しろもの)だぞ。>咲:でしょう? だから、伝六さんの稼(かせ)ぎに使えるでしょう? 同心の誰かに見せれば、きっと飛び付く筈よ。>伝六:良いのかい?>咲:良いわ。その代わり・・・>伝六:なんだ。やっぱり注文付きか。>咲:そんな大したことじゃないのよ。・・・あのね、あたしたちがこそこそやっているのを見ないことにして欲しいの。>伝六:まあ、そのくらいなら頼んでやるよ。邪魔してる訳じゃねえんだからな。>咲:お願いね。>伝六:しかし、どうやってこいつを調べたんだ? どこの年寄りも「良く覚えてねえ」としか答えちゃ呉れねえってのによ。>咲:お年寄りに聞くから駄目なのよ。その倅(せがれ)の方に聞くの。>伝六:そんなこと言ったって、当の倅はそいつらに会ってねえじゃねえか。>咲:そこが甘いのよ。夏ごろに下見をしてるみたいなの。なんなら、見掛けたことないかって聞いて回ってみたらどう?>伝六:なーるほど。お咲ちゃんは、ほんとに、下っ引きにしとくには惜しいねえ。>咲:へへ。・・・長年やってる伝六さんに偉そうなこと言ってご免なさいね。出過ぎたことだったわね。>伝六:いやあ、同心の旦那がただって気が付いてねえことだ。>咲:でも、旦那方には、あんまり得意になって話したりしないでね。面子(めんつ)ばっかり気にする人たちだから。>伝六:はは。それこそ大きなお世話だよ。俺だって、伊達(だて)に何十年も役人を相手にしてる訳じゃねえんだぜ。伝六は勇(いさ)んで奉行所へと駆けていった。役人の手が加われば、一味の手掛かりも早めに出てくることだろう。お咲が長屋に戻った頃に、丁度暮れ六つ(18時頃)の鐘がなった。松吉に声を掛けて、半次と共に「だるま」へ来るようにと伝えて、一足(ひとあし)先に長屋を後にした。>八:なんだお咲坊、お前ぇ1人か?>咲:なんなのよ、八つぁん、もう飲み始めちゃってるの? 仕事をやる気あるのかしらねえ。>熊:まあ良いじゃねえか。今日明日に目処が付くほどのもんじゃねえんだからよ。>咲:さあ、どうかしら? このお咲が、今日1日でどれだけ活躍したか、あとでお腹(なか)一杯聞かせてあげるわ。>八:おいらそんなもんじゃ腹一杯にゃならねえぞ。>咲:そう? だけど、暫(しばら)くのあいだは、お腹一杯にはなれないわよ。>八:なんでだ?>咲:太助さんの、おからのお代を払って貰わなきゃならなくなっちゃったの。>八:なんだと? あいつのおからってったら丼(どんぶり)3杯だぞ。いくら持ってたって足りやしねえ。>咲:それと、絵師の伝蔵さんって人のお酒2本分もね。>八:なんだと? 太助の分だって儘(まま)ならねえってのにその上銚子2本分だ? おいらを殺す気か?>熊:まあ仕方がねえじゃねえか。みんなで割ればなんとかなるだろう。>八:割り勘にして呉れるのか? ほんとか? ・・・ああ命拾いしたようだぜ。>熊:大袈裟な。そんなもんじゃ死にやしねえ。そこへ、その太助と伝蔵が連れ立って入ってきた。太助のところで暇(ひま)を潰していたらしい。>伝蔵:よう、お嬢ちゃん。話を聞かせて貰いにきたぜ。>咲:いらっしゃい、伝蔵さん。ここにいるのが、大工の面々よ。>伝:へえ。こりゃ色んなのがいるねえ。ほんとにみんな大工かい?>友:あの、私はまだ1ヶ月なんですが・・・。>伝:ほう、成る程ね。確かにその手は商人の手だな。算盤胼胝(そろばんだこ)でしょ、それは? 察するに、両替商かなんかだな。当たりでしょう?>友:ええ。その通りです。>八:へえ、こりゃあ凄(すげえ)えや。なんでも分かるのかい?>伝:手とか顔とかを見るのが生業(なりわい)みてえなもんですからね。・・・そっちのごついのは百姓(ひゃくしょう)上がりだろ?>五六:まあね。でも、あっしの手は誰がどう見たって鍬(くわ)を持つ手でやしょう? そんなの誰だって言い当てまさぁ。>伝:そりゃあそうだ。あっはっは。・・・まあ、座興(ざきょう)はこのくらいにしてと。・・・絵師の伝蔵ってもんです。太助どんの口利きで関わることになりました。お見知り置きくださいまし。>咲:そてじゃあ、伝蔵さんに描いて貰った人相書きを見せるわね。じゃーん・・・>熊:おお。こりゃあ凄え。そんでもって、また小憎(こに)らしそうな面(つら)をしてやがる。>伝:そいつはご愛嬌(あいきょう)でさぁ。悪さをする奴はこういう面をしてることが多いからそういう風に描いた方が良いんですよ。あんまり似てなくたって、黒子(ほくろ)とか刀傷とかでぴったり見付かるもんですからね。>八:「あんまり似てねえ」だなんて、結構謙遜(けんそん)するじゃねえか。>伝:そうじゃねえんですよ。俺がこの目で見たもんじゃねえんだから、ほんとに似てるかどうかの責は持てねえって、そういう意味でやすよ。>八:なんだ、そういうことか。そんなら、もっと小憎らしそうににやっと笑わせて書きゃあ良いんじゃねえのか?>熊:お前ぇなあ。絵師でもねえんだから、余計なことを言うんじゃねえよ。これはこれで良いの。文句なんか言うな。>八:まあそうだな。これだけでも、それなりに小憎らしそうだもんな。これを持って聞いて回りゃ、あっという間に見付かるに違いねえぜ。なあ?>伝:そうなりゃ嬉しいんですがね。>熊:人手(ひとで)としちゃちょっと心許(こころもと)ねえが、ぼちぼち聞き回るとしようぜ。目立つ印(しるし)のある顔だから、ま、なんとかなるだろう。>八:なら、もう解決したも同じだな。・・・ようし、飲もうぜ、な?>太:あの。おいら、おからを食わして貰っても良いんですよね?>八:良いともよ。この八兵衛様の奢(おご)りだ。豚みてえにがつがつ食って良いぜ。>太:やったあ。・・・お花ちゃーん。お酒5・6本持ってきて。それと、おからを丼一杯。太助は満面の笑みである。一方、四郎は浮かぬ顔である。>八:おい四郎、どうしたんだ? 辛気臭(しんきくせ)え面しやがって。>四:見るからに残忍(ざんにん)そうな顔ですよね。こんなのが何人もいたら、おいらたちの手に負えないんじゃないでしょうか?>八:そうか? おいらなんか、束(たば)になって掛かってきても平気だぞ。千切っては投げ千切っては投げ・・・>熊:お前ぇにそんなことができる訳ねえだろ? 親方じゃあるまいし。>八:そんなら、親方に出張(でば)って貰えば良いじゃねえか。易しいことだろ?
2008.02.11
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『四面楚歌(しめんそか)』『四面楚歌』敵の中に孤立して、味方がいないこと。周囲が敵(または、反対者)ばかりで味方がいないこと。類:●楚歌●孤立無援故事:「史記-項羽本紀」 中国秦代末、楚の項羽が漢の高祖に垓下で包囲されたとき、高祖は深夜、四面の漢軍に楚国の歌を歌わせた。項羽はそれを聞いて、楚の民がもはや多く漢軍に降(くだ)ったのかと驚き嘆いた。人物:項羽(こうう)・項籍 中国、秦末の武将。下相の人。名は籍。字は羽。前232~前202。叔父項梁と共に挙兵し、漢王劉邦と呼応して秦を滅ぼし、西楚の覇王となる。後、劉邦と天下の覇権を争ったが、垓下(がいか)の戦いで大敗し、四面楚歌の中を脱したが、故郷の呉の直前の烏江で自殺した。*********お咲が向かった先は、太助の働き先「野崎屋」である。役者絵を商(あきな)っているのだから、絵師の1人や2人なら斡旋(あっせん)して呉れるだろうと思ってのことである。>咲:ねえ太助さん。・・・太助さんってば。>太助:ん? ああ、お咲ちゃんじゃないか。どうかしたの?>咲:どうかしたじゃないわよ。急いでるのよ。慌(あわ)ててるの。>太:どうして? お昼を食べ忘れたのかい?>咲:違うってば。・・・太助さんといい八つぁんといい、なんであたしの周りには食い意地ばっかり張った人しかいないのかしらね、もう。>太:だって、食いもんってのは大事だぜ。「腹が減っては軍(いくさ)ができぬ」って言うじゃないか。>咲:分かった分かったって。・・・ねえ、助けてよ。人の顔を描(か)くのが巧(うま)い絵師に会わせて欲しいの。>太:連れてけってことかい? おいら、そんなに暇じゃないんだけどな。>咲:なによ、なんにもしてないじゃないの。>太:読売りってのは、力仕事じゃなくって、お頭(つむ)の仕事だからね。>咲:それは逃げ口上(こうじょう)。>太:そりゃあ、近頃の、野崎屋の売り上げが良くないのは本当だよ。でも・・・>咲:分かったわよ。・・・じゃあ、どこに住んでるか教えて。あたしが直(じか)に会いに行くから。のんびり屋の太助の調子に付き合っていたら、日が暮れてしまう。できることなら、説得して、今日の内にでも並助のところへ連れて行きたいほどなのだ。>太:いないよ。>咲:え? どういうこと?>太:顔を描ける絵師なんかいないってこと。>咲:どうしてよ。だって、役者絵を商ってるんでしょう? お抱(かか)えの絵師くらいいるでしょうよ。>太:前はいたんだけどね、今は事情があってね。雲隠れしちゃってるのさ。>咲:不景気で売れなくなったからなの?>太:そのくらいじゃ隠れたりはしないよ。お上(かみ)の取り締まりのせいさ。>咲:そんなに厳しくなっちゃってるの? ・・・困っちゃったな。どうしよう。>太:何をさせようっていうの? 真逆(まさか)お咲ちゃんの似せ絵を描かせて堺屋の若旦那にでも・・・>咲:冗談じゃないわよ。しかし、太助の線が駄目になると、お咲は行き詰まってしまう。お咲はほとほと困ってしまった。お咲の慌てようなどお構いなしで、ねちねちと愚痴(ぐち)を零(こぼ)し始めた。>太:絵師も大変だけど、文士だっておんなじさ。版元だって目を付けられたら縮こまっているしかない。そんなご時勢だから、絵師は闇で絵を描かなきゃならないんだ。>咲:それじゃあ、内緒で描いてる人を知ってるのね?>太:知らない訳じゃないんだけど、教えられないよ。>咲:どうしてよ。>太:お咲きちゃんは聞いたことがないかい? 名の通った絵師なんかは、どこかで見掛けたって役人に届けると、礼金まで出るっていうんだ。「落ち落ち表(おもて)も歩けねえ」って嘆(なげ)いてるよ。>咲:あたしがそんなことすると思う?>太:そうは言ってないさ。でもな、1人が出入りしてると4人が知ることになるだろ。4人が知ってりゃ、16人が知りたがる。16人もいりゃ、その中の1人くらい悪い考えを起こす奴もいるってこと。>咲:そんなこと言ってたら、切りがないじゃない。>太:まあ、疑(うたぐ)り始めたら、誰も信じられなくなっちゃうよね。・・・でも、追い回されてる当人たちにとったらそうも言っていられないんだ。何しろ、捕(つか)まったら手鎖(てぐさり)50日くらいじゃ済まないんだからね。>咲:50日が100日でも良いじゃない。命まで取ろうってんじゃないんだから。>太:筆で食ってるもんにとっちゃ、筆を使えねえってのは命を取られるのとおんなじなんだってさ。>咲:成る程ね。絵師から絵筆を取り上げるのって、大工から鑿(のみ)を取り上げちゃうのと同じだもんね。>太:だからみんな戦々兢々としてるんだ。四方八方に役人がいるんじゃかいかってくらい震え上がっちゃってる。>咲:・・・そう。大変なのね。お咲もついつい同情してしまっていた。しかし、同情したところで始まらない。人相書きをどうにかして作りたいのだ。>太:あ、そうだ。引き受けて呉れそうなのが1人いるな、うん。>咲:ほんと?>太:安孫子(あびこ)先生の挿(さ)し絵とかに時々描いて呉れる人なんだけどね。>咲:あの三文文士の? 大丈夫なの?>太:結構偉い師匠に付いて修行したそうだよ。専(もっぱ)ら滑稽(こっけい)ものを描いてるんだけど、人の顔だって描けると思うよ。>咲:その人は役人に追い回されたりしてないの?>太:今のところ大丈夫みたいだよ。本人は至(いた)って平然としてる。>咲:唯(ただ)の暢気者(のんきもの)なんじゃないの?>太:そうかも知れないなあ。なにしろ変わりもんだから。>咲:この際、変わりもんだろうと暢気もんだろうと構(かま)やしないわ。どこに住んでるか教えて。>太:良いけど。念のため、あんまりあちこち連れ回さないでお呉れよ。>咲:委細承知之助。>太:そう。そんなら教えたげる。ええと・・・。ときに、何をさせるんだっけ?>咲:人相書きを描いて貰うの。今世間を騒がせている騙(かた)りの一味(いちみ)の。>太:倅(せがれ)が誰かを怪我(けが)させちゃったっていう、あれのかい?>咲:そうよ。・・・必ずふん縛(じば)ってやるんだから。>太:なんだ、初めからそれを言って呉れてれば良かったのに。・・・おいらたち読売りの間じゃ、その話が一番のねたなんだ。一番早く分かったことをばら撒(ま)けば、売れること請(う)け合いだな。>咲:協力して呉れるの?>太:うーん。そうさな。「だるま」でおからを食わして呉れるっていうんなら悪くないな。>咲:随分と足下を見るわね。太助さんにとっても人任(まか)せにできることじゃないんでしょう?>太:そう言われちゃうとそうなんだけどさ・・・>咲:分かったわよ。八つぁんたちに頼んでみるわよ。>太:そう来なくっちゃ。太助から教えて貰ったのは、安孫子たちが住んでいる長屋の近くだった。安孫子たちの長屋に負けず劣らず日当たりの悪い襤褸(ぼろ)長屋だった。名前は、「伝蔵」という。>咲:伝蔵先生、いらっしゃいますか?>伝蔵:・・・なんだい、あんたは?>咲:お咲っていいます。野崎屋の太助さんと同じ長屋に住んでる者です。>伝:ああ、あののっぽの。・・・また、瓦版(かわらばん)の挿絵かい?>咲:人相書きを描いて欲しいの。ろはでよ。(※)>伝:なんだって? 人相書きだと? そんなもの番所のもんが拵(こさ)えれば良いじゃねえか。>咲:そんな悠長(ゆうちょう)なことをやってたら、騙(だま)される人が増えちゃうじゃないの。>伝:それって、あんた、倅を助けるために1両出せっていう、あれかい?>咲:そうよ。今日の昼過ぎに騙された倅の並助って人に会ってきたのよ。去年の夏過ぎのことだけど、見掛けたのが一味の1人かも知れないってことなの。>伝:本当か?>咲:それに、多分、目明かしを辞(や)めさせられた多作って人が手引きをしてるんじゃないかって。>伝:ほんとか? そりゃあ凄(すげ)え話だぜ。>咲:だから手伝って。>伝:面白(おもしれ)え。・・・どうせ暇だし、やってみるとすっか。>咲:有難う。お願いします。>伝:しかし、お前ぇさんが1人でそんなことをやってるのかい?>咲:そんな訳ないじゃない。・・・えーと、大工が6人と飾り職に建具職、それに小娘が2人よ。10人ね。・・・あ、それと、太助さんも。>伝:なんだよ。職人とずぶの素人ばっかりじゃねえか。そんなんで悪人をふん縛ろうってのか? そりゃあまるで、田んぼの蛙(かえる)が牛に向かって腹を膨(ふく)らますようなもんじゃねえか。そんなのが寄って集(たか)って何かをしたところで、所詮(しょせん)烏合の衆だぜ。誰も助けちゃ呉れねえどころか、役人から睨(にら)まれちまうんじゃねえか?>咲:大丈夫よ。これまでにいくつも片付けてきてるんだから。>伝:ふうん。・・・その話も聞かして呉れるってんなら引き受けるぜ。>咲:助かるわ。>伝:でも、ろはってのは余(あんま)りじゃねえか? せめて銚子の2本くらいは付けて呉んねえとな。(つづく)---≪HOME≫※時代考証を誤っています。「ロハ」は、明治期から使い初められた言葉ですので、この時期(1804年)にはまだ使われていません。
2008.02.10
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『死馬(しば)の骨を買う』 『死馬の骨を買う』つまらない者をまず優遇すれば、優(すぐ)れた者が自(おの)ずから集まってくる。 例:「死馬の骨を五百金で買う」類:●隗より始めよ参考:「戦国策-燕策上・昭王」 燕のある臣下が、主君の命令で千金を持って名馬を買いに行ったところ、その名馬は既に死んでいたので、その骨を五百金で買って帰った。その話が中国全土に広まり、生きた馬ならもっと高く買って貰えるだろうと各地から名馬が集まった。*********お咲は、松吉の頼みを一も二もなく引き受けた。一番仲良くしていたお夏がいなくなってから、事件らしい事件もなく、少々くさくさしていたところである。被害に遭(あ)ったという本人と話をしてみたいという好奇心も、勿論(もちろん)、あってのことである。要するに、野次馬なのである。>咲:ねえねえ、あたしたちで捕まえることができると思う?>松:そうそう簡単にはいかねえさ。でもよ、なんかの足(た)しにはなるんじゃねえか?>咲:足しじゃ詰まんない。捕まえてやりましょう。ね?>松:そう鼻息ばっかり荒くしていちゃ、巧(うま)く行くこともいかなくなっちまうぞ。>咲:そういうのがあたしたちの遣り方なの。それに、本郷でしょう? 目と鼻の先じゃない。>松:本郷って決まった訳じゃねえさ。・・・でも、豊島(としま)とか谷中とか、なんだかその辺りに固まってるような気もするな。>咲:そうなの? うーん。>松:なんか心当たりでもあるのか?>咲:ちょっとね。谷中の辺りに悪い思い出があるのよね。>松:それって、あれか? あやさんの身代わりになって勾引(かどわか)されたっていう?>咲:そう。淡路屋太郎兵衛。>松:あんときは豪(えら)い騒ぎだったよな。・・・でも、そいつら、近頃はめっきり大人しくなったってことじゃねえか。考え過ぎだよ。>咲:そうかしら? あたしには、あいつらが何年も大人しくしてるって方が信じらんないけど。>松:そりゃあ、お咲坊が酷(ひど)い目に遭ったからだろ? 案外反省して真っ当な人間になったかも知れねえじゃねえか。源五郎親方にどやし付けられて縮み上がってたってんだろ?>咲:子分の権太(ごんた)って奴は全然縮み上がってなんかいなかったわ。それに、あの蛇みたいな目・・・お咲は当時を思い出したのか、ぶるっと身震いした。>松:寒いのかい?>咲:そうじゃないのよ。あの権太って奴の目を思い出しただけで、寒気がするの。一度見たら忘れられない目だわね、悪い意味で。>松:そんなに嫌らしかったのか?>咲:嫌らしさとはちょっと違うのよ。危なっかしさね。ちょっとでも気を抜くと命を取られちゃうような、そんな気にさせるのよ。>松:そりゃあ相当だぜ。もしも、今回の一連の如何様(いかさま)に関わってたら一遍で分かるぜ。>咲:そう軽々しく人前に出たりなんかしないわよ。>松:そうか。それじゃあ、そいつらだなんてことは聞いて回っても分からねえってことだな。>咲:うーん。・・・でもね、最近じゃなくって、1年とか1年半前だったら見回りに来てるかも知れないわよ。>松:そんな昔のことじゃそうがねえぞ。>咲:そうでもないわよ。聞いて回っているうちに「そう言えば・・・」ってことになるかも知んないじゃない。何人かが覚えがあるってことになったら、間違いなく権太たちの仕業(しわざ)よ。>松:分かった分かった。念のために聞いてみるとしよう。・・・だがな、始めっから決め付けることだけは駄目だぜ。違ってたら、とんだ遠回りになっちまうからよ。>咲:分かってるって。こう見えたって、あたしは有能な下っ引(ぴい)きなんだからね。松吉の飾り職仲間というのは、名を並助(なみすけ)という。腕はそれほどじゃないが、寝る間も惜(お)しんで単純作業をこなすので、それなりに貯め込んでいるのだと、松吉は説明した。並助は母親が寝込んでいるので、仕事のほかに家事もやらねければならず、幾分やつれる窶(やつ)れているようだった。>松:並助、ちょいと邪魔(じゃま)するぜ。>並:おお、松つぁんか。良く来て呉れたな。済まんが、茶は自分で煎(い)れて呉れ。>松:もう1人いるんだが、良いかい? 同じ長屋に住んでるお咲坊ってんだ。>咲:咲です。お邪魔します。>並:どうしたんだい、菜々ちゃん以外の娘さんなんか連れちゃって。訳ありかい?>松:そんなことあるかってんだ。間もなく稚児(やや)が生まれようってのによ。>並:そりゃあそうだな。ははは・・・>松:なんだよ。笑い方まで疲れちまってるじゃねえか。しっかりしろよ。>並:おいら、この年になるまでお三どんなんかしたことがなかったからよ。慣れないことってのは時間を食うな。>松:それだけの苦労を掛けてきたってことさ。身に染みたろう?>並:まあな。>松:それでな? 話ってのは、お前ぇがやられた騙(かた)りのことなんだ。>並:もう良い。>松:そうもいかねえだろう。>並:もう良いって。忘れることにしたんだ。>松:そうは言っても、母ちゃんがあんなんじゃ、忘れられやしねえだろう。>並:だが、もう過ぎちまったことだ。取り返しは付かねえ。>松:並助・・・>咲:ねえ並助さん。それじゃあ、あたしに協力して。>並:協力するって、何ができるってんだ?>咲:半年前か、一年前頃に、この辺りを彷徨(うろつ)いてる2人組か3人組を見た覚えがない?>並:なんだってそんなことをおいらに聞くんだい?>咲:いえね、騙されたのってこの辺とか豊島の辺りとか、結構限られた範囲じゃない? 手引きしてる人がいるんじゃないかと思って。この界隈(かいわい)の事情に詳しい人とか。>並:お前ぇさんがそんなこと聞いて、どうしようってんだ?>咲:当たり前のことじゃない。騙される人が1人でも少なくなるようにするんじゃない。できれば、あたしがこの手でお白州(しらす)へ引き摺り出してやるのよ。そう言われて、並助も少しは態度を改めたらしい。二十歳(はたち)にもなっていない小娘に説教されたようなものなのだ。大の大人がいつまでもいじけてばかりもいられない。>並:・・・うーん。ああ。そう言やあ、夏を過ぎた頃だったかな。目明(めあ)かしをやってた多作(たさく)ってのが、地回(じまわ)り風体(ふうてい)の男と一緒にいたことがあったな。>咲:それよ。その男って、蛇みたいに怖い目をした奴じゃなかった?>並:そうじゃなかったが、うーん、顔のどっかにでかい黒子(ほくろ)があったような気がする。>咲:思い出せる? 人相書きにできそう?>並:本人を見りゃあ分かると思うんだけどな。なんてったって半年も前だからな。>咲:それでも良いわ。じゃあ、近々絵心(えごころ)のある人を連れてくるから、手伝ってね。>並:わ、分かった。>松:それで? その多作とかいう目明かしってのは?>並:ああ。梅雨(つゆ)の頃まではそうだったんだが、辞(や)めさせられたんだ。>松:辞めさせられた? それじゃあ、そのときは職なしか?>並:擦れ違いざまに声を掛けて、どうしてるんですかいって聞いたら、「ああ。どうにか食い繋(つな)いでるよ」って言われた。>松:それだけか?>並:そのときはな。後で知り合いから聞いた話じゃ、どこぞの大店(おおだな)に奉公しているらしいってことだ。>松:どこだい、それは?>並:さあ。そこまでは誰も知らなかったんだ。>松:そうか。>並:だがな。こんな話がある。辞めさせられてから、毎晩のように縄暖簾(なわのれん)で飲んだくれてたんだが、ふっつりと来なくなった。聞いたところによると、反吐塗(へどまみ)れの根城(ねじろ)まで来て大枚を置いてった奴らがいたらしい。>松:どういうことだ?>並:近所の奴が多作から聞いた話だぜ。その男たちは「お前ぇさんみてえな立派な目明かしがこんなことじゃ困るだろう。立ち直れるようにしてくださる方がいるが、任(まか)せてみねえか?」って言ったそうなんだ。>松:この不景気な世の中に、そんな気の利いた奴がいるかってんだ。>咲:使い道があったってことよね、そいつらにとっては。>松:そういうことか。元(もと)目明かしなら、誰が年寄りと2人暮らしか分かる。それに、どのくらいの銭を持っていたかも、幾らかは予想が付く。>並:成る程な。そういことか。・・・なんでも、「目明かし仲間で他にも辞めたがってるのがいたら、声を掛けておいて呉れ」とも言ってたそうだ。>咲:目当てはそこね。>並:「できれば、神田とか日本橋とかにも知り合いがいると良いんだがな」なんてことも言われたとよ。>咲:まあ大変。次はもっと大きい騙りをやるつもりよ。・・・急がなきゃ。お咲は「こうしちゃいられない」と言って、絵心のある者を探しに走った。>松:なあ、並助。その多作って奴は、なんで目明かしを辞めさせられたんだ?>並:同心の旦那から振舞い酒をいただいた後に、ほろ酔いで17の町娘の尻を撫(な)でたんだとさ。>松:なんだと? そういうごろつきから守ってやるのが仕事じゃねえのか?>並:魔が差したんだろうよ。>松:うーむ。それくらいで辞めさせられちまうのか。お上の仕事も面倒なもんだな。・・・だがよ、組織的な悪事に手を貸してるってことなら、「魔が差しました」じゃ済まされねえぜ。
2008.02.09
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『死人(しにん)に口(くち)なし』 『死人に口なし』1.死人を証人に立てようとしても不可能なことである。2.死者が抗弁できないのを良いことに、無実の罪を着せる。類:●Dead men tell no tales.<「英⇔日」対照・名言ことわざ辞典>*********遅れてきた松吉も、その話には詳(くわ)しいようだった。>松:本郷の辺りに住んでる飾り職仲間なんだがな、母ちゃんがやられちまったんだとよ。>八:なんだと? そんな身近なとこでも起こってたことなのか?>松:ああ。「こんなことなら小遣い銭を減らしときゃ良かったな」なんて言ってやがったぜ。>八:そりゃあねえだろ。母ちゃんだって、少ないのを切り詰めて貯め込んでたんだろうからよ。>松:まあな。唯(ただ)の憎まれ口だろうがな。・・・それにしても、酷(ひで)えことをしやがる。>熊:飾り職ってのは、お前ぇのとこみてえに長屋でする仕事だろう? そんなのが狙われちまうのか?>松:いくら仕事場がうちだからってったって、月に3遍くらいは出掛けるさ。品物を納めて、次の仕事を貰ってこなきゃならねえ。細工の材料だって買い付けてくるんだぜ。>熊:そりゃそうだ。でも、それってのは、決まった日なのか?>松:俺は決めてねえが、そいつは5の付く日って決めてたんだ。生真面目(きまじめ)な奴でよ。>五六:それじゃあその悪い奴らってのは、それを知ってたってことなのか?>松:そういうこったな。>熊:・・・こりゃあ、2人や3人じゃねえかも知れねえぞ、そいつら。>八:どういうこった?>熊:考えてもみろ。見慣れねえ面(つら)の2人組がしょっちゅう彷徨(うろつ)いてりゃ、みんな警戒するだろ?>八:それで?>熊:何組かが代わり番こに来て見張る。そして、元締めのところに報告するのよ。そんでもって、もしかすると、実際に騙(かた)りをやるのは、別の奴らってことなら、誰も顔を覚えちゃいねえ。>八:はあ、巧妙だな。お前ぇなら、立派な騙りができそうだ。>熊:するか、そんなこと。>友:捕まえたいですね、そいつら。>松:なんだって? あんたがかい?>友:1人じゃ無理ですよ、勿論。でも、許せません。>八:そんじゃあ、決まりだな。>友:何が決まりなんですか?>八:捕まえるのさ。おいらたちで。>友:そんなこと、大工が関わることじゃないですが。>八:良いの。なあ、熊。>熊:そういうこと。師走(しわす)に働き過ぎちまったもんで、身体(からだ)が鈍(なま)っちまったしね。>友:でも、そんなことをしてたら親方に叱(しか)られませんか?>八:叱るも何も、当の親方が大好きなんだもんな、そういうの。>熊:そりゃあ言い過ぎだ。・・・唯ね、仕事に差し障(さわ)りがねえんだったら、駄目とは言わねえ。>五六:二進も三進もいかなくなったら、手を貸してくださるかも知れませんぜ。>三:いっそそういう風になりゃ良いのにな。>四:見てみたいもんですよね、この目で。>友:なんという人たちなんでしょう・・・そこへお花が、大皿に盛られた御田(おでん)を運んできた。大盛りである。ここのところ客の入りが多いもので、機嫌が良いのだろう。八兵衛は、待ってましたとばかり大根にむしゃぶり付いた。源五郎と違って、熱いものは平気なのだ。>八:なあ。お花ちゃんも混ざらねえか?>花:え? なんのことですか?>八:お花ちゃんもちょっとは聞いたことがあんだろう、年寄りを騙(だま)くらかす悪い奴らがいるってよ。>花:ええ。酷(ひど)い話ですよね。>八:おいらたちが、どこの誰だか尻尾を掴まえて、ふん縛(じば)って懲(こ)らしめてやろうってのさ。>花:探し出せるんですか?>八:こんだけ雁首(がんくび)が揃ってりゃなんとでもなるさ。それに、こっちには有能な下っ引きも付いてるしな。>熊:こら、勝手に決めるな。>八:お前ぇが怒ることはねえじゃねえか。それとも何か? お咲坊はお前ぇのナニだとでも言うのか?>熊:な、なんてこと言い出しやがる。おいらは唯、小娘には危な過ぎるって、普通のことを言ってるだけだ。>八:だけどよ、決めるのは本人だろ? 聞いてみなきゃ分からねえじゃねえか。>熊:そんなの、聞く前っから分かり切ったことじゃねえか。>花:・・・あの。お咲ちゃんが混ざるんなら、あたしも混ぜてください。お花はやる気満々である。藤木嘉道(よしみち)・嘉剛(よしたけ)のときで味を占めた感もある。>花:その騙りのことなんですけど、死んじゃった人までいるそうじゃないですか。>八:え? そうなのか、半次?>半:ああ。俺も聞いた。床下にあった壷(つぼ)が空っぽになってたそうだ。1両騙し取るより、全部掻(か)っ浚(さら)っちまった方が手っ取り早いとでも思ったんだろうってことだ。>八:相当貯め込んでたんだな、きっと。>半:近所じゃ「業突く張りの厳兵衛」って呼ばれてたそうだぜ。高利貸しみてえなことをやってたそうだ。>八:そりゃあ罰(ばち)が当たったってことだな。>松:どんな嫌われ者だって、命まで取って良いってことにはならねえだろう。>八:そりゃあそうだ。>半:「1両だって出すもんか」とかって喚(わめ)いたんじゃねえのか?>八:そうかもな。・・・そう考えると、下手(へた)に騒ぐのも考えもんだな。>松:はいそうですかって渡せば良いってのか?>八:そうじゃあねえけどよ・・・>熊:こんな言い方をしちゃいけねえかも知れねえが、生き残ってて呉れた方が、人相書きとかのためには有り難えんだがな。騙し取られた銭だって、取り返せるもんだったら返してやりてえしな。>半:死んじまったもんは取り返しが付かねえぜ。>熊:まったくだ。命あっての物種だな。>半:それじゃあよ、先ず、松つぁんの知り合いのとこ辺りから聞いてみようじゃねえか。>熊:そうだな。・・・案内して呉れるか?>松:まあ待ちなって。母ちゃんもがっかりしちまって寝込んでるっていうし、みんなで押し掛けたりなんかしたら、それこそ死んじまうかも知れねえじゃねえか。おいらが1人で行ってくるよ。>八:1人で大丈夫なのか? うちの四郎でも付けようか?>松:うーん。そうだな。・・・それじゃあ、お咲坊にでも付き合って貰うとするか。>八:なんだと? 四郎じゃ頼りにならねえってのか?>松:そうじゃねえよ。向こうだって、男2人より、有り難かろうと思ってよ。>半:そうだな。近所の手前、あんまり物々しくねえ方が良い。>八:それなら仕方がねえ。・・・ということは、本人の気持ちがどうあろうと、お咲坊を巻き込んじまうってことだな。なあ、熊。>熊:おいらの知ったことじゃねえだろっての。>八:何を照れてやがる。ほんとは嬉しい癖に。>熊:お前ぇなあ、終(しま)いにゃ怒るぞ。熊五郎はぐいと猪口(ちょこ)を呷(あお)り、お花に酒の追加を頼んだ。さっきから遣り取りを大人しく見ていた友助は、冷め始めた半片(はんぺん)を突(つつ)きながら、隣にいる三吉に尋ねた。>友:お咲ちゃんというのは、新年会に来ていたあの娘さんですよね?>三:そうですよ。熊兄い・八兄いと同じ長屋に住んでるんです。>友:熊五郎さんの、許婚(いいなずけ)かなんかなんですか?それを耳にした熊五郎は、思わず、飲んでいた酒を吹き出してしまった。
2008.02.08
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『七歩(しちほ)の才(さい)』 『七歩の才』[=情]詩才が優(すぐ)れていて、詩作が早いこと。故事:「世説新語-文学」 魏の曹操の子・曹植(そうしょく)が、兄の曹丕(そうひ)の「七歩歩く間に詩を作れ。できなければ重罪に処す」と命令され、即座に一詩を作った。★作られた詩「七歩之詩」は、「煮豆燃豆?、豆在釜中泣、本是同根生、相煎何太急」。(豆を煮るに豆殻を燃やす、豆は釜の中に在りて泣く、本は是れ同根に生ぜしに、相煎ること何ぞ太(はなは)だ急なる) →参照:豆を煮るに?を焚く*********暦(こよみ)はもう疾(と)っくに春だというのに、赤城山の方からの風は、益々(ますます)冷たさを増しているように感じる。「豊島の辺りにでっかい建物でも建てて呉れりゃ良いのによ」などと願っても、そんなものは、百年経(た)ってもできやしないだろう。>八:冷えるなあ、熊よ。こんな日は御田(おでん)で熱燗(あつかん)と行きたいねえ。>熊:お前ぇも堪(こら)え性(しょう)がないねえ。そんな風じゃ、友助さんに追い越されちまうぞ。>友:「さん」を付けるのはそろそろ止(や)めて呉れませんか。一番の下っ端(ぱ)なんですから。>八:そうだぞ、熊。幾ら勘が良くって、三吉や四郎より腕が良いってったって、見習いは見習いなんだからよ。>三:八兄い、そういう言い方されちまうと、おいらたちの立つ瀬ってもんがねえですよ。>四:・・・認めるとこは認めちゃいますけど。>熊:だけどよ、親方と同い年ってのはどうも引っ掛かるんだよな。親方に向かって命令を出すのと変わりねえように思えちまうんだよな。>八:あんな鬼瓦と友さんとじゃあ、全然違うだろ?>熊:そういうお前ぇだって「友さん」なんて呼んでんだろ。おいらに言えた義理じゃねえぞ。>八:うん、まあな。三吉みてえにちゃらんぽらんなとこでもありゃあ、気軽に呼べるんだがよ、熊以上に生真面目(きまじめ)ときてる。・・・おいら、そういう種類の人間てのはどうも苦手なんだよな。>友:良く言われます、四角四面って。>八:べ、別に、苦手だからって嫌ってる訳じゃねえんだぜ。>友:分かってますよ。私がもっと馴染(なじ)み易い質(たち)だったら良かったんですけどね、こればっかりは、どうしようもないことですよね。>熊:まあ、焦(あせ)らずにのんびり構えてりゃ、そのうちなんとでもなるだろうよ。五六蔵んときだって、どうなることかと思ったじゃねえか。>八:それもそうか。・・・よし。そういうことなら、早速(さっそく)馴染みになりに行こうぜ。熱い燗酒と温(あった)かいお花ちゃんの待つ「だるま」がおいらを待ってるぜ。>熊:親爺は待ってても、お花ちゃんが待ってるとは思えねえがな。>八:そんなのお前ぇに分かる訳ねえじゃねえか。・・・おいらの勘だと、お花ちゃんはおいらに気があるな。間違いねえ。>熊:勝手に言ってろ。「だるま」に行くと、案外混み始めている。すっかり馴染んで、表情も柔和になったお花を目当てにした客である。中には色目を使うのまでいる。>八:はあ。こりゃあ一体どうなっちまってるんだ? こんなに人が居るのなんか半年振りじゃねえか?>熊:無事に年を越せたからって、余裕ができたんだろ。>八:それにしても凄(すげ)えな。>三:お花ちゃん目当てですよ、みんな。>八:それにしても、なんだって急にそんなことになるんだ?>三:知らねえんですか、八兄い。>八:ん? 何をだ?>四:3、4日前のことですよ。ちんぴらみたいなのが2人現れて、客にちょっかいを出したんです。>五六:お花ちゃんにも絡(から)もうとしたんでやすが、腕を捻(ひね)り上げちまったってんです。>三:そんでもって、「お帰りください」って、叩き出したってんですから、いやはやなんとも。>熊:お前ぇたち、そんなことどうして知ってるんだ?>五六:そりゃあ、女どもの間じゃ評判でやすから。うちのお三千(みち)なんざ、身重じゃなかったら飲みに来てえなんて言ってやす。>四:女房衆も「だるま」になら行っても構わないって、そう言って呉れてるんです。お花ちゃんがどういう娘さんなのか話して聞かせろって言うんです。>八:はあ。こりゃ魂消(たまげ)たね。忙(いそが)しそうに働いているお花が、やっと八兵衛たちのところに来た。「いらっしゃい、皆さん」と言って、ふうと溜め息を吐(つ)いた。>八:豪(えら)いことになってるな、お花ちゃん。>花:昨日からこんな調子なんです。もうくたくた。>熊:流行(はや)ってるんだから、文句ばっかりも言ってられねえな。>八:親爺なんか、ほくほく顔で踏ん反り返ってやがる。>花:そりゃあ、お客様を無下(むげ)にはできませんが、こんな風じゃ、目が回っちゃいます。あたし、お夏ちゃんほど機敏じゃないし。>熊:そんなことはねえさ。お花ちゃんだって、立派にこなしてるよ。>花:そうかしら。・・・でも、どうしてこうなっちゃったんでしょう?>熊:どうしてって、お花ちゃん、お前ぇさんの仕業(しわざ)じゃねえか。>花:あたしの? なんで?>三:ここにいるお客はみんな、お花ちゃんを見たくて来てるの。>四:3、4日前にちんぴらを追っ払ったでしょう?>花:追っ払っただなんて・・・>熊:町中(まちじゅう)で評判なんだとさ。>花:ええっ? まあ嫌だ。あんな端たないこと・・・>八:端たなくなんかねえぞ。悪さをする奴らを懲らしめたんだ。そこいらの男だって尻込みしちまうことだぞ。>友:私も、とっても感激しました。お花さんってのは、立派な方ですね。>花:あの・・・>友:申し遅れました。友助といいます。源五郎親方の下で働き始めて半月になります。>花:まあ。そうでしたの。・・・お花です。まだまだ見習いですけど、宜しくお願いします。>友:見習いなのはこちらも一緒です。兄弟子の皆さんと一緒に、また寄らせていただきます。>八:兄弟子だとよ。なんだか、こそばゆいな。>熊:大工仕事ではそうでも、生きてきた年季は違うからって言ってるんだけどよ、生真面目な人だから。>花:確かに、落ち着いてらっしゃいますものね。どんなことをしてらしたんですか?>友:両替商で働いてたんですが、馘(くび)になりました。>花:まあ。>友:でも、良いところで雇(やと)って貰って、私は幸せ者です。>花:そうですか。自分に合った仕事って、見付かりそうで見付かりませんものね。・・・でも、やっているうちに楽しくなってきたりするのも事実ですよね。あたしなんか、今じゃ、ここでの仕事が天職なんじゃないかって思い始めちゃってるんですよ。「一先ずお銚子6本持ってきますね」と言って、お花は奥へ入っていった。その後ろ姿を見送っていた八兵衛に声を掛けてきた者がいる。半次である。>半:よう、八公。鼻の下が伸びて、土間まで届きそうだぜ。>八:な、なんだよ、半次じゃねえか。お前ぇ、なんでこんなとこに来てやがるんだ?>半:そりゃあ、噂のお花ちゃんを見に来たに決まってんじゃねえか。>熊:お八重ちゃんとまた喧嘩でもしたのか?>半:とんでもねえ。偶には外で飲みたいでしょうって、あっちの方から出さして呉れたぜ。>熊:ははあ。お八重ちゃんも、野次馬根性ってやつか?>半:まあな。ご多分に洩れずって奴だ。・・・中々良さそうな娘じゃねえか。客の名前を立ち所に覚えちまうっていう、お夏ちゃんの芸当には負けるがな。>八:芸じゃねえだろ、才能って言って呉れ。・・・でも凄えだろ。ちんぴらを遣(や)っ付けちまうんだぜ。>半:そうは見えねえがな。>八:ちょっと見には分からねえから凄えんじゃねえか。そうだろ、半次?>半:・・・ははあ。相当参ってやがるな、こいつ。>熊:いつものことだろ?>半:それもそうだ。>熊:・・・独りなのか? こっちに混ざらねえか?>半:いや、いい。後から松つぁんが来るからよ。「ほんのちょっとだぞ」なんてほざいてやがったがな。>熊:松吉んとこも、菜々ちゃんに強請(ねだ)られた口か? まったく、女どもときたら・・・>半:なあ。それはそうと、そのちんぴらっての、近頃やけに見掛けねえか?>五六:良いとこに気付いたな、半公。俺もちょいと気に掛かってたんだ。>半:流石(さすが)は元ちんぴらだな。>五六:それを言うなっての。>四:今世間を騒がしている、なんとかいう如何様(いかさま)と、繋(つな)がりがあるんじゃないかと思うんですが、どうでしょう?>半:それって、年寄りばっかり相手にしてるっていうあれか?>四:ええ。お年寄りは、自分だけが我慢すれば良いって、訴(うった)えて出ないそうですから、結構な人が泣き寝入りしているようですよ。>半:可哀想にな。>八:ちょ、ちょっと待てよ半次。なんの話だい、そいつは?>半:なんだお前ぇ、そんなのも知らねえのか?>八:知らねえから聞いてるんじゃねえか。>半:お前ぇら一体何を考えながら生きてるんだ? あのなあ、こういうことらしいんだ。・・・爺さんか婆さんが独りで留守番してるとこへ2人連れの男がやってきて、「あなたの倅(せがれ)が人様に怪我(けが)をさせて、番屋に来ている。相手は大店の手代だが、商売柄ことを荒立てたくない。治療代と幾ばくかの銭を渡せば不問にする」って、真(まこと)しやかに宣(のたま)う訳だ。・・・どうだ? 爺さん婆さんは信じちまうだろう?>八:そりゃあ大変だもんな。番屋から返して貰えなかったら、ご近所様に合わせる顔がなくなっちまう。>半:見栄(みえ)や外聞(がいぶん)だけじゃねえよ。喧嘩したとなりゃ、倅は無事なのか気になるのが親ってもんだろ?>八:でも、そんなら慌てて番屋へ駆け込みゃあ良いじゃねえか。>半:年寄りが駆けたら心の臓に悪いだろう? 誰もそんなことは言い出さねえ。>八:巧いことを考える。・・・頭の良い奴はいるもんだねえ。そいつきっと、俳句とか川柳なんかは、ちょちょいのちょいで作っちまうんだぜ、きっと。>熊:感心してる場合か?>八:しかしよ、幾らくらい払えって言うんだ?>半:1両(約8万円)。>八:1両だと? 爺婆がそんなに持ってるかよ。>半:それがよ、案外 臍繰(へそく)ってるもんなのさ。>八:へーえ。おいらそっちの方が魂消たぞ。
2008.02.07
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『士族(しぞく)の商法(しょうほう)』 『士族の商法』明治維新後、士族となった旧武士が生活のために、慣れない事業を起こして失敗したことを指す。適任でもない人が商売などをして、失敗が目に見えていること。蛇足:古典落語「士族の商法」は、三遊亭圓朝の作とされ、「御膳汁粉(ごぜんじるこ)」・「素人汁粉」などとも呼ばれる。*********翌日の昼どき、八兵衛と三吉が「一黒屋」を覗いてみると、与志兵衛が数次に仕事の手解(てほど)きをしていた。見るからに付きっ切りのようで、ともすると、客の応対など二の次といった風情(ふぜい)である。>八:ご隠居、さん。>与志:お? ・・・おう、八つぁん。そんなところに突っ立ってないで、お入りなさいな。>八:昨夜(ゆうべ)はどうもご馳走(ちそう)様でした。鮟鱇(あんこう)の肝(きも)ってのは美味いもんでやすねえ。>与志:そうでしょう? 摩(す)り下ろして鍋物の汁に混ぜても美味しいんですよ。>八:うっひょう、美味(うま)そうっ。今度やりましょうよ、ね?>与志:そうですね。そのときは、与太郎どんか太助どんに言付(ことづ)けますよ、必ず。はっはは。>八:そいつぁあ楽しみですね。きっとですぜ。・・・それはそうと、数次さんの具合いはどうです?>与志:そりゃあもう、算盤(そろばん)に関しちゃ、あたしなんかよりよっぽど達者ですよ。流石(さすが)に「両毛屋」さんです。ようく仕込まれてます。もう、天下一品です。>八:そりゃあ良かった。それを聞いて、仲立ちしたおいらの咽喉(のど)の支(つか)えも下りるってもんでやすよ。>与志:そうまで親身になってくれてたんですか、八つぁん。>八:当たり前じゃねえですか。こっちだって、与太郎や太助が世話になってるんでやすからね。>与志:世話だなんて滅相(めっそう)もない。それに、与太郎どんには違った意味で、商売の面白さを教わりましたしね。・・・感謝していますよ、与太郎どんのことも、数次さんのことも。>八:感謝なんかしねえでくださいよ。いつもいつも美味いもんを食わして貰って、折角(せっかく)稼(かせ)いだ銭を、余計に使わせちまってるんですから。謝(あやま)りたいくらいでさあ。>与志:あたしは好きでそんなことをしている訳ですからね、気にしなさんな。八つぁんらしくないですよ。>八:そうですか? それじゃあ、お言葉に甘えさせていただきますよ。・・・あのですね、今なんどきですか?>三:八兄い、「刻(とき)うどん」(※)じゃねえんですから。それじゃあまるで、集(たか)りにきたみたいじゃねえですか。>八:仕方ねえだろ。咽喉の支えが取れたら、腹の具合いまで良くなっちまったんだからよ。>与志:あっはっは。面白い人ですね、八つぁんは。それでは、お昼ご飯にしましょう。>数:あの、お客様のことはどうなさるんですか?>与志:留吉に任せといても大丈夫ですよ。>数:ですが・・・>与志:あのね、数次さん。呉服ものを買おうというお客様はだね、主(あるじ)がいないくらいの方が喜ぶのですよ。小僧さん1人なら、男どもの目を気にせずに、あれこれを手に取れるでしょう?>数:はあ。>与志:そういうことは、追々時を掛けて教えてあげますよ。月日はたっぷりありますからね。与志兵衛は小僧の留吉に留守番を任せて、3人を裏手の「さち」に案内した。昼時を少し過ぎていたお陰で、最後の2人組との入れ違いになった。>さち:まあ、こちらで召し上がるんですか? それに・・・>与志:済まないねえ。いつも勝手を言って。5人分は残っていないかい?>さち:真逆(まさか)。いくら小さい店だからって、不意のお客の準備くらいできてますよ。>八:5人分じゃなくって、4人分でやしょう、ご隠居様。それとも、おいらに2人前食わして呉れるってんですかい?>与志:さちの分を入れて5人前ということですよ。>八:あ、そうでやしたか。こりゃまた、端(はし)たないことで。>与志:それだけ食い気があれば立派なもんです。・・・いつもはね、こっちのお客が片付いた後に、隠居所で一緒に食べるようにしているんですよ。>さち:今日から3人前になったから、うちの売り上げも1人分増えましたよ。これであたしんとこも安泰(あんたい)だわ。>与志:手間は増えるがね。>さち:なあに。我儘(わがまま)な誰かさん1人に比べたら10分の1増えるくらいのもんですよ。>与志:はっは。違いない。さちは、先ほどの2人組が食べ終えた器を片付けながら、ふうと溜め息を吐(つ)いた。>与志:どうかしたのかい?>さち:この先にね、似たような料理茶屋ができたんですよ。大方、貴方のとこのお客を当て込んでのことでしょうけど。>与志:それは厄介(やっかい)ですね。>さち:いえね、お客を取られるとか、そういうことで困ってるんじゃないんですよ。>八:どういうことなんでやすか? おいらにも分かるように話してくださいよ。事と次第によっちゃ捻じ込んできますから。>さち:さっきのお客さんの話では、つい先日まで大店(おおだな)で働いてた人らしいんですって。>八:へえ、そいつは変わってるな。>数:どこもかしこもなんですねえ。人ごとじゃないですよ。>与志:客商売をしていた人なら、切り盛りもさぞかし巧いんでしょうね。>さち:それが、そうでもないらしいのよ。やけに横柄(おうへい)で、「こっちは食わせてやってるんだぞ」みたいな顔で客あしらいするんですって。>八:そりゃあ駄目だな。店を開いたばっかりなんだろ? そんなんじゃ、馴染み客なんか付きゃしないんじゃねえか?>与志:腕に自身があるんじゃないのかい?>さち:美味しいなら少々のことは我慢しますよ。・・・それがね、女将(おかみ)さんっていう人が、どうやら、奥様じゃないらしいのよ。それが、なんというのか、ちょっと擦(す)れているというか・・・>八:なんだよ。いいとこなんかつもねえじゃねえか。>数:もしや、その主の名前は「哲蔵」と言いませんでしたか?>さち:おや、数さん、どうしてそれを?>数:「両毛屋」の倅(せがれ)ですよ、つい先(せん)だって辞(や)めさせられた。>八:真逆。選りにも選ってなんでまたこんなとこに。>数:身請(みう)けした女に店を持たせるんだって息巻いてたことがあるんです。良い出物があったと言っていたのが先月でしたから、時期的にも丁度合います。>八:はあ、魂消(たまげ)たね。>数:呉服商の「一黒屋」さんの近くなら、お店の者たちと出くわす気遣いもありませんし、それに、さっきさちさんが言ったように、「一黒屋」さんの客を当てにできる。>与志:それで、その哲蔵さんには包丁の嗜(たしな)みがあるのですか?>数:道楽程度ですよ。どうせ店を継ぐものと思ってますから、真面目に料理なんかする訳がありません。それに、ああいう質(たち)じゃ、客あしらいだって巧い筈がありません。>八:そんなら、どうせ長続きしねえんでしょう? そんなら構うことはねえじゃねえですか。>さち:「一黒屋」さんにお出でになったお客様たちが、そこと一緒くたに「一黒屋」さんを嫌っちゃうんじゃないかと思うと、なんだか悔しいんです。>数:それは有り得ます。「安かろう悪かろうだよ」くらいのことを平気で言うお人ですからね。私が勤め始めたと聞いたら、あらぬことを吹聴(ふいちょう)し兼ねません。>八:うーん。参ったね。・・・どうしやす、ご隠居様。>与志:放っておきましょう。>八:でも、困りゃしませんか?>与志:さちの心配は有り難いんだが、元々儲(もう)けを期待している訳ではありませんからね。・・・それに、そんなことなら、ほんの一時のことです。あたしたちが誠心誠意で応対すれば、やがて逃げていったお客様も戻ってきてくださいますよ。>数:迷惑を掛けることになるかも知れません。>与志:良いんですよ。家の者が蒙(こうむ)る迷惑なら、一緒に立ち向かって参りましょう。>数:旦那様・・・>与志:実を言うと、そういうことって、あたしは嫌いじゃないんですよ。なんかこう、「家族」っていう感慨があるでしょう? あたしは長年、そういうものが欲しかったんですよ。八兵衛が与太郎から聞いた話では、その後何日も経たないうちに哲蔵が「一黒屋」を訪れるようになったという。その度(たび)に客の何人かはこそこそと逃げるように帰ってしまうのだということだったが、与志兵衛は一切気にせず、数次に商売の手解きを続けているという。>八:はあ。大したご隠居さんだな。いっそのこと、おいらが養子になっときゃ良かったぜ。>熊:何を今更。お前ぇが呉服商なんかできる訳ねえだろ。>八:分からねえぞ。こう見えて人の女房には受けが良いんだから。>熊:人様のものになる前の娘にはさっぱりだけどな。>八:なにをーっ?>与太郎:まあまあ。喧嘩はそれくらいにしてくださいよ。折角のお酒が不味くなっちゃいます。・・・それに、そういう風にかっかし易い人には、客商売はできませんよ。>熊:な? そうだろ? お前ぇみてえなのが客商売なんかやったら、客なんかみんな逃げちまう。>八:言っとくがな、その哲蔵とかいう馬鹿息子よりは増しだぞ。少なくとも、逆恨みみてえなことはしねえ。>熊:そうだな。熱くなり易いが、冷めるのも早いもんな。>八:おうよ。八兵衛さんは、古くなった里芋みてえにねちねちしやしねえ。ここの煮っ転がしみてえにはよ。>亭主:なんだと、八公。手前ぇ、俺にまで喧嘩を売ろうってのか?>八:悔しかったらな、さちさんとこくらい気の利いた料理を出してみろってんだ。>亭主:食ったことがねえもんなんか出せるか。・・・おい、お花ちゃん。摘(つま)み出して塩撒いといて呉れ。>花:駄目ですよ、親爺さん。今夜は寒くって客足が遠いんですから、八兵衛さんたちを帰したら、残った里芋がもっと古くなっちゃうじゃありませんか。>八:いよっ、お花ちゃん。話が分かるねえ。仕方がねえ、お花ちゃんの顔を立てて、古くなった里芋を片付けてやる。>花:はーい。毎度有りぃ。>八:どうだ親爺? こうやって、どうにかこうにか来年の餅が搗(つ)けるのも、おいらのお陰だろ? 感謝しろよ。>亭主:てやんでえ。餅を丸めて呉れる女房を貰ってから言いやがれってんだ。※お詫び:多分、時代考証を誤っています。「江戸時代の中期以降に上方で「刻うどん」として咄されていて、それがだんだん熟成されていった咄を、三代目柳家小さん師匠が「時そば」として東京で咄したのがはじまりだという。」を照らせば、この時代(1804)の江戸では、「刻うどん」は一般的でなかったと思われます。
2008.02.05
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昨日の大雪 本当びっくりしちゃうねでも今日の朝のほうが大変だな と言うわけでさー今日も行ってみようー -------------------------------『死児(しじ)の齢(よわい)を数(かぞ)える』 『死児の齢を数える』死んだ子が生きていたら今ごろは何歳になっていると嘆(なげ)くように、過ぎ去ってどうにもならないことに愚痴を零(こぼ)すこと。類:●死んだ子の歳勘定*********「一黒屋」の隠居所に集まることになったと聞かされて、熊五郎は源五郎に噛み付いた。>熊:この状況を見てくださいよ。そんな暇があるんだったら、材木の1本も運んでください。>源:まあそう熱くなるなって。八の野郎は小躍りして喜んでたぞ。なあ熊よ、いくら忙しいってったって、夜の息抜きもできねえほどじゃねえだろう。>熊:そりゃあ、滅(め)り張りってのも肝心なんでしょうが、ここは1人でやってるんですぜ。益々遅れちまうじゃないですか。>源:そのことなら大丈夫だ。八たちんとこも五六蔵たちんとこも、似たり寄ったりだからよ。>熊:なんですって? あいつら手を抜いてやがるんでやすか?>源:そうじゃねえよ。それなりにちゃんと仕上がってるさ。>熊:それにしたって・・・。>源:まあ、お前ぇの働きはあいつら2人分だってことは分かったよ。>熊:そんなこと分かって貰ったって、仕方がないじゃねえですか。>源:そうでもねえさ。明日っからはちゃんと手伝ってやる。それに、友助も付けてやるぞ。どうだ?>熊:本当でやすか? 本当に、明日からは来て呉れるんですね?>源:おおともよ。男に二言はねえ。>熊:そういうことなら、喜んで伺いましょう。・・・さて、そうと決まったら、今日のうちに独り仕事はやっ付けちまうとしますか。>源:お前ぇはそういう風だから助かるぜ。八の野郎は、ちょいと目を離すと、手より口の方が忙(せわ)しくなりやがる。源五郎と友助は、五六蔵たちの現場へと向かった。進み具合いとしては一番なのだが、出来栄えはというと、決して誉められたものではない。>五六:親方ぁ、来てくだすったんでやすか?>源:ああ。予定より遅くなっちまったがな。>五六:なんかあったんですかい?>源:ちょいとな。細かいことは後で話すとして、お前ぇたち、今夜は帰りが遅くなっても構わねえか?>五六:へい。構(かま)やしませんが・・・>源:身重(みおも)の嫁を抱えてるとこ済まねえんだが、ちょいとばかし飲みの席に付き合って呉れ。>五六:親方の命令とあれば、一も二もなく従いまさぁ。なあ、四郎。>四:偶(たま)には息抜きさせて貰わないと持ちませんから。>源:お前ぇも言うようになったな。>四:それほどでも・・・>五六:それで親方、もしかして、八兄いの話でやすか?>源:まあ、似たようなもんだが、友助じゃあねえ。そこんとこが大きな違いだな。>五六:そうでやすか。ちょっと、ほっとしやした。>源:そうか。・・・今日はそんな訳だから、早めに上がってこい。>五六:承知しやした。それから友助は「両毛屋」へと向かい、数次にことの顛末(てんまつ)を語って聞かせた。数次の働き先が決まったと漏れ聞いた番頭は、諸手(もろて)を上げて大喜びし、「それで、どこに決まったのかね」と尋ねた。>友:「一黒屋」さんです。>番頭:なんですって? あの「一黒屋」さんなのかい?>友:そうです。あの、評判の「一黒屋」さんです。喜んでやってください。>番:そ、そうか。そうだな。番頭は慌てて両毛屋善蔵のところへ行き、お伺(うかが)いを立てた。「幸(さいわ)い、呉服商には取引がない。仕方がなかろう」という答えを得た。「しかし・・・」という番頭の言葉は、尻すぼみのまま消えた。>善蔵:条件の良いところへ行って呉れるのなら、それに越したことはない。喜んであげようじゃないか。>番:数次との縁を伝手(つて)に、取引をお願いするということはできませんか?>善:確かに、「一黒屋」さんは伸びているお店(たな)だ。誰が見たって頷(うなず)くだろう。咽喉(のど)から手が出るほどではある。>番:当たってみる価値はあるのじゃないですか?>善:しかし。もう遅いのだよ。うちは呉服商と関わりを持たない。・・・これが儂(わし)の出した結論だ。今更覆(くつがえ)す訳にはいかない。>番:今は形(なり)振りに構っているときではないのですよ。>善:そういうことではない。もし掌(てのひら)を返すようなことをしてみなさい。手を差し伸べて呉れている同業の皆さんに嘘を吐くことになる。今、あの人たちにそっぽを向かれたら、一溜まりもない。>番:「一黒屋」さんから多めに預けていただければ、持ち堪(こた)えることもできます。>善:仮にそうだとしても、儂の心が許さない。一度決めてしまったことは変えない方が良いのだ。>番:そうですか・・・>善:数次には、何も言わず、温(あたた)かく見送るとしよう。それに、良い話を持ってきて呉れた友助にも、懇(ねんご)ろに礼を言っておいてお呉れ。両毛屋善蔵は、肩で大きく溜め息を吐いた。友助と数次の2人の、将来の目処(めど)が付いただけでも、気が休まる。それにしても、返す返す悔やまれるのは、去っていくときの我が子の、あの目である。暮れ6つ(18時頃)、一黒屋与志兵衛は、最近になく浮き浮きしていた。2・3残っていた客にもお引き取り願い、早々に暖簾(のれん)を下ろした。裏手にある料理茶屋の女将(おかみ)・さちも駆り出されて、宴会の準備が整えられていた。源五郎一行は、途中で友助たちと落ち合い、総勢8人で押し掛けた。>八:うっひょう。こりゃあ、いつにも況(ま)して凄(すげ)えですね、ご隠居様。>与志:あたしとしましても久し振りなもので、ちょいと気張ってしまいました。そちらが数次さんですか?>友:何分(なにぶん)にも不束(ふつつか)者で御座いますが、ご面倒の程、宜しくお願い致します。>数:数次で御座います。粗忽(そこつ)ながら、お引き立てくださいませ。>与志:そんな堅苦しい挨拶は抜き抜き。ささ、皆さんも、車座(くるまざ)になってください。>八:いっただきまーす。>源:慌てるな、八。数次さんがどういう人なのかもうちょっと喋って貰わねえと、ご隠居様だって安心して雇(やと)えねえだろ。>与志:良いんですよ、親方。飲みっ振りを見ていれば大方は分かります。緊張していては、却(かえ)って飾ってしまって、分からなくなってしまいます。>八:流石(さすが)ご隠居、年の功だね。目が肥えてる人の言うことは違うね、ほんとに。>与志:八つぁんは酒が入ってなくても同じだから良いですね。>八:そうでしょう? おいらくらい裏表のねえ奴もそうはいねえですからね。>熊:単純なだけだろ。>与志:友助さんと数次さんは、行ける口ですか?>友:そこそこにはお付き合いできます。>数:酒が強いのだけは、親譲りでして、そっちで失敗したことは御座いません。>与志:ほう。そいつは頼もしい。>数:意地汚さまで受け継いでしまいまして、甚(はなは)だ下品な者ではありますが。>与志:酒飲みはそのくらいの方が良い。酒の席は無礼講(ぶれいこう)、たくさん飲み食いした方が勝ちですからね。>八:そうこなくっちゃ。そんじゃ、ご隠居様。もう良いですかい?>与志:まあまあ。そう慌てなさんな、八つぁん。ものには順序というものがありますからね。>八:ここにきてまだお預けですか? ・・・しょうがねえなあ、そんじゃ、早速(さっそく)能書きを垂れてくださいやし。>与志:はっは。慣れたもんですね、八つぁんは。・・・それでは、今日のお酒から説明させていただきましょうか。・・・与志兵衛が、酒の銘柄や刺身の産地などについて滔々(とうとう)と話し始める。いかにも至上の一時といった風情(ふぜい)である。その間、八兵衛は目の前のお造りの皿を見詰めて、生唾(なまつば)ばかり飲み込んでいた。>与志:長々と済みませんでしたね。・・・数次さんや、隠居はこういう親爺(おやじ)です。1日も早く馴染んでくださいね。>数:こちらこそ、小間使い同然にびしびしやってくださいませ。>与志:とんでもない。そんなことしますか。>数:と、申しますと?>与志:そう遠くない将来に、倅(せがれ)として入っていただきます。>数:そ、そんな大それたこと・・・>与志:そんな大仰(おおぎょう)なことじゃありませんよ。あたしも、早々に隠居したいのです。あらかた仕事を理解して貰ったら、お店(たな)の切り盛りを任せます。>数:そんな、私みたいなどこの馬の骨とも分からぬ者を・・・>与志:そんなことはありませんよ。現に、こちらの源五郎親方と、友助さんが後見(うしろみ)役になってくだすっています。あたしには、それで十分です。必要でしたら、ちゃんと、然(しか)るべきお嫁さんもご紹介します。>八:ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいよ、ご隠居。おいらには嫁は宛がって呉れねえんでやすか?>与志:八つぁんはあたしんとこの養子の話を断わったじゃないですか。そんな義理はありません。>八:そう言わずに、ね、ご隠居。頼みますよ。>与志:駄目ですよ。それとも、もう一度考えますか、養子の話?>八:そいつは困りやすが、でも、ねえご隠居、後生(ごしょう)だから・・・>源:見苦しいぞ、八。嫁くらい手前ぇで探しやがれ。>与志:そうですよ。源五郎親方のように、お綺麗なお嫁さんを探すことです。>八:だって、うちの親方なんざ、向こうの方から来て呉れたなんていう、物凄く珍しい相手なんですからね。そんなことそう何遍もある訳ないでしょう?>源:手前ぇ、喧嘩を売ってやがるのか? 俺の下にいたくねえってんなら、とっとと帰りやがれ。>八:そりゃあねえですよ、親方。嫁の話は当分しませんから、このご馳走をおいらから取り上げるのだけは勘弁してくださいよ。
2008.02.04
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『獅子身中(しんちゅう)の虫(むし)』 『獅子身中の虫』1.獅子の体内にいる虫が、その寄生している獅子の肉を食って、終(つい)には倒してしまうということ。2.仏徒でありながら仏教に害を為す者のこと。転じて、味方でありながら内部から禍(わざわい)を齎(もたら)すこと。恩を受けた者に仇(あだ)で報いること。類:●人は近親によってのみ裏切られる出典:「梵網経-下」・「仁王経-嘱第八」 「如師子身中蟲、自食師子肉」出典1:梵網経(ぼんもうきょう) 経典。2巻。鳩摩羅什(くまらじゅう)の漢訳と伝えられる。特に下巻は大乗菩薩戒の根本聖典で、菩薩戒としては下巻だけを用い、直接戒を説く部分は戒本とされる。出典2:仁王般若経(にんのうはんにゃきょう) 大乗仏教の経典。2巻。後秦の鳩摩羅什訳の「仁王般若波羅蜜経」と唐の不空訳の「仁王護国般若波羅蜜多経」とがある。この経を受持することによって、災害を祓い、福を齎すと信じられ、法華経・金光明経とともに護国三部経として尊ばれた。「仁王経」。*********八兵衛は、友助を「一黒屋」に斡旋(あっせん)するという計画を諦(あきら)めてはいなかった。源五郎と友助が見回りに来たとき、2人にしつこく食い下がった。>八:ねえ親方ぁ、試(ため)しに話だけでもしてみません?>源:駄目だ。一旦引き受けたからには、そんな好い加減なことはできねえ。>八:それはそうでしょうが、元々銭勘定で食ってた人なんだから、そっちの方が合ってる筈でしょう?>源:そりゃあなんだ、この年からじゃ大工仕事は無理だってことか?>八:そ、そんなことを言ってる訳じゃねえですよ。大変だとは思いやすが。>源:言ってるじゃねえか。・・・少しは腕に覚えがあるそうだし、あながち捨てたもんじゃねえかも知れねえぞ。>八:幾ら覚えがあるったって、素人(しろうと)と玄人(くろうと)じゃ、まったく違いまさあ。・・・なあ、三吉?>三:へ? そいつは、おいらがまだまだ半人前だってことですかい?>八:そうだよ。その通りじゃねえか。>三:そいつはあんまりだ。>源:玄人ったって、八だって熊だって、まだまだ一人前とは呼べねえんだ。そういう意味じゃ、騒ぐほどのことでもねえだろ。>八:そりゃあねえですよ、親方。・・・まあ、そこんとこはこれ以上言ったって埒も明きませんから、ちょいと、ご当人の友助さんの考えってやつも聞いてみましょうよ。>源:そうか? まあ良かろう。・・・どうなんだ、友助。>友:両替商という仕事柄、お店(たな)への職替わりは、あんまり好ましいことではないんです。>源:ほれ見ろ。>友:唯(ただ)・・・>八:唯、なんなんだい?>友:私がおりました「両毛屋」はちょっと特別でして、呉服ものに関わるお店(たな)とは一切(いっさい)お付き合いをしていないのです。>八:そんなことってあるんか?>友:以前、お預かりしてる金銭を増やそうとして、綿(わた)相場に手を出したことがあるのですが、悉(ことごと)く裏目に出て、危うく潰(つぶ)れるところだったのだそうです。>八:よっぽど勘が悪いか、然(さ)もなきゃ、騙(だま)され易いんだな、両毛屋ってのは。>友:それが、やらかしたの旦那様ではなかったのです。>八:そんじゃあ、誰だってんだい? 半端なもんじゃ、銭も自由にならねえだろ?>友:はあ、そうです。懐刀(ふところがたな)の第2番頭さんだったのです。あのときは旦那様も流石(さすが)に気落ちしていらっしゃいました。>八:へえ。そんなことがあったのかい。・・・ってことはだ、呉服問屋の「一黒屋」ならなんの問題もねえってことだよな?>友:それはまあ、そうではありますが、やっぱり・・・>八:嫌なのかい?>友:ええ。もう、銭金の勘定には疲れました。毎日百とか阡(せん)とかという数ばかり見ていて、山と詰まれた金や銀が目の前を動いているのに、なんの感慨も湧かないなんて、人じゃありません。>八:へえ。そういうもんかね。おいらには全然ぴんと来ねえけどな。>源:もう分かっただろう、八? 往生際を良くしろ。>八:あーあ、おいらの鯛や平目(ひらめ)も水の泡か。とほほ。>友:ちょっと待ってください。あの、私は「一黒屋」さんへ参ります。>八:だって、さっき銭勘定は嫌だって・・・>友:ええ。私は無理ですが、私の子飼いの者が、もしかするとお役に立てるかも知れません。年は30半ばです。>八:ほんとか? やったぁ。・・・ねえ親方、そういうことなら良いでしょう?>源:友助がそうしたいって言うんならな。・・・本当にそれで良いんだな?>友:はい。こちらとしても、その方が助かります。実は、そいつも「早々に働き先を探せ」と言われているのです。>源:馘(くび)ってことか?>友:はい。そういうことです。私と一緒です。>八:はーあ、世知辛い世の中だね、まったくよ。三吉も含めて、4人で「一黒屋」へ向かった。昼時が近いせいか、店内には客が6人しかいなかった。これなら、主(あるじ)の与志兵衛とも話ができそうだった。>八:ご隠居さん、こんな形(なり)で申し訳ないんだが、入れて貰っても良いかい?>与志:おお、これは八つぁん。それに、源五郎親方まで。これは嬉しいお客だ。さ、どうぞどうぞ。>八:大繁盛みたいでやすね。>与志:目が回るようですよ。息抜きもしたいんですがね。それに、何よりも、大勢の友達を集めて美味しいものを食べたいんですけど、こんな具合いじゃね。>八:そうでやしょう? そこでだ、この八兵衛が、ご隠居さんのお役に立てねえかと、やってきたってことでやすよ。>与志:ほう、どういう良い話を持ってきてくだすったのかな?>八:こっちにいるのは、今日っからうちで働くことになった友助っていうもんなんでやすがね、昨日まで何をしてたと思います?>与志:はて? 内職仕事ですかな?>八:どこに目を付けてるんですか。手を見てくださいよ。算盤胼胝(そろばんだこ)があるじゃないですか。>友:友助と申します。「両毛屋」で手代をしておりました。>与志:ええ? あの大店の「両毛屋」さんでですか? それはそれは。・・・それがなんで大工になど? 見たところ、源五郎親方とそう違わないお年とお見受けしますが。>友:辞めさせられたのです。>与志:それは、なんでまた・・・>友:ご存知ないかも知れませんが、「両毛屋」は今、左前なのです。>与志:なんですと? た、確かに、以前そんな噂が出たこともありましたが・・・>源:友助よ。お前ぇ、そんなことを話しちまっても良いのか?>友:良いのです。もう、すぐにも知れ渡ることです。私より先に辞めさせられた者が、そう息巻いて去っていきましたから。>源:お前ぇのときみてえに、穏便(おんびん)に済ませときゃ良かったのにな。>友:自分の倅(せがれ)でしたから、分かって呉れるものと信じていたようです。>源:なんだと? 手前ぇの倅を真っ先に辞めさせちまったのか?>友:私らへの配慮だったのでしょう。>源:しかしな、信用商売だろう、両替商ってのはよ? 困るんじゃねえのか?>友:困るでしょうね。でも、株を手放さなければ店を畳むことはありません。・・・何人かを辞めさせれば、2年後くらいには立て直せそうなのです。>源:2年も持つのか?>友:持たせるのです。私や、数次(かずじ)が、陰ながら支えるのです。>八:だがよ、それを邪魔しようってのが当の旦那の倅だってのも、皮肉なもんだな。>源:その数次ってのが、さっき言ってたお前ぇが「一黒屋」さんに勧めちゃどうかって言ってた奴だな?>友:はい。私より威勢が良いですから、きっと一黒屋さんのお気に召すと思います。>与志:成る程。お話はようく分かりました。お会いしましょう。・・・但し、うちに来て呉れるとなりましたら、「両毛屋」さんへ戻ることはできませんよ。>友:戻るなど、最初から考えてはおりません。私も、源五郎親方の下で、勤め上げるつもりです。>与志:宜(よろ)しい。友助さんの心意気に感じ入りました。その数次という人を、なるべく早く連れてきてください。>友:それでは、お客が少なそうな刻限ということで、明日の昼頃という・・・>与志:いいえ、顔見せではありません。働いていただくことに決めました。>友:しかし・・・>与志:源五郎親方が後見(うしろみ)になるというのでしたらということですが、親方はそれで宜しいですね?>源:あ、あっしがでやすか? ま、まあ、請(う)けるしかね絵でしょうね、弟子のそのまた弟子なんでやすから。>与志:では決まりですね。数次さんを、今日の夕方お連れください。後見の源五郎親方と、五六蔵さんや熊さんもお連れくださいね。>八:おいらも良いんですよね?>与志:当たり前じゃありませんか。八つぁんの腹踊りが見られるかと思うと、夜が待ち遠しくて仕方がありませんよ。>八:そうこなくっちゃ。>源:ですが、目が回るほど忙しいんじゃねえんですかい?>与志:なあに。お楽しみが待っているとなれば、忙しさなど逆に活力の元になります。はっはっは。傍(かたわ)らで聞いているだけだった三吉は、与志兵衛の笑顔を見て、我知らず「凄(すげ)え」と呟いていた。
2008.02.03
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『肉(しし)食った報(むく)い』『肉食った報い』神の使いである鹿の肉を食った報いに罰を受けるということで、悪事をした当然の報い。*********翌朝、友助は4つ(8時頃)前に来てしまった。源五郎はまだ朝飯を食べている最中だった。居間へ上がるようにと、あやが勧めたが、「いえ、ここで待たせて貰います」の一点張りだった。作業部屋には大工道具が整然と並べられ、材木や木っ端(ぱ)が所狭しと散らばっていた。友助は、それらを興味津々(しんしん)に眺め回していた。>源:随分早いんだな。>友:急(せ)かしちゃったようで申し訳ありません。>源:なあに。早飯早糞は大工の常だ。構わねえってことよ。・・・それより、ここじゃ寒くてしょうがねえんじゃねえか?>友:寒さがどうのなんて考えてる余裕もありませんでした。喜びと不安が半々で、複雑な気分です。>源:そうだろうよ。・・・ま、気負い過ぎねえようにな。職人は一人前になるのに3年は掛かるんだからな。>友:3年ですか。先は長いですね。>源:嫌だとは思わねえのかい? 大店(おおだな)で手代までやった人間なんだからよ。何が悲しくて若造職人の下働きをしなきゃならねえのかって。>友:手代といっても下働きのようなものです。自分がしたいことなんて、何一つさせて貰えないんですからね。大店というところは、そういうところなんです。>源:そうか。まあ、そういう了見なら、続くかも知れねえな。・・・まあ、そんなとこに突っ立ってねえで、こっちへ上がれや。うちの家族に会わしとくからよ。>友:は、はい。宜しくお願いします。>源:予(あらかじ)め断わっとくが、俺の母ちゃん、つまり大女将(おおおかみ)はうちで一番がらっぱちだからよ、「御座います」だなんていう口の利き方をすると張り飛ばされるから注意しとけよ。>友:はあ・・・間もなく4歳(数え年)になる静(しずか)は、相変わらずのお転婆で、友助が居間に入った途端に体当たりを食らわせてきた。「なあんだ、八じゃないのか」と、こともなげに言って、あやの方へ逃げてしまった。>源:親父(おやじ)、こいつが友助だ。宜しく頼むぜ。>友:ご厄介になります。>棟梁:お前ぇさん、力仕事は大丈夫なのかい?>友:は、はい。だいぶ鈍(なま)ってるとは思いますが、足腰は健康ですので、やがて慣れると思います。>棟:そうかい。それじゃあ宜しく頼むぜ。・・・と言っても、お前ぇさんの親方は源五郎だからな。泣き言垂れたって俺は聞く耳なんか持たねえぜ。>友:はい。慣れてますから。>源:酷(ひで)え物言いだな、まったく。棟梁とは思えねえぜ。・・・そんでもって、そこにいるのが大女将だ。>友:宜しくお願いします。>雅:一日でも早く食い扶持(ぶち)を稼(かせ)げるようにお成りよ。そうじゃなくたって大食らいが3人もいるんだからね。>源:五六蔵と八兵衛の2人だろ。俺まで勘定に入れるなってんだ。>雅:そうかい。そりゃあ失礼をしたね。・・・それにしても、なんだってお前のところにばっかり弟子が集まるのかねえ? それも、選りに選って、一癖も二癖もありそうなのばっかり。>源:そんなの、俺の方が聞きてえよ。>雅:きっと、昔世話になった恩人にでも、足を向けて寝てるせいだろうよ。>源:そんなことするかってんだ。残りの弟子たちも、日頃より早めにやって来た。物珍しいものは気になって仕方がない質(たち)なのだ。尤(もっと)も、八兵衛に至っては、弟弟子を迎えるなどという気は毛頭なく、少しでも早く「一黒屋」のご隠居に紹介したくて仕方がないのである。>八:親方ぁ、みんな出揃(でそろ)いましたぜ。引き合わせてくださいよ、もう来てるんでしょう?>源:・・・なんだお前ぇたち、随分早えじゃねえか。>八:そりゃあ、大店を辞めて大工になろうなんていうお人好し、じゃなくってええと、奇特(きとく)なお人なら、誰だって見てみてえですぜ。>源:自分から進んで辞めた訳じゃねえってんだ。そこんとこは間違うなよな。・・・おい、みんなに顔を見せてやりな。>友:友助といいます。>八:おいらは八兵衛ってんだ。年は下だが、一番弟子だからおいらの方が兄弟子だぜ。>友:宜しく面倒を見てください。>八:こいつは熊で、厳(いか)ついのが五六蔵、敏捷(はしこ)そうなのが三吉で、末成(うらな)りの瓢箪(ひょうたん)みてえなのが四郎だ。覚えたかい?>友:そんなに一遍には無理です。>八:駄目だなあ。お夏ちゃんなんか全部覚えちまったぜ。>熊:あっちの方が特別なの。・・・ああ、おいらは「熊」だけじゃなくて、熊五郎だ。今月は特に忙しくって、昨日から3箇所に分かれて仕事をこなしてるんだ。おいらが1人だから、暫(しばら)くの間はおいらに付いて貰うことになる。>八:待てよ。お前ぇんとこだと、ご隠居さんのとこにはちょっと遠いじゃねえか。それじゃあ困るんだよな。>熊:困るってったって仕方ねえだろ。大工仕事ってのはよ、1人じゃどうにもならねえんだよ。>八:それじゃあこうしよう。三吉をやる。それなら文句はねえだろう?>熊:三吉はお前ぇんとこのを始めちまってるじゃねえか。途中から替わっちまったら段取りが狂っちまうだろ?>八:そんなことないない。三吉ごときいなくったって仕事は回るから。>三:そいつは酷えですぜ、八兄い。>源:五月蝿(うるせ)えな。ぐだぐだ言ってやがるんじゃねえ。決めるのは俺だ。・・・当面、友助は俺と一緒に回る。>熊:ちょ、ちょっと待ってくださいよ、親方。するってえと、おいらは当分1人てことですか? そりゃあねえですよ。>源:口答えは許さん。源五郎は奥へ引っ込んでしまった。熊五郎はへなへなと座り込んでしまった。(「当分」というのは一体何日間なのだ?)>八:なんだよ。そんじゃあ、ご隠居のとこへなんか連れていけねえじゃねえか。・・・うーん、参ったな。>三:きっと、親方は八兄いの魂胆なんか、みんなお見通しなんですよ。>友:私がどちらに付くかということは、そんなに重要なことなのですか?>八:ああ、重要だとも。折角(せっかく)・・・>三:八兄いはね、友助さん。あんたをあるお店(たな)の番頭か、然(さ)もなきゃ養子に仕立て上げちまおうって思ってるのさ。>友:ですが、私はここに大工になるために来たんですよ。それでは話が違います。>八:違いやしねえって。一旦うちに来たのには違いねえんだからよ。そんでもって、うちから次のとこへ行くんだったら、相馬屋の爺さんの顔を潰(つぶ)すことにはならねえだろ?>友:それに付いてはそうでしょうが、私は大工仕事をしたいんです。だから、そういう話は困ります。>八:まあ、そう泣きそうな顔をしなさんなって。何も追い出そうってつもりで言ってるんじゃねえんだ。こっちよりもあっちの方が向いてると思うってことよ。ご隠居さんも面白いお人だしな。・・・まあ、親方が連れて回るってんならしょうがねえが、そのうち、騙(だま)されたと思って一遍会ってみちゃどうだい?>友:そういうことですか。・・・ご好意で言って呉れているのは分かりました。ですが、来た早々そんな気になれと言われても、それは無理というものです。>八:そうかなあ? おいらは物凄く良い話だと思うんだけどな。>三:八兄いにとっては、特に良い話なんですよね?>八:しいっ。それ以上言ったら絞め殺すぞ。昼間友助は、八兵衛から出た話のことを、源五郎にそれとなく尋ねてみた。>源:ああ、その話か。昨夜(ゆうべ)飲んでるときに、そんな戯言(たわごと)を言ってたっけな。>友:今朝も言ってたってことは、唯(ただ)の酒酔い話じゃないんですね?>源:あいつには下心があるのさ。>友:三吉さんもそんな言い方をしていました。なんですか、それは?>源:笑っちまうくらい単純なことなんだ。・・・美味(うま)いもんを食いてえんだよ、早い話。>友:私を紹介すると美味(おい)しいものが食べられるんですか、人買いじゃあるまいし?>源:八兵衛というのは面白い男でな、そこいら中の隠居と仲良くなってきちまうんだ。その仲の良い隠居の1人が「一黒屋」の旦那なのさ。>友:え? あの呉服問屋の「一黒屋」さんの大旦那様ですか?>源:「ご隠居」って呼んじゃいるが、正確には、倅(せがれ)がねえから隠居していねえんだがな。・・・そんなご隠居さんがここのところ忙し過ぎて、道楽の宴会もして呉れねえって、八はそれを嘆(なげ)いてやがるのよ。>友:それで、「番頭か然もなきゃ養子だ」なんてことを言ってたんですか。>源:そんなことまで言ってたのか? まったく、どうしようもねえ大食らいだな。ははあ、さては・・・>友:どうしたんですか?>源:八の野郎、ご隠居さんのお店が近いからってあそこの仕事を選んだんだな? 道理で真っ先に選んだ訳だぜ。飲み食いのこととなると、途端(とたん)に頭が回りやがる。>友:それも立派な一芸ですね。>源:芸なもんか。芸ってのは世のため人のためになるもんだ。あいつのは、手前ぇの腹のためにしかなりゃしねえ。・・・あの野郎、昼時に抜け出してご隠居さんに会いに行ったなんてことしていてみやがれ、唯じゃ済まさねえぞ。>友:何もそこまでするほどでは・・・>源:いや。あいつには一遍がつんと言っておかなきゃならねえんだ。・・・なあ友助さんよ、そいつが俺のやり方だからな。ようく覚えときなよ。>友:は、はい。
2008.02.02
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『地獄(じごく)で仏(ほとけ)に会う』 『地獄で仏に会う』非常な危難に遭ったり、大変困ったりしている時に、思い掛けない助けに会うこと。類:●地獄の地蔵●地獄に仏*********源五郎は両毛屋善蔵に面会を求めたが、出掛けていると、素っ気なくあしらわれた。元締めから渡されていた書面を差し出すと、「ああ」と了解したらしく、番頭と名乗る男に引き合わされた。>番頭:こういうご時世ですので、何かと苦情を持ち込む方がいらっしゃいましてね。勿論(もちろん)殆ど全部が言い掛かりなんですけどね。ええそうですとも。手前共には何の落ち度も御座いません。>源:そんなことはどうでも良いんですがね、番頭さん。>番:まあ、そう仰(おっしゃ)らずに。今、お茶を用意させておりますので、本題に入るのはもう少々お待ちください。>源:本題も何も、こっちは友助さんというのがどういう人なのか見てみたくって来てるんでやすから・・・>番:そう慌てることは御座いません。なんでしたら、酒(ささ)でもお出ししましょうか? 幾らか聞こし召していらっしゃるようで御座いますし。>源:なんだいそりゃ? こっちはそこいらの大工なんだぜ。「聞こし召す」とかなんて間怠(まだる)っこしい口の利き方なんか止めて貰えねえか。>番:滅相も御座いません。お客様に対して礼を失する物言いなどできるものでは御座いません。>源:俺は客じゃねえんだぜ。>番:相馬屋のご主人様には一方ならぬご愛顧をいただいております。その関わりであられる貴方様も立派なお客様でいらっしゃいますとも。>源:妙な理屈だな。程なく女中が、1人分だけの茶を煎(い)れて運んできて、源五郎にだけ礼をして出て行った。(まったく、徹底してやがる)と、源五郎は独り言(ご)ちた。>源:それじゃあ、早速(さっそく)友助さんを呼んでいただきましょうか。>番:その前に、友助がどちら様で使っていただくことになるのか、お名前だけでも聞かせていただけませんか? いえ、これといって深い意味がある訳では御座いません。ほんの形式的なことで御座います。>源:牛込箪笥町(たんすまち)の、「源蔵」ってとこです。俺はその倅(せがれ)の源五郎っていいやす。>番:そうで御座いますか。えーと、箪笥町の源五郎、様と。ふむ。・・・それでは、呼びに行って参ります。どうぞ、粗茶ですが、お召し上がりになってお待ちください。失礼いたします。慇懃無礼とはこのことだと、源五郎は不快になった。ただ、戻っていった番頭が、「源蔵という大工の評判を調べろ」と、誰かに命じたことまでは知らなかった。四半時(約30分)も待たされて、漸(ようや)く番頭が入ってきた頃には、湯飲みも乾き切り、昼に飲まされた酒もすっかり抜けてしまっていた。>番:いやあ、面目次第も御座いませんでした。ちょっとばかし金銭に細かいお客様の対応をしておりまして。随分と待たせてしまいました。重ね重ねお詫びを申し上げます。>源:分かった分かった。・・・で、そっちが友助さんかい?>友:はい。友助で御座います。この度は無理なお願いをしてしまいまして、恐縮しております。>源:いやそんなことは構いやしねえさ。どっちにしろ、元締めから命令されたら断れやしねえんだ。>友:はあ。>源:今日の今日で来させて貰ったのは、お前ぇさんの気持ちを確かめたかったからなんだ。・・・お前ぇさん、ほんとに大工になりてえと思ってるのかい?>友:それはそうです。・・・とは申しましても、この年まで商人(あきんど)しかやってきませんでしたから、使い物になるかどうかは、甚(はなは)だ不安ではあるのですが。>源:つまりは、商人以外だと大工しかねえと、そういうことなのかい?>友:正直言わせていただけば、そうです。>番:これ、友助。>源:いや、良いんだ。続きを聞かして呉れるかい?>友:はい。こういう商売ですので、あちこちのお店(たな)とのお付き合いは御座います。ですが、それだからこそ、安易にどこそこのお店へという訳にはいかないので御座います。こんな言い方をしては誤解を招くかもしれませんが、事情を知り過ぎているのです。こちらにその気がなくても、気分を害するお客様も少なくありません。両毛屋にも火の粉が掛からぬとは言い切れませんので。>源:そうか、それで職人に・・・>友:旦那様から人減らしの話があったときは、はっきり言えば、愕然(がくぜん)としました。そんなとき、相馬屋さんが丁度いらっしゃいまして。天の助けと思いました。>源:そんなら元締めが自分とこで引き受けりゃ良いじゃねえか、なあ?>友:それが、「お前さんにぴったりな面倒見の良い大工がいる」と仰いまして。>源:こっちの言い分を聞きもしねえで、まったく、あの親爺は・・・。>友:やっぱり、ご迷惑でしたか?>源:そういうんじゃねえよ。さっきも言ったが、命令だから断れねえんだ。>友:それじゃあ、使っていただけるんですね?>源:分かったよ。こっちが片付き次第顔を出すと良い。>友:有難う御座います。>番:そういうことでしたら、明日にでも。>源:なんだと? もう準備はできちまってるのか?>番:こういうお目出度いことは、早いに越したことがありませんからね。善は急げで御座いますよ。>源:あんたはそれで良いのかい?>友:勿論ですとも。宜しくお願いいたします。>源:そうか、それなら仕方がねえ。・・・ときに、お前ぇさん、年はいくつになるんだい?>友:40と2です。妻子はおりません。天涯孤独の身です。>源:本厄か、俺と一緒だな。・・・明日、5つ半(9時頃)までに来て呉れ。牛込箪笥町の「源蔵」って言やぁ分かる。明日からとは随分急である。さてみんなにはどう伝えるべきかと考えた末、やはり酒でも入らないと話せそうもないと、飲みに連れ出そうと決めた。・・・と、そういえば熊五郎はどうしただろうかということに思い当たった。慌てて立ち寄ってみると、へとへとになりながらも、予定以上のところまでこなし終えていた。>源:やあ熊、済まねえ。どうだった?>熊:どうだったも何もありませんぜ。こんな刻限まで一体何をしていなすったんですか?>源:それがな、話せば長くなる。・・・お詫びに今夜は鱈腹(たらふく)飲み食いさせてやるから、片づけを始めろ。>熊:八じゃねえんですから、そんなことじゃ騙(だま)されませんぜ。>源:騙そうってんじゃねえんだよ。大事な話があるんだ。お前ぇにも直接関わりがあることだ。>熊:おいらに? そりゃあ一体・・・>源:お前ぇだけじゃねえ。八や五六蔵たちにもだ。さ、とっとと戻るぞ。話を聞いた途端、八兵衛は飛び上がって喜んだ。昼飯が不十分だったせいで、腹が空いていたのである。それに、「一黒屋」のご馳走がお預けになったせいで、胃袋が物凄く酒を欲していたのである。>八:そういうことなら、さっさと出掛けましょうや。ねえ親方。>源:ちょっと待ってろ。親父とちょっとばかし話をしがてら、軍資金を巻き上げてくるからよ。>八:そうでやすか。たんまりと巻き上げてきてくださいよーっ。>五六:熊兄いは、どういう話だか聞いていなさるんでやすか?>熊:いや。話の感じだと、結構込み入ったことみてえだがな。>五六:真逆(まさか)、5人もの弟子を抱えてられねえから、誰か辞(や)めろなんてことじゃねえでしょうね?>熊:そんなことじゃねえだろう? 今だって人手が足りなくって、猫の手も借りてえくらいなんだからよ。>三:それじゃあ、誰かを雇(やと)うってことでやすかねえ?>八:お前ぇ、何を考えてるんだ? どこの世の中に弟子を6人も持つ親方がいるかってんだ。そんなの聞いたこともねえぞ。>三:そりゃそうですよね。ご尤(もっと)もでやす。>四:それじゃあ、熊兄いか八兄いを一本立ちさせるてことじゃないですか?>熊:まだ嫁も貰ってねえおいらたちが一本立ちなんかできる訳ねえだろ。>四:ですが、親方だって姐さんと一緒になる前から親方をしてたんでしょう?>熊:そりゃあ、棟梁の後継ぎなんだから、特別だよ。>三:もしかすると、どっちかに嫁を宛がってから親方にしようってことなんじゃねえですか?>八:そりゃあ、おいらにってことか?>三:そうかも知れませんよ、ほんとに。八兵衛は、「だるま」へ向かう間、にやにやしながら源五郎の後に付いて歩いていた。(なんだこいつは?)とは思ったが、無視することにした。弟子たちが酔っ払ってしまう前に、単刀直入に切り出してしまおうと考えていた。>源:話ってのはだな、明日、友助ってやつが来るってことなんだ。>八:来るって、なんか用があってですかい?>源:そういうことじゃねえ。弟子になりてえんだとよ。>熊:なんですって? 今朝はそんな話してなかったじゃねえですか。>源:昼の寄り合いの後に、元締めから呼び出されて言い渡された。>熊:決まりなんですかい?>源:さっき本人にも会ってきた。ご当人はそのつもりだ。>五六:ずぶの素人(しろうと)ですかい? 若いもんで?>源:年は俺と一緒だそうだ。>五六:するってえと、どこぞで修行をしてたとか、親方に先立たれちまったとか・・・>源:いや。早い話が、奉公先からお払い箱になったってことだ。>五六:奉公先ってことは、商人ですかい?>八:そんなの使い物にならねえんじゃねえですか?>源:ああそうだな。だが、元締めが決めた以上従わなきゃならねえ。・・・まあ、使ってみてからもう一遍話し合うとしよう。>八:そいつ、何をしてやがったんでやすか?>源:「両毛屋」ってとこで算盤を弾いてる。>八:算盤でやすかい? ・・・ん? そう言やあ・・・。>源:なんだよ。妙な笑い方するんじゃねえ。もう酔っ払ってやがるのか?>八:違いますって。・・・ねえ親方、おいら今、算盤を弾ける奴を探してるとこだったんでやすよ。こりゃあ良いや。な、三吉。>三:それって、「一黒屋」さんのことですか?>八:決まってんだろ? ・・・ねえ親方、ご隠居さんがあんまりにも忙しそうなもんで、養子を世話してやっちゃどうかと考えてるんでやすよ。どうです? 連れてってやったら、願ってもないとか言って大喜びしますぜ。>源:そんな大事なことを勝手に決められるか。それに、友助には友助の事情ってのもある。>八:この際、そんなことは、この八兵衛様が丸く納めて見せますって。
2008.02.01
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