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ジョルジョ・アルマーニが亡くなってすぐに、Duomo大聖堂のあるDuomo広場にあるリナシェンテデパートのショーウィンドウにアルマーニの服のアーカイブより、彼の作品が次々と飾られました。彼の50周年記念としてのイベントでしたが、亡くなったこともあり、涙の追悼イベントになりました。まずは、ベニスから始まったようです。そして、9月23日のファッションウィーク開催中は、ブレラ美術館内で、絵画と共に彼のデザインした服が展示されます。アーカイブを意識してのショーウィンドウジョルジョ・アルマーニと言えば、ブルーだそうですが、彼は「グレープ」に多大なる価値を見出したデザイナーとしても有名です。アルマー二は、ミラノより、東南↓にあるピアチェンツァ生まれですが、高等学校に通う頃、家族でミラノに引っ越してきます。理数系で有名なレオナルド高等学校に通ったそうです。その後、外科医になるべくミラノ大学医学部に入学するも、2年通った後、自分が行きたい道ではないことに気づき、一度兵役に服し、戻ったころ、このリナシェンテ・デパートで、店員として働きます。お客に的確なアドバイスを与える店員として、彼のファッションにおける才覚が現れ、その後、日本でも有名だったセルッティで働くことになります。セルッティのグループ内にあるHitmanで働くことが彼にとっての転機になります。このHitmanにて、裁断、縫製たるを学んだそうです。ミラノでも、アイコンとなるこのリナシェンテ・デパート。イタリアでは、ジョルジョ王と呼ばれていました。王がいないミラノ。王のいないミラノ・ファッションウィーク。今回が、アルマーニ氏によって、デザインされた服も見納めです。寂しいですねーー
2025.09.26
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9月18日のアクセス数が、なんと3097と、3000超え!ビックリ!なぜかは、わかりませんが!ありがとうございます。しかも、読まれてるものは、10年以上も前のものだったり、まーひどい文章を書いていました!日本語に触れる機会があまりなかったころは、日本語が乱れていました。もうやめようかと、思いながら、このようなアクセス数には、やる気が出ます!!本当にありがとうございました!
2025.09.26
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日本では、最近は橋幸夫さんがお亡くなりになられましたが、イタリアでは、Pippo Baudo(ピッポ・バウド)氏が、今年の8月16日に亡くなられました。彼は、1960年からRai国営放送にて、数々のゴールデンタイムの番組の司会をし、番組の制作にも関わり、ラジオにも出演していました。彼の司会番組により、多くの有名人らが誕生してゆきました。中でも有名なのは「サンレモ音楽祭」で、これにより、数々の歌手たちも生まれています。イタリアのテレビ界の顔、イタリアの国民的スターと言われてきた人です。テレビ界の大御所となりすぎて、ワンマンだの威圧的だのと批判されたりもしました。Rai国営放送の本部はローマ、シチリア出身でしたが、ローマに住んでいました。亡くなった時は、お別れの儀式はRai国営放送会社内で、お別れのセレモニーが設けられ、一般人も挨拶に行くことが出来、その後、ご遺体は生まれ故郷シチリアに向かい。彼の生まれ故郷の教会でお葬式となりました。89歳でした。 ベルルスコーニ首相を最も愛したEmilio Fede(エミリオ・フェーデ)氏は、今年9月2日に亡くなりました。彼は、ローマの新聞記者、トリノの新聞記者では、特派員を経て、1958年よりRai国営放送の番組の司会を始めます。1961年より、Rai国営放送との契約が成立します。*イタリアの場合、あちこちのテレビ局とは仕事が出来ません。一局のみに絞られます。が、Rai国営放送は3局持っています。この場合、民放とは仕事が出来ません。その後、8年間アフリカ特派員を務め、その後40か国で取材、インタビューをしました。取材先の外国で病気になり、イタリア入りし、民法、Rai国営放送のニュースと仕事を経て、1976年から5年、Rai国営放送第一ニュース報道番組=TG1の司会。*イタリアでは、記者がニュース番組の司会を行います。この後、多数の民放と仕事をしながら、1989年より、ベルルスコーニ元首相所有のFininvestの移動します。Fininvestもまた三局を所有しており、最終的に1990年より、Rete 4のニュース部の局長となります。のち1992年ころより、「タンジェントポリ」と呼ばれる汚職捜査事件で、毎回ミラノの裁判所前からニュースが配信され、其のたびに、裁判所で取材していたパオロを怒鳴りつけるところを印象的に覚えています。亡き後、パオロ氏は、泣きながらインタビューには、「ひどく怒られましたし、ひどい怒られ方もしましたが、私にとっては父のような存在でした。」と語っていました。1994年1月ベルルスコーニ元首相が、政治界に入ると、一瞬にして、フェーデ局長の愛の象徴になり、毎晩のようにベルルスコーニ元首相への賛歌は、半ば興ざめするもので、それこの「ベルルスコーニ元首相の犬」などと呼ばれるほど、しかも、もともとユーべントゥスファンだったにも関わらず、ベルルスコーニ元首相が所有していたミランのファンになった時には、さすがに、人々も引くものがありました。「宗教は変えられても、贔屓のサッカークラブは変えられない」と言われているのです。そんな彼でさ、2012年3月28日をもって、Fininvestをいきなり辞めさせられています。フェーデ氏の回想インタビューで、「仕事を終えて、下の階のエントランスに向かうと、ベルルスコーニ元首相に呼ばれ、行くと、そのまま首だ!と言われた」と、これにはびっくりですね。 ただ調べてみると、Fininvestの会長でベルルスコーニ元首相の友人を、モンタージュした写真で脅したとか?その件で、検察も動いたそうで、解雇せざる負えなかったそうです。 ベルルスコーニ元首相が政治界に入る時には、かなりの人から反対に会いました。その人々に対して、いつも保護、応援的なニュースを提供してきたわけで、その姿勢に「真のジャーナリズムではない、外れている」と批判を受けてきたわけです。 そんなフェーデ氏も、2023年㋅12日にベルルスコーニ元首相が亡くなると、大変悔み、亡くなる前にベルルスコーニ元首相より呼び出されたが、足を負傷して歩けず、会いに行かなかったと話しています。2022年には、フェーデ氏の奥様を亡くし、弱っていたところのベルルスコーニ元首相の死で、大変投げていてる動画があります。そんな彼も今年94歳で幕を閉じました。 そして、9月4日のアルマーニの死。ミラノの巨大シンボル的存在だったアルマーニ氏とベルルスコーニ元首相の死。なんとも、続くなー。一つの時代が終ろうとしているのでしょうか........
2025.09.15
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2月21日この日は、娘と中心地へ、この日のミッションは、ミランのユニフォーム買い。日本の友人から、彼女の息子さんのために頼まれていたのと、 なんと、私の黒いブーツが、ついに壊れてしまったので、買いに行くことに、1月に友人と会った際に、「もうすぐ壊れそうなんだけど、、」と壊れそうなブーツの話をすると、「こういうものは買っておいた方がいいよ」と言われた。それでも渋って買わずにいたら、ついに壊れてしまったしかも、ほぼバーゲン終わりのこの時に、なぜかと言うと、私の靴のサイズは、23,5cm。もっともスタンダードなサイズで、まずこのサイズから売切れていくわけです。しかも、私のワードローブには、必須な訳で、これは買わんといかんよねーーと思いつつ、私が信頼する靴屋を、Milanショップに行く前に覗いてみると、(*ちなみに、サンバビラ広場近くのMarcoと呼ばれるショップです。)私のサイズがあると言うではありませんか!しかも、私の問題は、ふくらはぎが太いので、ふくらはぎの部分を広げてもらわないといけない。その場合、すべてのブーツが広げられるわけでもなく。そんな中、広げられるブーツであると言うではありませんか!!試して、即購入しました!ちょっと皮が固めでしたが、ここははいてやわらかくするしかない!(この後、かなり痛い目にあってます)セールス品が買えたので、ラッキーでした!靴づれで、痛い目に合うので、はたして幸運だったかは謎ですけど....... Marcoの後、Milanショップへ、Milanショップもまたサンバビラ広場の近くなんです。はっきり言って、出来ることなら、最も入りたくない場所うーーー、入ってみると、ユニフォーム売り場も二階と言われ、二階へ行く階段の壁は、歴代のミランの選手たちが、、、ユニフォームと共にサインもされていますねーーーー とかくビックリは、娘と共に行ったのですが、若い娘を連れて行くと、私が払うのであっても、とにかく店員のお兄ちゃんたちは優しい。ふーーんこちらが紙袋、ちなみに#sempre Milan=いつもミラン1899年創立こちらの選手のオフィシャル・ユニフォームを頼まれました!実に、インテルのユニフォームを頼まれなくて、残念帰り道、スカラ座広場を通って、ブレラ美術館前を通って、歩いて家に帰りました。夕飯は、茄子の肉みそグラタンと白菜のスープ揚げ豆腐。豆腐に片栗粉をまぶして、あげて、しいたけ、玉ねぎ、ズッキーニをいれたあんをかけて、食べます
2025.09.14
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14年以上も前から、「もしジョルジョ・アルマーニが亡くなったら?」と問われてきましたし、ジョルジョ・アルマーニ亡きミラノを想像することすら出来ないほど、ミラノではシンボル的存在。 そして、なんとその想像すら出来なかった日は、突然やってきました。9月4日、あまりにも急に、、、、、不意打ちを食らったような。 しかも、ミラノファッションウィークはもうそこまで来ていたのに、、、、今回のミラノファッションウィークは、ジョルジョ王不在となってしまう。 ジョルジョ・アルマーニは、1934年7月11日にピアチェンツァに生まれています。意外で、ミラノ生まれではありません。1949年にミラノに家族と引っ越し、高校もミラノでは有名な名門公立の理数系高等学校Leonardo Da Vinci高校を卒業しています。大學は医学部に行くも、しっくりと来ず、とりあえず兵役に服し、兵役が終わると、Duomo広場にあるLa Rinascente(ラ・リナシェンテ)デパートで店員をしているうちに、ショーウィンドーを手掛けるようになるようです。 1975年、彼の会社Armaniをセルジョ・ガレオッティと共に創設。セルジョさんが、アルマーニにとっての唯一無二のパートナーだったそうで、今年、彼と初めて出会ったお店を買収し、なんとそこで9月末にパーティをする準備も整っていたそうです。😢このセルジョさんが、アルマーニが作る服を見て、「成功する」と感じたそうです。 よって、今年はアルマーニ創業50周年記念だったわけで、なんとも悲しい。 アルマーニは、あえて株式会社にはしておらず、彼の姪と甥3人に相続させるそうです。そして、LVMHにもKeringにも属していません。よって、買収されてしまうのでは?と思われたり、、、、確かに、彼の甥と姪がデザインを続けると言われていますが、、、 イタリアでは、有名人が亡くなると、遺体を安置して、一般の人々最後の挨拶をできるように、公開します。アルマーニは、彼のアルマーニ・シアターにて、この儀式を行いました。ここで、驚いたことは、デザインウィークさながらのアルマーニ・カーザそのままの美しいインスタレーションが設置されたことでした。今までの明るい広間に、花と共に棺桶が置かれれるものではなく、暗闇に、いくつものろうそくのような小さな灯りがいくつも並ぶ中に、ご遺体が置かれていました。これは、新しい流れを創り出したかもしれない?と思いつつ、、、かなり前からこのお別れ会の準備もしていたんだなーと思いました。私の洋裁の師匠には、手縫いをしている時に、姿勢を悪く縫っていたら、「いつでも品格を持ちなさい!」と、言われました。常にかっこよく、品格を持てと、その彼女のお言葉を思い出しました!そう「アルマーニは、品格と共に去った」と、、、、 このアルマーニ・シアターでのお別れの儀式には、著名人あら一般人まで、想像を絶する大勢の人が行き、お葬式は参加者62人のみ、彼の家族のお墓があるピアチェンツァの近くの教会にて行われ、家族のお墓に入るそうです。↑かつて、ベッカムが、アルマーニのショーツをはいて横たわる広告の壁には、アルマーニの写真が!同じものがお別れ会にも置かれてました。「専念してきたこと、人へと現実への注意と敬意の印せたことを期待します。なぜなら、そこから全てが始まっているから、Giorgio Armani」とメッセージ付きで、貼られていました。 そして、ここに、Covidの時に、「私はセンチメンタルと共にここ(ミラノ)にいます。」とミラネーゼに勇気を与えるメッセージを貼っていました。なんともミラノ愛が強い人でした。現在、ミラノはイタリア一危険な街になってしまい。こんなミラノを見ずに亡くなったのは、幸いかもしれません。イタリアでは、ジョルジオ王と、常に王の称号が付けられていましたし、ミラノファッションウィークでは、いつも、閉めのファッションショーはジョルジョ・アルマーニのショーでした。ここ数年変わっています。 9月末のレディース・ミラノファッションウィークでは、初めてアルマーニの存在がないことに寂しさを覚えるだろうし、そこで、彼が亡くなってしまった実感を感じると思います。ご冥福をお祈りいたします。
2025.09.10
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