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April 11, 2026
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邪馬台国論争をする人達は面白くて、くだらないことを言い争う傾向がある。
ただ、それが面白い結果を生むこともあるので、一応考えてみるのが良いと思う。

その代表的な例が「邪馬壹國」が正しいのか「邪馬臺國」が正しいのかと言う論争である。
Copilot(WindowsのAIに聞いてみる。

「邪馬壹國」が正しいのか「邪馬臺國」が正しいのか教えて下さい。

その答えは次の通り。
学術的な通説では「邪馬臺國(邪馬台国)」が原文で、
写本の過程で「邪馬壹國」に誤写されたと考えられています。
ただし、「邪馬壹國」こそ原文であると主張する有力な少数説(古田武彦など)も存在し、

1. 史料の事実:現存する最古の写本はすべて「邪馬壹國」
 南宋時代の最古級写本(紹興本・紹煕本)は、例外なく「邪馬壹國」と書いています。
 これは確実な史料事実です。
 そのため、「壹」が原文である可能性は確かに存在するというのが、古田武彦らの立場です。


 『後漢書』倭伝や『隋書』俀国伝など魏志倭人伝以外の中国史書は「邪馬臺」と記しています。
 特に『隋書』は「魏志にいうところの邪馬臺」と明記しており、
 魏志の原文が「臺」であったと理解していたことが分かります。
 このため、「臺」が原文で、写本の過程で「壹」に誤写されたというのが通説です。
 3. 誤写説が通説となる理由
 通説が「臺 → 壹 の誤写」と判断する根拠は次の通りです。
(1)臺と壹は草書体で形が似ている
  写本過程で取り違えが起こりやすい。
(2)他の史書が「臺」を使う
  魏志以外の史書が「臺」を引用している以上、原文が「臺」であった可能性が高い。
(3)「壹」は数字で国名に使うのは不自然
  「臺」は宮殿・高台など高貴な意味を持つ字で、国名にふさわしい。
4. しかし「壹」こそ原文とする強力な反論もある
 古田武彦らの「邪馬壹國」原文説は、単なるトンデモではなく、
 次のような強い論拠を持っています。
 (1)三国志全巻で「臺」と「壹」の誤写例が存在しない。
   → ならばここだけ誤写とするのは不自然。
 (2)「臺」は魏朝の王宮にしか使わない“至高の文字”
   → 蛮族の国名に使うのは思想的にありえない。
 (3)注釈者が「壹」に何も注を付けていない。
   → 原文が「壹」であると理解していた可能性。
 (4)音韻学的に「壹」は“甲類”で九州の「山門(やまと)」と整合している。
   → 畿内の「大和(乙類)」とは一致しない。
 このように、「壹」原文説は学術的にも十分に成立する説です。
5.結論
「どちらが絶対に正しい」と断言できる段階ではない。
ただし、
史料批判の観点では「壹」原文説が強い
文献比較の観点では「臺」原文説が強い
という構造になっており、論争が続くのはむしろ当然です。

おぉー!
AIってその辺の学者先生とは違って、むしろ人間よりもまともじゃん!
色々な学説を網羅しており、何故結論が出ないかまでちゃんと説明しており、
最後に今の段階では結論は出ませんよとまで言っている。
学者先生はもういらないじゃん!

でも、ここで終わったら僕もつまらないので研究してみた。
そうすると、ある観点から見たらまったく別の理論も出ることが分かった。
それは魏志倭人伝の中で国の規模を示す家の数(つまり人間の数)の単位である。
魏志倭人伝の中では伊都国や奴国及び対海國(対馬の事)では「戸」で表し、
不彌國と一大國(壱岐の事)では「家」を使っている。
何故使い分けているのだろうか?

通説では、
中国史料では一般に
戸 … 行政単位としての「家族集団」で、戸籍・徴税・兵役の基本単位
家 … 物理的な家屋、または家族そのもの
だと言う説が多いのですが、
しかし、三国時代の史書では「戸」と「家」が人口単位として混用される例が普通にある。
とくに異民族・外国記事では、現地制度に合わせて厳密に使い分けていないことが多い。
また、伊都国などが普通に「戸」を使っているのを考えると、
通説ではまったく説明がつかないので、「表記の揺れ」と考える人が多いが、
どのような原因で「揺れている」のか、また記載する位置が近すぎて揺れる意味が分からない。
何故不彌国と一大國だけの2国なのかまったく説明できない。
なのでもっと合理的な説明が必要である。

そう考えた時にふと思いついたのが、
不彌國が今の宇美市付近ならば、日本書紀等に書かれた神功皇后伝説の場所と同じだと言う事。
もちろん神功皇后は伝説上の人なので、証拠にはならないのであるが、
伝説とは言っても根も葉もない架空のことは、なかなか言い伝えにはならないのだと思う。
何かきっかけになるようなことが有ったのではないか?
そう考えると、面白い仮説に達する。
宇美市の名前の由来が、神功皇后がここで応神天皇をお産みになったことではなく、
元々ここは不彌国だったから、その音が残っていて宇美市になったのではないかと思うのである。
何故、神功皇后がここで応神天皇を産んだのか?
それは、ここに有名な技術力を持った産婦人科医師がいたからではないか?
神功皇后が腰に石を巻いて三韓征伐に行ったと言うのは、
彼女の応神天皇のお産が難産だったことの比喩だからではないか?
つまり宇美市=不彌國付近には中国からやって来た医師がいたからではないか?
そう思いつくのである。

そして何故そんな高名な医師がここに居たかと言えば、
別に慈善事業で野蛮人(倭人)を助けようと思って来ていたわけではなく、
ここには中国からたくさんの渡来人が渡って来ていた、
渡来人の居留地が有って、その人達の要請が有ったからからではないか?
つまり不彌国と言うのは中国からの渡来人の国だったのではないか?
(事実、奴国の中心地である須玖岡本遺跡がすぐ傍に有り、
 そこでは銅鏡の鋳型などが見つかり、また重さを計る秤なども見つかっており、
 当時としては有力なテクノタウンが有ったことが発掘調査により分かっており、
 技術を指導する中国からの渡来人がそこにいたことが容易に想像できるのである。)
なので、倭人の竪穴式住居とは違い、中国式の家がたくさん有ったので、
伊都国などの倭人の国の家の数は「戸」、
不彌國の中国式の家の数は「家」と表現したのではないか?
そう思うのである。

ではその証拠は有るのか?
実は、魏志倭人伝や後漢書を読むと、
倭国には学者先生が想像するよりもはるかに多くの渡来人が居たと考えさせる記述があり、
逆に学者先生の想像するよりはるかに多くの倭人が中国に渡っていたと考えられる根拠が、
ちゃんと書いてあるのである。
そしてそれがもし本当ならば、
魏志倭人伝に於いて、
不彌國までは方角と距離をちゃんと書いてあるのに、
投馬國と邪馬台国からは日数で書かれている理由が分かるし、
「邪馬壹國」と「邪馬臺國」のどちらが正しいのかが分かるのである。

それは明日、その2で書く。







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最終更新日  April 12, 2026 12:51:15 AM
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