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April 12, 2026
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昨日は「邪馬壹國」が正しいのか「邪馬臺國」が正しいのかと言う論争について、
現在の通説と状況を書いたのだが、
最後に不彌國の規模を示す単位が、
他の国たとえば伊都国が「戸」なのに何故か不彌国と一大國(壱岐)は「家」が使われており、
もしかすると、ここが渡来人が多く住む場所で、
住居の構造が他の場所のように竪穴式住居ではなく中国式の家だったせいかもしれないと書いた。
そして、もしそうならば、倭国には従来考えていたよりもはるかに多くの渡来人が住み、
それが、「邪馬壹國」が正しいのか「邪馬臺國」が正しいのかと言う答えにつながるかもと、
自信はないけれども、今日のブログで書くと書いた。


邪馬台国研究家の多くは、魏志倭人伝を小説のように考えがちだと思う。

史書は国家事業であって小説ではない。
例えば魏志倭人伝をその中に含む「三国志」は史書である。
対して日本人が三国志と混同して読んでいる「三国志演義」は小説であり歴史書ではない。
例えば「三国志演義」は蜀の劉備や孔明を正義として書き、魏の曹操は敵役である。
でも三国志では比較的公平に書かれている。
魏から禅譲されてあとをついだ西晋の皇帝の命令によって書かれた本なのにである。
事実、三国志の編者の陳寿は父親が蜀の役人だったので、
「魏を悪く書くのではないか」と疑われて、一時クビになりそうになっている。
なのに比較的公平に書かれていると言うことは立派な歴史書だと言うことである。

そのような「お役所の命令によって書かれた本」は個人だけではできない。

お役所では、係長と部下が作った原稿が大臣の元に届くまでには、
係長→補佐→課長→担当部長→総務部長→局長→審議官→大臣とチェックが続き、
世の中に出るに際しては、さらにパブリックコメントの募集が有り、
ものによっては(例えば予算や法律に関わるもの)は国会で審議・採決される。
なので「間違った文章」が世の中に出ると言うのはよほどのことである。

でも有名な物は書写も複数あるので、比較検討すればまぁ間違いない。
なので魏志倭人伝が「書かれた段階で間違っていた」と言うのはほぼ無い。
その後、誤写によって変わったと言うことは有りうる。

何故このようなことを書いたかと言うと、
「邪馬壹國」が正しいのか「邪馬臺國」が正しいのかと言うような、
誤写による間違いならば有りうるかと思うのだけれども、
文章そのものの間違いなどはあり得ないと言うことを言いたいのである。

例えば、世の中の学者先生には「邪馬台国」と「女王国」を同じだと考えている変な人がいる。
これはあり得ないと思う。
原文を読むとすぐに分かる。
<原文>
    (前略)         南至 邪
馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月官有伊
支馬次日彌馬升次日彌馬獲支次日奴佳鞮可
七萬餘戸自 女王國 以北其戸數道里可得略載
其餘旁國遠絶不可得詳次有斯馬國(後略)

魏志倭人伝の中で「 邪 馬壹國 」と言う言葉が使われているのはここ1回だけである。
よく魏志倭人伝に書かれている特徴と○○地方は合致していると言う人がいるが、ウソである。
たいていは「倭地」についての記載や「女王国」についての記載であって、
「 邪 馬壹國 」 についての記載ではない。
そのせいで都合が悪いから学者先生は「邪馬台国」と「女王国」を同じだと主張するのである。

でも魏志倭人伝を含む三国志が史書つまり国家事業だと考えると話は変わって来ると思う。
上の原文を読むと「 邪 馬壹國 」と「 女王國 」はたった41文字しか離れておらず、
恐らくは竹簡などに書かれた場合には同時に目に入るはずである。
そして原文アンダーラインから、女王は邪馬台国に住んでいると読める。
チェックするお役人は必ず質問するはずである。
女王は邪馬台国に住んでいるのではないのか?
何故 邪 馬壹國 とは書かずに 女王國 と書くのか?
お役人ならば当然の質問である。ぼくでもそう質問する。
ここでちゃんと答えられないとクビである。
なので、
「 邪 馬壹國 」と「 女王國 」はちゃんと理由が有って使い分けているのだと思う。
僕は 邪 馬壹國 とは、伊都国や奴国及び 女王國 とその傍らの国を含む連合国なのだと考えている。
なので、上の原文は、
まず女王は邪馬台国の女王であり邪馬台国に住んでいると書き、
次に邪馬台国と言っても広いので、さらに邪馬台国の中を詳しく書くと、
女王の直轄地である女王国と、伊都国などの女王国の北側の国及び女王国の傍らの国が有るが、
伊都国などの女王国の北側の国は多少は戸数や道里くらいは書けるが、
女王国の傍らの国については名前くらいしか書けないと書いているのだと思っている。
つまり世の中の人達の言う「邪馬台国への行程」と言うのは実は狗邪韓国までで、
ここで既に
「 邪 馬壹國 」には到達しており、
(邪馬台国が日本中あちこちに候補地が有るのはこのせいかも?)
実際はみんなが主張している卑弥呼の居場所への行程は、
「女王国への行程」と言うのが正しいのである。

そう考えると陳寿は倭国に関して相当に詳しかったと言うことが分かる。
何故詳しかったのか?
恐らくは魏志倭人伝を書いた陳寿や、後漢書倭伝を書いた
范曄は、
中国に居た倭人に聞きながら魏志倭人伝や後漢書倭伝を書いたのだと思う。
なので、魏志倭人伝は、
中国から倭国に実際に来ていた使者の復命書(出張の報告書)を元に書いたり、
使者に実際に聞いて書いたので不彌國まではかなり詳しく、方向や距離が書かれており、
使者たちが実際には行っていない投馬國や邪馬台国については,
距離などを科学的に測定する技術を持たない倭人に聞きながら書いたので、
行程の方法と日数で書くというみんなが疑問に思う書き方になっているのである。

昨日書いた、倭国には従来考えていたよりもはるかに多くの渡来人が住んでいたと言うのが、
正しいならばそう考えるのが普通である。
もしそんなに多くの渡来人が倭国に居たのならば、
当然交流と言うのは双方向性があるので、中国の中心部まで倭人が来ていてもおかしくはなく、
倭人がそばまで来ているならば、陳寿や范曄は迷うことなく呼ぶだろう。
想像をたくましくして書くよりも、本人に聞いた方が速いからである。

そう考える理由が魏志倭人伝と後漢書には書かれている。
両書とも「倭人の由来」について、
中国から日本に渡った人達の子孫ではないかと書いているからである。
恐らく、目の前で説明してくれている倭人が中国語を流ちょうに話し、
その生活態度などが中国人そっくりだったのだろう。
なので、陳寿や范曄は彼らが中国人の子孫だと思ったからだろうと思う。

後漢書には下のように書かれている。
<原文>
會稽海外有東鯷人
分為二十餘國
又有夷洲及澶洲
傳言秦始皇造方士徐福将童男女數千人
入海求蓬萊神仙不得
徐福畏誅不敢還遂止此洲
出出相承有數萬家
人民時至會稽市
會稽東冶縣人有入海行遭風流移至澶洲者所在
絶遠不可往來
<意訳>
会稽郡の海外に東鯷人がいる。
分かれて二十余国を作っている。
また、夷洲と澶洲がある。
こう言い伝えられている。秦の始皇帝は方士徐福を派遣し子供の男女数千人を率いて海に入り、
蓬菜神仙を求めさせたが出来なかった。
徐福は罪に問われるのをおそれ、敢えて帰らず、ついにこの島に止まった。
代々受け継がれて数万戸がある。
その人民が時おり会稽の市にやってくる。
会稽東冶県の人で、海に入り、風に流されて澶洲に着いた者がいるが所在地はあまりにも遠く、
往来することはできない。


つまり范曄は、目の前の倭人があまりに中国人に似ているので、
秦の始皇帝に命じられて日本に渡った子供の男女数千人の子孫かもしれないと考えたので、
わざわざ「史記」に書かれている徐福のエピソードを書いているのである。
もし范曄の目の前に倭人が居て、その倭人が中国人に似ていなければ、
伝説にすぎない徐福のエピソードをわざわざ後漢書に載せることは無いと思う。
読んだお役人や皇帝が必ずそのことを質問するからである。
そしてお役人や皇帝も、確かに中国に来ている倭人は中国人に似ていると思っているから、
それを「面白い仮説」だと考えて、そのまま載せることを許可したのだろう。

魏志倭人伝も同様である。
<原文>
男子無大小 皆黥面文身
自古以來其使詣中國皆自稱大夫
夏后少康之子封於會稽斷髮文身以避蛟龍之害
今倭水人好沉没捕魚蛤
文身亦以厭大魚水禽後稍以為飾
諸國文身各異或左或右或大或小尊卑有差
計其道里
當在會稽東治之東
<意訳>
男子はおとな、子供の区別無く、みな顔と体に入れ墨している。
いにしえより以来、その使者が中国に来たときには、みな自ら大夫と称した。
夏后 ( 王朝 ) の少康の子は、会稽に領地を与えられると髪を切り体に入れ墨して蛟龍の害を避けた。
今、倭の水人は、沈没して魚や蛤を捕ることを好み、
入れ墨はまた ( 少康の子と同様に ) 大魚や水鳥を追い払うためであったが、
後にはしだいに飾りとなった。
諸国の入れ墨はそれぞれ異なって、左にあったり、右にあったり、大きかったり、
小さかったり、身分の尊卑によっても違いがある。
その ( 女王国までの ) 道のりを計算すると、
まさに夏后の少康の子が治めた会稽の東の地のその東にある。


つまり陳寿も倭人は中国人と似ているが、
特に夏后の少康の子が治めた会稽の東の地に住む中国人と似ており、
そこの中国人は倭人同様に水に入った際におぼれたりするのを避ける為に入れ墨をしているので、
彼らが夏后の少康の子が治めた会稽の東の地のその東から海を渡って行った人達の
子孫だろうと考えて書いているのだと思う。
そうでなければわざわざ三国志とは無関係なエピソードを(倭人の為に)書くはずが無い。
当時の中国人にとって倭人は野蛮人だと考えられており、
その倭人の由来に紙面を割く必要は無いからである。
ただ中国人の子孫ならば、書くだけの価値があると考えたのだろう。

そう考えると、倭国には相当な数の渡来人やその子孫がいたのだろう。

その場合面白い仮説が考えられる。
よく日本には神代文字が見つからないと言われる。
これはもし渡来人が多かったのならば漢字を使っていたからではないだろうか?
つまり日本独自の文字を作る必要が無かったからである。
たださすがに日本古来からの独自の日本語を記すには不便だと思う。
その時にはどうしたのだろうか?
僕は古事記を読めばそれが分かると思う。
古事記は漢字を使いながら、その音だけを使用して日本独自の言葉を記している。
やがてその手法は発展して、後世には「ひらがな」や「カタカナ」が生まれている。
また、日本人は「訓読み」と言うのを発明している。

訓読みとは何か?
調べてみると次のように書かれている。
訓読みとは、*漢字の意味に対応させて当てた日本語固有の読み方(和語の読み)*のことで、
音読み(中国由来の音に基づく読み)と対になります。
例えば「山」の訓読みは「やま」、「川」は「かわ」で、
単独語や和語の語彙の中で多く用いられます。

なお、訓読みの発生した年代ははっきりとはしていない。
もしかすると奴国の時代には既に「訓読みのような物」が発生していたのではないだろうか?
それが「邪馬壹國」が正しいのか「邪馬臺國」が正しいのかと言うことの答えである。

漢字の読みには「上古音」や「漢音」及び「呉音」など地域や時代によって違う読み方が有る。
奴国の時代には「訓読み」はさすがにまだ無かったと思うが、
中国から渡って来た人達の子孫が居たのならば、
「倭音」とも呼ぶべき倭国独特の漢字の読み方がすでに発生していたのではないだろうか?
そして陳寿に自分の国の名前を説明した倭人は、
「 邪 馬壹國 」と書いて説明しており、
陳寿はそれを正確に(中国ではそうは読まないのに)
「やまと國」として記録したのではないだろうか?

中国では「 壹 」と言う字は数字であって、「たい」とは読まない。
数字の「壱」であって、音は「い」である。(ちょっと今の日本のひらがなでは書けない)
では何故現代の人達が「邪馬台国」と言うかと言えば、
後漢書以降の中国の史書に「邪馬臺國」と書いてあるからである。
<後漢書原文>
倭在韓東南大海中依山為居凡百餘國
自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國
國皆稱王出出傳統
其大倭王居邪馬臺國 ( 案今名邪摩惟音之訛也 )
楽浪郡微去其國萬二千里去其西北界狗邪韓國七千餘里
其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同

<意訳>
倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住する。およそ百余国。
武帝が ( 衛氏 ) 朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。
国はみな王を称し、代々受け継いでいる。
その大倭王は邪馬台国に居る ( 今の名を案ずると、ヤマユイと言う音のなまりである ) 。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里、その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。
その地はおおむね会稽東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近いため法や習俗の多くは同じである。


「邪馬臺國」と書いたのは後漢書が最初で、
(上の原文中に( 案今名邪摩惟音之訛也 )と書いているのは後世の唐の李賢の書いた注で、
 後漢書そのものの記述ではありません。
 彼は魏志倭人伝の「 邪 馬壹國 」と言うのは、
 今(唐の時代)の日本の国名である「大和(やまと)と比べると、
 「邪摩惟(やまい)又は(やまゆい)」としか読めず、
 「邪馬臺國」と言うのはなまっているのではないか?と注を書いたのだと
 多くの人は解釈しています。)
僕は逆だと思っていますが、
後漢書倭伝を書いた 范曄は、
目の前で倭国について話している倭人が「やまと國」と言っているのに、
魏志倭人伝では「 邪 馬壹國 」と書いているが、
(後漢書は「後漢書なのに三国志より後に完成している」ので范曄は魏志倭人伝を読んでます。)
これはおかしいと「 邪 馬壹國 」を「邪馬臺國」に直したのだと思います。
つまり范曄は魏志倭人伝の「 邪 馬壹國 」と言うのは、
書写の際の誤りのせいだと思ったのです。

はたしてそうでしょうか?
陳寿(233~297年)の時代と范曄(398空~46年)の時代はそれほど離れてはいません。
150年くらいです。
まだ三国志の原本や正しいと言える写本が残っていたのではないでしょうか?
秦の時代には焚書坑儒と言って、都合の悪い本は燃やしていましたが、
范曄の時代南朝宋にはそんな必要は無かったと思います。

ではどうしてなのか?
中国に渡った倭人の違いだと思います。
倭国大乱のせいで、中国に渡る倭人に変化が有ったのだと思います。
陳寿の前で説明した倭人は「 邪 馬壹國 」を「やまと國」と呼ぶ立場の人で、
范曄の前で話した倭人は「 邪 馬壹國 」が狗奴国により滅ぼされた後の人だったのでは?
つまり「 邪 馬壹國 」を「やまと國」と読めない人だったのでは?

そこで上に書いた「倭音」です。
「倭音」は倭国大乱前後で大きく変化したのでしょう。
と言うか後漢書に載っている「倭面土国」も「やまと國」なのだと考えると
それ以前にも変化が有ったのかもしれません。

本当に「倭音」があって、「 邪 馬壹國 」は「やまと國」と読む人達がいたのか?
それは現代に至るまで痕跡が残っています。
日本では「豆」と書いて「とぅ」と読みます。
中国では「上古音」でも「漢音」でも「呉音」でも「とぅ」とは読みません。
いわゆる「訓読み」です。
これは「倭音」が有ったとすると、その時代から続いているのではないでしょうか?
例えば分かりやすいのが「納豆(なっとう)」です。
また「豆」を含む漢字も、「とう」と読む字がたくさん有ります。
「電燈(でんとう)」や「登攀(とうはん)」や「頭(とう)」などです。

このように考えると、陳寿は倭人が自分達の国の名前を、
「 邪 馬壹國 」と書いて「やまと國」と読むのを、中国ではそうは読まないよとは思いながら、
真面目な性格だったので、勝手に書き換えるのは許されないと考えて、
倭人の書いたそのままで魏志倭人伝に記載しており、
范曄の場合は倭人さえも「 邪 馬壹國 」を「やまと國」とは読まなかったので、
「邪馬臺國」と書いており、
後世の史書も、既に倭人の間でも「山門」や「大和」と書くようになっていたので、
「邪馬臺國」が正しいよなと言う話になっていたのだと思う。

つまり、「邪馬壹國」が正しいのか「邪馬臺國」が正しいのかと言うことについては、
「 邪 馬壹國 」が正しく、ただそのことは「 邪 馬壹國 」が滅んだ段階で消え去り、
恐らくは日本側も「山門」や「大和」と書くようになったので、
歴史の闇の中に消えてしまったのだと思う。
(「 邪 馬壹國 」=「やまと國」が滅びたのならば何故九州の「山門」と近畿の「大和」がある?
 当然その疑問はわくと思います。
 それは「やまと國」が狗奴国と戦って滅びた後にも、再度復活したり、
 また滅びたりを繰り返したからです。
 それは日本の歴史の中で記紀にも神話として記されています。
 記紀には九州と近畿の戦いが複数出てきます。
 元々「やまと國」は九州に有りました。
 「山門」の地名はその時代からのものです。
 神武東征と言うのは実は崇神天皇の時代の話で、
 狗奴国に滅ぼされたのちに復活した「やまと國」が近畿に攻め上ったのだと思います。
 そのせいで近畿も「大和」を名乗るようになります。
 本家は九州に有ったとしても、
 主力は近畿に移ったので漢字表記を「山門」から「大和」に変えて、
 「やまと國」を名乗ったのです。
 中国や朝鮮には「やまと國」のネームバリューが必要だったからです。
 景行天皇の九州行幸は近畿の勢力による九州の「やまと國」の復活の阻止だと思います。
 既に世代が変わり、九州の「やまと國」の生き残りも力をつけて来たからです。
 その後、逆に神功皇后が近畿に攻め上って再び九州の「やまと國」が政権を取り戻します。
 でも継体天皇の時代に近畿の勢力は九州を圧倒して「大和」は近畿の政権の名前になります。
 つまり日本の歴史は「やまと國」の分裂と興亡の歴史なのです。
 また、「 邪 馬壹國 」=「やまと國」ならば「壹与」も「とよ」と読むはずであり、
 これは後世の話にもつながる。
 「壹与」の治めた国は「豊の国」であり、後に分かれて豊前と豊後になる。
 近畿に行った「壹与」の子孫は実在の人物でも推古天皇=豊御食炊屋比売命など多数いるし、
 神話の時代には豊受(トヨウケ)大神など枚挙にいとまがない。)


ところで、
本当に倭国に「倭音」が生まれるほどたくさんの渡来人とその子孫が居たのかと言うことは、
次回のこの続きである「その3」に書こうと思う。
そうしないとこの仮説が証明できないから。






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最終更新日  April 12, 2026 06:57:43 PM
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