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つまり范曄は、目の前の倭人があまりに中国人に似ているので、
秦の始皇帝に命じられて日本に渡った子供の男女数千人の子孫かもしれないと考えたので、
わざわざ「史記」に書かれている徐福のエピソードを書いているのである。
もし范曄の目の前に倭人が居て、その倭人が中国人に似ていなければ、
伝説にすぎない徐福のエピソードをわざわざ後漢書に載せることは無いと思う。
読んだお役人や皇帝が必ずそのことを質問するからである。
そしてお役人や皇帝も、確かに中国に来ている倭人は中国人に似ていると思っているから、
それを「面白い仮説」だと考えて、そのまま載せることを許可したのだろう。
魏志倭人伝も同様である。
<原文>
男子無大小 皆黥面文身
自古以來其使詣中國皆自稱大夫
夏后少康之子封於會稽斷髮文身以避蛟龍之害
今倭水人好沉没捕魚蛤
文身亦以厭大魚水禽後稍以為飾
諸國文身各異或左或右或大或小尊卑有差
計其道里
當在會稽東治之東
<意訳>
男子はおとな、子供の区別無く、みな顔と体に入れ墨している。
いにしえより以来、その使者が中国に来たときには、みな自ら大夫と称した。
夏后 (
王朝 )
の少康の子は、会稽に領地を与えられると髪を切り体に入れ墨して蛟龍の害を避けた。
今、倭の水人は、沈没して魚や蛤を捕ることを好み、
入れ墨はまた (
少康の子と同様に )
大魚や水鳥を追い払うためであったが、
後にはしだいに飾りとなった。
諸国の入れ墨はそれぞれ異なって、左にあったり、右にあったり、大きかったり、
小さかったり、身分の尊卑によっても違いがある。
その (
女王国までの )
道のりを計算すると、
まさに夏后の少康の子が治めた会稽の東の地のその東にある。
「邪馬臺國」と書いたのは後漢書が最初で、
(上の原文中に(
案今名邪摩惟音之訛也 )と書いているのは後世の唐の李賢の書いた注で、
後漢書そのものの記述ではありません。
彼は魏志倭人伝の「 邪
馬壹國
」と言うのは、
今(唐の時代)の日本の国名である「大和(やまと)と比べると、
「邪摩惟(やまい)又は(やまゆい)」としか読めず、
「邪馬臺國」と言うのはなまっているのではないか?と注を書いたのだと
多くの人は解釈しています。)
僕は逆だと思っていますが、
後漢書倭伝を書いた
范曄は、
目の前で倭国について話している倭人が「やまと國」と言っているのに、
魏志倭人伝では「 邪
馬壹國
」と書いているが、
(後漢書は「後漢書なのに三国志より後に完成している」ので范曄は魏志倭人伝を読んでます。)
これはおかしいと「 邪
馬壹國
」を「邪馬臺國」に直したのだと思います。
つまり范曄は魏志倭人伝の「 邪
馬壹國
」と言うのは、
書写の際の誤りのせいだと思ったのです。
はたしてそうでしょうか?
陳寿(233~297年)の時代と范曄(398空~46年)の時代はそれほど離れてはいません。
150年くらいです。
まだ三国志の原本や正しいと言える写本が残っていたのではないでしょうか?
秦の時代には焚書坑儒と言って、都合の悪い本は燃やしていましたが、
范曄の時代南朝宋にはそんな必要は無かったと思います。
ではどうしてなのか?
中国に渡った倭人の違いだと思います。
倭国大乱のせいで、中国に渡る倭人に変化が有ったのだと思います。
陳寿の前で説明した倭人は「 邪
馬壹國
」を「やまと國」と呼ぶ立場の人で、
范曄の前で話した倭人は「 邪
馬壹國
」が狗奴国により滅ぼされた後の人だったのでは?
つまり「 邪
馬壹國
」を「やまと國」と読めない人だったのでは?
そこで上に書いた「倭音」です。
「倭音」は倭国大乱前後で大きく変化したのでしょう。
と言うか後漢書に載っている「倭面土国」も「やまと國」なのだと考えると
それ以前にも変化が有ったのかもしれません。
本当に「倭音」があって、「 邪
馬壹國
」は「やまと國」と読む人達がいたのか?
それは現代に至るまで痕跡が残っています。
日本では「豆」と書いて「とぅ」と読みます。
中国では「上古音」でも「漢音」でも「呉音」でも「とぅ」とは読みません。
いわゆる「訓読み」です。
これは「倭音」が有ったとすると、その時代から続いているのではないでしょうか?
例えば分かりやすいのが「納豆(なっとう)」です。
また「豆」を含む漢字も、「とう」と読む字がたくさん有ります。
「電燈(でんとう)」や「登攀(とうはん)」や「頭(とう)」などです。
このように考えると、陳寿は倭人が自分達の国の名前を、
「 邪
馬壹國
」と書いて「やまと國」と読むのを、中国ではそうは読まないよとは思いながら、
真面目な性格だったので、勝手に書き換えるのは許されないと考えて、
倭人の書いたそのままで魏志倭人伝に記載しており、
范曄の場合は倭人さえも「 邪
馬壹國
」を「やまと國」とは読まなかったので、
「邪馬臺國」と書いており、
後世の史書も、既に倭人の間でも「山門」や「大和」と書くようになっていたので、
「邪馬臺國」が正しいよなと言う話になっていたのだと思う。
つまり、「邪馬壹國」が正しいのか「邪馬臺國」が正しいのかと言うことについては、
「 邪
馬壹國
」が正しく、ただそのことは「 邪
馬壹國
」が滅んだ段階で消え去り、
恐らくは日本側も「山門」や「大和」と書くようになったので、
歴史の闇の中に消えてしまったのだと思う。
(「 邪
馬壹國
」=「やまと國」が滅びたのならば何故九州の「山門」と近畿の「大和」がある?
当然その疑問はわくと思います。
それは「やまと國」が狗奴国と戦って滅びた後にも、再度復活したり、
また滅びたりを繰り返したからです。
それは日本の歴史の中で記紀にも神話として記されています。
記紀には九州と近畿の戦いが複数出てきます。
元々「やまと國」は九州に有りました。
「山門」の地名はその時代からのものです。
神武東征と言うのは実は崇神天皇の時代の話で、
狗奴国に滅ぼされたのちに復活した「やまと國」が近畿に攻め上ったのだと思います。
そのせいで近畿も「大和」を名乗るようになります。
本家は九州に有ったとしても、
主力は近畿に移ったので漢字表記を「山門」から「大和」に変えて、
「やまと國」を名乗ったのです。
中国や朝鮮には「やまと國」のネームバリューが必要だったからです。
景行天皇の九州行幸は近畿の勢力による九州の「やまと國」の復活の阻止だと思います。
既に世代が変わり、九州の「やまと國」の生き残りも力をつけて来たからです。
その後、逆に神功皇后が近畿に攻め上って再び九州の「やまと國」が政権を取り戻します。
でも継体天皇の時代に近畿の勢力は九州を圧倒して「大和」は近畿の政権の名前になります。
つまり日本の歴史は「やまと國」の分裂と興亡の歴史なのです。
また、「 邪
馬壹國
」=「やまと國」ならば「壹与」も「とよ」と読むはずであり、
これは後世の話にもつながる。
「壹与」の治めた国は「豊の国」であり、後に分かれて豊前と豊後になる。
近畿に行った「壹与」の子孫は実在の人物でも推古天皇=豊御食炊屋比売命など多数いるし、
神話の時代には豊受(トヨウケ)大神など枚挙にいとまがない。)
ところで、
本当に倭国に「倭音」が生まれるほどたくさんの渡来人とその子孫が居たのかと言うことは、
次回のこの続きである「その3」に書こうと思う。
そうしないとこの仮説が証明できないから。