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August 16, 2026
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もう退職した身なので、「お盆休み」と言うことはないのだけれども、
習慣とは恐ろしいもので、何となく(毎日が日曜日なのに)休みには何かやろうと言う気になり、
本を読むことにした。
でも最近の本は高いので、図書館に行って借りて来た。
寺沢薫先生の「卑弥呼とヤマト王権」。
この本は結構レベルが高くて難しいけれども、面白くて参考になった。

先生の知識レベルと探究心は半端なくすごい。
まぁ「桜井市纏向学研究センター」所長なので、当たり前と言えば当たり前なんだけれども、
普通の史学の先生よりは考古学の先生に近い。

史学の先生の多くが「歴史はロマン」とうそぶくのとは正反対で、
僕的には立派な先生だと思えた。

ただ、先生も多くの史学の先生と同じ間違いに陥っておられる面はある。
それは「証明の方法」である。
史学の先生方は「証明の方法」を知らない。

袴田事件と言う日本の冤罪史上有名な事件が有る。
簡単に概要を書く、
袴田事件(はかまたじけん)は、
昭和41年6月30日に今の静岡市清水区横砂東町)の民家で発生した強盗殺人・放火事件。
現場の家に住んでいた味噌製造会社専務の一家4人が殺害されて金品を奪われ家に放火された。
事件発生当時、同社の従業員だった袴田巌(はかまた いわお)が

逮捕・起訴された末に死刑判決が確定するに至ったが、
後に再審で無罪が確定したという冤罪事件、
および真犯人が検挙されることなく公訴時効が成立した未解決事件でもある。
日本弁護士連合会が再審請求を支援していた。
7月4日、清水署が、味噌製造工場および工場内従業員寮を捜索し、

袴田が捜査線上に浮かんだ理由は、巨漢で柔道の有段者である専務と格闘できた人間として、
元ボクサーである袴田の名が浮上したとされている。
9月6日、犯行を頑強に否認していた袴田が勾留期限3日前の同日犯行を自白。
自供内容は、前日(6月29日)夕方に犯行を決意して従業員寮で時間を待ち、
30日1時20分ごろ、パジャマの上に工場内の雨合羽を着て、
工場から見て東海道線の向こうにあったA宅に侵入したが、
寝ていたAに気づかれて大声を出されたため、格闘の末に持っていたくり小刀で刺殺した。
その後、Aの大声で目を覚ましたB・D・Eも相次いで殺害し、
「焼いてしまえば跡が残らない」と考え、
1人1人に油をかけた上でマッチを使って点火した――というものである。
袴田への取り調べは過酷を極め、炎天下で1日平均12時間、最長17時間にも及び、
水も与えずトイレにも行かせず、精神的・肉体的拷問が繰り返された。
さらに取り調べ室に便器を持ち込み、取調官の前で垂れ流しにさせるなどした。
つまり唯一の証拠である自供は、拷問により無理やり導き出された物だったのである。
巨漢で柔道の有段者である専務と格闘できた人間として、
元ボクサーである袴田の名が浮上したなどと言うのは、
全く証拠にはならない。
そのうちに味噌製造工場にある味噌の1号タンク内から従業員が血染めの「5点の衣類」を発見。
これが唯一の物的証拠として採用された。
ところが検察の証拠や供述について次第にほころびが出始め、
袴田の同僚が袴田のアリバイを供述していたにもかかわらず、
検察は袴田が犯人であるかのような供述に捏造していた事実が発覚した。
つまり検察は自分達に都合の悪い証拠は隠して(無視して)、
自分達に都合の良い証拠だけをあげて、袴田巌を犯人に「仕立て上げていた」のである。
また「味噌漬け実験」が行われて、
味噌の1号タンク内から発見されたとされる「血染めの5点の衣類」が捏造であることが判明。
ここに至って、
事件の犯人が袴田巌であると言うのは「証拠の捏造や隠ぺい」による冤罪だと判明した。

この事件と日本の史学の先生方は「証明の方法」を知らないと言う事実の関係は同根である。
日本の史学の先生方は、まず答えを想定して、それに合う証拠を探し、
見つかると自分達の考えは正しかったと判断する。
場合によっては「証拠を書き換えて」自分達の考えに合わせる。
例を挙げると、
1.纏向は3世紀半ばの遺跡だから邪馬台国の都である。
2.卑弥呼は魏から100枚の鏡を得た。だから三角縁神獣鏡の出る所が邪馬台国である。
3.魏志倭人伝は「南と東を間違えて書いている。」だから邪馬台国は近畿である。

まったく証明にはなっていない。
1.と2.はまず答えを想定して、それに合う証拠を探した例である。
 袴田事件の例では、
 袴田巌が犯人だと言う答えをまず考えて、袴田巌犯人説に合う証拠を探し出し、
 その探し出した証拠は「巨漢で柔道の有段者の専務と格闘できた人間」だろうと言うだけで、
 「小柄だけれども体格が影響しない合気道の強者や空手家」でも該当するのである。
 「元プロボクサー」である必然性は無い。
 つまり袴田巌を犯人にする為に考え出した証拠であって、
 他の人が犯人ならば別の証拠は当然たくさん考えられるのに、その検討はあまりしていない。
 また、この「元プロボクサーだから犯人だと言う証拠」が正しいのかどうかも検討していない。
 邪馬台国も同じで、纏向は3世紀半ばの遺跡だから邪馬台国の都であると言うのは、
 魏志倭人伝によれば3世紀半ばには日本には少なくとも30以上の国が有り、
 そのどこの国の都だとしても該当するので、
 邪馬台国の都だと言う根拠にはならない。
2.に至っては近畿説の立場の人さえも否定する人が多い。
 例えば肝心の中国からはほぼ出土しないし、国産鏡の可能性が高い。
 根拠にする人が多い島根県雲南市の神原神社古墳の「景初三年」鏡は
 そもそも近畿ではなく出雲の古墳から出ている。
 近畿の古墳である京都府の広峯15号墳から出土した「景初四年」銘の鏡は、
 斜縁神獣鏡(盤龍鏡に近いともされる)であり、年号: 「景初四年」は存在しない。
 これを何とか卑弥呼の鏡に結び付けようとするが、
 無理が多すぎて近畿説の立場の人さえも否定する向きが多い。
3.は「証拠を書き換えて」自分達の考えに合わせる良い例である。
 証拠を書き換えるなどと言う証明方法は、事件の犯人の決定の場合には決して許されない。

何故、近畿説の立場の人は「冤罪」である袴田事件の場合と同様に、
まず邪馬台国は近畿に有ったと言う答えを決めて、
その証拠を探す手法を採ろうとするのか?
それは北部九州説の人も同様であるが、他の証明方法を知らないからだろうと思う。
そのせいで魏志倭人伝に書かれた道里や方角とはどうしても合わず、
無理な証拠を探して来るので「冤罪」になってしまう。
特に近畿説で言う纏向遺跡は「魏志倭人伝に書かれていない邪馬台国」になっている。
魏志倭人伝に書かれたことを「南を東に書き替えて」はじめて成立しているのだからである。
証拠を「書き換える」等と言うのは言語道断である。

では何故近畿説や北部九州説の立場の人達は「冤罪」を生む証明方法を採用するのか?
一番の理由は「思い込み」である。
「邪馬台国はここにあったはずだ」とか「この時代にはまだ文字が無く知識層が居なかった」、
あるいは「日本人は入れ墨なんかしない」と言った根拠のない思い込みである。
なので、最初に答えを決めて証拠を探す。
たくさんある証拠の中から、片寄った証拠だけしか探さないので、
自説に都合の悪い証拠は無視する。
他の証拠が見つからないのは無理もない。他の証拠は探さないのだから。
証明方法を間違っているのだと思う。

寺沢先生は近畿説の論者であるが、他の近畿説の人達とはちょっと違う。
先生は考古学に詳しいので、他の先生のように「歴史はロマンである」とは考えない。
徹底的に証拠を探して、論理的に考えようとする。

例えば先生は箸墓は卑弥呼の墓とは認めない。
卑弥呼の墓は魏志倭人伝には「塚」と書かれており、
これは考古学的には大型墳丘墓の範疇だと考えている。
大きさも150歩は当時の1尺の約24cmX6尺=1.44mが一歩だから144mであり、
魏志倭人伝に書かれた「卑弥呼の塚」にしては、たとえ円墳部だけと考えても大きすぎ、
前方後円墳全体だと2倍を超えるので無理が有ると考える。
他の学者先生のように「円墳部だけだ」とは考えない。
何故なら上に書いたように「塚」だから。
また、魏志倭人伝には、中国とは違う風習や特徴は詳しく書く傾向が有る。
例えば対馬海峡の航海の様子では持衰(じさい)について書いており、
倭人は海に潜って魚などを採るので入れ墨をしている等と書いている。詳しい。
それであれば、中国とは違う「塚」=前方後円墳ならば必ず書くはずである。
そう考えておられる。
僕もそうだと思う。
また先生は築造時期に関しても、箸墓は卑弥呼の時代よりも後だと考えておられる。
布留0式古相期の暦年代を、考古学的に3世紀後葉と考えておられるからである。
僕もそう思う。

先生は三角縁神獣鏡も卑弥呼の鏡だとは考えておられない。
京都府の広峯15号墳から出土した「景初四年」銘の鏡は
斜縁神獣鏡(盤龍鏡に近いともされる)であり、年号: 「景初四年」は存在しないからである。
島根県雲南市の神原神社古墳の「景初三年」鏡は三角縁神獣鏡ではあるが、
この古墳自体が4世紀の古墳であり、
苦しくなった学者達は
これを伝世鏡(製作時から相当に時間が経過した後に持ち主と共に埋葬された鏡)と考えて
しのごうとする。
でも無理が有ると先生は考えている。
以下は先生の説ではなく僕の説であるがちょっと書いてみる。

この「景初三年」鏡が本当に卑弥呼の鏡であるならば、
邪馬台国は近畿でも北部九州でもなく、出雲に有ったと言う方が信憑性が高い。
ただ、それを書いたものが何も無いので学者先生方は悩む。
でも、この鏡を神話であるが神武東征と絡めればそれなりに話は通じる。

邪馬台国が北部九州で、
東征する際に途中の広島あたりにいた時に地元の有力者に与えたと考えればうまく解決する。
何故、瀬戸内海側ではなく日本海側かと言うと、
近くで鉄が採れる場所(江の川)が有るからである。
神話では神武天皇は瀬戸内海では結構数年も滞在する。
一直線には近畿を目指してはいない。
恐らく地元に抵抗する勢力が居たからだと思う。
そんな時に鉄剣や鉄の矢じりと言う秘密兵器が見つかったならば、ものすごく有利になる。
(神話でも、場所は違うが熊野で負けそうになった神武天皇に
 天照大御神に命じられた武御雷神が「ふつのみたま」の神刀を与え、
 それにより神武天皇は立てなおして最後は東征を成功している。
 うーん、ヤマタノオロチ伝説の舞台が江の川で、
 天の村雲の剣がここで作られた物とするならば、
 武御雷神が「ふつのみたま」の神刀が実はその剣で、
 もしかすると神話の形成の途中で、ここでの話が熊野の話になってしまったのかも?)
東征を目指す神武天皇にとっては鉄の生産者は有力な味方だったと思われる。
鏡を与えて当然の人達だと思うし、
同時にその人達が東に勢力を伸ばす際には神武天皇の配下達も協力しただろう。
なので鏡は雲南市に有ったとしてもおかしくはなく、むしろ理にかなっている。

このことは後漢書を読んでも分かる。
魏志倭人伝の頃に南に居た(クコチヒコ=菊池彦の祖先ならば恐らく熊本)狗奴国は、
後漢書の時代には「女王国の東の海を渡った千里の所」に移動している。
狗奴国は卑弥呼を攻めていた国で、その後卑弥呼は死んでいる。
戦争で亡くなったのか、卑弥呼が死んで戦争が終わったのかは分からない。
後漢書には次のように書かれている。
 「自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種而不屬女王」
(女王国より東に海を渡って千余里で拘奴国に至る。
 みな倭種であるけれども女王には属していない。)
1里を70~80mとすると、まさに広島付近である。

なのでもし「景初三年」鏡が本当に卑弥呼の鏡であるならば、
むしろ北部九州説の証拠になってしまう。
先生が三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡では無いと考えるのはこの推理も有るのかもしれない。

以上から先生は近畿説の立場ではあるが、
考古学的に考えて箸墓は卑弥呼の墓ではないし、三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡では無いとしている。

でも悲しいことに先生にも立場が有り、
どうしても纏向を邪馬台国の都だと主張しなくてはいけないので、
無理を承知で色々な説を展開して、纏向を邪馬台国の都だとしている。
1.卑弥呼が「共立」されたのは、
 倭国大乱により瀬戸際に立たされた倭国の王達が、合議に基づく統治体制への転換を図り、
 纏向は環濠のような戦争に関わる施設が見当たらず、
 過去の時代の生活に関わる遺跡が見つからないことから祭祀遺跡であり、
 邪馬台国の都にふさわしい。
2.魏志倭人伝には伊都国に一大率と言う諸国を見張り、卑弥呼を助ける職階が居たらしいが。
 北部九州にはそれを証明する遺跡が見つからない。
 (一大率を王権からの派遣官だと考える。)
3.混一疆理歴代国都之図を例に挙げて、15世紀でさえも地理的な誤りが残っていたと考えて、
 それが倭国が魏の冊封体制下に入ろうとしたことに結びついた。

でも、それぞれ根本的に誤っている。
1.で倭国の王達が、合議に基づく統治体制への転換を図ろうとしたのは事実だと思うが、
 その結果である卑弥呼の都が纏向だと言う理論には結びつかない。
 何故なら魏志倭人伝の中に書かれた卑弥呼は、狗奴国との戦争中だし、
 魏に救いを求めるほど切迫していたと書かれているからである。
 纏向の平和な遺跡にはとうてい結び付かない。
 狗奴国からの襲撃から守る為に環濠や柵に囲まれていた方がふさわしい。
2.の根拠は一大率が「派遣官」で遠くにいる卑弥呼から派遣されて来たのだから、
 卑弥呼は北部九州にはいなかったはずだと言う前提のようだけれども、
 完全な思い込みである。
 卑弥呼は武による統治者ではなく祭祀を司る立場である。
 現在の日本を見ればすぐに理解できると思う。
 皇居と首相官邸は1kmも離れていない。
 卑弥呼を天皇陛下、内閣総理大臣を一大率だと考えれば、
 両者が離れた場所にいる必然性は無いと言うことが容易に分かると思う。
3.はそもそも先生が気の毒である。
 手にされた資料が適切なものではなかったせいで、誤った結論に至っている。
 まずは先生が著作に載せた地図。(なお、下の方の注記は僕が書き加えたもの)


確かにこの地図だと(北が上だと信じる人にとっては下は南なので)南と東を間違えたと
信じてしまうかもしれない。
でもこれは一部の悪質な邪馬台国近畿説の信者の「証拠の偽造」である。
偽造の際に削られた地域がまだ載っている地図が残っている。
本当の地図はこちらである。


こちらを見ると欄外に色々な説明が有り、
左の方にマレー半島や海南島が有るのが分かる。
また台湾は中国に対して「下」になっている。
つまり「左が南」で「上が西」そして「下が東」として書かれた地図なのである。
「上が北」ではない。
恐らく、大事な所つまり中国中心部を上に書いたのでこうなっているのである。
それを邪馬台国近畿説の信者が北が上だと偽って、都合の悪い部分を切り取ったのであろう。
完全な証拠の偽造である。

<後日追記>
Wikiの「混一疆理歴代国都之図」を見て驚いた。
邪馬台国近畿説の信者たちは恐ろしい。
上の「混一疆理歴代国都之図」を素直に読むと左の部分は明らかにマレー半島や海南島なのに、
これを「中東」つまり紅海やアラビア半島だと書いているのである。
途中のインドが無いじゃん!
つまり近畿説の信者が、どうしてもこの地図の上が北で、
日本が「南と東を間違えて」書かれていると言うことにしたくて、
無理矢理こじつけているのである。
Wikiなので誰でも編集できるから、それを利用しているのである。
邪馬台国近畿説の信者はひどいと思う。

仕方ないので、現代の地図を90度回転して、
「上を西」にした地図を作り「混一疆理歴代国都之図」と比較してみた。


朝鮮半島が巨大(李氏朝鮮で書かれたのだから仕方ない)なことを除けば、
ほとんど一致しており、
結構正確なことが分かる。
ただ、東シナ海がフイリッピンを上に描き過ぎて閉じてしまい「大きな内海」になっているのは、
まぁ朝鮮の方の描いたものだから仕方ない。
けれども、Wikiのように左側を中東にして、インドを無かったことにするよりはマシだと思う。

ちょっと調べてみると上の「混一疆理歴代国都之図」では作図上の理由で、
上下に描かれた文字等を省略してしまったし、
字が小さいので地図上の文字が見えないので分からないのだが、
学者達が上の「混一疆理歴代国都之図」を「世界地図」だと考えているのは、
それらの文字情報がアフリカやヨーロッパの地域情報と一致しているかららしい。
それにしては地図がアジアの地図に一致しすぎてはいないか?
これを「アジアの地図」として見るならば、
上が西だとして見れば、日本の位置と向きは現代の地図に完全に一致しており正確である。

僕はその理由は簡単だと思う。
この地図は李氏朝鮮の人が古い中国で描かれたアジアの地図を「世界地図」だと思い込み、
自分達がアラビアや中国経由で手に入れたアフリカやヨーロッパの地名を、
無理矢理あてはめた物だからだと思う。
その証拠は右上の以上に大きい朝鮮半島である。
彼らは地理的な知識が無く、ただ手に入った情報を元に、
誤った組み合わせで地図を作ったのだろうと思う。
現に台湾だと思われる所に東南アジアの情報を詰め込み過ぎて、めちゃめちゃになっており、
そのせいで「台湾が無くなっている」のである。
これが「世界地図」ではなく「アジアの地図」ならば台湾はちゃんとある。

元になる地図がアラビア経由でもたらされたなら、シルクロード経由なので、
そもそもインドが無くなるはずが無く、
中国に仏教をもたらしたインドを消してしまうはずが無い。
参考に紀元前2世紀のギリシャにいたマロスのクラテスの地球儀の図を
ネットからお借りして載せる。

アラビア経由で中国や李氏朝鮮に情報が伝わったのならば、
上のギリシャ時代から1600年もたっている。
インドが無くなったり、アフリカの真ん中に海が有るはずは無い。

なので地理的な知識が無かった李氏朝鮮の人が、
中国から手に入れたアジアの地図を「世界地図だと思い込んで」、
それにアラビア経由で中国に伝わったヨーロッパの地名情報を、無理やり詰め込んだので、
この地図は、中国にとって大事なはずの台湾やインドが無くなっており、
アフリカには真ん中に大きな穴が開いていると言う変な地図になっているのである。
アジアの地図を「上が西」にして描いた物と考えれば、
確かに朝鮮半島が大きく、東シナ海が閉じてしまってはいるが、大きな違和感は無い。

ちなみに日本の部分は「行基図」が朝鮮に渡って、
それがこの「混一疆理歴代国都之図」に反映されたと言う人がいるが、
それは地図の中の日本の真ん中にカタカナで「ヤマシロ」と書かれているので間違いだと分かる。
1402年当時は室町時代で、「山背」は既に「山城」になっており、
中国にとっても李氏朝鮮の人にとっても重要な地名ではない。

では何故カタカナで「ヤマシロ」と書かれているのか?
それは(想像ではあるが)日本で「ヤマシロ」が重要であった時代に中国に渡った人からの情報が、
その当時に中国で作成中だった「混一疆理歴代国都之図」の元になる地図に反映された結果だと、
想像される。(中国に渡った人と言うのは山背を拠点とする秦氏だったのかもしれない。)
これが「行基図」だったのかもしれない。

その中国の古地図が後世に李氏朝鮮に伝わった物が「混一疆理歴代国都之図」の元なんだと思う。
現存する「混一疆理歴代国都之図」に赤い点とカタカナで「ヤマシロ」と書かれているのは、
日本に渡って来た「混一疆理歴代国都之図」を見た後世の日本人が、
「山背」と書かれているのを見て、これは珍しいと後世に書き込んだ結果だろう。
そうでなければ、(漢字ではなく)カタカナで「ヤマシロ」と書く必然性は無い。
普通ならば、1402年に書かれたのであれば「京都」ではないだろいうか?

そもそも1402年ごろならば、既に方位を間違えるはずが無くなっている時代である。
前九年の役(1051~1062年)と後三年の役(1083~1087年)の役はこの350年前に終わっており、
ちゃんと「東北は北」として認識されて、色々な書物にも書かれている。
日本でさえも既に方位を間違えることのない時代に作られた地図なのだから、
中国や朝鮮でも、方位を間違えるような時代ではない。
それなのに「混一疆理歴代国都之図」を「上が北」と認識しながら描いたとはとうてい思えない。
この地図は、
「上が西」つまり当時の世界の中心である中国の中心地域を中央上部に描いた地図だろう。

また、ふと気がついたのだが、僕は過去に中国に旅行に行っており、
その時に西安に行っており、その時に玄奘三蔵院に行ったのを思い出した。
あそこには、
玄奘(三蔵法師=孫悟空と天竺に行ったのは小説だけど現実にも玄奘はインドに行っている)が、
インドをぐるーっと遍歴したルートが載った地図が有った。
あんだけぐるーっと回ったのならば、当然インドの地図は持っていただろう。
ならば玄奘はインドの地図を持って帰っただろうと思う。
つまり当時の中国人はインドの地図を持っていたはずなのである。(玄奘は7世紀の人)
参考にその時の中国旅行の様子を載せる。
​ クラブツーリズムの中国旅行:北京-洛陽-西安に行って来ました。6日目は大雁塔と青龍寺・興慶寺他 ​
ちょうど中央付近に玄奘三蔵院の様子が書いてあるので、
是非ご覧いただきたい。

なお、僕はWikiの編集の仕方を知らないので、Wikiを正しい姿に修正できない。
誰か正しく修正してもらえないかな。
後日追記終わり。

だからそれをつかまされた寺沢先生がお気の毒である。
おそらく先生を自分達近畿説の先頭に立っていただくために先生をだまそうとしたのだろう。

こんな感じだから、(追い詰められた人間は何でもするので)
結論を最初に決めて、それに合う証拠を探す証明方法はやってはいけないのである。
袴田事件の「血染めの5点の衣類」が捏造と同じである。
知識が豊富で理性的な寺沢先生がお気の毒である。

そうそう付け加えるならば、
先生は前方後円墳を「単に円墳とその造出部が発展したもの」ではなく、
中国の「天円地方」に基づいた、「四角と円の組み合わせ」だと書いておられる。
そして単なる死者の埋葬儀式ではなく「王権の継承」の儀式の場だと考えておられる。
僕は大賛成である。(僕は昔からそう主張している)

それは継体天皇陵である今城塚古墳や千葉の柴山古墳を見ればすぐに分かる。
古墳に埴輪でできた行列を伴っているのである。
人によっては行列ではなく「葬列」だとしているが、
行列の内容が全く葬列らしくない。
何で葬列に「お相撲さん」がいるの?

中国の映画等を見ていると、皇帝の行列にお相撲さんによく似た「でぶちん」が並んでいる。
この場合の行列は「お祝い」の行列である。
ちょっと話は違うが秦の始皇帝も有名で、若き日の項羽と劉邦がそれを目撃し、
項羽は「奴にとって代わってやる」と息巻いたのに対して、
劉邦は「あぁ、男として生まれたからにはこうでなくては」とつぶやいたとされている。
まぁそんな感じだから、
継体天皇陵や千葉の柴山古墳の埴輪の列は王権の継承に伴う威信を示す行列だったんだと思う。

だから繰り返しになるけれども、先生は理性的な方で、
実は真実を既に御存知なんだけれども、
その立場上、「纏向は邪馬台国だ」と言わざるを得ないのだと思う。





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最終更新日  August 30, 2026 05:01:24 PM
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