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・・・希望とは、いまだ答えのない問いを答えのないままにしようとすることであり、まだ分からない将来をわからないままにしておくことです。希望は、平穏な心地良い時だけでなく、絶望や暗闇の陰に置かれたときも、神の導きの手を見させてくれるものです。(ヘンリ・ナウエン Turn My Mourning Into Dancing Finding Hope In Hard Times )お茶関係の打ち合わせやら、資料作成が続いております。眠い。でもね、こういう細かいことやら、ひとと会ったり、話したりすることから、いろんなことが生まれるわけですね。生産的だったり、建設的だったり、効率的だったり、前向きだったり、目に見えてプラス方向に行くことばかりが大切なわけじゃなくて、しょーもない、と思っても一緒に時間や空間をシェアすることで見えない何かが紡ぎ出されているわけで。そういうことが、やっぱり、大切なんだとまた、思えるようになってきたといいましょうか。まあ、実に、結局、そういうところにいるのがほっとするのかもしれません。一家の大黒柱を支えながら、こういう生活ならいいんでしょうけどね。『ちょっと違うんじゃないか』と自覚しつつも軌道修正はかれないままに、人生半分以上来てしまったうえに、ますます、どうにも正常な方向には向かっていけそうにないのであります。なぜこうも、望んでいない方向に突っ走り続けるのか、あー、意味不明。すべてのことにはときがあるはずなので、今は、できることをやるのみってことで。まさに、今はまだわからないことをわからないままに、希望を持って、神を待ち望む・・・と、そういうことです、神様。アーメン。
2007.02.21
喪失は動かしがたい事実です。しかし、選択することができます。すなわち、この喪失という現実をどう生きるかです。わたしたちはこの人生において、また心の内側においても、人生の暗闇のただ中でさえ神の霊が働いていることに気づくようにと、何度となく招かれているのです。生き方を選ぶようにと招かれています。苦しみを理解する鍵は、人生で遭遇する不都合や痛みを否定しないことにあります。(ヘンリ・ナウエン Turn My Mourning Into Dancing Finding Hope In Hard Times )毎日が選択と決断。とはいえ、ひとが選べることなんて、ほんとは、ほんの少し。決断を迫られることは、得難いことかも。『生き方』なんて、そんな大きな決断じゃなくて、壁の材質とか、トイレの色とか、実に物質的な選択を日々迫られております。考えている中で、決断をくだしていく中で、物事を選びとるときの自分自身の姿がおぼろげに見えてくるような。実は、いろんな決断を下すための思考力やら決断力がもうちょっと、回復しきれていないんだな、と思えたりするのだが・・・。でも、これが1年前だったら・・・と思うと空恐ろしい。そう思うと、今でよかった(んだろうな)。決断を『迫られる』という形で、なんとか、ハードルをひとつずつ、背中を押され、腕を引っぱられて、越えざるを得ない、という実感。すべてが完了したときに、私の頭の中のようになんだかまとまりないものになっていませんように。(って、これは、神様じゃなくて、うちの建築家氏へのお願い。)
2007.02.20
こうしたあらゆることが、起きては霧のように消え去るかに見える一方で、死も病も破壊することのできない何かが形造られています。見る目があり、聴く耳を持っている者にとっては、この移ろいやすい人生の泡沫の多くのものは、過ぎ去るのではなく永遠に続くものであり、朽ち果てるものではなく命に至るものであり、一時的なものではなく永遠のものなのです。(ヘンリ・ナウエン Turn My Mourning Into Dancing Finding Hope In Hard Times )ゆるゆる着ているつもりでも何本もひもで結んだり、帯を巻き付けていたり、ストレッチ性のない足袋を履いたまま、二日も過ごすと、なんだか、『滞ってる』感じ。午後からジムで汗を流して、仕事が終わってから、温泉に行きました~。塩分と鉄分を含むお湯にじっくりつかる。夏場は露天風呂だけど冬場は、しっかりとシートで囲まれています。それでも温いお湯にずーっとつかっていられる。あったまります。マンゴージュースとか、プーアール茶なんかをたくさん摂ったら、なんだか、身体がすっきりしてきたような気がします。あとは、寝るだけ。あれこれ、やらなきゃいけないことはたくさんあるんだけど。とりあえず、寝る。
2007.02.19
自ら苦しみを切り離そうと努力することは、神が私たちのために負ってくださった苦しみから、自分を切り離すことになります。喪失の苦しみや心の痛みから脱出する道は、その中を歩み、そこを通り抜けることなのです。イエスが『私は正しい人を招くためでなく、罪人を招くために来た』(マタイ9・13)と言われたとき、自分の傷ついた状態に向き合うことによって癒され、新しい人生を歩むことができることを意味しました。(ヘンリ・ナウエン Turn My Mourning Into Dancing Finding Hope In Hard Times )ギャラリーで催されたお茶会は、お客さまが200名を超える大盛況。無料のお呈茶にしては、大盤振る舞いのお菓子でしたな。おいしかったよ~。おいしいおまんじゅうはいいね。お点前は私ひとりで。何度もお点前してるとだんだんなにがなんだかわからなくなってきました。わはは。さっき、帰って来たんだけど明日の朝、7時には、また、着物着て出かけるんだなぁ、これが。ぐえ。衣紋掛けに掛けておいてそのまま、着てっちゃうもんね~。できたら、頭も顔もそのまま、明日行くホテルの駐車場で夜明けを待ちたかったよ。お風呂入って、寝よ。
2007.02.17
お仏壇。一桁違う。
2007.02.17
キリストは・・・、日々の多くの苦しみに触れ続けるように、そして傷と苦難と破綻を抱えて生きる、まさにその場所で、希望と新しい命の始まりを味わうようにと私たちを招いています。(ヘンリ・ナウエン Turn My Mourning Into Dancing Finding Hope In Hard Times )午後からお茶関係のミーティング、および見学、児童館の下見と打ち合わせ、で、仕事で帰宅は11時半。夜中の正午にお夕食じゃあ、朝からヨガやってもなぁ・・・。で、明日は、午前中にお仏壇屋さんが来るし、夕方からお呈茶、明後日に至っては、着物着て朝8時に集合、その後、またも見学、ミーティングとお茶関係が続いて今週末もしっかりつぶれるのである。今月は、週末のジムは絶望的なので、今朝は、早起き(っていってもわたくし時間)して午前、2本。ヨガとローインパクト。朝は、こころなしか、おばさま率がup。結構、ハードなヨガクラスもいとわず。時間ギリギリにスタジオに入ったら場所取りが・・・。が、そういうときは、しきりオバに感謝。ローインパクトもかっこいいインストラクタでした。また行こうっと。シャワー浴びてロッカー出て、スタジオのガラスのドア越し、最近、よくお見かけするおばさまがなんと、3本目の『ボディ・コンバット』で激しく、パンチ、キックしてるのを発見!!!なんちゅうスタミナじゃ~!いやはや。女性の平均寿命が長いのは当たり前じゃて。スタミナ、といえば、ドライヤー使ってる間もガンガン響く話し声。『ヨガやってエアロビやって、今、泳いで来たの~。』ひえー、すごいわぁ。『やーだ、私、あっちでおしゃべり、こっちでおしゃべり』う~む、水着のままでは冷えるであろう。シャワー室でも『私ね、スタミナ無いから長く泳げないと思ってたの。』ありえない。朝っぱらからヨガ1時間、続けてエアロビクスにプール、そして、絶え間ない大声。スタミナでなくてなんなのじゃ。『先生がおっしゃるには、フォームがきちんとしてれば、いくらでも泳げるんですって。私、自分にスタミナがないからだと思ってたわ。』わしもがんばるのである。スタミナ、つけるぞー!
2007.02.16
・・・わたしはときに、こう自分に言い聞かせねばなりません。『神は信頼できるお方だという確信は、わたしの内にある。いまだ心からそう言い切ることができないにしても』 すべてのことが完璧でなくとも、他人が私の行動を批判するだろうとわかっていても、わたしの限界ゆえに多くの人たちが、あるいは自分も失望するかもしれないという恐れがあるときも、あえて自分にそう言い聞かせるのです。・・・(ヘンリ・ナウエン Turn My Mourning Into Dancing Finding Hope In Hard Times )さてさて、あまり時間がとれなくてぼちぼちとしかジムに通っていませんが、それでも4週間を過ぎ、マシン・トレーニングをめずらしくがんばって、今、まさに、『筋肥大』が起こりつつありますねぇ。なぜか、Body Pumpの時間にジムに行けず、しかたなく嫌いなマシンに向かっているうちに結構、おもしろくなってきました。有酸素系およびトレッドミルでもともと筋肉の付きやすい脚はすっかりがっちり。う~む。これがね。ま、ともかく、筋肉を大きくすることがまず最初だから。筋肉が育って来ると、なのか、有酸素運動で脳に十分な酸素が送られるから、なのか、それとは、実はまったく無関係に大脳が萎縮していきつつあるからなのか、あまり深くも落ち込まず、悩みも深くはならないのである~。わはは。ま、つまりは、現状維持。バカなのか。運動して、おいしいものが食べられて、何の不足がありましょうや。しかし、頭を病んでから、確実に短期記憶に支障をきたしている実感。う~む。まあ、いいこともあるんですけどね、そのおかげで。さてと、パックもしたし、明日からまた忙しいのであった。寝ようっと。
2007.02.15
flowers for myself .....
2007.02.13
炉の灰、炭点前なしのとき、枝炭なし。枝炭は灰を荒らす。風炉は持ち帰るので枝炭をいれる。胴炭を入れ、下火(半分ほど熾す)をいれ、以下、炭をつぐ。釜の湯は、九分まで。濃茶の途中で枯れないように。濃茶は5人1椀で、茶杓11杯ほど。和ろうそく。準備のときに、一度、点火して芯の周りのろうを融かしておくと点すときにすぐにつく。また、燃やすと芯が伸びるため、点灯する時間は短く。席入りのときに点いていると危険なので、お菓子が運ばれてから、点火する。主客 → 点前 → 以下、詰めまで。お詰めの席の燭台は、危険を避けるため、毛氈の上に足をのせないように。茶碗を温める時は、どっぷりと湯に浸す。土の部分の汚れを防ぐため。【追記】炭は炉縁をはずしてつぐ。
2007.02.11
先週、なにはともあれ、無事、ひとつ年を取りました。よかった、よかった。いうことなし。小・中・高・大学、そしていろんな時代?のそれぞれの友人からメールや電話やお花をもらいました。幸せなやつよのう、自分。感謝、感謝。午前と夜、お茶のお稽古に行ったのもなにか、この1年を象徴するのか、それをいうなら、そのお稽古場で出会う人々こそ、なにかを示唆しているのであるか。う~む。このところ、自分を振り返るに、「どうもこれは『お茶好きな人』の行動パターンであるが、 自分は、どうもそれほどお茶が好きでないかも・・・」とついぞ、思い至る。ってか、なんだか、根本的に間違った道を行き始めているようでならない。いや、お茶は好きだ。(たぶん)が、どうも、テンション落ちまくり。原因は、お茶を巡る人間関係。いや、関係はあまり持ちたくない人たちにお茶をやっていると会わざるを得ないのである。本末転倒ではあるが、そんなつまらない原因で、「なんか、もう、お茶なんてやめてもいいや~」と思ってみるのである。『お前のお茶に対する情熱なんて所詮そんなものなのか!』と自問自答。う~ん。まあね。そうかも。いや、そうじゃないんだけど。たぶん、私が世間を知らず、世の中を知らず、社会を知らずに生きているからなのか。世の中には、こんなびっくりするような『やな感じ』のひとがたくさんいるもんなのか。そう言う意味では、すごく、勉強させてもらってますけどね。『類は友を呼ぶ』とか、『自分を棚に上げて』と言われるのは承知でそれでもね~、「なんじゃこりゃ?」率が異常に高い気がする。ふと思うに、これが、お茶を通しての知り合いじゃなければ、ここまで『変』なひとじゃないのか・・・。多少、そんな気もする。『お茶』なさってる皆様の『異常』な気の遣いようは、それなりには、必要なことではあるけれど、確かに行き過ぎているような気もするし、行き過ぎたところまでやって、普通な気もするけど『気遣い』が『探り合い』だったり、『丁寧』が『慇懃無礼』になるような悪いが、『空気読めない』ひとたちがいすぎるよ。せめてそういう行き過ぎた気遣いはとりあえずおいといて、『お茶』そのものを楽しんで、極めたい、そういう仲間でいたい、と思うんだけど。謙遜しまくりながら、(それさえない場合もあるけど、わはは)なぜか、人の後につくのは許せない、みたいななんつーか、『余裕のなさ』が、お茶やってる人にしては、哀れ。そうなんだ、あくまで私にとっては、人生の『一部分』なので、あまり余裕がないひととは一緒にお茶したくない。って、べつに、楽しけりゃ、いいってわけじゃなく、『茶道』そのものは、厳しく追及したくもあるし、何十年もお稽古してろくなお点前もできないひとにはなりたくないし、おおもとに宿る精神に少しでも近づきたい。そういうところはかなり欲がある。でも、多くの諸先輩方のように、お茶を知ることによって豊かな心になりたいだけ、なんだよね~。あ~あ。また、愚痴ってしまった。が、誕生日のお稽古とそれまでのお茶で忙しかった数日間、やっぱり、なんだかテンション落ちまくるのは、お茶を巡る『あるカテゴリ』の人々が原因であり、そのカテゴリの条件に自分もみごとにはまっているというそんなディレンマのせいなのである。もっとも、そんなカテゴリは、自虐的すぎてるし、むちゃな『一般化』であり、all or nothing的思考であり、つまりは、今まさに、「お茶鬱」的傾向である証拠なのだが。そうそう、そこまで冷静に分析さえしていれば、これから一年、going my 茶way.できそうだ。お茶鬱から認知療法茶道へ。(命名 by me. がはは、本でも書けそうじゃ。)別に、単なる趣味だし、お茶の先生や、ましてや「偉いお茶の先生」になる気はさらさらないし、ゆっくりやっていけばいいのさ。といいつつ、愚痴りますけどね~。修行じゃのう。
2007.02.08
でかけるまで1時間半。今からなら、パウンドケーキが焼き上がる。と思ったら、もう止まらない。2本分の粉や砂糖を計量して型に敷くオーブンシートを切り出したら、後は、オーブンを予熱しながらハンドミキサーでどんどん混ぜるだけ。今日は、黒ごまのペーストやすりごまの黒い生地にいろんな種類の甘納豆入り。オーブンに入れてしまえば、後は片付けをして出かけるしたく。と思ったら、急に着物で出かけたくなった。35分。う~む、ぎりぎり。そのうえ、しつけを取らないと・・・。でも、思いついたらやらないと気が済まない。コーヒー飲みながら、顔、頭、着替えをしつつ、初めて行くブラッセリーに営業しているか、電話。帯揚げはもう車の中で結ぶことに。紙袋に焼けたケーキの一本をつっこんで、ペーパータオルやポリ袋も放り込んで、家を出る。「洗濯機をまわして、お湯を沸かして、掃除機をかける」ができたのが、この家に引っ越して来てからだったから、数ヶ月で随分、いろんなことをいっぺんにできるようになったなぁ。ものごと段取るのは、得意分野だったのに、いやいや~、ここまで来るのに何年もかかったよ~。帰りは、ホテルのパン屋さんに寄ってあんパン購入、ギャラリーで先日買った版画を持って来ていただくようにお願いして、円錐形のコーヒーのペーパーフィルターを探して、郵便局で支払いして、友だちのとこに顔を出して帰宅。コーヒー飲みながら着物を片付けて、そうこうしているうちに子どもたちがうちに来る~。ともかく、落ち着かない一日でした。って、自分がそうしてるんだけど。それにしても、落ち着きがない。福島に住んでいる友人のお父さん(であり、父の大学時代の同級生)に「落ち着かね。おめのおやじそっくりだ。」とよく言われたのを思い出します~。だはは。それまで、自分が落ち着きないとは、夢にも思わなかったのよね~。なぜって、我が家には、通知表にいつも「落ち着きがない」と書かれていたハイパーな弟がいたから。それにひきかえ、低学年まで、私の通知表には「おっとりしている」って書かれていたはずで・・・。どの時点で人格が変容したのであろう・・・。ここ数年の寝たきり→おっとりを取り戻そうとしているのかも。
2007.02.06
オープニング、暗い舞台上に赤々と燃える炉がぽっかりと口を開ける。白い袋に入った無名の人間の死体が投げ込まれる。恨み、復讐、欲望、貧困、強欲、狂気、殺人、ありとあらゆる「罪」を犯す人間が、ありえない「都市伝説」を生み出している。あくまでも「伝説」であって欲しいが、グロテスクな登場人物は、すぐ隣に住んでいるかもしれない、あまりに「人間らしい」人々なのだ。そして、恨みも復讐も狂気も肉欲もすべては、「愛」ゆえであり、人を殺し、姦淫し、罪を犯しながらもまだ、愛を夢見て、神の名を語るのが人間なのだ。ああ、おそろしい。大団円まで、追いつめられ、悲劇が悲劇を呼ぶ。およそカタルシスはないのに、涙が流れる。ぞっとしての鳥肌だったはずなのに、感動ゆえなのか、わからなくなる。愛ゆえに、ひとを自分のものにしたいと思い、欲に溺れ、ひとを恨み、殺し、その肉まで食べてしまうのは、狂ったふりをした私だ。あー、すばらしい「脚本」はすばらしい!ブリュッセルで見たブリューゲルを思い出した。醜く太った偉い人たち、あしなえや盲目、乞食や狂人、あまりに皮肉なひとだらけの画面に辟易したが、彼らもまた、実に生き生きと生きていた。ヨーロッパ的な(アバウトだな)視点。ああ、お芝居はすばらしい!舞台はいい!宮本亜門、やっぱり、すごいわ~。結婚してください。日本の演劇のためにあなたに尽くします。「あー、将来、お芝居を作る人になりたいわぁ」とカーテンコールで拍手しながらぼんやり思ったけど、おいおい、四半世紀前にもそう思ったんじゃなかったっけ?わはは。人生ってやり直せないのね~。私の25年はどこにいってしまったのかしらん。いやいや、もしや、これからもできることが・・・・。ミュージカルの訳詞って、なんとかならんのか。って、これも高校生のときに思っていたっけなぁ。がーーーー、もっと、感想を書きたいけど明日は早起き。寝よ~っと。市村正親、ブラボー!高校生のとき見た、「ジーザス・クライスト・スーパースター」のヘロデ王に匹敵する舞台でした!!!
2007.02.03
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