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アニメの手法で観客を魅了する映画作品であります。本来、娯楽であるはずの映画ですが、昨今の映画事情と社会を意識して作品を作成しています。それが『テーマとメッセージ』その内容として、自然と科学文明の対立、文明の破壊と再生、公害や自然破壊などの環境問題や人間の存在意義。自分は「映画は娯楽」と考えています。テーマは必要ですが、必要以上にメッセージが強い作品は・・・脳が拒否反応しだします。なので宮崎駿作品は昔から距離を置いて観賞しています。作品は原作者の【作り】なのです。思い入れするのも、ほどほどで良いのです。作品自体で世界を社会を動かすとします。結果が良かったとしても、それはそれです。よく考えたのなら【不自然】な感じでしょう。できれば【不自然】と感じ、その後は、よ~く自分で考えてほしいです。
2009年11月24日
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自然界でも強者と弱者の関係はあります。捕食-被食関係、自然選択(自然淘汰)などがあげられます。しかしながら、これらは種の保存と生命の存続から、最低限度とルールで自然界を維持しております。では人間は?万物に霊長との名目とオゴリからでしょうか。捕食ー被食関係、自然選択の頂点からの横暴は自然破壊に他種の破滅と滅亡、終いには種としては同属である人間同士の抗争ですから情けない。そして過ちに気づいての行動も、自然保護・種の保存、戦争の無い世界を掲げております。なんとも弱者からすれば、上から目線であり傲慢であります。人間が自然から背を向けて作った「人間優先の世界」。強者である「牙」は存在しなくとも、「知と武器」が人間の「牙」に相当します。自然から隔絶した社会でも、強者の特権である「牙」は使用したいの欲望、すなわち本能がかきたてられる。結果は、この現実です。自然界の捕食-被食関係を人間同士で節度なくする横暴。なにが「万物の霊長」でありましょうか。これでは「万物の愚長」でしかありません。このようなありえない構図も人間社会だから、まかり通るとしても愚かでしょう。実に不条理、極まりないです。そう、節度がないのです。人間には動物と違い、理性があると言うのに、おかしな話であります。ならば人間は自分自身に暴走していると考えるべきかと。強者の横暴も、弱者の中でも強者と弱者の構図をから起きる惨劇も、根本原因は同じなのです。我々は、自分自身の「本能」が暴走しているのです。そして、ほとんどの人間は気づいていないのであります。もちろん自然界での本能は「生存」にあります。ですが人間社会での本能となると生存以外にも多くあげられます。よく言う「欲望」「差別」「優越感」などなど。実に痛ましい、救われない社会が人間社会だとしても生きていかなければなりません。まずは、なにごとにも「タフ」になり、そして・・・です。我の考えでは、なにごとにも「節度」が「本能」を抑止するのではないかと。皆様も、色々と考えてみては、いかがでしょうか?
2009年11月08日
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自分しか見えないヒト自分を愛さないヒト自分を誇示するヒトこれらも個人主義の1つなどと考えているのでしたら、違います。また、個人主義を通す中で、自分と他人を巻き込み『善』と『悪』の論争からに多くの犠牲を出したのならば、それらに関わった人たちは個人主義を悪用した『存在悪』です。もしも砂漠に1人だけ・・・なにを、だれに主張します?主張なんてできません。
2009年11月03日
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