全2件 (2件中 1-2件目)
1
校長も鄭重 なる返書を主人に送って、垣をするから待ってくれと云った。しばらくすると二三人の職人が来て半日ばかりの間に主人の屋敷と、落雲館の境に、高さ三尺ばかりの四つ目垣が出来上がった。これでようよう安心だと主人は喜こんだ。 主人は愚物である。このくらいの事で君子の挙動の変化する訳がない。 全体人にからかうのは面白いものである。 吾輩のような猫ですら、時々は当家の令嬢にからかって遊ぶくらいだから、落雲館の君子が、気の利 かない苦沙弥先生にからかうのは至極 もっともなところで、これに不平なのは恐らく、からかわれる当人だけであろう。からかうと云う心理を解剖して見ると二つの要素がある。 第一からかわれる当人が平気ですましていてはならん。 第二からかう者が勢力において人数において相手より強くなくてはいかん。この間主人が動物園から帰って来てしきりに感心して話した事がある。 聞いて見ると駱駝 と小犬の喧嘩を見たのだそうだ。小犬が駱駝の周囲を疾風のごとく廻転して吠 え立てると、駱駝は何の気もつかずに、依然として背中 へ瘤 をこしらえて突っ立ったままであるそうだ。いくら吠えても狂っても相手にせんので、しまいには犬も愛想 をつかしてやめる、実に駱駝は無神経だと笑っていたが、それがこの場合の適例である。いくらからかうものが上手でも相手が駱駝と来ては成立しない。さればと云って獅子 や虎 のように先方が強過ぎても者にならん。からかいかけるや否や八つ裂きにされてしまう。からかうと歯をむき出して怒 る、怒る事は怒るが、こっちをどうする事も出来ないと云う安心のある時に愉快は非常に多いものである。なぜこんな事が面白いと云うとその理由はいろいろある。まずひまつぶしに適している。 退屈な時には髯 の数さえ勘定して見たくなる者だ。 昔 し獄に投ぜられた囚人の一人は無聊 のあまり、房 の壁に三角形を重ねて画 いてその日をくらしたと云う話がある。 世の中に退屈ほど我慢の出来にくいものはない、何か活気を刺激する事件がないと生きているのがつらいものだ。からかうと云うのもつまりこの刺激を作って遊ぶ一種の娯楽である。 但 し多少先方を怒らせるか、じらせるか、弱らせるかしなくては刺激にならんから、昔しからからかうと云う娯楽に耽 るものは人の気を知らない馬鹿大名のような退屈の多い者、もしくは自分のなぐさみ以外は考うるに暇 なきほど頭の発達が幼稚で、しかも活気の使い道に窮する少年かに限っている。 次には自己の優勢な事を実地に証明するものにはもっとも簡便な方法である。 人を殺したり、人を傷 けたり、または人を陥 れたりしても自己の優勢な事は証明出来る訳であるが、これらはむしろ殺したり、傷けたり、陥れたりするのが目的のときによるべき手段で、自己の優勢なる事はこの手段を遂行 した後 に必然の結果として起る現象に過ぎん。だから一方には自分の勢力が示したくって、しかもそんなに人に害を与えたくないと云う場合には、からかうのが一番|御恰好 である。 多少人を傷けなければ自己のえらい事は事実の上に証拠だてられない。 事実になって出て来ないと、頭のうちで安心していても存外快楽のうすいものである。 人間は自己を恃 むものである。否恃み難い場合でも恃みたいものである。それだから自己はこれだけ恃める者だ、これなら安心だと云う事を、人に対して実地に応用して見ないと気がすまない。しかも理窟 のわからない俗物や、あまり自己が恃みになりそうもなくて落ちつきのない者は、あらゆる機会を利用して、この証券を握ろうとする。 柔術使が時々人を投げて見たくなるのと同じ事である。 柔術の怪しいものは、どうか自分より弱い奴に、ただの一|返 でいいから出逢って見たい、素人 でも構わないから抛 げて見たいと至極危険な了見を抱 いて町内をあるくのもこれがためである。その他にも理由はいろいろあるが、あまり長くなるから略する事に致す。 聞きたければ鰹節 の一折 も持って習いにくるがいい、いつでも教えてやる。 以上に説くところを参考して推論して見ると、吾輩の考 では奥山 の猿 と、学校の教師がからかうには一番手頃である。 学校の教師をもって、奥山の猿に比較しては勿体 ない。――猿に対して勿体ないのではない、教師に対して勿体ないのである。しかしよく似ているから仕方がない、御承知の通り奥山の猿は鎖 で繋 がれている。いくら歯をむき出しても、きゃっきゃっ騒いでも引き掻 かれる気遣 はない。 教師は鎖で繋がれておらない代りに月給で縛られている。いくらからかったって大丈夫、辞職して生徒をぶんなぐる事はない。本連載は青空文庫収録ファイル「吾輩は猫である」(新字新仮名、作品ID:789)から引用・編集し提供させて頂いています。 夏目 漱石慶応3年1月5日(新暦2月9日)江戸牛込馬場下横町に生まれる。本名は夏目金之助。帝国大学文科大学(東京大学文学部)を卒業後、東京高等師範学校、松山中学、第五高等学校などの教師生活を経て、1900年イギリスに留学する。帰国後、第一高等学校で教鞭をとりながら、1905年処女作「吾輩は猫である」を発表。1906年「坊っちゃん」「草枕」を発表。1907年教職を辞し、朝日新聞社に入社。そして「虞美人草」「三四郎」などを発表するが、胃病に苦しむようになる。1916年12月9日、「明暗」の連載途中に胃潰瘍で永眠。享年50歳であった。
2016年02月22日
コメント(0)
従ってこの問題を決するためには勢い向う側に陣取っている君子の性質を明かにせんければならん。 人間だか動物だか分らない先に君子と称するのははなはだ早計のようではあるが大抵君子で間違はない。 梁上 の君子などと云って泥棒さえ君子と云う世の中である。 但 しこの場合における君子は決して警察の厄介になるような君子ではない。 警察の厄介にならない代りに、数でこなした者と見えて沢山いる。うじゃうじゃいる。 落雲館 と称する私立の中学校――八百の君子をいやが上に君子に養成するために毎月二円の月謝を徴集する学校である。 名前が落雲館だから風流な君子ばかりかと思うと、それがそもそもの間違になる。その信用すべからざる事は群鶴館 に鶴の下りざるごとく、臥竜窟に猫がいるようなものである。 学士とか教師とか号するものに主人苦沙弥君のごとき気違のある事を知った以上は落雲館の君子が風流漢ばかりでないと云う事がわかる訳 だ。それがわからんと主張するならまず三日ばかり主人のうちへ宿 りに来て見るがいい。 前 申すごとく、ここへ引き越しの当時は、例の空地 に垣がないので、落雲館の君子は車屋の黒のごとく、のそのそと桐畠 に這入 り込んできて、話をする、弁当を食う、笹 の上に寝転 ぶ――いろいろの事をやったものだ。それからは弁当の死骸|即 ち竹の皮、古新聞、あるいは古草履 、古下駄、ふると云う名のつくものを大概ここへ棄てたようだ。 無頓着なる主人は存外平気に構えて、別段抗議も申し込まずに打ち過ぎたのは、知らなかったのか、知っても咎 めんつもりであったのか分らない。ところが彼等諸君子は学校で教育を受くるに従って、だんだん君子らしくなったものと見えて、次第に北側から南側の方面へ向けて蚕食 を企だてて来た。 蚕食と云う語が君子に不似合ならやめてもよろしい。 但 しほかに言葉がないのである。 彼等は水草 を追うて居を変ずる沙漠 の住民のごとく、桐 の木を去って檜 の方に進んで来た。 檜のある所は座敷の正面である。よほど大胆なる君子でなければこれほどの行動は取れんはずである。 一両日の後 彼等の大胆はさらに一層の大を加えて大々胆 となった。 教育の結果ほど恐しいものはない。 彼等は単に座敷の正面に逼 るのみならず、この正面において歌をうたいだした。 何と云う歌か忘れてしまったが、決して三十一文字 の類 ではない、もっと活溌 で、もっと俗耳 に入り易 い歌であった。 驚ろいたのは主人ばかりではない、吾輩までも彼等君子の才芸に嘆服 して覚えず耳を傾けたくらいである。しかし読者もご案内であろうが、嘆服と云う事と邪魔と云う事は時として両立する場合がある。この両者がこの際|図 らずも合して一となったのは、今から考えて見ても返す返す残念である。 主人も残念であったろうが、やむを得ず書斎から飛び出して行って、ここは君等の這入 る所ではない、出給えと云って、二三度追い出したようだ。ところが教育のある君子の事だから、こんな事でおとなしく聞く訳がない。 追い出されればすぐ這入る。 這入れば活溌なる歌をうたう。 高声 に談話をする。しかも君子の談話だから一風 違って、おめえだの知らねえのと云う。そんな言葉は御維新前 は折助 と雲助 と三助 の専門的知識に属していたそうだが、二十世紀になってから教育ある君子の学ぶ唯一の言語であるそうだ。 一般から軽蔑 せられたる運動が、かくのごとく今日 歓迎せらるるようになったのと同一の現象だと説明した人がある。 主人はまた書斎から飛び出してこの君子流の言葉にもっとも堪能 なる一人を捉 まえて、なぜここへ這入るかと詰問したら、君子はたちまち「おめえ、知らねえ」の上品な言葉を忘れて「ここは学校の植物園かと思いました」とすこぶる下品な言葉で答えた。 主人は将来を戒 めて放してやった。 放してやるのは亀の子のようでおかしいが、実際彼は君子の袖 を捉 えて談判したのである。このくらいやかましく云ったらもうよかろうと主人は思っていたそうだ。ところが実際は女※氏 の時代から予期と違うもので、主人はまた失敗した。 今度は北側から邸内を横断して表門から抜ける、表門をがらりとあけるから御客かと思うと桐畠の方で笑う声がする。 形勢はますます不穏である。 教育の功果はいよいよ顕著になってくる。 気の毒な主人はこいつは手に合わんと、それから書斎へ立て籠 って、恭 しく一書を落雲館校長に奉って、少々御取締をと哀願した。本連載は青空文庫収録ファイル「吾輩は猫である」(新字新仮名、作品ID:789)から引用・編集し提供させて頂いています。 夏目 漱石慶応3年1月5日(新暦2月9日)江戸牛込馬場下横町に生まれる。本名は夏目金之助。帝国大学文科大学(東京大学文学部)を卒業後、東京高等師範学校、松山中学、第五高等学校などの教師生活を経て、1900年イギリスに留学する。帰国後、第一高等学校で教鞭をとりながら、1905年処女作「吾輩は猫である」を発表。1906年「坊っちゃん」「草枕」を発表。1907年教職を辞し、朝日新聞社に入社。そして「虞美人草」「三四郎」などを発表するが、胃病に苦しむようになる。1916年12月9日、「明暗」の連載途中に胃潰瘍で永眠。享年50歳であった。
2016年02月19日
コメント(0)
全2件 (2件中 1-2件目)
1

![]()
