かぜはイタ!づら
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こころを風にねぶらせておくだけだった倦怠の夏に時はたしかにプレゼントをくれていった――希望赤らむこころで、ある時ぼくはそっと、言ってみた みなわ ひとし どこまでも続く青い空にムクムクと白い雲が湧き上がっている。「喜一さん入道雲、入道雲」(こんにちは)でも(やあ)でもなく元がネットカフェに入ってきた。「入道雲? 珍しいね。雷、かな」なにやら書類を手にした喜一がカウンター越しにゆっくりと顔をあげた。「元くん」と、喜一がコーヒーを差し出しながら言った。「ここ、引き払わなければならないんだ」「な、なんで」元が、目をぱちぱちさせた。「これなんだ。とうとう家賃を上げると言ってきた」喜一が、さっきの書類を元に見せた。「ここを借りて6年ほどになるけど、家賃はずーっと変わらないできた。それで、今日まで何とかやってこれた訳なんだけれど。家主が変わったからね」元が書類をパラパラめくっている。「へー、倍になるの。無茶苦茶だね」「でもないの。この辺の相場でいったらそれでも2割方安い。もう、この辺が限界かなって思い始めたよ」珍しく弱気な喜一がいる。さっきまで晴れ上がっていた空がにわかに掻き曇りザーッと音を立てて雨が、激しく落ちてきた。喜一も、そして日頃は口の軽やかな元も降り続ける雨を見ていた。どうしたものかとぼんやり見ていた。叩きつけるような雨足が少しやわらいだ頃クリーム地にボタニカルアート風のピンクのコスモスを描きこんだ傘がふわりと喜一の店のドアを開けた。「ごめんなさい。(傘を)差したままで入ってきちゃった」久しぶりに会うレモンの頬はいつになくばら色に輝いてみえた。傘の雫を払いながらレモンはスカートの裾を気にしている。ブルーのグラデーションが美しいくるぶしまでのテイアードスカート。「元さん、あの時はごめんなさいね」駅のホームでのことだ。元は、あの不思議な再会のシーンを幾分悩ましく思い浮かべていた。「いやいやなにも」言いながら、レモンの差し入れのバナナケーキをさーっと口に運びお気楽に応えた。喜一も、元からそのことは聞いていた。思いを残して別れた夫と思いがけない再会をしてしまったレモンのことを遠巻きに案じてもいた。「喜一さん、ネットカフェやめちゃうの」レモンが意外なことを口にした「え、どうして。いま元くんに話したのが、初めてなんだけど」喜一が不思議そうにレモンを見た。「不動産屋の安井さんが、多分そうなるだろうって、さっき」喜一は、今朝安井と立ち話をしたことを思い出した。「そうなんだ。もうこれ以上は無理かなってね。パソコンも一家に一台って時代になってこの店の役割も終わったかなって感じするしね」言い切ってしまうと喜一自身、本当にそれでいいのかもしれないとすっきりした気持ちになった。「違うかたちで、始めない?」レモンが声を弾ませた。「喜一さん、ここのスペース半分私に貸してくださらない?喫茶店やってみたいの、ねえ、どう思う?」(どう、と言われても、あまりにも唐突で、なんと答えたらいいのか)喜一は、思考が停止したようにレモンをまじまじと見つめた。「いいんじゃないの、オレ毎日来るし」元が勝手に乗り気になっている。(いいね、毎日レモンさんとジユウに会えるしラッキーだね)喜一が元の妄想を牽制するようにゆっくりと口を開いた。「簡単には答えが出てこない。少し考えさせてほしいんだ」(渡りに船のくせして、勿体をつけて)元は、喜一を軽くにらんだ。「ええ、そうね。よく考えてお返事くださる?あの、またゆっくり話しましょう。これからちょっと用事があるものだから」喜一が了解というようにうなずいた。いったん出て行こうとしたレモンが意を決したように戻ってきた。元は、ちょうど二個目のケーキを頬張ろうとしていた。喜一はコーヒーをカップに注ぎ足そうとしていた。「あの、わたしね夏が終わったら結婚することにしたの。かわいい五歳の息子ができるの。じゃ、また」と言うがはやいか、風のようにするりとレモンが出て行った。元は、ケーキをぽとりと床にだらしなく落としてしまった。喜一は、カップに淹れかけたコーヒーをあふれさせた。外は、雨上がりの澄んだ空にまぶしく日が輝いている。時は時を紡ぎヒトの痛みを優しく包み込んでいく。 楠田レモン
Aug 30, 2005
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