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スケッチ1影法師が水面にたわむれてみどり葉の春がさわさわ みなわ ひとし この数日続いた物憂い雨も夕方にはやんで、久しぶりに春の暖かい風を運んできた。ネットカフェの「あおりんごの会」のメンバーが三々五々「ひまつぶし」に集合するころには、また沈丁花の香があたり一面に漂って宵闇を甘く彩っている。「お久しぶりです。まあ、一杯」小野さんが梁井さんに酒を勧めている。「どうも」と言いながら梁井さん、大きな湯飲みを差し出した。「オウ、いいね。しかし、残念だ」小野さんは、骨壷のことを思い出したんだわ。「小野さん、未練ですよ」喜一さんが、寝不足でふくらんだ目をいたずらっぽく細めてからかう。「聞きました。風祭さん、ひっくり返って割っちゃったんですね」「そうなんだよ」小野さんは、しみじみうらめしそうな顔をしている。「うまかったんだ、それが」喜一さんが煽るように付け加えた。「風祭さんを連れて帰るときタクシーでね、彼、暴れてね。ぼく、思わず殴っちゃおうか、なんて思ったんですよ。あの焼酎のために、ですよ」と、空(くう)を見上げ痩せた肩をおとし「まったく自分ながら、ケチなやつだと、思いますけどね」と小野さんは目をふせた。「お待たせしました。これ、安江さんからですの」と、しのぶさんが見事な鯛の尾頭付きを卓にのせた。「ウワー、こりゃあすごい」梁井さんは、また一回り大きくなったゆすりながら、叫んだ。(安江さん、見えたんですか)「いえ、少し遅くなるからって、これを届けてくださったの。今日は、何かお祝い事?」しのぶさんが喜一さんのほうを見て言った。「いや、別に。なんだろう」喜一さん、一瞬考えるような顔つきをしたが、それもつかの間、酔っ払いに戻って、「本人がまだだけど、先にいただいちゃいますか」と、ちゃっかり箸をのばす。「こんばんは。遅くなりまして」紺色のスリムなワンピースを着た安江さんが、手に花束を抱えて入ってきた。ほんのり紅潮した頬に、胸元のパールのネックレスが映えていつもより女らしい感じ。「先にいただいていますよ」と小野さん。「ウーム、今宵はなぜかきれいに見える」梁井さんが冗談めかして言ったが、本当に輝いているわ。コートを几帳面にたたんで、脇におくと、あらたまった感じで安江さんが三つ指をついた。「今日、辞令が出ました。私4月1日より、隣町の高校に移動になりました」「エッ、転勤なの」喜一さんが、ふくらんだ目をパチパチさせる。「あと1年は換わらない、と踏んでたものだから、あわてちゃって。でも、ちょうどよかった。あなたに電話もらったすぐ後だったの」(そうだったの。でも遠くなるわ。寂しくなるわ)「この会には、来るわよ。車で1時間くらいだもの。その代わり、夜泊めてね」(もちろんよ。なら、うれしい)しのぶさんが、フキと筍の煮物とタラの芽の天ぷらを運んでくる。「田舎から届いたばかりなの。わたしもお仲間にいれてください」言いながら、エプロンをはずしてまるめた。「で、風祭さん、入院されたんですか」と、心配そうにしのぶさん。「ええ、自分から、言い出して、昨日のことですよ。オヤジさんから連絡をもらった」と喜一さんが遠くを見た。「クスリを飲まなくなった、とは聞いていたけれど。残念、会えなくて」挨拶ができないと言いたげな安江さん。「まったく、振り回されて散々な目にあっても、彼がいないのは、なんだかつまらない、ですよ」家が近くて、いつもなにかと面倒を見ている小野さんが、いちばん寂しがっているのかもしれない、ふと、そんな気がした。「けど、聞いてると去年より症状が軽いんじゃないかな。今年は早く帰ってこられるんじゃないかな」半ば願望のような言い方の梁井さん。「待ちましょう。飲みましょう」喜一さんが、しのぶさんに、猪口をかたむけた。しのぶさんは、猪口に軽く口をつけると、「今日は、安江さんの送別会ですわね。さっき貸切の札を出してきましたから、カラオケでもやりましょうか」と、あでやかに微笑んだ。「いいな、しばらくやってない」梁井さんが重い体をゆらすように、立ち上がった。「しのぶさん、マイクマイク」梁井さんは、見かけによらず、ボーイズソプラノで、お得意の郷ひろみを歌い始めた。手拍子をしているうちに、それぞれの憂いが、少しずつ消えてひとときのやすらぎがおとずれた。 楠田レモン
Mar 29, 2005
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なにか、底なし沼に落ちていくようなこの感じ、わかる?――とおとこが言った。あら。じゃあ、いつまでもただよっているあたしの感じとはちがうのね――とおんなは返した。《そこは、ほの暗い居酒屋の片隅》 みなわ ひとし 昨夜来の雨のせいか、今日のネットカフェに人の気配はない。奥の事務所から、喜一が眠そうな目をこすりながら、出てきた。どうやら、徹夜明けらしい。カウンターの隅に置いてあるコーヒーメーカーのポットを取りにきたのだ。「こんにちは」レモンが入ってきた。(喜一さん、表に傘立てなかったけれど)ポットをもった喜一が振り返った。「忘れてた」と苦笑い。(まあ、どうしたの)と、喜一の寝グセのついた髪を見る。「徹夜だったから。今日これから届けるところ」(そう、大変ね。私、傘立て出しておくわ)「じゃ、ぼく、コーヒーセットしておくから」ポットをたよりなくぶらさげてまた事務所に入っていった。レモンが、大きなメロンパンを袋から取り出した。それからカウンターに近づいて鼻をくんくんさせる。「いいにおい。コーヒーできたみたいよ」喜一に声をかける。「メロンパンか。ぼく、甘いの苦手なんだけど」喜一の顔から、洗い立ての石鹸のにおいがほのかに香った。(ここの、焼きたてがおいしいの)「じゃ、半分もらおうかな」と手で分けようとする。「おっ、これ、やわらかいね」(中がふわふわでしょ)ちぎった半分をレモンにわたすと、待ちきれないように、残ったパンを口にそのままもっていき、がぶりと噛んだ。「うまい」言いながら、早くも手の中はからっぽになった。(でしょう。週に3日、それも午前中しかやってない店だからなかなか買いにいけないの。今日こそ、と思ってね、そのために出てきたのよ)喜一はうんうんとうなずきながら、2個目に手を伸ばしている。(コーヒーもおいしい)レモンは、ゆっくりと味わうように、カップを揺らしている。2杯目のコーヒーを注ぎながらレモンがふっと微笑した。ちらりと見上げた喜一が「何?」とうさんくさそうにたずねる。(さっき、甘い物は苦手とか言ってたのに、と思って)とうとう声をあげて笑い出した。「うまいものに国境はないんだから、ね」喜一は、すまして3個目に手を伸ばしかけ、ふっとためらう。「これ、家に持って帰るんじゃないの」(いいの。別にちゃんと買ってあるわ)喜一は、3個目にパクついている。狙った獲物を捕らえたときの狩猟民族のような食べっぷりというか。日ごろの静かな言動からは想像できない喜一の食欲に、レモンは目をまるくするばかりだ。自分を見つめるレモンに気が付くと、「うまかった。ごちそうさま」と目をふせたまま喜一がふいに立ち上がった。「届けてきます」喜一がアタッシェケースを抱えている。レモンは、片付けの手を休めて(留守番、してましょうか)といたずらっぽい表情をした。「助かるけど、後が怖いね。なにかおごってくれ、とか」(もちろん。ひまつぶしのしのぶさんところへ行かない?)「今夜?」(もしよければ)「よし、そうしようか。届けた帰りに、梁井くんと小野さんに声をかけてみるよ」(じゃ、わたしも安江さんに電話しとくわ)「じゃ、ということで、よろしく」(いってらっしゃい)レモンの弾んだ声に、喜一はちょっと肩をすくめてみせた。 楠田レモン
Mar 27, 2005
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ハトが路上を歩く姿はなんだかよちよち歩きのように思えるのだがよくよくみれば、なかなかに気を配っていて決してつかまえられたりはしない。でもいつもよちよちふうに歩いている。 みなわ ひとし 「おう、骨壷ね」と言いながら風祭さん、まるでビールでも飲むような一気飲み。「骨壷?」とけげんそうな喜一さん。「ほら、この甕、骨壷に似ているでしょ。通のひとたちは、そう呼んでいるんですよ、ね、風祭さん」ちょっと酔っ払った小野さんが、風祭さんの肩に手をかけた。その途端、風祭さんが、荒々しく、小野さんの手を払いのけたの。「ボクは、キミをトモダチとは思っていない」真っ赤な顔をした風祭さん。いったいどうなってるの?小野さんが、口をきゅっと結んで何事もなかったように、おでんを小皿によそい始めた。喜一さんが、黙って風祭さんのカップに骨壷を注ぎはじめた。「ボクはスキにやります」風祭さんは、邪険に自分のカップを喜一さんの手からもぎとったの。いったい何が、どうしたの。「風祭さん、おでん、召し上がる?」小皿に入れてあげようとすると、「ボク、勝手にやりますから」と、とりつくしまもないの。おいしい酒も台無しになるような奇妙な沈黙が流れたわ。それでも喜一さんと小野さんは、なんでもないように静かに飲み続けていたわ。桃子ちゃんが、ちょっと心配そうに風祭さんを見つめていた。風祭さんは、突然立ち上がると隅っこのいすを三脚運んできて並べるとごろりと横になった。桃子ちゃんが、そのそばにだまって、カップと、おでんの小皿をおいてあげてた。風祭さんは、足をぶらぶらさせて目を閉じている。「ねえ、どうしたの」小さな声で喜一さんに問うと、「多分クスリを飲まなくなったんだ」喜一さんの暗い顔。小野さんが、私のほうを見て、首をふった。「飲みましょう」小野さんが、カップをぐいぐい口にもっていく。「目、開けてる」桃子ちゃんが、私の耳元でささやくように言う。どすん、と音がして、風祭さんが椅子から落っこちたみたい。「ボク、スキにやりますから」言いながら、竹のひしゃくをとりあげたかと思うと、甕のほうにぐらりと体がかたむいて、そのまま小野さんのほうに倒れこんだ。甕が床に落ちて中の芳醇な液体が無残に流れてしまったの。ああ、あっ、まあ、えーっ声ならぬ声。小野さんが、風祭さんの重い体を支えるように立て直した。「風祭さん、ぼく送っていくから。帰ろう」小野さんが意を決したように言った。風祭さんの目がきっとなって、「ボクは帰らない。ボクはジユウです。キミは、ボクじゃない」と、桃子ちゃんと私の間に割って入るように座り込んだ。「そう、その通り。人間は自由なんだから」桃子ちゃんの顔がピンク色になっていたわ。「桃子、まさか」と喜一さんが、桃子ちゃんのコップを取り上げた。「あー、飲んでる。高校生なんだよ」と桃子ちゃんをにらんだ。「いいんだよー」桃子ちゃんは、すっかりいい気持ちで喜一さんからコップを取り返した。「きみから、なんとか言って」喜一さんが私を見る。「何がキミだ」風祭さんが、喜一さんの胸倉をいきなりつかんだ。「キミは、なんでもわかった顔して。鼻持ちならない。そうだ。ボクはキミと絶交する」風祭さんのひげには、卵の黄身がこびりついていた。「そうね。喜一さん、少し若年寄みたいなとこあるわ。でも、絶交はないでしょ」風祭さんを鎮めたくて言ったけど、かえってそれが、火に油を注ぐことになってしまった。「レモンさん、彼をかばうことないですよ。彼はね、優しさを装った偽善者ですよ。ボクはミヌイテいます」風祭さん、憎憎しげに喜一さんを見つめた。喜一さんは、こぶしを握りしめるようにしながら、目を閉じた。小野さんが、ケータイで、タクシーを呼んでいる。桃子ちゃんが、ぐいぐい飲んでいる。私のこころは、どうしたらいいのか、うろうろしているばかりだ。痩せた小野さんが、渾身の力を振り絞るように風祭さんを引き連れて出て行った。「ボクはボクで、キミじゃない」風祭さんのわめくような声が聞こえてきた。台所で片づけをしていると、桃子ちゃんがふらふらと入ってきた。「大丈夫?」振り向いて話しかけるとピンクにそまった頬に涙が流れていく。「どうしていいか、わからなかった。苦しくて苦しくて。風祭さん、いつもあんなに優しいのに」思わず桃子ちゃんを抱きしめると私の目頭も熱くなって、止まらない。ネットカフェの片隅に喜一さんがぽつんと座り込んでいた。「いつも春なんだ。クスリを飲まなくなってどうにもとまらなくなってここに来るんだ。けど、彼が、ボクに言ったこと本当だ。彼は、どんなときも真実しか話さない」誰に言うともなく、喜一さんが話し続ける。「もう、病院に入るころになったんだ。どうしてやることもできない。あんないいやつ、なのに」「帰ろう」桃子ちゃんが、喜一さんの腕を優しくゆさぶった。 楠田レモン
Mar 24, 2005
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少年は、なぜか、よくことばにつまずいた。石ころならば、ただよければいいが、しかしことばは、常に前方からやってくるものでもなかった。ときにことばは、不意に横合いからやってくる。少年は、そのことばをかわす術(すべ)をもたなかった。――ことばは、ときに凶器になる。さすればことばの遣い手となって、それを武器にひとに立ち向かおう。いっとき、その思いが少年のこころをいっぱいにした。おさない戦略であった。武器をみがくように、少年はことばを探し、それをみがいた。 みなわ ひとし どこからか沈丁花の香り漂う春の宵、ネットカフェで、あおりんごの会が開かれた。「お久しぶりです」やせほそったソクラテスのような小野さんが、甕のようなものを提げて入ってきた。(こんばんは)私の目は、はしなくもその甕の、様なものに釘付けになったらしい。察しのいい小野さんは「ちょっとうまい焼酎を見つけましたよ」と、眼鏡越しに微笑んだ。(まあ、どんな?)と行儀悪く覗き込もうとしていると、「きゃー、レモンさーん、来てー」と桃子ちゃんの声。あわてて隣室をのぞいてみると、おでんの鍋が、踊っている。「あー、こぼれっちゃった」あわわ、大変。駆け寄って火を止める。「あそうか、止めればよかったんだ」とのんびりした口調の桃子ちゃん。お正月、元さんの実家でお葬式の手伝いをした時は私よりもはるかに落ち着いて機敏に行動した桃子ちゃん。なのに、これって、何? そんなこと考えていたのが顔に出たのか、「あ、レモンさん、あたしのこと、ケーベツしてる」といたずらっぽく桃子ちゃん。(フフ、忍ぶれど色に出にけり、かしら)「まあ、ひどいよー」なんて可愛く甘えてくる。「そろそろ始めようか」ドア越しに喜一さん。今日は梁井さんも安江さんも都合でこられないとか。元さんはいないし、ちょっと寂しい会になりそうかな。小野さんが、さっきの薄緑色の甕の封を解いた。ふたを開けると、なんとも芳醇な香り。「こりゃあいい」喜一さんは、飲む前から目を輝かせている。「じゃ、乾杯」小野さんが音頭をとった。「ウ・マ・イ」喜一さんは、大きなカップに早くも2杯目を注いでいる。「美味しいわ」小野さんに言うと、「でしょう」と小野さんの得意げな顔。「これはね、宮崎のなんだけれど、知り合いがわざわざ送ってくれたの」「宮崎というと、百年の孤独ってうまい焼酎があったけど」あきれたことに喜一さん、三杯目に移っている。「そう、あれは今なかなか手に入らないんだ。でも、これもうまいでしょ」「うまいね、久しぶりだ、こんなの」桃子ちゃんは、おでんをほおばりながら、酒飲みをあきれたというふうにながめている。「やあ、諸君」風祭さんだ。ひげがもっと伸びて体も一回り大きくなったような感じだ。「いらっしゃい。元さんの家に行って以来だね」喜一さんが、早速カップになみなみと注いで風祭さんに勧める。続く 楠田レモン
Mar 23, 2005
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――人間とはなんだろうか、などと言わないようにしている。――こころとはなんだろうか、と考えるときすこしだけ闇の扉がひらく――わらってください、きょうという日があったから――なきましょう、きのうという日はもう、こないから みなわ ひとし 山また山を越え、元の家に着いたのは、夜の帳がおりたころ、午後7時をまわっていた。うっそうとした樹木が闇をいっそう暗くしている広い境内をぬけると左手に本堂らしき建物がほのみえてきた。と、脇の住居らしい玄関先に灯りをもったひとの影。「元さーん」はっきりした音声でそのひとが灯りを振った。「義兄さん?」元がひとり急に足早になってそのひとに近づいた。「お母さんが、ちょっと困ったことになってる。キミを待ってたんだ」ささやくように、義兄の直人が言う。直人は、後から歩いてきた喜一たちに向かい、「遠路ありがとうございました。お疲れになったでしょう」と深々と頭をさげた。本堂につづく長いほの暗い廊下を急ぎながら元は、さっきの直人のことばを反芻していた。「困ったことって、一体?」本堂に入ると、父が横たわる白い布団の横に普段着の母が横坐りに脚をなげだし、父の手をさするようにしている。「母さん」声をかけるが、振り向きもせずただうなづくばかりだ。元は黙って父の枕元に坐り白布をそっと開いた。穏かになった父が眠っていた。喜一たちは直人に客間に案内された。心地よく暖められた部屋には、食事の用意がされていた。「ごゆっくりなさってください」直人が足早に去って行った。「元さん、聞いて頂戴よ」広い本堂にひびきわたるような声で美奈が入ってきた。続いて美香、美弥。元の異母姉三人だ。直人も追いついた。「あなたのお母さんはね、どうやらお父様の葬式をしないおつもりよ」隣町の病院長夫人となっている長女の美弥が、いつもの冷静な声と表情で元を見据えた。元が母の肩を軽くゆすりながら、「母さん」とのぞきこむ。文子は、初めて息子に気が付いたように一瞬大きく目を見開きピクっと肩をふるわせた。「お願いします。せめて1週間、延ばしてください。あとは、あなたたちのいいようにして、ネっ」文子は居住まいをただすと、三姉妹のほうに懇願するような目を向けた。「そんな非常識なこと、できませんよ。文子さんわかって」美弥がうんざりした口調で言う。「姉さま、もういいわよ。私たちで日取り決めちゃいましょう。このひとに何を言ってもむだよ」美奈があきれはてたように立ち上がった。「イヤだー」文子が、子どものような悲鳴に近い声をあげるなり、突っ伏して泣き出した。「いい年して、気が違ったんじゃない」見下ろすように美奈がつぶやいた。「バカ」直人の平手が美奈の頬に飛んだ。「キミにはお義母さんの気持ちがわからないのか。ボクもさっきまで困ったとしか思ってなかった。仕事に差し支えちゃ困る、ただそれだけを考えてた」直人は、まだふくれっつらの妻の頬をやさしくさすって話しかける。「キミのオヤジさんが、いつだったか話してくれたことをね、思い出した」「どんな?」「あなた、死んだらきっと亡くなった奥さんに会いにいくわね。いいの、あんなきれいで優しそうなひとだもの。でもね、それまでは、私の大切なヒトでいてね。還暦を迎えようというのに、真顔で言うんだ、ってオヤジさん、笑ってた」「じゃ、今、ヤキモチ焼いてるの、あのひと。お父様を独り占めしたいのかしら」美香が、大きなお腹をさすりながらつぶやいた。「お母様に? そうかもしれない。女だもの」美奈が、目のふちを赤くして直人を見上げた。「檀家のこともあるし、面倒はいろいろあるけれど。いいわ。気の済むようにさせてあげましょうよ」美弥が、さっぱりした表情をした。そして、元に向かい「お義母さんを頼むわね」と言い残して姉妹が去って行った。元は、背中で一部始終を傍観しながら、疲労困憊して泣きじゃくる母を、やっとのことで、父のそばに寝かせた元が、直人のほうに近づいた。「義兄さん」と、目で礼をする。「これ内緒なんだけどね」隅っこで直人が笑いをかみ殺すような仕草をした。「さっきのオヤジさんの話さ、あれフィクション」「エーっ」直人がシーっと、指を口にもっていく。「あの話、昨夜読み終わった推理小説にあったんだよ。ちょっとアレンジしたけれどね」直人がいたずらっぽく元に笑いかける。「ボク、ちょっと感動したのに。チェッ」「女って、情が深い分、やっかいなんだ。一度パニクると、ヒステリーを起こして自分じゃとめられなくなる。理屈が通じないから。外野が(渇を)を入れるまでどうにもとまらない」「へえ、そう」「ボク、姉四人に苦しめられたからね」「でも、助かった。ありがとう」「いやいや」転職を繰り返し妻に頭の上がらないヒトと、元はこの義兄をほんの少し軽んじるところがあったが、今や自分の不明を恥じていた。いやはや、大人の男はつらいね。元は、父にかけられた白い布をまたそーっとひらいた。元の鼻筋を伝った涙が父の顔にポタポタ落ちた。 楠田 レモン
Mar 15, 2005
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