しあわせのかたち

しあわせのかたち

2006/02/26
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 毎度どーも。約3週間ぶりになるのかな。ショータです。


 私のほうは相変わらずバタバタしているなかで祖母が亡くなったりして公私ともに混乱している次第です。ウチの婆さんは享年94歳で大往生だったんですが、最後の10年は寝たきり、ここ2年はほとんど意識もなくて、孫である私の顔もほとんどわからない状態でした。

 火葬を済ませてお骨を拾ってきたわけなんですが、神道形式の葬儀だと、亡くなった人間が「どういう人だったか」という履歴を祝詞にして読み上げるんですよね。まあ10分くらいなんですけども。

 それを聞きながらふと、「死とはどういう状態を指すんだろうか」とか考えちゃいました。

     ※

 現代社会では「死」という状態を、近代医学の定義に則って規定している。
 これについては知り合いとチャットで「脳死と死」についてちょこっと(15行くらいかな)話した。その知り合いはかつて「脳死は死ではない」と主張していたように記憶しているが、いまはどうなんだろうね。そのことについては聞かなかったや。

 法医学会における脳死の定義について知りたい方は こちら
 脳死については語り手がどのような立場で語っているかというのにまず注目すべきで、上記リンク先の中の人はどうも「脳死は死だ」ということにしたいみたいね。

 その理由を上記リンク先の筆者は以下のように規定している。

>(1)脳機能は機械で代替できない。
>(2)脳以外の手、足、心臓、腎臓などはいずれも機械に置き換えても生きているといえるが、脳だけは機械が代替することはできない。
>(3)もし脳を機械で代替できたとしても、それは人間ではなくロボットというべきである。
>(4)全脳の移植が可能になったとしても、通常は臓器を移植された人が生きていると考えるが、脳の場合は移植された人が生きているとは感覚的に考えられない。
>(5)もし埋め込み型の人工心臓が半永久的に使用できるようになったとき、脳死を死と認めなかったら、その人は死ぬことはできない。白骨になっても心臓だけが動いているという恐ろしい事態が起こってしまう。

 そして結論はこう。

>したがって医学の進歩と共に、死の診断基準は変更せざるを得ない。


 非常に正直なお医者さんのようで、ようするにこれは「医学会では“脳(脳機能)の有無”が人間を人間たらしめているものだ」と言っているに等しい。異論のある方も多かろうし、私も「そうかなあ」と思うのだが、取り急ぎ話を進めよう。


 大変デリケートな話題なので私の婆さんに登場願って若干脚色を加えて例示してみたい。下記の場合、どの段階が「死」なのだろうか(これはもちろん「どの段階が“生”なのか」という問題と裏返しになる)。

(1)曽祖母の体内で卵子と(曽祖父の)精子が結合。分裂開始
(2)心臓、脳、手足などが形成完了(受精後3カ月くらい)
(3)出産直後
(4)幼児期~少女期~思春期
(5)祖父と出会い結婚、私の実母を出産
(6)老齢期に腰椎骨折、寝たきりになり要介護者に

(8)今年1月より自発呼吸停止。人工呼吸器設置
(9)今年2月、医師により脳死判定(不可逆的な脳機能停止判定)
(10)家族の同意をとって医師が死亡宣告(心臓死)
(11)死亡宣告より3日後に葬式
(12)同日火葬、骨だけになる

(14)一年後に一周忌、3年後に3周忌の法要
(15)子孫全滅、誰も彼女のことを思い出さなくなり、彼女の存在した事実を知る人間が誰もいなくなる

 書いてて思ったが、これってものすごい個人情報だよね。
 まあ人間であるかぎり誰もが似たような道程を辿るわけで、そもそもが可愛い孫のすることだ。婆さん、堪忍してくれ。(西に向かい礼)


 さて。
 これを読んだ読者諸兄は上記(1)~(15)のなかで、どこまでが「生」でどこからが「死」だと認識しているだろうか。出産前についてはまたこれ大きな議論が必要だから、ここでは(3)以降に話を絞ると、おおむね(8)から(10)のあいだだと思われる。
(ちなみに日本の法医学会では(10)とキッチリ決められていて、その前や後に医師資格を持たない者が勝手に線引きすると、刑罰に問われたりする)


 こうして自分で書き連ねると露骨にわかるのだが、人間という生物はおおむねその人生の最大のイベントである「生の瞬間」と「死の瞬間」というのを、自己で決定することはできない。もちろん自覚もできなかったりする。

 この一事でもってしてすでに「自己決定権なんてねーよなー」なんて思ってしまったりするわけで、人権主義者(あるいは人格権主義者とかね)はそこんとこどう考えているのかぜひとも聞いてみたいのだが。(例えば「人権は(1)~(15)のどこからどこまでの段階で付与され、どこから奪われるのか」とかね)

 まあそれも別の議論なんでここでは措く。

      ※

 私は上記についてどう考えているかというと、そもそも「死」についての一律的な(全人類的な)定義なんていうのは無理があるだろう、という立場だったりする。ズルいねどうも(笑)。

 近代医学という狭いパラダイムのなかでさえも、「医学の進歩とともに死の判断規準は変更せざるをえない」と言っているように、「死」という概念は時代や文化によってユラユラと揺れ動き、移り変わっていくものだ。

 例えばウチの婆さんの場合。
 脳が死に(「正常に機能している」と近代医学が規定する状態に戻る可能性が極めて低くなり)心臓が停止したあとも、髪や爪は伸び続けた。まだ生きている細胞は分裂を繰り返しており、一部の代謝機能は活動を続けていた。

 停まった心臓だって継続的に電気ショックを与え続ければ、脈動を続けただろう。

 意識についてはとっくの昔になくなっており(「意識がない」と周囲が規定した状態に長期間おかれ)、ほぼ反射機能だけが残る状態が数ヶ月続いていた。

 ウチの婆さんはいつ「死」んだのか?
 それは医者が決めるのか? 身内である俺やオフクロが決めるのか? 法律が決めるのか?(いずれにしてもそれは婆さん自身でないことだけは確かなわけだが)

      ※

 人間は生まれてきた瞬間に、誰もが「死」に向かって進んでいる。
 というより、死に向かってゆっくりと進んでいる状態を、「生」と名付けている。

 そして自分自身ではなく、周囲のさまざまな状況、状態、認識、文化、環境、他者からの規定により、「死んだ」と規定される。もちろんそれは、大きく揺れ動く。


 ちょっとこれは深いな、と思いながら、いまなぜかマルクスの『資本論』を読んでたりする。もう15回目くらいで、読むたびに「何が書いてあるのかサッパリわからん」と放り投げてきたわけなんだけども、なんでか知らんが今度は(今度こそは)ちょっと理解できてきたような気がする。

 これってひょっとして。
「人間というものは、他者からの規定によりその存在(とその消失)が認められており、それ以外には認められようがない」
 というようなことが書かれているのか?


 往古の日々。
 初めて『資本論』を手に取ったのは中学三年の頃であった。
 正月に祖父母と両親が食卓を囲んで談笑していた頃、爺さんの書棚にも『資本論』が刺さっていた。ビッシリと書き込みがあって、インテリだった爺さんを尊敬し、そのことを祖父母に伝えると、爺さんも婆さんも「まだ早い」と言っていた。

 爺さんは「こっちを読め」と言い、岩波の『罪と罰』を貸してくれた。
 婆さんは「それも早い」と言っていたが、いま、遥か西の方でおそらく私を見ているであろう爺さんと婆さんは、何を話しているのだろうか。

 探しものはまだ見つかっていない。





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Last updated  2006/02/26 06:40:32 PM


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