しあわせのかたち

しあわせのかたち

2006/03/02
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テーマ: 売れてるCD(467)
カテゴリ: カテゴリ未分類
 仕事の合間に買い出しに出かけたコンビニでよくかかっている楽曲が気になっている。

百万回の「愛してる」なんかよりも
ずっとずっと大切にしてるものがある♪


 というヤツだ。
 いまネットで調べてみたら、 Aqua timez というグループの『等身大のラブソング』という歌だった。たいそう流行ってるらしいね。周回遅れですまぬ。

 メロディや声が気に入ったということもあるのだが、なにより「恋愛において百万回“愛してる”って言うのより大事なことってなんだろう?」というのが気になってちょっと調べた。

 歌詞全文は ここらへん を参照。
 どうやら「百万回“愛してる”ということ」よりも、「相手を抱きしめる」とか「そばにいる」ということのほうが大切だと説いているようだ。


(「とっておきの言葉を 熱く甘い言葉を(言えないから)いつもの喋り言葉で」というあたりの意味がよく掴めないんだが、「大切だ」とか「そばにいてほしい」とかなら言える、ということなのだろうか?)

      ※

 私が「言葉による現実変成能力」という概念を知ったのは、内田樹の著作からだった。これは内田の造語なのだろうか。いくつか内田のブログから抜粋するが、まあちょっと読んでもらったほうが早いのでいくつかリンクする。

「想像の力」
「言葉の力」
「配架の愉しみと語彙について」

 真ん中のリンクにある、バートランド・ラッセルの言を引用しよう(『論理哲学論』(L・ヴィトゲンシュタイン著/中央公論刊)序文より引用抜粋)。

 私たちが考えることのできないものを、私たちは考えることはできない。それゆえ、私たちが考えることのできないものを、私たちは語ることはできない。(・・・)世界は私の世界であるということは、言語(それだけを私が理解している言語)の境界が私の世界の境界を指示しているということのうちにあらわれております。形而上学的主体は、世界に含まれているのではありません。それは、世界の境界なのです。
(引用終了)

 上記はどういうことかというと、私たちが認識できる「世界」は、私たちが持っている「言葉」(語彙)の範囲でしかない、ということだ。(むうう、余計わかりづらくなったような気が)

 試みに例を出すと、最近レミオロメンの『粉雪』という曲がたいそう流行っている(「それも周回遅れ」とか言わんで。 竜宮城 人外魔境にいるんだ。許してくれ)。

こなーゆき~ ねえ 
心まで白く 染められたなら~♪


 というアレである。
「粉雪」という言葉に適応する英単語は存在しない。


「雪」は降るものだが、「粉雪」は降るものではない。
 舞うのである。

 もちろんイギリスだってアメリカだって、雪は降る。
 上空から「snow」がチラチラと降りてくれば「It snow」(雪が降る)と表現するだろう。雪原に一陣の風が吹き、微量の雪が舞い上がって景色を白く染め、それを窓から見ていれば多くの英国人は「美しい」と思うはずだ。

 しかしそれは「粉雪が舞う」という言葉を持つ日本人とは、別の感じ方なのだ。


 誤解してほしくないのは、それをもってして英語圏の文化が貧しいだとか日本語は豊かだとかを言うつもりは寸毫もない、ということ。雪に関しての日本語の語彙はエスキモーの語彙よりもずいぶんと少ない。砂やラクダに関する語彙はアラビア語に遠く及ばない。

 さてここで、例えば「粉雪が舞う」という表現を知らない日本人がいたらどうだろうか? というのを少し考えてほしい。
 粉雪では一般的すぎて想像しづらい、というのであれば、内田センセが例に出した「瀰漫」(びまん)という言葉でもよい。瀰漫とはじわじわと瘴気を撒きつつ世間や人々に広まっていく、という概念だ。

 そういう言葉を知らない人、語彙に登録されていない人にとっては、その概念は存在しない。
「瀰漫」という言葉が持つ、じわ~っと人々のあいだに広がるなんとも嫌な感じは存在しない。

 概念が存在しないということは、「それについて考えることができない」、つまり「ないのと同じ」ということである。アラビア人にとっては「ラクダ」は数十種類が存在する多様で多彩な生物だが、日本人にとってはラクダはラクダだ。逆に「米粒には神様が宿る」という感性(概念)を文化として持たないアラビア人にとっては、米は米にしかすぎない。

       ※

「愛している」とは、口に出して言うべきなのだ。
 それは「大切だ」でも「そばにいたい」でもいい。
 百万回でも二百万回でも言うべきなのである。(言えるもんならな)

 そしておそらく、言い手が(「とっておきの言葉」や「熱く甘い言葉」を想像できるほどに)「言葉」にたいして敏感であり、かつ相手を強く強く想っているのであれば、言い手はその時、「言葉の領域」に出会うことになるだろう。

 自分の目の前にいるこの人に対しての、いまの自分のこの溢れるような感情は、「愛している」という単語が持つ情感に、本当にぴったりと一致している感情なのだろうか……? と。
 それは「愛している」なのか? 「大切にしたい」なのか? 「そばにいてほしい」なのか? 「好き」なのか? 「いとおしい」なのか? どれもこれも適当なようで、適当でないようで。

「言葉はいつも思いに足りない」

 とは鴻上尚史の言葉である。
 それは「言葉」の限界/境界を示している。

 もちろんその限界は、新たな「言葉」を登録することで、ほんの少しだが広げることができる。
 それは同時にその人の「世界」が広がることを示している。

 以前にも書いたが、「言葉による世界の限界/境界」を「恋愛」という場面で知る人は幸せである。
 多くの場合、それは「言語差別」だとか「階級」だとか、あるいは「上司に話が通じない」だとか「最近の若者は何を言っているのか理解できない」だとか、もっというと「辞世の言葉」だとか、そういう切羽詰まった状況で発現する。

        ※

 なお、本稿について、「そうはいっても日本には古くから“言わなくてもわかるだろう”とか“野暮なことを言わせるなよ”とかいう伝統があるだろう」と反論される方がいらっしゃるかもしれない。
 私はその主張に一定の理路を感じているし、便利な概念だとも思う。

 けれどもこういった「言葉の現実変成能力」についての論考にてそういう考えを称揚する方は、残念ながらインターネット上では反論の機会を失うことになる。「言わなくてもわかるだろう」とお考えの方は、ぜひ何も言わずに私を納得させてみてください。


 探しものは見つかっていない。

「配架の愉しみと語彙について」 の中段あたりにおいて、内田が警鐘を鳴らす「昨今の日本語の痩せ方」については、一点を除いて(後述)大いに同意する。たいていの親は子供がジャンクフードばかり食べたり下賎なTV番組ばかり見ていると注意し、キチンとした料理を幅広く食べさせようと努力するし高尚(と言われるよう)なメディアに触れさせようとする。
 けれど、語彙溢れる豊穣な会話をしようと努力する親、というのはあまり見ない。

 もちろん「したくてもできない」ということが最大の理由であろうが。
 私だってそうだ。だからせめてそうした場面に立ち合うのならば、自身の限界を知り、高めるよう努力はしたい(食事やメディアだって同じである)。多くの親やメディア自身は、「言葉の境界」にまず自覚的になるべきだ。


 ああそれと、内田センセ。(後述部分ね)
「瀰漫」を「び漫」、「瘴気」を「しょう気」と表記することを忌避されるのであれば、ご自身もまず「子供」を「子ども」と表記することを止めるところから始めてはいかがでしょうか。子供の「供」はそれのみ単一で使う「従者」や「供物」といった意味ではありません。子供は「子」+「供」ではなく、「こども」という熟語にあてたセットの言葉です。

 特別な主張があって「子ども」と表記しているのであれば、説明すべきです。





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Last updated  2006/03/02 06:02:30 PM


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