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好奇心の話を書こうと思っていたのですが、間が空いてしまいました。というのも、日本人の好奇心の強さのヒミツについて、私がのめり込んでしまい、結局、まとめきれなかったのです。(期末試験期間中で、忙しかったのも)ということで、数学の指導をしていて、感じたことを。数学って、何のためにするんだろう?って思っている子が多いです。計算力なんて考えている人はいないと思います。コンピューターには敵いませんから。一つの答えがこれだと思います。「情報を読むため」です。もっと簡単に言えば、「嘘」を見抜くためです。数学の本質は、物事を定義し、ありとあらゆる場合を想定し、その限界や抜けをチェックし、様々な角度から物事を見る練習です。これは、ズバリ、世に出回っている「嘘」を見抜く練習に直結します。嘘を流すのは、悪いやつらだ、とお思いでしょうが、人間、もし表現の自由が保証されているなら、自分の有利になるように、情報発信するのは自然なことです。私の妻に話すべきことと、話さないでおくべきことを、意識的にコントロールしています。これだって、一種の「情報操作」です。このように、個人の私生活を円満にする情報操作から、どこかの国や政党のプロパガンダや、どこかの企業の商売がガッツリ儲かるようにするための「この法律、変えた方がいいよね」という空気づくりのための情報発信まで、いわば、「嘘」の洪水の中で暮らしています。でも、そもそも、民主主義とは、自分の主張を自由に言い合うのだとしたら、自分の立場や都合のために、組織的に情報操作や、政治活動を行うことだと言えるでしょう。その中には、あきらかに悪意のある情報操作もあります。間違った信念に基づいて人の迷惑も顧みず世の中を変えようとする人。日本が嫌いで、日本や日本人が傷つくことなら、何でも言ってしまう人。こんな中で、私たちは怒りを爆発させてばかりではダメです。情報戦の武器を、私たち一人一人が手にするべきなのです。そして、そのトレーニングは、数学に隠されているのです。残念なことに、学校教育において、この意味において数学は、生徒に指導されていません。(生徒が生意気になるからです。)しかし、せっかく、苦労して数学と格闘するのですから、情報戦の武器を手に入れるためと思って取り組むといいと思います。何しろ、面白くなりますし、当然、理解が深まります。国家の命運も、個人の命運も、情報リテラシーにかかっています。もちろん、科学や社会学、そして語学も必要ですが、戦う武器として、数学を見直してみることを、ぜひおすすめします。
2014.11.28
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面白がる能力が、学力に限らず、人生の分かれ道だとさえ言えるでしょう。じゃ、どうすれば、面白がれるのでしょう。面白がる力の正体、本質とは何でしょう?同じ料理を食べても、美味しそうに食べる人もいれば、無愛想で食べる人もいます。また、同じドラマを見ても、涙を流す人もいれば、あくびをする人もいます。これと同じです。つまり、この世に、客観的に「面白いもの」は存在しないのです。主観の世界にしか、面白さはないのです。じゃ、主観の世界を面白がれるように改造するには??まず、知識が必要です。何の?私たちが見ているこの世界そのものが、主観の世界なのだ、という。言い換えると、そもそも、この世に客観的な事実は存在しない、という科学の土台です。え? 科学って、主観を排して、客観的な事実だけを信じることじゃ??という方も多いでしょうが、これは、日本の科学教育の後進性であり、欠陥であると主張したいのですが、現代科学は、すべては主観だ、と認識することから、始まっているのです。この主観同士の「事実」をどう、通訳しあうのか?これが、科学の大きな仕事です。ここに小保方さんの問題も本質があります。じゃ、この主観だらけだ、ということと、面白がる力は、どう結びつくのでしょう?つづく
2014.11.18
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ものごとを記憶したり、学習したりするとき必要なのは、結局、繰り返しです。同じ条件なら、人間の記憶能力は、大差ないことがわかっています。でも、天才と鈍才があるように、あきらかに違いがあります。そのヒミツは、必要な繰り返しの回数を減らす秘訣があるのです。その一つが、好奇心です。ワクワク・ドキドキする好奇心があると、脳波にシータ波が出ます。このシータ波が出ていると、繰り返す回数を十分の一に減らすことも可能のようです。ま、当たり前と言えば当たり前ですよね。興味をもっているものごとは、反復回数が少なくても覚えられるのは当然です。ですから、天才とは、人が面白くも何ともないと思っている物事に、面白さを見つけることができる人、だとも言えるでしょう。科学者も、普段、見逃していることの中に、問題意識を持ち込める人だと言えます。そう言えば 「面白い」という言葉の語源は、「面」(おもて)、つまり目の前が、ぱっと明るく(白く)なるように、はっきり目立つようすを意味したようです。つまり、面白がるということは、物事を、はっきり見極める秘訣だったのです。じゃ、どうすれば、面白がることができるのでしょう。 つづく
2014.11.17
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電池だけでなく、磁石の研究でも、日本は、世界一流の研究成果と発明を生み出しています。東北大学の本多光太郎教授が1917年に発明したKS磁石鋼は、それまでの最も強い磁石よりも4倍もつよい磁石で、世界でもっとも優秀な永久磁石でした。その後、このKS磁石鋼を超える磁石鋼をはじめて発明したのも、やはり日本人。東京大学の三島徳三のMK磁石鋼です。1931年のことです。さらに、同じころ、本多光太郎は、山本量と協力して、センダストという磁石鋼を発明して、特許をとっています。仙台(センダイ)で発明された粉末(ダスト)にしやすい磁性合金という意味。この磁石鋼は、粉末にしやすいので、電話機などにひろく使われます。フェライト磁石も、加藤与五郎、武井武の発明により、トランジスターの部品に使われました。では、なぜ、日本でこのように磁石の発明が可能だったのでしょうか?その理由の一つは、明治のはじめ以来、日本では、磁石についての根本的な研究がさかんだったことがあります。物理学で有名な長岡半太郎も、磁気ひずみの研究で世界に知られるようになっています。また、本多光太郎ほかの、磁石の研究家も、その大部分が貧しい家に生まれて苦労してやっと大学をでることができた人たちばかりでした。その逆境を乗り越えるエネルギーで、「日曜日こそ、まわりが静かで、研究がはかどる」と喜ぶほどの努力家だったということが、その土台でしょう。しかし、このように、日本人のすばらしい発明が、日本ではあまり認められていないことが多いのは、とても残念です。KS磁石鋼も、せっかく日本で発明されたのに、それをはじめて工業的に作り出したのはアメリカでした。フェライト磁石の利用法をすすめたのも、オランダのフィリップ社です。また、八木秀次のヤギ・アンテナのすばらしいことを見抜いたのも、日本人よりもアメリカ人の方が先でした。そのために、太平洋戦争で、レーダーの開発に遅れを取ったのです。まったく、残念なことです。
2014.11.14
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電池と言えば、日本が誇るべきものは、現代でも身近にあります。携帯電話や、デジカメ等の携帯機器を動かしているリチウムイオン電池です。これは日本で生まれたのです。この小さくで出力が大きく、充電ができる電池の土台となる理論も、これまた日本人、しかもノーベル化学賞を取った日本人の成果を基にしています。それもお二人です。一人は、福井謙一さん。「フロンティア電子論」です。物質の物性や、化学反応をコンピューターで計算し、予測しようという理論です。二人目が、白川英樹さんです。薄膜重合法で、電気が流れるポリアセチレンを見つけられたのです。これらがヒントになり、水分を使わない充電ができる二次電池の構想が生まれたのです。先日の屋井さんの乾電池でも書きましたが、「乾」と言っても、水分を含んでいます。これは、ある一定以上の電圧を出そうとすると、水が電気分解を起こしてしまい、限界にすぐ達してしまいます。また、水分を含まない、金属リチウムを使った一次電池、つまり充電できない使ったら終わりの電池これは、存在していました。そして、高電圧・高容量を得ていました。しかし、何度も繰り返して使うためには、二次電池でなくてはならないのです。ではなぜ、リチウムの二次電池は無かったのでしょう?それは、すぐ火を噴いたからです、リチウムの化学反応性が高いのです。これを、日本の技術者は、先の理論をもとに、全く新しい構想で、新型電池開発に取り組んだのです。当然、障害だらけでした。その一つ一つを、根気と熱意と、そして日本という環境の幸運で乗り越えて実用と特許にこぎ着けたのです。こういうプロセスをぜひ、少年少女に知ってもらいたいものだと思います。科学、そして、科学技術は、天才がぱっとひらめくのが勝負ではなく、多くの人のつながりの中で、関ヶ原の合戦のように、ドラマチックにすすむということを知れば、理系を志す人も文系の人も、ともに、今、何を養っておくべきかが見えてくると思うのです。
2014.11.13
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日本の乾電池王と言えば、松下幸之助さんを思い浮かべる人が多いと思いますが、実は、その始祖とも言える明治の日本人がいて、その人、屋井先蔵が、世界で最初に乾電池を発明したのだということは、学校でも教えてくれません。屋井さんは、貧しい時計職人で、電気時計を使いやすくするために、ネックとなっていた電池の改良に取り組んだのです。ここらへん、いかにも日本の職人のプライドが見えます。それまでの電池は、文字通り、「池」でして、液体の電解質が使われていたので、液漏れはするは、冬は凍るは、でとても使いづらいものでした。屋井さんの研究経過は、とても参考になるのですが、その解説は別の機会にするとして、結局、電解液のゲル化に成功するのです。明治二十四年のことです。しかし、せっかく大発明したのに、その日の食べ物にも困っていた屋井さんは、特許を願い出る費用も出せませんでした。そんな不遇な屋井さんでしたが、日清戦争の日本陸軍において、その乾電池が大活躍することになります。そのころ、陸軍は懐中電灯や、携帯型電信機などの電源に外国製のルクランシェ湿電池を採用していました。しかし、厳冬の満州では、電池の電解液が氷結してしまい、いざというときに、使い物にならない事態が続出しました。この焦眉の急の問題を解決するために、軍では欧米諸国の液体電池を片っ端から取り寄せたのですが、実戦に耐えるものは得られなかったのです。そんなおり、新型電池を製造する国内企業があることを聞きつけ、藁にもすがる思いで、屋井乾電池合資会社に白羽の矢を立てたのです。そして、当時の新聞にも「厳冬の戦地で大活躍! 世界一の屋井乾電池、極寒の地でも氷結せず」と出るほど勝利に多大な貢献をしたのです。私は、来年度、この屋井さんの研究をたどる科学実験シリーズを開発したいと思っております。
2014.11.10
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親睦を目的にすると、研修がおろそかになり、研修を目的にすると、親睦効果が薄くなります。また、いずれにしても、参加率が問題です。このすべてを一気に解決してくれるのが、科学実験教室です。理由は、これまで話してきたことの結果ですが、これのミソは、研修と感じさせないで研修効果を得るところにあります。一種の騙しのテクニックみたいですが、騙されても決して嫌な思いをさせるものではありませんね。まず、勉強嫌いの子が、目をキラキラ輝かせているのを見るとなぜ、普段は、ドロンとしているのかを思いめぐらしてしまいます。そして、我が子に対する信頼を深めることになります。子育てや教育についての研修のエッセンスを自分で気づくことになるのです。また、子どもにとっても、親が活き活きして、問題に挑戦する姿を見ることは何冊もの道徳的な本を読むことに優った効果をもたらします。これは、そこで覚える科学の知識より何倍も大事なことです。また、親睦効果もバッチリです。普段、偉そうにしている人が間違い、地味な人の意見が正しかったりすると、そこで、気まずい空気が流れるかと、心配には及ばず、かえって、何でも話していいんだ、やってみなくちゃわからないんだ、という空気が支配するようになります。これは、スポーツで汗を流すだけでは得られない親睦効果です。さらに、参加率ですが、子どもは、科学が大好きですし、それにつられて、大人も参加してしまうものです。また、そのお土産話も家庭で行われることを考えると大きな輪が広がっていきます。
2014.11.06
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前回の続きから科学は、素朴な「素人の」発想を軽視しません。軽視しないどころではなく、科学音痴と言われる人に、心から「納得」してもらうために、こそ発達しました。もし、何か納得できない、胸の内がモヤモヤしている状態で終わってしまったら、それは、わからない「あなた」が悪いのではなく、納得させられない科学講師の方が、未熟なのです。これが科学の基本原則です。これは、相手がどんな人であってもそうです。偉い科学の専門家から評価を得るのではなく、一般民衆を味方につけようとしたのが、近代科学のスタートです。だから、もしも、素朴な質問や意見を言いにくい雰囲気があったなら、それは、科学をする空気づくりに失敗していると断言できます。どんなアホな意見でも評価される空気を指導者は、まず、作らなければなりません。そういう意味で、PTA行事のように、いろんな人が集まる場所こそが、みんなが楽しめる科学をするのに、ふさわしい場所です。さらに つづく
2014.11.04
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科学の楽しみは、知識を覚えることにあるのではありません。魔術のような芸当を身に付けることでもありません。想像の翼を広げ、様々な仮説を、つまりこの宇宙の物語を展開することにあります。そして、他の仮説、他の物語と比較検討し、さて、実際は、どの物語のあらすじが、合っているのかハラハラドキドキしながら、実験で決着をつける緊張感にあります。最初から結論を押し付けられる科学教室は、決して、科学をしているのではありません。受験勉強と本質的に何も変わりません。ですから、生命線は、自由な発想なのです。自由な発想が許される環境があってこそ、決着をつける実験が、ワクワクになるのです。子どもの素朴な思い、「素人の発想」を土台にしない実験は、乗客を乗せないで走る新幹線のようなものです。この自由な発想を守り育てる科学教室で大切なのは、「なぜ」ではなく、「どうなるか」を問うことです。「なぜ」と問えば、どうしても知識の多い人の勝ちになってしまいます。また、もっと重大なことは、結論を押し付けることにつながります。本当は、現代の科学理論だって仮説に過ぎないのです。別の解釈だってありえるのです。その可能性を押し殺し、議論が抽象的な次元で続いてしまいます。それに対し、「どうなるか」というのは、「これからどうなるか」という未来への問いです。誰でも対等に議論に参加できます。もちろん、実験を重ねていくと、自ずと次の実験の結果がわかってくるものです。自分の仮説が間違っていることに気づき、新たな仮説を持つようになります。そして、正しい仮説を持てれば、予想が当たるようになるのです。この感激・楽しさは、大人も子どもも関係ありません。主体的に生きる姿勢そのものに結びつく生きる喜びとさえ言えます。ですから、誰でも笑顔になれるのです。目が輝くのです。このキラキラしている子どもの姿を親が見るとどういう影響があるでしょう。また、自分の親が活き活きして、問題に挑戦している姿を子どもが見るとどういう影響があるでしょう。
2014.11.02
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3回連続、PTA行事ですが、今日はPTA行事と科学実験との相性の問題です。明日以降 ご説明しますが、PTAで科学教室をすることは、一石二鳥どころか、三鳥、四鳥なのです。でも、すぐに心配になるのは、「難しいんじゃないかしら?」「うちの子理解できるかしら?」ということでしょう。これは、また、「私がついていけなかったらどうしよう??」、ということもあるでしょう。それに「本当に面白いの?」 「実験をいっぱいさせてくれるの?」「お金いっぱいかかるんじゃないの?」そりゃ、心配です。私が提案して、すべってしまったら、と不安で眠れなくなったことはありませんか?たしかに、科学実験教室がすべて楽しいとは言えません。ついていけないものもあるのが事実です。たとえば、「科学教室」ではなく、「工作教室になってしまっているもの。これは、科学とは名ばかりで、まるで家庭科か、図画工作の時間と言えるのもあります。工作教室を批判するわけではありませんが、不器用な私には、みんなのスピードについていけないんじゃないか?と生きた心地がしないものです。科学の内容よりも、無事終わることだけに集中してしまいます。反対に、器用な子には、時間を持てまして退屈な時間です。さらに、理屈をクドクド説明される実験教室。これの悪い点についての解説は、後で丁寧にしなければなりませんが、簡単に言うと、人は、教えられることは好きではないということです。(その反面、自分から気がつくことは大好きです。)このやってはいけない「指導」をしてしまう講師がいるのです。というより、大半の科学教室が、「教えよう」と手ぐすねひいていると言えるでしょう。こういう「知識を植え付けよう」という科学教室は、注意した方がいいですよ。子どもたちに科学の面白さに目覚めさせるどころか、科学のトラウマを作ってしまう恐れがあります。せっかくの子どもの未来を奪う犯罪だとさえ言えるでしょう。また、そこそこ楽しいし、うまく実験できたのだけれども、「ま、こんなものか」、というレベルの感想のもの。一見良いことのようですが、違います!科学は誰でも、そう「誰でも」、科学音痴と言われている「あなた」でも抜群に楽しくて夢中になってしまうものなのです。第一印象は何かにつけて重要です。初めての科学教室で、「ふつうじゃん」「まあまあね」という印象をもたせるのも、これは、罪は重いのです!!じゃ、そんなことを言うなら、「良い科学実験教室、おすすめの科学実験教室」とは、?「結局、あんたの科学教室ならいいということなんでしょ!?」ま、そういうことではあるのですが、ヽ(´▽`)/私の科学教室というよりは、どういう点に注意した科学教室が良いのかという見分ける目を持って欲しいということです。(続く)
2014.11.01
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