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憲法改正が国会であがってきている。与党だけで衆議院では三分の二を越えているが、参議院の問題もあるので民主党の協力は必要になってこよう。国民投票法の整備も始まった。だが、ここでみなさんに知っていただきたいことは、日本国憲法及び戦前の大日本帝国憲法は、ほとんど守られていないということである。憲法が他の法律と違う部分は、国の基本法というだけではない。他の法律は、国が制定し、国民を支配下に置くが、憲法はその国の権力をけん制するものである。したがって、国は都合のいいようにするためには、憲法を守らない場合がある。学問上、あるいは理想上、憲法とは国家権力に先立つものであるが、実際には国が憲法を封じ込めてしまうのである。憲法について、口角あわを飛ばすほど議論しているのは右翼と左翼と、本当は左翼なのに市民派を自称する人達だけである。戦争のない国づくりをしたければ自衛隊法でそうすればよい。天皇を国民の象徴にしたければ皇室典範ですればよい。人権を保障したければ諸々の法律に規定すればすむことである。問題は姿勢なのだ。憲法には拘束力がない事が今までの歴史からすると明らかだ。憲法は必要だという、固定概念にとらわれるのはやめたほうが良い。姿勢もないのに基本法をつくりかえようとしたり、維持しようとしたりしても何も意味ももたない。憲法では規範を規定しながら、守られていないことは山ほどある。自衛隊の存在や死刑制度の存続については、各々に違憲かどうか賛否両論があるとしても、明確な憲法違反はあちらこちらにある。まず、法律を作るのは国会の任務としながら、実際は内閣が作っている。この論理で行けば、裁判所にも法案提出権があると拡大解釈できる。また、私学助成を憲法では禁止しているが、実際にはどんどんやっている。憲法を守れという共産党は、各地方自治体議会で共産党所属議員が私学助成を要望することはしきりである。これら、憲法無視の姿勢は日本国憲法時代だけの話ではない。旧憲法即ち明治憲法においても議会制民主主義や言論の自由が保障されながらいっさい破られている。順法精神豊かな日本人は、なぜか抽象的な規定である憲法に関してだけは守らない風習がある。これは日本人というよりも国家権力は憲法に従わない習性を物語っているからだ。どうせ守らない憲法であるならば、どう改正してもらってもかまわないし、そのままでも一向にかまわない。わが党の目的は、戦争をなくすこと、貧富の差をなくすことである。その方法は憲法によっては、決して達成される事はないと思っている。憲法が、平和や経済の安定という政策に優先することはない。憲法が平和や豊な暮らしをつくるのではない。憲法などという紙に書かれたものをいじくる前にやることはあるだろう。国会議員には憲法尊重擁護義務がありながら、その憲法自体を変える発議権を持っている。これも一般国民には理解できないことだろう。これは法学を学んだものでなければ理解できないといって学者にとってなんらかの屁理屈があるのなら、それは国民にとってわかりづらいものであり、直接国民には関係のないものであるから棄ててしまったほうがよい。なにしろ、国会で審議されている憲法問題は、理念が見えてこないのである。単に学術上の討論をしたくて、自分たちが大層なことをしているのを国民にアピールしたいだけならとっととやめてほしい。政治家は憲法を論じていると仕事をしている満足感が得られるらしい。護憲にしても改憲にしても、自己満足である。憲法は権力を抑制するために存在するが、その力は発揮されていない。憲法で軍事的にいかなる規定をしようともやはり時の政権は都合のいいように解釈するだろう。何しろ憲法を守らないのが、国家権力を握った政治家・官僚だからである。憲法は権力を抑制する力を持っていないのは歴史が明確に示している。憲法は百害あって一利なしだ。社会民主党党首の福島瑞穂参議院議員は、彼女の勉強会で次のような発言をした。「自民党や民主党の議員は『憲法では国民の義務よりも権利について多く書かれているのはおかしい。国民の義務をもう少し入れるべきだ』と言っているが、憲法とは国家権力の横暴を抑制するためのものであり、国民に義務を強要する憲法改正はおかしい」とこのように語っていたのを目の前で私は聞いた。成る程、もっともな意見である。憲法とは暴君を生み出さないためにヨーロッパから生まれてきたものだ。今では『君臨すれども統治せず』の英国国王や象徴となっている日本の天皇制であるから、現在抑止すべきは議会・行政・司法などの国家機関である。しかし、憲法がきちんと抑止力を持っているかどうかというのは前述の通り、私学助成は例外であるとか、内閣の過半数は国会議員であるから内閣提出法案は許されるとか、自衛のための軍事力はかまわないとか、解釈改憲がいくらでも成立するのである。共産党ですら解釈改憲しているのにいったいどんな抑止効果があるというのか。福島党首はこうも言った。「野中広務氏は、憲法を条文として改正しようとする明文改正派、宮沢喜一氏は解釈改憲であるが明文改正はしないという護憲派。だから宮沢氏は改憲しないという意味では仲間」こうなってくると“憲法オタク”としかいいようがない。文章を変えるか変えないかを問うているのは全く無意味だ。彼女にとって憲法を守ることは楽しいのだろう。同じく改憲派も憲法を変えていくということ自体に楽しみをもっている。人間のいわば支配欲の達成のためにやっているのである。野中氏も宮沢氏も軍縮志向であり、さきの大戦では戦争の悲惨さには、身をもって経験した政治家であるから同じような軍縮論を持っている。「とにかく憲法を変えない」というのが政治信条であるなら単なる“憲法信者”であり、戦前の天皇崇拝主義者とあい通じるものがある。天皇を憲法に置き換えたに過ぎない。要するにどの政治家も「憲法」というそのものに捕らえられて、表面上の体裁や面子のことだけを考えている。わが党の主張は「平和は憲法に優先する」である。改正しようという方もする方で、とくに民主党は「今のままでは駄目だ」という思いが強いが、中身は全くない。あったとしてもそれはすでに自民党内にも同じような意見がある。変えることがいつも主眼であり、変える内容については二の次という考えを持っている。とにかくなんとなく変えようとするため余計に悪くなる。それが民主党である。公明党にいたっては、9条が改正されたとしても、平和を名乗る公明党は「私たちが与党にいたからこそ、ここまでで食い止めることができた」と言える言い訳探しに必死なほど中身はない。自己満足のために国家の基本法をいじくるべきではない。改憲と護憲、右翼と左翼という対立を生み出してしまう憲法はもはや平和理念を達成するためには、むしろ妨げであり、憲法は一刻もはやく廃止するのが望ましい方法である。そのうち護憲派は平和を守れといって闘争を起こす。人間が傷つくことから戦争が起きる事を知らなくてはならない。平和とは、偉そうに理念を紙に掲げる事ではない。そんなことで、子どものレベルでなるべく喧嘩をしないようにと指導できるだろうか。自己主張の押し付けが闘争をつくりやがて国際紛争になるのである。改憲は改憲で、憲法のもともと存在する意味を知らない。彼らは、半世紀にわたって結論のでないことに時間を浪費している。どうしても政治家同士の趣味・娯楽・言葉遊びにしか見えないのである。平和党は憲法をどうこうするよりも、自然主義経済を実行に移すことがすべての政策課題の問題解決に繋がると考える。
2006年09月30日
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平和党代表・大坂佳巨 未常識への挑戦が世界を拓く
2006年09月29日
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2006年09月29日
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総裁・安倍晋三(現・内閣官房長官)幹事長・中川秀直総務会長・丹羽雄哉政務調査会長・中川昭一(現・農林水産大臣)幹事長代理・石原伸晃安倍氏は森派(←三塚派←安倍派←福田派←岸派)現・清和会中川秀氏も森派(←三塚派←安倍派←福田派←岸派)現・清和会丹羽氏は丹羽・古賀派(←堀内派←加藤派←宮澤派←鈴木派←大平派←前尾派←池田派)現・宏池会中川昭氏は伊吹派だが、元をただすと森派(←亀井派←江藤派←三塚派←安倍派←福田派)石原氏は無派閥だが元森派(←三塚派←安倍派←福田派←岸派)現・清和会政治の世界というのは、時間がたつと誰が何をしたのか忘れしまうものなのでここで今一度確認。中川幹事長は、日本経済新聞政治部記者から昭和52年、義父の地盤を引き継いで、旧広島2区より新自由クラブ公認で初当選し、昭和54年落選。以後、新自由クラブを離党。昭和55年無所属で返り咲き当選し、自民党に入党。平成2年ふたたび落選。平成5年返り咲き当選するも自民党が下野。平成7年村山内閣で首相補佐官をつとめる。自民党と社会党のパイプ役を果たす。平成8年橋本内閣発足、国務大臣・科学技術庁長官として入閣。平成12年森内閣発足、森派会長の腹心として内閣官房長官に抜擢される。官房長官就任三ヵ月後に、愛人とのスキャンダル発覚。右翼との交際もあかるみにでる。愛人と裸で写っている写真が出回るが、本人はそれでも否定。官房長官辞任に追い込まれ、森内閣も史上最低の支持率、超不人気内閣によって、加藤紘一らによって加藤の乱がおこされてめちゃくちゃに。このとき、国民は中川官房長官に対して大ブーイング。平成14年、ほとぼりが冷めてきたので小泉総裁の下で国会対策委員長として復活。平成17年、さらに人々は忘れてきたので、小泉総裁の下で政務調査会長に昇格。平成18年、さらにさらに人々は忘却のかなたにいったため、安倍総裁の下で幹事長に昇格。主流派閥で、森・小泉・安倍につきまとうと生き残れるのです。ちなみに、同じ姓の人が役員で重なっていると、その場合は短期政権ないし短期任務で終わります。
2006年09月25日
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総裁・安倍晋三(現・内閣官房長官)幹事長・中川秀直総務会長・丹羽雄哉政務調査会長・中川昭一(現・農林水産大臣)幹事長代理・石原伸晃国会対策委員長・二階俊博(現・経済産業大臣)新生党・新進党時代の仲間同士になってしまうためか、民主党は国対委員長は渡部恒三氏にかわって高木義明氏になるという。
2006年09月25日
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「死後の世界はある」ご冥福をお祈りします。国際的にも活躍した俳優の丹波哲郎(たんば・てつろう、本名正三郎=しょうざぶろう)さんが24日午後11時27分、肺炎のため東京都三鷹市の病院で死去した。84歳。東京都出身。
2006年09月25日
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●自由民主党総裁・安倍晋三(現・内閣官房長官)自民党幹事長・中川秀直(前・自民党政調会長)新自由クラブ→無所属→自民党総務会長・丹羽雄哉(元・厚生労働大臣)自民党政務調査会長・中川昭一(現・農林水産大臣)自民党幹事長代理・石原伸晃(前・国土交通大臣)無所属→自民党国会対策委員長・二階俊博(現・経済産業大臣)自民党→新生党→新進党→自由党→保守党→保守新党→自民党●民主党代表・小沢一郎(元・自治大臣、自民党幹事長)自民党→新生党→新進党→自由党→民主党代表代行・菅直人(元・厚生大臣、民主党代表)社民連→さきがけ→民主党幹事長・鳩山由紀夫(元・内閣官房副長官、民主党代表)自民党→さきがけ→民主党政策調査会長・松本剛明(現・民主党次の内閣官房長官)民主党国会対策委員長・高木義明(前・民主党副代表)民社党→新進党→新党友愛→民主党
2006年09月25日
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自民党の中島真人参院議員(71)=山梨選挙区、2期目=が25日、来夏の参院選に出馬せず、引退すると山梨県内で記者団に表明した。党県連がまとまらず、選挙で一丸となって戦えないことが理由。すでに山梨県内に自民党の若手(名前忘れた)がポスターべたべた貼ってありましたけど、その人が出るんでしょうかね。
2006年09月25日
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以下は、西村眞悟衆議院議員(民主党を離党中)がホームページに9月9日に書いたもの。‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐自民党の総裁選挙が始まった。その開始当日、ある種の奇妙な感慨をもって候補者の討論の様子を観た。何故なら、まるで、テープを巻き戻したように、十二年前の同じ情景が浮かんできたからである。(中略)平成六年、新進党結成準備に際しての新党の政策決定議論において、自民党出身者からなる集団、公明党そして民社党の三者から代表者が送り出されて国防政策を議論した。 私は、民社党からその場に送り出された。そして、振り返れば今の自民党総裁候補と同じ議論をしていたのだった。 私は言う。「集団的自衛権は自衛権であり、保有していれば必要なときに行使するのが当たり前ではないか」と。 公明党代表は言う。「今までの政府見解の積み重ねがあるので慎重であらねばならない」と(その時我々は、与党であった)。 自民党出身者(自衛隊将官出身)は言う。「あーうー」と。 そして、結局、「あーうー」という結論になった。 その後、新進党解党後の自由党に於いて、集団的自衛権は当たり前との共通認識ができてきた。 しかし、自自連立解消後に奇妙にも自由党幹部と社民党幹部とが定期的に会食をするようになった。そしてある時、自由党の政策責任者ではない国会対策の者が、党の政策として「自由党は集団的自衛権を容認しない」と記者に発表してしまう。 この直後の党の幹事会で、私は国会対策が党内議論もなく政策の変更に言及するのは越権であると抗議したが後の祭りであった。 そして、ここに、私が自由党結成に参加して実現しようとした志の一つが中断するのである。(これを境に、私は自由党常任幹事を更迭された)同時に、国防で自民党より右と言われた民社党の路線は、一旦水面下に潜ることを余儀なくされたのである。 さて、冒頭奇妙な感慨と述べたが、それは、新進党結成時の国防議論と今の自民党総裁選挙時の議論が同じだったからである。 そして、あの新進党結成時には、自民(出身者)・公明・民社の三者の議論であったものが、今は自民一党の中に移って同じパターンを繰り返している。 してみれば、今の与党である自民党も、十二年前の新進党と同じく、国防政策で三分される構造になっているということになる。所変わっても議論の内容は同じだ。 何故、このような堂々巡りのような構造になっているのか。それは、あの当時も今も、政治は「戦後」から脱却せずに、その中で相変わらずに暮らしてきたからに他ならない。戦後の範囲のなかで生きて考えていれば、誰がしても十年しても国防の議論は同じ所をぐるぐる回ることになる。‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐このように、小沢腹心と言われる西村氏は、今の自民党はかつての新進党と同じ国防論をしているというのである。それはつまり党首であった小沢一郎の国防論がそこには反映されている。新進党一党で、内部の公明党がやや首をかしげるようなところがあったが、それは、今の自民・公明連立政権に引き継がれているのである。小沢氏は必死にイラク戦争の否を言い、湾岸戦争における日本の参加は正しいのだと主張している。この矛盾に本人は気づいていない。なぜ、このような言動になるかというと、湾岸戦争のときは与党・自民党幹事長であり、イラク戦争のときは、野党・民主党代表代行であったからだ。ようするに、自分の権力闘争を第一義と考えているため、政策などはあとづけで無理やりな解釈を持ってくるのである。政治理念の純粋性を持つ西村氏の場合は、それがきわめてわかりやすく現れる。権力闘争重視の泥まみれの小沢氏の場合も、それがきわめてわかりやすく現れる。小沢氏は、自民党竹下派会長代行として、利権政治のまっただなかにあった。金丸信会長が逮捕されると、てのひらをかえして、これらを悪として新党結成をして自民党を出て行った。自民党こそが悪の元凶であり、小選挙区制や規制緩和を徹底した市場経済が改革なのだと。ところが、総理の座は不可能と思われた小泉純一郎氏が首相になり、民営化・規制緩和・公共事業のカットなど市場競争原理主義をとりいれたら、今度は小沢氏は逆のことを言い出した。小沢氏を政治理念の筋の通った人間であると評価するのは私は大きな間違いであると思う。私はかつて新進党で小沢氏の言動をそばでみたが、理念重視・政策重視の男ではない。ただし、理念一筋というふうに形式上みせようとする。それは選挙のためである。いかに権力を奪うかという点では、嗅覚に敏感で、非常に優れていると思う。彼は政策の人間ではなく、国対の人間である。それに比べて西村氏は、自由党の国対担当者が丸く治めようとすることに怒り、政策を優先するタイプである。どちらがいいとか悪いとかの話ではない。政治家には役割がある。さて、話はもう一つある。それは、この西村氏の話である。彼が弁護士法違反で、国会に議席がありながら冷や飯状態であるのは、政治倫理上、それほど重大な事ではないと思っている。悪い事をしているのはとがめるべきであるが、西村氏のように国会議員で弁護士の仕事を他の人に丸投げしている人は多くいる。勿論、非弁護士に頼んでいる政治家もいるから、そのうちあかるみになってこよう。だから、そんなことよりも、この文章の最後のほうに注目していただきたい。戦後から脱却できずに、堂堂巡りを繰り返しているという。まさにそのとおり。護憲と改憲はいまだに口汚く、ネット上でも罵り合っている。お互いを悪者扱いしているのである。これをなんと戦後61年続けている。若い世代の人間ですら、上の世代を見習って、それを踏襲しているところがすごい。他の部分では、上の世代のものを引き継がれないものはたくさんあるが、こればかりはなぜか続いている。しかし、西村氏の集団的自衛権の論は、戦前のものなのである。二度の世界大戦がなぜ起こったか。それは集団的自衛権による連鎖反応で、世界各国が次々に大戦に参加していったのであり、これもまた過去の遺物であることだ。実は、ここにも堂々巡りが存在している。この集団的自衛権は、西洋国家論から生まれてきているのである。東洋思想に根ざさない限り、この問題は延々と続くのである。http://heiwatou.jp
2006年09月20日
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日本の財政赤字は、中央・地方その他含めて1000兆円に達しようとしている。そればかりではない。低所得者層の国民にも借金苦で悩む人口は増えている。このまま利子が膨れあがっていくとしたら計算上、遅かれ早かれ、だいたい30年後に、経済的な破滅を導く。さらに、このプラス利子制度は、国際経済にも支障をきたし、地球環境の崩壊へと突き進む。年金支給額は当然ゼロになる。そんな馬鹿なことがあるかと言うかも知れないが、すでに政府にはそのような計算は出している。無理だということは、すでに判明している。役人も与党幹部政治家もぶっちゃけた話をするといつも出てくる内容だ。どうやって先送りして、どのように責任をおしつけるかを今考えている段階である。はっきり言って、政策的には一切答えがないのである。今、政治家にとってわかっていることは「年金のことを言えば票がとれる」くらいのことだ。国が最大の悪者となろう。国債も日本銀行券も信用されなくなる。年金未納者を悪党のごとく糾弾している人もいるが、やがて国が最大の悪党である事に気づくだろう。年収が400万円だとすると、そのうちの180万円は利子の支払いに追われている。直接的な利子支払いよりも、間接的な利子支払いがとてつもなく大きい。プラスの利子をやめれば、流通速度は圧倒的に高まり、年収は倍以上となろう。現在以上の生活水準でありながら、労働時間も減る方法があるのにも関わらず、誰も振り向かない。これに人々は気づかず、「市場原理主義を働かせて、勝組・負組がある活力ある社会」だとか、「高所得者から税金をしぼり低所得者にまわす再分配」の二極に分かれることとなる。このような、小さな冷戦構造は今世紀においても、いまだ存在している。現在の経済システム、すなわちプラス利子の金融システム支配下の経済制度は、戦争を引き起こす、あらゆる災害を作る、病気と貧困を生み出す、犯罪が多発する、環境を破壊する、人々の人生を狂わせる元凶である。なぜなら、現在採用している経済システムは、数学的に可能であっても、自然の仕組みを無視した、不可能なものだからである。お金と自然万物の間に、不均衡が生じている。自分が生きているうちは大丈夫などと考えている方々は多いが、すでに社会現象として限界がみえてきている。少子高齢化・巨額の財政赤字・利益優先安全無視の企業体質などなどetcお金はためておくと、増える。だが、モノは朽ち果てるのである。ここにアンバランスが生じれば、当然将来に年金が給付されなくなるのは、自明の理ではないか。お金はモノを作り出さない。あくまでもお金はお金にしかならない。具体的に言うと 「 お金は常に人件費にしかならない 」のである。中華料理店でラーメンを食べたとする。その支払いは、仕入れ代金・店の家賃・光熱費などの他にその店の従業員の給料として使われる。その従業員は給与を使って買物をする。その代金は、やはり仕入れ代金・店の家賃・光熱費などのほかにその買った店の従業員の給与となる。では、仕入先をみてみよう。やはり人件費と人件費以外の費用となるが、その企業において人件費以外の費用としてみても、どこかで必ず人件費になっているはずである。どこまでいっても永久に人件費なのだ。それもそのはず。お金はモノを作らないからである。お金を土に埋めても野菜は育たない。肉を食べるために豚肉を育てるとする。しかしお金を豚は食べない。ヤギなら食べるかもしれないが…。また火力のための燃料にするのなら、石油・石炭にかなわないだろう。ただ交換するだけならまだしも、そのお金には利子というものが付いて回っている。当然、自然の仕組みとアンバランスが生まれて、やがて崩壊するに決まっている。これだけの当たり前の事がわからずに、永田町と霞ヶ関では、けんけんがくがくやっているのである。既成政党は全て、お金というものにとりつかれ、その中で政策を決めている。ここに解決策があるわけがない。平和党の自然主義経済を推進していくべきなのだ。http://heiwatou.jp
2006年09月20日
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自然主義経済の実践例 1 [ Weblog ] / 2006年09月21日 01時27分22秒 http://www.chiemgauer.info/ドイツ・バイエルン州プリーン・アム・キームゼー町では、2003年1月より「キームガウアー」という地域通貨をはじめている。この地域通貨は、女子高生の自由研究から始まって、それが大きな広がりをみせている。学校の授業でゲゼル理論を聞いて、実践にいたることになった。これは3ヶ月に2パーセント減価するから自然通貨と言える。年損8パーセント(マイナス年利8%)ということになる。目的は以下の五つ。●雇用の創出: 事務作業を生徒が行い、それに見合った対価を得る。●文化・教育・環境保護活動の推進: キームガウアーというシステムが、それらの活動を行うNPOを資金的に支援 ●持続可能性の推進: 有機食品や再生可能なエネルギーの利用など ●連帯の強化: 地元の消費者と事業者との人間関係の強化 ●地域経済の推進: キームガウアーによって購買力がユーロよりも地域に残りやすくなり、地場企業に有利に働く。また、減価する貨幣のシステムによって取引も推進。いつものわが党の主張は、地域通貨という地域における通貨というものでは、かつての公明党の商品券ばらまきと同じである。あれでは景気は良くならなかった。(公明党は違う事を言っているようだが)さらに日本国内の地域通貨も活動停止が多くみられるようになっている。減価する貨幣を恒常的に市場に流すことが重要で、これがないと流通速度は速まらない。さらに、公明党の政策は、地場産業というものに視点がなく、大企業においてもそれが使えてしまうため資本優位の経済の中では何の役にも立たないのである。特定の人間にしか配布されないのも一因にある。このキームガウアーは、事務局を持っている。●事務局は、NPOに対して97ユーロを受け取り、100キームガウアーを渡す。ここでNPOは3ユーロの利益を得て、それをNPOの活動費に当てる。●事務局は、消費者に対して100ユーロを受け取り、100キームガウアーを渡す。消費者はNPOに対して実質的に3ユーロの寄付を与えているのと同じ事となる。ただし、消費者の金銭負担はゼロ。●地域企業・商店は、モノ・サービスを製造・販売し、消費者から100キームガウアー受け取ったとする。この100キームガウアーで、仕入れ代金を支払うか、若しくは事務局に対して95ユーロと交換してもらう。ユーロに変換する場合は、手数料として5パーセントかかることとした。前者の場合、キームガウアーが流通され、後者の場合、NPOへの寄付につながる。●事務局は、100キームガウアーを100ユーロで売る。100ユーロを95キームガウアーで売る。現在のところ、会員数: 1188 事業者数: 380 キームガウアー流通額: 4万6000キームガウアー(=4万6000ユーロ、以下同じ) 事業者売上額: 72万キームガウアー 参加NPO数: 50 NPOへの寄付総額: 1万0800キームガウアーレポート報告が冒頭のHPに添付されているとのことであるが、ドイツ語で書いてあるのでわかりません…。日本が西洋諸国と付き合う場合、ドイツとの交流を深める事が、もっとも良い方法であるとの持論から、かつてドイツ語をNHKラジオやテレビ(ペナルティの出ていたやつ)で多少かじりましたが、もう時間が経ってさっぱりわかりません。これとは別に週1%の割合で減価する仕組みのものもある。LIBRAプロジェクトチームというところが行っている。http://www.aequilibra.it/これは英語なのでわかりません。フランスには年に3パーセント減価するSOLなるものがあります。http://www.caracoleando.org/これはフランス語なのでわかりません。私は「日本人は日本語だけわかりゃあいいんじゃー」という路線できましたので、誰かご覧になってください。
2006年09月20日
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比例区で予想される立候補政党とその獲得議席の予測自由民主党民主党公明党 8~9日本共産党 4~5社会民主党 1~2国民新党 2~3新党大地 1そうぞう 0~1女性党 0~1維新政党・新風 0みどりのテーブル 0自民党と民主党の合計獲得議席は、26~32と予測。国民にとっても、どちらが勝っても政策的には大差なく、私的怨念の戦いであるから、残りの議席でいかに平和党が獲得するかである。来年の参議院選挙は12年に一度くる亥年選挙で、統一地方選挙の三ヵ月後に行われるため自治体議員が自分の選挙を終わって安心しているので、参議院候補の手足となって動かない。投票率は12年周期に低投票率になっており、組織力政党が優位である。したがって、公明党と共産党がやや伸びること。社民党は福島みずほ党首が改選ではないので、前回と同様の得票は望めず、おそらく1議席で終わると思う。国民新党は、昨年の総選挙で北陸信越ブロックと中国ブロックで議席を獲得している。これを全国比例区であてはめてみると、3議席獲得も可能。新党日本については、政党助成法からはずれているため、立候補しないものとみられるが、長野県知事に落選した田中康夫代表が、参議院選挙に出馬するとの話もある。ただし、この場合、国民新党との票割れがなされるとも限らないので、田中氏は民主党に入党し、新党日本は解党するとみている。田中氏が国民新党に入ることはないと思う。自分が偉いと思っているので、どうせ入るのなら大き目の民主党にいくだろう。大政党で優遇された方が得策と考えると思う。のこされた新党日本の議員は国民新党に合流するか、民主党に行くだろう。新党大地は、昨年の総選挙で北海道限定でありながら1議席を取っているので、全国比例区では勿論とれるが、鈴木宗男が候補者でない事、北海道以外では、薄く浅く得票するので、全国総合で1議席。松山千春が出る場合は、2~3議席も不可能ではない。そうぞうは、沖縄のローカルパーティであるため沖縄での得票は望めるが、全国で100万票でるかどうか。同じく沖縄と鹿児島奄美諸島で組織をもつ自由連合と提携した場合、獲得も可能と思う。保守の反自民票をとっていくため、民主党の足を引張る。女性党は前回の参議院選挙で100万票弱を得票しているが、このときは、ミニ政党が乱立しなかったため、ここに得票が集中した結果である。女性党が足を引張るのは、社民党。フェミニズム系列の民主党にも多少のことながら影響はある。民主・社民のように他の部分で非難されがちな政党の場合、フェミニストの票は女性党に流れる。維新政党・新風は、自民党右派の現れであり、自民党の足を引張ることはなく、むしろ自民党に流れるため、議席獲得までにはいたらない。みどりのテーブルは、中村敦夫元代表のみどりの会議の流れだが、立候補にまで至らない可能性がある。この政治団体も共産党・社民党の中の一部の政治思想であるが、むしろ共産・社民に流れる。また、候補者不足・資金不足から、立候補することも不可能であると思う。
2006年09月20日
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日本が経済優先主義を貫かねばならない理由として、日本が輸入大国であるということにある。「日本には資源がないから一生懸命働いて(別に働かなくても金融制度における金儲けでも)外国から食糧・エネルギーを輸入せざるをえない」と誰もが言う。これが大きな間違いのもとである。昨日より吉野家では牛丼復活祭と称して、長蛇の列ができていた。外国から輸入する事で、安く食べられるのが貿易の利点である。20年くらい前は、寿司なんて高かったものだが、今では低価格で食べられる。そのかわり得たいの知れないものを使っている場合も多いが、なにしろ、南米やら東南アジアなど遠方の魚介類を食べているのである。工業製品においてもしかりである。ぬいぐるみなんて結構高かった記憶があるが、今では格段に安い。安い労働力である中国や東南アジアにおいて作っているからである。人々は国産という安全なものよりも、安価なものを好むようになっていった。国産はなぜ安全とされるかというと、国内のものだから信用がある。すなわち自らの近くで作られた農林水産物に人々は安心するのだ。さらに国家単位よりも小さい地域であるのなら、なおよいことが生まれる。地域で生産して、その地域で消費し、その地域で廃棄すればサイクルができる。しかし、これは貨幣制度という方法によって、高価格となるのだ。これによって自然破壊が生まれる。また、人体に危険なものを取り入れることになる。二度の世界大戦は、貿易がスムースにいかないかったから起きたのだということで、その反省が生まれる。戦後のブレトンウッズ体制からこうなっている。WTOかつてはGATTなど、鎖国的貿易政策については圧力をかけてくる。これが世界平和のためなのだと。しかしながら、日本は鎖国していた江戸時代は平和であり、その後開国したら戦争だらけであった。戦争の要因について、いろいろ見方はあろうが、その根底には資源の争奪がある。輸出入せずに、自国で生産・消費が可能であるのなら、海外に依存する必要はない。だが、はたして本当に海外依存しなければ日本は成り立たないのだろうか。日本での食糧自給率が低いのは、低くしているからではないだろうか。石油はたしかに日本にはないが、自然エネルギーの技術たるや、国際社会の中では随一だと思う。その自然エネルギー設備を作るのに、石油エネルギーが必要だと言うのはわかる。しかし、「自然エネルギーだけでは日本のエネルギーは自給できない」との思い込みがあるようだ。はじめから、あれは無理だと考えるのではなく、どのようにするのがいいのかということを先に考えて、無理なものに挑戦して、成功してきたのが、今までの人類が行ってきたことである。食糧については、日本は水という他国には類まれなる資源がありながら、それを全く利用していない。下水管を使って雨水を流している。食糧の生産には、役立てようとはしない。食糧の生産で経済力を高めるよりも、商業・金融で高めたほうが効率が良いからである。平和党は、ここのシステムを変えていこうと提唱している。つまり人間は、お金によって生きているのではなくて、太陽の光・エネルギー、月による引力の動き、火力のエネルギー、水による循環、樹木等植物の酸素生成、金属の利用、土壌による食糧生産などによって生きているのであり、お金はそれらを交換するための道具にすぎない。しかし、人類は先進国だと思っている国々に限って、お金の道具として人間が動くようになっている。平和党の自然主義経済は、このお金の力を自然の仕組みの下に置こうとしている。自然の仕組みと同じようにお金も時間とともに減価していくのである。そして、自然の仕組みによって、食糧とエネルギーを国内で完全自給する。やがては、地方自治体ごとに自給できる地域づくりをする。今、海外から届けられている安価なものは極めて危険なものが多い。中国などは自然破壊が大規模に進んでいる。そのとばっちりは日本に来るだろう。そのためには、日本一国で経済システムが完結できる方法を模索しなければならないのである。http://heiwatou.jp
2006年09月20日
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現在はK-1 HERO'Sでスーパーバイザーをつとめる元プロレスラーの前田日明氏のことを書きたい。彼は、いずれ政治の舞台に入ってくるかと思う。『武道通信』という単行本上の雑誌があって、それを幾度か読んだことがあるが、前田氏は格闘家の中においては政治的見解において優れていると思った事がある。その雑誌の内容は、武士道の精神であるとか、戦争論である。民族派団体「一水会」二代目の木村三浩代表との対談も行っているようだ。木村代表は、2001年の参議院選挙の際に自由連合の比例区に候補者をたくさん連れてきた人である。この中に武道通信(?)の杉山氏がいた。杉山氏の応援演説を前田氏がしていた。このとき、同時に二代目タイガーマスクの佐山聡氏も自由連合で参議院比例区に出馬していた。前田氏が佐山氏の弟子だったとは、あとから私は知った。自由連合の徳田虎雄代表は有名人をみつけては、すぐに出馬しろと言う人であったから、当然前田氏にもオファーがあったと思う。まして当時衆議院議員だった徳田氏は「弱きを助け、悪しきをくじく」をモットーにしていたから、それに共鳴してくるだろうと当時思っていた。いずれにしても、前田氏は大仁田厚氏など足元にも及ばないほど、政治的認識をお持ちのようである。http://blogs.yahoo.co.jp/seitouheiwatou/39807432.html で述べたように、今後は軍人的・格闘家・冒険家、治安・防災志向の政治家が政権を握る時代に直面している。したがって、前田氏のようなタイプが現れてくるだろう。しかし、今までのサイクルよりも発展するのが歴史の法則である。次に時代が要請するのは、戦争好きの政治家ではない。殺人を正統化するような国家論ではなくなる。武士道的精神論を高める政治家が主流になってくるのであって、軍事力を増強することではない。本来の武士道とは、「鞘の内」を重要視する。本来の武士道とは260年の平和を保った徳川時代までを言う。近年の右翼論者の武士道は、西洋近代文明に飲み込まれた武士道を展開するから、どうしても欧米には劣り、あらゆるところで矛盾が発生するのである。また、西洋の定義した「国家」という土台で物事を考えてしまい、国家神道という日本古来の諸天善神の信仰とはかけ離れてくる。(左側の人々も征服型西洋思想にのっとった平和主義であるため、実現に至ることはない)前田氏においては、ここに大きく欠ける点がみられる。つまり西洋型国家主義の混ざった、間違えた国粋主義、軍事志向の政治である。武士道は平和のためにある。それに比べて西洋の騎士道は戦争のためにある色彩が濃い。前田氏は政治的見解において優れていると言ったが、この人に政治を任せていいかどうかは別問題である。なぜ、私が彼の話を書いているかというと、先ほど美輪明宏・江原啓之のテレビ番組に出演していたからである。私には霊能力はないが、江原氏と同じことを思っていた。テレビをみながら次に江原氏が何を言うか、ほとんどあてたほどである。前田氏は三島由紀夫を尊敬しているという。江原氏によると、最初は「前田さんには三島由紀夫の霊が守護している」という意味合いのことを言った。私はこれを聞いたときに、三島由紀夫は地獄霊として憑依しているのだろうが、尊敬していると前田氏が言っているから気を遣って、言い方を変えているなと思った。もし天国・地獄があるとするならば、政治思想で自我が強くなっていったり、自殺したりする場合は地獄行きとなると私は考えているので、三島由紀夫がいかに立派な考え方を持っていようとも、その根底には主義・主張に溺れた自己中心的考え方があるのではないかと私は思っている。だんだん江原氏は言葉に詰まってくる。「三島由紀夫の配下である将校さんたちの霊も後ろにいっぱいいる」とも言う。美輪・江原両氏にとっては悪霊であると言いたいのだろう。だが美輪氏は、ハッキリと不調和な霊であると言い放った。そんなやりとりが続いて、結局のところ、「所持している刀剣類を放棄したほうがよい」とか「今世では、戦うことよりも平和にするため生まれてきたのが使命」などのアドバイスを受けていた。前田氏は今まで何度も生まれ変わってくるたびに中国や韓国で武将としてあるいは皇子として、戦争や処刑などをしていることから、今度はそれを絶対にしまいとして、生まれてくるのだが、どうしても戦の方向へ向いてしまうらしい。侍のいない現代に生まれても、プロレスの道に進んでしまうということだろうか。武力を本当に知るものは平和を作る能力を持っている。武力を本当に知るものは筋の通らない事でも謝罪できる勇気を持っている。これは私が十代のときに喧嘩道だと勝手に思っていて、痛切に感じた事である。本当に強い人間はみだりに武力行使しないのは世の常だ。そして、平和のために武力を使うことはない。ここまで行き着くのには並大抵の人間ではなれないかもしれない。前田氏はそれをわかっている数少ない素質を持つ人間だと思う。武力の奥底にあるものを知らずに、積極的軍事を論じている者。或いは、国際社会の現実をわからずして武力の放棄を唱える者。いずれにおいても永遠の議論を続けてしまうばかりである。その結果生まれてきているのは、感情的論争によって生まれた「平和を乱す」現象だけ。前田氏の経歴をみると、争いの歴史とも言える。だが、方向性を変えると一気に平和を作る可能性を内に秘めているのではないかと感じた。
2006年09月16日
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平和党http://www.heiwatou.jp本来なら、民主党は小泉政権を後押しすればよいのだが、日本の野党体質というのは、とにもかくにも難癖つけることが仕事だと思っているので、「馬が西向きゃ尾は東」式に、何につけても批判をする。これは自民党が野党であっても同じことになるだろう。民主党は、文句をつけなくては、自分たちが政権をとれないから仕方がないと考えている。民主党案を自民党政府が実現してしまったならば、民主党が政権をとる意味はなくなる。だったら自民党に投票しようということになるのが有権者の立場である。「馬が西向きゃ尾は東」という精神は、菅直人が代表だったときだけではない。彼はPKO国会のときに牛歩戦術を行った社民連出身であるが、万年与党・自民党出身の鳩山由紀夫、岡田克也が代表をつとめていた時代も同様で、政府与党のやることなら「とにかく批判」から始めるのが彼らの鉄則である。若手から出せばまた違うだろうと思っても、前原誠司が代表をやってもやはり同じだった。最近の安倍批判を強める小沢一郎氏においても同様だ。本来なら安倍・小沢の理念は同質である。文句をつけるところは細部ばかり。民主党が自民党に対する批判の根拠は、いつもそうなのだが、「自民党だからできない」という一言で終わらせようとしている。『政権交代こそが改革なのだ』というフレーズもどうかと思う。ようするに改革する内容については、たとえ同じでも俺にやらせろという意味でしか聞こえず、単なる自己中心的な政権取りにしかみえない。自民党と民主党はお互いに足を引っ張り合っているが、両党とも方向性は同じなのである。それは、規制緩和、市場開放、小さな政府、政治主導という政策を実現することにおいて共通している。だが、民主党は国民新党などとの連携も踏まえて、やや修正しようという事である。自民党も小泉総裁退任後は、郵政造反組にも帰ってきてもらって、やや修正しようという事もある。また、民主党には、もともとそういう考えも社民党出身者の中にはいたわけで、訳のわからぬ政党ということである。これは自民党についても言える。「政府によって規制を撤廃すれば市場の競争力は増し、強い経済となる。」「いやいや、規制を敷いて政府が監視すれば、公正な市場競争が行われる。」と議論されているが、この二つの議論は経済至上主義の運営方法をどのようにするかということにしかすぎない。そして、利権政治を守る立場の政治家は決して、「わたしは利益誘導のため、公共事業を地元にガンガンもってきます」とは地元では言うかもしれないが、対外的にはそんなことは言うはずもない。どんな政治家であろうと、誰もが「小さな政府」を掲げ、「効率的な公共事業」「必要なものと不要なものをきっちりわける」という言い方をする。実に都合のいい言葉である。必要なものと不要なものは、国民の一人一人が何の仕事をしているかで大きく変わるわけだから。それとは逆に、市場開放型はわかりやすく改革派ぶる。若さを売りにしたり、さわやかそうに選挙ポスターに写っているが、公設秘書の給与を使いまわしたり、交通違反のもみ消しを隠れてやったりしているものも民主党議員にはいまだに多いと聞く。それに加えて、最近の民主党政治家の不祥事は、政治家以前の問題であるものばかり。覚せい剤中毒、痴漢行為、学歴詐称、暴力行為などなど一般人でもしないようなことをするのが民主党議員である。自民党の場合のほうが政治家という権力をもって、利権・賄賂などを行うからまだ知恵がある。これでは民主党に政権などまかせられはしまい。このタイプは、政治家というものは政策が大事だと言うだけあって、きっちり勉強している者も多いが、あまり斬新なものはなく、知識的な政策が断片的にあるばかりで常識の範囲内を超えられない。魂の入った理念はないという感じである。もしくは権力欲のみで政治姿勢や政策など中身もなく、ポスターやビラなどでさわやかそうに写してはいるものの、ひたすら選挙区をまわるのが唯一の仕事で、とにかく会合に出席し、媚を売り議席を得る。有権者は雰囲気にだまされ、改革派政治家だと考える。民主党政治家をそばでみたことのある人間なら実態は知っている。これは徹底的に地元選挙区をまわれという小沢氏が民主党代表になってからはますますのこととなった。選挙のやり方においても、どんどん自民党を真似る方法となっており、ウルトラマンに勝つには、ニセウルトラマンを作るしかないという考えと全く同じ。このような若手議員と称する輩は民主党ばかりでなく自民党にも当然おり、捨てるほどいる。というより捨てた方がいいのだが。なぜこうなるのだろう。それは既存の常識に皆縛られているからである。心よりも知が進行している。だからできない。世の中のためになることをしようと思ったら、世の中のためになることをすればよいが、人間は知にも溺れる。そうなると、今までの考え方からしか発想が出来ない。心から思ったものは、一切からとらわれることなく、新たなものを生み出す事ができる。今までの考え方とは、「財政・金融を中心とする経済政策」と「市場競争型経済政策」である。「財政・金融を中心とする経済政策」では、景気回復が不可能なのは明らかである。小渕内閣くらいから、どんなに財政注入しようと、日銀でコントロールしようと動かなくなってきた。利権政治家が、彼らの既得権益を破壊しようとする者に対して必死に防衛するのは、弱者を守るためもあろうが、それは建前論が多く、実態は既得権益を守るためである。では市場開放型で景気回復の見込みがあるのかというと、それも否であるが、今まで日本では徹底的といえるほどの自由な経済体制を経験したことがない。そのため、多くの政治家や国民は、改革というものに対して描く理想は、アメリカのような国ではないかという、アメリカンドリームに幻想を抱いているのである。日本では右の思想家も左の思想家も、財界・官僚・マスコミなど、西洋文明においつくことが正しい進歩の仕方だと勘違いしている事が全ての要因だ。(つづく)
2006年09月16日
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したがって地域でお互いが自然に助け合い、支え合う仕組みが必要になってくる。つねに声をかけあったり、買物にいってもらったりする助け合い。地域が基礎になって、社会福祉はできあがる。自然主義経済下における自然通貨は、地域の中で助けて欲しいこと、お手伝いできることが可能となる。このために税金はいらない。消費税の増税なんかで騒いでいた時代が、いったい何やっていたんだろうと馬鹿馬鹿しくなる将来がやってくる。むしろ逆にこのような非生産活動(現代資本主義で言うところの)が税収となる抜本的改革である。自然通貨は、日本銀行券から離れ、通貨としてモノ・サービスと交換することができる。日本銀行券とは違う点は、その地域によって限定される事である。昨日転載したロビンソンクルーソーの話でもわかるように、お金というものは間接的なものが入る事によって無責任になるのである。政府という余計なものを間に入れるから、予算使いきり主義の無駄遣いをする。金融という余計なものが間に入るから、モノ・サービスに対して無責任になる。自分たちの暮らしをよくしたい、自分の町をきれいにしたい、困っている人がいたら助けたいという想いと優しさ、感謝の心が表れることとなる。これは地域通貨として、今全国で火種を作っている。海外においてもできている。通常、モノを買う場合、日本銀行券を使うが、その価格は市場価格によって決まる。だが、地域通貨は自由な経済活動によりボランティア活動や、スポーツ・文学・芸術などの能力が発揮できる場を提供できる。それによって食いっぱぐれがない。ただし、平和党で常に提唱している食糧・エネルギーの完全自給を達成しなければならない。それは難しくはないが、多くの事情で不可能であるとされているだけで、これもまた経済優先主義に起因している。自然通貨と食糧・エネルギー自給は同時平行である事が望ましい。現在発展途上にある地域通貨だが、これに生産活動たる部分を取り入れたのが自然通貨である。自然通貨は時間とともにその価値が減少するため、なるべく早く通貨をモノ・サービスに交換しなければならない。そこで当然、高齢者・児童・障害者などは容易にそれが手に入る。だから民間によるだけで社会保障が可能なのである。高齢者に必要なバリアフリーの住宅環境、紙おむつ、移動式ベッド、車椅子、派遣される介護福祉士の賃金、保育園に通わすのに経済的負担・時間の負担を強いられていた現状、障害者ゆえに収入がなかった人々など、こうした人たちにも自然通貨が、いやだと言っても流れてくる。こうなれば時間の余裕もでき、地域・家庭の部分が重視された社会になってこよう。大量生産・大量消費が効率の良い経済制度であったが、これも改められる。大量に生産することによって大いにお金を得るという供給過剰、労働者として給与を得なければ生活できないというものもすべて資本主義経済の仕組みからきており、これが無駄な生産をつくり、無理してでも消費しなければ経済が回らないため、消費意欲を煽らなければならず、無駄な廃棄物を出す。このサイクルから抜け出す事ができるのが自然主義経済だ。つねにここで質問されるのは、「その場合は自然通貨を使わずに他の方法(外貨・貴金属・不動産)などに回らないか」ということ。これについて私は百回以上、聞かれているから誰もが思う疑問なのだろう。だが、その疑問はどこから湧いて出てくるのかというと、今までの経済学がマインドコントロールしていただけの話である。もっと根本的なことを考えれば、お金というものは何のためにあるのかということを考えなければならない。「お金はお金としての価値を持つ」と人々は考えてしまうため、このような疑問が常に出てくるのである。お金は、物々交換が大変だから作られた制度であり、人間が生活するために存在する。つまり自然通貨は、日本銀行券の交換機能としては踏襲するが、貯蓄機能・増殖機能は削ぐということだ。どうしてもお金に執着してしまっている人は、自然通貨以外の方法で貯蓄するだろう。そして、それは減価しないから守られる。だが、流通は自然通貨が圧倒的に優位に回っている。そこでは十分、経済生活が可能となっている。無人島では一億円よりもおにぎり一個の方が価値は高いのと同じ。自然界に当然あることをしているまでで、自然主義経済が導入された時点で、金持ちが外貨等を買うのは一向にかまわないが、「それがどうした」で終わるのだ。したがって、老後のための貯蓄などというものは必要なくなる。自然界の中で、老後のための貯蓄などしているのは人間だけだ。それもここ200年程度の話であり、それが人類永遠普遍のものでないということは認識すべきではなかろうか。経済成長というのもそうだ。永遠に成長していくと考えがちだが、これも永遠普遍のものでもない。
2006年09月15日
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物質的に満たされた今、経済成長の限界がきて、生きていくことが難しくなった。現代の我々は、新時代に何が必要かということに気づく大きなチャンスを与えられているのである。資本主義経済はやがて限界をきたすということは、ケインズ、マルクス、シュンペーターといった名著を残した経済学者がいずれも予見をしていた。マルクスは資本主義の高度化につれて、利潤率が低下し、資本蓄積が鈍化し、生産性の低下をもたらすと考えた。日本経済は今まさにそうなっている。シュンペーターは、資本主義の原動力である企業が、新技術により市場を拡大していくと、企業は大組織となり拡大意欲を失い、経済停滞を生み、技術革新がなくなり、大企業化が官僚化していくと考えた。これもまた、日本経済はあてはまる。携帯電話の普及やハイビジョン放送テレビなどの新技術がみられるが、これらはいずれも、今までの技術に改良を加えたものであり、未開拓な産業ではない。ケインズは、資本主義で豊かになると、消費が停滞することで、貯蓄に滞留し、企業の投資活動も冷えるため、政府の景気刺激策が必要だと説いたが、現代日本経済では、政府の景気刺激策すら効果がなくなった。資本主義経済が立ち行かなくなることは、日本国内でも随所に現れてきている。価格破壊によるデフレ経済もその一つだ。これは経済循環上の不況ではなく、慢性的不況となるであろう。貨幣が、ゼロ金利、あるいはマイナス金利としての正当化がなされる時代がくるであろうと予言したのは、シルヴィオ・ゲゼル(Silvio Gesell 1862~1930)というドイツ(父はドイツ人、母はフランス人でルクセンブルグ国境近くにて出生)の「異端」経済学者である。平和党は、マイナス金利という方法が今後の経済にとって重要な位置を占めるであろうと考えていたが、そのような経済政策の基礎となる理論経済学は存在しないと思っていた。ところが、J・Mケインズは、第二次世界大戦後のブレトン・ウッズ体制で、もう二度と世界大戦を起こさせないための経済政策とはこれだということで、マイナス利子論に基づくものを提案していた。そしてそれは採用されなかったが、その論拠となるものが『一般理論』(塩野谷祐一訳)の中でゲゼル理論が紹介されているのを見て、先人の中にも、マイナス金利の正当性を主張していた経済学者が存在していたことを知った。 ケインズはS・ゲゼルを「風変わりな、不当に無視された予言者」として紹介している。ケインズはゲゼルに対して、以前は「彼のきわめて独創的な労作を変人の議論にすぎないものとみなしていた」が、「彼の著作の意義は、私が私自身の方法で結論に到達した後に初めて明らかとなった」としている。さらにケインズは、「それは自由放任主義に対する一つの反動ではあるが、そのよって立つ理論的基礎が、古典派の仮説ではなくてその非認の上に立ち、競争の廃止ではなくてその開放の上に立っている点において、マルクスの基礎とは全く異なっている。将来の人々はマルクスの精神よりもゲゼルの精神からより多くのものを学ぶであろうと私は信ずる。」と記述している。マルクスの思想は政府による資本主義であるが、ゲゼルの場合は、土地を国有化するものの、それは国家が収奪するのではなく、買い上げることにより、また徹底した自由な市場が保障され、官僚がいなくても成り立つ国家を目指している。貨幣の発行も自由であるところから、資本主義にあらず、共産主義にあらずという、新時代の常識となるであろうと思う。平和党とゲゼル経済が違うところは、細部を除けば、民間で貨幣を発行するか、政府が発行するかの違いだけである。ケインズは、後世の人々はマルクスよりもゲゼルから学ぶと予言したが、マルクス主義国家は誕生したが、ゲゼルについてはその著書に日本語訳も存在しないほど、今のところは開花していない。しかし、そろそろケインズの予言が実現される時代に突入したと思う。それは、ケインズ自身が示した経済理論が効用をなくすほど現代経済が、進歩したからであり、絶えず膨張しなければならない資本主義経済の限界が刻一刻と近づいてきているからである。ケインズがゲゼル理論の欠陥を指摘するのは、貨幣というものは「大きな流動性」を持つからこそ利子があるのだと言う。要するに、お金というものは自分では使わないリスクを負う代償として、利子という利益を生み出すことができるというのである(流動性選好説)。しかしながら、流動性を持つ貨幣がなぜ価値を持つのかと言えば、流動性を持つ貨幣が価値を持つという制度にしているからに過ぎない。つまり、消費しないリスクを利子によって弁償するという制度にしているからである。経済制度とは、自然現象とは違って、人間がこうしようとするからそうなるのである。それをもし、阻止するものがあるとしたら人間の論理がそれを阻止しようとしているからである。ソビエト連邦をはじめとする社会主義が倒れたのは、資本主義にしようとしたからである。現に、「社会主義でいこう」としている国は、その善し悪しは別として、いまだに存在している。北朝鮮のように行き詰っている国もあれば、ソ連の援助がなくなったにもかかわらず、キューバのようにうまくいっている国もあり、中国やベトナムのように資本主義を部分的にとりいれて成り立っている国もある。旧ソ連と国境を接するモンゴルを除けば、アジアにおいては、東側の崩壊に関わりなく、社会主義はいまだに残っているのも意思があるからである。つまりは、「自然とこうなる仕組み」になっているのが自然の摂理であり、多くの人が、「人工的にこうしようとする仕組み」になるのが資本主義経済であり、社会主義経済である。これに比べれば、自然主義経済は自然の摂理にのっとっているため、財との真のバランスをとりやすい。金融上の富という現代の富は幻想の富、バーチャルの富であることに気づくべきだ。
2006年09月15日
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オーストリア西部、チロル地方にある小都市でヴェルグル(Wörgl)という町がある。現在では、神奈川県秦野市と姉妹都市関係にある。1920年代、当時ヴェルグルでは大恐慌により、景気は史上最悪に低迷していた。失業率は10パーセントを超え、財政状況も破綻するところまで目に見えていた。失業者のうち半分以上は失業保険も切れて、生活保護を受けていたために、町の財政では支払い不能に陥っていた。財政赤字を100とすると税収は、6という絶望的な比率である。税金滞納額の比率は220である。このような状況下で、同町のミヒャエル・ウンターグッゲンベルガー町長は、1932年から「減価する貨幣」である地域通貨「労働証明書」を発行した。この労働証明書は、紙幣にスタンプを押す欄がある。毎月その金額の1パーセントに相当するスタンプを郵便局に支払って、購入しなければ紙幣として100%の価値にならない。モノを売ってこの労働証明書に換金した場合、いちはやく買物しなければならないのである。その結果、著しく流通速度がアップして経済が促進された。町は1000シリングの労働証明書を役場の職員の給与として発行。そのわずか3日後には、5100シリングもの税金が市役所に支払われた。税収もまたすぐに、モノやサービスに変換するため、驚くべき速度で流通は早まった。税金を前払いする町民まで現れた。オーストリア全体での失業率は増加が続いていたが、この町だけは次々と失業率が減少。ところが、ウィーンの中央銀行は、これを政府に対抗する危険なものであると判断し、その一年後廃止された。自然主義経済は実現不可能なものではない。問題なのは、現行の与党政府は、これを禁じうるということである。だからやがて自治体でこれを実行しても、国の政権をとらなければならないかもしれない。また、既存の価値観に縛られている現代の人々には、これを理解する事ができないということにある。だが、もともとお金というものは、人間が衣食住を満たすために作られたものである。それが、今、本末転倒な結果として、人類は経済の奴隷と化している。これが、すべての政策諸課題に大きな問題を作っているのである。自然主義経済で解決できないのは恋愛の問題だけだ。そんなのは自分でなんとかやってくれ。HTTP://HEIWATOU.JP
2006年09月15日
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平和党http://www.heiwatou.jpつい最近まで、インド人や中国人は商品を売るとき、例えば一個の商品が100円だとすると、三個まとめて売った場合500円にしたりする。この仕組みはミャンマーではいまだにそうしている商売人もいる。西洋近代の経済思想に基づく先進国の発想からすると、三個まとめて買うのだから280円とか250円とか安く売るのが普通であるが、彼らはそうしない。なぜなら商品を一人の人に集中的に売れば財が一人の人間に独占されることになるし、資源の枯渇速度を速めるからであるという潜在的概念がある。これこそが自然の摂理に則った商売であるが、大量に生産し、大量に消費することをよしとしてきた近代経済学では全く信じられないことであろう。このような自然の摂理に則した経済が、貨幣価値を減価する自然通貨には可能なのである。資本主義経済は競争の中で勝ち上がった強いものに資本を集中され、共産主義経済は国民に有無を言わせず政府に資本を集中させることができる。この資本の偏在が、人々を経済優先主義にさせ、貨幣が暴力を奮い、地球資源の略奪を企てる。これをなくすのが、新たな経済システムである。モノと同じように腐敗していく通貨こそ、共生できる社会を作り出すことができる。これをわが党では、自然主義経済と呼んでいる。日本銀行券で日々、経済生活をし、その常識が骨の髄まで染み込んでいる私たちには、勝手に貨幣を発行するなどという方法がうまくいくはずがないと考える。ところが、そもそもの貨幣経済の原点はこの地域通貨の方法と何ら変わらない。現代経済の常識である「借りた金は返すのが当然」というのは利子というシステムを採用している限り、これは大きな間違いで、モノと金を交換しているうちには、ゼロにならず、プラスになる人もいるし、マイナスになる人も必ず出てくるであろう。そうしていくうちに、それを貸し返し、売り買いすることが目的となり、損得だけの価値観で人々は行動をはじめ、やがて経済活動のためだけに人間が生きていくことになってしまうのである。平和党http://www.heiwatou.jphttp://blogs.yahoo.co.jp/seitouheiwatou
2006年09月08日
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59歳になるおじさんが、パソコンで文章を打つためにワープロ入力の練習に必死な人がいる。その人曰く「ローマ字入力は頭の中でいちいち考えなければならないので時間がかかる」といって嘆いていた。私は「かな入力」をいつも人に勧めている。いちいち西洋式のアルファベットを頭に浮かべる必要はないからだ。だが、かな入力で打つ人というのは極めて少ない。入力するプロフェッショナルの場合は別だが、一般にはあまりないようである。私はローマ字入力もできるが、ほとんどかな入力している。他人のパソコンを使うとき、いちいち設定を変更するのが面倒な時はローマ字でやるが、九割以上かな入力だ。かな入力できる人間は、100%ローマ字入力はできる。逆にローマ字入力できる人間のほとんどはかな入力ができないといっていいだろう。かな入力する人間も英文字は打つから、全員が全員、かな・ローマ字の両方で入力できると思う。私がかな入力を勧める理由は、「日本人としての感性を大事にできるから」である。民族主義者や理論右翼の人ですら、かな入力ができない。それで愛国などとのたまっている。人と話しをするとき、いちいち、自分の言葉をローマ字で置き換えることはしないだろう。ところがワープロで文字をうつとき、知らず知らずのうちにそれが文章に表れる。だから、とくに文学的文章(詩・短歌・俳句・小説・随筆)や芸術的なもの、音楽・映画の批評を記すとき、ローマ字入力ではその思いが、微妙に伝わらないのである。ローマ字でいったん置き換えることは、きわめて機械的に脳を使うことになる。したがって右脳で感じたことでも、いったん左脳を通してしまうのがローマ字入力である。そこで、今こみあげられた思いは、機械的に生産工場でできた製品と化してしまうのである。かな入力をいったん覚えてしまうと、ローマ字入力などというのはかなり無駄な労力をしていたと気づかされる。ローマ字入力は覚えるキーが少ないといっても、それは初心者のうちだけ。かな入力に慣れてくると、こんなバカみたく、めんどいことしてたのかとつくづく思うだろう。とにかく英語をうたない限り、ローマ字にはなんのメリットもない。なのに、圧倒的多数の人々はなぜか、このような無駄で有害な機械運動的なことをしている。中国などは漢字しかないため、それをすべてこのキーボードに表示することはできないゆえに、いったんローマ字で入力し、音声によって変換せざるをえないことから比べると、わが国文化を差し置いて、日本人は実にもったいないことをしているのである。この一見でたらめな配列に見られる五十音でも、覚えてしまえば楽だから面白い。私がかな入力にするきっかけとなったのは、そもそもは民主党国会議員にもらったワープロでローマ字入力を覚えたが、それにはあきたらず一応かな入力の練習もした。その後、ある若手改革派市長が、市議会に速記をパソコンでやろうと言い出した自治体があり、そのためにはローマ字よりもかなで打つ方が断然に速度が早いため、そういう人間が欲しいということで私に依頼があり、さらに特訓を重ねた経緯がある。結局、その市議会は実現できなかったが、物事を考えて文章を書くには、この方法が一番、自然な形であると今、気づかされている。「美しい」はあくまでも「うつくしい」であり、決して「utukusii」ではない。日本の伝統・文化を守れという立場の人であるのなら、当然にまずはかな入力を覚えていただきたい。また、文学・芸術などの分野に携わる人もそうだろう。http://heiwatou.jp
2006年09月08日
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どこのサイトだったか忘れたが、平和党の紹介があって「設立は2004年9月1日」と書いてあった。へえ、そうなのかとずっと思ってた。だから今月の1日で2周年なんだなと。ところが今日、総務大臣に提出した政治団体設立届をみてみた。そしたら8月17日になってた。いかんいかん、覚えておこ。http://heiwatou.jp
2006年09月08日
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http://blog-search.yahoo.co.jp/bzoom?from=2005-09-08&to=2006-09-09&p=%CA%BF%CF%C2%C5%DE当ブログは春に徐々に咲きつつ、夏に盛り上がり、秋に沈静化し、冬は冬眠状態という周期を繰り返しています。まさに季節どおり。http://heiwatou.jphttp://blogs.yahoo.co.jp/heiwatoudaihyou
2006年09月08日
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人間には四つのタイプがあり、この四つが政治支配を順繰りにし、その国の主流を作っていくという話がある。1 体力・技術・精神性・忍耐力・軍事・冒険・治安の重視2 知識・学問・教育・芸術・文化・宗教の重視3 経済力・富・繁栄の重視4 以上の何れかの下で働く人々これを日本史にあてはめて考えてみると●1サイクル目1 豪族支配2 大和朝廷として豪族から天皇として穏やかな知識階級に変遷。聖徳太子の十七条憲法時代、仏教の普 及。3 荘園制度から生まれた幕府。4 室町時代末期から一揆が頻繁になり、拝金主義となってやがて道徳が無視されていく。●2サイクル目1 戦国時代から徳川幕府草創期にかけては、武士が支配した武断政治が行われた。2 その後文治政治がなされ、幕府は武力よりも学問に重きをおいていき、西洋文明を身につけるためにも開国がなされた。選挙制度など、貴族院議員など知識ある人間が政治に進出。薩摩・長州などいちはやく西洋文明積極派から総理大臣を多く輩出。3 明治維新以降、日本では産業革命がなされ科学技術が発展し、欧米列強と肩を並べるくらいの経済国となる。選挙には衆議院が貴族院をけん制するようになる。衆議院議員は選挙でお金がかかるため富豪から出てきた。政友会・民政党の二大政党が作られるが、裏にはそれぞれ、三井と住友がついていた。4 労働組合が結成され、国民の不満は高まり、2.26事件などの反乱が起きる。政党から総理大臣が出るようになったが岡田首相、犬養首相などは軍人に狙撃・暗殺される。人心が荒廃するような輩が多く意見を述べるようになる。●3サイクル目1 利権で繋がる議員よりも、平和を唱える学問政治家よりも、軍人政治家が優位になり、やがて第二次世界大戦に突入。内閣総理大臣は陸軍・海軍から次々に輩出。文官官僚から出される場合もあったが、いずれも軍人優位。敗戦によって、軍人たるGHQに支配される。2 戦時中に英米派外交官であった吉田茂、大政翼賛会に参加しなかった弁護士出身の鳩山一郎、弁護士・片山哲、外交官・芦田均、反戦ジャーナリスト石橋湛山などの知識人から総理大臣を輩出。戦後の復興処理、教育制度を戦前のものから大幅に変革する。3 所得倍増計画がなされ、高度経済成長、田中角栄時代から経済的富が次々に進み、選挙では膨大な資金がかかるようになる。バブル崩壊を頂点に下がり始めるが、拝金主義は続き、経済人に有利な規制緩和や民営化が改革の方向になる。4 年金破綻、財政破綻、銀行の不祥事など国民の不信が募っている。虐げられてきた国民は、政府を罵倒し、やがて倫理性のない自分勝手な意見を述べ始める。このように考えると、次はまた1に戻る。今は3の末期か4である。政治を語る人々の意見を聞くと、つねに自分勝手になってきていると思う。その例を挙げる。●国の場合森内閣までは田中→竹下→小渕→橋本派に牛耳られており利権政治が政治の王道であった。小泉内閣からは、利権政治を破壊していった。しかしこれは政府主導から民間主導の経済に変わっただけで、経済優先主義には違いない。小泉は自民党からは人気がなかったが、利権政治に不平不満をもつ国民をバックに首相となった。その後は、小泉内閣は軍事政策に重視を置いた。●東京都の場合バブル時代に徹底的に豊かになった東京は、3タイプの鈴木俊一時代に終わり、都市博覧会中止を唱える4タイプの青島幸男が登場。都民の不平不満をエネルギーにした青島知事だったが、その役割はそれだけで終わり、軍事的思考を持つ1の石原慎太郎が登場。2の立場の鳩山邦夫、舛添要一、大前研一などは敗退。四年後の選挙も民主党が立ててきた4タイプの樋口女史も敗退。●大阪府の場合東京と同じような状況であった大阪も、4タイプの横山ノックが登場。所詮反乱者に政治はできず、痴漢行為で失脚。その後の選挙では軍事的思考を持つ候補者はおらず、ノック失脚が要因となって女性知事の誕生。したがって未だ反乱時代。●長野県の場合長期にわたって利権政治体制で生きてきた長野県であるが、4タイプの田中康夫によって破壊される。しかし、反乱が終わると信任はされず、選挙直前に長野県での大きな洪水も加わって、1タイプ元防災担当大臣・村井仁が知事となる。●埼玉県の場合前知事は金権政治により失脚、新進党時代からやたらと反乱する上田清司元衆議院議員が知事に。●神奈川県の場合前知事というよりは、県庁の利権政治体質から、やはり新進党時代から反乱していた松沢成文元衆議院議員が知事に。●千葉県の場合埼玉県の場合と同じで、市民運動の支援を受けた堂本暁子元参議院議員が知事に。その後、武道志向の森田健作が立候補したが、千葉県は未だ反乱時代のため早すぎて落選。堂本知事は利権政治に回帰する面もあり、今後はまだわからない。関東甲信越しか、深く目が届かないので、他府県は断言はできないが、宮城県、岐阜県、山口県、福岡県などでも特徴がみられるように思う。都内の区市町村にも多く見られる。したがって経済優先思考、教育偏重思考というのは、今の時代の得策ではない。ましてや、文句だけを言い放つ集団の時代ももう終わりにしなければ、次世代の子どもたちは夢を持たないだろう。お金を稼いだり、勉強することが人生ではないということに、大人が気づかなければ子どもの将来はない。では、体力・技術・精神性・忍耐力・軍事・冒険・治安の重視の社会を作るにはどうしたらいいかということだ。現代社会はあまりにも、知識偏重・学歴重視・経済優先・拝金主義に傾きすぎている。肌でものを知る事を無視されてきている。IT革命によって失われたものがある。HTTP://HEIWATOU.JPhttp://blogs.yahoo.co.jp/heiwatoudaihyouhttp://blog.goo.ne.jp/heiwatouhttp://blog.livedoor.jp/heiwatou/
2006年09月08日
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http://blogs.yahoo.co.jp/seitouheiwatou 私はそんなに長く生きている人間ではないが、政治家の若い秘書に対しての教育、経営者の部下に対しての教育、地域社会での若者に対する教育などが、一昔前よりも低レベルになっていると思う。いつも、この「平和党教育部会」で述べている事は、「大人たちは現代の若者が悪いといって教育のせいに押し付けようとするが、それはとんでもない間違いで、今までの大人が間違っているからそうなっただけ」ということである。それがここにもあてはまる。教育を変える前にやることは山ほどある。近年、一にも二にも、「先輩が持つべき教育能力」が著しく低下しているのである。この理由を語るに、ここでは、政治分野・社会分野をおいておいて、経済分野たる企業での例をもって説明したい。現代はバブル以降、過剰人員に懲りて、なるべく人を雇わない構造ができている。そのために経営者・幹部は若者を手足のように使おうとする。若者が手足になって経験をつむ事は重要であり、以前からそうではあるが、人手不足からその負担は大きくなっている。そこでなされることは仕事をいかに効率よくするかということである。これも以前からあることで、あたりまえといえばあたりまえだが、ただし現代では、仕事をいかにするかということが教育よりも、大幅に上回っているのである。私は以前、新入社員に対してこのようなことをしたことがある。その新人君は営業マンとして入ったのだが、営業日報のつけかたがわからない。その内容は、「何人と接客して何人の成約に持ち込んだか」という表なのだが、その決定率の計算方法がわからないと言うのだ。新人君は「2人接客して1人成約したら決定率は50パーセントだということは、なんとなくわかります。3人接客して3人成約したら100%だということもわかります。しかし、3人接客して1人成約した場合は、決定率が何パーセントなのかわかりません」と言う。彼は高卒後、パチプロの手伝いか単純肉体労働しか、それまでにしたことがない。しかし、これくらいの計算方法は中卒の私にもわかることだから、当然にわかるだろうと思ったが、わからないと言う。そこで私が彼に言った事は、「ではなぜ決定率がわかるのとわからないのがあるのか。その相関関係について調べよ」「きみの今の仕事はこの営業日報をつけることである」ということであった。「こんなもんは割り算すればいいんだ」といって式を教えたところで彼の体にはしみつかない。勤務中に、彼を考えさせた。一時間くらいかかって、彼はその「法則」について発見したのである。その後、彼は自分で物事を考えるようになり、営業成績はトップとなり活躍するまでにいたった。勿論この出来事だけが原因ではなく、そのほかにもいろいろあるがだいたい同じようなやり方だ。彼は会社の先輩たちがやったことのない事業分野にまで、積極的に進んでいき、効率の良い営業成績を積み上げていった。このことを私が行ったとき、自分はまだ社長ではなかったから上司に非難ごうごうを浴びた。それだけの時間を裂くなということだろう。営利を目的とする会社としてはそれが当然だというのが回りの意見だった。しかし、それが私の教育方針であるし、この一時間を無駄にしても長期的には会社の利益につながった一因になったのである。実際、自分が社長になってからは、この方針で間違いはないと自負している。会社でも組織でも政党でも、その着目点が人間に向かず仕事内容に向いていることが問題なのである。はじめは人間に目が向いているつもりでも、それがだんだん嫌気がさしてきて、上司は腹を立てたり、「あいつはだめなやつ」としてのレッテル貼りで終わろうとしてるのが、今の団塊世代以降の上司である。そんなことは誰にでもできるものだ。その人たちは上司である意味は全くない。新入社員や若者との根競べに負けてしまい、「どうでもいいや」となる。それは自分の仕事で手一杯だからだ。だから結局、人間には目が向かなくなる。人を預かる責任ほど大きいものはないのに、現代の中年連中は根気に欠けている人が多い。これは会社に限らず、親が子に対する教育についても、親が「どうせ言うこと聞かないからつきあわなければいい」などと弱音を吐く。一昔、二昔前の親には威厳があったが、総じて今はない。学校においても同じだ。もう一つは自己防衛反応である。現代の上司は一昔前の上司に比べて、自己のリスク回避を最優先としている傾向が強い。男らしさというものが、差別という意識が蔓延してきたからというのもあるが、現代の上司にはその自覚はなくとも、利己的な経済優先社会で蓄積された自己防衛本能が働く。そうした人は、自分のはっきりとした考えがないために、部下から提案があってもさらなる上司や周りの人々に対して、それを動かせるだけの自信がない。部下の育成よりも自分のメンツを気にする。挙句の果てには、中途半端な経験があるため、あれはできない、これはできないと言いたがる。彼らダメ上司の共通する口癖は、「自分は経験豊富だからいろいろなことがわかっている」である。そうなってくると、部下や若者は、表面上は年長者として扱っているが、腹の底では笑っているのがほとんどだ。私のようにこのような言葉を絶対に吐かないと決めている人間には、部下が皆、正直に「あの人のいう経験だとかいうことについて腹では笑っていました」と十人中十人が言ってくる。何を提案しても無駄なのだから無気力な若者が出てくるのは当然である。ニートとして家に閉じこもっているほうがよほど生産的だ。経営者・幹部・先輩というものは、ゴールを指し示してやって、その方法は若者にまかせるのである。方法は教えないほうが良い。聞かれたら助言程度すればよい。経験しているからといって、その結果はこうなると言って、押し付けてくる上司が多い。その理由は保身のためである。教育のためならやらせばよい。また、「自分には経験がある」などとわざわざ言わなくてはならないのは、自分に自信がないからであろう。この言葉には、「自分はただ年齢だけがある人間なのだ」ということの自白でしかない。上司は、その答えを知っていても、決して答えそのものを教えてはならない。そして、その失敗は上のものが責任をとる。部下の失敗をみて「ほらみたことか。俺の言ったとおりだろう」などとは断じて言ってはならない。これは自分を認めて欲しいから出てくるあさましい言葉だ。部下が失敗したら上司は勝ち誇らずに、まずは失敗の責任をとる。これが一番重要なことだ。これをしたくないから、みな保身に走るのである。成功した場合は、そいつの手柄にしてやるという、それだけの男気のある中年が少なくなってきたということが問題なのである。そしてその問題は、ゴールを指し示せない、アイデンティティの不足から起きている。もしかしたらああいうゴールがあるかもしれないが、失敗したら自分に火の粉がとんできたりしたら困るからといって、逃げ道を常に考えようとしている。失敗した事実があっても、そこからなんとか、無理やりな筋道を作ってでも逃げようとする。能力というものは誰にでもあるはずだが、それを引き出せるか引き出せないか、はその上司にかかっている。「あいつはダメな部下だ」として切ることは、その上司が無能である事の証明に他ならない。根気のレベルで部下に劣っている。こうなれば、この若者が上司になったときはもっとひどい世の中になってくる。世の中には、使えない人間はいないが、人を使えない人間は、かなり大勢いる。適材適所に人材を置く能力が時代とともにみな失っているのである。それはなぜかというと、いかに金をかせぐかというところがあるからだろう。根気よく人間を育てるよりも、何につけても便利なお金というものを稼いだほうがよい…となる。上司にも若者にも、大きな理念がないから、(あったとしても形だけで心からのものではない)すぐに細かい短所ばかりに目が向いて、自分に負けてしまうのである。大局の目標があればそんな他人の短所には目は向かない。人間には全て一長一短があり、それを使いこなせないのは責任ある立場になってはいけない。ボサーっと立っているしかできない人間がいたとしよう。その人間を使えなければ、その人は上司をやめてボサーッとしている人と同列になったほうがその上司のためにもなる。向いてないことを無理にさせても、それは誰のためにもならない。どうしても向いてないことをさせなければならない場合は、その上司に根性がなければならないのである。根気よく、前から後ろから、それがダメなら右から、左から、それでもダメなら道具を使って、とにかく最終的に納得して達成するまで粘り強くやること。途中で断念したら負けである。これは普通に誰もが持てる力である。が、それを簡単に放棄してしまい、全てを他人のせいにしてしまう世の中なのである。それが楽だとでも思っているのだろうが、かえって苦が待っている事がわからないのだろう。こればかりは政治制度や立法によってどうになる問題ではない。一人一人が心得ない限り、真の教育改革は無理なのである。http://heiwatou.jphttp://blogs.yahoo.co.jp/heiwatoudaihyou
2006年09月07日
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平和党 http://www.heiwatou.jp憲法改正が国会であがってきている。与党だけで衆議院では三分の二を越えているが、参議院の問題もあるので民主党の協力は必要になってこよう。国民投票法の整備も始まった。だが、ここでみなさんに知っていただきたいことは、日本国憲法及び戦前の大日本帝国憲法は、ほとんど守られていないということである。憲法が他の法律と違う部分は、国の基本法というだけではない。他の法律は、国が制定し、国民を支配下に置くが、憲法はその国の権力をけん制するものである。したがって、国は都合のいいようにするためには、憲法を守らない場合がある。学問上、あるいは理想上、憲法とは国家権力に先立つものであるが、実際には国が憲法を封じ込めてしまうのである。憲法について、口角あわを飛ばすほど議論しているのは右翼と左翼と、本当は左翼なのに市民派を自称する人達だけである。戦争のない国づくりをしたければ自衛隊法でそうすればよい。天皇を国民の象徴にしたければ皇室典範ですればよい。人権を保障したければ諸々の法律に規定すればすむことである。問題は姿勢なのだ。憲法には拘束力がない事が今までの歴史からすると明らかだ。憲法は必要だという、固定概念にとらわれるのはやめたほうが良い。姿勢もないのに基本法をつくりかえようとしたり、維持しようとしたりしても何も意味ももたない。憲法では規範を規定しながら、守られていないことは山ほどある。自衛隊の存在や死刑制度の存続については、各々に違憲かどうか賛否両論があるとしても、明確な憲法違反はあちらこちらにある。まず、法律を作るのは国会の任務としながら、実際は内閣が作っている。この論理で行けば、裁判所にも法案提出権があると拡大解釈できる。また、私学助成を憲法では禁止しているが、実際にはどんどんやっている。憲法を守れという共産党は、各地方自治体議会で共産党所属議員がしきりに私学助成を要望することはしきりである。これら、憲法無視の姿勢は日本国憲法時代だけの話ではない。旧憲法即ち明治憲法においても議会制民主主義や言論の自由が保障されながらいっさい破られている。順法精神豊かな日本人は、なぜか抽象的な規定である憲法に関してだけは守らない風習がある。これは日本人というよりも国家権力は憲法に従わない習性を物語っているからだ。どうせ守らない憲法であるならば、どう改正してもらってもかまわないし、そのままでも一向にかまわない。わが党の目的は、戦争をなくすこと、貧富の差をなくすことである。その方法は憲法によっては、決して達成される事はないと思っている。憲法が、平和や経済の安定という政策に優先することはない。憲法が平和や豊な暮らしをつくるのではない。憲法などという紙に書かれたものをいじくる前にやることはあるだろう。国会議員には憲法尊重擁護義務がありながら、その憲法自体を変える発議権を持っている。これも一般国民には理解できないことだろう。これは法学を学んだものでなければ理解できないといって学者にとってなんらかの屁理屈があるのなら、それは国民にとってわかりづらいものであり、直接国民には関係のないものであるから棄ててしまったほうがよい。なにしろ、国会で審議されている憲法問題は、理念が見えてこないのである。単に学術上の討論をしたくて、自分たちが大層なことをしているのを国民にアピールしたいだけならとっととやめてほしい。憲法は権力を抑制するために存在するが、その力は発揮されていない。憲法で軍事的にいかなる規定をしようともやはり時の政権は都合のいいように解釈するだろう。何しろ憲法を守らないのが、国家権力を握った政治家・官僚だからである。憲法は権力を抑制する力を持っていないのは歴史が明確に示している。憲法は百害あって一利なしだ。社会民主党党首の福島瑞穂参議院議員は、彼女の勉強会で次のような発言をした。「自民党や民主党の議員は『憲法では国民の義務よりも権利について多く書かれているのはおかしい。国民の義務をもう少し入れるべきだ』と言っているが、憲法とは国家権力の横暴を抑制するためのものであり、国民に義務を強要する憲法改正はおかしい」と。成る程、もっともな意見である。憲法とは暴君を生み出さないためにヨーロッパから生まれてきたものだ。今では『君臨すれども統治せず』の英国国王や象徴となっている日本の天皇制であるから、現在抑止すべきは議会・行政・司法などの国家機関である。しかし、憲法がきちんと抑止力を持っているかどうかというのは前述の通り、私学助成は例外であるとか、内閣の過半数は国会議員であるから内閣提出法案は許されるとか、自衛のための軍事力はかまわないとか、解釈改憲がいくらでも成立するのである。共産党ですら解釈改憲しているのにいったいどんな抑止効果があるというのか。福島党首はこうも言った。「野中広務氏は、憲法を条文として改正しようとする明文改正派、宮沢喜一氏は解釈改憲であるが明文改正はしないという護憲派。だから宮沢氏は改憲しないという意味では仲間」こうなってくると“憲法オタク”としかいいようがない。文章を変えるか変えないかを問うているのは全く無意味だ。野中氏も宮沢氏も軍縮志向であり、さきの大戦では戦争の悲惨さには、身をもって経験した政治家であるから同じような軍縮論を持っている。「とにかく憲法を変えない」というのが政治信条であるなら単なる“憲法信者”であり、戦前の天皇崇拝主義者とあい通じるものがある。天皇を憲法に置き換えたに過ぎない。要するにどの政治家も「憲法」というそのものに捕らえられて、表面上の体裁や面子のことだけを考えている。わが党の主張は「平和は憲法に優先する」である。改正しようという方もする方で、とくに民主党は「今のままでは駄目だ」という思いが強いが、中身は全くない。あったとしてもそれはすでに自民党内にも同じような意見がある。変えることがいつも主眼であり、変える内容については二の次という考えを持っている。とにかくなんとなく変えようとするため余計に悪くなる。それが民主党である。公明党にいたっては、9条が改正されたとしても、平和を名乗る公明党は「私たちが与党にいたからこそ、ここまでで食い止めることができた」と言える言い訳探しに必死なほど中身はない。自己満足のために国家の基本法をいじくるべきではない。改憲と護憲、右翼と左翼という対立を生み出してしまう憲法はもはや平和理念を達成するためには、むしろ妨げであり、憲法は一刻もはやく廃止するのが望ましい方法である。しかしながら、憲法改正には国民投票が必要で、「国民投票又は国会の定める選挙の際行われる投票において、その過半数の賛成を必要とする」(96条)とあるが、これは投票者の過半数と読むべきか、全国民の過半数か、全有権者の過半数かでかなり違ってくることとなろう。その投票率はいったいどれくらいになるだろうか。そこまで国民的議論がされているのだろうか。どうしても政治家同士の趣味・娯楽・言葉遊びにしか見えないのである。平和党は憲法をどうこうするよりも、自然主義経済を実行に移すことがすべての政策課題の問題解決に繋がると考える。http://heiwatou.jphttp://blogs.yahoo.co.jp/seitouheiwatou
2006年09月07日
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夏休みにハワイにいけば、わかるが日本人だらけ。冗談で、「ハワイは日本だよ」などという人もいて、子どもたちはそれを信じてしまうから注意しないといけない。ハワイはアメリカである。だが、元をただせばハワイはハワイであった。カメハメハ5世以降は、ハワイは国王を選挙で選んだ。明治18年(1885年)、ハワイ王国のカラカウア国王が来日した。当時のハワイは独立国であったが、ほぼアメリカ合衆国の支配下におさめられており、米国の経済力で繁栄する反面、国民はアメリカに反発もいだいていた。このときが近代史上初の外国元首来日。カラカウア国王は、赤坂御所で明治天皇と会談する。そのときの、国王の提案が以下のとおり。●ハワイを日本に併合してもらい連邦国家をつくる。その際の君主は明治天皇とする。●日本とハワイに海底を通じて、電線を敷設する。●日本が主導して、欧米列強の植民地化に対抗。アジア連邦をつくり、明治天皇はその盟主となる。●国王の姪で王位後継者であるカイウラニ王女と山階宮定麿王(のち伏見宮邦家親王王子)の婚姻。この時代に海底ケーブル構想を出したのはすごいと思う。明治政府はこの後、日米和親条約などの不平等条約が、改正されると、その必要なしとして断ったという。尚、この提案の12年後ハワイ王国は滅亡、アメリカの属国となる。以降、ハワイはアジアの一員から、アメリカの一州となった。本土のインディアンと同じく、ハワイ独自のアイデンティティも徐々に失われた。その後、日米開戦のさいには、ハワイの真珠湾は重要な拠点とされた。日本の真珠湾攻撃は、アメリカの戦争史上、アメリカの領土を攻撃した国は、日本が今のところ最初で最後である。日本は戦争に負けて樺太・朝鮮半島・台湾を返還したが、もし万が一、日本が戦争に勝っていたらどうなるだろうか。ハワイ・グアムは返還されるということになろうが、もっと遡れば、アメリカ大陸そのものをインディアンに返還できるところまでいったのだろうか。日本とハワイが併合していても、太平洋戦争の敗戦によって、やはり返還されていたことになろうが、アメリカの属国になっていたことはないだろう。歴史は遡れないから、それは置いておくにしても、なぜ、平和党はアジア重視の外交をとったほうがいいかというと、その理由は民主党・共産党・社民党などとは、大きく違う。それはアジアのアイデンティティを大事にしなければならないということ。米国式資本主義の後追いをするアジアであるならば何の意味も持たない。そのためには、アメリカの文明が世界の正義であるとする価値観を転換しなければ、人々は心を忘れ、拝金主義にいたるということである。太平洋戦争時代の日本とドイツのイデオロギーもこれに近いものがあったが、日独という他の列強に比べれば、戦力のない国家が互角までいけたのもその精神力による。だが、当時の先鋭力は、やはり物質文明の科学技術である。今でもそれには変わりはないが、当時よりは日本もドイツもモノに不自由なく生きている。ここでやっと精神性、即ち人間がお金によって生きているのではないという、自然によって生かされているという調和思想が開花する時期にきているのではないかと思う。韓国、中国はもはや資本主義の虜になっていて、儒教・仏教は形骸化され、物質主義・利己心に走っている。この両国に主導権があると、アジア文明論の復興にはほど遠くなるだろう。したがって、ハワイや東南アジア、あるいは印度などにそれを求めることが良いのではないかと思う。マレーシアのマハティール元首相は、「ルックイースト」を言われた。アジアに帰れということだそうだ。http://heiwatou.jphttp://blogs.yahoo.co.jp/heiwatoudaihyou http://blogs.yahoo.co.jp/seitouheiwatou
2006年09月07日
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http://heiwatou.jphttp://blogs.yahoo.co.jp/heiwatoudaihyouさきほどケインズの話を転載 http://blogs.yahoo.co.jp/seitouheiwatou/39576830.html したのは、平和党が提唱する自然主義経済こそが全ての政策諸課題の唯一の解決方法であると言いたかったからだ。今までの資本主義経済(国家型資本主義であるマルクス主義も含む)をやめて、あるいは革命時期には自然主義経済と同時に併設することである。では、自然主義経済とは何か。簡単に言うならば、貨幣を所持しているとその価値が時間とともに劣化するというものである。これは銀行に預けていたり、投資したり、保険にしたりしても、この減価から逃れる事が出来ないというものである。全ての物質が時間とともに腐敗・消耗していく以上、お金にもそういう機能を与えようというものだ。これは今までの価値観・世界観を転換しなければ不可能。なぜ、このようなことが必要かというと、人類社会がお金におぼれ、人間が人間としての価値を失ってきているからであり、これを目覚めさせる意味においてなされなければならないことである。では、この方法をとると政策はどのように反映されるか。●外交・防衛戦争の要因は宗教・思想を除けば、資源の争奪が発端となる。食糧もエネルギーも自給できる国家を作ることで解決される。領土・領海の欲望は利権である。利権は資本主義を前提とした貨幣が発端である。●財政財政赤字はやがて限界に達する。この解決方法はリセット以外にはない。そのためには日本銀行券以外で経済活動できる手立てが必要。●金融増殖としわ寄せの機能を持つ金融も財政と同じく、限界に達する。物質経済と矛盾する数学的なバーチャル経済は崩壊する。そのためには実質的にモノ・サービスと転換できる自然通貨を必要とする。●教育経済史上主義下の社会では、いかなる教育政策を施そうとも、その手本は示せない。物質と精神の双方が両立する社会を作ることが教育の最も効果的な方法である。自然主義経済は人間関係を豊かにし、心豊かな社会を築くことができる。●福祉・医療政府に依存した社会福祉は、利権をもたらす。社会主義的資本主義と言われる日本はこれを今やめようとしているが、それもまた充実した福祉社会にはならない。第三の方法である自然主義経済を用いて、民間オンリーによる福祉・医療を築く。●農林水産業経済の基本であるにも関わらず、貨幣が力を持つ社会は第一次産業が衰退する。食糧の自給は勿論、自然有機栽培による生産効率を可能とするのが自然主義経済である。●商工業諸外国からの輸入を停止し、全て自国で自給できる工業を行えば自然調和型の産業におのずからなる。商業においては、自然主義経済の採用により、その流通速度は増し、誰もが好きな職業で生活ができるようになる。地産地消型経済になっていく。●国土インフラこれまで公共事業を優先せざるを得なかったのは、貨幣に依存し、政府に依存してきたからである。自然主義経済では民間のみで公共事業を行うため、いらない公共事業はなくなる。●エネルギー石油・原子力を使わなくなり、太陽・風力・地熱・バイオなどの力が主流となる。一箇所で大量に発電するよりも地域ごとに発電する方が効率がよいということになる。国会では、一つ一つの政策についていろいろと論じられているが、実は問題の糸口は一つなのだ。ここにメスを入れない限り、いかなる政策を論じても全く無駄なのだ。以上の政策を実行に移せば、おねしょがとまらないとか、女房に浮気がばれて大変だとか、馬券があたらないとかいう個人的な問題以外はたいがい解決できる。 http://blogs.yahoo.co.jp/seitouheiwatou
2006年09月07日
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読売新聞社は、韓国日報社、ギャラップ・グループと共同で、「アジア7か国世論調査」を実施した。東南アジア諸国では、「日本との関係が良い」と見る人が9割以上に達した。「日本を信頼できる」人も7―9割を占め、対日感情の良さが裏付けられた。一方、急速な経済発展を背景に、東南アジアでの中国の好感度も増しており、関係強化の進展が示された。(日本との関係が「良い」は、インドネシアとタイでは「非常に」と「どちらかといえば」を合わせてそれぞれ96%に達し、ベトナムで計92%、マレーシアでは計91%に上った。この4か国では、同じ質問をした95年調査でも「良い」が9割超だった。読売新聞) - 9月3日20時13分以前から当ブログで主張しているように、「 アジアとしての東洋文明回帰をしなければならないが、当面中国や韓国はその範疇に入れないほうがよい。東南アジアや印度との連携を図っていくべきだ。」との考えはさらに自信が深まる。中国・朝鮮半島というのはその歴史から考えると、日本とは上位ないし同列に位置したことがあるので、一時期、占領されたことにプライドはズタズタにされているから、今でも怨念が残っている。靖国神社の参拝をやめたところでどうになる問題でもない。比べると東南アジア諸国は、そうした西洋近代文明が遅れていたために、日本を尊敬する傾向が強い。印度においても http://blogs.yahoo.co.jp/seitouheiwatou/31212317.html で書いたように同様だ。そして、世界は今後、西洋近代文明、米国式資本主義を過去のものとする時代になっていく。そのときに、必要なのが日本や東洋が本来持っていた自然との調和社会である。山川草木を大切にし、自然を崇拝し、水に恵まれた稲作社会のアジアである。この東洋復興論は、資本主義に盲信しはじめている現代の中国や韓国とは馴染めない。彼らにも、偉大な東洋の智恵があったのだが、近代日本の頃と同じことを今しており、その文明を捨てつつある。東洋復興論に対応できるのは、東南アジアである。印度もIT産業など、資本主義が強まっていく傾向にみえるけれども、コンピュータ産業については、彼らが数学的な神秘性については忘却していない証拠でもある。やがて近いうちに米国天下の欲望中心資本主義は終焉に向う。そのときに日本は東洋文明の主要たるメンバーになっていれば、経済も環境も国際紛争も、今よりも進歩した道筋を作れるのだ。http://heiwatou.jphttp://blogs.yahoo.co.jp/seitouheiwatou
2006年09月07日
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