2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
全4件 (4件中 1-4件目)
1
京都府 地形の概要京都府 '上ル' '下ル' の検索結果 「上ン町」「下ン町」(よみ:「かみんちょ」 「しもんちょ」) 京都の落差ある地形の中で、「上ル」「下ル」の語は、京都御所を念頭におき、発生したとみられている。今日ではただ、北上することを「上ル」、南下することを「下ル」と言っている。 京都の童遊のかけ合いにある「かみんちょ」は「上ン町」(上の町)、「しもんちょ」は「下ン町」(下の町)の意であるが、「下ン町」は、京都市内では最大規模の「同和」地区の代名詞としても使われていた。 「下ン町」、「しものひと」という言葉は「同和」地区から北方へ転出して来ていた家族にも適用されており、家族の現住所が問題なのではなく、出身地が常に問題にされてきた状況がうかがわれる。 もちろん、「上ン町」「下ン町」の語も発言されるときの状況、声音、調子、表情等によって侮蔑語と化すのであり、それ以外にごく普通に表現されるときは一種の地点表示であるにすぎない。 参考『光あるうちに』(横井清, 阿吽社,1990年) 中世の「職人たち」の画像を見たい人はコチラ(TOPページは長谷川賢二のページ ) シュク(宿) 京都を例にとると、中心的な宿村は清水坂の下、鴨川の東岸の五条通(松原通)にあった坂と称された地域であった。 キヨメ(清目) 清目は京都においてはとくに河原者とよばれた。 つるめそ(犬神人) 祇園祭の警固に、坂つるめそが出仕することはよく知られている。 「非人」身分 もと武士であった者が戦いに敗れて都市に流れ着き、そこで藩主に乞食の頭を命じられ、近世において「非人」集団を形成していったという多くの伝承があるが、京都においてはすこし事情が異なり、古代以来の貧民救済施設である悲田院にいた「非人」たちが、悲田院の衰微に伴って、岡崎村に移り住み、引き続き「非人」支配の役を命じられた。 「穢多」身分 「エタ」を初めて登場させた文献は『塵袋』(1274~81)だが、ほぼ同時期に漢字の「穢多」を多く登場させた『天狗草紙』の物語の舞台は鴨川のほとり、四条河原で、のちの高瀬川(みそそぎ川)になると見られるくの字形に蛇行する小川が描かれている。 さらに古い史料の『延喜式』(927)には、下鴨神社の南側に濫僧(ろうそう)、屠者(としゃ)などが住んではならないとある。 いろいろな論証を重ねてきた結果、京都を震源地にして部落が全国に広がったと考えると説明のつく事実がたくさんある。平安中期、中世の初め頃、部落は京都周辺に最初に置かれたと考えられる。 『オール・ロマンス事件』 一九五一年一〇月、「オールロマンス」という雑誌に京都市のある公務員が被差別部落の様子を書いた小説を発表しました。小説には、興味本位に、また差別的に、学校に行けない部落の子どもや、仕事がなく働けない部落の青年や大人たち、文字を読めない部落の大人たちのことが書かれていました。 当時の京都市のT市長は、市の公務員がそのように被差別部落のことを書いたことは差別だと認めましたが、この小説を書いた公務員個人に責任をとらせ、事件を解決しようとしました。そこで、被差別部落の人たちは、京都市の地図を広げて、市の役所の人たちに次のような質問をしました。 ・せまくて家の密集している所はどこか ・消防自動車の入れない所はどこか ・学校に行きたくても行けない子どもたちの多い所はどこか ・大雨が降ると危険な所はどこか それにあてはまる場所が地図の上に赤丸で印されていきました。その結果は、赤丸のしるしは京都市の被差別部落に集中していました・・・ 京都の山城地方には宿村という村があります。京都府の範囲は当時は山城一国ですが、当時は、穢多・非人、夙(宿)、隠亡、歴代の五つの賤民集団がいたと書き上げられています。 戦前の部落史研究は、被差別部落を「えた」身分、「ひにん」身分の村々に限定しないものでしたが、戦後新しく登場した「近世政治起源説」などが研究の枠を狭めました。 その後の京都の部落問題はどんなふうになったか。「穢多村の問題と自分たちとが一緒にされることを嫌う村がたうさんある。・・・ほかのことはともあれ、こと結婚のような問題になると穢多村と全く同じように差別を受けてしまう。それで実際のところ地元の方は、自分のところは部落とは違うんだと説明して結婚を進める」というふうに、一部ではなりました。 近世社会に存在した被差別民の群れの中に、これまで部落史の中心として扱われてきた「穢多」「非人」をおいてみるとき、従来は差別と貧困の中であえいでいる貌(かお)のみが印象付けられていた彼らの、さまざまな表情が浮かんできます。 (日本を代表する庭園は「穢多」の人たちが、能は「非人」の人たちがつくったことが分かり、部落差別と背中合わせに、このような高い文化が生まれてきたとしても)部落の文化をはじめとした多様な側面の見直しが、芸能・文化というような対語が示すような、既存の価値観の中でプラスのベクトルをもつ方向の枠内でのみ語られるとしたら、それは被差別民像の根本的な転換とは無縁のものといわざるをえないです。 この課題にこたえるために、皮なめし・雪踏つくりといった部落の基本的な仕事と生活の文化史上での位置づけを問い直す試みを、やはり欠くことはできないのです。 っつーことで、↓をこれからお勉強していくのら~。 あおや(青屋) はるこま(春駒) 猿まわし へい牛馬処理 草履づくり こぼし(小法師) けいり(刑吏) 参考文献『中世の民衆と芸能』 京都部落史研究所 1986『近世の民衆と芸能』 京都部落史研究所 1989『近代に生きる人びと』京都部落史研究所 1994『おとぎの国の部落史話』 辻本正教 2001
September 30, 2005
コメント(2)

体に対する違和感について、ワタシは語る資格があるんだろうか。ほんの短い期間しかその苦しみを知らない。 違和感に気づいた頃は、言える人を学校で家で、探して探して探しても見つからないというふうな悩み方をした。 小学校からの同級生にはなぜ、自分がいつまでも子どもの体型のままでいることを良しとする子がひとりもいないのだろうと、しばしば考えていた点では孤独だった。 自分の体だけは成長させないよう、脱衣所で、ぬれタオルを体に叩きつけ、麻痺させ、成長を止めようとした。肌が少し切れ、血が滲み、切れたところが翌日膿んでいた。この時点で、これはやめにした。 続いて、ワタシは(現在まで)食事の時、御飯は食べていない。その方法でカラダの成長、止まりました。医学的に証明できないなどということは当然知っているし、ワタシはただ、自分の体がおとな的に変化していくことが許容し難かった、それだけだ。この方法をいつかやめられるとも、思わない。それだけ。
September 8, 2005
コメント(1)

ヨーロッパ中世の被差別民『自分のなかに歴史を読む』(阿部謹也氏)を読んでのまとめと感想です ある種の職業についている人たちへの「賤視」から差別(被差別民)は生まれたに違いないけれども、現代の差別(差別する人たちの心)は、いちいち「賤視」までさかのぼって出発してはいないのですよね(何も考えずに差別していて、いわば、底が浅い)。あらためて、人を「賤視」することと、人を差別することは、別次元の問題だと思うのだけれど、賤視を理解することは、なぜ人は差別するのかを知ることではあるんですよね。だから、他人事ではすましたくない、すまされたくないなあ・・・というわけで、あいかわらず勉強させてもらっています。 例えば、社長が平社員を軽んずるということがあったとして、それは人間としての差別にはなるかもしれないが、賤視とはいえません。 賤視は、身分の上下関係の中で起こるものなのではなく、ただ軽んずることでもなく、畏怖という感情が根底にあって、それが屈折して賤視に転化してゆくのです。 それで、特定の職業に従事する人びとが、身分を構成しえない人びととして、恐れられながら賤視されたわけです。 これは、「差別はいけない」とただ連発するだけでは見えてこないことではあると思います。そして、こういう心の構造を分析していくことによって、現代においてなくすべきものの正体をつかむことができるような気がします。 人と人との関係は、歴史社会学的にはモノを媒介にする関係と、目に見えない絆で結ばれた関係とから成り立っているということです(後にヨーロッパ社会では神との「契約」による関係が入ってきます。一方、日本は、むしろ特定の宗教と関係を持たないほうが良いとされています)。 目に見えない絆は、愛や信仰、掟や思想、音楽などをいうようですが、(目に見える)モノは=大地や風土、動物や植物、食物や道具などをいうようです。大地や風土、動物や植物は「モノを媒介」に当たるんでしたか。「目に見えない絆」というか、心で愛でるという印象が強かったです。まずはヘンなところで感心してしまいました。 ヨーロッパにロマやユダヤ人以外にも被差別民がいました。でも、文明の落とし子であるという西洋の学問では、文明の立場に立つと、被差別民はあってはならない存在として無視されてきました(民俗学や文学のような、文化の次元にも目を注ぐ学問においては、早くから被差別民が登場していました)。日本でも被差別民は長い間無視されていました。死刑執行人、捕吏(ほり)、墓掘り人、塔守(とうもり)、夜警、浴場主、外科医、理髪師、森番、木の根売り、亜麻布織工、粉挽き、皮剥ぎ、犬皮なめし工、家畜を去勢する人、道路清掃人、煙突掃除人、陶工、煉瓦工、乞食と乞食取締り、遍歴芸人、遍歴楽師、英雄叙事詩の歌手、収税吏(しゅうぜいり)、ロマ、マジョルカ島のクエタス(洗礼を受けたユダヤ人)バスクの籠など 一一、二世紀頃、村落共同体が二〇戸以上の集落として形成されるようになると村が一つの小宇宙として意識されるようになりました。 浴場は水浴から公衆浴場へと変わり、大きな火を扱うというので、浴場主は大宇宙を相手にする職業ととらえられていました。 理髪師と外科医は、たいてい浴場主が兼ねていて、人体という小宇宙に手を加える立場でもあるので、小宇宙と大宇宙の狭間に位置するととらえられていました。 粉挽きは大宇宙の現象である川の流れを調整する(得意な能力を要する)仕事として、死刑執行人は、人間を小宇宙から大宇宙へと移行させる職業として、遍歴芸人は定住せず小宇宙と小宇宙の間を遍歴するがゆえに大宇宙に属する人間として見られていました。 これらの人びとの職業は、おおまかにいえば、死、彼岸、死者供養、生、エロス、豊穣、動物、大地、火、水などと関わるものでした。 これらは中世の人びとにとっては大宇宙に属するものでもありました(古代、中世の人びとの関係を頭におきながらこの問題を考えようとするときは、現在の私たちがもっている「常識」はいったん捨ててしまわなければ理解できません)。 それで、これらの人びとは、中世中ごろまではみな(大宇宙を相手に仕事をする)異能力者として畏怖される存在でした。誰もそれらの仕事が賤しいものだとは考えていませんでした。 ではなぜ彼らは、一三、四世紀頃より、賤民として差別され、賤視されることになっていったのでしょうか。 大宇宙と小宇宙の図式で説明できる現象は、日本にも多く見られます。いいかえれば、一一、二世紀以前のヨーロッパの人間関係は、現在までの日本と非常によく似た社会関係(モノを媒介とする関係と、見えない絆に媒介された関係)を結んでいました。 しかし、ヨーロッパでは、この二つの宇宙をキリスト教が公的に否定し、一元化しました。それによって死と彼岸における救いを媒介にした、新しい人間関係が形成されました(このあたりは後日くわしく)。 そして、社会的には葬られながら、心の底で恐れを抱いている人びとが現実に共同体を担う仕事をしているという奇妙な関係が成立しました。被差別民は、以上のような心的構造のなかで成立しました。 ※補足 一一、二世紀以前の中世の人びとは、家を単位とする小宇宙の中で暮らしており、家の幸・不幸、人間の運・不運、病気や不作、戦争や災害などのすべては、家の外に広がる大宇宙(森や川、海や山、野原、天空と地下の世界)からやってくると考えられていた。二つの宇宙という世界の構図があった。 それが、キリスト教が社会の下層にまで普及すると、病気も不幸も不運も、災害や戦争、不作なども、みな神の摂理の結果として説明されることになった。 人びとは公の場ではキリスト教の説く一つの宇宙を信じて行動しなければならなかったが、日々の生活の中では古代以来の大宇宙に対する畏怖の念を消し去ることはできなかった。 しかし、キリスト教はゲルマン人の文化よりも高度な地中海文明として登場したことと、キリスト教の本質が愛でもあったことと、貧しい者、虐げられた者に人類史上最も積極的な価値を見出し普遍性があったこととにより、人びとはやがてキリスト教の説く一つの宇宙を信ずるようになっていった。 現実には、キリスト教は、改宗か死かが迫られるようにして普及していった(アイスランドではキリスト教に改宗しない者は大量に虐殺された)。 中世の人びとにとって、生はつかの間で死は身近なものだった。中世を通じて人びとの平均寿命は三〇歳くらいであり、市門の外にはいつも犯罪者の死体が吊り下がっており、市場には行き倒れの人の死体がしばしば見られた。 だから、現世において善行を積み死後に天国で救われることを夢見た。そして、かつては個人と個人、人間と神々の間の互酬関係しかなかったのが、キリスト教とともに教会という権力が入ってきた。 やがて、教会だけでなく、都市や国家までが個々人の来世での救いのために何らかの役割を果たすという機能をひきうけるようになっていった。 こうして、個人と個人の間の関係に、絶対的な価値としての救いの問題が介入し、それが教会という権力と、国家や都市という制度によって支えられているという新しい人間関係が成立した。 人と人との関係で「契約」はどこの社会でもあります。でも、一一、二世紀以後のヨーロッパにおいては、その契約を破った場合、彼岸において地獄に落ち、永遠の苦しみを味わうことになるという条件がつけられたのでした(この条件そのものは時代と共に徐々に薄まってきますが、ひとたびこのような条件が成立した社会は、人間関係が合理的で予見しやすくなり、社会の行動力を高め、その文化を全世界に広げていくようになりました)。 このような関係が生まれてきたことで、そこに大きな軋轢が生じ、その最大のものが、新たに差別され賤視される人間が生まれたということでした。 現在の日本とヨーロッパでは、モノに対して関係の結び方が違い、ここを考える中で、被差別民の成立の問題に突き当たったわけでした。小まとめ 著書の中に、「(ヨーロッパ中世社会における差別の問題は)今の私たちには容易に解らない心理のなかで起こった現象なのですが、現在の私たちのなかにも人を差別しようとする意識はありますから、私たち自身の中にある差別する心を分析してゆくことによって、ある程度は差別の構造を知るきっかけを手にすることができます」とありました。 『自分の”ものさし”には差別意識という文字はない』というのは思い込みに過ぎない場合が多いとは、わが身を振り返ってよく思うことでした。反省。 学者の研究が生かされず、差別意識を「いけません」と「やめましょう」とあたりまえのことを啓発することで差別をなくそうとした(ように見える)日本の状況は、まずは自分の家族や友人たちとの間から変わっていかなければと確信したしだいです。つづきは、“前のページへ”をクリックで見られます。
September 8, 2005
コメント(0)

参考文献は、阿部謹也氏の『中世の星の下で』(第二章 黄色いマーク---ユダヤ人差別のシンボル)等です (ホロコーストの犠牲者に非ユダヤ人や同性愛者を含めた方は、本年の九月二〇日に九六歳で亡くなられたサイモン・ウィーゼンタールさんだったそうですね) ワタシは、ユダヤ人などが十三世紀頃から一八世紀頃までの五〇〇年ものあいだ、キリスト教徒と区別するために黄色いマークを強制的に着用されてきた歴史をあまり深くは知らなかったのです。ユダヤ人、ロマ、同性愛者などに対する差別を合わせて歴史を読み直すことにより、過去の人々の生活する姿が徐々に見えてきました。そうすることは、自分の場合、部落問題を子どもに正確に語ることに通じるようにも思われました。『ダビデの星』の画像はコチラ 研究者の研究の結果、ユダヤ人史はやはりヨーロッパ史の根幹に関わる問題であったことが浮かび上がってきたそう。 まず、黄色いマークの由来はラテラノ公会議(一二一五年)の決議にあるのだけれど、ここではユダヤ人やサラセン人がキリスト教徒から区別できる服装を着用することが命ぜられているだけで、『黄色いマーク』の規定はなかったの。 公会議の決議を最も早く実行に移したのはイングランドで(一二一七年)、『黄色いマーク』を強制したのはフランスのルイ九世の治世のもとでだったのだけれど、これはのちに赤と白の二色に変えられている。 一方で、イベリア半島のユダヤの人びとは抵抗したの。 カスチラでは、強制するなら国外退去しムーア人の領域に移住すると主張したので、実施は国の財政上の理由から延期されたし、イタリアでも♀は黄色い帽子の着用が強制されたけれども、服全体を黄色にして抵抗したというの。 また一方で、ドイツ、オーストリア、ボヘミアでは、ユダヤ人はラテラノ公会議よりはるか以前から(九世紀頃)、円錐型の帽子で先端が折れ曲がっているものと髭というような民族衣装ともいうべき独自の服装を自由意志で着用していたというの。いかにそうであれ、その着用が外から強制され蔑視の道具とされると、それはユダヤ人にとって苦痛以外の何ものでもなくなる。 ザルツブルグの公会議(一四一八年)で、ユダヤ人女性はマークと鈴をつけねばならないとされ、一四三四年には初めてドイツではアウグスブルグ市がユダヤ人に『黄色い環』をつけるよう命じ、これは一五三〇年の全国行政法令で全国に布告された。 オーストリアでは『黄色い環』は一五五一年に義務付けられている。 ヨーロッパ諸国において、ユダヤ人に強制されたマークの規定は、一八世紀まで五〇〇年近くものあいだ効力をもっていた。そもそもラテラノ公会議でなぜ、ユダヤ人の衣服をキリスト教徒のそれから区別する必要があったのか。 公会議を主催したインノケンティウス三世は、正当なる信仰の確立と教皇権の強化をはかった人物として知られているが、神学の教説として説かれているにすぎなかったこと(ユダヤ人はキリストの死に直接関係があり、永遠の隷属状態にある。カインのように地を彷徨い、その顔が恥であふれ主の美御名をよぶにいたるまで歩き続けなければならないと述べられていた)をラテラノ公会議(一二一五)で現実的な政策として打ち出した。当時の社会的状況は、ローマ教皇にとって大変厳しいものがあった。 各地の異端(ヴァルドー派、カタリ派など)の動きとして、無所有を主張し、富に関するローマ教皇の矛盾を指摘し、糾弾した。 左右からの「不信の徒」に取り囲まれたローマ教会は、ユダヤ人をみせしめとして血祭りにあげようとしたのかもしれない。 ユダヤ人に強制されたマークは赤と白、白、赤、黄などさまざまな色が用いられていた。しかしながら、黄色は圧倒的に多かった。ヨーロッパにおいてなぜ、マークの色が黄色だったのか 中世の人びとが個々の人間の運命だけでなく、歴史の過去と未来についても天体の運行(七つの遊星の運動)と関連させて解釈してきたことはよく知られている。 ネッテスハイムのアグリッパ(一四八六~一五三五)によると、黄色は太陽、水星、金星、月のいずれかと何らかの関わりがあるものとされている。ところが、この太陽、水星、金星、月は、当時の観念としていずれも賤しむべき仕事や人間と関わりがない。金星は肌の黄色い人や純潔でない者の星とされているが、幸運の星であることには変わりはない。 そこで、「ハウスブーフ(家の書)マイスター」(一四八〇年)の絵に描かれた七つの遊星と人間の職業の運命の分類をみてみることにする。★土星最大の星だが徳性に欠け、冷たく乾燥し人間の本質に背く星とされ、悪しき不徳の人びとの星である。皮剥ぎ、「魔女」、死刑囚、農民などがこの星の運命のもとに生まれた人びととされている。☆木星徳のある星で温暖で湿潤、賢明で平和的な星であり、倫理にあつく、正しい者、美しく気品に溢れて、芸術性豊かな者、鹿狩り、裁判官、官僚と廷臣たちがこの星のもとで生まれている。★火星暑く乾燥し、戦と苦難を示す。この星のもとで生まれる者は怒りやすく、気性が激しく戦闘的である。盗み、殺人、詐欺に明け暮れる戦の星である。☆太陽太陽は王の星である。最も穏和で人びとに愛を向け、人びとを賢くする。この星の運命のもとに生まれた者は大きな目をもち、白い肌にうすく赤色が混じっている。楽しんでいる男女、楽師、競技に打ち興じる者などが描かれている。☆金星金星は冷たく湿っているが、幸運の星でもあり、黄色い肌の人びとや純潔でない人びと、女色を好む男たちがいる。この星の運命のもとで生まれたものは清潔を好み、音楽を楽しみ、よく踊る。入浴している男女、カルタに興じている男女、踊っている男女の姿が描かれている。☆水星水星は手工業の星である。金細工師や、彫刻家、パイプオルガンの製造者、時計造り、などが描かれている。☆月粉挽きや水浴をしている人びと、漁をする人、奇術師、狩人、放浪学生、浴場主、沖仲士などが描かれ、月は水によって生活する人びとの星である。 黄色それ自体は、民俗学的資料でみる限り、決して一義的に蔑視すべき特徴だけをもっていたわけではなかった。 悪霊や「魔女」を追い払うとき黄色い色がしばしば用いられた。病気の治療にも黄色い花が用いられることが多かった。 黄色が最も目立つ色であったというのが単純な理由であったといえるかもしれない。 しかし、インノケンティウス三世が祭礼の色として四色(白、赤、緑、黒)を定め、黄色を省いたとき、既に色の中に公的な階層化の兆しがもちこまれたといえるかもしれない。 黄色いマークに対する抵抗の調査は、中・近世については十分進んでいないそうだ。 二〇世紀(今からほんの六四年まえ。一九四一年)において、ナチはユダヤ人の『黄色いマーク』を復活させて、六歳以上のすべてのユダヤ人に六角型の星形で黄色い布地に黒い縁取りをし、真ん中にユダヤ人と黒い字が書き込まれているマークの着用を強制したが、アントワープでは全住民がユダヤ人のマークをつけて外出し、抵抗の姿勢をみせたことが伝えられている。補足 人びとに卑しまれていた賤民も、中世は土星という一つの星を持っていたんですね。 これらの考え方は非科学的であることはいうまでもありませんが、「ハウスブーフ」の七枚の絵に描かれているものは中世に生きたすべての人びとの生活実態ですよね。そして、中世から近代まで多くの人びとを支配した宇宙観、世界観がこのようであったことは事実なのですよね。こういうものはワタシは世界史の授業では全くといっていいほど見えなかったです。その反動で、もうすこし以下に続けて見てみました。★第一図 土星とその子ら ・・・画面の一番下で皮剥ぎが死馬の皮を剥いでいる。皮剥ぎは賤民の最下層に位置づけられており、彼の尻を豚が嗅いでいる。丘の洞穴には手枷足枷をつけられた罪人が閉じ込められており、そこで「魔女」が不吉な言葉を述べている。丘の上には絞首された死体と車裂きの刑に処せられた者の姿がみえる。処刑台の上には烏が飛び交っている。鳥の羽をつけた帽子をかぶり、長い剣を身につけた死刑執行人が、犯人を刑場へ引き立てている。そのそばにはカプチン僧が十字架を手に持って最後の祈りを捧げようとしている。画面の右手では農夫が を馬に引かせ、子どもが馬を先導している。農夫は裸足で貧しく、その表情は苦痛に歪んでいる。・・・★第三図 火星(マルス)とその子ら平和な村に突如として軍隊が侵入する。中央では両手を縛られた村人が今や振り下ろされんとする剣におびえ、左下では倒れた巡礼の首にあわや剣が突き刺されんとしている。右下では、両替商の店が荒され、主人が殺されようとしている。村の家々に火を放つ騎士たち。その下手では勇敢な女が壷をふりあげて襲ってくる騎士からおそらくはわが夫を守ろうとしている。教会の塔の窓には逃げ込んだ人びとの顔がみえる。・・・
September 2, 2005
コメント(0)
全4件 (4件中 1-4件目)
1