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「諸君の家はもともと毛坊主だ、本願寺などと同類だ」と宣告されなければならなかったのは、むろん遊芸歌舞の徒ばかりではない。毛坊主から聖(ひじり)へ、さらに古さびた日知(ひじり)へと、ヒジリの零落史が逆向きに辿られるとき、王や天皇といった存在もまた、「諸君の家はもと毛坊主だ」という呟くような宣告の声を無視することができなくなる。柳田は聖帝=ヒジリノミカドのかたわらに、「毛坊主如き者の元祖と共通の名と云ふのは畏多い」と書いた。・・・ひとたび開けてしまったパンドラの箱を前にして、たじろぎ、途方に暮れ、右往左往しながら、しばし言葉を濁したのである。・・・」『ヒジリの精神史』赤坂憲雄氏(『いくつもの日本5』より) 『毛坊主考』柳田國男・・・いかんせん諸国に散在するヒジリという部落はあまり感心した階級ではなかった。現に紀州の中にも三昧聖(さんまいひじり)とていわゆる隠坊(おんぼう)の類なる一族もあった。日高郡東内原村大字萩原のヒジリなども人の賤しむ部落であった。三昧聖の三昧は墓地のことであろう。すなわちこの徒も し骸の取片付けを役としたのだる。大阪にもこの類の者がいた。・・・しかし必ずしもこの類の職務には限られてなかった。『職人尽歌合』には墓露(ぼろ)のことを馬聖(うまひじり)と言っている。・・・紀州熊野でハチまたはハチンボという階級はシクの下エタの上におかれていてその婦人はあるいは口寄巫(くちよせみこ)を業としている。伊賀では隠坊のことをハチといい土師(はじ)と書いたものがあった。穢多ではあるが昔は僧形であったという。この点はまだすこしく疑わしい。・・・竹細工をもって渡世とし・・・百姓町人とは縁組はせざれども穢多非人の類にはあらずとある。・・・伯州のハチヤは・・・穢多ではないと言われたが、もちろん番太(ばんた)専業ではこれだけの人口は食えぬから他の職もいろいろあったろう。・・・この領内では茶筅と鉢屋とは同じものである。牢番を職とし取扱いは穢多に近い。・・・伊勢のシュクなどは平民と通婚こそはせぬが、穢多やササラのごとく低い者とは考えられず、次第に普通人と接近して区別がなくなった。すなわちこの県ではシュクはもはや特殊部落ではないのである。・・・いわゆる新平民を村はずれの悪い処に住ませることは、全国一般の現象であるのに、ひとり近畿諸国の一種類にのみシュクの者の称があるのは、あるいは反対者の物言いの種かも知れぬから・・・宮崎県の特殊部落調に・・・伊予の隣の土佐国でも、古くより宿神あって、また穢多の氏神であった。・・・自分はこれまでの数章においていわゆる特殊部落を特殊ならしめた主たる原因は境遇であることを力説したつもりである。夙もヒジリだ、鉦打もヒジリだ、と何でもかでもヒジリにすることは、あまりに題目に熱中すると危ぶむ人があるかも知れぬ。しかし・・・自分は毛坊主の前身がヒジリであることを述べた。・・・最後にこれが類例として数うべきものは院内という特殊部落のことである。・・・これは三河国院内村より出た者ゆえにこの名があるという。三河の院内村はすなわち有名なる三河万歳の本土である。・・・(「郷土研究」大正三年三月~四年二月)『俗聖沿革史』柳田國男・・・日本中世の国情は、この種の人を多数に作り出すに適していたのである。俗ヒジリに対立して僧ヒジリとも名づくべき者ももとより数多くあったが、近世に至ってはヒジリは僧侶の中の特に徳の高い者を斥していうようになった。・・・この名称の起こりはそれほど単純なものではなかったようである。まずヒジリという語が最も盛んに用いられた鎌倉時代の前後について言うと、ヒジリはすなわち浄行僧の別名であって、上人というのもまったく同意味であった。・・・『沙石集』の中に・・・独身生活をするのを「ひじる」などといってみたのである。・・・これは要するにある時代に限って、ことにヒジリの独身生活に重きをおいたという事実を示すまでであって、・・・いくらも経たらぬ時代に、・・・『梁塵秘抄』の二の巻にはヒジリの好むものという歌がある。・・・木蓮子(もくれんじ)の数珠を携え、苔の衣で岩窟の中に修行をするヒジリは、すなわち我々のいう山伏である。・・・かくのごとく世間的には最も賤しい服装をして、低い境遇に甘んじ、しかも熱心に念仏の信仰を宣伝してあった一種のヒジリが、田舎には多かったとある。・・・高野山の麓の村里には、さらに一種のヒジリが近い頃まで住んでいた。・・・家を構える以上は生業がなければならぬが、・・・この地方においてヒジリと称し、たとい農作をもって主たる活計としていても、なお常民が縁組を躊躇する一種の家は必ず別に特殊なる職業を兼ねていた。・・・紀州北境のヒジリ村については『緘石録(かんせきろく)』という随筆にオンボウはすなわち焼亡師(しょもじ)であるといっている。ショモジは普通には唱門師と書き、・・・おそらくはどこかでか・・・唱門師にして火葬を掌っていた者があったからいうのであろう。・・・備中地方には死人の取扱いをするオンボウを、俗に茶筅(ちゃせん)と呼んでいた村が少なくなかった。・・・関東の平原においては、カネウチというのが一派の俗聖であった。・・・文字では鉦打・・・などと書いている。これを表向の文書には、被慈利と書いてヒジリと呼んでいる。すなわち高野山でヒジリを非事吏と書いていたと同じく、聖の字を付与するのは上等過ぎるゆえに、便宜このような当て字を誰かが発明したもので、こじつけには違いないが、仏法の慈悲利益を被る者という意味に、解釈させようとした努力の痕は窺がわれる。・・・(「中央仏教」大正十年一月~五月)「あしびきの 山に行きけむ山びとの心も知らず。やまびとや、誰(舎人親王----万葉集巻二十)この歌では、元正天皇がやまびとであり、同時に山郷山村(添上郡)の住民が、奈良宮廷の祭りに来るやまびとであつた。この二つの異義同音の語に興味を持つたのだ。仙はやまびととも訓ずるが、「いろは字類抄」にはいきぼとけとも訓んでいる。いきぼとけの方が上皇で、山の神人の方が、山村の山の神であり、山人でもある村人であつた」(『ほうとする話』折口信夫)日本の神の原型をマレビトにみる折口は、天皇とマレビトを関連づけねばならなくなる。・・・折口にとって、天皇をマレビトとしてとらえることは、天皇の神性を確信することであった。しかしそれは他方、天皇をホカヒビトと同系統に置くことでもあった。したがって折口の天皇観は、その意図はともかく、当時の状況からすれば不敬罪に値するほどのものであった。・・・近代日本思想体系『折口信夫集』の解説(廣末保さん)まず定住者と漂泊者を分け、定住者の中に常民とエリートを分ける。常民、エリート、漂泊者が、柳田の階層分化の三極構造だと考えられる。・・・すくなくともこれまでの日本社会の歴史はそのようなものであった、と柳田は考えていたのだと思う。階級史観とはかなり遠い考えである。・・・毛坊主の起源を辿ってゆくうちに、柳田は被差別部落の問題につきあたった。・・・『毛坊主考』の中で柳田は・・・毛坊主をはじめとして歩き巫女、男巫、山伏、修験者、唱門師など信仰に関係のあるものから、茶筅売、ササラ、革屋、籠屋、番太、傀儡師、鳥追、万才、猿廻などの職人、遊芸師からホイト(乞食)にいたるまでの・・・あらゆる種々雑多な職業を、被差別部落と同列に扱っているのである。その理由は、差別が漂泊と結びついており、いかにいわれないものであるかを示すためだという。もともとは常民であったものが、なにかの理由で移動民となり、その一部が悪い条件で定着させられたために起こったことなのだから、ふたたび常民にくりいれて、常民として遇すればよいという主張なのである。・・・近代日本思想体系『柳田國男集』の解説(鶴見和子さん)あるものは首斬りであった先祖のことを語り、あるものは金持で金貸しをしていたといい、またあるものは、先祖が世直し一揆に参加したという話をする。またあるものは、昔は侍であったといい、またあるものは一般から分かれて分家して部落に来たともいう。柴田道子は、これらの話を聞いていると、「大昔から部落民という人種がいたわけではなく・・・」がわかると書いている。柴田道子は・・・英文学出身の児童文学者で「本気で部落解放のことを考えている」(部落開放同盟長野県連書記長のことば)人である。・・・彼女の聞き書きをよむと、被差別部落の人々は、固定した身分というよりも、常民又はエリートからなにかの事情で、移動した人々であることがわかる。柳田の、エリート→常民→漂泊民(その中に被差別部落が含まれる)という移動の仮説は、今日でもためすことができる。・・・差別に対する柳田の分析に弱点があるとすれば、もともと被差別部落は常民であるから、常民にかえればよいという解決策の楽天的にすぎる点である。・・・被差別部落が常民に融和することを望むのではなく、むしろ、常民が被差別部落に、どのように自己を同化させうるかを、柴田道子は探求しているように見える。・・・柳田をもって、柳田をのりこえるという方向に向って、その仕事をうけつぎ発展させることが有望な道だとわたしは考える。近代日本思想体系『柳田國男集』の解説(鶴見和子さん)
June 30, 2005
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『大嘗祭の本義』 おりくちしのぶ (「国学院雑誌」昭和三年九月信濃教育会東部部会講演筆記)一、・・・此処で申して置かねばならぬのは、私の話が、或は不謹慎の様に受け取られる部分があるかもしれない、といふ事である。だが、話は明白にせぬと何も訣らぬ。話を明白にするのが、却つて其を慕ふ事にもなり、ほんとうの愛情が表れる事にもなる。或は、吾々祖先の生活上の陰事(カクレゴト)、ひいては、古代の宮廷の陰事をも外へ出す様になるかも知れぬが、其が却つて、國の古さ・家の古さをしのぶ事になる。単なる末梢的な事で、憤慨する様な事のない様にしていただきたい。國家を愛し、宮廷を敬ふ熱情に於では、私は人にまけぬつもりである。二、・・・此処では、まづまつりの語源を調べて見る事にする。此まつりといふ語がよく訣らぬと、上代の文献を見ても、解決のつかぬ事が多い。まつりごととは、政といふ事ではなく、朝廷の公事全般を斥して言ふ。・・・日本の太古の考へでは、此國の為事は、すべて天つ國の為事を、其まま行つて居るのであつて、神事以外には、何もない。・・・古典に用いられて居る「祭り」といふ言葉の意味は此で、即御命令によつてとり行ひました処がかくのごとく出来上がりました、と報告する、神事の事を謂ふのである。・・・三、日本の天子様は、太古からどういふ意味で、尊位にあらせられるか。・・・天つ神のまたしをお受けして、降臨なされて、田をお作りになり、秋になるとまつりをして、田の成り物を、天つ神のお目にかける。此が食國(ヲスクニ)のまつりごとである。・・・さて、食國(ヲスクニ)をまつる事が天子様の本来の職務で、それを命令したのは、天つ神である。・・・吾々の考へでは、働かなければ結果が得られない、と訣つて居るが、昔は、神の威力のある詞を精霊に言ひ聞かせると、詞の威力で、言ふ通りの結果を生じて来る、と信じて居た。・・・祭りは、第二義的なものである。神又は天子様の仰せを伝へる事が第一義である。処が、天子様は天つ神の詞を伝へるし、又天子様のお詞を伝へ申す人がある。そして又、此天子様の代理者の詞を伝へる人がある。かうして段々、上から下へと、伝へる人がある。此天子様のお詞を伝へる人をまつりごと人といふ。・・・高い位置の官吏ではないのに、何故まつりごと人などといふ、尊い名称で呼ばれるか。此は、前に言うた様に、段々下へ下へと行くからである。かうした人々の事を御言持(ミコトモチ)といふ。此意味で、天子様も御言持である。即、神の詞を伝達する、といふ意味である。・・・四、此所で少しく、みそぎ(禊)とはらへ(祓)との区別をいうて見る事にする。宮廷で大祓へというて居られるのは、実は禊ぎであつて、平安朝の初期から間違うて居る。奈良朝の頃でも、此禊ぎと祓へを混用して、両方とも慎み、と考へて居る。禊ぎは よい事を待ち迎へる為に、予め家又は、身心を清浄に、美しくする行事である。祓へは、贖罪として、祭りの費用を出す行事である・・・みそぎといふのは、神事に與る為の用意として、予め、身心を浄めておくことである。謂はば、みそぎは、家でも身体でも、神に接する為の資格を得る方法である。後世の神道家は、吉事祓へ・悪事祓へと対照して言ふが、元来、吉事に祓へはない筈である。吉事をまつため、迎ふる為の行事は、禊ぎである。其に対して、祓へは悪事を前提として行はれるものである。祓へといふのは、穢れ又は、慎むべき事を冒した場合、又は彼方からして、穢れや慎むべき事がやつて来て、此方に触れた時に、其を贖ふ為に、自分の持つて居るものを提供して、其穢れを祓ふ事である。元来、祓へは、神事に與る人が、左様にして呉れるから、他動風なものである。自分からするのなら はらひであるが、はらへと他動風に昔からいうて居る。五、湯はゆに通ずる音で、古く湯といつたのが、果して、今の吾々の云ふ所の温いものかどうか、一寸疑問である。・・・ゆ川といふのは、御禊に使ふ水をいふ事である。此ゆ川水が段々と変化して終には湯にまでなつた、と見るべきである。日本の古い信仰では、初春には、温い水が遠い國から、此國土へ湧き流れて来る、と信じて居た。そして事実、日本には温泉が多い。こんな事からして、いづる湯についても、神秘な考へを持つて居つた。・・・だから古い書物に、湯とあつても、其は、今日の吾々の考へて居る温湯である、と直ぐに、極めつける事は出来ぬ。藤原の宮から奈良・飛鳥の宮にかけては、天子様が時々、湯に行かれたり、温泉を求められたりした事が、記・紀・萬葉集などには、非常に多く出てゐる。此温泉へ旅行せられるのは、今日の吾々の様に、ただの遊山や避暑ではなく、御禊の信仰の考へから見ねばならぬ。・・・汚い話のやうであるが、今より二百年前までは、御湯へ這入る時に、湯具・褌などは、締めたまま這入つた。・・・何の為に、締め換へて這入るのか。・・・元来、褌即、下紐は、物忌みの為のものである。・・・ふんどしは、ふもだし・ほだし・しりがひ・おもがひ・とりひがひなどと同一なもので、又たびさき・たぶさくなどといふ語も、同一である。たぶさくとは、またふさぐといふ事で、着物の後の方の裾を股をくぐらして前の方に引き上げて、猿股みたいにする事で、子どもの遊戯にも、今日は 五日の尻たくり、といつて、此形をする。元来は、人間のふんどしも、馬のふんどしも同一任務のもので、或霊力を発散させぬやうに、制御しておくものである。そして、物忌みの期間が済むと取り避けるものである。事実朝廷の行事に見ても、物忌みの後、湯殿の中で、天の羽衣をとり外して、そこで神格を得て自由になられ、性欲も解放されて、女に蝕れても、穢れではない様になられる。・・・即、湯殿には天子様の瑞(ミヅ)の緒紐(ヲヒモ)を解く女が居て、天子様の羽衣、即ふもだしを解くのである。・・・天子様はかくして、悠紀殿・主基殿へ行かれるが、其間に、折々お湯にお這入りになられる。とにかく、日本の后の出る根本は、水の神の女で、御子をして、神秘な者にする為事を、司るところから出て居るのである。庭の面の 土さへさくる夏の日にひとり露けきひめゆりの花 土御門院
June 29, 2005
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*所謂特殊部落ノ種類*「定本柳田國男集 第二十七巻」より(大正二年五月、国家学会雑誌) はでなる風俗をも似せず、ありがかりに家を治め、身を修むるを本とし侍れども、さすがに女色なれば薄化粧に紅粉を絶さぬ身持のよき花なり 『百花譜』
June 28, 2005
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一 穢多非人の問題は必ずしも単に歴史上の珍たるに止まらず、現在の社会生活に対しても大なる交渉あり。例えば「エタ」と云う語は、塵添蓋嚢抄(じんてんあいのうしょう)以来の通説によれば、犬鷹の為に食料の肉を供給する職業即ち餌取の転化なりと称す。仏道の教義に照らせば罪深き行為なるべきも、未だ之に従事する階級を賤視するべき理由とはならず。餌取と云う文字には別に賤しき者という内容を具えざるなり。然るに久しき以前より之に宛つる穢(ケガレ)多しと云う漢字を以ってしたり。明治の世となりて公に革太或は穢多なる文字の使用を廃せらるるや彼徒は歓呼せり。而もしからずして其代用たる新平民と云う語は小児などが人を悪罵するときの用語となれり。近頃内務省は又之を避けて特殊部落の文字を用い始めたるに、程無く此語も亦甚だしく彼等の忌嫌うものとなり、終には細民部落と書き下に括弧して小さく特殊などと書くに至れり。要するに彼等が部落を特殊なりとする一般の思想存ずる限りは、百の用語を代ふるも無益にして、事実に於いては今日と雖彼等が部落は特殊なり。 此故に今の最も完全なる方法は論理上目的物の消滅の他に之を求むべからず。即ち特殊なる階級を普通なるものと変ずるより他に手段なし。是れ決して望み難き事には非ず。近くは北海道の平原に又は大都会の人の波の裡に、古くは関東奥羽の広漠たる未開地に入込みたる多くの特殊部落は、此の如くにして始めて助かりたり。即ち最初には外部よりの観察の絶縁を以って、次には内部に於ける伝説の忘却に由り、新時代の彼等が兄弟は常人の積もり以って其武陵桃源より出来れり。此点より推論するときは拗 は寧ろ最上の策にして行政 其の他の格段なる調査注意は却りて右の目的に反すると謂うべし。殊に況や今に於いて此徒の来歴を闇明するが如きは、事学会の外に漏るるに於いては其結果或は無害なるを保し難し。唯如何せん現時の地方吏員等直接此案に接触する者未だ十分に問題の幅と深さとを会得せず、所謂特殊部落の改善が我々の社会にとりて何程の意義を有するかを知らざるが為に、時として当たらざる判断処分あり、 る学徒の言説の無用ならざるを感ぜしむ。而して此問題の尋常慈善団体の処理に一任し能わざる理由も而玄に存ずるなり。 現時の当局者の中には往々にして特殊部落の賤しまるる理由を最も簡単に解釈し、(イ)職業の不愉快なるが故に(ロ)生活が粗野なるが故に及び(ハ)貧窮なるが故に此の如しとなし、此三点だに改良すれば即ち可なるものの如く考ふる者あるが如し。彼等自身に於いても亦久しく如是観を為し、所謂同族郭清会等の手段は概ね之に由らんとせざる無かりき。是れ決して不良なる改良には非ず。此徒の生活は夫だけは造に上進すべし。併しながら若し之に由りて彼等の経済力が増加し之に伴ひて政治上の勢力を生じ更に其職業の如きも他の平民と異なる無きに至らば、及ち果して交際通婚等相互対等となるべきか否、是れ大なる疑問なり。彼等の中にも既に相応の生計を営む者あり、職業の如きは最初より別に賤しからざる者も多き也。加之此種の改善が果たして全数の上に及び得べきやは覚束なし。如何なる政策も一町村の全戸を富者と為す能はざると同じく、此徒に在つても亦一半の同族は永く従来の下等生活に留まりて在らんに、他の半分の優良なる家族のみが社会の上層に浮かび出んことは甚だ想像に難しとす。而して事態の憂ふべきは決して此に止まらず。第一に懸念せらるるは彼等の抱持する反社会的感情なり。此感情や人は之を目して法制の 泊に養はれたるものと為すも余輩は今甚だしく深き根底あるものと考ふ。今日の概測に依れば彼等の数は七十萬ありと謂へり。即ち人口七十人に一人の割合なり。若し彼等の智力進み同族内統制力加はらば或は侮るべからざる一勢力たらんか。前代の点首を愚にするの政策の如きも半面の理なしとせず。是れ実に根本の大問題なり。第二の問題も亦決して小ならず。即ち労力の供給者としての彼等が地位是れなり。此点に付いて彼等が只の平民に比し顧者なる特性は三有り。即ち(イ)生殖率の大なるらしきこと(ロ)其労力に割合して土地を占有すること甚だ少なきこと及び(ハ)移動性に富めること是なり。此三者は或程度迄は原因結果を相為せるも別に又夫々の来由あり。 時代の田舎の労力は一般に利用の疎なるものなりき。殊に此部落には余剰多かりしも、今後若し彼等の生活が改良せられ欲望が増進するに至らば、勿論其利用は著しく進むなるべく、従って地方の経済組織の上に小ならざる影響を及ぼすべきは必せり。故に右改善事業の実行は少なくとも此等の重要なる転機を意識しての上ならざるべからず。而も今日の調査は政策上精緻なる判断の資料に供すべきもの未だ具はらず、少々は暗中模索の嫌なきに非ざるは不本意千萬なり。 秘色とは人巧の及びかたき色をいふ義也。・・・其色鮮碧にして よの恒なるとは異なるべし。 『嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)』(喜多村信節著)
June 27, 2005
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二 雖見を以ってすれば現今等しく特殊部落と称せらるる階級の中にも、著しく其経済上の条件は社会上の地位を異にする色々の種類あり。其中に於いて最多数且有力なるものは勿論当穢多なり。其他の特殊部落は地方に由りて名称並びに生活状態甚だしく区々なり。且之を細別すれば数十の種類あるかと思はる。之を総称して簡単に何と呼ぶが可なるかは未だ考へ得ず。非人と云ふ語は少なくとも近世の用法として単に其中の一小階級をのみ指せしものの如きも、穢多非人と云ふ熟語は通俗且便宜なれば、仮に穢多以外の特殊部落を概括して非人と名づけんとす。素より彼等には内々の使用なり。 穢多と非人とは全然異なりたる種族なりとするは此迄の通説なりき。而も余輩は未だ之を信ずべき十分なる根拠を見出す能はず。二者の区別として仔細に比較すれば色々の点あれど、其最も見易きものは穢多は死畜を取扱ひ他は然らざること是れなり。此故に前者を皮商売又は革太革坊革屋などと呼ぶ。今日も大体に於いて革を製せざる者は皆穢多に非ず。或は穢多は死獣を取扱ひ非人は死人を取扱ふと云ふ者あり。此も大なる誤なし。但し二者何れにも関係せざる特殊部落も少なからざることを忘るべからず。穢多は何れの地方に於いても部落比較的に大きく、其生活の異風は顕著なるが故に人に注意せられ易し。之に反して非人の事は誠に世人の観察を逸せり。其結果として特殊部落と謂へば即ち穢多のことと考ふる者あり。柳君の著「穢多非人」は二十余年前の研究としては奇特千萬の書なれども、此二者の区別を怠り混同多し。而も実際問題としても学問上の調査としても右は左様にて軽視せらるべき事柄に非ざるなり。徳川時代には江戸に弾左衛門ありて穢多を統べ、車善七及び品川の松右衛門ありて非人を統領せしことは人善く之を知る。弾の部属は今日も存在し其首領は人之を弾さんと呼び昔ながらの浅草区の紳士なり。然るに善七松右衛門が 類は全く分散し尽くしたるものの如く、彼等は其後如何に成行きしか此間の消息は之を解する人多からず。抑も江戸時代の非人とは如何なる者か。普通非人乞食(ヒニンコツジキ)と云ふ語あり、非人とは乞食のことと思ふ者あり、或は又常人が貧乏して乞食をする状態を意味する者と思ふ者あり。江戸時代の武家の法制として情死を仕損じたる者其他の犯罪者等を非人の仲間に降ろし入るることありしが故に、之を以つて彼等の常態と為し、非人はもと此等の常人より構成する者なれば、外部の圧迫にして徹せらるれば 元の古巣に立戻ることあれども勘当を受けたる不良少年が親の家に帰るが如く解する人もあるべし。成程芋を洗ふが如き大都の社会なれば、人間の屑の掃溜に集る者も少小には非ざりしならんも、斯る烏合の連中のみにては昔とても一箇の階級を作ること能はざりしは明なり。殊に田舎の小団体の非人部落に在りては、右の如き時々の供給を予期すること難く、必ずや別に其団体を構成するだけの本来の中堅なかるべからず。乞食も本物の乞食は世襲なり。況や広義の非人の中には昔より も新分子を加へざりし明証ある者多し。決して通俗の説の如く常人の零落したる者の世を忍ぶ仮の名なりと認むる能はず。然らば彼等非人は如何にして此国に存在するに至りしか、此問に答え得れば江戸の非人の後日物語も自然に判明すべきかと考へらる。朝顔の盛すくなきは、よき女の常は病がちに打なやみ、・・・たまたま空晴きり朝日さし出たるに、心地よげに打粧ひ、衣裳などあらためてほのめき出たるには似たり。 『百花譜』
June 26, 2005
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三 先づ順序として穢多の方面より説き出さん。穢多と非人との異同優劣如何は、滑稽なる話なれど彼等が間にてはある重要なる問題なりき。江戸にては弾左衛門は幕府の非常に厚き保護を受けて勢力あり。車善七と訴訟して勝ちたるは有名なる話なり。其寛文年中に差出したりと云ふ由緒書及証文に於いては鎌倉に於いて頼朝より免許状を得たりと主張す。かの宛名を頼兼と認めたる源氏の下し文なるものは、形式より判断して疑も無き偽物なり。但ししょうしょう古き時代の偽物なり。此下し文には我々が仮に非人の総称の中に包含せしめたる釘打鉢叩蓑作渡守其他二十九種の職業はおそらく彼が支配の下に立たしむべしとありて、穢多総取締の非常なる大勢力を示せり。然るに田舎に於いては之と正反対なる慣行少なからず。例へば鉢叩と同種なる茶筅又は鉢屋の類は一般に穢多よりは一段上の者と認められ、通婚はせぬ迄も相火(あひび)を忌まず、彼等も亦農作を営み人別帳は分離しても百姓同志の交際は公認せらるるあり。南都奈良阪の「シュク」の如きは、穢多に臨むこといえども平人が彼等に対すると同じ位に威張り、今日は外見殆ど普通の小農に同じく、只甚だしく筋悪しとして縁談など六つかしきも、金銭の都合にては必ずしも之を避けず。伊勢にても之と同様にて、曾て竹葉寅一郎君より受けたる報告には、「シュク」は特殊部落にては無之候とありき。備中の「サンカ」は穢多と同視せられて大に怒りたり。備後も福山領までは茶筅は一級上流と認められたれど、廣島領に入れば習藩の公募にては穢多と茶筅鉢屋とを区別することなく、芸藩通志には悉く之を屠者と記し、近頃内務省が受取たる調査書には某村革屋一名茶筅などとも見えたり。斯の如く習慣は地方的に区々なれども、一般の感じより言へば先づ穢多を以つて最も低きものとするが如く、而も彼等の根源元は一つなりと言はば、双方ともに驚きて之に抗議を為すべきは今猶昨の如きなり。 賤者考の著者其他此迄の学者にも稀には此区別に留意したる者あれど、其人々は必ず一々の部落が其名称を異にする毎に各別箇の由来あるが如く解するを常とす。名称に基く推測には従ひ難きもの多し。蓋し特殊部落の名称は未だ彼等の自称に出づと信じ得べきものあらず。若し近郷百姓の付与したる名なりとせば、其他の方言と同様に地方的に区々なるは当然の事にして、之を以って一々の来由を推論するははなはだ困難なりと云ふべし。「エタ」は「エトリ」の転訛とする通説の如きも疑を容るべき余地なきに非ず。殊に某博士等の如く「エタ」は餌取なるが故に古の犬養部鷹飼部などの雑戸の末なりと云ふは速断なるべし。倭名抄には「エトリ」は漢語の屠児に当り牛馬の肉を販ぐ者とあり。是は寧ろ唐土の屠児の註脚なるべく、之に由って犬養鷹飼を想像するは恐らくは餌取の文字に拘泥したる説たり。尤も今昔物語の「エトリ」と称する食肉法師の生活と後世の「エタ」の生活とは似たる点あるも、此とても外部よりの称呼なれば甲は乙の先祖とは言ひ難し。始めて穢多の文字を用いたる師守記に依れば彼等が職業は井戸掘りなり。語の上より見るも「エトリ」の「エタ」と移るは甚だしく不自然なり。仮に説を立れば「エタ」は下級の巫祝の名たる「イタカ」又は「ユタ」或は薩州などにて婢女の通称とする「エダ」などと関係なきを保せず。要するに彼等が生活上の他の諸種の特色をも併せて照するに非ざれば容易に基本源を定むること能はざるべきなり。 節は、五月にしく月はなし。菖蒲(さうぶ)・蓬(よもぎ)などのかをりあひたる、いみじうをかし。『枕草子』
June 25, 2005
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四穢多と他の特殊部落との間には多くの肝要なる点に於いて相似あり。其第一は土着の形式なり。彼等が居住地には略々一定の特色あり。都会の周園には一箇の独立せる大字を為す程の大部落、例へば京都の田中村鞍馬口村、大阪の渡邊、松阪の鈴止(スマトメ)村、姫路の高木村の如きもあれど、他の多くの部落は必或村の枝郷にして、而も其村の地域中最も不要なる空閑を占む。例えば村境の原の中、山林の外れ、湿地川原の如き多くは稲作に不利なる物陰の地にして、見馴れたる者は村の外見にて此徒の住地なることを知り得。丹波因幡其他にては穢多村に何島といふ地名多し。島とは洪水の跡に新生する川原のことにして、地味は肥えたれど水害に対する保証なく、大抵の百姓の土着を欲せざる地なり。下総邊にては何村の「ヤハラ」と謂へば穢多を意味する例多し。「ヤハラ」は一に「アハラ」とも称し越中能登などに の字を宛つる地名にして沼地のことなり。此の如き地に穢多の住む国あるなり。淡路の笑原(ヤハラ)なども此類なりと聞く。又「トウボシ」と称する一種湿地に適する劣等多産の稲あり。或は土坊師と云ふ漂泊種族と関係あるに非ずやと考へらる。河原者と云ふ語は古くは又穢多をも意味せしこと職人尽歌合に証拠あり。後代は遊芸に生活する一種の漂泊民の名となり、荘内鶴ヶ丘などにては河原町に住する河原者の卑賤なる雑役を勤むる部落なりき。穢多とは全く異なる特殊部落にも村はづれの不用地に占拠する例多し。 前に挙げたる鉢屋は又は鉢といふ種族は一に鉢叩と云ひ、後には瓢箪を叩きて念仏をするも以前は鉢を叩きたりと解せらるる。而も鉢を叩きしといふ証拠は無し、自分の見る所にては「ハチ」は即ち邑落の堺のことなり。近畿に多き「シュク」といふ賤民は守戸(シュコ)即ち隠戸なりとも、屍倶即ち殉死義務ありし者とも云へど、是も亦山の「ソキ」野の「ソキ」などの「ソキ」と共に地境を意味するが如し。甲州には現に「ソキ」と呼ぶ賤民あり。算所又は産所といふ部落も元は散所にして不用地に住せしよりの名なるが如く、「サンカ」を一に川原乞食と云ふは川原に小屋掛せしに基づくかと思はる。備後双三郡三良阪村には番太と云ふ階級に属する十数戸の部落川原に住し竹にて小屋を造る。川原の石は此徒の領する所にして、村の農家は年々水田の水口に置くべき石を採取する対価として彼等に少分の穀物を供ふこと云へり。此等の例にて見れば、此輩の土着は思ふに各町村最後の開発よりは猶後なるべし。東北などの人口の稀少なりし地方は別として、其他の場合には既に普通民の居住せる土地に後より来たり、其明示又は黙示の許容の下に土着せしものなるべく、若し公然荒野の開拓に従事せりとすれば、到底斯かる不利益の条件に甘んずべしとは考へられざるなり。 更に他の点より観察するも、多くの穢多の土着は足利時代の末頃ならんかと思ふ由あり。地方々々の小領主が武具兵器の製作原料として皮革角爪の類を其領内に供給せしむる必要を生ずるや、所謂皮作業の招致は始めて断行せられしなり。軍備が統一するか又は平和なる交易の行はるる時代ならば郷毎に皮太を住ましむるの要なければ也。而して此事実を証する文書は武蔵相模等に住々存在す。思ふに兵例の結果として居民離散し荒蕪多く、天然の威力盛にして島又は川原は年々新生したれば、此等の地に皮作を土着せしめ皮革の課役を徴せしなり。其後世の中太平と為り畜類繁殖するに及び、彼等の生計は又別様の便宜を得たり。革類の需要減ずる頃には取棄料を添へて死獣を引取る慣行を生じたり。死したる獣類の肉を食ふことは亦彼等が生活上の一便宜なりき。他の特殊部落と比べて現在人口の多きは一には食料問題の解決が簡易なりし為ならん。維新以降牛鍋盛に用いられ靴流行し、更に日清日露の戦役を経て大金持になりし穢多多く、従て其政治上の力も著しく加はりたれば、強ひて旧来の職業を廃せしむることは困難にして且不必要の観あり。 翻つて他の特殊部落の歴史を考ふるに、其土着の条件の如きは当初略々同様なりしならんも、其後の事情は前者の如く必しも好都合ならざりしに似たり。此徒の職業は穢多よりも大分上品なりしも、上品なるだけに多数の人口を支ふること難く、年々其繁殖する家族を他の地方に移動せしむるの必要を生じ、而も時勢の変遷も亦甚だしく彼等に不利なりき。非人の職業の沿革を明にすることは実は民間信仰史の任務にして、玄には其一端を述ぶるの外なきも、要するに彼等が飯の種は俗間の幼稚なる信仰に基礎を有し其基礎は教育の発達と共に容易に変動すべきものなりき。此点に付ては未解決の問題多きも、我輩の想像にては彼等は一ノ宗教団体と言はんよりも寧ろ行事を主とする一種の魔術団体にして、其口にする教義は神道仏教陰陽道等手当り次第取交ぜたる空漠たるものなりしが如し。現時の社会に於ても此古代の状勢を推測せしむるに足るべき現象なきに非ずと言はば、明敏なる読者は点頭せらるるならん。此国体の名称は昔より区々なり。或は「ハカセ」と云ひ「陰陽師」と云ひ、唱門師と云ひ「シュク」と云ひ「サン所」と云ひ、院内と云ひ舞々とも萬才とも云ふ。皆多く共通の特色を有す。彼等が任務として最も普通なるは禁厭祈祷及びト占なり。疫病風雨早 を防ぎ五穀牛馬の増殖を求むる者の為に、年々村々の民に守り札を配り慣例として少許の農産物を貰受く。普通に之を札配り又は配当と称せり。祈祷の手段としては色々の唱へ言を為し且舞を舞ひて神を悦ばしむるの術を為せり。殊に今日は殆と絶えたる郊野に於ける神祭は概して此徒の職業なりしかと思はる。「シユク」を守戸なりと云ひ又は戸倶の転なりといふは此者が古塚の側に多く住するが為れど、塚は古墳と新造とを問はず共に中代の祭神檀にして、法律上は所謂除地なりしが故に、彼等は無税にて其域内に住するを得終に永久に土着せし迄の事なり。此徒の中には追々土民の信を繋ぎて終に一箇の法印と為りすまし、或は吉田家などに因縁して立派な神主となりし者も勿論多からんが、もと一郷に一戸あるべくして二戸三戸は不用なれば、近村に分家し得る限は兎に角、其他の余剰人員は如何にも切なき生活を為さざるべからず。而も漂泊は彼等が永年の風習なりしかば、此の如くにして多くの旅稼の遊芸人乞食芝居の徒は此中より出たり。彼等が中には大社大寺の保護の下に群居せしものあり。祇園の犬神人、高野の聖、鞍馬の願人(ぐあんにん)を始めとして其近世まで関係を継続せし者も多々あり。院内と云ふ部落の如きも元は寺の境内に居住せしよりの名かと思はる。白山権現も古くは此類の特殊部落を養ひしかと思しく、其配札に仮託する者諸国を巡行し、白山相人と称する賤民各地に居住す。此中にても奇麗に足を洗ひ今は上流に取済まして在る者の歴史は強て説くにも及ばず、世間より特殊と認めらるる彼等が部落にして最も顕著なる二種は釘打と鉢叩となり。前者は東国に多く、もと藤澤の遊行上人に随従す。後者は京以西に多し。即ち空也上人の流を汲む者なり。何れも能は大勢集合して念仏し踊り廻るに在りて如何にも気楽なる職業なり。釘打は一に沙彌とも「ヒジリ」とも云ふ。頗る起原の古き者にして今昔物語にも阿彌陀の聖と称する一種の下賤なる法師ありしこと数箇所に見ゆ。蓋し課口の減少を防ぐの策として僧徒得度の制の極めて厳密なりし時代には、身分なく学問なく保護者乏しき沙彌にして生涯僧となる能はざりし者は甚だ多かりき。而も彼等は身心道力に由りて並々の寺僧よりは却りて民間の尊敬帰依を得ること多く、村々に寺院の少なかりし世なれば迎へられて田舎を旅し巡りしなり。空也及び融通念仏が此徒を利用せしは如何にも巧妙なる伝道手段にして、恰も松井源水が見物人の中に我仲間を忍び込ませ贋野次馬と為すと同じく、此機関を以て群集心理を利用し下屑農民の間に一種の信仰勢力を作りしもの也。而も機会のある毎に都合よき土地を見計らひ五戸三戸づつ念仏の聖を土着せしめしもの、即ち今の釘打及鉢叩の元祖なり。彼等は女房ありて農作を業とし、而も普通民と通婚せず。但し此だけの事実にては彼等の階級のもと低かりし理由は不明なり。此序に言はんに、唱門師も広義の非人の一種なれど、其名称の由来は恐くは峯相記などに所謂「暗誦の禅師唱文の法師」と云ふ語に出で、単に経文を読み且理解する能はざる下級の準僧侶といふに過ぎざるべく、其賤視せらるるに至りし原因は何か別に存在せしものかと思はる。(to be continued)をみなへし 秋の野風に打なびき 心ひとつをたれによすらん 『古今和歌集』藤原定方
June 24, 2005
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武家闘乱の殺伐なる時代には人皆戦争の惨毒を目撃し、所謂御霊の思想の圧迫に堪へず死者の属魂を鎮むる為には念仏講の行法は最も手軽なる供養祈祷なりとして盛に行はれたり。関東東北等には今尚種々なる念仏講あり。東京にても彼岸に六阿彌陀の寺に詣づれば謡曲隅田川を想起せしむるが如き村老野 の念仏を聞得べし。千葉茨城邊にて葬式に頼まるる念仏の衆は勿論皆常人なれど、鉦打は以前此事務と深き関係を有せしかと察せらる。此徒の生活は少々僧侶に近し。常は只百姓の如くなれども藤澤道場との関係絶えず、公の場合には小さき袈裟を掛けて出で、念仏して信施を受くるを本業とす。鉢叩に居たりては之を支配せし京都の空也寺夙くより微力にして之を世話する能はず、 も宗旨にては飯が食へぬ故に、久しき間色々の兼業を為せり。是れ一には其居住地方の然らしむる所耕地に余裕なくして普通の農作を為し能はざりし為ならんか。此徒を別に茶筅又は「ササラ」と呼ぶは斯る竹製品を作りて生活を立てし為なり。鉢叩は発句の題となりて有名なり。其茶筅を売るは本来之を以て瓢箪を叩きしに起るといふ説あれど同意し難し。奥州にては薦僧が此物を売りしと云ふ話なり。茶筅は又多くは所謂番太の任務を為す、即ち牢屋刑場の番人変死人の取片付葬場墓穴の世話道路の掃除山野溜池の番を為す。斯る勤務にて公より及村の各戸より若干の給料を受く。固より心細き職業なれども収入の源少々数多き為に中国地方にては革屋に次て大なる部落を作る。鉦打に在りては之に似たる大集団を見ること能はず。又村々に番太と称する一種の民あり。其中には鉢屋茶筅の右の如く専業せしもあれど、単純に番太として来住せし者も多し。此類は此徒の土着の最新の形式なり。其始を考ふるに、別に番太を募集すと云ふ広告の手段あるに非ず。唯年々村はづれに来て小屋を掛くる非人の中に、どうやら実体らしき爺ありて顔馴染と為り、然らば永くそこに住みて野荒し盗伐等の番を為すべし、其地は無代にて作り又年々毎戸二合三合の米麦を遣はさんなどと約束す。村に由りでは此外に三味場に近くして人の好まざる空地などを与へ、穴掘り湯灌火葬の役行倒人の始末の如き凡そ村の者が夫役にて引受け難き事務を掌らしむ。此二者相兼ぬるあり又併存するあり。後の場合には番太と謂はず「オンボウ」と謂ふ。即ち御坊にして例の「シユク」などを何々法師と云ふと同じかるべし。此等の職業は如何にも安全なる保障ある土着なれども、一村に二戸以上を要とせず。部落としては昔より殆ど発達の見込なかりし者なり。而も地方警察の制具はりては番太は不用となりたれば、明治以降再び此者の引上げ去り葬式の節など村の者の飛だ不自由をする例住住あり。其以前にも双方色々の都合にて尽々村を立退くことあり、要するに完全なる土着にては非ざりしなり。此外に更に一層不完全なる一種の土着あり。それは村人との間に別に何等の申合せも無く、通行人少なき川原、寺の山などに小屋を掛けて住む者あり。此等の徒は主として川漁に由りて生を為す。「サンカ」は其最も弘く行はるる呼称なるが、 を捕るに妙を得たる為「ポンス」など云ふ別名あり。又竹細工に巧なり。川岸には川除の竹数多きが常なれば勝手に之を採取して「ササラ」籠笹の類を作り、山に入りて藤蔓を取り竹を結びて箒箕などを製して売る。箕直し或は箕作りと称するも此徒なり。総体に指先器用にして最も高尚なる者は を掻く。故に一に 掻とも謂ふ。乞食もすれば野荒しも敢えて辞せず。番太を置く必要は寧ろ此が為にして、恰も盗賊の一人を懐柔して眼明しと為すと一様なり。彼等が土着は土着と名づくべく余りに不安定なり。殊に河川法の実施せられたる川は勿論、其他の地方も開墾盛んにして竹数少なくなり、水害減じて燃料の流木に乏しく、且所有権の主張緊迫になりたれば、他人の土地に久しく無断にて住むことは誠に難儀なり。其為に夏冬の間居を南北に移す外、一季中にも段々寝拠を転じてあるく必要あり。即ち最も完全なる漂泊生涯にして、警察の追逐烈しき為に却つて旅中に子を産して無宿者を生じ、いつ迄も本当の国民と為り得ず。而も自分の信ずる所にては、彼等が漂泊は今更新時代の圧迫に因りて始まりたる現象に非ず、是れ実に特殊部落生活の最も古き形式を存する者なり。五穢多と他の特殊部落との生活上の相似は独り土着の形式のみに非ず。猶注意すべき二三の肝要なる点あり。其一は彼等自身の信仰生活なり。穢多村の仏教は全国共に近代になりて一向宗と日蓮宗とが伝道の手を広げたれば、極めて稀なる除外例を以て今は皆宗旨に属す。此二派は主義として信徒の雑行雑習を禁止し、為に多くの習慣を消滅せしめたるは遺憾なれども、神社の方には尋ぬれば幾分昔の痕跡あらん。関東地方は穢多部落の氏神は例は浅草新谷町を始として多くは白山神社を祀れり。此点は頗る興味ある事実にして他の特殊部落にも此神を崇祀する例少なからず。讃州木田郡下高岡村の白山相人は極めて卑賤なる陰陽師にして白山に仕ふ。生計の為に箕を作る。奥州地方の「モリコ」又は「イタコ」と名づくる一種の巫女は口寄を為すに白山明神の名を唱えて祀る。又甲州に昔白神筋と称する特殊部落ありしが如き、何れも偶合には非ざるべし。第二に日常の経済生活としても、二種の部落に明瞭なる区別なし。例へば出雲石見にては現今に至るまで弦の製造販売は革太の業なるに京の祇園の犬神人は一に「ツルメソ」又は弦指と称して之を業とす。此者嘗て穢多と死人の衣を取得する権利を争ひしことありて全く別部落なり。又穢多をして葬式の穴掘を為さしむる地方あり。陸中遠野などにては、牢番の如きも此者の勤むる所なり。道路の掃除を穢多が引受けし例は土佐にありき。其よりも更に顕著なるは物貰業の二者に共通のものなりしこと也。毎年一定の時間に人家に物を貰ひに来る職業には色々の名あり。鳥追 「セキゾロ」 厄払 「門ホメ」 「庭ホメ」 福吉などの如し。萬歳 猿蓑の如きも高尚なれども亦同業なり。鳥追 福吉等の職を穢多の中より務むる地方と、他の非人が行ふ地方とあり。其歌の章句の如き小異ありて趣旨の大体相同じきは面白きことなり。元来「コジキ」と云ふ日本語は仏経中の漢字を音読したるが始にして比較的新しき語なり。「ホイト」といふ方遥かに古し。倭名 に乞 ---「ホカヒビト」とあり。狩谷翁の箋註には今「ホイト」と謂ふは亦「ホギビト」の約まれるならんと説かれたり。「ホグ」とは祀すること「ホガヒ」とは祝詞を陳ぶること也。即ち何か縁起の善き文句を唱ふるは本来乞食の要素にてありしなり。乞食に対する我々の思想は近世一変せり。乞食はもと明に一箇の職業にして、禁忌の札を民家に配りて米銭を乞受くるも趣旨は一なり。今日の如き自由なる考にては勝手に札を配り又は祝言を唱へ来る者に対価を払う義務あるは不思議なるが如きも前代は此も亦一の因習の拘束にして単独に之を脱却するを得ざりしものなり。乞食又は配札の方にても亦誰からにても物を貰はんとはせず。彼等が決して配当を取りに来ぬ家あり。即ち所謂特殊部落の者は出す気があちれも相手之を受けず。要するに「ホイト」の職業は一種仕来りの交易なりしなり。仏教の方の功徳の為に恵を施すといふ思想段々弘く行はれ、終には現代の所謂慈善の如きものとなり、従つて「ホイト」は年々陋劣の生活と目せらるるに至りしも、以前は賤しきながら兎に角一箇の職業にてありし也。勿論当初よりさまで有利なる又は名誉多き職業に非ざりしことは事実なれども、其社会上の地位今日の如く低級ならざりし間は、之に従事する者また中々多く、吾人の所謂特殊部落の如きは其全部を包容したりしかと思はる。 山吹の花色衣 ぬしや誰れ 問へど答へず 口なしにして 『古今和歌集』素性法師
June 23, 2005
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六 所謂「ホイト」業の発達史には従来学者の注意を脱したる点多し。其沿革は他の諸種の職業と与る経路を異にするものあり。足利時代以降世に玩ばれたる絵巻の中に職人尽歌合と称するもの数種あり。此歌合には普通我々が職人と称する多くの手工業者を載する外、一方には神主 陰陽師 修験者 医師等を挙ぐると同時に、他の一方には「イタカ」 地者 餌取 皮作りの如き者を載す。今日の思想を以てすれば殆ど恕す可らざる不備の排列なり。而も其一貫共通の特性よりして中古の職人なるものの概念を推測するに、要するに公家武家社家寺家及農民に非ざる者、語を換へて言へば土地に拠りて生活を営まざる階級の全体を意味せしものの如し。思ふに荘園の時代に当り土地の占有を以て生活の要件と為すこと能はざりし者は、勢ひ一所に定住するの必要も無く又権能も無きが故に、軽微なる動機に基きて尽尽其居を移し、終生旅人の如き生活を営むが為に其性情も自然に軽薄にして互の心無く、殊に小領主が地方に割拠して相闘ひし場合には常に猜疑不安の眼を以て視られ易く、或は政略軍略の都合より時に一地に招居らるること無きに非ざるも、是れ唯一小部分に止り、其他の者は概して排斥を受けて到る処権力者の保護を被る能はざりしものならん。若し然りとすれば村々の農民が彼等を軽蔑して容易に其団体に参加せしめざりしは寧ろ此結果にして、「ホイト」等を賤民なりとする諸種の理由の如きは、却って他の多くの民間慣習に随伴する説明的伝説と共に後代の発生に係るものなるべし。此迄の学者は兎角記録の完備せる六国史時代の名目のみに由つて今の社会現象の根源を解釈せんとするの癖あれども、中古七八百年の永き期間は、史料こそ乏少なれ、政治上経済上極めて変動の多かりし時代なれば、其間何等の影響をも受くること無く安閑として状態を保持し来れりと云ふが如きは誠に立証し難き論断なり。 前に挙げたる阿弥陀の聖の如き漂泊者が空也一遍等の平民仏教の伝道に利用せられたるが如きは一の大なる事実なり。戦国の時代に一所不住の客僧等が密書の使を勤めしは隠なき事なり。近江には此目的の為に領主の保護を受けたる山伏の一村あり。音曲を以て諸大名に近づきたる坐頭の徒が尽尽細作反間の用を為せしは軍書の類にて見ゆ。薩摩大隈には其功を以て大に取立てられたる盲僧の寺多く、其奮記はかかる当時の戦略の裡面を語れり。嘗て備前に於て大規模の穢多殺戮を行ひ、池田家の二士主命を奉じて一村の穢多を根絶せしこと因幡志に見えたり。固よりOutlawryの結果として人命の粗末にせし為ならんも、亦以て当時の政治と大なる交渉ありしものなることを察すべし。近世の風習としても普通の百姓が婚姻を忌避する階級は意外に多く、其範疇往々にしてかの職人尽に列記する者の大部分に及べるが如きは、到底従来の餌取説或は朝鮮捕虜説等の解し得べからざる疑問なり。弾左衛門の由緒書に今日の手工業者の多数を以て其支配の下に立つ者と主張するが如き、或は狂妄の言として笑過する者あらんも、既に小田原の舞舞天十郎が家蔵文書にも、北条氏が彼を保護して各種の漂白生業者の細作の疑ある者の取締を為さしめたる例あれば、以て此類の職人の中に今日の如く顕著なる軒 なかりしことを推測すべく、徳川第一世の将軍が其巧妙なる政治手腕を以て特に其中の一団体を有力にし、間接に其力を利用して他の多くの一所不定者を制御したるは、 も諸国の城下町の新立に必少数の此徒を安住せしめ、彼等の自治に由りて城内の平安を計りたると同一系統に属する政策なりと認むべし。巫女山伏坐頭等の部類を所謂穢多非人と同一視するは、聊か前者に対して失礼の感なきに非ざるも、予が此等の者を同列に置くの理由は、即ち後者を賤民とするの深き根底なき説なることを主張するに在り。社会の進歩に少数の落伍者を生ずるは免れ難き数にして、之を以て優秀者の価値なきことを推論するは勿論不当なり。吾人は既に久しく土地を実物とする中世思想の を脱し、職業居所の移転を以て憲法上の権能と考ふる者なるに、今更他所者排斥の趣味のみを遵守して此憐むべき同国人に臨むべきに非ず。成程此徒の永年の間土地と密着せざりしは或は別に種族上の理由あらん。或は手工其他の芸能の頼むべかりしものありし為、或は久しく耕作に親まざりし為、機会あるも農業を嫌忌して之に就かざりしは、最初より漂白を性と為せる外来の人民なりしに基すとも推測し得られざるに非ざるも、帰化人にして朝廷の保護の下に開拓殖民し一地方に血脈を伝ふる者少なからず、他の一方には本来の日本人種にして課役を避け浮浪と為りし者甚だしく多かりしことは古史に明らかなれば、別に有力なる傍例を見ざる限りは未だ直に特殊部落の異人種なることを断定し難く、要するに土地と絶縁して久しく諸国を移動しつつある間に、偶然新移住者を警戒し処遇する時節となり、主として外部の原因の為に著しく社会上の地位を低下せるものと解して彼等が今の境涯を憐れまざるべからず。弾左衛門の支配せりと云ふ二十九種の職業中、過去三百年の間に完全に其社会上の地位を回復せしもの多きは例を挙ぐる迄も無し。尤も其中には身分は賤しからずして業のみ下がり職なりと称せらるるものあり。即ち其職を廃すれば即座に常人に復すといふ思想なり。此事は幕府時代の最後の坐頭の残存する者より直接に之を聞けり。坐頭の所謂下がり職は甚だしく弾家の所録と異なるも、要するに卑賤の家より弟子を取るべからず、其住せし屋敷を買ひて住むべからずと云ふなり。然るに此坐頭なる一階級は江戸時代に至り大に地位を改良したる一箇所の所謂職人なり。此徒は好機会を把へて其配当を受くる権利を職務と分離せしめ、一躍して「ホイト」の域を離脱せしものなり。嘗て阿波候の能役者の家に配当を取りに行かざりし為紛 を引起せしことあり。同類間相互に配当を乞はざる慣習を利用して大にそれ地位の高きことを立証せしは、盲人の仲間には代々知恵者の絶えざりしこと知るべし。然れども坐頭の中にも一種盲僧と称する在野の琵琶法師ありて、此輩の以前の生活状態を示せり。山伏にも亦本当二派に属せざる一種の野山伏あり。薦僧にも職人尽歌合時代の原状を示すべき野生の一類あり。此等は皆江戸幕府の特権政策統一主義に僥倖して少なくも其有力なる大部分が地位を回復したる実例なり。其他の残存せる部類にありても、外部社会の態度既に「ホイト」の本旨を忘却せしより、力めて嗟来の辱を避くることに苦心し、或は形を舞曲演劇の如き遊芸に変へ、或は機会を求めて農作に従ひ、かの死畜取扱の如き捨つるに忍びざる有利の生業ある場合は、常人と職業上の差別なからんことを期するに至り、此に至つてか留りて乞食の道に甘んずる者は、其心情生活共に零落を極むるに至りしなり。ちらねども かねてぞおしきもみぢばは 今は限の色とみつれば 『古今和歌集』よみ人しらず
June 22, 2005
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七 話は再び乞食の事に戻りて此論を終るべし。嘗て鎌倉に於て乞食と立談せし好事家あり。乞食自ら其歯を指して曰く、乞食も歯が此の如き色艶になるに至らざれば仲間に幅が聞かずと。其人の説明に依れば乞食の歯は妙に白々として動物などの歯に似たり。蓋し永年の露宿冷食の然らしむる所にして、此の如くなるには少なくも三代相伝を要する由なり。又嘗て乞食が携ふる袋に注意したる人あり。其説に木綿の袋を持つ乞食は一代の乞食なり。「スマ袋」といふを有するは世襲の乞食なりと云ふ。番太が配当を貰ひてあるく袋も昔は此二種類ありて、布の袋を携ふる番太は業を廃すれば常人に復し他は然らずと謂ふ。「スマ袋」は自分は見たること無きも二説あり。一は縫方異なりと云ひ他は材料異なりと云ふ。後説恐らくは是にして其説に依れば一種の蔓草の如きものにて製すると云へり。此袋はやがて融通縁起の絵などに鉢叩の腰にする所の一物にして、又中世の漂泊民たる傀儡師が「クグツ」と称せらるる本来の理由ならん。「クグツ」といふ特殊部落は近世迄現存す。其徒に美女多く売笑を以つて生活を為せりと称するも、此は唯婦人の若き者に限るべきことにして、老女及男子の業は山野の竹蔓等を材料として籠箒「ササラ」箕又は杖を作るに在り。此者が今の所謂「サンカ」、他の地方にて「オゲ」「ノアヒ」川原乞食「スマ」「ノブスマ」「テンバ乞食」などと称する漂泊民の事なることは、前年東京人類学会雑誌に之を述べたれば細述せず。夏と冬と必所住の地を転ずる外、食物に導かれ警察に追はれて純然たる漂泊生涯を送れること前述の如し。此徒は即ち今日の乞食団体の中堅にして東京大阪の如き大都の周囲には多数集合し、朝夕市内に出入しあらゆる下級の生活を為す。但し人があまり恵与を為さざる為に今や彼等も亦到底乞食は子孫に伝ふべき職業に非ざるを自覚し、身体力量の之に適する者は往々にして他の業務即ち感心し難き窃盗詐欺等の方面に向はんとするものの如く何れの地方にても「サンカ」と謂へば即ち犯罪者の別名詞なるが如く解するに至れり。 余が見る所を以てすれば、特殊部落の問題中最も解決し難きは此等の未定住者なり。穢多は数に於ては甚大なりと雖、其改良は唯一歩にして、或は中古伝説の忘却又は其成立に関する理解を以て簡単に之を常人階級に迎入るる望あり。其上は尋常の救貧政策を以て一様に之を善導し得べし。之に反して「サンカ」の徒に至りては今尚一所不住なるが為に其生活状態を監視する能はず、之に対する緊迫が長期且強烈なりし為、彼等の反社会的感情も亦深く、而も一般に社会的教育を欠くが故に一朝にして非法を企つるときは其作害深酷にして、普通の盗賊の徒の如く目的と手段との権衡を考へず、例へば数銭の物を奪はんが為に家を焼き人を殺傷するが如き、同胞間の盗賊の幸に具へ居るが如き良心をすら具へ居らず。其結果として我々は尽尽「ボルネオ」「セレベス」の 勇戦に接近して居住する白人種の不安を大都の中央に於て抱かしめらるることあり。殊に此徒の数は少なくとも十萬に近く、亦強固なる団体約束存し犯人庇隠の方法巧妙なりと聴くに至りては、単に平凡なる文明装飾的善政のみに信頼して在ること能はざるかと思はる。之に対する必須の政策は順を追ひて多々あるべきも、何よりも必要なるは編貫の事業なり。土着は既に彼等が同類の大多数が到達せる第一の進境なれば、少なくとも此点迄は急速に此等の落伍者を収容し、次には所謂特殊部落の特殊たる所以はかの印度等に存するが如き先天的の階級制度に在らざることを自他に開示して、以て三四百年来の不愉快なる藩 を撤去するの道を講ずるべきか。 前日埼玉県内の某村に赴き其郷土誌を閲せしに、特殊部落の項下に其村字陣屋の地に住する当藩所属の数戸の士族を挙げたるを見き。此村は此外に士族も無く他に何等の特殊部落も無き村なり。願はくは将来何れの村にても此の如き錯誤を演出せぬことを。(The End) 今様色とは紅のうすき、ゆるし色をいへり。濃き色は禁制にして、 今此色程には聴(ゆ)ると、ためし色(標準色)を給ひたるを今様色と云へり。 『源氏男女装束抄』
June 21, 2005
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■■いまよういろ■■もみぢ■■やまぶき■■をみなへし■■よもぎ■■あさがほ■■ひそく■■つばき
June 18, 2005
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■もっとイスラムと差別の現実を知ってほしくって…… ■セクシュアル・マイノリティから見た「イスラム」■法務省は人権感覚の低さを自覚して欲しい
June 17, 2005
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■セクシュアル・マイノリティ と 狭山事件 ■「ダブル・マイノリティ」 ホロコースト 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の個人的に優れていると思った部分を 以下に抜粋しました。・・・これらの方式はすでにT4作戦と呼ばれる1939年10月から1941年8月まで続いた精神障害者・重病人などの大量安楽死作戦において実験されており、シンティ・ロマ人やエホバの証人、同性愛者等も同様の方法で組織的に殺害されたと言う・・・・・・出身地域別のユダヤ人犠牲者数は: ドイツ;16万5000、オーストリア;6万5000、フランスおよびベルギー;3万2000、オランダ;10万以上、ギリシャ;6万、ユーゴスラヴィア;6万、チェコスロヴァキア;14万以上、ハンガリー;50万、ソ連;220万、ポーランド;270万。このほかにルーマニア・トランスネストリアにおけるポグロムや行動部隊の掃討作戦による被害者20万以上、アルバニア、ノルウェー、デンマーク、イタリア、ルクセンブルク、ブルガリアなどからも収容所に移送されたユダヤ人がいた。(BENZ,Wolfgang. Der Holocaust. C.H.Beck 1995) シンティ・ロマ人;25万人 同性愛者;1万から2万5000 精神障害者・重病人など;2万から3万 (Wikipedia:en)
June 16, 2005
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■「性別違和感」による精神的苦痛■性的指向 sexual orientation ■続・性的嗜好のことなど ■自衛しなくてもよい世の中に・・・
June 15, 2005
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■侮蔑語を使うのを、やめれ ■「同性カップル」の意味 ■セクシュアリティの様々なケース ■セクシュアル・マイノリティ問題をもっと知ろう ■性同一性障害の「同一性」の意味
June 14, 2005
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■セクシュアリティの構成要素■身体的性 + 心理的性 の一覧表
June 13, 2005
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■セクシュアリティの分類のことなど
June 12, 2005
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九州ニュース - 11月29日(火)2時20分 福岡 | 佐賀 | 長崎 | 熊本 | 大分 | 宮崎 | 鹿児島 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051129-00000022-nnp-kyu全国人権・同和教育研究大会閉幕 「新たな人権」を提起 宮崎県内の3市で開かれた「第57回全国人権・同和教育研究大会」(全国同和教育研究協議会など主催、西日本新聞社など後援)は28日、3日間の日程を終え閉幕した。障害者やハンセン病などさまざまなテーマへの取り組みが報告される中、特に注目を集めたのが「性の多様性」を訴えた高校教諭の講演。現代社会に求められる「新しい人権問題」の一断面として取材した。 (社会部・東憲昭) 「男として生まれたけれど、小学生のころから手作りスカートをひそかにはいていました」 京都府立高の数学教諭土肥いつき(旧謙一郎)さん(43)は、自らの「トランス・ジェンダー(TG)」体験を打ち明けた。通路にも座り込んだ千人を超す参加者はじっと耳を傾けた。 TGは、肉体的な性を超えて生きようとすること。異性の服装をするレベルもあれば、社会的な性分業(ジェンダー)の拒絶、性器への違和感から性別適合手術を選択する人まで幅広い。 人気テレビドラマのテーマに取り上げられるなど急速に知られるようになった「性同一性障害」は、TGの中でも性的違和感が医学的な診断レベルまで強い人に限られる。「生まれつきの性に何らかの違和感を持つ人」としてとらえればTGは千人に一人の割合ともいわれる。土肥さんも言った。「この会場にもきっといるんです」 * 主催者によると、TGなど「多様な性」をテーマに当事者が報告するのは、同大会で初めて。「同和教育研究大会」という名称だった大会名に六年前から「人権」の二文字を加え、幅広く少数者の権利擁護をテーマにした流れと呼応する。 土肥さんは「自分は変態なんやないかと悩み、自分を好きになれなかった」と繰り返した。その悩みは、いわれなき差別にさらされた子どもたちの心と重なった。 「教師として被差別部落生まれや在日外国人の生徒とかかわることで、私は自分をさらけ出せた。『信頼できる人には本当の自分を話してごらん』という彼らへの問い掛けを自分にも向けることができて、ようやく自分を好きになれました」。四年前から女性ホルモン投与の治療を始め、外観もひげ面から長髪姿にして、戸籍名も昨年変えた土肥さんはそう語った。 * 障害者、高齢者、外国人、女性…。同和問題をその他「少数者」の問題解決と連動させて考える取り組みは、本大会だけでない。昨年九月に開かれた福岡市同和教育研究大会の全体会のテーマは、かつての不登校だった児童・生徒らが通う「夜間中学」だった。 土肥さんは講演後、取材に「少数派というだけで優劣の対象にされていいはずがない」と語った。講演を聞いた大分県の高校女性教諭(33)は「差別はいけない、という精神論に終わらせず、常にマイノリティー(少数者)の声を聞くことが社会の仕組みを変えることにつながるのでは」と感想を述べた。土肥さんの「告白」は、今後の反差別運動に必要な「すそ野の広さ」を象徴するような問題提起となった。(西日本新聞) - 11月29日2時20分更新 全国人権・同和教育研究大会が 「多様な性」をテーマに・・・ お初ですよね。ゆふきづけられますね。 ■■といふわけで~みなもすなるぶろぐといふものを みなもしてみむ、 ぽっ。
June 11, 2005
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■虹のように・・・ ■性のスペクトラム ■性別パラメータの説明 ■ 八色だったレインボーフラッグ
June 10, 2005
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