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中世~近世 職人絵 このほど 徳島の某H様々より「マンガ風の線画」を ご寄贈いただきました歴史的な資料ではなく親しみやすくするために以前に 頼んで描いてもらったものなので網羅的ではないことをあらかじめご了承くださいとのことですた・・・『中世職人・芸能民の画像』1『中世職人・芸能民の画像』2『中世職人・芸能民の画像』3『中世職人・芸能民の画像』4『近世職人・芸能民の画像』1リンクフリーです~!!!(ご一報くださる場合はhimedaの掲示板にカキコをお願いします)
November 29, 2005
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中世~戦国時代 身分さべつ中世~戦国時代、猿楽師、節季候に限らず、賤民身分に生まれてきた子は必ずしも、親の職業を継いでいなかったようだ。親の職業じたいがひとつではないし、生活環境(団結心ある一族に帰属している場合)や、家庭環境(親の特別な意向が働いている場合)に左右されない立場の者は、割りと「自由に」本人の性分に従って、時に、人間が小さい武将とその取り巻きなどから見下され蔑まれる目にあいながら、しぶとく生きぬいていたようだ。 猿楽師 (さるがくし) 「大久保長安(金春流猿楽の血をひく二代目大蔵太夫信安の子)は金春流から出た大蔵流の家元の子どもだが、武士となって武田信玄に仕え、武田家滅亡と共に徳川家の代官となった男である。 関ヶ原以後、石見銀山の銀山奉行となり、今までの採鉱量の十数倍という驚くべき銀を掘り出し、一気に家康の代官頭に上った。 以後、佐渡・伊豆の金銀奉行を兼ね、大和を中心に西国の代官頭をつとめ『天下の惣代官』と呼ばれた。 死後床下から七十万両という莫大な金銀が発見され、謀反の企みあり、と云うことで・・・長安の遺児たちのうち男子七人は既に捕えられ、ばらばらに譜代大名たちにあずけられているが、その閨閥関係だけ眺めても尋常ならざる拡がりがある。 長男藤十郎は信州松本八万石石川康長の娘を妻としている。 次男藤二郎の妻は播磨、備前で八十万石を領する池田輝政の娘だ。 三男健之助は場ウ府の閣老青山図書助成重の養子になっていたし、 六男右京の妻は、家康の第六子で越後福島七十五万石松平忠輝の城代家老として川中島二万石を領する花井三九郎吉成の娘だ。・・・」隆慶一郎氏『影武者徳川家康』より (猿楽師の)大蔵夫七郎が子供二人を武士にした理由は何だったのだろうか。残された記録は一切なく、今となっては推量するしかないが・・・ 戦国期の武将たちにとって、これら『公界(くがい)往来人』又は『道々の者』くらい始末に負えぬ者はなかった。彼等にとって領国の国境いは重要である。・・・その国境いをこれら『公界往来人』たちは軽々と越えてゆく。・・・ 武将たちがその城下町にひとしく職人町を作ったのは・・・『公界往来人』たる職人を一ヵ所に定住させ、束縛するためであった。 同じ『公界往来人』として、・・・見すごすことが大蔵夫七郎には出来なかったのではないか。だが一介の猿楽師では、いかに主君が天下をとったところで、彼等の身の上を救う力はない。その力を持つには武士になるのしかない。それが七郎の本心だったのではないか。隆慶一郎氏『捨て童子松平忠輝』より 節季候 (せきぞろ) 「世良田二郎三郎元信は、ものごころのついた時は府中(後の駿府、今の静岡市)の宮の前(みやのさき)町にいた。・・・父母ともに死んだわけではなく、父は加持祈祷を世すぎとして旅から旅を重ねる漂泊の徒であり、母は自分を産むとすぐ、他家へ嫁ついでいったという。・・・ 宮の前町というのは、ささら者の住む町だった。ささら者とは本来説教師である。この説教とは説教節である。『山椒大夫』や『石童丸』『百合若』などの語り物のことだ。 祭りの日などに、寺社の境内や門前で、竹の先を細かく割った『ささら』をじゃらじゃらすり鳴らしながら、この説教を語る者を説教師といい、『ささら者』という。もともとは祭りから祭りを追って諸国をわたり歩く漂泊の芸人だったのが、いつ頃からかこの町に定着するようになったらしい。 一所に定着しては、説教師だけでは喰ってゆけない。だから、この宮の前町の『ささら者』たちは、今川時代から牢番をつとめたというし、また灯心、付木などの専売を許されていたという。 歳の暮になると『ささら者』の女たちは、笠の上に裏白の葉としめ飾りをつけたものをかぶり、八寸の破竹を叩きながら『節季候(せきぞろう)』という次のような唄をうたって市中を歩き、銭を集めたという。 さっても、めでたい、節季候、御佳例替わらず、檀那の御庭へ、飛び込め、はね込め、サッサとござれや、節季候 そんな町の子供たちが生命力が強く、敏捷で喧嘩好きなのは当然である。生き残ってゆきにはしぶとさしかないのである。・・・」隆慶一郎氏『影武者徳川家康』より 「国松(二郎三郎の幼名)が人買い又右衛門に売られた先は、酒井常光坊という・・・いわゆる『願人(がんにん)坊主』である。 願人とは本来勧進聖(かんじんひじり)と呼ばれた人々のことだ。 この人々は、奈良・平安の昔から、小は一つの寺の仏像や鐘をつくるために、・・・大は橋を架け、港をつくるために、全国を行脚し、人々の喜捨を仰いで廻ったものである。だがこうして集める金の額はたかがしれている。 そのため後代になると、時の権力と手を結んで、ある時は関を設けて通行料をとり、ある時は・・・確かにこの方が早く莫大な鐘は集るが、権力と結びつくという点が、本来の勧進の意味からはずれている。・・・嘗て日蓮が 鎌倉七道に木戸を構えて銭をとりたてた良寛上人忍性(にんしょう)を非難攻撃したのもこのためだ。 しかし現実的に考えれば、莫大な金を集める者の方が世俗的な力をもつのは当然の成り行きで、やがて一匹狼的な勧進聖は卑小化し、遂に『願人坊主』などと軽蔑される境遇に落ちていった。」隆慶一郎氏『影武者徳川家康』より 「・・・『願人坊主』にはもう一つ役割があった。諸国隠密稼業、つまり情報蒐集業である。時代はあたかも戦国。・・・正確な情報は何よりも価値があった。そして情報を集めるには、この『願人坊主』のような漂泊の民が一番便利な地位にいた。 中世からこの時代にかけて、全国を漂泊してなりわいをたてて歩く多くの人々がいた。『道々の者』『道々の輩』『公界人(くかいにん)』又は『公界往来人』と呼ばれ、時に『渡り』と呼ばれたが、この人々のほとんどが『天皇供御人』(なんらかの形で天皇に奉仕する人々)か、神社の神人(じにん)、寺の寄人の肩書をもち、『諸国往反(おうばん)勝手』という特権を与えられていた。 これは敵対関係にある大名相互の土地にも自由に出入りが出来るし、関所や川、港でも、咎められることなく、金を払う必要もないという特権である。 どうしてそんなことが出来たかというと、彼等が『無縁』だったからだ。つまり俗世間とは縁を切られて、一切の利害関係をもたない、中立の人間だったからだ。 この時代、戦国大名同士の戦いの仲裁人として必ずといっていいくらい僧侶が出て来るが、それは殆どが無縁の『公界僧』である。・・・『願人坊主』にはそれほどの力はなかったが、その同類だったことに間違いはない。」隆慶一郎氏『影武者徳川家康』より 「『道々の者』の特性は、その漂泊性のほかに『上ナシ』の心であるといわれる。『上ナシ』とは自分の上に他人を認めない、自分が誰かに使われるのを好まないということだ。・・・ だから成人すると酒井常光坊も捨てた。自ら世良田二郎三郎と名乗り、純粋に一匹狼の野武士になった。当時の野武士は野盗ではない。・・・本来は傭兵である。きまった大将を持たず平時はぶらぶらしていて、いくさが始まるとどちらかに、金で傭われて槍働きをするのがそのなりわいである。」隆慶一郎氏『影武者徳川家康』より 「・・・永禄(一五六三)九月、二郎三郎の人生を一変させる事件が起こった。三河一向一揆である。・・・ 一向一揆を単なる宗教上の戦いと考えることは間違いである。・・・およそこの時期から三十数年間にわたって、一向一揆は天下を統一しようとする時の政権と執拗無残な戦いを繰りひろげることになるのだが、この戦いは、乱暴ないい方をすれば、『自由』の『統制』に対する抵抗の戦いであったということが出来る。『道々の者』の特徴は『上ナシ』の心だったと先に書いたが、当時の農民も同じ心の傾斜をもっていた。・・・検地などという余計なことをして貰いたくない。検地とは税金を取り立てるための方便だからだ。・・・土地を捨て、税金のない土地へゆくか、流浪して『道々の者』の仲間に入ってやる。・・・隆慶一郎氏『影武者徳川家康』より 「事実、この土地を捨てる行為を『逃散(ちょうさん)』といい、中世からこの頃まで、農民の国主・守護・大名に対する最も有力な抵抗の手段だったのである。 こうして『主ヲモタジモタジトスル』農民たちと、『上ナシ』を生活条件とする『道々の者』たちが、自然に集ってゆく場所はどこか。それは『(権力)不入ノ地』といわれた『公界』か、同様に世俗の権力の入らない『寺内(じない)』である。 堺の町、桑名の港などがこの『公界』に当り、摂津三島郡(現在の高槻市)の富田(とんだ)、伊勢の長島などが『寺内』になる。・・・隆慶一郎氏『影武者徳川家康』より
November 19, 2005
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キリシタン、一向門徒衆と日本中世~近世賤民(『影武者徳川家康』 マイノリティが国を治める世の中になったなら)まず、実態から。キリシタン迫害の実態「(太閤豊臣秀吉による)慶長元年(一五九六)十一月十五日の大坂及び京都におけるキリシタン逮捕が・・・この時捕えられたフランシスコ会のバテレン(宣教師)六人・・・は、日本人のイエズス会会員三人、信者十五人と共に耳を切り落とされ長崎に送られた。途中で二人増えて二十六人になった一行は・・・十二月十九日、十字架にかけられ槍で突き殺された。これがキリシタン迫害史上有名な二十六聖人殉教の図だった。」「(一六一二年)三月二十一日、徳川直轄領と有馬領に対するキリシタン禁制が下された。・・・十一年の元和九年、・・・この時処刑されたキリシタンは五十名の多きにのぼり、後に『元和の大殉教』と呼ばれている。ジョアン原主水は、火が勢いを増し、縛っていた縄が焼ききれると、大手を拡げて、さも大切なものであるかのように火を抱きこむようにし、柱と共に倒れて息を引き取ったと云う。」隆 慶一郎氏『影武者徳川家康』より 一向一揆の実態「(『道々の者』である)次郎三郎の眼から見ると、キリシタンは驚くほど一向一揆の門徒衆に似ていた。大半が貧しく、もはや現世で失うべき何物も持っていない人々。彼岸、それを門徒衆は『浄土』と呼び、キリシタンは『楽園』(パライソ)と呼んでいるが、そこへ行くことだけが幸せだと信じている人々。 そうした人々にとって、禁令は何の意味も持たない。むしろ逆効果しかもたらさない。嘗て織田信長は、狂ったように一揆の門徒衆を殺戮し続けたが、それによって何の効果もあげることは出来なかった。 何度皆殺し作戦を実施しても、一向門徒衆はしぶとく生き残り、二度三度と戦いののろしを上げたものだ。さすがの信長でさえ、最後には総赦免、つまりは一揆衆を一人も殺さないと云う誓約によって、ようやく石山戦争を終えている。 だが、それまでに何万という門徒衆が死んでいる。それも喜び勇んで死んでいる。そして信長には『殺戮者』の汚名がべったり貼りつけられた。どれほど歴史の時がたっても、決して消えない汚名である。 今、キリシタン禁令は第二の門徒衆をつくり出そうとしている。・・・」隆 慶一郎氏の『影武者徳川家康』より 『道々の者』の目にどう映ったか。キリシタン(「一向一揆の実態」と重複するので割愛) 一向一揆「(『道々の者』である)次郎三郎の半生は一向一揆の中にあった。そのくせ自分では一度も一向宗を信じたことがない。『欣求浄土厭離穢土(ごんぐじょうどおんりえど)』と思いつめたこともなかった。戦ったのはただただ人間の自由のためだ。どんな暮らしをすることも自由、どんな神を信じることも自由、漂泊も定住もまた自由という世界を維持するためにだけ戦って来た。・・・」隆 慶一郎氏の『影武者徳川家康』より ※為政者にどう映ったか。キリシタン「同じキリシタン・バテレンだが、少なくとも日本においてイエズス会とソテーロの属するフランシスコは仲が良くない。・・・イエズス会は金や生糸などの貿易や新式の武器などを餌にして、大名を味方につけ、その領国の布教権を認めさせるという・・・現世的利益によって布教を拡げてきたのである。・・・フランシスコ会はその成立からして清貧を高く唱える教団である。彼等にとって現世的利益とは病院の設立ぐらいのことだ。・・・直接貧しい民衆に医療と献身によって浸透していった。・・・」「わし(“影武者徳川家康”=“次郎三郎”=“道々の者”=“マイノリティ”)は宗門として、キリシタンは別して好きでも嫌いでもない。ただその布教の仕様が気に入らぬ。南蛮貿易と武器の輸入を餌に、大名たちをとり込み、国内に争乱を起こさせ、その虚に乗じて信者を増やそうというやり口が嫌いだ。・・・」「わしは誰がどの宗門を信じようと少しも構わないのだよ。だがそのために戦さが起こるのは困る。まして南蛮の宗門上の争いが、わが国にもたらされるのは真っ平だ。だから戦さを起こそうとする者は罰する。但し太閤のように殺すつもりはない」「そのためには逆に まつりごとの中枢にある者はいずれの宗門にも属すべきではないとわしは思う。それでなくては公正さを欠くことになる。・・・だがそのソテーロ(「わしは夢見るバテレンと違いま。自分の国でさえ、神の国とは思うとらん。自国にさえないものを、異国でうち建てようとはよう思いまへん」、「神の国を説く自由のある国を作りとうま。一方で仏の道を説く者があってもよろし。罰されたり捕らわれたりすることなく、神の国を説ける国やったら、それでええ」)というバテレンは面白そうだな。・・・」隆 慶一郎氏の『影武者徳川家康』より 一向門徒衆「一向宗の信者でもなく、死後の浄土を信じていたわけでもないのに、織田軍団との果てしないいくさを戦い抜いたのは、本来制約を嫌い、個々人の自由を求める『道々の者』の血のなせるわざだった。あらゆる職業に従事する平凡な♂♀が、誰に頭を抑えられることもなく、好き勝手に生きることの出来る『公界(くかい)』をうちたてることを願い、『上ナシ』の理想を実現するための戦いだった。その理想が石山本願寺と共に崩れ落ちた時、次郎三郎はこの世を捨てたのである。いいかえれば、その時点で♂一生の仕事は終わった筈だった。 それが今、関ヶ原合戦中の奇妙な事故のために、再び♂一生の仕事について思案する破目になっている。しかも今度は、嘗ては蛇蝎の如く嫌い憎んだ、封建領主としてである。なんとも皮肉なことの成り行きといえた。 だが『道々の者』次郎三郎にとって、一生の仕事とは『公界』を築くことしかありうるわけがない。・・・」隆 慶一郎氏の『影武者徳川家康』より (「男女」→「♂♀」、「男子」→「♂」 への変換は管理者)※『道々の者』に関する補足です。「四条河原は凄まじいまでに活気にあふれていた。・・・肩から下げた箱の上で小さな人形を操ってみせる『傀儡師』、網笠をかぶって猿に芸をさせる『猿まわし』、ささらという楽器を鳴らしながら哀調を帯びた節まわしで神仏の霊験譚を語る『説教師』、奇術を見せる『放下師』、女芸人の『歌比丘尼』、更には・・・。 これらの人々は傀儡師同様、漂泊をもって常の生活とするいわゆる『道々の者』たちである。そして彼等がこの四条河原や三条河原に集ることには理由があった。 河原は川の水次第で変るものだ。四季によって広さも変るし、洪水になれば忽ちなくなってしまう。だからこの場所には特定の持ち主がいない。・・・これは誰の物でもない土地なのである。つまりそこは人の世の法の及ばぬ自由の場所だった。・・・ 『道々の者』は決して犯罪者ではないが『上ナシ』を標榜し『主ヲ持タジ』と決意した人々である。具体的に言えば、一文の税金も払わなかったし、使役に駆り出されることも固く拒み続けてきた自由人である。天下を握り、統治しようとする為政者にとっては、犯罪者以上に怪しからぬ人種だったことになる。彼等を一所に定着させ、税金をとり、使役・徴兵に応じさせることが、歴代の為政者の変らぬ方針であり、それだけにかける圧力も強かったのは、当然の成り行きであろう。 その圧力をのがれられるのが、この河原という場所だったのである。・・・」隆 慶一郎氏の『捨て童子松平忠輝』より
November 9, 2005
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