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中世~近世の職人・芸能民は、時代小説の一部には既に登場していたのですね。 『中世職能民職種一覧 』 のTOPページ、『隆慶一郎わーるど』の管理人様からお薦め本のご紹介をいただいたのです(多謝)・・・まづ手始めにお読みになられるのなら、『一夢庵風流記』から読まれれば取っ付きやすいかと思います。その前に原哲夫氏の劇画『花の慶次』を読んでいると、さらに感情移入しやすいかもしれませんね。始めて時代小説を読むには、これがお勧め!また、隆氏の作品の全体像をまず掴みたい時には、最初の作品『吉原御免状』から読まれれば、その後の作品のモチーフが書かれているため、隆慶一郎ワールドが理解しやすいかもしれません。その後は、長篇『影武者徳川家康』『捨て童子松平忠輝』『花と火の帝』の順で読み、その間に適宜その他の短編を読む。最後に『死ぬことと見つけたり』を読めば完璧(笑)また『捨て童子松平忠輝』の漫画版もあり、原氏のタッチとは全く違い最初は違和感を覚えましたが、読み続けると横山氏のタッチがなんともいえない味を出しております。ひめださんが、果たしてどの人物に惚れたか、それが今後お聞きしたいところです(笑)・・・ 「じだいしょうせつ」なんて初めてではあるけれど、ばんがって読もうと思う。(手分けして一緒に読んでくださるような奇特な方がおられたら、ぜひメールくださいね)どんな「道々外在人」(みちみちげざいにん)、「道々の輩(ともがら)」が登場するのかだけ、先に検索してみました(←邪道)。各作品とも、日本中世史家の人とリンクしている部分が多いんだなあ・・・『吉原御免状』『影武者徳川家康』『一夢庵風流記』『捨て童子松平忠輝』『死ぬことと見つけたり』『花と火の帝』 日本の部落史家の人とはリンクするかどうか調べてみたら「本のネット通販」だけだった。なし。 ここでぐだぐだ言っていてもしょうがないですよね。本屋さんへ行ってきまーす。『全著作リスト』(資料)♪
October 17, 2005
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ミクシーのお気に入りさんがやってた「ディズニー映画占い」ワタシも遊んでみましたー♪ 結果→あなたをディズニー映画にたとえると【ライオン・キング】です。あなたには、いつも冷静な視点で物事をクールに見つめているような面があるようです。理知的で、状況をクールに判断することができるので、とても聡明な印象を人に与えるでしょう。あなたは「自分の考え」を大切にするので、ちょっと人とは変わったところがあるようです。わが道を進み、コンプレックスをバネに成長するタイプといえるでしょう。そんなあなたをディズニー映画にたとえるならば【ライオン・キング】がピッタリ!「ジャングル大帝」のパクリと言われたって、ヘコタレません!だって手塚先生が「ディズニーにパクられるなら本望だ」って思ったのですから。
October 16, 2005
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近世被差別民の芸能近世被差別民の芸能(京都を中心に) 戦後、部落史の研究の開始と同時に、被差別部落を「えた身分」の村々に限定した上での研究が始まっていったことと、部落の「近世政治起源説」が新しく登場したこととが、部落史の研究の枠を狭めたと、研究者の間でいわれている。 京都では、中世後期には声聞師系の散所の人びとが、芸能民として様々な芸能を演じていたが、江戸時代初期には全くといってよいほど居なくなってしまった。 代わって新しい芸能者の一番中心をなしたのが「祝福芸能者」だったが、これには、専業芸能者(非常に高度な技術を持っている専業の芸能者のこと。猿まわしなど。ごく少数だったと思われる)と季節的祝福芸能者(節季候、婆等、春駒、厄祓、鳥追いなど)の二通りの人たちがいた。 それ以外に、季節とは関係なく門付けなどをする芸能者、物を売るための手段として芸能を演じる香具師(やし)といわれる人たち、下級宗教者といわれる人たち、専業の能役者や歌舞伎役者など、とにかくさまざまな芸能民がいた。 猿まわしは、江戸時代の前期、京都では因幡薬師堂の近くに六人住んでいた。猿に芸を仕込み、それを飼い馴らすには相当の熟練と根気が必要であり、ある季節だけやるというわけにはいかないはずなので、専業の芸能者と思われた。 鉢叩きは、冬季の寒行念仏などの特定の宗教行事以外は、ささらや茶筅を売り歩く職業を持っていた空也堂が掌握していた下級宗教者だった。 季節的祝福芸能者は、祝福や厄祓ということに意味があるため、芸能そのものを見せるのが目的ではなく、異次元から現れたということが大切で、彼らの身分がその拠り所となったと思われる。 京都では、五条坂の北側~現在の若宮八幡の裏に役者村があった。 京都では「えた身分」的な芸能と「ひにん身分」的な芸能とが完全に分かれていたが、地方の小さい地域の被差別民は割合一緒のことをやっているところが多かった。声聞師村の人たちが千秋萬歳をやっていたり、舞々と呼ばれている人たちが、声聞師、陰陽師としての占いや暦の配りを地方では やっていた。 声聞師がやる芸能は季節的祝福芸能であるから、芸能の専業者ではなく、彼らの大部分は田畑を持っていたと考えられる。 江戸では、歴史史料によれば、綾取り、猿若、江戸萬歳、辻放下、からくり、あやつり、浄瑠璃、説教、物真似、仕方能、物読み・講釈、辻勧進と一二種類の大道芸に関しては、(芸能民はだいたい非人頭車善七に支配されていたが)浅草で見世物芸などをやる貧民層の武士階級の町人乞胸(ごうむね)に支配が認められたことがあった。これら一二種類は全部、専業芸能よりも下級とみなされ、より賤視されていた芸能ばかりであった。 つまり、乞胸は、稼業そのものは賤視されるけれども、身分そのものは賤視されない特殊な芸能者であった。非人頭車善七は、身分そのものは賤視されるけれども、稼業は乞胸のそれほど賤視されていなかった。 そして、乞胸を非人頭車善七が支配し、非人頭車善七を穢多頭弾左衛門が支配していた。穢多頭弾左衛門は、武士の姿をしていた(羽織・袴を着、刀は二本差しで、丁髷を結っていた)が、身分としては賤視の対象である「えた身分」であった。 賤民に対する賤視と 芸能というものに対する賤視と賤民的芸能への賤視を、「賤」という言葉でひとくくりにすることには問題があり、分けて考える必要がある。 穢多頭弾左衛門のいなかった京都で、非人頭車善七にあたるものが悲田院であった。京都は近世初頭に、祝福芸能などの芸能と別に、歌舞伎などの芸能が既に成立しており、争いごとはあまりおこっていなかった。 芸能が、田楽師や猿楽師という非常に限定された専業的芸能者がやっていた段階を越え、賤民が芸能に携わることによって、芸能に対する賤視が生まれていく(芸能に対する賤視はどんな社会にもある)という話が、細かな議論抜きに言われることが多い。 たしかに、芸能者や宗教者が、ともに神にかかわる、それゆえに敬されもすれば、遠ざけられもするという現実はどんな社会にもみられる。 賤視ではなくて芸能者・宗教者に対する「区別」(ほかの人と少し別に考える)は、どこの社会でも見られる。それがどういう形で賤視に変わっていくかについて、それぞれの社会の歴史的状況において細かな議論が必要である。 祝福芸などは、まだまだ宗教と芸能が未分化の状態で、たとえば異次元から神の使いか何かわからない人たちが悪いものを祓いにくるという心意伝承が非常に古くからあり、その役を誰がやるかというと、当時は「清目」の人たちが「清目」という職能の一種と考えてやるようになる、その中で「清目」の職能として定着して行った、というふうに考えられる。参考文献『近世の民衆と芸能 』 山本尚友 他 阿吽社 1989.04 補足として、『中世の民衆と芸能 』(横井清 他 阿吽社 1986.06 )で、「中世賤民史研究者の固定観念には、差別、賤視、それに伴う職業という図式がまだ頑として残っていまして・・・」「近代的な価値基準で見ているために、こんな仕事は皆いやなはずだ、だからそれが賤視につながり、賤民の存在に関わったと言いだす。そうではなくて・・・」と、研究者の方たちが自戒しておられた。 また、「打ち祓うべきけがれと認定される物体、あるいは目には見えないけれども、当時の人には確実にその実在が信じられていたもの、それを祓う人というのはやはり特定の人である。なぜかというと、その人たちはそれを全部吸収しうるが、それは一般の人にはできない。だから、ある社会が共通に打ち祓わなければいけないと思っているけがれを全部吸収し、なおかつ存立しうるという凄さ」という観点が、「単に職業とか、生きるための仕事というのを越えてあったのではないか」「中世のある時期を画期として、特定の階層、職業、集団に対する差別がしだいに明確になってくる。それ以前の段階では、清目といえども、死刑執行人といえども、極めて誇り高きものであって、その背後には神が存在するというプライドがあった」という点について、研究者が再度確認しあおうとの提起がなされていたので合わせご紹介。 「今様職人尽歌合」に描かれた「萬歳」「鳥追い」
October 14, 2005
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●『人倫訓蒙図彙』より 鉢たたき 鐘打ち 傀儡子 陰陽師 人形遣い 舞々 猿楽 猿曳き 獅子舞 の画像(“雑芸”をクリック)●「三十二番職人歌合絵巻(模本)」に描かれた職人 ●「七十一番職人歌合」に見える烏帽子 「七十一番職人歌合」に見える覆面 ●「今様職人尽歌合」に描かれた職人の画像(“新しい村”をクリック)●「七十一番職人歌合」の追加画像(“歌人歌合”をクリック)●「三十二番職人歌合絵巻(模本)」の追加画像(“中世職人”をクリック)●描かれた職人たち-絵に見る中世- 管理者は某児童館館長さんのご友人であられる長谷川賢二さんです。画像を新たに特別にupしますよとおっしゃってくれているのです・・・(感涙)
October 10, 2005
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という今朝の朝日新聞の記事は、もう読まれましたか?ワタシ自身は少々能天気かなと感じたので、染物業主さん自身のサイトを検索で当たってみました。そしたら、コチラのメルマガのページに目が留まりましたので、お時間のあるときによかったら見てくださいね。まぐまぐ“紙と美 ”より発行者 鎌田敏輝HP「料紙で彩る宮沢賢治とイーハト―ヴ」 「柿渋紙」も主として表具用を意識してつくりましたが、民芸の代表的な色です。 ただ、この色は、つい最近まで下等な色として歴史に刻み込まれてきた経緯があります。 下等な色という云い方は、実は適当ではないでしょう。本来、色に上等も下等もないからです。「柿渋」は下等な身分の標識として使われてきた歴史があるといった方が正確でしょう。 一つだけ例をあげましょう。中世の時代、京都清水坂に「犬神人」(いぬじにん)と呼ばれた人たちが住んでいました。 「犬神人」の本来の仕事は、弓の弦の行商ですが、傍ら神社や墓所の清掃、清水坂に集まる乞食やハンセン病者達の監督などをしていました。そして、「犬神人」はこれらの境遇の人たちと同じように厳しい差別を受けていたのです。当時の権力は、この「犬神人」に柿渋染めの衣を着せたのです。「親鸞絵伝」には、僧侶の後ろに控え、白の覆面をし、柿渋の衣をきた「犬神人」の姿が描かれています。 この、色による差別思想を、芸術の世界から根本的に批判したのが柳宗悦の「民芸思想」であります。 倉敷の大原美術館に所蔵されている、棟方志功の大作『茶韻十二ヶ月のうち・基督』はこの柿渋紙が基調になっている作品で、その表装も当代1,2を争う名品であります。 ※柳宗悦さんの『民藝四十年』はコチラ です。※ワタシ自身、『中世の民衆と芸能』の中の「犬神人」等のupがどうにも未消化で遅れており、本当に申し訳ありません(滝汗)。お詫びの画像はコチラ↓です(苦笑)。
October 6, 2005
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