全37件 (37件中 1-37件目)
1
さらに県道208号線「浦賀通り」を南に進むと、左手・旧住友重機械工業・浦賀工場の西門の横に「屯営(とんえい)跡の碑」案内板が置かれていた。幕末、築地新町(現在の住友重機械工業敷地内)にあった干鰯市場の一部が、幕府軍艦のための石炭囲置場となりました。明治8年この場所に水兵の基礎教育機関として「浦賀水兵屯集所」が設置され、その後「東海水兵分営」、15年には「水兵練習所」となり、18年に「浦賀屯営」と改称し、数多くの水兵を送り出しました。ここで、水兵の基礎訓練を担当した士官たちは、病気やその他の事情で海上勤務ができなくなった者があたったため「屯営は生きた士官の捨てどころ」といわれ、嫌われていました。現在、住友重機械工業の船台の下に「屯営跡」の碑が建っています と。横須賀市浦賀3丁目2−26。「屯営跡の碑築地新町と言われたこの地に、水兵の基礎教育機関として、明治五年(一八七二)、「海軍浦賀屯集所」が設置されました。その後、「東海水兵分営」、同十五年には「水平練習所」、同十八年に「浦賀屯営」と改称し、数多くの水兵を送り出しました。その事績を残すため、昭和九年に「屯営跡の碑」が建てられました。この碑の石は、日露戦争のとき、旅順口の封鎖のために沈没させた弥彦丸に使用したものが使われています。」「浦賀屯営跡」碑の写真をネットから。 この碑は、昭和十年三月に建立されたもので、表は「浦賀屯営跡」と、当時の永野修身(おさみ)海軍大将が書いた。 裏には浦賀船渠(ドック)社長、のちの逓信大臣、寺島健海軍中将によって書かれた碑文がある。 碑の礎石は花岡(こう)岩で、日露戦争の時、旅順港内の敵艦を封じ込めるため、海中に沈めた石の残り。 同社川間工場で解体した弥彦丸から取り出したもの、という。碑文には、屯営は「明治八年に設けられた」とあるが、同六年(1873)の誤りだ、といわれている。 屯営は、八年に「浦賀水兵屯集所」と改称。 十年に逸見村、今の横須賀駅裏側に東海水兵本営が新設されると浦賀は、分営となった。 その後はー時、「浦賀水兵練習所」と改称、十八年に、再び浦賀屯営となった。 「海軍七十年談」によると「病気などで海上勤務に適さない期間は、定員外となり”屯営入り”した。 『屯営や生きた士官の捨て所』とうたわれた」とある。二十二年四月に逸見村の本営が横須賀海兵団となると、浦賀屯営は廃止。 この海兵団については、「三浦繁昌記」(明治四十一年刊)に、「汽車、田浦駅を出で将(まさ)に横須賀駅に着せんとする時に、 旅客は車窓より広闊(かつ)なー郭に事業服を着たる兵士の奔走し、又は練兵するのを見るであろう。これ即ち海兵団である」と書かれている とネットから。記念碑は造船所敷地内だという。道路の反対側にあったのが「大衆帰本塚の碑」。横須賀市浦賀3丁目3−13。「大衆帰本塚」と。石碑の下部。「大衆帰本塚の碑」。大衆帰本塚の碑は、元治元年(一八六四)九月に建てられました。篆額は江戸時代後期の国学者の大畑春国が書き、碑文は浦賀奉行所与力の中島三郎助の文章と筆跡がそのまま刻まれています。碑材には、安山岩の中でも板状節理が発達した箱根産の根府川石が使われています。なお、石碑は浦賀警察署裏手にあった山の中腹あたりに建てられていましたが、平成9年の造成工事により現在の場所に移りました。「この辺りの昔の様を想うに、沢の辺の田処にして葦蟹なども住みけむからに、蟹田(蟹田川はガンダガワと言う)としも呼び初めにしやあるらん。近くは薪樵る老翁、牛飼う童も行き交う道の便り悪しき片山陰の荒野にしあれば、朝の露、夕べの煙の空しき跡を訪う人ならでは、分け入るべくもあらぬ草むらになむありける。さるを大御代の栄行くに随い、湊の賑わい弥増さりつつ、野にも山にも家居立ち込み、往くも復るも所狭くなれば、かの立ち上る煙の末の里中かけて棚引き来るを、人皆いぶせく思いわびてありしに、このひた浦の事取り給いし大久保土佐守忠董朝臣の、えも言い知らぬ思したちにて、其墓所をも煙の場をも、いと遥かなる山辺に退け、なお朽ち残れる古き骸をば皆一処に集へ埋みて、大衆帰本(またはダイシュキホン)の塚と呼ぶべし。その記をも残すべしとこと定め給いてしかば、浦人拳りて尊び会える中にも、川島平吉という者殊更にこの掟を畏み、その故由を、碑を選り据え、千年の後も忘れざらしめ、また、そこばくの桜を植え添え、昔人の魂をも慰めむとなり。あわれいみじの心知らいや頼もしのまめ心や。かく言うは、この浦賀の湊に司たちて仕えまつる。中島三郎助永胤大畑春国篆元治元年甲子秋九月」と刻まれているのだと。『碑文の概要』この周辺の昔の様子を想えば、葦蟹が遊ぶところから蟹田といい、のどかな湿地帯であった。しかし、ここにも湊の賑わいから家並みが押し寄せてきた。この開発によって傍らに眠っていた無縁仏をひとまとめにして供養しようと、時の浦賀奉行の大久保土佐守が大衆帰塚を設けることを決めた。この話を聞いた奉行所付大工棟梁の川島平吉は、奉行の決定を神妙に承り、千年後までもこの事実を伝えるためにも石碑も良い物を選び、碑の周辺には何本かの桜の木を植えて、無縁になった人々の魂を慰めようと考え、実行した。立派でたいそう嬉しい心配りであり、なんと心強くまじめな心であろうか。このように言うのは、浦賀奉行所与力の中島三郎助永胤である。その隣にあったのが「横須賀南警察署 浦賀地区交番」。令和5年4月1日から浦賀警察署は横須賀南警察署に名称が変更となったのだと。横須賀市浦賀5丁目1−1。「旧浦賀警察所」の建物は閉鎖され、正面の窓には木製板が貼られていた。「浦賀通り」案内板。「浦賀丘入口」交差点の奥に「浦賀造船所跡・浦賀ドック」が見えた。「浦賀丘入口」交差点手前のT字路の交差点を右に入ると。前方の丘の斜面に神社の姿が。ズームして。この先の石段を上り神社の鳥居へと。石鳥居が2基。ニの鳥居の扁額「荒巻稲荷」。横須賀市浦賀6丁目1。「荒牧稲荷神社」の社殿。 本坪鈴(ほんつぼすず)とその奥に彫刻。内陣には狐様そして立派な「社(やしろ)」が。「江戸時代後期に作られたとみられる小型の社(やしろ)がこのほど、五十年ぶりに持ち主である横須賀市浦賀町の荒巻町内会(長谷川文次会長)の手に戻った。これまで詳しい調査が行われていなかった社には豪華な彫刻が残っていたほか、製作直後に書かれたとみられる「嘉永五年」(一八五ニ年)と記された文書も見つかった。専門家らも「当時の浦賀を知る貴重な資料」と太鼓判を押しており、同町内会は「歴史ある浦賀の街の宝物が見つかった」と喜んでいる。ケヤキで作られた社は高さ約一・ニメートル。約百五十年前の江戸時代後期に作られたとみられ、当時の社殿の建築様式を忠実に再現している。側面には鶴に乗った仙人などを表現したと思われる豪華な彫刻も。屋根などの一部に補修された跡があるが、ほとんどが当時のままで現存している。「嘉永五年」と記された文書は京都伏見区の稲荷神社から贈られたもので、社が江戸時代末期に作られたことを裏付けている。戦後の混乱期に町内会から保管の依頼を受けた近くの太子寺の境内で五十年間にわたって奉られていたが、町内会側が存在を忘れ、”日の目”を見ることはなかった。長谷川会長らがニ月に太子寺から社の返還を受け、現在は同町内会が大切に保管している。市生涯学習課は、市民文化資産に指定されている東耀(よう)稲荷(同市東浦賀町)などの彫刻に匹敵すると評価。彫刻に詳しい市文化財専門審議会委員の上杉孝善さんも「豪華な作りは、商人の町として繁栄した当時の浦賀をしのぶ貴重な資料だ」と話す。町内会では「夢の広がる宝物。できれは一般公開をして、街の活性化につなげたい」と話している と2004年(平成16年)3月25日(木)の神奈川新聞の記事も展示されていた。「社」の写真。そして次に訪ねたのが「浦賀丘入口」交差点を右に入った場所にあった「太子寺」。「太子寺」には先程の荒巻稲荷神社の社が50年以上置かれていたのであった。「日蓮宗 太子寺」。横須賀市浦賀6丁目3−6。正面の建物は一般住宅の様な外装であった。正面には掲示板と案内板が。「今月の聖語人身は持(たも)ちがたし草の上の露日蓮聖人ご遺文『崇峻天皇御書』」=心が肝心=ハダカデバネズミは老化現象が見られない、不思議な生き物です。これこそ多くの人が望む「不老長寿」!?…かと思いますが、老化しないだけで、やがて寿命やケガで死んでしまいます。彼らの身も、私たちと同じで「草の上の朝露のように持ちがたし」なのです。私たちは健康管理に努め、検査や人間ドックなどに通「いのち」を長らえようとします。でも肝心なのは、「人身(身体)」とその使い方を左右する「心のあり方」がセットであるということです。憎しみ奪い合うか、それとも敬い譲り合うかで、世の中はまったく違ってきてしまいます。でもわかっていても自分だけの利益を考えてしまう。やられたら仕返しをする。心のあり方次第で、ささいなことが大きな争いになったりもします。まず自分自身が敬う心を持った人身を目指しましょう。◎日蓮聖人ご遺文『崇峻天皇御書』法華経・日蓮聖人の教えを熱心に信仰する四条金吾に宛てたお手紙。人間社会の中で、組織の中で、どのような心構えで行動したらよいかを崇峻天皇の故事をあげ、細やかに指南します。建治2年(1277)聖寿56歳」「太子寺太子堂の名で親しまれている日蓮宗のお寺です。昔、佐原の聖徳院で火災があり、お堂が浦賀に疎開しました。地元の人に太子信仰として敬われ荒巻の太子堂として定着しました。本堂には背中に元徳三年(一三三一)と刻まれた聖徳太子の僧形の幼年像が祀られています。この木造は浦賀水道の海から出現したといわれています。太子は仏・法・僧の三宝を説き広く仏教の布教につとめました。ものづくりの神様としても知られ職人達の信仰をあつめています。浦賀行政センター協働事業・浦賀探訪くらぶ」本堂。扁額「聖徳皇太子」。墓地を見る。本堂の裏にあった稲荷神社。「妙法三田壽九稲荷大明神」と。「安楽喜墓」と。石仏。そして「浦賀通り」まで引き返す。正面に「mamaの広場 浦賀店」。先日訪ねた「浦賀ドック」👈️リンク 内の「浦賀船渠(うらがせんきょ) 昭和20年6月 7T」と書かれたクレーンを見る。「横須賀市下水道 浦賀ポンプ場」。汚水を汚水処理場まで送る施設。基本的に汚水は自然流下って言って、高低差で流れるようになっています。ですがそうなると、汚水処理場は一番低い場所に造らなくてはならず!!。従ってポンプの圧力によって汚水を送水しているのだ。右手に「浦賀コミュニティーセンター分館(郷土資料館)」案内板。白色のツツジ。近づいて。ピンクのツツジの垣根。「浦賀ドック」越しに「西浦賀」方向を見る。そして「浦賀コミュニティーセンター分館」案内板。「浦賀コミュニティーセンター分館」。この日は訪ねなかった展示室をネットから。再び「浦賀船渠(うらがせんきょ) 昭和20年6月 7T」と書かれたクレーンを見る。バス停留所「ドック前」。「浦賀通り」から1本山側の道・「浦賀道」に入る。右側にあったのが「横須賀浦賀郵便局」。横須賀市浦賀7丁目13−16。そして再び海岸線を走る県道208号線・「浦賀通り」に戻る。先日歩いた「浦賀ドック」👈️リンク の「ドックゲート」の上部の連絡歩廊を見る。移動後にズームして。浦賀湾の対岸の「ライオンズヒルズ横須賀浦賀」。「浦賀湾」の先に房総半島の山々の姿が。再び元の山側の道・「浦賀道」に戻る。右手前方に案内板が見えた。「浦賀道浦賀道は、江戸時代に幕府と浦賀奉行所を結ぶ重要な連絡道でした。江戸幕府寛政十二年(一八〇〇)に五街道の測量図を作成し、その中に「浦賀道見取絵図」が含まれています。絵図では東海道戸塚宿から鎌倉・葉山・池上を通り、大津矢の津坂越えて浦賀に至ります。東岸のルートは、保土ケ谷宿から金沢町屋を経て武蔵と相模の国境(追浜)を過ぎると峠越えや尾根道が続き一三峠など相当な難路でした。金沢からは陸路より早くて楽な船便がよく利用されたといいます。幕末期、ペリーの黒船来航の際は大勢の武士や見物人がこの浦賀道を通ったといわれています。浦賀行政センター市民協議事業・浦賀探報くらぶ」。「浦賀道見取絵図」。江戸時代後期(天保年間の頃)の浦賀は東浦賀でおよそ2,000人の人口があった。西浦賀ははっきりした人口データがないが同じ頃の家数で比較すると東浦賀のおよそ450軒に対し西浦賀はおよそ550軒なので、東西浦賀ではおよそ4~5,000人の人口があったのだろう。「浦賀奉行所 開設300周年浦賀奉行所は2020年に開設300周年を迎えた」と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.04.30
コメント(0)
この日は4月16日(火)、2024年2月末に『浦賀ドック【世界に4か所しか現存しない造船所跡】見学と軍港めぐり YOKOSUKAクルージングツアー』👈️リンクに元同僚2人と参加し、その後にブログにアップしたが、ブログを書きながらネットで調べて見ると、訪ねてみたい場所がまだまだ多くあったので、この日に再び横須賀市浦賀に向かったのであった。小田急線、横浜市営地下鉄、京浜急行線を利用して浦賀駅に到着し散策開始。浦賀駅(うらがえき)は、神奈川県横須賀市浦賀一丁目にある、京浜急行電鉄本線の駅。1930年(昭和5年)4月1日 - 開業。1957年(昭和32年) - 駅舎を築堤上(現在地)に移転。「現在地」はここ。近づいて。神奈川県道208号線・「浦賀通り」の「浦賀駅前」交差点に出る。「浦賀駅前」交差点。横断歩道を渡ると、正面に観光案内用の絵画が並んでいた。「黒船来航 開国のまち・浦賀ペリーが率いる4隻の第船が来航し、泰平の眠りから目ざめた日本は、近代国家建設へ向かうとともに国際社会へのデビューを飾った。浦賀地域はその第一幕の舞台である。」「1853年 浦賀に黒船来航」。2014年に横須賀市立浦賀中学校(同市浦賀3丁目)の美術部が4カ月かけて描いた「黒船来航図」であると。「浦賀・鴨居地域運営協議会」から依頼を受けたもので、縦1.5m、横4m。1853年にペリーが黒船4隻を率いて浦賀に来航した際の模様を描き、アクリル樹脂絵の具で彩色した。1、2年生を中心に、2014年11月から2015年3月にかけて制作。迫力のある船体に加え、波、雲や煙の描写でも趣向を凝らした。作品から少し離れた左側には、黒船来航を受けて国の行く末を浦賀で語り合った吉田松陰と佐久間象山を描いた絵が既に掲げられており、激動の歴史の流れに思いをはせることができる一角となっている とネットから。黒船サスケバナ 👈️リンク : SUSQUEHANNA 3本マスト木造外車フリゲート 76.20m長ミシシッピー👈️リンク :MISSISSIPPI 3本マスト木造外車フリゲート 67.06m長プリマス👈️リンク : PLYMOUTH 3本マスト木造帆送スルーブ 44.96m長サラトガ 👈️リンク : SARATOGA 3本マスト木造帆送スルーブ 44.63m長黒船来航を受けて国の行く末を浦賀で語り合った吉田松陰と佐久間象山を描いた絵。「徳田屋」。 「徳田屋 鴨居中学校。東浦賀て始めて幕府の許可をえて正式に旅館を営業した家で、浦賀を訪れた武士や文化人が泊まったと記録されている。特にペリー来航の時には、佐久間象山と吉田松陰らがこれからの日本のことを熱く語った場所である。浦賀国際文化村推進協議会」「小林一茶と専福寺」 「小林一茶と専福寺👈️リンク 上の台中学校。江戸時代の俳人・小林一茶が残した日記の文化3年(1806)6月1日の記事に、東浦賀専福寺に基参に訪れたことが記されている。墓参は一茶が20数年前浦賀の地で出会った初恋の人へのものであった。その人はどんな人だったのでしようか。境内にその句碑がある。浦賀国際文化村推進協議会」「雷電為右衛門」。「雷電為右衛門👈️リンク 浦賀中学校。江戸時代から明治時代にかけて、三浦半島は相樸が盛んなところであった。とくに浦賀には、江戸大相撲の力士が度々訪れた記録がある。なかでも文化6年(1809) 6月には、江戸大相撲でも無敵を誇った雷電為右衛門が来て、東浦賀の東林寺境内て興行をしている。」そして「浦賀駅」を振り返る。「浦賀通り」を「浦賀ドック」方向に向かって進む。その先、浦賀駅から久里浜に向かう道の左側と観音崎に向かう道の右側に歴史の町浦賀を表わした十二枚の絵・「浦賀歴史絵図」がかけられていた。浦賀国際文化村推進協議会が平成十二年の咸臨丸フェスティバルのイベントの一環として作成、展示したものと。「浦賀国際文化村推進協議会の案内絵黒船来航の地 ようこそ浦賀へ 明日の浦賀をつくる会」。「ペリーとサスケハナ号」。「ペリーとサスケハナ号 浦賀小歴史絵委員会嘉永六年(一八五三)六月、アメリカ大統領の国書を持ったペリーが率いるサスケハナ号以下四隻の黒船が浦賀沖に姿を現わした。このペリー来航により鎖国政策はピリオドをうち。日本の近代はここに始まった。浦賀国際文化村推進協議会」「中島三郎丸と鳳凰丸」「中島三郎助と鳳凰丸 中島三郎助と遊ぶ会ペリー来航により、幕府は軍艦の必要性を強く感じ、浦賀奉行所の与カ・中島三郎助らに軍艦建造を命じた。安政元年(一八五四)五月、日本で最初の洋式軍艦・鳳凰丸は浦賀の地て誕生した。浦賀国際文化村推進協議会」「勝海舟・福沢諭吉と咸臨丸」。「勝海舟・福沢諭吉と咸臨丸 上の台中日米修好通商条約批准交換の使節のお供として、安政七年(一八六〇)一月、勝海舟を艦長にした咸臨丸は浦賀を出港した。福沢諭吉は軍艦奉行木村正毅の従者として乗り組んだ。日本人の手に よる最初の太平洋横断の航海であった。浦賀国際文化村推進協議会」「榎本武揚・渋沢栄一と浦賀ドック」「榎本武揚・渋沢栄一と浦賀ドック 鴨居中学校。日本で最初の洋式軍艦・鳳凰丸の建造に貢献した中島三郎助の招魂碑の除幕式の列席メンバーによって「浦賀ドック」は創設され、この中心人物が榎本武揚であった。時を同じくして、西浦賀の川間の地に同様に造船所を創ったのは明治期の大実業家渋沢栄一であった。 浦賀国際文化村推進協議会」「ヴェルニーと観音埼灯台」。 「ヴェルニーと観音埼灯台 浦賀中学校明治ニ年(一八六九)一月一日、日本で最初の洋式灯台である観音埼灯台が点灯した。開国後の条約で定められた船舶の航行安全を図るためのものであった。灯台建設には、横須賀製鉄所(後の造船所)の所長であり、技術者のヴェルニーの力によることが大きい。浦賀国際文化村推進協議会」「虎踊り」。「虎踊り 浦賀中学校美術部享保 五年(一七ニ〇)伊豆下田から奉行所が浦賀へ 移転してきた。この時下田奉行所で足軽役として廻船の船改めをしていた下田の問屋も浦賀へ移転してきた。この下田の問屋が伝えたのが「虎踊り」であった。これに当時江戸で流行していた近松門左衛門の「国姓爺合戦」 のストーリーを取り入れ、和藤内を登場させ、唐子の踊りを入れて浦賀風の 「虎踊り」が完成した。現在は六月中旬の西浦賀四丁目(浜町)にある為朝神社の祭礼の折に演じられる県の無形文化財である。 浦賀国際文化村推進協議会」「干鰯問屋」。「干鰯問屋 浦賀小学校2001年度卒業生干鰯(ほしか)とは、鰯を天日でカラカラになるまで干した物で、畑、特に綿作りの肥料としては最適なものであった。浦賀の干鰯問屋は東浦賀のみにあり、江戸時代の初期には十五軒であったが、寛永十九年(一六四ニ)に三十軒の問屋株が成立し、大変な繁盛ぶりであった。元禄五年(一六九ニ)からは灯明堂の維持管理と年間ニ〇〇両の運上金を収めるようになった。町の浮き沈みはすべてこの干鰯と関係があるほど東浦賀は干鰯一色であった。浦賀国際文化村推進協議会」「浦賀港とスペイン商館」。「浦賀港とスペイン商館 鴨居中学校徳川家康は江戸に入ると、対外貿易積極策を展開し、江戸に近い浦賀を貿易港とした。貿易の相手にはイスパニアを希望しており、フィリピンに使いを出している。この要望を受け入れて慶長十一年(一六〇六)と十三年(一六〇八)にイスパニア船が入港した。これらを契機にして浦賀には修道院や商館が建てられ、金銀島探検の任務をもったビスカイノらも浦賀に滞在した。しかし、浦賀の貿易港構想はこれ以上に発展することなく、家康の死去とともに消滅した。 浦賀国際文化村推進協議会」 ・・・つづく・・・
2024.04.29
コメント(0)
「塚山公園」の事務所・公衆トイレに立ち寄る。「塚山公園 整備・管理計画(案) ダイジェスト版」と。く塚山公園がめざす姿>◯隣接する「安針塚」と連携し、歴史や文化資源を保全し、活用する場を供するとともに、 その伝承や情報の発信を図る。◯東京湾や富士山など、高台からの景観の保全を図る。◯サクラや安針塚を中心としたイベント開催などを通じて、地域コミュニティの場を提供する。「塚山公園平面図」。北消防署「火災予防標識」設置図 と。「事務所」前からソメイヨシノとミツバツツジのコラボを楽しむ。ズームして。「お手洗い案内」の上には、可愛いリスの像が。再び「さくら谷」を見る。花畑にも様々な花々が。「見晴台」案内柱。「見晴台」からの東京湾方向の眺望を楽しむ。再び「猿島」を見る。さくら越しに右手:横須賀海軍施設 (アメリカ海軍横須賀基地)そして東京湾を。横須賀海軍施設のロナルド・レーガン停泊池そして6号ドックを見る。原子力空母・ロナルド・レーガン (USS Ronald Reagan, CVN-76) 。アメリカ海軍の航空母艦。ニミッツ級航空母艦の第9番艦である。艦名は第40代アメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガンに因み、存命中の人名がつけられた3番目の空母でもあった。アメリカの空母で唯一海外を母港としている。「塚山公園」の「さくら谷」を見ながら「塚山公園」を後にしたのであった。いたるところに案内柱が設置され、判りやすいのであった。「本町山中有料道路」の「旧料金所」を左眼下に見る。「本町山中有料道路」は2022(令和4)年3月21日から無料開放となり、神奈川県の管理となったとのこと。「横浜ランドマークタワー」方向をズームして。料亭の如き建物前の駐車場には多くの車が。次に「西逸見吉倉隧道」を訪ねた。このトンネルは『防災トンネル』として、普段は車での進入はできないとのこと。「西逸見吉倉隧道」と。横須賀の地形の特徴でもあります“谷戸”。(丘陵と丘陵にはさまれて幾条もの谷が走る。この谷あいのこと。)災害時にはこの地形が災いし、孤立する危険が。これを防ぐため横須賀市は防災トンネルを造ったとのこと。1985年昭和60年完成 全長 260m 幅 4.5mとのこと。壁面はパネルで覆われていた。そして引き返して、再び横須賀港沖に停泊する空母型護衛艦・いずも??を見る。ズームして。「社会福祉法人金良会 特別養護老人ホーム 塚山ホーム」。入所定員 155人<87.6人> ※<>内の数値は都道府県平均 入所者の平均年齢 85.4歳入所者の男女別人数 男性:34人 女性:119人 とネットから。この付近の桜はエピローグへと。先ほど覗いた「謎の巨大遺構」を再び。「たうら 観光マップ」。「横須賀市全体案内図」。「周辺案内図」。京急「安針塚駅」にあった自販機。コカ・コーラ ボトラーズジャパン株式会社は、2023年7月21日、訪日観光客向けに多言語での情報提供に対応した「おもてなし自販機」をリニューアルし、展開を開始したのだと。自動販売機デザインイメージ「歌舞伎」。今回のリニューアルでは、15種類以上のQRコード決済が利用可能となるサービス「QR de決済」機能(※)を追加し、決済手段を拡充します。また、訪日観光客の目に留まりやすいよう、ラッピングデザインを一新しました。デザインはコークレッドを基調とし、設置場所に応じた自動販売機を選べるよう日本文化を象徴する4種類のラッピングを提供します。さらに将来的には、オプションとしてWi-Fi機能の搭載も予定しています とネットから。自動販売機デザインイメージ「舞子」そして京浜急行で「上大岡駅」へ、横浜市営地下鉄を利用して湘南台駅に。そして小田急線を利用して17時過ぎに帰宅したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2024.04.28
コメント(0)
そしてようやく「三浦安針墓(安針塚)」への石段下に到着。「按針塚」案内柱。「国指定史跡三浦按針墓所在地 横須賀市西逸見町三丁目五十七番地指定面積 一三五ニm2指定年月日 大正十ニ年(一九ニ三年)三月七日三浦安針は、本名ウィリアム・アダムス👈️リンク という英国人でオランダ東印度会社が東洋に派遣した艦隊の水先案内でした。艦隊は航海中に大嵐にあい、、慶長五年(一六〇〇年)安針が乗ったデ・リーフデ号だけが九州に漂着しました。安針は砲術や航海・天文学に優れていたため、徳川家康の信任を得て幕府の外交顧問となり、江戸日本橋に屋敷、慶長十年(一六〇五年)には三浦郡逸見村に二五〇石を与えられました。また、安針は造船の知識もあり、伊豆伊東で西洋帆船を建造しました。安針は元和六年(一六二〇年)、平戸で亡くなりましたが、安針とその妻を弔うため、遺言により知行地の逸見村に供養塔が建てられました。ニ基の宝筺印塔は、凝灰岩製の右塔が安針、安山岩製の左塔が妻・ゆきのものです。 平成二十年(ニ〇〇八年)三月を五日 横須賀教育委員会」宝篋印塔の各部の名称。三浦安針墓(安針塚)への石段前から再びピンクの「ミツバツツジ」をズームして。石段下から見上げて。「ウ井リアムアダムス夫婦墳墓在於塚山絶頂」と刻まれた石碑。「史跡の永久保存1.私達は、ウィリアムアダムス、日本名「三浦按針」とその妻の墓を永久保存するため、 西歴1966年(昭和41年)に塚山公園保存会を設立して以来、清掃奉仕を継続しています。2.毎年4月には、横須賀市主催の四大国際式典である三浦按針祭が盛大に開催されます。 日英両国民の友好の証しとして、この史跡を大切にしてください。 横須賀市西逸見町 県立塚山公園保存会」さらに石段を上って行った。振り返って。ズームして。「安鍼塚碑「三浦按針墓」の手前にある石碑は大正7年(1918年)に建てられたもので、ウィリアム・アダムスの事績と墓が整備されるに至った経緯が刻まれています。アダムスは元和6年(1620年)に亡くなり、この地に墓が建てられますが、墓はその後、荒廃していたようです。明治5年(1872年)に横浜の英国人商人のウォルターズが、横浜在住の英国人向け新聞「ザ・ファー・イースト」に紹介したことで、その存在が知られるようになりました。その後、逸見の有力者であった鈴木福松(後の第2代横須賀市長)らが整備を行い、さらに日露戦争中の明治38年(1905年)には広く寄付を募り、その寄付金をもとに整備が行われ、この石碑が建立されました。」「石碑全文はこちら」とQRコードが。「安鍼塚碑正二位大勲位侯爵井上馨篆額塚者葬維廉亞達母斯氏處氏世稱安針英國堅特州紀林翰人慶長三年駕蘭舩航東洋遭颶風漂蕩五年達豐後海岸時徳川家康在大阪召見移之江戸賜邸今日本橋區安針街是也家康擢氏為譯官或顧問試命造洋形船成稱意又為砲術地理數學等師範或從事外商貿易頗有功績因賜相模三浦郡逸見村二百五十石之地為食邑元和六年四月十四日病歿氏臨終遺嘱曰吾漂來此國暖飽至今皆徳川将軍之恩也宜葬吾於逸見山巓令東面其墓可以望江戸泉下有靈永保護此都佛諡曰壽量滿院現瑞居士妻馬籠氏生二子皆夭寛永十一年七月十六日妻亦歿合葬于此佛諡曰海華王院妙滿比丘宅阯猶在村中香火院曰浄土寺傳遺物二種云明治三十八年神奈川縣知事周布君公平歎其墳墓之頽廢於寒煙荒草中與英國公使麻克竇納爾海軍大将井上男及英商惹斯倭爾太謀募金修繕之有栖川威仁親王英國亜札爾康納特親王竝賜保護令旨我搢紳富豪及英國人爭喜捨獲貮萬圓許乃用其半修墳墓擴兆域植花木置守戸名曰塚山貯其半充永久保存之費因又建碑不朽其人属余作銘銘曰 嗟安針氏 海外漂寓 有効國家 報以恩遇 義不忠恩 生死仰慕 永護江都 東面其墓 従三位勲二等文學博士三島毅撰 従六位勲五等髙島張輔書 井龜泉刻字」現代語訳塚に葬られているのは、イギリスのケント州ジリンガム出身で安針の名で知られるウィリアム・アダムスである。慶長三年(一五九八年)にオランダ船に乗り、東洋への航海中台風に遭い、五年間の漂流の後、豊後(現在の大分県)の海岸に達した。この時、大阪にいた徳川家康に召し出され、江戸に屋敷を与えられた。日本橋区(現在の東京都中央区)按針町がこれである。家康は通訳あるいは顧問として按針を取りたてた。西洋式の船の造船を命じ、安針はその意をかなえた。また、砲術、地理、数学等の師範、或いは外国との貿易に大変な功績があったので、相模(現在の神奈川県)の逸見に二百五十石の領地を与えられた。元和六年(一六二〇年)四月十四日に病没した。その際、「私はこの国に流れ着き今や大変に恵まれた生活をしている。これはみな徳川将軍の恩である。私を逸見山の嶺の東向きにした墓に葬ってほしい。そうして死後も江戸を望みこの都を永久に保護するものである」との遺言があった。戒名は寿量満院現瑞居士。妻の馬籠氏との間の二人の子供は夭逝し、寛永十一年(一六三四年)七月十六日妻もまた病没し、ここに合葬した。戒名は海華王院妙満比丘。屋敷は現在も逸見にある安針の菩提寺である浄土寺で、所縁の品が伝わる。明治三十八年、墓が訪れる人もなく荒廃していることを歎いた神奈川県知事の周布公平(すふ こうへい)が整備をした。イギリス公使マクドナルド、海軍大将井上(良馨)男爵、イギリス人商人ジェームス・ウォルタらの募金により修繕をした。有栖川威仁親王、イギリスのアーサー・コンノート親王の保護令旨により紳士、富豪やイギリス人らから二万円の寄付が集まり、これをもとに墓の拡張や修繕、花や木の植栽、墓守を置くなどの整備が行われ、塚山と名付けられた。また、これらの事業を後世に伝えるためこの石碑を建立した。※注:碑文を現代語に訳したものであり、必ずしも歴史的事実を表したものではありません。三浦安針墓(安針塚)。供養塔の脇には大きなタブの木(クスノキ科常緑高木)があり、周囲はフェンスで囲われていた。近づいて。三浦按針が亡くなったのは長崎県の平戸であるが、いろいろな出来事があり墓の所在は定かではないとのこと。そのため、ここは本来の墓ではなく供養塔であるが、大正12年(1923年)に三浦按針墓として国指定史跡となったとのこと。右の宝篋印塔がウィリアムアダムス・三浦安針👈️リンク の供養塔。按針とはパイロット=水先案内の意。磁針を見、天体を測定して船の航海をつかさどった者 と。左の宝篋印塔が妻・ゆきの供養塔。慶長7年(1602)に馬込勘解由の娘とされる、お雪(マリア)という女性と結婚し2人の子供が誕生したと。しかし、日本に漂着する前、既に結婚していたとのこと。ウィリアム・アダムスはメアリー・ハインと結婚して娘・デリヴァレンスと息子・ジョンが誕生していたと。多忙であったウィリアム・アダムスは家にいないことが多かったと。しかし彼は家康に気に入られて武士となった後も一度も帰国しなかったとのこと。一対の供養塔を左側から。再び「安鍼塚碑」を振り返って。石段を降りた所にあった石柱。「史蹟名勝天然紀念物保存法ニ依リ大正十二年三月内務大臣指定」と刻まれていた。「大正十三年六月建設」。「富士見台」に向かったが、写真を見ると通行止めではなく、駐車禁止案内であったことに気がついたのであった。「大楠山(石畳道)」案内。大楠山山頂より富士山と金時山(左端、富士山直下は矢倉岳)の写真をネットから。正面にも案内板が。「市制施行七十周年記念 横須賀風物百選 三浦按針夫妻墓墓石は、江戸期の宝篋印塔で、国指定の史跡となっています。右が按針の墓で、左がその妻の墓です。三浦按針は本名をウイリアム・アダムズと言い、1564年にイギリスのケント州ジリンガムで生まれました。少年時代の十二年間を造船工として働き、成長して海軍に入り、航海長や船長をつとめました。のちに、オランダのファン・ハーヘン会社の東洋探検船隊に加わり、リーフデ号の航海長として1598年に東洋に向かいました。慶長五年(1600)、台風に遭い、生き残った乗員二十四名と共に豊後国(大分県)臼杵に漂着しました。徳川家康は三浦按針を高く評価し、政治・外交顧問として重く用い、江戸日本橋に屋敷を、この地逸見村に二百五十石の領地を与えて厚遇しました。三浦の姓は、この三浦の地を領地としたことにより、按針の名は水先案内人を当時按針と称していたことによります。この頃の按針は、家庭的にも恵まれ、江戸日本橋大伝馬町の名主馬込勘解由(まごめかげゆ)の娘を妻とし、ジョゼフとスザンナの一男一女をもうけました。家康の亡きあとは不遇となり、元和6年(1620)5月16日に江戸の豪商木田弥次右衛門宅で病死しました。享年57歳でした。この地に供養塔が建てられたのは、「我死せば、東都を一望すべき高敞(こうしょう)の地に葬るべし、さらば永く江戸を守護し、将軍家のご厚恩を泉下に奉じ奉らん」との按針のことばに従ったものと言われています。毎年4月8日、按針の遺徳をしのび、国際色豊かな記念式典が行われます。」ここからも富士山の姿が見えるのであろうか?別のルートで「富士見台」に向かって見た。ここが「富士見台」であったが・・・。「富士見台」から引き返して、ここも別のルートで「三浦安針墓(安針塚)」へ再び。今度は「三浦安針墓(安針塚)」を先ほどとは反対側から。そして石段の上から桜をこれでもかと見下ろす。「中央広場 見晴台」へ。見晴台側の斜面にあった「かながわの景勝50選 塚山公園」碑。東屋風の建物が。「ミツバツツジ」の林を見下ろす。前方には「さくら祭」の舞台があった。何度もみたいピンクに輝く「ミツバツツジ」の花を。ズームして。名残り惜しさに。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.04.27
コメント(0)
「ウィリアムアダムス・三浦安針墓(安針塚)を訪ねる」をアップ中ですが、昨日4月25日(木)の早朝に、車で10分弱の地元の白旗神社に藤の花を愛でに車で行って来ましたので、本日はこれをアップします。境内に車を駐め、まずは境内の奥にある紫の「弁慶藤」に向かう。。ここ「相州・藤沢 白旗神社」は、奥州平泉で最期を遂げた源義経を祀る神社。伝承によれば、義経と弁慶の首は鎌倉の腰越の浜で首実検が行われた後、2つの首がここ白旗神社に飛んで来たのだといいます。正面の藤棚に紫の藤の花が満開に。1m余りの花房を幾重にもつけ見事な「弁慶藤」。「藤」の原産は日本で、本州または四国から九州の比較的温暖な気候である林に見られる。平安時代からは、観賞用として庭園でも育てられて来た。そして現代では、つる性の特性を活かして藤棚となり、公園や遊歩道でも楽しまれているのだ。これぞ「藤紫(ふじむらさき)」の色。藤紫とは、藤の花のような明るい青紫色のこと。平安の頃より女性に人気の高い『藤色』と、高貴な色の象徴である『紫』を組み合わせた色名で、藤色よりも紫みが強い色。藤紫が染め色として登場するのは江戸時代後期とのことだが、明治期の文学作品や美人画などに数多く見られることから、明治文化を代表する色名の一つといわれていると。また、「藤紫」は大正浪漫の女性を虜にしたことから「大正藤(たいしょうふじ)」とも呼ばれたのだと。左側に廻り込んで。『万葉集』にはフジを詠んだ歌が題詞を含めて28首あるのだと。次はそのうちのひとつだ。「須磨の海人(あま)の塩焼衣(しおやきぎぬ)の藤衣(ふじころも)間遠(まどお)にしあればいまだ着なれず」フジの繊維は織り上げると白い衣となったが、ゴワゴワして肌触りが良くなかった。庶民の仕事着とされたり喪服として着用された。取り上げたこの歌では須磨(すま)の浜(現・神戸市須磨区須磨海岸)で塩をつくり出すために働く漁師の作業衣とされているが、和歌を詠みながらも、まだ着心地が悪いと愚痴をこぼしているのだと。そして大伴家持(おおとものやかもち)が詠んだ歌。「わが屋戸(やど)の時じき藤のめずらしく 今も見てしか妹(いも)が笑(え)まひを」奈良時代には山野の藤を観賞用として家の庭などに移植する技術が普及していたことがうかがえると。藤の木から垂れ下がる花房が芳しい香りをあたりにただよわせ、花房のまわりに蝶やクマバチが羽音をひびかせながら乱舞している。平城の京の街中にある家の庭にはそんなフジの花が咲いていたことであろう。我が藤沢市の市の花「藤(フジ)」。そして「藤」の字を持つ名字は種類も数も多い。桜や梅ほど花の美しさが評価されない藤が、なぜこれほどまでに名字や地名に用いられているのか。それは日本人の生活文化のなかに藤が深くくいこんでいるということだ と。藤原・藤田・佐藤・武藤・近藤・尾藤・首藤・安藤・伊藤・後藤、進藤・斎藤・加藤・・と。近づいて。風に僅かに揺れて。藤棚にが2本の老木が。そして「弁慶藤」の右横にあったのが「芭蕉の句碑」。「草臥て 宿かる比や 藤の花」。貞亨5年(1688年)4月11日、『笈の小文』の道中大和八木で詠まれた句。文化2年(1805年)3月、以足建立。以足は江戸の人。別号牛文庵。碑の裏に以足の句が刻まれている。「東路や華にくるまる鈴の音」ここ藤沢で詠まれた句ではないが、ここ藤沢の「藤」にちなんで建てられたものであろう。この句は『猿蓑』にも収録されている と。「芭蕉句碑草臥て(くたびれて) 宿かる比や(ころや) 藤の花 文化ニ年建」と再び右側の藤棚。左側の藤棚。そして次に「社務所」前にある純白の藤の花「義経藤」を訪ねた。「弁慶藤」に比べて一週間ほど遅れて見頃になるのです。こちらは未だ三分咲きか?純白の藤の花「義経藤」。「義経藤」。今年の「義経藤」の開花は例年よりもさらに遅く?こちらも満開になると白房花が1m近くに。藤棚全体を撮影。神事の舞台会場。「藤沢市指定重要無形民俗文化財湯立神楽白旗神社を中心に神官により継承されている神事芸能。湯立てを伴う神楽で、湯花神楽、鎌倉神楽等の名称で、藤沢、鎌倉から三浦半島一円におよんでいる。古くは、関東一帯に分布したとされる神代神楽を源流とし、鎌倉の鶴ケ岡八幡宮の神楽男が伝承し、次第に近隣に定着したものとされる。「湯立て」という神事手法に組み込まれた神楽には品格があり、舞にも洗練されたものがある。演目は十一で打囃子、初能、御祓、御弊招、湯上、中入、掻湯、大散供、笹の舞、弓祓、最後の剣舞・毛止幾で神人共楽の内に終了する。 白旗神社神事 十月ニ八日 平成ハ年三月一日指定 藤沢市教育委員会」「おみくじ掛け」。「一の鳥居」。日本初のグラスファイバー製の「大鳥居」であると。高さ8m、幅6mの明神鳥居で、昭和59年12月に建立された。地震対策のために軽量で耐久性のあるグラスファイバーを取り入れ、建設時には新聞、テレビ、週刊誌等で報道されたのだと。向かい合うようにあったのが「源義経公武蔵丸弁慶公之像」。この「源義経公武蔵丸弁慶公之像」は2019年(令和元年)10月竣工。源義経公没後830年の「記念事業」👈リンク の一つとして建てられたのだ。「義経公・弁慶公の御首は、文治5年(1189)6月13日に腰越の浜で首実検の後、金色の亀に乗り当地に辿り着いたと伝えられています。義経公の首塚は、現在の位置より北に40メートル、当社から南に150メートルの場所にあり、その御霊は当社に祀られました。一方、弁慶公の弁慶塚は藤沢宿 常光寺内にあり、その御霊は常光寺内の八王子社に祀られていましたが、現在は塚のみを残しています。一般的に神社は南向きか東向きに建てられていますが、この八王子社に限っては、主君 義経公が祀られている白旗神社の方を向いていたため北向きに建てられていたと謂います。此度、令和御大典の嘉年と主従役儀830年の佳節を吉年とし、ここに源義経公・武蔵丸弁慶公の銅像を建立し、御霊の平安と隆昌を永年に亘り祈り奉ります。」馬に乗る「源義経公」をズームして。平安武将の大鎧を再現した見事な源義経騎馬像。鎧だけでなく、馬具・轡(くつわ)なども忠実に再現したのだと。そして「武蔵丸弁慶公」。武蔵坊弁慶が主君の義経を仰ぎ見る忠義の士の姿。拝殿への階段手前の右側には石碑が並んでいた。右側から「御大典記念 永代御供米三俵 藤澤米穀肥料商組合」と刻まれた石碑。次に「八海山大神」と刻まれた石碑。次に「御嶽大神」と刻まれた石碑。そして一番左に「三笠山大神」と刻まれた石碑。そして白旗神社のお参りに向かう。拝殿への石段。「白旗神社御祭神 寒川比古命 源義経公配神 天照皇大神・大国主命・大山祇命・国狭槌命由緒古くは相模の国一の宮の寒川神社の御分霊を祀って寒川神社と呼ばれていた。しかし、くわしくはわからない。鎌倉幕府によって記録された『吾妻鏡』によると、源義経は兄頼朝の勘気をうけ、文治5年(1189年)閏4月30日、奥州(岩手県)平泉衣川館において自害された。その首は奥州より新田冠者高平を使いとして鎌倉に送られた。高平は腰越の浦に着き、和田義盛・梶原景時によって首実検が行われたという。伝承では、弁慶の首も同時におくられ、首実検がなされ、夜の間に二つの首は、此の神社に飛んできたという。このことを鎌倉(頼朝)に伝えると、白旗明神として此の神社に祀るようにとのことで、義経公を御祭神とし、のちに白旗神社とよばれるようになった。弁慶の首は八王子社として祀られた。」歌川 広重 東海道五拾三次の内 藤澤 遊行寺藤沢は遊行寺の参詣者が多く、江ノ島への分岐点として賑わった。遠くに北条時宗の本山、遊行寺の伽藍が描かれ、その右手にある家並は道場坂の存在を示し、大鋸橋を挟んで、江ノ島弁天の鳥居がある。お参りをすませた人々が山門をでて橋を渡り、鳥居をくぐろうとしている。そして拝殿への階段手前の左側にも石碑が並んでいた。江の島弁財天道標が一番右に。道標の横には、20数基の庚申塔群があった。正面に「えのしま道」、側面に「一切衆生」「二世安楽」と刻字されていた。杉山検校が江ノ島弁財天に祈願し、成就したお礼に藤沢宿から江ノ島まで48基の道標を建てた。10基が現存し、そのうちの1基。昭和41年1月17日藤沢市重要文化財に指定された。藤沢市指定重要文化財となっている「寛文五年庚申供養塔」。「市指定重要文化財 寛文五年庚申供養塔(有形文化財)庚申信仰は十干・十二支の組合せによって、六十日に一度めぐってくる「庚申の日」に、徹夜で無病・息災・長寿を願う信仰である。「人の体内にいる三尸(さんし)虫が、庚申の夜、天に登ってその人の罪過を天帝に告げるため生命を縮められる」とする道教の教えに由来している。この供養塔の中央上の梵字は釈迦如来(主尊)、続く八字ナムアミダブソワーカーの一呪、下の梵字はここでは青面金剛を表している。猿像の脚ぼその彫刻は、江戸時代初期のものに見かけられるものである。「江の島弁財天道標(建造物)その昔、杉山検校が「多くの参詣者が道に迷うことがないように」との祈念から建てられたものと伝えられる。もとは四十八基あったといわれ、現在は十基が残存している。いずれもほぼ同型で、この道標も尖頭角柱形の三面に「一切衆生」「ゑのしま道」、「二世安楽」と刻まれており、造立者の温情がしのばれる。 昭和四十一年一月十七日指定 藤沢市教育委員会」拝殿への石段を上り参道を進む。左手に「絵馬掛所(えまかけどころ)」。「絵馬」を追う。「令和六年 絵馬」。「心願成就 絵馬」。白旗を掲げて馬上の源義経公。弁慶の姿も。「初宮詣」絵馬。「七五三詣」絵馬。「合格絵馬」絵馬。左側には義経公に纏わる「齋源義経公鎮霊碑」があった。白旗神社の御首と宮城県栗駒町半官森御葬札所の御骸、両地の魂土を合祀し、義経公の兜を象った鎮霊碑で1999年(平成11年)に建立された と。拝殿前の最後の石段を上る。「拝殿」。白旗神社がいつごろできたのかは定かではないが、鎌倉時代より以前から、相模国(神奈川県あたり)にある寒川神社の神様・寒川比古命をお祀りして、同じ名前の寒川神社と呼ばれていた。文治5年(1189)閏4月30日、源義経公は兄源頼朝から怒りをかい、追い詰められ、奥州(岩手県)平泉の衣川館において自害した。その首は奥州から新田冠者高平(にったかじゃたかひら)という者によって鎌倉に送られた。高平が、腰越の宿(鎌倉市)に到着すると、そこで和田義盛・梶原景時によって義経かどうか確認された。伝承では、弁慶の首も同時に送られ、夜の間に二つの首は、白旗川を上り、この地に辿り着いたといわれている。このことを頼朝に伝えると、白旗が源氏の旗であったことから、白旗明神としてこの神社に祀るようにと指示した。こうして義経公を神様として祀ることとなり、のちに白旗神社と呼ばれるようになった。弁慶の首は、白旗神社のそばに八王子社として祀られることになった。現在の社殿は、文政11年(1828)から7年をかけて、天保6年(1835)12月に完成した。本殿、弊殿、拝殿を連ねた典型的な流権現造り(ながれごんげんづくり)で、外壁部の彫刻は江戸時代の匠の技が光る貴重な文化財。昭和55年7月に大改修工事が行われ、平成16年2月に社殿回廊に高欄が設置されたと。近づいて。主祭神 寒川比古命(さむかわひこのみこと):相模国一宮の寒川神社の祭神。 源義経(みなもとのよしつね)共に祀られている神様 天照皇大神(あまてらすおおみかみ) 大国主命(おおくにぬしのみこと) 大山祇命(おおやまつみのみこと) 国狭槌命(くにさつちのみこと) 日本武尊(やまとたけるのみこと)扁額「忠友殿」と。「源氏の家紋・笹竜胆」が多数装飾されていた。白旗神社の幟。「寒川比古命 源義経公 白旗神社」と。寒川比古命(さむかわひこのみこと)は寒川神社の御祭神。 ・・・おわり・・・
2024.04.26
コメント(0)
「三浦安針墓(安針塚)」を目指して「塚山公園」内に入る。「塚山公園」の最高部は標高133m。見晴台からは横須賀港や横浜、房総半島の山々などが見渡せたのであった。公園の奥には「按針塚」と呼ばれる碑があった。国指定史跡のこの碑は、三浦按針ことイギリス人ウイリアム・アダムスと、その妻の墓。三浦按針は砲術や造船術、航海術などを日本に伝え、徳川家康の外交顧問としても活躍した人物。 案内柱には「さくら谷」と。「塚山公園」案内図。ピンクの場所が「さくら谷」。「港の見える丘」に向かって。正面に「管理事務所」。左下の「さくら谷」の満開の桜を楽しみながら進む。「県立塚山公園のさくら」案内板。ソメイヨシノをはじめとしてヤマザクラ・オオシマザクラなど数種類の桜、約1,000本が春に開花する と。この日は4月5日(土)、「第77回塚山公園さくら祭」が開催されていた。「按針塚」に向かってさらに進む。「県立 塚山公園」碑。公園案内がここにも。現在地はここ。「港の見える丘」の「展望デッキ」に向かって進む。「港の見える丘」の「展望デッキ」からの光景案内。遠く房総半島の山々、その手前に「猿島(さるしま)」その右手に「メルキュールホテル」「ザタワー横須賀中央(38階)」が写真右に。さらにカメラを右に追うと防衛大学校のある小原台方向が。再び眼下の「さくら谷」を。西側の「十三峠」方向を見る。「十三峠」は横須賀市の北西部、長浦町の谷戸の最奥部に位置するが、峠を越える道は尾根筋を通り、西の田浦(田浦町二丁目)の谷戸と東の逸見(西逸見町三丁目)の谷戸とを結ぶ。元の浦賀道であり、明治から大正にかけては国道に指定され、程ヶ谷(保土ヶ谷)と浦賀、また明治以降は横浜と横須賀とを結ぶ幹線道路であった。しかし、田浦・逸見の両谷戸から尾根筋への登り坂が極めて急峻であったことから、荷車等の通行は困難であった。そのため、1928年(昭和3年)に田浦-逸見間の海岸沿いにトンネルで通り抜ける道路(現在の国道16号)が開通すると幹線道路の地位を完全に失った とウィキペディアより。「十三峠給水塔」をズームして。UFOのような水色の構造物は配水タンクのようだ。残念ながら富士山の姿は雲に隠れてしまっていた。その手前に長浦町段々畑が。段々畑をズームして。桜並木の下を「展望デッキ」を目指す。「展望デッキ」に到着。「田浦港」方向を見下ろす。「田浦港」の沖合に停泊する「護衛艦」を再び。「田浦港」方向案内図。何故か気になる巨大クレーンを目一杯ズームして。再び桜を追う。そして美しいピンクの花・「ミツバツツジ」葉は3枚輪生することから、「ミツバツツジ(三葉躑躅)」の名に由来になっているのだ。今朝の我が家のツツジの花、葉です。「ミツバツツジ(三葉躑躅)」との葉の違いが解かるのです。葉は枝先に集まって互生し、大形の狭長楕円形で両端はとがる。革質で光沢のない明るい緑色。ふちは全縁で、両面に毛があるのです。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.04.25
コメント(0)
京浜急行「横須賀中央」駅から乗車し、次の目的地の「ウィリアムアダムス・三浦安針墓(安針塚)」を訪ねるために、「安針塚」駅で下車。(国による史跡指定は「安針」の字で受けている)とのこと。「安針塚」駅にあった「三浦按針 菩提寺 浄土真宗 浄土寺」👈️リンク 案内ポスター。三浦按針は、江戸時代初期に徳川家康に外交顧問として仕えたイングランド人の航海士、水先案内人、貿易家。日本名は三浦 按針(みうら あんじん)。関ヶ原の戦いの約半年前の1600年4月29日(慶長5年3月16日)、ウィリアムアダムスの乗るリーフデ号は豊後国臼杵の黒島に漂着した。家康は米や俸給を与えて帰国を慰留し、外国使節との対面や外交交渉に際して通訳を任せたり、」助言を求めたりした。またこの時期に、幾何学や数学、航海術などの知識を家康以下の側近に授けたとも言われている。家康は、アダムスの功績に対し、ここ横須賀・逸見(へみ)に250石の領地を与え、三浦按針という青い目のサムライが誕生したのであった。サムライの称号を得た最初の外国人だったのだ。 [按針塚]ウィリアム・アダムス👈️リンク は1620 (元和6 )年に長崎県平戸で亡くなると、外国人墓地に埋葬されたが、息子ジョセフは父の遺言にしたがって、横須賀にその墓標を建てた。アダムスの持念仏が安置されている横須賀浄土寺では、1840 (天保11)年の江戸時代末期までアダムスの法要が営まれていたようで、江戸屋敷があった日本橋按針町の人々が寄進した打敷(ご本尊の前机にかける敷物)が残っている。(神奈川県立塚山公園国指定史蹟)「安針塚駅」を出て三浦安針墓(安針塚)を目指して歩き始めた。横須賀市長浦町3丁目の住宅街を南に向かって進む。山を切り崩して作った道なのであろう。三浦半島では、このような起伏に富んだ土地に住宅地が広がっているのであった。横須賀市の汚水マンホール蓋。市章の周りに横須賀市の木・オオシマザクラの花と「おすい」の文字。更にその周囲を「YOKOSUKA」の文字と小さな オオシマザクラの花で囲む。坂の途中、左手にあったのが「真宗大谷派 長願寺」。横須賀市長浦町3丁目19掲示板には「暗闇の中でこそ 星が見える」と。石段を上ると正面に本堂が現れた。「長願寺」は田谷山・浄土真宗大谷派。本尊は阿弥陀如来像。創建については不明だが、新編相模国風土記稿に「不入斗村、西来寺末」とあり、西来寺の隠居寺となっていたようだ。享保元年(1716)に亡くなった春誓が中興開山といわれる と。「田谷山長願寺 再興之詩抑々当山ハ、室町時代ニ不人斗西来寺住持・頓乗師、小田原北条氏ニヨリテ法難ヲ受ケ、長浦ノ里某門徒ノ家(後ノ長願寺)ニ隠レ住ム。コレ即チ当山ノ濫觴ナリ。其ノ後頓乗師、西来寺ノ寺蹟ヲ回復ス。爾来当山ハ西来寺ノ地中トナル。故ニ、頓秉師ヲ当山開基ト為ス。昭和ニ至リ、住憎高崎文城師、西来寺ヨリ当山ヲ独立、長願寺独立第一世トナリ、ココニ当山ハ真宗大谷派宗門ノ一寺トナレリ。然レドモ、寺ノ基盤微弱ニシテ、寺内荒廃ス。独立第ニ世・高橋一蔵師、寺門ノ運営ニ苦シミ、本堂再建ノ志アレドモ、昭和六十一年一月、中路ニ遠ク逝ク。当山減亡ノ危機、ココニ極マル。ココニ至リテ、時ノ浄栄寺住持・蒲範雄師、速カニ寺務ヲ相続シ、浄栄寺ト兼務ス。浄栄寺法嗣・蒲信一、当山ノ寺務ヲ掌握、直チニ総代・世話人ヲ結集シテ、当山再興事業ニ着手ス。佛紀ニ五三七(平成六)年十一月ニ十日、本堂・常照庵(門徒会館)・庫裡ヲ落成シ、当山再典事業円成ス。其レョリ遡ルコトニ年余、熊ホ県天草光蓮寺ノ衆徒・海法龍師ヲ法嗣ニ迎へ、ココニ範蒲雄師ヲ当山中興第一世トシ、海法龍師ヲ第ニ世ト為スモノナリ。佛紀ニ五三九(平成八)年ニ月、海師法燈ヲ継承シ畢ンヌ。当山再興事業ニ就テハ、別ニ記録ヲ具フ(長願寺再典物語之也)。当山再興ニ尽力セシ人々・・・略・・・当山ハ幾多ノ門徒・有志ノ念ヨリ再興サレシ真宗弘通ノ道場、如来ノ仏法領ナリ。何人モ私スルコト能ハズ。後世ノ同朋、ユメユメ如来ノ洪思ト、先人ノ労苦ラ忘ルルコト莫レ。 佛紀ニ五三九(平成八)年ニ月四日 浄栄寺佳持 釋信惠(蒲 信一)」。扁額「長願寺」。本堂の「殿鐘」。これが鳴り出すと、「そろそろ法要がはじまるよー」という合図になるのだ。「常照庵」は門徒会館 と。本堂裏の墓地。歴史を感じさせる石仏の姿も。枯山水風の庭。さらに南に進むと「東京電力パワーグリッド(株) 横須賀変電所」の駐車場の先の山裾にあったバリケードで閉ざされた「大きな穴」。Google MAPには「謎の巨大遺構」と。横須賀市長浦町3丁目。穴の中を覗き込む。側面は岩肌が、天井はコンクリートで粗仕上げが?その先は行き止まり?戦時中の海軍の地下工場、地下倉庫の施設跡か?何の目的で作られた施設なのか?ご存じの方が居たら是非教えて頂きたく。「安針台地区 地区計画区域」案内図。低層住宅、中高層住宅、住宅商業複合、公共公益施設と地区計画が出来ているようであった。そして「謎の巨大遺構」の西側にはユニークな公園・「長浦3丁目第二公園」があった。背中の大きな「帆」が特徴の、アメリカで発見された哺乳類の祖先「盤竜類・ディメトロドン」の姿に圧倒されたのであった。「ディメトロドン」は系統的には哺乳類を含む単弓類の原始的な動物で、恐竜ではありませんとネットには。実物大なのであろうか?FRP製?のようであったが。「東京電力パワーグリッド(株) 横須賀変電所」。その先、雑草の生い茂る山裾の細い石段の先にあった「長浦稲荷社」。横須賀市長浦町3丁目24−24中央に小さな石祠。そして「三浦安針墓(安針塚)」に向かって引き返す。「横須賀市の雨水マンホール蓋」。デザインは市の花「ハマユウ」。高層マンション群を見ながら坂道を上って行った。横須賀市安針台16付近。ピンクの「シャクナゲ(石楠花、石南花)」の花。近づいて。ピンク、赤、白、黄など変化に富んだ花色と、大きく豪華な花房は、ほかの植物を圧倒する美しさなのであった。左手奥の高台にあったのが「社会福祉法人金良会 特別養護老人ホーム 塚山ホーム」。高層マンションがさらに建設中であった。「コモンヒルズ安針台 Ⅰ番館・Ⅱ番館・Ⅲ番館」。京急「按針塚駅」から6~700mの高台にあるマンション群。そして「安針台第2公園」への石段を上る。公園入口では、小鳥の像のついた車止め・「ピコリーノ」が迎えてくれた。可愛い小鳥に近づいて。ベンチでしばしの水分補給。オオシマザクラ?近づいて。ショートカットをしようと、さらに石段を上って行き振り返って。先日訪ねた横須賀本港を見る。護衛艦の姿が。 ・・・つづく・・・
2024.04.24
コメント(0)
横断歩道を渡りながら、次に訪ねた「清雲寺入口」案内柱を見る。横須賀市大矢部5丁目7~8の境の住宅街の狭い道を進む。バス通りから坂道を登って行くように向かった。グルッとした形状が昔からある旧道っぽい雰囲気。『横須賀こども風土記』(以下風土記)にこの辺りを「クリヤマ」と云うと。「クリヤマのクリとは住職やその家族の居間を意味する庫裏のことでしょう」とあったので、現在の清雲寺は往時の庫裏部分に建てられているようであった。「横須賀風物百選 清雲寺滝見観音像」と。横須賀市が市制施行70周年(1977年)を記念して「横須賀風物百選」を制定したと。「国指定重要文化財 木像観音菩薩像」案内板。下部には「清雲禅寺」と。近づいて。「国指定重要文化財 木像観音菩薩像 一躯(く)神奈川県横須賀市大矢部五ー九ーニ〇 清雲寺本体像高 六一・八センチメートル平歳一〇年(一九九八年)六月三〇日指定この観音菩薩坐像は、その形状形態から南宋時代に中国の江南地方で製作されたものと考えられます。材質は中国産の桜材とみられ、体部は像内に空間ができるように正面材と背面材を貼り合わせ、底板(亡失)をはめる箱組式の構造です。頭部は一材であり、瞳はガラス様の玉が裏からはめられています。地髮、肩上の垂髮および胸飾は練物が貼り付けられています。表面はかつて、漆塗りで全身が淡紅色の地色で被われ、衣部は顔料や金により文様が施されていたと思われますが、現在ではほとんど剥落しています。この像は右ひざを立て左ひざを垂下させたくつろいだ姿勢、面長で鼻梁が細い顔だちなど、妖婉さを漂わせる印象があります。このような像は中国では、五代頃より盛んに作られました。それらは景物や付属品等により水月観音、楊柳観音等と呼ばれます。この像も、滝見観音と呼ばれ親しまれています。また、その作風の特色や技法などが京都泉涌寺の観音菩薩坐像(楊貴妃観音)と同一であり、両者の関係が彫刻上の興味に留まらず歴吏的な関孫が想像されます。この像がこの地にもたらされたのは、その製作年代から三浦氏が領主であった時代で、三浦氏が減亡した宝治元年(一ニ四七年)以前と考えられます。一三世紀後半から鎌倉を中心とする周辺で製作された像に、宋彫刻の影響が見られるのは、この像がもたらされた時代背景によるものと思われます。この観音菩薩坐像は、東国に宋文化を伝え芽生えさせたことを語る代表的作例の一つです (南宋時代 一一ニ七~一ニ七九年) 平歳一一年(一九九九年)一〇月 横須賀市教育委員会」「三界萬霊(さんがいばんれい)」の慰霊碑(左)と「唐佛瀧見観世音菩薩」碑(右)。山門に向かって進む。「清雲寺」案内図。ズームして。掲示板には「よわねをはくな くよくよするな なきごとをいうな うしろをむくな坂村真民「七宇のうた」より」「木像 毘沙門天立像所在地 横須賀市大矢部五丁目九番ニ十号所有者 宗教法人清雲寺指定年月 昭和三五年(一九六〇年)五月十七日この毘沙門天像は、もと当寺の本尊仏であり、寺伝によれば、建保の乱(建保元年、通称和田合戦)の折、和田義盛の為に敵の矢を受けとめたと言われ、矢請の毘沙門天と呼ばれている。像高七〇・七cmの寄木造りで、彩色玉眼入り。邪鬼の上に立ち、腰をやや左に張ってひねり、右手に宝桙、左手に五輪塔を捧げる通形の立像である。兜を別に作り頭上にかぶせ、鎧の止め金の銅板細工で戴金模様が伺われる鎌倉中期以前の優作の一体である。鬼底部及び台座の墨書銘から補修されたことがわかる。〔鬼底部銘〕 相 大矢部村大富山清雲前住 可心 再興 貞享二ニ年(貞享四年=一六八七年のこと)卯九月吉日〔台座銘〕 相 鎌倉扇之谷村ニ而 仏師 後藤左近重房 (花押) 貞享四卯ノ年八月出来為後年之書置者也平成ニ十一年(二〇〇九年)三月十五日 横須賀市教育委員会」「木像 毘沙門天立像」。「木像観音菩薩坐像現在、滝見観音と呼称されている像で、中国南宋で造られ、入宋僧や日宋貿易を担った商人らによって日本に伝わり、三浦の地には13世紀頃にもたらされたと考えられる。江戸時代には末寺円通寺(廃絶)の本尊として祀られていたが、清雲寺に移されて現在に至る。首をかしげ、面長でロ角をやや上げ微笑する表情は、生身の人間のような印象を受ける。瞳にはガラス玉を嵌める点が珍しい。岩座に坐り左足をのばし右足を立て、左手を岩座に置き、右膝に手を添える特徴的な姿は遊戯坐(ゆげざ)とも呼ばれ、日本の仏像とは異なる異国風の雰囲気がある。」「木像観音菩薩坐像」。「山門」を潜る。切妻造銅板葺で小さな袖塀を設けた山門は四脚門。山門を通して眺めた緑に包まれた境内が。正面に本堂。山門脇の覆屋に鎮座する「六地蔵尊像」。赤い帽子と刺繍が施された涎掛けがいい。「六地蔵尊像」の周囲には多くの卒塔婆が奉納されていた。「三浦為継の逸話二代目為継は後三年合戦で、源義家の陣営に加わって戦った。その際、16歳の鎌倉権五郎景正(鎌倉の権五郎社の祭神となった人物)が敵矢を右目に受けたが、矢を抜くこともなくその敵を射殺。帰陣して仰向けに倒れ込んだ影正を見た為継は、急き駆けつけ、矢を引き抜くため沓を履いたまま彼の顔を踏みつけて矢を引っ張った。これに景正は激怒。「弓を射られて死ぬのは望むところだが、なぜ生きながらにして顔を踏まれなければならないのだ!」と怒鳴りつけたのだ。為継も、非礼を詫びて膝をかがめ彼の顔を抑えて矢を引き抜いた。」本堂前、右側の石仏群。近づいて。微笑む石仏、舟形光背の地蔵尊像、右手に錫杖、左手に赤子を抱く。子安地蔵尊像?大きな頭部の錫杖を持つ地蔵尊像も。正面に本堂を見る。平安時代後期の長治元年(1104)、三代衣笠城主の三浦義継(三浦氏三代目)が父為継(二代目)の供養のために天台宗として創建した。桓武天皇の末裔である三浦氏の祖は武将・三浦為通で、康平六年(1063)、平安後期の武将で東国における源氏勢力の基盤をつくった源義家より三浦の地を賜り、三浦を名乗って衣笠城を築いた。清雲寺には、頼朝挙兵に尽力した三浦義明以前の三浦氏三代にわたる当主が埋葬されている。創建時の本尊は毘沙門天立像だったが、三浦為継が建立した円通寺(廃寺)の本尊だった瀧見観音菩薩像が、昭和初期頃に復興された清雲寺に移されて本尊に。 瀧見観音菩薩像は中国からの渡来仏、膝を立てた珍しい坐相で、南宋時代(1127~1279)の造立とされる。国の重要文化財に指定されている と。本尊の両脇には、鎌倉時代前期に運慶・快慶率いる慶派により建像された「毘沙門天立像」(県指定重要文化財)と、室町時代の「地蔵菩薩像」(市指定重要文化財)も安置されており、それぞれの時代の仏様が清雲寺に眠る数多くの御霊をお守りしているとのこと。扁額「圓通閣」。屋根には三浦氏の家紋「丸に三つ引紋」が。「三浦一族 ゆかりの地を巡る」案内板。「家の継承 ~先祖を祀るのはなぜか家を「継ぎ・伝え・興す」、これが中世の日本の人々の考え方の一つである。当時、末法思想と呼ばれる終未思想が流行したが、人々は自分の代で終わるとは考えていなかった。その彼らが最後に求めたものは極楽浄土への往生である。その管理をするのが、菩提寺だった。菩提寺は家の財産として、代々家長から家長へと継がれていく「渡り領」に含まれた。また、家族を持たながった女性、家族を失った女性を保護するのも菩提寺の役目であった。極楽への往生を願う人々は菩提寺を大切に守った。時には兄弟の中から出家し、僧侶となり家族を供養することも求められた。」境内に佇む舟形光背の千手観音菩薩像と石祠。頭上に11面をいただく千手観音菩薩像。「横須賀市指定史跡伝三浦為継とその一党の廟所昭和四十八年(一九七三年)一月十日指定清雲寺の本堂裏には、もともと三浦氏ニ代為継の墓と伝える五輪塔があったが、昭和十四年(一九三九年)に円通寺(廃寺=大矢部ニ丁目)裏山のやぐら群から初代為通、三代義継の墓と伝える五輪塔を移転し、以来、三浦氏三代の墓として祀っている。中央が為継、左右いずれかが為通、義継の五輪塔である。為通は関東平氏の流れをくみ、康平六年(一〇六三年)に源義家より三浦の地を賜り、衣笠城を築いた武将である。なお、「石造板碑文永八年在銘」および三浦九十三駒墓と伝えられる石塔群も同時に移された。横須賀市指定重要文化財石造板碑 文永八年在銘平成ニ十四年(二〇一二年)二月二十七日指定板碑とは石製塔婆のことで、この板碑は、もとは円通寺裏山、三浦氏の墳墓と伝えられるやぐら群の最上部のやぐらの傍らにあった。現在は右記の廟所の手前、切石を積んだ石室に納められている。埼玉県秩父産緑泥片岩製の武蔵型板碑で、現存地上高一三六・五cmを測る。主尊の梵字は阿弥陀種子キリークで、中央に「文永八年五月十四日左衛門小尉平盛信」、その下に次の願文を五行で刻んでいる。「右志者先考\聖霊當十三\年遠忌為成\佛得道造立/供養如件敬白」平(佐原)盛信が、亡き父(佐原光盛)の霊の十三回忌にあたり、成広し仏道の悟りを開くように板碑を造立し供養したことを記す。平成ニ十四年十ニ月 横須賀市教育委員会」本堂の脇を通って伝三浦為継とその一党の廟所に向かう。本堂右手に立ち、笠と中台に三浦氏の家紋が彫られた7基の石燈籠。「鎌倉殿の13人 三浦一族ゆかりの地 横須賀市」と書かれた幟。本堂裏の三浦氏三代の墓の五輪塔。近づいて。中央が初代為通、両側が二代為継と三代義継とのこと。三基の五輪塔の左右には、不揃いの五輪塔が並ぶが、三浦氏に従った三浦九十三騎の墓と伝えられ、文永八年銘の板碑も残されている。これらも円通寺から移されたものである。文永八年銘の板碑。ズームしたが・・。「祖~三代目の墓清雲寺の三浦一族の廟所には、三浦氏初代為通、二代為継、三代義継の墓とされる中世に遡る五輪塔が安置される。かつては、開祖である二代為継のものとされる中央の一回り大きな五輪塔のみだったが、1939年に近在の三浦一族の墓所であった圓通寺のやぐら群から、初代為通と三代義継の五輪塔とされるものが移され、三代三基が並び建つこととなった。ただし左右のどちらが、初代為通、三代義継かは判然としない。また、圓通寺跡のやぐら群からは、この他にも三浦九十三騎と伝えられる多数の五輪塔が移され、三代の五輪塔を取り囲むように左右に安置される。五輪塔は本来仏舎利塔であったが、中世には墓塔として広まった。」そして引き返して再び三浦氏の家紋の入った石灯籠7基を見る。境内に佇む舟形光背の千手観音菩薩像と石祠も再び。本堂に向かって左側に建つ庫裡を見る。「東国花の寺 百ヶ寺秋の七草 第一番 女郎花(おみなえし)の寺 清雲寺」と。東国花の寺は、関東1都6県の「花の寺」と称される寺院が集まり、平成13年3月に発会したと。再び赤い帽子とよだれかけの六地蔵尊を。山門前から本堂を振り返る。蓮華座に立ち宝珠と錫杖を持つ地蔵尊像と自然石の庚申塔「青面金剛王」(造立年不明)。そしてこの日の訪問場所を全て訪ねた後は、バス通りまで戻り解散場所の「衣笠城址バス停」に向かって進む。地中、右手に先程訪ねた「満昌寺」を見る。そして「衣笠城址バス停」で解散し、私は横須賀駅行きのバスに乗り、途中、京浜急行線に乗り換えられる「横須賀中央駅」でバスを降りたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.04.23
コメント(0)
「満昌寺」を後にして次に訪ねたのが「近殿(ちかた)神社」。「近殿神社」は、三浦氏の祖とされる三浦為通(村岡為通)から数えて第6代当主にあたる、三浦義村を御祭神として祀る神社。三浦一族の本拠地であった衣笠城やその支城の大矢部城があった場所のすぐ近くに鎮座しているのであった。神社の御祭神と言えば神話に出てくる神様と思われるかもしれませんが、こちらの神社のように先祖を祀る神社もあるのです。このような神社を「御霊神社(ごりょうじんじゃ)」と呼ぶのだ と。近殿神社の読み方は「ちかどの」「ちかた」「ちかど」と色々あるそうです。横須賀市大矢部1丁目9−3。社号標石「近殿神社」。石鳥居越しに「近殿神社」の拝殿を見る。現在の鳥居は昭和43年に奉納されたものと。「手水舎」。手水鉢には「洗心」と刻まれていた。境内にあった「町内会館」。「三浦氏の実力三浦為通の父親は桓武天皇の流れを汲む平忠通。前九年の役で武功を挙げ、源頼義から相模国三浦の領地を与えられたことから、「三浦」の苗字を名乗るようになり、義村、義澄もその流れを汲む。三浦は日本書紀に「御浦」、万葉集に「御宇良崎」と記されており、古くから「みうら」と呼ばれていたことがわかる。相模湾と房総半島を結ぶ海上交通の要衝でもあるこの地を本拠とした一族は海上交通を握る水軍を発展させた。源頼朝も北条氏も三浦氏に一目置いていた。」「由緒神社名 近殿神社鎮座地 神奈川県横須賀市え矢部一丁目九番三号祭神 三浦義村公御祭神三浦駿河守義村は、三浦氏代々の頭領三浦為通ー為継ー義継ー義明ー義澄ー義村ー奉村と続く第六代の頭領であり、当社は源頼朝を助け衣笠城で討死したと伝えられる三浦大介義明の孫に当たる義村公を祀る大矢部の総鎮守であります。明治6年6月には村社に列格し、創建は不詳でありますが、以前にはこの大矢部には近殿神社の他に、同大矢部山下834番地に祭神速玉乃男命(はやたまのおのみこと)を祀る熊野社、同大矢部山下722番地に天照天神を祀る皇大神社及び素戔鳴命(すさのおのみこと、別名、午頭天王)を祀る八雲神社とその境内社である本花之開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を祀る浅間神社及び金山彦命(かなやまひこのみこと)を祀る金之比羅神社、更に同大矢部綾子畑250番地に日本武尊を祀る貴船神社、そして同大矢部綾子畑239番地に八街比古命(やちまたひこのみこと)を祀る山頂神社と数々の神社がありましたが、大正2年(1913)9月1日一村一社という国の指令で衣笠山の衣笠神社に合祀されてしまいました。しかし乍ら世界第二次大戦後に、衣笠山では遠隔不便なため、近殿神社と他の社を元の当境内地に遷宮し、昭和22年(1947年)10月28日に再建し、昭和24年(1949年)2月10日宗教法人近殿神社の設立登記届を出し、民主的運営のもと大矢部の氏子の方々により運営されています。社殿は明治11年(1878年)に木造茅葺の社殿を再建しましたが、老朽化して去る昭和51年(976年)8月22日に改築造営して今日に至っております。 平成14年(2002年)9月 三浦大介義明公八百年幣実行委員会」 説明員の山本さんが、三浦家の家系図を出し、上記を説明して下しました。三浦氏の「家系図」を再び。狛犬(右)。この社殿前の狛犬は岡崎型。昭和52年奉納とのこと。「狛犬」(左)。正面から「社殿」を見る。2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で山本耕史さんが演じられた三浦義村を祀った神社。「社殿」に順番にお参り。内陣。義村の木像(坐高35cm)は下の写真の黒い祠の中に鎮座されていたのだろうか?社殿に向かって右側の奥には山頂神社、金刀比羅神社、貴船神社、八雲神社、熊野社、浅間神社、皇大神社の石宮が境内に祀られていた。石祠群の前には歴史を感じさせる狛犬の姿が。「石宮の由緒こ々に鎮座する八つの石宮は大矢部にあった神社で、その由来については石段下右側の由緒書をごらん下さい。石宮の図山頂神社 貴船神社熊野社 皇大神社金刀比羅神社 八雲神社浅間神社 近殿神社の境内社」それぞれ、山頂神社は八街比古命(やちまたひこのみこと)、貴船神社は日本武尊命(やまとたけるのみこと)、熊野社は速玉之男命(はやたまのおのみこと)、皇大神社は天照大神(あまてらすおおみかみ)金刀比羅神社は金山彦命(かなやまひこのみこと)、八雲神社は素戔嗚命(すさのおのみこと)、浅間神社は木花之開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)、が祀られているのだ と。どの石宮がどの神社のものか??案内板はなく、数も合わない!?歌川国芳 作「宇治川先陣」。「宇治川先陣」(うじがわせんじん)を描いたのは、「歌川国芳」(うたがわくによし)。歌川国貞、歌川広重と共に、歌川派の三巨匠と言われた人物で、武者絵が得意でした。 本合戦浮世絵は、平安時代の軍記物語「平家物語」に登場する「宇治川の戦い」がモチーフ。1184年(寿永3年)、「源頼朝」(みなもとのよりとも)は叔父である「木曽(源)義仲」(きそ[みなもと]よしなか)を討つことを決意します。そのとき、活躍したのが、3人の武将。画面左の「畠山庄司重忠」(はたけやましょうじしげただ)は、実は宇治川に先陣(せんじん:いちばん乗り)をしたのですが、渡河の途中で馬を射られて徒歩となり、同じく馬を射られた「大串重親」(おおぐししげちか)を助けるはめに。次に表れたのが、画面右側の「梶原源太景季」(かじわらげんたかげすえ)。しかし、画面中央の「佐々木四郎高綱」(ささきしろうたかつな)は、頼朝からいちばんの名馬「生唼」(いけづき)を拝領していたため、何としても1番乗りになりたいと、景季に馬の帯が緩んでいると知謀を働いて出し抜き、ついに先陣を切るのです。猛者揃いで英知にあふれた頼朝軍の様子を伝える、見事な1枚です とネットから。名馬「池月」の姿の写真。「源頼朝に献上された名馬である。頼朝の所有する代表的な名馬に生食と磨墨(するすみ、cf. 磨墨塚)の二頭がおり、梶原景季は頼朝に日頃から欲しいと思っていた生食を所望したところ、頼朝は磨墨ならばと同馬を与えた。ところが、後日、頼朝は生食を簡単に佐々木高綱に与えてしまった。のちに宇治川の戦いでは生食を駆る高綱が、磨墨を与えられた梶原景季と先陣争い(宇治川の先陣争い)を演じ、栄誉を勝ち取っている。生食(および、生唼)は生き物をも食らうほどの猛々しさ、池月は池に映る月に由来することから、立場の違いに起因する異字と考えられる。」とウィキペディアより。この地・大矢部の歴史に関する様々な本や写真集が紹介されていた。境内にあった「薬王寺旧跡」まで140mとの案内板。中央に四角い穴の開いた礎石があった。「「浅間神社」幟旗(のぼりはた)の礎石についてここに展示の礎石は、「浅間神社」の登山口に設置されていた幟旗(大矢部では幟と呼んでいた)の礎石で、お祭りのときなどには中心の四角い穴に丸太を立て、丸太に幟を通して高く掲げたものです。浅間神社登山口の左右にありましたが、展示の礎石は浅間神社に向かって右側に設置されていたもので、左側は失われました。大矢部の各神社にはこのような幟の礎石が数多くあったと思われますが、開発などにより失われ、ここに移した浅間神社のものが最後の一基と考えられます、大矢部の貴重な歴史遺産として後世に伝えたい遣産のひとつです。 註・・・浅間神社は、大矢部村民が「センゲン山」と呼んでいた山の項上にありましたが、 現在は横~横道路内になっています、昔は大矢部村の総鎮守社でしたが、享和年間 (1801~1803)に総鎮守社を浅間神社から近殿神社に替えた事が大矢部の古い文書に 書かれています。浅間神社の幟は比較的小さいものだったようですが、大幟と呼はれた幟は並外れて大きく、立てるのに苦労したと聞いています、礎石も当然並外れて大きいものだったと考えられます。 以上 平成ニ十一年三月吉日」そして崖下の横須賀市大矢部1丁目の道を「薬王寺跡」に向けて歩いて行った。その先、左側にあったのが「薬王寺旧跡 三浦義澄公👈️リンク 墳墓」。「横須賀市指定史跡 薬王寺旧跡 所在地 横須賀市大矢部一丁目二一六 所有者 満昌寺薬王寺は仏頂山と号し、建暦2年(1212年)、鎌倉幕府の侍所別当であった和田義盛が父杉本義宗や叔父三浦義澄の菩提を弔うため創建したものと伝えられるが、明治9年(1876年)頃廃寺となった。もとの本堂跡はここより東南の位置にあったという。石塔群のうち凝灰岩製の方形石を三重にした石塔は、義澄の墓と伝えられている。最下石の四方には胎蔵界の種子が配され、ニ層及び三層石の上方には納骨穴様のものが穿たれている。これら石塔群は、当地出上の元応2年(1320年)銘の双式板碑(市指定重要文化財・満昌寺蔵)とともに薬王寺の歴史を裏付ける貴重な存在である。 令和4年(2022年)七月 横須賀市教育委員会」そして、石塔群のうち中央の、凝灰岩製の方形石を三重にした石塔は、義澄の墓と伝えられている。本尊の薬師像は満昌寺に移され義澄の五輪塔だけが残されているのであった。さらに近づいて。最下石の四方には胎蔵界の種子が配され、ニ層及び三層石の上方には納骨穴様のものが穿たれているのであった。「改修記念碑維時 昭和五十六年十月二十五日三浦荒治郎義澄公墳墓施主三浦大介義明公八百年祭実行委員会」三浦義澄の墓の脇には、複数の石仏や石塔などが残されていた。多くの古そうな五輪塔も脇に。「三浦荒次郎義澄之墓」?と刻まれた石碑。その横にあった木製の小祠。内陣。「薬王寺旧跡」の先の路地を広い道へ向うと右から別の道がY字に交わる角に、上部を伐採された大木の根本に大きな石があり、この辺に薬王寺の山門があったとのこと。寺の大きさが伺い知れるのであった。薬王寺山門の「駒繋ぎ石(こまつなぎいし)」。各武将がこのお寺にお参りする時、馬の手綱を繋いだとされる石とのこと。土地の人は「こまどめの石」ともいっているとのこと。手綱をつないだところに磨り減った跡が見えた。近づいて。小さな碑には「薬王寺山門駒繋石」の文字が刻まれていた。手前にも石碑が。横須賀市大矢部二丁目地内の現「海上自衛隊大矢部弾火薬庫」敷地内に円通寺が 所在していた。天保十年(1839 年)にお堂が村民に売り払われ、廃寺となったため、詳細な場所は特定できていないと。 中世以前の宗派は不明ですが、江戸時代後期には臨済宗円覚寺末の清雲寺の末寺となっていたようだ。本尊は現在「清雲寺」にある国指定重要文化財の「木造観音菩薩坐像(通称「滝見観音」)」であったとされている と。 「円通寺と深谷やぐら三浦一族のやぐら群を残す貴重な谷円通寺と深谷やぐら初代三浦為通開基と伝わる円通寺の跡地。為通、為継、義継の供養塔が祀られていたという。谷の山肌には「やぐら(鎌倉時代中期に作られたお基)」が掘られ、三浦一族の墓所とされていたと思われる。しかし、江戸時代に廃寺になり、五輪塔などの石塔や、本尊であった観音菩薩像(滝見観音)は清雲寺に移された。その後は、軍の弾薬庫として接収された。そのため開発を免れ、当時の地形を残す三浦一族の貴重な遺跡です。」と頂いた資料から。 出典 新編鎌倉誌ここが「円通寺跡」。緑の場所が現「海上自衛隊大矢部弾火薬庫」横須賀市大矢部2丁目。そしてさらに進むと広い大きな道路に出た。衣笠IC方向に歩を進めると、道路の反対側・横断歩道の先には、次に訪ねた寺・「清雲寺」の入口案内柱があった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.04.22
コメント(0)
「満昌寺」の「御霊神社宝物殿」の見学を終えて、「御霊神社宝物殿」の裏・北側にあった「三浦義明廟所(三浦義明の墓)」を訪ねた。「義明公墓」と書かれた案内板。ここにも「三浦義明坐像」案内板があった。「満昌寺の鎮守御霊明神社のご神体として祀られる三浦義明像。巾子冠をかぶり、袍と指貫を着けた東帯姿の等身の像である。首柄に1194年の墨書銘があるが、近世に書き加えられたものらしい。江戸時代の地誌『新編相模国風土記稿』や松平定信が全国の宝物を調査させた『集古十種』にも図が掲載され、当時すでに著名な像だったことがわかる。中世の武士の肖像彫刻は、烏帽子をかぶり強装束を着けたものが多いが、本像は衣冠束帯の姿であらわされる点が珍しい。鎌倉幕府の草創の立役者として神像に近い意識で造られたのかもしれない。」「三浦義明坐像」。「三浦水軍」案内板。「三浦半島を本拠地とする三浦氏は、三浦半島の丘陵地帯を馬で自在に駆け回る馬術と、東京湾・相模湾で船戦のできる水軍の両方に習熟しており、騎馬武者と水軍を兼ねた家として発展した。治承・寿永の内乱の最後の合戦となる壇ノ浦合戦(1185年)で、三浦水軍は源義経率いる追討使の第一陣を務めた。『平家物語』には、平氏の水軍と三浦水軍の違いが書かれている。遠くの的に正確に当てるのは、平氏の方が優れていたようだ。瀬戸内海の戦いを見ても、遠矢は必要な技術だったのであろう。一方、三浦水軍は、接近戦になると正確な弓を射ており、駒馬武者の弓術に近いものがある。和田義盛も、軍船の弓戦では勝ち目がないと判断し、小舟で接近し、相手を正確に射落とす戦い方をした。」この石碑には「嗚呼○烈三浦大介公之○域」「義明の最期衣笠城は、三浦一族の本拠地としてくられた大きな山城である。衣笠城に籠ると決めた時点で、義明は戦に勝てないと判断した。一族の者が「籠城するのは怒田(ぬた)城がよい」と進言したのに対し、自分の命を頼朝に対して高く評価させることを考え、三浦氏の本拠地の衣笠城を死舞台に選んだ。それ故、後を託す者には、ほどほどの段階で脱出を命じている。畠山重忠も、衣笠城を攻め落としたことで名誉を回復したと満足し、引き上げていった。」「伝三浦義明公墓」。市指定史跡指定年月日:昭和48年(1973年)1月10日三浦義明は、治承4年(1180年)源頼朝の旗上げに呼応し平氏側と合戦したが、8月27日に衣笠城で討ち死したといわれる。墓域周囲の土塀は、寛延2年(1749年)に三浦志摩守等三浦同族の修理により、中に義明の墓といわれる宝篋印塔を中心に、右側に五輪塔、左側に板碑の三基が並び置かれている。五輪塔は、総高70cmの凝灰岩製で鎌倉末期の型式をとる。水輪上部には納骨穴が穿たれ、空風輪は後補である。宝篋印塔は、総高82.8cmの安山岩(伊豆石)製で、鎌倉末期~室町期の型式をとる。九輪と基台は後補である。四面に金剛界四佛種子を彫る。新編相模国風土記稿に「五輪塔一基社の背後にあり、大介の首塚と言う。是を奥院と称す。」とあって、義明墓を五輪塔としているが、五輪塔が宝篋印塔にかわったのは誤記が不明である。現在では宝篋印塔を義明、五輪塔を義明の妻、それぞれの供養塔と考えるのが一般的である。板碑は、塔身高140cmの緑泥片岩(秩父石)製で、梵字(サ観世音菩薩の種子)及び銘文を刻字した薬研彫(断面がV字型の彫り)の力強さから鎌倉末期の作と考えられる。移動して。「市指定史蹟 伝 三浦義明廟所(墓) 満昌寺」。「全国から集まる子孫の思いとは減亡したかに見える三浦一族だが、支流の佐原氏によって血脈は受け継がれ、全国にその子孫が暮らしている。義明の生き様は子孫の誇りとするところであり、今も命日には各地から子孫が集まり、義明の御霊を慰めると共に感謝を捧げている。彼らの大半は義明に恥じぬような生き方をしたいと望み、その思いを次の世代へと継承している。」中央の総高82.8cmの安山岩(伊豆石)製の宝篋印塔。宝篋印塔が三浦義明の供養塔と考えられていると。総高70cmの凝灰岩製の五輪塔は、三浦義明の妻の供養塔と考えられていると。一方で鎌倉の材木座に頼朝が義明を弔うために建立したと伝わる来迎寺👈️リンクがある。義明の墓と伝わる五輪塔が安置されているのであった。板碑は、塔身高140cmの緑泥片岩(秩父石)製で、梵字(サ観世音菩薩の種子)及び銘文を刻字した薬研彫(断面がV字型の彫り)の力強さから鎌倉末期の作と考えられる。再びズームして。瓦や板などで葺いた築地塀に似ていたが。築地塀の先にあった石祠。再び「御霊神社宝物殿」を斜めから。入口には一対の石灯籠。反対側から。そして急な石段を下り引き返す。再び33体の羅漢像が並ぶ「羅漢さんの道」から。「宝物殿」入口から「羅漢さんの道」を振り返る。「満昌寺 掲示板令和六年四月ながむとて 花にもいたく 馴れぬれば 散る別れこそ 悲しけれ 花にも人にも別れあり西行法師四月八日十時~十三時 灌佛会」と。意味・・心をこめ眺めていると、すっかり桜の花に親しんできたので、いざ花が散る頃と なって別れねばならないことはまことに悲しいことだ。墓地の中へ。墓地を見上げて。「満昌寺 墓地管理規程」。駆逐艦 峯雲(みねぐも)慰霊碑。昭和13年4月30日の竣工以降、数々の戦闘に参加したが、昭和18年3月5日コロンバンガラ島クラ湾夜戦にて奮戦むなしく沈没した駆逐艦「峯雲」を慰霊する碑。平成7年3月5日、衣笠満昌寺に建立された。鮮やかな赤御影石の主碑の両翼に黒御影の碑が組み合わされたモダンな碑である。主碑高201.5cm、幅49cm、厚さ15.5cm。翼碑高107cm、幅84.5cm。(刻字)中央碑文:「駆逐艦 峯雲 大東亜戦争に於て 祖国のためと信じ 純粋な心で戦い 多くの若い命を捧げて 平和の願いをこめた思を 慰霊碑に永く残す。 平成七年三月五日 駆逐艦峯雲戦友会代表世話人 名生 正孝 建」右碑文:「駆逐艦峯雲戦歴昭和十三年四月三十日 大阪藤永田造船所に於て竣工第四十一駆逐隊編成第三予備艦昭和十四年十一月十五日 第九駆逐隊編成横須賀警備兼練習駆逐艦昭和十五年十一月十五日 第二艦隊第四水雷戦隊編成昭和十六年十二月八日 大東亜戦争参加昭和十六年十二月十日 ルソン島ビガン急襲上陸作戦昭和十六年十二月二十二日 ルソン島リンガエン上陸作戦昭和十七年一月十二日 ボルネオ島タラカン攻略作戦昭和十七年一月二十五日 ボルネオ島パリクパパン攻略作戦昭和十七年二月十日 ボルネオ島マカッサル攻略作戦昭和十七年二月十九日 ジャワ島攻略作戦昭和十七年二月二十七日 スラバヤ沖海戦昭和十七年三月三十一日 クリスマス島攻略作戦昭和十七年六月五日 ミットウエー海戦昭和十七年六月十四日 北方部隊編成アリューシャン対戦掃蕩作戦昭和十七年七月十三日 紀州沖対戦掃蕩作戦昭和十七年八月十三日 ソロモン群島ガダルカナル島挺身輸送作戦に依り外南洋部隊 編成昭和十七年十月二日 ガダルカナル島カミンボ輸送作戦昭和十七年十月四日 ガダルカナル島タサワロング輸送作戦昭和十八年三月五日 ソロモン群島コロンバンガラ島クラ湾夜戦に於て敵巡洋戦隊巡洋艦 三隻駆逐艦三隻と交戦轟沈戦死者二百八名」左碑文:「駆逐艦峯雲戦死者名簿碑 峯雲戦死者 各県別」の後に、戦死者全員の氏名が刻まれていた。墓地から満昌寺西門方向に引き返す。本堂前から「書院」方向に向かって歩く。左に「書院」、正面に「玄関」右側に「庫裡」があった。「玄関」には拝観・御朱印受付 と。書院前の枯山水の庭。書院前の枯山水の庭。「源頼朝ゆかりの願掛けパワースポットMAP」。「書院」の屏風に書かれた文字は「無闕」と師匠から。「無闕」とは欠けたところのないこと。また、そのさま。この日は訪ねなかった「素心庭」の紅葉の写真をネットから。同じく蓬莱庭も。居眠り小僧。肩にネズミが載っていた。この子のいねむりは怠惰からくるものか? それとも一生懸命に木魚を叩いて経を読む練習の疲れから来たものか? その他見る人の人生観により見方が違ってくるのだ とそして「満昌寺」👈️リンク を後にしたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.04.21
コメント(0)
「春の皿には苦味を盛れ」という言葉があります。これは春には苦いものを食べるのがカラダに良いとする、古くからの言い伝え。栄養学などなかった昔から、日本には食べるもので健康を養う「食養生」という考え方があったと。そのなかで特に大切にされていたのが、『旬の食材を食べる』ということ。自然のリズムに合わせて育まれる旬の食材には生命力がみなぎっており、食べることでそのエネルギーをカラダの中に取り込むことができると考えられてきたのだ。また、日本には豊かな四季があり、冬にはカラダを温める食材が旬を迎え、反対に夏にはカラダを冷やす食材が旬を迎える。自然界は、その季節に応じて人間のカラダに必要なものを旬の恵みとして与えてくれている。だからこそ自然に感謝しながら、その恵みをおいしくいただこうというのです。まずは、我が菜園の隅に芽を出した「明日葉(あしたば)」。名前の由来は、きょう収穫してもあすになると早くも新しい葉を出すという生命力の強さから。古くから食用にされてきており、青汁の原料としても有名。「明日葉(あしたば)」は、日本原産で、房総半島や伊豆諸島、三浦半島、伊豆半島、および紀伊半島などに自生。温暖な気候を好むため、生産量が一番多いのは、伊豆諸島で、東京都ということになる。生産量のおよそ90%を伊豆諸島が占めているのだ と。この日は天ぷらで楽しんだ。カラっと揚げたての、「明日葉(あしたば)」の天ぷらは、香りがよくて最高!!そしてこちらは、実家の竹藪の生えていた「蕗の薹(ふきのとう)」。「蕗の薹(ふきのとう)」の「とう」は「薹」と言う難しい漢字。歳をとって初々しさがなくなった感じを表すのに「トウがたつ」と言う言い回しがあるがその「とう」と。花軸や花茎のこと。「蕗の薹(ふきのとう)」は育ってしまうと固くなって食用にならなくなるんだそうで、育ちすぎて実や芽の食べ頃を過ぎたさま、これを「薹が立つ」と表現したのだと。これも天ぷらで。自然のものは香りが高く、ほろ苦さの中に甘味を感じられるのであった。そしてこれも実家の竹藪からの「筍(たけのこ)」。「筍といえばこれ!」といえるほどの、日本国内で最もポピュラーな孟宗竹(モウソウチク)の筍。鉄ノミを駆使して4本を掘って来ました。既に1mほどまで成長したものも。この日は「スナップエンドウとたけのこの煮物」で楽しみました。そしてサラダも我が農園の収穫物で。ただし、トマトは近所の農家から頂いたものです。そして我が菜園の、遅咲きの桜を愛でて。品種名は「楊貴妃」と。東京府江北村(現・東京都足立区)の荒川堤で栽培されていた品種。昔、奈良にあった名木といわれ、花色も優れた豊満な八重桜ということから、中国の楊貴妃を連想して世人が名付けたといわれます。古くから知られていた品種らしく「花壇綱目」(1681)、「怡顔斎桜品」(1758)などにもその名がみられるとのこと。2タイプの同名異品種があり、当会では江戸と類似しているタイプを楊貴妃(江戸系)としています と「日本花の会」のページから。ズームして。さらに。サトザクラの仲間で、花色は淡紅色、八重咲きで花弁の先端に細かい切れ込みが入るのが特徴。花が密につくので、木がピンクの花に覆われ、たいへん美しいのだ。 ・・・おわり・・・
2024.04.20
コメント(0)
さらに「満昌寺」の境内の散策を続けた。境内にあった「流泉しだれもみじ 平成二十七年・・」と。泉泉(りゅうせん)は画期的な枝垂れもみし。埼玉県にてイロハモミシの実生から生まれた品種です。春は黄緑色、夏は濃い緑色、秋は橙色になります。根際から枝垂れて枝が下に伸びますのて、鉢植えにして棚や石の上など、高い場所においてください。優雅な枝振りと美しい葉色がお楽しみいたたけます。また、支柱を立てて枝を上向きに誘引し、枝垂れさせたい高さに達したところから支柱無しで枝を伸ばすと、支柱部分はまっすぐ伸びたまま枝が固まり、好みの高さての枝垂れ樹形となります と。そして正面にあったのが「源頼朝公お手植えつつじ」。「源頼朝公お手植えつつじ一一九四年、当山が創建され、源頼朝公は三浦義明の菩提を弔う為に「つつじ」をお手植えされたものである。永い年月により、いつの頃かこの木の枝先に頭を人れると「頭痛持ちが治る」と言い伝えられている。 満昌寺」樹齢800年と言われるツツジに近づいて。「頼朝のお手植えのツツジ本堂前のツツジの大株は、1197年、満昌寺創建の際に、源頼朝が三浦義明の菩提を弔うためにお手植えされたものである。永い月日が経ち、いつの頃からか、この木の枝先に頭を入れると「頭痛持ちが治る」「頭が良くなる」と言い伝えられている。義明が逝って14年たった後のことであったが、頼朝は伊豆の挙兵のおりに老体をなげうち、幕府開闢の礎になった無二の忠臣義明の霊に一字を献じたかったのであろう。」「杜鵑花(とけんか)」碑。「杜鵑花」とは中国語で「ツツジの花」の意とのこと。「頼朝のお手植えのツツジ」の開花時の写真をネットから。椿・卜伴(ボクハン)に似ていたが。数寄屋や加茂本阿弥などと並んで古典椿の代表的な品種。江戸時代から命名されており別名は月光(がっこう)。蕊が白い花弁状に変化し唐子咲になり中央に切れ込みの入った花弁が二重から三重に開く非常に個性的な姿のツバキ。初めて見る椿であろうか?「九重石塔」。「地蔵堂」。ズームして。扁額「地蔵堂」。内陣の三浦地蔵尊。「本堂西「竹庭」」「亀甲竹、金明孟宗竹と山もみじ、苔を中心とした庭」と。そして「御霊神社宝物殿」、「三浦義明廟所」に向かって進む。「御霊神社宝物殿」、「三浦義明廟所」にある様々な文化財の案内板が設置されていた。「重要文化財 木造三浦義明坐像」「頼朝の挙兵と関東武士団平安未期に起きた「保元の乱」や「平治の乱」をきっかけに、源頼朝の家河内源氏が没落し、最大の武家になった平氏は政権を握った。清盛は1167年には太政大臣にまで登りつめる。平家一門は栄準を極め、全盛期を迎える。朝延内部にはこの状況に危機感や不満を抱く者も少なくなく、やがて以仁王が平氏討代の令旨を発するⅢ80年)。坂東では、以仁下の残党を捕らえるために相模国に戻るよう命じられた大庭景親と源頼朝の戦いが始まった。伊に流されていた頼朝も北条政了・の父親・北条時政をはしめとする東国武上を従え挙。石橋山の合戦が起きる。」「国指定重要文化財木造 三浦義明坐像 一躯 平成五年一月二十日指定木造三浦義明像は、満昌寺の境内にある御霊明神社に伝蔵されている。三浦義明は後三年の役で八幡太郎義家にしたがって勇名をはせた為継の孫で、治承四年(一八〇年)頼朝の平家追討の旗上げのさい源氏側に立ち、同年八月、平家勢の攻撃をうけ衣笠の地で八十九歳で戦死。その後の三浦一族の繁栄の礎となった。像は玉眼入り寄木造り、像高は八十一・四cm。両手先および両足先などは差し込み、彩色はほとんど剥落している。頭頂に冠をのせ、右に笏を持って安坐し、腰には太刀を佩く。長い顎ひげをはやした面部は、気迫のこもった老将の表情をたくみに表出する。特につりあがった目、頬から口元にかけての写実的な彫技はこの像をいきいきとさせている。制作の時期は鎌倉時代後期と推定されており、武人俗体彫刻として類例まれな等身大のこの像は、極めて貴重な存在であり、歿後、祖霊として祀られ神格化された、やや異質な武人彫像の古例としても重要である。 平成二十ニ年(ニ〇一〇年)三月一日 横須賀市教育委員会」「横須賀市指定史跡 伝三浦義明廟所 昭和四八年一月一〇日指定三浦義明は、治承四(一一八〇)年源頼朝の旗揚げに呼応し平氏と合戦し、八月ニ七日に衣笠城で討死したといわれています。満昌寺境内、御霊明神社裏手の瓦塀で囲まれているところが、三浦義明の廟所と伝えられています。廟所には宝筺印塔を中心に、右側に五輪塔、左側に板碑(観音種子)の三基が並び置かれています。廟所内手前の石灯籠は江戸時代に、義明の子孫が奉献したものです。三浦氏の墓域は五輪塔を中心としたものが多いのですが、伝三浦義明廟所では宝筺印塔が義明、五輪塔が義明の妻の供養塔と考えられています。横須賀市指定重要文化財石造双式板碑 元應ニ年庚申ニ月日在銘平成十三年一月ニ五日指定満昌寺には、伝三浦義明廟所内に立っ観音種子板碑のほかに、ニ基の碑が残されています。ニ基の板碑はそれぞれ何弥陀三尊種子、釈迦三尊種子が刻まれています。ニ基とも刻まれた年号は「元應ニ(一三ニ〇)年庚申ニ月日」であり、形も似ていることから、ニ基で一対の双式板碑であると考えられます。この双式板碑は薬王寺旧跡のやぐらにあったものですが、薬王寺が廃寺となったため、今は御霊明神社内に納められています。完全な形の板碑としては、市内最古のものです。 横須賀市教育委会」「昭和十七年八月 御靈神社 御屋根石陷修繕」。「忠○義烈」碑。「御霊神社宝物殿」に向けて急な石段を上って行った。石段の左側の「羅漢さんの庭」を楽しみながら石段を一歩一歩。羅漢さんの庭義明公廟所に至る上中下三斜面に羅漢像を安置した。三十三体の羅漢さんは釈迦の教えを受け覚者として、満昌寺の墓苑を守ってくれる。まわりに季節の茶花、草花を植栽した。皆さまに慈しんでもらえたら幸いです京都曽根造園作庭 平成ニ十六年ニ月完成羅漢さんとはお釈迦さまの弟子たちが修行するとき師を尊敬崇拝する姿を形にした像である。十六羅漢が元であるがいろいろと変化して多いものは五百羅漢がある。像の容相は様々で参拝者の皆さまと似た顔があるかもしれません。像の容相は様々。「石橋山から衣笠城合戦へ頼朝は本拠地の相模国に向かう際、伊豆の石橋山で大庭景親と合戦になった。三浦一族が大雨で増水した酒匂川を渡ることが出来ない事を知った大庭景親は、合流する前に頼朝と決着を付けようと考え、雨の中進軍し疲労する頼朝勢を夜襲で猛攻し勝利した。頼朝の敗北を知った三浦一族はやむを得ず三浦の地へ引き返す途中、鎌倉・由比ヶ浜で頼朝追討に味方した畠山重忠の軍勢と鉢合わせた。三浦氏と畠山氏は親戚である。形ばかりの合戦をして離れようと打ち合わせている最中に、和田義盛の弟の義茂が攻撃を始めてしまい、後に引けない合戦となってしまう。この状況を見た三浦義明は、畠山氏と戦いになることを覚悟した。」様々な羅漢さんの姿を見ながら、知人に似ている羅漢さんを探しながら・・・。立像、坐像が迎えてくれたのであった。そして正面に「御霊神社宝物殿」が姿を現した。「三浦義明公宝物殿」と。「御霊大明神」。「三浦義明坐像」が中央に「三浦義明坐像」。「重要文化財 木造三浦義明坐像」「頼朝と共に戦う義明の決心」三浦氏と頼朝の関係は源平合戦の約100年前にまで遡る。東北地方で「後三年の役」といわれる内乱が起きた際、源頼朝の先祖にあたる源義家が鎮圧に向かった。その時、二浦為継も参戦。大いに戦果を上げたが、朝廷は私の合戦と認定して恩賞を出さなかった。その後、源氏は衰退して分裂したので、三浦義明は婿に迎えた源義朝に協力することにした。義明が頼朝挙兵の話を聞いて喜び、一族を挙げて応援したのも、義朝・頼朝二代にわたる主君と考えたからである。「源頼朝公木像」。「源頼朝公木像 満昌寺蔵この木像は鎌倉鶴ケ岡八幡宮寺の供僧浄国院賢立から出たらしい木像の台下に「之亀之庚午十二月吉日」と記されているので、その制作年代もほぼその時代と考えられる。したがって浄国院賢立から出たとすれば模彫であろうか。頼朝公と伝えられている数少ない木像である。「衣笠城址から出土した遺物大正八年十二月衣笠城址、物見岩の下部から経筒、白磁の合子と人物型の水滴瓶、そして刀子等が写実的に描かれている。現在は、東京上野公園内の国立東京博物館に寄贈されている。」「伝三浦義明所持の刀 満昌寺蔵三浦義明が所持していた刀であると言い伝えられている。藤原時代から室町時代終わり頃までの刀身を古刀といって刀のそりが目立って強く刀身の形に鎬をもった鎬造りで、刀の銘を切るのに右側によせるのが普通だとされている。」「伝三浦義明着用鎖帷子 満昌寺蔵この鎖帷子は満昌寺境内の御霊社の傍らをほった時に出土したものであるので、これは三浦義明が着用したと言い伝えている。鉄製の鎖をいろいろな形でつなぎこれを短衣(木綿、筒袖の襦袢)に縫いつけて甲冑・鎧の下に着るものである。」「三浦義明肖像画 満昌寺蔵」。三浦義明の肖像を描いたものの中では珍しい版画に彩色したものである。そしてその肖像画の上に書かれた讃(功をほめたたえた文)は八十九才で戦死しその後十七回忌に供養されたのでその合計を百六才としている。源家再興に捧げた忠誠のあかしともいえよう。「衣笠城址古図 満昌寺蔵」。「大正八年十二月衣笠城址ヨリ発掘シタル古器物」。「く後三浦② 追加資料>三浦長門守と志摩守新井城落城時に、三浦道寸義同の2男、時綱は、長男義意の妻の実家を頼り、安房に逃れ、里貝時綱を名のる。ここから、三浦氏の後裔としての里見氏が始まり、後の紀州三浦家につながるとされるが、実証的な資料に乏しく、諸説多く、定説になりきれていないようである。一方、宝治合戦で滅亡したはずの三浦一族(佐原氏の一部を除く)も、三浦家の存続を期して落ち延びたとの説があり、三浦家村の後裔が、美作勝山城主として蘇っている。そして、それぞれの末裔が、共に江戸時代に満昌寺の復興に、また、新井城の一部に道寸親子の慰霊碑を整備している。そこで、歴史的事実・考証とは別に、三浦一族の歴史にロマンを与えるという意味で、これらの流れを紹介しては如何と者え、以下の参者資料を追加します.く三浦長門守と家康の寵愛を得たお万>1.新井城の戦い敗れた三浦氏であるが、道寸の三男、或いは、義意の長男正綱は、房総に渡り、 正木時綱を名乗り、正木氏としての地位を築いていく。2.正木氏の嫡系は、時綱-時忠-時通-頼忠-為春へと続く。3.正木氏と、里見氏との関係は複雑で、内部抗争が絶えず、正木時忠は、里見氏との抗争で、 北条氏の支援を得るため、二男頼忠を北条に人質として小田原に送る。このため、頼忠は、 十三歳からニ十六歳まで、(北条の)人質として小田原にいた。このため、岡本氏の女との間に 三男ー女をもうけた。長男、直連は早世したので、次の為春が後に家を嗣ぐこととなった。4.為春の妹は名を万といい、父、正木頼忠が安房に帰った時、母(岡本氏)と共に小田原に残った。 母は、北条氏政の家臣、陰山長門守氏広に再嫁したので、万は連れ子のような形で景山氏広に 養育された.5.徳川家康に、お万が寵せられた時、蔭山氏と称せられているのはこのためである。紀伊頼宣、 水戸頼房は陰山氏(万)の子であり、この縁で、兄、正木為春は和歌山、紀甲頼宣に仕え、 紀伊家の家老を務めることになった。後に性を三浦に復し、長門守に任ぜられた.6.為春から後は、為時-為隆-為泰-為修-為積と続き、いすれも三浦長門守と称して、紀伊 家中に重きをなした.為積は寛政十年(1798)先祖の廟に参詣のため満昌寺にきており、背後の 御霊神社に石灯籠を献上している。明治になって男爵を授けられた三浦英太部は、為積の 曽孫である。 (出典 三浦大介義明とその一族「三浦長門守と正木志摩守」の項を要約)☆為春の弟 康長は、正木左近と名乗り幕臣旗本に、子孫は千石の上級旗本となる(大塩).く三浦(正木)志摩守は、三浦義村-家村-義行の末裔>1.宝治合戦の時、三涌泰村の党が揃って自害した。ところが、泰村の弟、駿河四朗式部大夫 家村は宝治合戦のとき行方知れず」とか、「宝治の乱、逃れ去りて漂白の後、三河国に居ずに とか言われる。」2.寛政重修諸家譜では、「宝治元年六月五日、一族みな自殺の時に臨みて、泰村名族の一時 に亡むことを憂い、密かに家村に命して後裔をたもつべしとなり、家村遺訓によりて其所を遁 れさ」ったと記されている。しかし、家村の子、三浦式部三郎が、泰村とともに自害している そこで、系図では、三浦式部三郎の弟、三浦式部四郎義行の子孫が、後の三浦氏につながる こととなる。3.系図上、義行から数えて九代目の孫に三浦五左衛門正重があり、それが土井小左衛門利昌の 女を娶り、甚太郎正次を生んだという。徳川秀忠の老中として有名な土井頭利勝は、この 正次の母の兄・叔父に当たる。 徳川家光に仕えた正次は、三浦を土井に改めたが、10年後、元和9年(1623)には再び三浦姓に 復し、従五位下志摩守に叙せられている。はじめは、下総国矢作鄕で七百八十石余の采地を 有するのみであったが、度々の加恩で、最後は上野、下野等においてニ万五千石を鎖するに いたる。もって、将軍家の信任の厚かったことがわかる。4.その間、寛永10年(1633)、松平伊豆守信綱、阿部か後守忠秋、堀田加賀守正盛、阿部対 馬守重次、太田備中守資宗とともに、六人衆と称せられ、老中と共に、後の若年寄と同様の 職務に当たった。三浦志摩守正次は、寛永18年まで、8年間この職にあった. 正次の子安次は、弟 共次に五千石を分知して遺領ニ万石を領し、安次の子、明敬は、日向国 延岡城に移り、三千石を加えてニ万三千石を領した。後、再び延岡から三河国刈屋城に 移されている。5.明敬の子は明喬、その後、明喬の弟義理が嗣ぐ。 義理は刈屋から同国西尾城に移されている。 満昌寺背後の御霊神社を修補したのは、この志摩守義理が中心となっている。6.明喬の三男、明次(あきつぐ)は義理の跡を嗣ぎ、美作国勝山城に移され、そこに新城を 築いている。 (もっとも、以上の転封はあっても、三浦氏はほとんど江戸結めで、任地には、時たましか 赴いていない)。7.義理のニ男矩次(のりつく)が明次のあとを嗣ぎ、明次のニ男前次(さきつく・ちかつぐ)が 矩次のあとを嗣く、というように、三浦氏の家系と血脈とは相互に絡まっている。なお、三浦 前次は、前述の三浦為積(三浦長門守)と共に、御霊神社に石灯龍を献納している。明治の子爵、 三浦基次は、家系上、前次九代の孫である。 (出典 三浦大介義明とその一族「三浦長門守と正木志守」の頃を要約) ☆志摩守は、1代~ 3代、5代、8代が名乗り、4代毘次(てるつぐ)は、主計頭(かずへのかみ) 7代、9代、10代は、備後守を名乗っている。 ☆勝山藩は、明治2年(1869年)真島藩(ましまはん)と改称。明治4年(1871年)廃藩置県により 真島県となり、後に岡山県に編入された。 ☆三浦道寸、義意の碑の建立は、碑文から、天明12年(1782)と分かっているが、三浦長門守、 正木志摩守としか刻字されていない。 ☆正木志摩守の正木姓が、どのようにして用いられるようになったかは、現在の手持ち資料で は不明です。そして反対側の展示物。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.04.20
コメント(0)
「衣笠城跡」を後にして「太田原街道入口」交差点まで戻り、次の訪問地の「満昌寺」に向かって神奈川県道26号線・横須賀三崎線を北西に向かって進む。「衣笠城跡」の追手口跡方向を振り返る。「衣笠城址前」交差点は、「横浜横須賀道路」の「衣笠IC」の入口。さらに進むと、前方に見えて来たのが「住吉隧道」。久しぶりのオレンジ色のナトリウムランプのトンネル。トンネル内のオレンジ色の照明には、主に低圧ナトリウムランプが使用されていた。1960年代から普及したこのランプは、ガラス管にナトリウムの蒸気を封入したもので、放電によってオレンジ色の光を発する。オレンジ色を選択したのは、トンネル内に漂っている排ガスや塵、細かいゴミなどの影響を受けにくく、光が通りやすいためだ。続いて1995(平成7)年から使われるようになった高圧型ナトリウムランプは、低圧型から明るさを向上させ、耐用期間を約3年まで延ばした。トンネル内照明のオレンジ色から白色への変化は、排ガス規制によって煙の量が減ることでトンネル内の見通しが良くなったことに加え、効率の良いLED光源が開発されたことで、自然に見える白いランプが採用されるようになったのだ と。片側2車線のトンネルの歩道を進む。「住吉隧道」銘板。昭和59年(1984)2月長さは95.0mと。観音崎、久里浜方面は直進と。「衣笠インター入口」交差点の手前の案内標識。「衣笠インター入口」交差点とあるが、ここからは「横浜横須賀道路」には何故か入れないのでは?再び地下通路を利用して、「三崎街道」を渡る。地下通路。そして再び地上の歩道へ出て「満昌寺」に向かって進む。「満昌寺西参道」と刻まれた石碑が左側に姿を現した。「満昌寺」の墓地を見る。「永代供養塔」の釈迦如来立像?の姿が見えた。この濃いピンクに花は「アカバナ(ベニバナ)トキワマンサク」。花は細いリボンのような4枚の花弁があり、春の開花期には枝先に集まるように咲くため株全体が花に覆われ、遠くからでもその美しさが楽しめるのだ。そして「満昌寺」に到着し山門を見る。創建は鎌倉時代、建久5年(1194年)、三浦大介義明を開基として源頼朝が建立された。そののち、仏乗禅師が中興開山となり、臨済宗建長寺派の寺となり、禅寺として今に至る。「本尊華厳釈迦像(市重文)」をはじめ、「三浦義明坐像(国重文)」や「天岸慧広坐像(市重文)」どが祀られており、枯山水庭園「蓬莱庭」には、茶室「如是庵」「竹静庵」がある。横須賀市大矢部1丁目5−10。寺号標石「臨済宗 建長寺派 満昌寺」。「国指定重要文化財 三浦義明坐像」碑。「満昌寺」絵図。創建は鎌倉時代、建久5年(1194年)、三浦大介義明を開基として源頼朝が建立された。「鐘楼」。「梵鐘」。「義明山満昌禅寺」と刻まれていた。太平洋戦争時の金属供出により享保17年鋳造の梵鐘が失われたため、戦後再鋳造された梵鐘。梵鐘にその旨が記録されている。 供出の事実を後世に残している意味で貴重な梵鐘である。(享保17年鋳造、供出後、昭和46年7月再鋳)梵鐘刻字「義明山満昌禅寺再鋳鐘銘並序勅修百丈清規曰大鐘暁撃則破長夜警睡眠暮撃則覚昏衢疏冥昧 雖然今次大東亜戦争勃発國家擾々之間當山三百年來所懸梵鐘被徴集而境域闕法器現住宗禅和尚常懐再懸誓願到テ今四半世紀也于茲機縁漸熟担信徒喜捨浄財效再鋳之誠仍來請銘乃為之曰朝夕聞鐘謝衆恩 至心瞑目弔七魂 專祈願祖先冥福 兼念枝々葉々繁昭和四十六年辛亥年七月十三日建長素堂謹撰併書」所在:満昌寺(横須賀市)」とネットから。満昌寺では、3月11日に毎年『鎮魂の鐘』を行っている。読経の前後、お集まりいただいた方々に東日本大震災で亡くなられた故人を想い、鎮魂の想いを込めて鐘を撞いていただいたのだと。13年が経ちましたが故人への想いを胸にこれからも満昌寺では、毎年行っていくとのこと。茅葺風銅板葺の重厚な「山門」の彫刻を見る。「横須賀市指定重要文化財木造天岸慧広(てんがんえこう)坐像 一躯天岸慧広は満昌寺の中興開山で、鎌倉円覚寺第一座、また鎌倉報国寺の開山であった名僧で、建武ニ年(一三三五年)に没した。玉眼入り寄木造り、像高は七十六cm。その姿は曲碌に安座し、両袖と裳裾を垂下する全身像である。頭面部の個性的な風貌を実写的にとらえており、没後間もないころに制作されたものであろう。昭和四十四年(一九六九年)八月十一日指定木造宝冠釈迦如来坐像 一躯本像は満昌寺本尊で、玉眼入り寄木造り、像高三十六・六cmの坐像である。髪を高くゆいあげた頭部に銅製の宝冠をいただき、禅定印を結ぶ。目鼻立ちの輪郭があざやかな面部は張りを失わず、体躯は量感がある。着衣はひだがやや太く柔軟さに欠けるが、宋元風の装飾をよく伝えている。南北町時代(十四世紀後半)の作品。 昭和五十七年(一九八二年)四月二十六日指定」「木造天岸慧広坐像」。「木造宝冠釈迦如来坐像」。「満昌寺襖絵 十六面満昌寺本堂の襖絵で計十六面ある。各面縦百七十八・五cm、横百二十七・cmを測る。本堂内陣左右に四面ずつ雲龍図が対向し、各裏面となる脇の間側に松虎図と山水図が配される。雲龍図と山水図は水墨による作。松虎図は水墨を基調としつつ、虎にのみ彩色が施されている。絵師は幕末から明治にかけて活躍した狩野派の斎藤海信。特に雲龍図の気宇雄大な表現は秀逸で、市内にある襖絵の代表例である。 平成二十年(二〇〇八年)三月十日指定」満昌寺襖絵(上から雲龍図八面、松虎図四面、山水図四面)。「義明山 満昌寺の由来當寺は、建久五年(一一九四年)九月、源頼朝の意志に基づき三浦大介義明、追善の為創建されたと伝えられる。創建時の宗派は未詳ではあるが、鎌倉時代末期に佛乗禅師天岸慧広(中興開山)が入寺し、臨済宗に改め建長寺末寺とした。本堂内に本尊 華厳釈迦如来像(市重文)、開山佛乗禅師天岸慧広坐像(市重文)、御霊神社内に三浦大介義明坐像(国重文)をまつる。また、御霊神社の背後に三浦犬介義明の首塚という廟所があり、奥の院と称し、鎌倉時代末期の五輪塔、宝篋印塔、板碑一基がある(市史跡)。當寺裏の矢部山に鎌倉時代末期につくられた阿弥陀来迎図などの磨崖仏(市重文)もある。 平成九年十一月」 茅葺風銅板葺の重厚な山門の直ぐ左手には「庚申塔群」が。14基の庚申塔と1基の石仏が基壇上に整然と並んでいた。 庚申塔は笠付型6基、駒型6基、光背型1基、柱状型1基で、最も古いものは江戸時代寛文13年(1673)に造立された笠付型青面金剛庚申塔、新しいものは明治16年(1883)造立の駒型文字庚申塔「庚申 申子 塔」である。最も興味を引くのは、文化5年(1808)造立の青面金剛庚申塔で、胡坐を組んだ邪鬼が右腕を立て、肘と頭で青面金剛を支えながら踏ん張っている姿の庚申塔だ。一番大きい上記写真中央の「石碑(貞享4年(1687年)銘)」庚申塔(元禄6年(1693年)銘)。「満昌寺」案内図。満昌寺は、平安時代末期の三浦一族の当主で、源頼朝の挙兵に協力した三物義明の廟所である。『吾妻鏡』1194年9月29日条には、矢部郷内に源頼朝の指示により、三浦義明を供養するための一堂を建立することがあり、これが満昌寺とされる。境内の宝物殿はかつての御霊社で、ここには中世に遡る(さかのぼる)三浦義明坐像が安置される。また一説に御霊社は、三浦義明の孫である和田義盛が建立したという。御霊社の背面には、三浦義明とその妻の墓とされる宝篋印塔と五輪塔も祀られる。満昌寺は後に鎌倉時代後期から南北朝時代に活躍した天岸慧広が中興し、現在は臨済宗建長寺派となる。本堂には天岸慧広坐像や室町時代の宝冠釈迦坐像が安置されている。付近の近殿神社には義村が祀られ、その先の薬王寺旧跡には義澄の墓所がある。」「満昌寺 境内図」。分かりやすい境内配置図。「三浦一族ゆかりの地を巡る 満昌寺」。「木造三浦義明坐像「三浦義明とは」義明は三浦庄司義継の嫡男。三浦大介を通称として、相模国府で影響力を誇示した。三浦介の称号は、名誉の称号として、三浦氏本家に世襲された。義明は一族団結のもとに、周辺豪族との姻戚関係を築き、房総の各地にもその勢力を拡大し、三浦一族発展の基盤をかためた。1180年源頼朝の挙兵で、衣笠城は河越重頼・畠山重忠ほか平氏勢に囲まれた。ときに三浦大介義明89歳「老命を武衛(頼朝のこと)に投げうって子孫の勲功に募らん」と、義澄ら一族を頼朝のもとに赴かせ、ひとり源家再興に殉じた。」「木造三浦義明坐像」。山門を入って左手に立つ「三界萬霊等」と千手観音菩薩石像。そしてその右隣に、寄棟造りの覆屋に鎮座する六地蔵尊像。赤い涎掛けをした「六地蔵尊像」。「三界萬霊等」と「千手観音菩薩石像」。「山門」を潜り再び「鐘楼」を振り返る。そして正面に寄棟造りで均衡のとれた「本堂」。繰り返しになるが、鎌倉時代の建久五年(1194)、源頼朝が源氏再興の捨石となった忠臣・三浦大助義明を追善するために創建したと伝わる。 三浦義明は、治承四年(1180)に平氏勢の攻撃を受け、衣笠城にて89歳で戦死。 創建時の宗派は不詳だが、鎌倉時代末期に佛乗禅師・天岸慧広が中興開山となり、臨済宗に改め建長寺末寺とした。江戸時代宝永二年(1705)に火災に遭って堂宇が焼失したが、寛延二年(1749)に仏心禅師が再建し、山号を雲龍山から義明山に改めたと伝える。 臨済宗建長寺派で、本尊は禅定印を結ぶ木造宝冠釈迦如来坐像で南北朝時代の作。本堂の裏山に、三浦義明の孫和田義盛が建暦2年(1212)に境内鎮護のために建てた御霊神社があり、三浦大介義明坐像を祀る。 御霊神社の後方に義明の首塚といわれる三浦義明廟所(奥之院と称す)があり、瓦塀で囲まれた廟所に、義明と妻の供養塔とされる宝篋印塔と五輪塔が鎮座。左手に露盤宝珠を乗せた宝形造りの地蔵堂、本堂右手に玄関と庫裡が建つ。 庫裡前には小さな庭があり、雪見燈籠とみられる石燈籠と、軸部に浅く四方仏を刻んだ石造り九重層塔が佇む。本堂裏山の中腹には、満昌寺を守護する御霊神社が建ち、三浦義明像を安置している。 そして、御霊神社の後方に「義明の首塚」といわれる三浦義明廟所がある。以前鐘楼が建っていた場所には、年配者の参詣に配慮してなのか東屋が設けられていた。「本堂」に近づいて。白壁の中心には、花頭窓が。「本堂」の扁額「雲龍殿」。現住職・永井宗寛氏が本堂の内陣に案内して下さり、説明をして下さいました。満昌寺襖絵(まんしょうじふすまえ)指定年月日:平成20年(2008年)3月10日満昌寺本堂の襖絵で、松虎図4面・雲龍図8面・山水図4面の計16面があり、本堂内陣左右に4面ずつ雲龍図が対向し、各裏面となる脇の間に松虎図と山水図が配される。紙本墨画(松虎図のみ一部著色)で、各面縦178.5cm、横127.3cmを測る。幕末から明治時代にかけての狩野派の絵師である斎藤海信の作で、市内の代表的な襖絵である。「雲龍図8面」この日は「雲龍図4面」が展示されていた。ズームして。「松虎図4面」。左側をズームして。右側をズームして。再び「木造三浦義明坐像」。外に出て「本堂」の屋根を見上げる。見事な鬼瓦には三浦氏の家紋・「丸に三つ引き」。再び本堂の花頭窓を。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.04.19
コメント(0)
「大善寺」を後にして、「衣笠城」の「本丸」に向かって「大善寺」本堂の北側にある細い石段の坂道を上って行った。「衣笠城趾」碑。「横須賀市指定史蹟衣笠城昭和41年6月15日 指定山麓の右を流れる大谷戸川と左手の深山川に挟まれ東に突き出た半島状の丘陵一帯が衣笠城跡である。源頼義に従って前九年の役に出陣した村岡平太夫為通が戦功によって三浦の地を与えられ、所領となった三浦の中心地である要害堅固のこの地に、両川を自然の堀として、康平年間(1058~1064)に築城されたといわれ、以後為継・義継・義明の四代にわたり三浦半島経営の中心地であった。治承4年(1180)8月源頼朝の旗揚げに呼応して、この城に平家側の大軍を迎えての攻防戦は、いわゆる衣笠合戦として名高い。丘陵状の一番裾が衣笠城の大手口で、ゆるやかな坂を登って滝不動に達する。居館は水の便の良いこの附近の平場にあったかと推定され、一段上に不動堂と別当大善寺がある。さらに、その裏山がこの城の最後の拠点となる詰の城であったと伝えられる平場で、金峯山蔵王権現を祀った社が存在した。また、その西方の最も高い場所が、一般に物見岩と呼ばれる大岩があり、その西が急峻な谷になっている。要害の地形を利用して一部に土塁や空堀の跡が残っている。このように、この地一帯は平安後期から鎌倉前期の山城で、鎌倉時代の幕開けを物語る貴重な史跡である。 平成3年3月 横須賀市教育委員会」衣笠城のジオラマをネットから。石造りの丸太階段を上って行った。石碑の前で説明員の話を聞く。「蔵王権現社及御震神社遺跡」碑と「笠城址公園大工事記念」碑「蔵王権現社 及 御霊神社遺跡」碑。近づいて。「衣笠城址公園大工事記念」碑「櫻樹 五百本梅樹 五拾本躑躅 五拾本」と。「オオシマザクラ」。「オオシマザクラ伊豆諸島の原産ですが、房総半島や伊豆半島などにも野生化しています。純白の花とあざやかな緑色の葉が特徴で、若葉は塩漬けにして・・・・」前方オオシマザクラの下にも石碑が。「衣笠城跡案内図衣笠城跡(市指定史蹟) 、城跡といっても平安・鎌倉時代の山城(やまじろ)ですから石垣や天守閣はありません衣笠合戦(1180)は三浦亠族と平家方との激しい戦いで、このお城を有名にしました。しかし、現在ある衣笠城跡はその後、宿敵北条氏に対抗するため、鎌倉時代後期に大改造されたものです。でもその後、三浦氏は鎌倉で滅ぼされてしまいます。(宝治元年・1247 )尚、大正8年に物見岩の下から経筒、他が発見されました。」「三浦大介義明公八百年記念碑」。願朝の挙兵時に討死した三浦義明の顕彰碑。「衣笠合戦👈️リンク治承四年(1180) 8月26日小坪合戦にて敗北した畠山軍の雪辱戦として戦われた戦いである。畠山重忠は、河越重頼、江戸重長に加勢を呼びかけ、三浦氏の本拠・衣笠城を攻めた。攻める畠山・秩父一族軍は3000騎、対する三浦軍は450騎の布陣となった。三浦方は、東木戸口を三浦義澄・佐原義連、西木戸口を和田義盛・金田頼次、中の陣を長江義景・大多和義久が守った。衣笠城で敗色を悟った義明は、「今は老いた命を武衛(頼朝)に捧げ、子孫の手柄としたい」と述べ、子義澄や和田義盛らに対し衣笠城を逃れて頼朝に従うことを論した。義明の命で城は義明一人に任せ、一族は久里浜から船出して房総で頼朝と合流した。小坪合戦👈️リンク治承四年8月17日、源頼朝が挙兵すると、代々源氏に従ってきた三浦一族は、石橋山へと向った。しかし、三浦軍は折からの雨で酒匂川を渡河することができず、石橋山の戦いに間に合わなかった。頼朝の敗北の情報も入っていたため、酒匂川から引き返すこととなる。一方、武蔵国から平家方の大庭景親の要請によって出陣した畠山重忠がいた。8月24日、この両軍が由比ヶ浜で遭遇してしまう。畠山重忠の母は、三浦義明の娘であったことなどから、当初は合戦に及ぶ気配はなかったが、和田義盛かこのまま見過ごす訳にはいかないと戦闘を開始、その後両軍の話し台いがついて和議が成立した。しかしちよっとした行き違いがあった。あとから駆けつけた杉本城(鎌倉杉本寺)を守っていた和田義茂(よしもち・義盛の弟)が、三浦軍が攻められていると勘違いし、畠山軍を攻めたため再び合戦となってしまったのである。畠山軍500騎、三浦軍300騎が小坪峠に布陣し、両者ともに痛手を負い退却した。」と「資料」から。三浦義明の墓は鎌倉・来迎寺👈️リンクにある。さらに本丸を目指して進む。「衣笠城址」碑。近づいて。そして主郭の西にあったのが「物見岩」。物見のための岩と伝わるが、今は木々で物見できないのであったが。「物見岩」に近づいて。衣笠合戦の時、城主義明はこの岩の上から戦闘状態を確認し指揮をとったといわれている と。主郭(本丸)跡の最頂部。この日の説明員の「藤沢地名の会」の山本さん。「今古誠画浮世絵類孝之内治承四年之頃 小林清親衣笠合戦の一場面。三浦義明が敵方である金子家忠の一人当千の活躍ぶりを称え、合戦の最中にもかかわらず域内か酒を差し入れた、という逸話が描かれているのだ と。」同じものをネットから。「物見岩」の裏側にあったのが「遺物發掘處」碑。大正時代に行われた史跡整備の際、磁器の水差しや刀剣・経筒などが物見岩の下から発見されたのだ と。石碑に近づいて。衣笠城址の主郭(本丸)跡を後にして坂を下る。「衣笠城址」案内柱。「横須賀風物百選 衣笠城址」碑。右手に見えたのは「衣笠城」の「空堀」跡であっただろうか?途中、道路脇にあったのが「榧の木(カヤノキ)」。見上げて。榧はイチイ科カヤ属の常緑針葉樹で、高さ25m、直径2m程度にまで育ち、寿命は1000年にも及びます。中国に4種、アメリカに2種、日本に1種と、世界には7種の榧があり、日本では、岩手県、山形県以南の本州、四国、九州の山野に分布しています。碁盤・将棋盤の最高級品として最もよく知られており、高価なものでは数百万~一千万円以上するものもあります。榧の木の成長は極めて遅く、30cm伸びるのに3~4年、碁盤づくりに適した直径1.1mほどの大きさになるには300年以上の歳月を必要とします。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.04.18
コメント(0)
さらに「衣笠城址」👈️リンク に向かって傾斜の急な坂道を上っていった。周囲には、歴史を感じさせる、瓦葺きの大きな旧家の家の姿が。横須賀市衣笠町28付近。上って来た坂道を振り返る。息が上がるくらいの傾斜。路面には、自動車や歩行者、自転車などが坂の上で滑らないようにするための滑り止めが施工されていた。鎌倉時代の武将たちになったつもりで進んだのであった。左手前方に黄色い看板が。「ローゼンベッカー 榧(かや)の木邸」衣笠城に続く坂道の先にある古民家カフェ。>ケーキやパンを販売していると。古民家を改造してオープンしたと。テラスの先の建物は蔵であったのだろうか?その先、民家の裏の巨岩が顕になった頂上には石の祠が。少し下にある窪地にも2基の石塔が鎮座。現地案内板に「旗立岩」という表記があったので、これであろうか。衣笠合戦の際、三浦義明は、旗立岩等、城内に沢山の旗を立て、また篝火が消えないよう、最後の力を振り絞り、城内を切り盛りして、一族が無事脱出する時間稼ぎをしたのだ と。ズームして。扉には南京錠が。三浦氏の家紋「丸に三つ引」と。「大善寺」の手前の参道の左側には大きな井戸が。金網・ネットで養生された「不動井戸」。ネットの隙間から井戸の中を覗くと水面が見えた。水に困った大善寺を創建した行基が杖で岩を穿ったときに湧き出てきたという井戸。衣笠城が築城されてからは、重要な生活用水として使用されていた と。内部には「不動明王」像が祀られていた。「大善寺と不動井戸この寺は、曹洞宗に属し「金峯山不動院大善寺」と称します。天平元年(728)、諸国行脚中の僧行基が、この山に金峯蔵王権現と、自ら彫刻した不動明王を祭り、その別当として建てられたのが大善寺であると言われています。そのときおはらいをする水に困った行基が、杖で岩を打つと清水が湧きだしました。その場所が、このコンクリートで囲まれた井戸のあたりであると伝えられています。康平6年(1063)、前9年の役の戦功により、三浦の地を与えられた平大夫為通は、三浦の姓を名のり、この山のほぼ全域を城としました。それが衣笠城です。衣笠城は第7代泰村が、北条時頼との争いに破れ、一族500余人と鎌倉の法華堂で宝冶元年(1247)に討ち死にするまで184年間、三浦一族の本城でした。大善寺は、蔵王権現、不動堂は、衣笠城のなかにあって、三浦一族の学問や仏教信仰の中心的な役割を果たしました。とくに不動尊は、第2代為継が後3年の役に出陣したとき、戦場に現れ敵から射かける矢を打ち払って、為継を守ったと伝えられています。「矢取不動」の名称は、その伝説によります。また、行基によって開かれた泉は、衣笠城の重要な生活用水でした。いつのころからか、「不動尊御手洗池」通称「不動池」と呼ばれるようになりました。現在、蔵王権現社も不動尊も残っていませんが、不動明王像は大善寺に本尊として祭られています。今ある大善寺は、明治29年に全焼した本字を昭和10年に再建したものです。」石段の途中左側にあった「大善寺門前の庚申塔群」を見上げて。神奈川県は庚申塔の密集地で、我が藤沢市内にも多数分布している。三浦半島でもそのことは同じだが、三浦半島の特徴は一ヶ所にたくさんの庚申塔があることと。しかし古くからそうであったのか、あるとき集められてそうなったのかは分からない。大善寺へ登る石段の脇に、きちんと立つものだけでも10基あった。足場が悪く近づくことが出来なかったが、向かって右のものから3基は順に嘉永元年(1848)、文化・・(1804-18)、宝暦八年(1758)と年号銘を読むことができた。向かって右側5基は六臂青面金剛(ろっぴしょうめんこんごう)塔、左側5基は文字塔と区分けされているので、立てられた順に並んでいるのではないことが分かる。あるとき集められたものかも知れないと感じたのであった。石段下左には「箭執(やとり)不動尊」と刻まれた石碑が。御本尊の不動明王像は、衣笠城を築城した三浦為通が城内に安置したもので、敵が放つ矢を受け止めたことから「箭執(やとり)不動」と呼ばれているのだ と。「大善寺」の境内に向かって、急な石段を上る。途中、石段右側にあった、苔生した石碑類。ズームして。中段の境内に建つブロック製の祠の内部にも地蔵尊石仏が並ぶ。中央に蓮華座に鎮座する前掛けをした地蔵坐像/右手に錫杖、左手に宝珠を持つ地蔵尊坐。地蔵石仏が鎮座する中段の境内から眺めた本堂....石垣の雛壇に石仏や石燈籠などがあった。下の雛壇に立つ2基の石燈籠....宝暦七年(1757)の造立で、笠の上に異形の請花と宝珠が乗っていた。石燈籠(右)。石燈籠(左)。さらに頑張って石段を上る。切妻造板葺の手水舎....手水鉢に漱盤と彫られ、柱に「嗽盤堂」と書かれた木板が掲げられていた。これは井戸?入母屋造本瓦葺風銅板葺の本堂。本堂は昭和10年(1935)の再建。【山号寺号】金峯山不動院大善寺【宗派】曹洞宗【創建】天平元年(729)【開山】行基言薩【本尊】不動明王(不動)天平元年(729)諸国行脚中の行基がこの地を訪れ、後に衣笠城となる山に、自ら彫刻した不動明王を祀った不動堂と、金峯蔵王権現を祀った社を建てた。この不動堂と金峯蔵王権現社を管理する別当寺として建されたのが、大善寺のはじまりとされる。奈良時代の古刹であり、三浦氏の学問、仏教信仰の中心的な存在であったと言われる。三浦氏のニ代為継は、後三年の合戦に出陣し、戦いの最中この不動明王が敵の矢を払し、落とし、為継を守ったという言い伝えがあり、この不動尊は別名「箭執(やとり)不動」という。また、大善寺で発見された毘沙門天立像は、奥州・平泉の中尊寺金色堂・増長天像との類似性が認められ、鎌倉文化圏における平泉仏教文化の影響を受けた唯一の仏像でもある。」と「資料」から。「横須賀市指定重要文化財 木造阿弥陀三尊像 昭和60年(1985年)4月25日指定大善寺の阿弥陀三尊像は、檜材の一木割矧造〔一木の材で彫るが、途中で縦半分に割り、中空としてつなぎ合わせる〕彫眼で、その制作時期は12世紀後半=平安時代末期と推定される。中尊の阿弥陀如来像は像高89.2 cm、裙〔くん・下半身に巻く一枚の布〕を着け、袈裟を偏袒右肩〔へんだんうけん・左肩を覆い右肩に僅かにかける〕にまとい、来迎院を結び、右足を外にして結跏趺坐〔両足の甲を反対の足のももに乗せる座り方〕する。脇侍の観音菩薩像は像高89.5 cm、死者の魂を乗せて運ぶといわれる蓮台を両手で捧げ持っ姿で、右足の膝を軽く屈折させて前に出す来迎の動きをみせている。勢至菩薩像は像高91.1 cm、胸前で合掌する。本阿弥陀三尊像は江戸時代の後補や破損部分が多いものの、阿弥陀如来像の胸部の造形や背面の翻波式衣文[ほんばしきえもん・衣の皺を丸波・角波あるいは大波・小波で交互に彫る〕など平安時代末期の特色を良く表現している。三浦氏歴代の本拠であった衣笠城跡に建つ大善寺は行基の開創を伝える古刹で、明治以降は不動三尊像を本尊とするが、それ以前は本阿弥陀二尊像が本尊であった。極楽浄上への往生を願う阿弥陀信仰は12世紀頃から一般的になるが、本像は三浦半島でも最占の遺存例である。」横須賀市指定重要文化財 木造伝毘沙門天立像 平成25年(2013年)3月11日指定大善寺の伝毘沙門天立像は、檜材の寄木造で玉眼を嵌める。その制作時期は平安時代末から鎌倉時代初頭と推定される。像高92.0 cmで、髪を垂髻〔すいけい・頭頂部で束ね、根本とその上部の2カ所で結い、その上を垂らす〕に結い、右手を高く振り上げ、腰をひねり、眉をひそめて左斜め下方を向く。このような姿形は、岩手県の中尊寺金色堂正面壇に安置される増長天立像と様式的に著しく一致しており、本像最大の特徴となっている。『吾妻鏡」によれば、源頼朝は文治5年(1189年)の奥州合戦の折に、中尊寺諸院の壮大な伽藍に感嘆したといわれ、鎌倉に戻り源義経や藤原泰衡らの怨霊鎮魂のため、中尊寺ニ階大堂大長寿院を模倣して永福寺を建立した。この合戦には三浦一族も参陣したが、永福寺奉行人の筆頭となる三浦義澄を初めとして、頼朝同様に平泉の仏教文化に多大な影響を受けたことが、本像制作のきっかけになったのであろう。中尊寺金色堂様式の仏像は平安時代末期に平泉を中心として、東北・北関東に分布したが、本像はその南限であり、鎌倉文化圏における平泉仏教文化の影響を受けた唯ーの仏像でもある。 平成27年3月31日 横須賀市教育委員会」「木造阿弥陀三尊像」。「木造伝毘沙門天立像」。本尊矢取不動明王。地蔵尊は衣笠町にあった福壽院という寺が、明治期に廃寺された折り、本尊福壽地蔵菩薩を当寺に合祀したと伝わるが、詳しい記録が無く、縁起等は不明。『吾妻鏡」によれば、源頼朝は文治5年(1189年)の奥州合戦の折に、中尊寺諸院の壮大な伽藍に感嘆したといわれ、鎌倉に戻り源義経や藤原泰衡らの怨霊鎮魂のため、中尊寺ニ階大堂大長寿院を模倣して永福寺を建立した。鎌倉にある永福寺のイメージをネットから。移動して再び本堂を見る。本堂の正面。扁額「大善寺」。昭和10年(1935)に再建した堂宇の前に一対の江戸期の狛犬がいた。天明8年12月の奉納で、石工源ェ門とある。顔の彫りもよいが、前脚の形と首まわりの巻き毛、尻尾の渦毛が盛り上がり重厚な逸品である。神仏習合の名残を残す一対であろう。本堂正面右側の狛犬。後ろ姿。本堂正面右側の狛犬。後ろ姿。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.04.17
コメント(0)
「柳橋」を渡りながら、上流の「大島桜・オオシマザクラ」を見る。日本の固有種で、日本に自生する10もしくは11種あるサクラ属の基本野生種の一つ。成長が速く再生力が強く古来雑木林に植えられて燃料として多用されたことからタキギザクラ(薪桜)の別名があるほか、葉が桜餅の葉に使われるためモチザクラ(餅桜)とも呼ばれる。開花時期は、3月下旬から4月上旬、早いところでは2月に開花する。緑色の新葉の展開と同時に一重咲きの大輪の花を比較的多く咲かせ、花と花弁の色は白色、花径は30 - 40mm)ある。花弁は5枚で、先が2つに分かれている とウィキペディアより。ズームして。緑色の新葉の展開と同時に一重咲きの大輪の花が。オオシマザクラとソメイヨシノとのコラボ。道路の水溜りに映る桜の花を。円行公園内の赤い椿の花。ここにも落下した花の赤い絨毯が。引地川の下流方向を見る。この切り株は既に朽ちて。中心部分が空洞化して、枯れてしまった為に切られたのであろう。ここにも花を付けていないソメイヨシノの老木が。ところで、1998年施行の改正河川法で、堤防の樹木は根元から水が入り土壌が緩んで決壊しやすくなり、また流木による堤防の損壊や水位上昇につながる恐れもあることから、堤防の川側に植樹することが禁止されたのだと。一般的に桜の木の寿命は60年と言われて、ここ引地川沿いの桜には老木化したものが見られるようになり、10年後か20年後、いつ寿命がくるかわからない状態なのだ。今後、新たに植樹する場合には、川表(堤防を境にして川側)には出来ずに、川裏または桜根が堤防に入らないよう盛土をして植樹しなければならないとのこと。改正河川法の植樹基準では、「治水上等の支障となる場合は、樹木の有する治水機能及び環境機能に配慮しつつ、支障の大きなものから順次伐採することを基本とする」としており、支障があるものについ ては、伐採・移植等を行い治水の安全性向上に努める必要があるのだとも。そして再び満開のソメイヨシノの花を追う。再び「胴吹き桜(どうぶきさくら)」を。この花には既に緑色の新葉が元気よく。一重ヤマブキであっただろうか?ズームして。ここにも「胴吹き桜(どうぶきさくら)」。老木の桜が、エネルギーを振り絞って幹から花を咲かせている姿は、気になり、元気をもらえるのであった。川面を覗き込むが如き枝を追う。そして前方にカーブミラー。カーブミラーに映った桜を。移動して。さらに。そして「神奈川県道403号線」手前まで進む。そして「神奈川県道403号線」に架かる「円行(えんぎょう)大橋」から「引地川」の桜並木を見る。「円行(えんぎょう)大橋」を渡りながら「引地川」の桜並木を。ズームして。エスタテラ湘南台サンライズビュー地上25階、高さ82.5mのタワーマンション。「円行大橋」を振り返って。今年の地元の桜も見納めか!?日本人と桜の縁は非常に古く、『古事記』や『日本書紀』では天孫降臨した天照大御神の孫・邇邇芸命(ににぎのみこと)に求婚される美しき木花咲耶姫(このはなさくやひめ)が、はかなく散るものの象徴(=桜の花)として書かれていて、桜という名称は「咲耶」から転じたという説があるのだと。また、民俗学においては、田の神を意味する「さ」と神の御座の「くら」が結びついたという説があるのだと。満開の桜には田の神が宿り、田植えから収穫まで見守ってくれるありがたい存在として、農耕民から崇められていたのであった。そして、桜にとってさらに大きな出来事が、江戸末期から明治にかけての品種改良によるこのソメイヨシノの誕生。従来の山桜の花弁は白く、花と葉が同時に現れるのに対して、ソメイヨシノはほんのり紅をさした花だけが先に開き、いっせいに散り、その様子は華麗そのもの。ソメイヨシノが全国に植えられることによって、桜の美しさやその意味は全国に広がったのだ。春の一時期だけしか見られないにもかかわらず、日本人にとってこの上なく大きな意味をもつ桜。その理由は、人々の暮らしに密着し、心に寄り添い続けてきた記憶の継承にある。だからこそ桜は今も日本人にとって最もなじみ深く、特別な存在となり得ているのです。テレビのニュースでは、多くの外国人が、本場のお花見を楽しむことを目的に日本を訪れていると。日本でしか味わえないお花見を実際に体験し大いに楽しんもらいたいと感じているのである。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2024.04.16
コメント(0)
当日、「藤沢地名の会」から頂いた資料(以下「資料」)から転記させていただきました。「三浦一族家系図三浦為通:源頼義に従軍し、前九年合戦で武功を挙げた。それにより、相模国三浦郡を領地に もらったと伝わる。三浦氏の祖とされる。三浦為継 : 源義家に従軍し、後三年合戦で活躍した。鎌倉権五郎景政が右目を射られたため、 為継がー矢を抜こうとしたところ、景政が「矢にあたって死ぬのは本望だが、顔に 足をかけられるのは武士の恥」と言ったと伝わる。そのため、為継が地面に膝を突いて 矢を抜いたという逸話は有名。三浦義明:源氏と結びつき勢力を拡大した。相模国における源義朝の覇権拡大の後ろ盾となり、 娘が義朝の側室となる。源頼朝の旗揚げの際には「源氏再興のために目力するのが 自分の使命であり、末代までの栄誉だ」と感激の涙を流したとも伝わる。 衣笠合戦で戦死。三浦義澄:兄の杉本義宗が早くに死んだため、三浦宗家を継いだ。「平治物語」では源義平に 従って戦った精鋭十ニ騎の中に義澄が描かれている。妻は伊藤祐親の娘。鎌倉幕府 設立に尽力した。佐原義連 : 三浦一族佐原氏の祖とされる。源義経が率いる平家追討の戦いに従軍し武功を挙げた。 義連が馬に乗って急斜面を駆け下りたとも伝わる一ノ谷の戦し、「鵯越の逆とし」の 名場面は後世に語り継がれ、歌舞伎、浮世絵の題材となる。 宝治合戦で三浦宗家が滅びた後、佐原系が三浦の血を継いだ。三浦養村 : 源頼朝の死後、従兄弟にあたる北条義時とともに、鎌倉箒府の政権確立に尽力した。 一族の和田義盛が起こした和田合戦では、幕府方につき、承久の乱では朝廷方についた 弟の義胤と戦い自害に追い込むなど、一族存続のため冷徹な決断をした。」そして「三崎街道」を走り「衣笠城址」でバスを降り「三浦氏の本拠地 衣笠を歩く」の散策のスタート。横須賀市衣笠町2「藤沢地名の会」の方から上記の「三浦一族家系図」と源氏との関係にについての説明を受ける。三浦氏は、平為通が伊予守源頼義に仕え、「前九年の役」に奥州で活躍。康平六年(1063)に前九年合戦の功績として、平為通が相模国三浦郡を賜って「三浦」を称し、衣笠山に城を築いて館としたと伝えられている。また、弟・景通の子孫は相模国鎌倉郡に蟠居して「鎌倉党」という武士団を形成し、大庭氏、梶原氏、長尾氏等の祖となったとされる。そして為通から為継・義継・義明と家督が継がれていったと。2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で左・三浦義澄、右:三浦泰村を演じた佐藤B作氏と山本耕史氏の写真をネットから。 三浦義澄=佐藤B作氏 三浦泰村=山本耕史氏「中世の地形図(イメージ図)との比較以下、「資料」から。中世衣笠の地理と衣笠域中世には久里浜湾は衣笠の辺りまで内海が続いていたと者えられている。水軍を擁していた三浦氏の本拠地として、衣笠が選ばれたのではないだろうか。山麓の右を流れる大谷戸川と左手の深山川に挟まれ東に突き出た半島状の丘陵一帯が衣笠城跡である。源頼義に従って前九年の役に出した村岡平太夫為通が戦功によって三浦の地を与えられ、所領となった三浦の中地である要害堅固のこの地に、両川を自然の堀として、康平年間(1058 ~ 1064)に築城されたといわれ、以後為継・義継・義明の四代にわたり三浦半島経営の中心地であった。治承4年(1180) 8月源頼朝の旗揚げに呼応して、この城に平家側の大軍を迎えての攻防戦は、いわゆる衣笠合戦として名高い。丘陵状の一番裾が衣城の大手口で、ゆるやかな坂を登って滝不動に達する。居館は水の便の良いこの附近の平場にあったかと推定され、一段上に不動堂と別当大善寺がある。「横須賀市東部の主な中世遺跡と中世寺社の分布図」をネットから。「古久里浜湾」が「現佐原城跡」近くまで入り込んでいたことが解かるのであった。「矢竹(ヤダケ)」の群生地が近くにあった。「矢竹(ヤダケ)」とは、本州、四国及び九州の山野に自生するヤダケ属のササで、シノダケと呼ばれるものの一つ。棹の節が低く、節間が長いのが特徴。「矢竹」の名前のどおり、かつては矢柄(矢の棒の部分)に、現代では釣竿や庭木として使われる。日本以外では韓国に分布。漢字表記には「箭」あるいは「箭竹」もある。「矢竹(ヤダケ)」が矢に適するのは、材質の硬さはもちろんのこと、葉(枝)が上部にしかできないこと、芽溝と呼ばれる棹の窪みが浅くて太さが一定であることによる。矢のほかに筆や煙管(キセル)の軸、団扇、籠、飾り窓の材料などにも使われ、実用を目的として植栽によって日本各地に分布が広がったのだと。「三崎街道」の「衣笠隧道」手前の横断歩道を渡りながら三崎方向を見る。その先、細い坂道の右手にあったのが「矢取前不動尊」。横須賀市衣笠町4−3。移動して。「奉納 前不動屋根工事一式 平成廿三年九月吉日 衣笠町 市川勝彦?殿」と。火炎後背を持つ不動明王・「矢取前不動尊」。「矢取前不動尊」と。その先には「山吹(ヤマブキ)」の花。山吹(ヤマブキ)」は、北海道から九州の低山や丘陵地に普通に生える落葉の低木。美しい山吹色の花が咲くので『万葉集』にも詠まれるなど、古くから観賞されてきた。太田道灌が農家で蓑を借りようとすると、娘が蓑の代わりにヤマブキの枝を差し出しました。しかし道灌は『後拾遺和歌集』(1086年)の「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき」(八重のヤマブキは雄しべが花弁に変化し、雌しべも退化したもので、実がならない。「実の=蓑は一つもありません」)の歌を知らなかったため娘に立腹した。後にその無知を恥じた話は有名。この時代、すでに八重のヤマブキがあったことが、この逸話からわかるだと。坂を上っていくと「衣笠町内会館」。横須賀市衣笠町8−2。横須賀市・消火栓マンホール蓋。黄色地に水色の横須賀上下水道イメージキャラクター「アクアン」と 赤いはしご車を描き、下部は青地に「消火栓」の文字。蓋全面に滑り止めの模様が入っていて、デザインも滑らないように?ブツブツで描かれています。「単口」、「150」の文字が。横須賀市衣笠町12の住宅街のかなりの斜度の坂道を進む。そして再び「横須賀三崎線」に出ると、道路沿いには紅白の花桃の姿が。後ろの山には、ソメイヨシノ、オオシマザクラが満開に。「太田和街道入口」交差点。「太田和街道入口」。この先に横須賀市太田和おおたわ一~五丁目がある。擁壁石垣の凹んだ場所に石碑が。横浜横須賀道路の衣笠インター入口付近の小さな石柱。石柱は擁壁と一体化しているように見え、見過ごしてしまいそうであった。「衣笠城追手口遺址」と。ここが衣笠城の大手口。大手口は、本来は追手門(おうてもん)と言っていたと。追手とは、敵を追いつめる方向にあるという意味で、籠城のとき敵を正面に追いつめて戦闘を一箇所へ集中させる目的がある。この役割から、大手門の先は枡形が構築されているところが多く見られる。これも大手門とセットで、敵の攻めを鈍らせる目的があります。このように大手門は、城の正面に位置する門でありながらも、同時に防御上における重要な攻撃戦略でもあったのだと。横須賀市衣笠町25−33。「衣笠城址要図さらに、その裏山がこの域の最後の拠点となる詰の城であったと伝えられる平場で、金峯山蔵王権現を祀った社が存在した。また、その西方の最も高い場所が、一般に物見岩と呼ばれる大岩があり、その西が急峻な谷になっている。要害の地形を利用して一部に土塁や空堀の跡が残っている。このように、この地一帯は平安後期から鎌倉前期の山城で、鎌倉時代の幕開けを物語る貴重な史跡である。」説明員の説明資料「衣笠城趾古図」。解りやすい「衣笠城趾古図」をネットから。衣笠合戦は、源頼朝が打倒平家の兵を挙げた治承4年(1180年8月)、頼朝に呼応した伝説の英雄三浦義明が、衣笠城で畠山重忠を代表とする平氏軍と戦い、壮絶な最後を遂げた戦い。この絵図は、衣笠合戦の配陣を「吾妻鏡」の記述により描いたものと思われ、江戸時代後期のものとされている と。畠山重忠らの来襲を聞いた三浦一族は衣笠城に籠り、それぞれ陣を敷いた。東ノ木戸(大手):三浦義澄と佐原義連西ノ木戸(搦め手):和田義盛と金田頼次中の陣:長江義景・大多和義久そして、棟梁の三浦義明は、津久井義行・多々良義春らを従え、本丸で総指揮に当たった。8月26日の辰の刻(午前8時)、畠山重忠・川越重頼・江戸重長・金子十郎家忠ら村山党の連合軍以下数千騎が攻め寄せた。大手口:川越重頼・江戸重長・金子重忠ら村山党搦め手:畠山重忠 と。衣笠城址と大善寺の方向を記した「衣笠城跡」案内板が三叉路に立っていた。三叉路に鎮座する木製の祠の中には、3体の地蔵石仏の姿が。「地蔵尊」に近づいて。そしてその先にあった横須賀市汚水マンホール蓋。市の木オオシマザクラ(葉も)と 中央に市章が描かれている。「車道」「おすい」の文字。平成13年度から採用 と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.04.16
コメント(0)
この日は4月7日(日)、車で10分ほどの引地川沿いの桜並木を愛でに向かう。この場所は引地川の両岸に巨木の桜並木が続く地元では人気の花見スポットの一つ。ほぼ満開の引地川の桜並木。この付近の引地川の堤防上の道路の手摺には桜の模様が。桜の花の姿が打ち抜かれていました。川沿いの道を上流に向かって進む。富士山の如き形の白い雲を背景に。引地川の穏やかな流れの上に。上流側は緩やかに蛇行して。ズームして。打ち抜かれ桜の花の隙間から。川面を覗き込むように枝が伸びて。白い桜・大島桜も。計画的に植えたものか?それとも混じってしまった?ズームして。開花が進むと、花びらの中央がしだいにピンク色に染まってくると。開花直前の蕾。多くの桜の枝が川面に向かって伸びて。再び近づいて。そして老木の太い幹から小枝が出て直ぐ花が。これを「胴吹き(どうぶき)桜」と言うと。老木になり、エネルギーが不足してくると急いで葉を増やそうとして幹の途中から芽を出すことがあります。木のエネルギーは緑の葉からの光合成で作られますから葉っぱはたくさんあったほうが良い。桜の場合、葉っぱより先に花をつけますからこんなことになるようだ。この現象が「胴吹き桜」。衰えつつあっても力を振り絞って『どっこい生きている』その姿を毎年見るたびに感動するのだ。しかし「胴吹き桜」は幹の途中に芽を吹くことから名付けられたのであろう、もう少し夢のある表現はないのだろうか。可愛らしくもあるし、力を込めて一生懸命に花を開こうとする、けな気な、がんばりやさんのイメージを表現した言葉に!!と。「胴吹きの 花は吐息の ように咲き」・・・詠み人しらず「蘖/ひこばえ」と思っていたが・・・。「蘖/ひこばえ」は切り株や根元からの若芽を言うらしい。ネットで調べてみると、「太い幹に対して、孫(ひこ)に見立てて「ひこばえ(孫生え)」という。春から夏にかけて多く見られるが、俳句では春の季語となっている。なお、樹木ではないが、刈り取った稲の株から生える、稲の蘖に相当する芽を「穭(ひつじ)」と呼のだと。別の場所にも。さらに、上流に向かって。桜の関する言葉にいろいろあるのだ。・初桜(はつざくら):その年にはじめて咲いた桜の花・桜狩(さくらがり):「狩る」とは何かを求めること。桜を求めて貼るの山里をたずね、 鑑賞すること・夢見草(ゆめみぐさ):桜の別名。美しさにうっとり見惚れてついた呼び名・花筏(はないかだ):水面に花が散る様子を筏に見立てていう・夜桜(よざくら) :夜の桜の花・花明かり(はなあかり):夜、満開の桜の周囲がほのかに明るく感じられること・花吹雪(はなふぶき) :散り落ちる桜。「落下」「花の塵」「花屑」ともいう・花筵(はなむしろ):花びらを敷物に見立て、その上に座ること・花嵐(はなあらし):桜の花が咲くころに吹く強い風のこと。また、風で桜の花びらが 盛んに散ること。・花冷え(はなびえ):桜の花が咲く季節に一時的に寒くなること・花曇り(はなぐもり):桜の花が咲くころの、曇りがちな天気のことそう!この日は「花曇り」?!川面に我が身・花を映すが如くに。そして「引地川」に架かる「柳橋」を渡る。「橋名板」には漢字で「引地川」。橋の名は漢字で「柳橋」。「橋名板」だが、明治以降の近代橋には、”漢字”と”ひらがな”の二つのパターンで設置されているのだ。そして、時代が進むにつれて、”橋名の漢字”、”橋名のひらがな”、”竣工年月日”、”渡る河の名称”等の四つのパターンが多くなってきている。橋が架かる道路の起点側右手に「漢字河川名」、左手に「漢字橋名」、終点側にはそれぞれ「ひらがな」でと。よってこの道路・「湘南台272号線」は道路名からも判るように、左側・湘南台方向がこの道の起点側であることが判るのであった。そしてもう1つのタイプでは、道路の終点側左に「ひらがな橋名」、右側に「竣工年月日」が書かれているようだ。そしてもう一つ、面白いのは、「◯◯ばし」ではなく「◯◯はし」と記載されているものが多いとのこと。濁点を入れないのは「川の水は濁らず」との想いから来ていると。また「橋が濁流に流されないように」とも。しかし、これは全国の都道府県に公に通達されているのでは無いとのこと。つまりほとんどの都道府県では、「はし」の平仮名は濁らないとの明記は無いのだと。この「柳橋」の平仮名表示は「やなぎばし」となっていたのであった。この様に、花見のブログを書きながら多くの事を学んだのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.04.15
コメント(0)
この日は4月5日(金)、「藤沢地名の会」の「さがみ探訪第100回」の「三浦氏の本拠地 衣笠を歩く」に参加。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の放映により、広く知られるようになった武家・三浦氏一族。平安末期、武士の台頭により、東国に多くの氏族が誕生した。源家累代の家人となる「三浦一族」の始まりは、前九年の合戦で源頼義に従い、その恩賞として1063年三浦の地を与えられ衣笠城を築いたとされる三浦為通と伝えられている。為通の孫義継以降は、源義家の「義」の通字を貰い、義明、義澄、義村と「義」をつけ源氏との絆を深めていったのだ。その「三浦氏の本拠地 衣笠を歩く」のであった。集合場所は、横須賀線のJR横須賀駅改札出口に9:30に集合とのこと。小田急線、JR東海道線を利用して大船駅へ。横須賀線・久里浜行きの4両目に乗り、JR横須賀駅に向かったのであった。幸い座ることが出来、うとうとしていると、途中の車内放送で、横須賀線下り方面久里浜・横須賀ゆきの列車は15両編成の場合、逗子駅で前4両の切り離しを行うと。ネットによると、切り離しをする理由は京浜急行のシェアが大きく需要がないことと、山が海に迫っている地形のためにホームの延伸が難しいためとのこと。逗子駅で後ろの11両の2両目の車両に乗り換えるが、切り離しの様子を見る。そして11両編成になった久里浜行きの車両。そしてJR田浦駅で停車。JR田浦駅は、明治37年(1904)に開設されている。駅はトンネルに挟まれ、現在の11両編成の電車では、ホームに止まりきれないため、ドアが開かない車両があるという全国でも珍しい駅と。JR田浦駅の横須賀駅側に、明治・大正・昭和に造られた三つのトンネルが並んでいる。中央のトンネル(下り線)は、明治22年(1889)の横須賀線開通時に完成した最も古いトンネル。上り線の美しいれんが造りのトンネルは、複線化に伴い大正13年(1924)に増設された。一番大きいトンネルは、昭和18年(1943)軍需輸送の引き込み線用として造られたもの。駅の高架から三つのトンネルを見ることができるとのこと。駅周辺は、昔は鎌を失うほど草が繁茂していたため、「失鎌(しっかま)」と呼ばれていたが、蒸気機関車の「釜を失う」に繋がることから、同じ発音の「七釜」に文字を変えてトンネルの名前にしたと ネットから。この田浦駅はトンネルとトンネルに扠まれた駅で、さらにホームが短いため、この日も11両編成の電車は先頭車両と2両目車両の一番前のドアがトンネルの中で停車してしまい、乗り降りをすることができないのであった。そして「横須賀」駅に定刻に到着。横須賀線は、ここ「横須賀駅」から終点の「久里浜駅」までは単線運転。そして「横須賀駅」のすぐ先・久里浜方向に「JR逸見トンネル」が見えた。直ぐその先にあるのが横須賀線最長2089m・「JR横須賀トンネル」。これは関東では2番目、全国でも16番目という長さと。そして改札駅に向かって進む。改札を出ると、既に参加者の受付が行われていた。この日の参加者は約25名程度であった。受付を行う。ここから先はバスにて移動とのことで、バスの時間までしばし時間があったので駅の近くを散策。JR逸見トンネルの直上に建設した地上17階建ての賃貸マンション・「Liberty Cove House」を見る。駅の北側にあった「ヴェルニー公園」を訪ねることとした。「ヴェルニー公園マップ」👈️リンク。かつては「臨海公園」の名で親しまれてきたが、公園の対岸にフランス人技師ヴェルニーが建設に貢献した横須賀製鉄所跡地が望めることや、ヴェルニー・小栗祭が本地で毎年開催されることなどから、フランス式庭園様式を取り入れた公園として整備を行い、平成13年度末に完成した。園内には、ヴェルニーと当時の勘定奉行小栗上野介忠順の胸像や、広場を中心にフランス式花壇や噴水、洋風あずまやなどが設けられ、フランスの品種を中心とした約130種類・約1,300株のバラが彩りを添えている。海沿いには横須賀本港を一望できるボードウォークがあり、潮風の中で散歩を楽しめるのだ。また、ヴェルニーの功績をたたえて建てられたヴェルニー記念館があり、体験学習の場として利用されている。このほか、本市の姉妹都市となっているフランスのブレスト市があるブルターニュ地方の明るく、活気ある港町のイメージのカフェレストラン・コルセール(2005年11月15日オープン)がある。「ヴェルニー案内図」をズームして。海上自衛隊・横須賀基地の逸見岸壁の沖には「護衛艦 いずも」の姿が。「ヴェルニー公園 VERNY PARK」碑。公園内にあった「戦艦「陸奥」の主砲」旧横須賀海軍工廠で建造された戦艦「陸奥」。1943(昭和18)年、原因不明の爆発によって瀬戸内海柱島沖で沈没してしましましたが、その後引き上げられた主砲が、70余年の時を経て横須賀へ里帰りしました。「戦艦陸奥の主砲戦艦陸奥は1921年に横須賀海軍工廠で建造されました。完成当時は世界7大戦艦に数えられ、戦艦長門とともに連合艦隊の旗艦として活躍しました。その主砲は41センチ連装砲4基で、射程距離は、現在設置されているヴェルニー公園から羽田空港あたりまで届くとも言われています。戦艦陸奥の主砲は、ルートミュージアムのサテライト施設でもあります。」「戦艦「陸奥」の主砲」に近づいて。「戦艦「陸奥」主砲弾本砲弾は「長門」型戦艦の主砲で用いられた砲弾で、九一式(昭和5年制式化)もしくは改修されたー式徹甲弾です。全長: 1738.5mm(弾底から風帽先端まで)重量: 1020kg(風帽を含む)最大弾体径: 409. 0mm炸薬量: 14.9kg(対弾丸重量比:約1.5 % )●一般的徹甲弾とは 砲弾の重量及び発射速度による運動エネルギーにより相手の装甲を貫通した後、遅延信管が 作動して内部を破壊するようになっています。●陸奥主砲と本徹甲弾 本徹甲弾は、風帽・被帽頭・弾体等で構成され、発射に用いられる装薬は 通常4個の薬嚢で構成され合計量は約220kgです。●本徹甲弾の特徴 浅い角度で海面に突入するように発射された本徹甲弾は、頭部が外れ、その後弾体(平頭弾)が 水中を直進。水線下の船体に被害を与えます。 ・海面突入時に風帽と被帽頭が外れます。 ・頭部が平らになった平弾頭は水中を直進します。「全長約19メートル、重さ約100トン」の主砲の装填口と「本徹甲弾(てっこうだん)」。主砲の装填口をズームして。「本徹甲弾(てっこうだん)」。「戦艦陸奥主砲」案内パネル。「戦艦「陸奥」は、世界初の16インチ砲を搭載した戦艦「長門」型の2番艦として大正10年(1921年)に横須賀製鉄所(造船所)を前身とした横須賀海軍工廠で竣工しました。連合艦隊旗艦の任にありましたが、昭和18年(1943年)瀬戸内海の柱島沖で火薬庫が爆発し、沈没しました。本主砲は昭和45年(1970年)戦艦「陸奧」引揚げ時に収容されたもので、その後、昭和49年(1974年)から東京の「船の科学館」に展示されていました。この主砲の移設が必要になり、横須賀での戦艦「陸奥」大改装80周年に合わせた「陸奥の会」の働きかけにより、ゆかりのある横須賀市に「船の科学館」から無償譲渡され、横須賀市民を始めとする多くの方々の支援により、平成28年(2016年)この地に移設されました。」「主砲はハイテクの塊4層構造 砲身は、約1トンの砲弾を約36km飛ばすための装薬の爆発力に耐えるように4重構造になっています。戦艦「陸奥」主砲の砲身は4層からなっており、1層目の内筒を、2層目の内筒に埋め込み、焼◯をします。その外側の3層目はワイヤーで巻いたワイヤー層となります。そして4層目に砲尾外筒と砲口外筒を装着しています。いわば「江戸の刀鍛冶等の匠のノウハウと西洋の技術の融合」であり、このような横須賀製鉄所(造船所)によって育まれた技術は戦後の日本の近代産業を支えてきました。」「戦艦「陸奥」の歴史」と「戦艦 陸奥 主砲」。45口径三年式40センチ砲Ⅱ型全長:18.8メートル重量:102トン実口径:41センチ(砲身長 45口径)初速:780メートル/秒射程:38,300メートル(最大)戦艦「陸奥」主要目(大改装後)基準排水量:39,400トン全長 :224.9メートル最大幅 :34.6メートル喫水 :9.5メートル主兵装 :40センチ砲x8門「戦艦陸奥 精密模1/100)」隣接のヴェルニー記念館で公開中」。時計台。「ヴェルニー記念館」👈️リンク。そして横須賀駅に戻る。明治22年(1889)6月に、大船~横須賀間の横須賀線開通に伴い開業し、終戦までは全国的にも極めて重要な駅であった。昭和15年(1940)に改築された現在の駅舎は、改築前の姿を比較的残し、古典的風格を備えている。わが国では数少ない階段のない駅としても知られている。ホームの屋根を支える柱の一部には、「1886」年の銘がある古いレールが再利用されている。また、横須賀市の「うみかぜの路(海と緑の10,000メートルプロムナード)」の起終点として位置付けている。駅名板「JR横須賀駅」の上に駅舎マーク(碇とカモメ)海を想像させるきれいなブルーに、市の鳥“かもめ”と“いかり”。横須賀らしくアメリカっぽい雰囲気も出ている。だいぶ以前はここに時計があったのではないだろうかか?「昭和52年市制施行70周年期記念 横須賀風物百選 JR横須賀駅「汽笛一声新橋を」の歌詞で知られる鉄道唱歌に「汽車より逗子をながめつつ/はや横須賀に着きにけり/見よやドックに集りし/わが軍艦の壮大を」という一節があります。明治22年(1889)6月16日、大船-横須賀間に開通した横須賀線の終着駅、横須賀駅開業当時の駅頭風景を上手に表現しています。そのころの横須賀は、現在右手に見える米海軍基地内に、明治17年(1884)に設けられた横須賀鎮守府などの諸施設がある重要な海軍基地となっていました。一方陸軍も、明治13年(1880)から観音崎をはじめとして市内の沿岸各所に着々と砲台を築いていました。しかし、人員や物資の輸送は、横浜-横須賀間の船便に頼っている実情でした。明治19年(1886)6月、陸海軍は、鉄道布設の必要性を記した請議書を海軍大臣 西郷従道、陸軍大臣 大山巌の名を連ねて総理大臣 伊藤博文に提出しました。この求めに応じて鉄道局は、明治20年(1887)に測量を開始し、明治21年(1888)1月に工事を起こしました。工事費は、明治19年(1886)から始まっていた東海道線建築費から40万円支出しました。当初終着駅は、観音崎付近へとの要望がありましたが、更に5万円から10万円の予算を必要とするうえ、市街地を通さなければならない等の複雑な問題があり、現在地となりました。現在の駅舎は、昭和15年(1940)に新築されたものですが、大正3年(1916)に改築した駅舎の面影をよくとどめている貴重な建物です。開業当時、汽車はおよそ1時間ごとに発着し、東京-横須賀間に約2時間を要しました。客車は1・2・3等とあり、煙突の長い機関車がそれを引きました。3等運賃は39銭で、当時の米価が1升11銭前後でしたのでかなり高かったようです。乗客数は、明治40年(1907)ごろで1日平均1,843人と記録されています。横須賀-久里浜間は、軍の求めにより、昭和19年(1944)4月に開通したものです。」「スカレーWELCOME!! カレーの街 横須賀」。「カレーの街 よこすか日本のカレーライスは、開国を機にインドではなく英国式カレーとして伝えられたとされています。栄養バランスの良いカレーは明治期の海軍の食事に取り入れられ人気メニューとなり現代に引き継がれてきました。家庭料理としてのカレーライスは、兵隊さん達によって、全国に広められたと言われています。海軍と共に歩んだ街横須賀は、全国にカレーを発信した街であると考えています。そして、明治時代に食べられていたカレーラースを現代に蘇らせ、ここ横須賀から全国に発信をしています。」駅舎に戻る。4月5日 金曜日 と。「横須賀観光情報」をビデオで案内。そして2Grに分かれて、1Grの私は9:40発の「三崎口駅 ゆき」に乗車。車窓からヴェルニー公園の「逸見波止場衛門跡」を見る。先日、クルージングした横須賀港👈️リンクを見る。「YOKOSUKA軍港めぐりクルーズターミナル」。「本町3丁目」交差点から「横須賀海軍施設 (アメリカ海軍横須賀基地)」入口ゲートを見る。「三浦一族ゆかりの地 散策マップ」👈️リンク をネットから。 ・・・つづく・・・
2024.04.15
コメント(0)
「日本大学生物資源科学部」のお花見を続ける。そして突き当りの「9号館」前を右折して進み直ぐに左折して「善行長後線」方向に進む。この道の両脇のソメイヨシノの桜並木も満開中。ズームして。そして「バラ園」の手前、「5号館」裏の植栽の場所を訪ねた。桜並木を振り返る。そして様々な花をカメラで追う。「ハナモモ」であっただろうか。「ハナモモは、花を観賞するために改良されたモモです。サクラの花の咲く時期に前後して開花の最盛期を迎え、あでやかなピンクや赤、白の花が春の庭を彩ります。モモは古来より中国では災いを除き、福を招くとされてきました。日本への渡来は古く、弥生時代といわれています。『古事記』にもイザナギが黄泉の国から逃げ帰るときに悪鬼にモモを投げつけて退散させたとあることから、古い時代から栽培されていたことがうかがえます。その後、平安時代には3月3日の桃の節句が祝われ、モモの花が観賞されるようになりました。このようにモモは太古から日本人に親しまれてきましたが、観賞用のハナモモとして改良が行われるようになったのは江戸時代に入ってからです。現在もハナモモの品種改良はあまり進んでおらず、栽培されている園芸品種には江戸時代に作出されたものが多くあります。樹形には立ち性、枝垂れ性、ほうき立ち性があり、狭いスペースにはほうき立ち性、広い場所には立ち性や枝垂れ性など、場所に適した樹形を選ぶことができます。庭木として植えられるほかに、‘矢口’などは促成の枝ものとして切り花に利用されています。」とネットから。そして椿の花。落ちた花を。この切り株は、ソメイヨシノであっただろうか?斑入(ふいり)系というらしいのですが、紅白に色分かれしているもの。咲き方は八重咲き。落下した花びらの姿も美しいのであった。ズームして。ピンクの椿。花びらには僅かに赤い筋が。紅白の「ハナモモ」が並ぶ。白の「ハナモモ」。「赤のハナモモ」。「ミツバツツジ」。ミツバツツジは、関東から中部に分布する落葉低木で、和風、洋風どちらの庭にもマッチする植物です。ツツジやシャクナゲの仲間で、枝先に3枚のひし形の葉をつける落葉(一部常緑もあり)種が、一般にミツバツツジ類と呼ばれており、紫色の花を咲かせ、開花後、あるいは同時に葉が出るのが特徴。椿・「紅白美人」であっただろうか?「紅白美人」は、名前の通り紅白の花色が美しい椿。赤と白と桃色の三色が乱れ咲く花木。「源平枝垂れ桃」であろうか?豪華な色合いは春にふさわしいのだ。赤と白が入り混じるので源平合戦になぞらえた名前。江戸時代から好まれて品種改良されてきたと。日本人好みのハナモモ。近づいて。再び「赤のハナモモ」。近づいて。「ピンクのハナモモ」も再び。近づいて。この桜は「オカメザクラ」?早咲きのサクラの一つで、1947年にカンヒザクラとマメザクラ(富士桜)をイギリスで交配して作ったものが逆輸入された。花色が濃くて華やかでありながらも、樹高が大きくならないことから、人通りの多い場所の街路樹や狭い庭のシンボルツリーとして使われる と。この桜も満開!!そして「海棠(カイドウ)・花海棠(ハナカイドウ)」。近づいて。さらに。「紫木蓮(しもくれん)」。通常、モクレン(木蓮)と言えば、濃紅色の花を咲かせる この「紫木蓮(しもくれん)」。白花を咲かせるのは、 ハクモクレン(白木蓮) 。 春、新葉が出る前に、骨格がしっかりした木の枝先に、濃紅色で卵形の大きな花を咲かせる。 花は上向きに咲き、全開せず半開状(開ききらない状態)に咲く。 花色が濃い紅色は花弁の外側だけで、花弁の内側は白または白味がかった極薄紅色なのだ。白い花は「リンゴの花」であっただろうか。別の「リンゴの花」に近づいて。さらに。さらに。この花びらの先端が丸い林檎の花の、リンゴの種類は「陸奥」??」白亜の建物の前にあったヒマラヤスギに似た「巨大杉」。見上げて。「レバノンシーダー Cedrus libani西アジア産の針葉樹。ヒマラヤスギに似た木で、大木になりますが、生長がおそく、成木は枝先が少し垂れます。(マツ科)」・レバノン、キプロス島及びタウルス山脈(トルコ南部)を原産地とするヒマラヤスギの仲間で、 レバノンの国旗にデザインされている。 ・雄大な樹形が好まれ、欧米ではヒマラヤスギより多く公園等に使われる。日本に渡来したのは 明治初年で、新宿御苑に植栽された。現代でも日本での活用は乏しく、一部の公園や植物園に 見られるのみ。・大木となることや材に香気があり、防虫効果があることから、優良な建材(ピラミッドの 基礎等)、船材(帆船の柱等)として地中海域の古代文明を発展させるのに貢献し、 イタリアンサイプレスと共にノアの箱舟の材料になったとされる。しかし、乱伐の結果 (紀元前10世紀にソロモン王の寝殿造りのために伐採されつくしたとの説も)、自生種は 今日では世界遺産として指定される地域内にわずかに残るのみとなった。・葉の長さはヒマラヤスギとほぼ同じか、やや短い。成長はヒマラヤスギよりもやや遅い。 枝はまばらな印象を受ける。花は8月頃に咲き、「私のことを考えて」などの花言葉もある。葉はヒマラヤスギよりも緑が濃いのでは。「SHONAN STAFF COURT」と入口に。白亜の木造・2階建ての建物。大学関連の職員の住居・宿舎なのであろうか?そして小田急線の駅に向かって進む。校門近くのソメイヨシノ。奥には「日本大学生物資源科学部」の高層校舎の姿が。「日本大学生物資源科学部」の正門。通学路のソメイヨシノの並木。そして小田急線、東海道線、神奈中バスを利用して、平塚市土屋にある「平塚市土屋霊園」に元上司の墓参り&花見に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.04.14
コメント(0)
「宇都母知神社」を後にして「慶應義塾大学 湘南藤沢キャンパス」に向かって進む。慶応大学の敷地を囲む道路に突き当たり、右折すると直ぐ左側にあったのが「縄文時代早期末の炉穴群」。下の写真の如くに、前面が金網になっているコンクリート製の囲いで炉穴群が保護されていた。「縄文時代早期末の炉穴群縄文時代草創期~早期(今から壱万弐千年前~六千年前)の竪穴住居には規模が小さいものが多く、屋根も低かったと想像され、住居の中央付近に食料調理用の炉を設けると火災を起こす心配もあったためか、竪穴住居内には炉を設けていない。そして散村形態の集落からかなりの間隔をおいた風下になる一段下がった斜面部にこのような炉穴を設け、ここで食料の煮焚きを行っている。十年を超す年月の間には炉穴を何回も作り替えるので、このように交錯重複することもある。 平成四年四月 慶應義塾」。金網の隙間にレンズをセットして内部・炉穴群を撮影。さらに、慶応大学の西際の道を南に向かって進む。右側に富士山、そして丹沢山塊、大山の姿が確認できた。富士山をズームして。中央に「二子山」その右に「駒ケ岳」、さらに「神山」の姿が。西側緊急車両出口にはゲートが。。「注意 緊急車両進入路につきこの付近は駐車を禁止します」と。そして左折して進むと左手にあったのが「遠藤富士浅間神社」。慶應義塾大学・湘南藤沢キャンパス敷地内にある遠藤富士浅間神社の階段が正面に。こじんまりしていてきれいな神社で、SFCの守護神??「浅間神社」。石段の上に社殿。「由來浅間神社は矢崎と苅込のコミヤであり「浅間さま」として地域の人々に慕われてきました。平成2年(1990年)4月慶應義塾大学が当地に開設しました。浅間神社は慶應キャンパスにとり囲まれる格好となりましたが、矢崎と刈込の要所であるため移設する事無く現在地に残りました。社殿は老朽化したためこれを契機に慶應義塾の協力を得て氏子により現在の社殿が再築されました。浅間神社は以前にも増して氏子の信仰を受けると共に学問の神様として発展することでしょう。 平成三年四月吉日」平成3年4月に作られたもの。平成2年4月にSFCが開設された際、浅間神社がSFCに近かったものの、移設する事無く現在地に残ったと。義塾もこの際協力し、社殿を改修した と。SFCの誕生よりずっと前から遠藤を見守ってきた浅間神社、数々の歴史を乗り越えつつ、今も遠藤、そしてSFCを見守ってくれていると。この石碑には「富士浅間神社ハ安永年間ノ創建ニシテ今ヲ去ル百六十余年木ノ花咲耶姫ヲ祀ル當社ハ元矢崎ノ氏神ナリシガ苅込一同ノ崇敬スル□トナリ明治三十年其ノ氏子トナル明治四十三年其筋ノ布告ニ依リ當社モ御岳神社ニ合祀サルルニ當リ隣地五四六五番地ニ遷シ奉リ以来二十八年社殿ノ腐朽セルニヨリ再建ノ議起ルヤ御岳神社総代ヨリ元當社敷地ノ五四六四番地ノ地上権ヲ氏子一同ニ於テ譲受ケ再建奉還ス爰ニ記念碑ヲ建立シ永遠ニ傅ヘシト云爾 昭和十二年三月十五日 氏子一同」と。明治三十年頃に遠藤地域で富士浅間神社への信仰が深まり、およそ100年以上前から浅間神社が始まったようです。この13年後、浅間神社は明治四十三年に御嶽神社に合祀され、隣の番地に移動してしまいました。そして、社殿が老朽化し、再建の機会に浅間神社は元の場所に戻り、また独立した神社になったのだと。「縄文時代最古の住居(竪穴住居?)」「縄文時代最古の住居(竪穴住居?)ここの地下に埋没保存してある住居はローム層上面に作られた東北から西南に長軸方向のある長径約7メートルの長楕円形の住居で、掘りくぼめた周囲の壁面は明瞭でなく、従来は平地住居などと呼ばれていたものに該当するが、住居の床面は当時の地表面より10センチ前後は掘り下げられていたと思われ、竪穴住居と考えるべきてあろう。両端の柱穴は深さ約30センチに真直に掘られているが、両測の各3本柱穴は屋恨の中央に向かって傾斜した穴か掘られている。縄文時代草創期、今から約12,000年前の竪穴住居は国内では3例目の発見で、考古学上極めて重要な遺構である。住居内に炉跡はない。この付近に住居を営んだ草創期の細隆線文土器を使用した人々は湘南の校地全域で鹿、猪、兎などの獲物を追って食料獲得活動をしたようで、弓矢の発達以前のこの時代に使用された有茎尖頭器と呼ばれる投げ槍の先につけた石器は校地内各地から発見されている。 平成4年4月 慶應義塾」「工学博士 関野克氏による復元家屋骨組」。「慶應義塾大学 湘南藤沢キャンパス」の「キャンパスマップ」。リスト。キャンパス内の建物の名称はほとんどがギリシャ文字!!!Ω館の他にもθ(シータ)館、ο(オミクロン)館など、建物ごとにそれぞれ異なるギリシャ文字が充てられているのであった。詳細は「SFCの建物名称、ギリシャ文字の由来」👈️リンク を参照下さい。大文字と小文字をどのように使い分けているのであろうか?「慶應義塾湘南藤沢中等部・高等部」の校舎が前方に現れた。「慶應義塾の校旗(通称「塾旗」)」が前方に。「慶應義塾の校旗(通称「塾旗」)」は三色旗と呼ばれている。しかし実際には青と赤の2色を3段に配したもので、例えば青、白、赤のフランスの国旗のように、3色からなるものではない。それに、色彩についても、フランスのそれが特に平等とか、自由、博愛とかを象徴するというほどの深い意味は、別に塾の旗にはないようだ。ペンマークの由来と意味明治18年(1885年)ごろ、塾生が教科書にあった一節「ペンには剣に勝る力あり」にヒントを得て帽章を自分たちで考案したことからはじまり、その後多数の塾生・塾員の支持を得て公式な形として認められ、今日に至っています。ペンマークは、その発祥のルーツにも見られるように、学びの尊さを表現するシンボルであり、慶應義塾を指し示すだけでなく、広く認知された社会的な存在と位置付けられます。」と。「慶應義塾湘南藤沢中等部・高等部」の校舎の入口。この坂を下ると「大庭獺郷線」に繋がっている。左手には池および慶応大学の白き建物が。丸い建物は学生ラウンジ・「Ω(オメガ)舘」。慶応大学湘南キャンパスの学生ラウンジ内にあるチェーン店・サンドイッチの店「サブウェイ 慶應大学SFC店」の建物。これは、以前に訪ねた時の写真で「旅人かへらずの碑」。ガラスのプレートなので、撮影しても文字が見えないのであった。刻まれているのは、詩である。「旅人は待てよこのかすかな泉に舌を濡らす前に考へよ人生の旅人 西脇順三郎」と。「ガリバー池 (鴨池)」を見る。「2号遊水池この池は、遊水地になっており、大雨の時、雨水を一時貯水して河川へ少しずつ流し、河川の氾濫を防ぐ大切な役目をします。」「2号遊水池」は「ガリバー池 (鴨池)」と呼ばれているようであった。そしてこの日の「藤沢地名の会」・「春の御所見南を歩く~宮原・獺郷・打戻の史蹟を訪ねて~」の行程を全て完了し、バス停「慶応大学本館前」で解散となったのであった。湘南台駅行きのバスに乗り込み、帰路についた。バスの車窓から「Α(アルファ)館: 本館」を見る。「湘南慶育病院」。右折して「高倉遠藤線」に出る。「藤沢ジャンボゴルフ」の巨大ネットを左手に見る。「藤沢ジャンボゴルフ」のクラブハウスを見る。「藤沢市 北部環境事業所」。「いすゞ自動車藤沢工場」。「引地川」を渡る。「エスタテラ湘南台」。そして小田急・湘南台駅に到着し地下広場・「湘南台アートスクエア」へ。2022年3月に誕生。正面に真っ赤な壁画が。壁画の幅は25m。「郷土に捧げる讃歌」をテーマとした壁画は、鮮やかな赤色の上にピアノの鍵盤の上を勢いよく走り抜ける自転車や、奏でられた音をイメージした粒子が彩られており、思わず入り込みたくなってしまう風景が広がっているのである。この壁画を制作したのは、湘南台在住の画家・廣田雷風さん。壁画を右側から順に追う。振り返って。そして小田急線イて自宅へと向かったのであった。
2024.04.14
コメント(0)
この日は1週間前の4月6日(土)、地元の日本大学生物資源科学部と日本大学藤沢高等学校・藤沢中学校の敷地内にある桜並木を愛でに向かう。途中、道路沿いにある地元の神社・地神社の境内に咲くソメイヨシノを見上げる。満開のソメイヨシノ。ソメイヨシノの下に赤い椿の花が。ズームして。椿の花は既に散り始めていた。そして小田急線の踏切を渡り、日本大学、藤沢高等学校の構内道路に入り、道路脇に自転車を駐め、散策開始。昔は右側にも桜並木があったが、台風で一部の桜が倒れてから、安全を考慮して老木は全て根本から伐採されたのであった。伐採された桜の老木の切り株の姿を。残された老木の桜をの花を見上げて。日本大学生物資源科学部の陸上グランドとその先の小田急線沿いの桜並木。日本大学生物資源科学部の高層校舎方向を見る。左側の緑のネットは、日本大学藤沢高等学校の硬式野球部の練習グランド。陸上グランドの赤いアンツーカーと桜並木のコラボも美しかった。100m競技のアンツーカーと桜並木。ズームして。日本大学藤沢高等学校・日本大学藤沢中学校の正門。ズームして。そして反対側の陸上トラック沿いの通学路の桜並木。ここは、コロナ以後は学校関係者以外は入ることが出来なくなってしまったのだ。入口左側の小さな森をズームして。「しげまるの森案内板この辺りー帯は昭和50年代中頃まで本学の林学科(現森林資源科学科)・樹木園として整備されていました。その後体育館新設に伴い現在の規模に縮小され、長い間放置された森林状態となっていましたが、平成27年3月に除・間伐などの手入れが行われ、樹木とふれ合い森のはたらきを学ぶための樹木見本園(しげまるの森)として整備されました。約0.5haの園内には外国産樹種も含めて30種以上の樹木が生育しておリ、森のニ酸化炭素循環、手入れ不足の森と竹林の拡大、移入外来種などのテーマ別に整備されています。年が明けてツバキが咲き、春のサクラから芽吹きの新緑、夏の涼しい木陰、秋の木の葉の色づきまで、一年を通して森の変化を感じることができます。」通学路の桜並木を見上げて。土曜日の早朝の為か、通学する生徒の姿はほとんどなかった。ズームして。陸上グランドの線路沿いには観覧席も。再び校内の通学路をズームして。これぞ満開。「胴咲き桜」と呼ぶと。「‘染井吉野’を含めた多くのサクラの仲間は、ひとつの冬芽から花あるいは葉のシュートが伸びていきます。花が伸びる芽は花芽、葉が伸びる芽は葉芽と言うこともあります。通常、こうした冬芽は葉の付け根の葉腋と呼ばれる場所に夏季に形成され、翌春に開花あるいは展葉します。ところが、こうした冬芽からではなく、幹や根などから葉のシュートが直接伸びる場合があります。こうしたシュートを不定枝、伸び始めの芽を不定芽と呼びます。どうして不定芽ができるのかはよく分っていませんが、休眠したままだった潜伏芽が伸びる場合もあります。また、‘染井吉野’では樹冠部にストレスがかかって衰弱すると、幹や根から不定枝がよく伸びることも観察されています。幹から直接花が咲いているように見える現象は、この不定枝によるものです。ただし、よく観察すると、花のシュートは幹から直接伸びているのではなく、必ず前年の葉のシュートについた冬芽(花芽)から伸びています。つまり、前年に幹から直接伸びた不定枝についた葉の葉腋に、花芽がつくられて、翌年に開花するのです。不定枝は長く伸びる場合もありますが、数ミリメートル程度の短い場合もありますので、そうなると直接幹から花が咲いたように見えるのです。」とネットから。人工芝、赤いアンツーカーの陸上グランドを見る。再び「日本大学生物資源科学部」の高層校舎をズームして。そして自転車を駐めている場所に引き返す。再び100mトラック、桜並木を見る。 ・・・つづく・・・
2024.04.13
コメント(0)
「宇都母知神社」の「一の鳥居」そして「参道」方向を見る。右手の社務所に繋がっている参集殿には、七段飾りの雛人形が飾られていた。氏子が持ち寄ったものであろう。2段5人飾り。親王飾り。社務所の部屋の内部へ。ここにも7段飾りが。「神社振興対策の指定神社とする」と。神社振興対策の指定神社とは、神社本庁が1975年からおよそ40年にわたって指定してきた神社です。神社振興対策は、氏子や住民と神社との密着を図ることで、神社の振興をはかるとともに周辺神社にも良い刺激を与えることを目的としています と。「一の鳥居」そして参道を見る。「宇都母知神社 郷土資料館」が左手に。「宇都母知神社【御祭神】 天照大御神 伊弉諾、伊弉再二神の生み給う方で、高天原を治められ、神徳宏大で人々から敬われ、 日の神と称え奉られた 稚産霊神 豊受大神の御親神で五穀や養蚕を司る神様です 若日下部命 仁徳天皇の皇女で雄略天皇の皇后になられた方で、非常に人徳の高い方で養蚕を奨励された【境内神社】 菅原神社 御祭神は菅原道真公で、学問の神様 稲荷神社 御祭神は倉稲魂神で、農業、商工業の神様【由 緒】当神社は創立年代は詳らかではないが、延喜式内社で21代雄略天皇の御代(幸喜1119年 西暦459)に厳粛な祭祀が行われたことが、日本総風土記に記されている。風土記によると、当神社の所在地は相模国鷹倉郡宇都母知郷にあったとあります。61代朱雀天皇、天慶2年9月(皇紀1599年 西暦939)若日下部命の御尊霊を大和国泊瀬より遷座して相殿に奉祀された。90代伏見天皇、正応3年8月(皇紀1950年 西暦1290)鎌倉8代将軍久明親王の執権北条貞時が社殿を改築し、同年9月に参拝された。寛永4年11月(皇紀2287年 西暦1627)領主高木主水源正次が社地900坪(約三千平方米)を寄進し、又、本殿の改築を行った。当神社は明治6年12月郷社に列せられた。大正12年9月の関東大震災により社殿等全てが倒壊したが、村民全員が総力をあげた努力により、倒壊後わずか3年の大正15年9月に全てが、現状のように再建された。境内地は一丁五反(約一万五千平方米)で全域風致林の指定を受け、自然環境保全地域に指定されている。打戻字大平2009番地には溜池一反五畝(約150平方米)の社有地がある。社務所 参集殿等の建設を記念して、この碑を建てる。 平成16年9月 吉日」手水舎木製の祠の中にあったのが右:庚申供養塔 六臂青面金剛像 文政十年(1827)丁亥十一月 打戻村講中左:???参道途中には大きな石燈籠が。参道入口石鳥居の手前、左側にあったのが「鳥居建設碑」。「鳥居建設碑」の下は古墳であると。原形をとどめていないが、もとは円墳があったと。おそらくこの古墳の被葬者がはじめて宇都母知の神を祀り、その時の祭神はこの土地を最初に開拓した土豪の守り神でありその土豪の祖神であったと思われる と資料から。「鳥居建設記念碑」。「鳥居建設記念碑平成天皇の御大礼を記念して鳥居の再建を行う。従前は木造の鳥居であったが大正6年に花崗岩で建設された。大正12年の震災により笠木が破損し修理が行われたが、その修理箇所が再び危険となった為、氏子一同の総意により再建するものである 平成2年9月吉日」この時点・平成2年で「平成天皇」と使うのはおかしい!!社号標石「延喜式内 宇都母知神社」。一の石鳥居は神明鳥居。足元には、先代の石鳥居が横たわっていた。「御神木 椎の木」。根本を見る。「御神木 椎の木」を見上げて。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.04.13
コメント(0)
正面に「宇都母知神社」の「鐘楼」が姿を現した。境内の西側、道を挟んだ所にあった。鐘楼は昭和20年(1945年)の春に太平洋戦争の物資回収により献納されたため暫く設置のされないままだったが、昭和50年(1975年)になって、天皇在位50年を記念して鋳造されたものを再建。また、境内の全域が風致林の指定を受けており、昭和49年(1974年)には自然環境保全地域に指定されているとのこと。「梵鐘」をズームして。昭和50年(1975年)になって、天皇在位50年を記念して鋳造されたのだと。以前に訪ねた時の写真。鐘撞堂の前に立つ石碑には「寛平三年 式内 宇都母知神社」と。鐘撞堂の横には左:「大地神」の石柱。 文久四年(1864)甲子正月 邑惣連 世話人 和田 金子 宮地他 七沢村石工 前場長エ衛門亮張 と。右:青面金剛神 南一ノ宮 西□□ 北□□ 天和四(1684)□□土地改良事業完成記念碑、「甦る大地 藤沢市長 葉山峻 書」郷土の鎮守、宇都母知神社が鎮座する、藤沢市打戻字大仲及びそれに接する宮台、大谷戸、根下、矢崎の地は、原始の昔より農耕が営まれてきたが、畑地は傾斜地が多く狭隘であり、山間に位置した水田は強度の湿田で生産力も低く、長い間耕作農民を苦しめ、経営の伸展を阻害してきた。昭和四十八年、藤沢市が国の施策である第二次農業構造改善事業を導入するに及び、当地の地権者百十二名は、この事業の実施推進によって生産基盤の改善と経営の安定を計るべく、度重なる協議を経て、土地改良区の設立に踏み切った。以来十年間の歳月を費やし、本土地改良区は、県、市、農協等関係機関の懇切な指導と地権者及び役員の溢れる熱意により、幾多の困難を乗り越えて、事業費二億七千万円、総面積四十五ヘクタールに及ぶ土地基盤整備事業を完成させ、更にその耕地内の二十ヘクタールを対象に、事業費四千五百万円をもって畑地灌水施設を完工し、また、ガラス温室団地及び養豚団地を配置するを成し得た。これにより、改良地区の中心部を通る、工費六千万円をもって完全舗装された延長千百三十六メートル、幅員七・五メートルの幹線道路をはさんで、農耕地は平坦にして整然と区画され、どの耕地も巾四メートル以上の農道に接する、良好なしかも早害の懼れのない近代的農耕地に生まれ変わった。この改良事業は、今後当地の農業経営の合理化と発展に寄与するところ限りないものがあると思われる。思うに、当地の農耕の遥かな歩みの中で、本事業はまさに歴史的かつ画期的な大事業であったと言うべく、本土地改良事業の完成にあたり、その〇概を記して、後世に伝えんとするものである。昭和五十八年一月 藤沢市打戻土地改良区」写真は以前に訪ねた時のもの。西側入口から境内に向かって進む。「宇都母知神社」案内板。当地(打戻)の地名の由来として、宇都母知神社の「宇豆毛遅」(うずもち)が訛って打戻(うちもどり)となったという説がある。宇都母知(うつもち)神社は御所見地区では最も古い神社で、、うつもちの「うつ」は「囲まれたところ」を指し、「もち」は「小さな盆地」を意味し、小出川流域の盆地を中心とした土地がこのように呼ばれたという説もあるのだ と。延長5年(927年)の『延喜式神名帳』に記載されている相模国の延喜式内社十三社の内の一社(小社)とされるとのこと。レンタル自転車置場。「SHONAN PEDAL」このシェアサイクル事業「SHONAN PEDAL(湘南ペダル)」は、江ノ島電鉄㈱様が事業主体となって、自治体などの後押しを得ながら様々な場所に設置する事で地域住民・観光客の手軽で新たなモビリティを提供する目的で立ち上げられた と。料金は利用開始30分まで 130円(延長)15分ごと 100円12時間まで 1800円よって2時間のレンタルで730円になるようだ。そして「拝殿」の手前にあったのが「神輿殿」。「宇都母知神社」の「神輿」👈️リンク の写真をネットから。神明造りの「拝殿」を斜めから。正面から。御祭神 天照皇大御神(あまてらすおおみかみ) 稚産霊神(わくむすびのかみ) 若日下部命(わかくさかべのみこと) 天照皇大御神は伊弉諾(いざなき)、伊弉冉(いざなみ)二神の生み給う方で、高天原を治められ、神徳宏大で人々から敬われ、日神とも称え奉られた。稚産霊神(わくむすびのかみ)は豊受大神の御親神で五穀や養蚕を司る神であります。若日下部命(わかくさかべのみこと)は仁徳天皇の皇女で雄略天皇の皇后になられた方で非常に人徳の高い方で養蚕を盛んに奨励された。祭日 9月15日 由緒 当神社は創立年代は詳かではないが延喜式内社で二十一代雄略天皇の御代(西暦四九五) に厳粛なる祭祀が行われたことが日本総風土記に記されている。なお風土記によると 当神社の所在地は相模国鷹倉郡宇都母知郷にあったとあります。六十一代朱雀天皇 天慶2年9月(西暦939)、若日下部命の御尊霊を大和国泊瀬(はつせ)より遷座して 相殿に奉祀されました。九十代伏見天皇正応3年8月(西暦1290)、鎌倉八代将軍 久明親王の執権北條貞時が社殿を改築し、同年9月に参拝された。寛永4年11月 (西暦1627)、領主高木主水源正次が社地900坪を寄進し、また本殿の改築を 行った。震災当時の建物は安政5年(西暦1858)に建築されたもので当時の記録に よると本殿9坪(約30平方米)拝殿25坪(約82平方米)幣殿4坪 神楽殿20坪 (約66平方米)であった。また、当神社は明治6年12月に郷社に列せられた。 大正12年の関東大震災により、社殿等全てが倒壊したが村人一同の総力をあげた努力 により倒壊後わずか3年、大正15年9月に総てが現状のように復旧した。本殿神明造 6坪(約20平方米)幣殿5坪(約16平方米)拝殿12坪(約40平方米)神楽殿 16坪(約53平方米)参集殿15坪(約50平方米)神輿殿3坪(約10平方米)が 再建された。境内地は約1丁6反(約16000平方米)で全域風致林の指定を受け、 また昭和49年、自然環境保全地域の指定を受けている。打戻字大平2009番地には 溜池1反5畝(約150平方米)の社有地もある。この神額は、第65代花山天皇の後裔である神祇伯資顕王(1731年~1785年、花山源氏嫡流、白川伯王家)によって江戸時代中期に謹書されたもの。神額左下に「神祇伯資顕王謹書」と見える。白川伯王家は、伝統祭祀を継承された公家源氏であり、神祇伯(神祇官の長官)に補任されて、のちに白川を称した。日本国旗が青空にはためく。複数の日本国旗の姿を同時に見るのは、何時以来であっただろうか?提灯台に納まった提灯には、「宇都母知神社」の文字、「十六葉一重菊」紋が。拝殿を望む。正応三年(1290)鎌倉幕府九代執権北条貞時が社殿を改築、同年九月に参拝しました。寛永四年(1627)には領主高木主水源正次が社地九百坪を寄進の上本殿を改築しました。現在の建物は、旧建物が関東大震災で全壊し、大正十五年(1926)九月に内務省造神宮技師の設計に基づき再建されたものです。正規の神明造りで、拝殿は「土間神殿」と呼ばれ、床がなく現在はコンクリートになっていますが、以前は砂利が敷き詰められていました。特に本殿は楝持柱が一直線に地面に延び、側面が美しいものです。拝殿内は拝殿内撮影禁止 と。「神楽殿」。「社務所」。「本殿」を右側から見る。「拝殿」の右側には2社が。「菅原神社」。御祭神:菅原道真。「菅原神社【御祭神】 右大臣菅原道真公【神徳】 学間の神(入試合格・学業成就) 文芸の神(芸道上達)【御由緒】菅原道真公は幼少より詩歌に才能を発揮し、十一歳で初めて漢詩を詠んだとされています。宇多天良の厚い信頼のもと、文章博士に任じられ、寛平六年(八九四年)には遣唐大使に任じられました。醍醐天亶の御代に右大臣に昇進して左大臣藤原時平とともに国家の政務に努められました。故あって大宰府に赴任されましたが、詩歌・文筆に親しみ励んだことにより、復世広く学問・文芸の神に仰がれるに至りました。現在においても「学問の神様」、「天神様」として入試合格、学業成就、芸道上達の信仰厚く、人々の生活の中に受け継がれています。道真公のお使いとして「使いの牛」があります。これは道真公の生年が乙丑の年、薨去が丑の日という説、道真公の御遺骸を載せた牛車が座り込んで動かなくなった場所を基所と定めた説など道真公と「使いの牛」の関わりは深いと言われます。」「絵馬」掛け所。「絵馬」には「馬」の字が鏡に写った如くに。「うま」を逆から読むと「まう」と読めます。「まう」という音は、昔からめでたい席で踊られる「舞い」を思い起こさせるため、福を招く縁起が良いのだと。「菅原神社菅原道真公をお祀りした神社です。菅原道真公は誌や文学に優れ五歳には詩歌を詠んだといわれています。絵馬古来神様に祈願する時は生きた馬を奉納しましたがその後馬の絵を奉納するようになり最近では十二支などいろいろな絵や文字を書いて奉納するようになりました。」「菅原神社」。「第ニ次世界大戦集結五十年伊勢神宮鎮座二千年記念菅原神社造営 平成八年九月建立社殿ノ損耗著シク氏子ノ総意ニヨリ社殿ヲ建築シ鳥居、灯籠等ヲ設置スル」再び「宇都母知神社」の本殿を見る。朱の鳥居の先には「内錑稲荷神社」。社殿に近づいて。「稲荷神社【御祭神】 字迦之御魂大神(うかのみたまのかみ)【御神徳】 稲作・農業の神 (家内安全・商売繁盛・厄除)【御由緒】 お荷さんは、全国に三万社以上あるとされていますが、総本宮は京都の伏見稲荷大社です。 『山城国風土記』によると、和銅三年(七一一年)秦伊呂具(はたのいろぐ)という人物が、餅を 的に弓を射た際に餅が自鳥に変わって山の彼方へ飛んでいき、その降り立った場所に稲が たくさん実ったと伝えられています。その場所に、神様をお祭りして伏見荷大社が創建 されました。 稲作・農業の神として全国にその信仰は広がり現在では「家内安全」・「商売繁盛」・「厄除」 など、生活全般にご利益をもたらす「お稲荷さん」として崇敬されています。 稲荷神社の象徴であるキツネはお稲荷さんの使者であり、神聖な動物とし鎮座しています。」境内社の右側に並ぶ、石碑と石燈籠。「内錑稲荷神社燈籠の復元について神社の境内に散乱する燈籠を確認前場石材店の協力により平成十九年六月に建立する。以下略」。御神燈が2基。「霊峰富士山信仰として浅間講なる集まりが発展したものと思われる。厚木市七沢地区にある、鐘ヶ岳の頂上近くにある浅間神社へ登る。参道に一丁目毎の石碑に打戻村の住人五十六名の方が刻まれている。」と。以下五十六名の氏名・子孫の名前が刻まれていた。神明造りの本殿を横から。「平成五年九月 水道管布設寄付者芳名」板。反対側に回り込んで本殿を見る。説明員の方が古地図から現在地を説明。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.04.12
コメント(0)
「遠藤宮原線」の「榎戸」交差点を右折して片側2車線の歩道を東に進む。道路の反対側には大きなガラス温室が続く。「サンクイックトマト 井出農園」と。井出トマト農園は、「1次産業」であるトマト生産から、ジュースやケチャップなど加工品を手掛ける「2次産業」、そしてそれら製品を直営店舗や自然体験、他農業経営者の支援を行う「3次産業」までの「6次産業」を展開している。農業の新しい価値の創造を通じ、社会からの期待に応え、一人ひとりが輝く豊かな世界の実現を目指している と。こちら側にがレタス畑が。そして路地を左折すると右手にあったのが「妙福寺」の「山門」。藤沢市打戻2587。「山門」前から「鐘楼」を見上げる。「山門」前に「妙福寺」の掲示板。「今月の聖語ただ我信ずるのみにあらずいのちに合掌=安穏な世を目指して=この文は、「また他の誤りを誡めんのみ」と続きます。世の中を良くするために、良いと思ったことを自分自身にとどめず、他人の誤りを注意していこうということです。私たちは日常生活のなかで、自分だけの正解を相手に押し付けてしまったりすることがあります。それはともすれば、むやみに相手を否定しかねず、発展性のないものになってしまいます。他人に注意や忠告などをする場合は、一度立ち止まって独りよがりの自分だけの正解にとらわれていないかよく考え、常に相手を尊重し、安穏な世の中を願いながら行ないましょう。鎌倉時代の日蓮聖人はお釈迦さまが説かれた経典の1つ『法華経』を信仰の基にしましたが、改めてすべての仏教経典を読み込まれて人びとの安穏を願い『立正安国論』という書を著しました。◎日蓮聖人ご遺文『立正安国論』私たちの心の持ち方を改め安穏な世の中にしていこうと、鎌倉幕府の実力者である前執権最明寺入道北条時頼に上奏した書物です。日蓮聖人の代表的な著作です。 文応元年(1260)39歳」石段を上り、山門を潜って境内に。巨大な日蓮聖人像が迎えてくれた。お顔をズームして。「祈願堂」。近づいて。扁額中央には「南無妙法蓮華経」の文字が。観音像。「鐘楼」。梵鐘をズームして。「本堂」。近づいて。石灯籠。天水桶。近づいて。日蓮宗の宗紋「井桁橘(いげたたちばな)」が中央に。本堂を正面から。「本尊釈迦牟尼仏(三宝諸尊:大正・昭和の火災で一尊のみ安置)。昭和九年(1934)の火事で、堂塔を焼失、ニ棟あった蔵にも火が入り、将軍関係などの寺宝をすべて失いました。また記録類も失われました。平成五年(1993)、日遠上人第三百五十遠忌の記念として、本堂・客殿・庫裡を新築しました。妙福寺は、慶長ハ年(1603)に徳川家康の側室「お万の方」(水戸光圀祖母)が帰依した高僧日遠上人を開基開山として創建され、徳川家の庇護を篤く受けたと伝えられています(縁起より)。別説に正保三年(1646)創立とされていますが、日遠は慶長ハ年に亡くなっているので、弟子の日福が師を開山に据えたと考えられます。また、十五代将車徳川慶喜が隠居後、当寺で暮らすつもりでしたが鳥羽伏見の戦い敗れ実現しませんでした。170人ほどが宿泊可能な庫裡が建てられ、当時は寺域が広く、七町歩ありましたが、後の社会変動、第ニ次世界大戦などを経て大幅に減少してしまいました。室町期の作とされる日蓮上人坐像(当寺祖師像 像高36.0cm)や、天明四年(1784)開眼の日蓮上人が安置されています。江戸時代には寺子屋が開かれ天保五年(1834)の筆子塚があります。明治の初めには村役場が置かれました。他に、墓地の上方に三十番神堂、釈迦堂、境内に祈祷堂があります。」と資料から。屋根には徳川家の家紋の「葵」の紋が。ーロに葵の紋といって、様々な意匠がある。特に徳川家康公の代になってからは、「三つ葉左葵巴の紋」のデザインが定着し、徳川三代の家紋として利用し始めた。いずれにせよ徳川家の葵の紋は、賀茂明神の信仰に基づくもので、それを変形したものである。内陣に近づいて。本堂の扁額「陽向山」。十五代将軍慶喜は隠居後当寺で暮らすことを予定するなど、幕府の厚い保護を受けてきた寺。鳥羽伏見での敗戦で、寺への隠棲は実現しなかったが、170人ほどが宿泊可能な庫裡が建てられていたと。 本尊は日蓮、三宝諸尊を安置。内陣。ズームして。この写真はネットから。虹梁の龍の彫刻(右)。虹梁の龍の彫刻(左)。花頭窓。木魚に鼠そして居眠り小僧の石製置物が本堂前に。庫裡・客殿。本堂の左を奧、石段の上には、八角形の御堂・釈迦堂があった。その横にも建物・三十番神堂があった。ドコモ打戻無線中継所。山門前から本堂を振り返って。鐘楼近くの石碑には「法界𭇥識 宜禪院日弘聖人」と刻まれた石碑があった。法界の𭇥識とは「生命をもつすべてのもの」を意味すると。「妙福寺」を後にして、「遠藤宮原線」の坂道をさらに上って行った。右手に連なる温室には「井手農園 野菜直売所」案内板が。左手に立っていた石碑。藤沢市打戻2588。「夢の大地平成十一年ニ月、打戻大仲土地改良区は、当地を東西に縦断する巾25メートル道路の建設と相俟って施工に及んだ。古来よりこの一帯は起伏が激しく、農作業には支障を来し、困難の解消を望む衆議を経て七年、英知の結集によって現代農業に適する圃場によみがえった。区内を奔る道路は四面に通じ、整然とした区画畑は、以前の地形をとどめることを知らず。拓けた耕地の展望は景観をよくし、新生活力の夢を膨らませる。首尾一貫、事業の工成りしを刻み永世に伝える。 平成十四年(2002)三月ニ十六日建立」裏面には土地改良組合の関係者の名前が刻まれていた。巾25メートル道路、そして「夢の大地」碑を振り返って。民家の庭には「ヒメキンギョソウ・リナリア」?に似た花が。坂を上り終わると信号が。「宇都母知(うつもち)神社入口」交差点。この交差点を右折して「宇都母知神社」に向かって進む。真っ赤な椿の花が咲き溢れるが如くに。近づいて。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.04.11
コメント(0)
「盛岩寺」を後にして、「盛岩寺」前の道を次に訪ねる「大法寺」の方向に進む。左手の小屋の前には古式の「腕用ポンプ」👈️リンク が置かれていた。「腕用ポンプ」は手動でピストンを動かして、放水する仕組み。その先の道路脇には真っ黄色に輝くミモザの花が満開であった。「ミモザの花」👈️リンク をズームして。そして神奈中「荒井」バス停手前にあった「大木家墓地」を訪ねた。「市指定重要有形民族文化財応永二十六年板碑一基板碑は卒塔婆の一種で玄永(1118)頃から慶長(1614)頃まで流行した。この板碑は武蔵型縁泥片岩製で、一般に浄土教的色彩のものが多い中で、真言密教的色彩が濃いところに特徴があるといえる。たとえば、陰刻されている「右所趣者帰弥陀法身擬法界大智依即得往生金言奨」は、「この卒塔婆の趣旨とするところは阿弥陀仏の法身に帰依し、法界大智(真言密教)の心意を覚得したことに依って即往生できる」という意味で、密教色が濃くなっている。このように特徴のある板碑は数少なく、貴重なものといえよう。 平成四年二月一日指定 藤沢市教育委員会」墓石「大木家之墓」。藤沢市打戻1201。コンクリート製の祠?によって守られている「板碑」類。「板碑応永二十六年(1419)板碑 市指定有形民族文化財(H4.2.1 指定)板碑は卒塔婆等の一種として発生し、元永(1118 :平安末)頃から慶長(1614 :江戸初期)頃まで流行した供養塔で、副次的に墓石の意味を持つようになっていったと言われます。関東の板碑は武蔵系板碑と呼ばれる秩父産の青石を使ったものが多用されています。」と。尖頭扁平型(上下欠失) 総高70. ocm 緑泥片岩製(武蔵系)種子子は阿弥陀三尊(キリーク・サ・サク)を表しており、板碑は一般的に浄土教的色彩のものが多いと言われる中で、これは銘文(「法界大智」)から真言密教色が濃くうかがわれる希少なものとのことです。たとえば銘文の「右所趣者帰弥陀法身擬法界大智依即得住生金言奨」は、「この卒塔娶の趣旨とするところは阿弥陀の法身に帰依し、法界大智(真言密教)の心意を覚得したことによって即住生できる」という意味で密教色の強いものだそうです と資料から。小さな木札に六道の救済を象徴する地蔵六体の名前を書いて、道の側に立ててロウソク6本を立てて供養していた。・法性地蔵王菩薩・陀羅尼地蔵王菩薩・宝陵地蔵王菩薩・宝印地蔵王菩薩・鶏兜地蔵王菩薩・持地地蔵王菩薩こちらは「貞和ニ年(1346) 59.0cm」と。「貞和七年(1368) 32.0cm」と。さらに北に進む。カンザキアヤメ(寒咲菖蒲)であろう。花に近づいて。開花期は1月から3月で、葉の間から花茎を伸ばして、薄い紫から青色の花を咲かせると。アヤメが60センチメートルになるのに対して15から20センチメートルとかなり小型なのであった。こちらはスイセン。さらに進む。赤の色が鮮やかな椿の花が。「金子園芸」の作業小屋の前にあった「種まき用土」その先の路地の角にあった石碑。近づいて。鉄柵でガードされている「道祖神」「明治三十七年壱月十四日 建之 講中」と刻まれていた。その横にも小さな石碑が。そしてこの路地を左に折れ、次に訪ねたのが「大法寺」の裏にあった墓地。この場所には無縫塔や多くの石碑、石仏が並んでいた。「慶蔵院碑当寺創建の一人である慶蔵坊和尚は、咳に大変苦しめられ、生きている内に地中に入り、竹筒から好きな酒をたらしてもらい念仏を唱えて「私が死んだら咳の神様になり苦しんでいる人たちを助けたい。」といって鈴を鳴らし続けながら入定したと伝えられています。昭和の初め頃までは、近隣の村人たちは百日咳や喘息にかかると、この地で酒を竹筒に入れて回復を祈る風習がありました。現在、入定塚跡(打戻2054字大平)には元禄四年(1691)十ニ月の光背型石仏(大日如来)が立っています。また、大法寺の墓地には慶蔵院の石碑が立てられています。(「ふじさわ教育」128号より)」と資料から。近づいて。お顔のない石仏が。近づいて。現在、入定塚跡(打戻2054字大平)には元禄四年(1691)十ニ月の光背型石仏(大日如来)が立っているとのこと。光背型石仏(大日如来)をズームした写真。こちらの写真はネットから。隣の墓地にも多くの石碑が並んでいた。そしてこちらが「大法寺称業山薬王院 浄土宗 上土棚村(現綾瀬市)蓮光寺末慶長元年(1596)、僧、正営によって開山されました。開基は井出五郎石衛門とされます。本尊は阿陀如来座像(室町時代)で、他に鎌倉仏師三橋永助、伊沢善助銘の閻魔大王座像(文政六年(1823)作)が安置され、閻魔堂とも呼ばれていました。」と資料から。藤沢市打戻1331。「「華坐」~よい種を まいておきたし 彼岸かな~お墓-------暑さ、寒さも彼岸まで-------お彼岸といえばお墓参りを連想される方も多いことでしょう。お墓は、もともとはお釈迦さまのお遺骨を納めた塔・ストゥーパがその起源とされています。お墓に建てる卒塔婆も同じくストゥーパに由来します。日本では奈良時代頃からお墓が建てられるようになり、時代と共に一般の人々にも広まり、大正時代の頃私たちが普段目にする「◯◯家先祖代々之墓」等のお墓が普及しました。お墓は個人の遣骨を納め供養する場所ですが、今は亡き大切な方との繋がりを感じられる場所でもあります。是非、お彼岸にはお墓にお参りをされて、お浄上にいらっしやる大切な方々に思いをお伝下さい。」「春彼岸 法要 20日(水)11時~ 於 蓮光寺」と。大法寺は、藤沢市打戻の字榎戸にある寺院。1596(慶長元)年、僧、正誉によって開山された浄土宗の寺院で、元、上土棚にある蓮光寺の末寺であるが、現在は無住の寺院らしい。本尊は阿弥陀如来で、この像は、寺が創建される前路傍の御堂に厨子に入って安置されていたものと伝えられていると。また、本堂には1972(昭和47)年に修理した閻魔王像、法然・善導坐像、神像二体が、また、境内には1822(文政5)年の光明真言供養塔、聖観音塔、地蔵菩薩像と慶蔵坊の碑があるとのことであったが、門が閉まっていて中には入れなかった。そしてバス停「榎戸」の手前の路地を右に入る。Y字路の角にあったのが「榎戸辻の仏像供養塔(不動道標)」。正面から。道標を刻した不動明王の座像で、現在地にあったものを一度前のパス通りに移し、道路の拡張工事のため再度今の道に移されたそうです。ここは一ノ宮と長後、用田をつなぐ旧道の三叉路だったのであろうか。正面「不動講中供養」と。左面「右長後 左用田 南ー之宮 道」右面「文化六(1809)龍集己己。十一月吉良旦」。正面から「不動明王座像」を。横から。この路が一ノ宮と長後をつなぐ旧道だったのであろう。白い水仙。ズームして。ユキヤナギも真っ白に。そして「遠藤宮原線」の「榎戸」交差点まで進む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.04.10
コメント(0)
本堂から外に出て、本堂の天水桶、鎖樋 (くさりとい)を見る。右にあった建物は、薬師堂の中に新たに造られた三畳丸炉茶室「無庵」であると。お釈迦さんの最期の言葉・(長阿含経(ちょうあごんきょう)巻第四「遊行経」)と。「白大衆(しらだいしゅ)(うやまってだいしゅうにもうす)生死事大(しょうじじだい) 無常迅速(むじょうじんそく)各宜醒覺(おのおのよろしくせいかくすべし) 慎勿放逸(つつしんでほういつなることなかれ)」■皆の者に申し上げる■生死は我々にとって重要な事です■諸行無常に速やかに過ぎゆく世界の中で■各々しっかりと目を覚まして■無為に時を過ごす事がありませんように と。歴史的建造物「昭和文化館(薬師堂)」。「越前屋(雨谷商店)」は、江戸時代中期から遊行寺惣門前(現在ふじさわ交流館辺り)で薬品・砂糖などを扱っていた大店で、その様子は浮世絵にも描かれている。関東大震災で店舗が倒壊したため、大正13年(1924年)店舗兼住宅として、倒壊した家屋の部材も再利用して境川大正橋近くに新築された。その後、昭和13年(1938年)に二里半離れた御所見・打戻の村長を務めた農家の母屋として移築され、住居として使われていた。老朽化が進み、床下等の痛みもひどく平成22年解体することが決まり、貴重な建造物であったので盛岩寺が譲り受けることとなり、解体後2年の保管を経て平成26年(2014年)に寺社大工の棟梁によって、境内に移築されて現在に至ります。大正、昭和、平成の三世代を商家、住居、薬師堂と違った形で移築再利用された木造建築は、他に例を見ない。この建築が良い建材を選び、費用を惜しまず使われたこと。その構造や意匠には、往時の大工の高い技術や職人の技が随所に見られ、部材の再利用により二回の移築と継承が実現した。そしてなによりも三代の持ち主の建物への愛着が感じられ、そのぬくもりと大正・昭和の息吹を伝える貴重な建物です と。「大正硝子」の使われた引き戸で囲まれていた。大正硝子は明治から大正時代に製造されたガラス。 現代のとても平滑で厚く透明度の非常に高いガラスとは違い、大正硝子は歪みがあり、不規則な波によって光の屈折が生じ、ガラス越しの景色が曲がって見えるガラスなのであった。 それがレトロを感じさせるのであった。「雨谷(あまや)商店 大正8年(1919)1月2日 撮影 雨谷家所蔵」。江戸時代中期から遊行寺惣門前(現在ふじさわ交流館辺り)で薬品・砂糖などを扱っていた大店であったと。扁額「薬師堂」。薬師堂のこの扁額は大雄山最乗寺御前(住職)の揮毫であると。扁額「昭和文化館」。昭和文化館のこの扁額は昭和史研究家半藤一利氏の 揮毫寄贈である と。「昭和文化館「薬師堂」」👈️リンク の内部にも入らせて下さいました。千本格子の障子戸を見る。レトロを感じさせるステンドグラス風の灯籠と古い時計が。薬師堂内の薬師瑠璃光如来・日光菩薩・月光菩薩の三尊は、小柄ながらもおだやかで、また十二神将は精かんで躍動感あふれる慈悲深い仏様であり、近くの堂の前旧東光寺の本尊であったと。 明治初年寺は廃寺となり仏像は盛岩寺に移管されたのだと。 「薬師瑠璃光如来像」。「十二神将」。住職が、秘仏を見せてくださいました。「薬師瑠璃光如来像」を別の角度から。「盛岩寺・昭和文化館「薬師堂」 平面図」。昭和文化館「薬師堂」内の薬師瑠璃光如来・日光菩薩・月光菩薩の三尊が安置されている場所が◯。八畳二間を見る。廊下。建物の特徴はセガイ(船枻)、太い梁、梁組の高い天井、大正時代のガラス戸や板戸、千本格子の障子戸、京猫間の障子、当時は炭はありましたが冷房はなく、昔の生活の知恵と工夫を随所に見ることができるのであった。 京猫間の障子を見る。一番奥の八畳間の、土壁で囲まれた床の間には違い棚、天袋、地袋が。外に出ると「茶釜供養塔」が白壁の前に。「山門」と「六地蔵」を再び。盛岩寺の白壁塀。墓地の入口には「慈母観音像」が。「慈母観音」。真言 おん あろりきや そわか。無染無着で泥の中より美しい蓮の花が咲くように、世の中の人々の心を清浄にするという意味 と。墓地とその奥に大山の姿が。ズームして。さらに。「當寺開山歴住大和尚宝塔」と刻まれた無縫塔をズームして。歴史的建造物「昭和文化館(薬師堂)」を墓地側から。平成 29 年(2017)5 月に国登録有形文化財に登録された。そして白塀に映り込んだ木々の影を。この白塀に、緑の葉を描くと、覆面アーティストであるバンクシーの新しい作品に似るのではないかと!!これがロンドンのフィンズベリー・パークの壁に描かれた作品。2024年3月17日に見つかり、バンクシーの作風に似ていると話題になっていると。今回の作品は、枝を大きく切られた木の背後にある建物の壁に緑色のペンキが塗られているもの。離れて眺めると、葉が生い茂っているようにも見える。木の下には、高圧ホースを持ち見上げる人物が、バンクシーおなじみのステンシル画で描かれている。BBCによると、使われているペンキは現地イズリントン行政区が道路標識に用いる色と同じだという。これまで、環境破壊に警鐘を鳴らす作品も残してきたバンクシー。様々な憶測も飛び交うが、この作品についてのバンクシーからのコメントは発表されていない。写真はネットから。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.04.09
コメント(0)
「盛岩寺」の入口に到着。「掲示板春彼岸会三月十七日からニ十三日までお中日はニ十日ですお彼岸にはお寺やお墓にお参りをして、ご先祖さまに報恩のご供養をいたしましよう彼岸会法要 ニ十日午前十一時から 高照山 盛岩寺」「よく噛めばいただいた食べ物とわたしのいのちが一つになる」と。「曹洞宗」。「盛岩寺」。「盛岩寺由緒高照山と号し、慶長18年(1613)朝岩存夙禅師(ちょうがんそんしゃくぜんじ)により開創された禅寺です。御本尊は釈迦牟尼如来(仏師広運作)で文殊・普賢両菩薩が脇侍仏としてまつられています。当寺は高座南部地蔵尊二十四札所中の十九番札所で、本堂内に安置された延命地蔵菩薩は市の文化財調査によれば室町前期の仏像とみられております。 御詠歌 「のちの世は 実の舟に法のふた 打ち戻りても また訪ねこん」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 濃きみどり こゝろ安らぐ 盛岩寺 山門に向かって、両脇がツツジの木で囲まれた参道を歩く。参道脇には桜並木もあり、またツツジも綺麗に刈られていた。山門、本堂をズームして。旅友も元気に歩く。カラス??左側・駐車場の先にあった2基の案内板。「心安らぐ緑の寺 盛岩寺由緒」と「境内の高照観音と墓地の慈母観音」の案内板。 高照観音(境内) 三十三身に変化し妙智力をもって諸願を成就し玉う慈母観音(墓地) 慈悲心をもって母と幼子を安らぎの園に導き見守り玉う「心安らぐ緑の寺 盛岩寺由緒高照山と号し、慶長18年(1613)朝岩存夙禅師により開創された禅寺で、御本尊は釈迦如来(仏師広運作)脇侍仏として文殊・普賢両菩薩がまつられています。当寺は高座南部地蔵尊二十四札所の十九番札所になっており、堂内の地蔵菩薩は市の文化財調査によれば室町前期の仏像とみられています。なお、薬師三尊(室町后期)十二神将は打戻下東光寺の本尊であったが、明治初年、廃寺のため当山にまつられた。 竹林の 葉ずれささやく 盛岩寺」「山門」。山門は平成十九年(2007)に建立。寺号標石「髙照山盛岩寺」。「高照山 盛岩寺 山門 建立 記念碑」。「山門」を潜る。境内に入ると、左手に立派な六地蔵が。近づいて。いや、八地蔵??六地蔵の内4尊は、宝暦十三年(1763)2尊と明和七年(1770)2尊である と。山門をくぐると本堂の前には、可愛いお掃除小像尊(洗心童子)が箒を持って立ち「掃けば散り 払えばまたも 塵つもる 人のこころも 庭の落ち葉も」と、境内を掃き清めていた。掃いても掃いても降り積もるのは、庭の落ち葉も、私たちの心に潜む邪念も同じこと。日々怠ることなく、精進を重ねることが大切と言う教え。私たちの心も、永遠に汚れが続くため、永遠に掃除を続けなくてはならないのだと。左手にあったのが「昭和文化館」。境内の高照観世音菩薩。ズームして。「高照観世音菩薩縁起高照山盛岩禅寺は慶長年間寶泉寺六世朝岩存夙禅師により開創され法燈連綿と継承し現在に至る。大正十二年の関東大震災により伽藍全潰し爾后戦中戦后の激動期に直面し再興の機運熟せず今日となる。昭和五十五年二月堂宇の再建を発願し檀信徒この勝縁によく合力し翌五十六年四月本堂、書院、境内の整備等万端成り高照の浄域に輪奐の美を現ず。百花香ばしき五月八日の吉辰をトし入佛落慶。普山結制の大法会を厳修す。〇徳荘厳入天を照し盛岩の禅苑朝暘に映ゆ。・・・・・・・・後略境内の「稲荷社」。近づいて。「中山鳥居」の形状に似て、笠木が反っていたのだ。珍しい石の鈴を下げた石造の五重石塔が建ち、層塔の上には相輪も。本堂正面。本堂に安置されている地蔵菩薩は高さ21.5cmと小振りながら室町中期の作で、高座郡南部24札所巡り第19番の地蔵で、延命地蔵と呼ばれていると。本堂の扉が開いてご住職から本堂の中に入って下さいと。正面に「延命地蔵菩薩」。扉は閉ざされていたが。延命地蔵菩薩(室町時代)は、相模国高座郡南部の地蔵ニ十四札所巡りの19番目にあたります。由来や発祥の時期は定かではありませんが、江戸時代、茅ヶ崎・寒川・海老名・藤沢にかけて地蔵尊を祀る札所ニ十四ヶ寺が散在していました。ちなみに一番札所は茅ヶ崎市行谷の宝蔵寺、ニ十四番札所は海者名市本郷中河内の地蔵堂(跡地)です。地蔵菩薩は釈迦が入滅の後、五十六億七千万年の後に弥勒仏が出生するまでの間、即ち無仏の時に五濁の世に出現して六道を救済する菩薩です。今も、地蔵講ではニ十四日を地蔵忌として供養がなされています。(「相模国高座郡南部地蔵ニ十四札所巡り」より)本堂の黄金に輝く「天蓋」を見上げて。祭壇。慶長十ハ年(1613)宝泉寺六世朝岩存夙禅師によって開基創建されました。本尊は江戸時代の仏師広運作の寄木造り玉眼金泥の釈迦三座像(釈迦如来・普賢菩薩・文殊菩薩)です。温和な明風の作で曹洞宗に多く用いられた中国色の濃厚な基準作として貴重なものとされています。昭和五十六年(1981)本堂、客殿は平成七年(1995)、山門は平成十九年(2007)に建立されました。扁額「高照山」。ズームして。釈迦三座像(釈迦如来・普賢菩薩・文殊菩薩)。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.04.08
コメント(0)
「子聖神社」を後にして、「大庭獺郷線」を東に進む。右手にあった背の高い植木は見事に刈り込まれて。梯子や脚立では無理で、高所作業車による刈り込みか?前方斜め左に次に訪ねた「盛岩寺」の建物が確認できた。「打戻川」に架かる「新堀橋」を渡る。「打戻川」。「しんぼりばし(新堀橋)」。野鳥を見つけたが・・・。文政11年(1828)の地図で、現在地を示す説明員の方。「打戻川」の下流側を見る。現在の「少年の森」付近であろうか。介護施設「湘南希望の郷」をズームして。「カラスいけいけ ネットボックス」👈️リンク と。「折りたたみ式ゴミネット」のPRボードなのであろう。その先にあったのが「うなぎ ふぐ 専門店 一幸」。以下2枚の写真はネットから。最近の金額であるかは不明。・うな丼 2350円・うな重 3850円・上うな重 4600円・薬味膳 3550円・二段重 5900円・特上 6800円・蒲焼またはしら焼 松/4150円 竹/3250円 梅/1900円「上うな重」であろう。その先のT字路交差点の角にあったのが「堂の前「下の大社」の石仏群」。辻の北西側に医王山東光寺(遠藤宝泉寺末寺)があったので堂の前といわれ、明治元年( 1868 )の火災後、再建されず廃寺になりました。本尊薬師如来や脇侍等は盛岩寺に移されました。(宝泉寺;遠藤6094 曹洞宗 永正十六年(1519) 開山 如幻宗梧 開基 仙波土佐守)相州高座郡打戻村大法寺ロ観阿闍梨修法者観行院常須寅吉種子(サ)西国坂東秩父観世音供養*巡礼供養塔く座像仏>月山湯殿山羽黒山大権現天明三( 1783 )龍集癸卯ハ月吉日*庚申供養庚申供養寛政ニ年( 1790 )十一月日*ニ十三夜塔右ー之宮左ふじさわ道藤沢市打戻684字二ッ町。右から「猿田彦大神文化十(1813)癸酉天 十一月吉日 打戻邑 根∴(下)講中」と。「二十三夜塔安政五(1858)午年正月ニ十三日 打戻村下講中」と。月待とは「月待行事」のことで、十五夜・十六夜・十九夜・二十二夜・二十三夜などの特定の月齢の夜、「講中」と称する仲間が集まり、飲食を共にした後、「お経」などを唱えて「月」を拝み、「悪霊」を追い払うという宗教行事。江戸時代の文化・文政の頃、全国的に流行した。特に普及したのが、二十三夜に集まる二十三夜行事で、二十三夜講に集まった人々が建てた「二十三夜塔」が全国の路傍などに広く見られます」とウィキペディアより。 下部には道標「右一之宮 左ふじさわ」と。「庚申供養塔庚申供養 寛政ニ年(1790)十一月日」と。「巡礼供養塔<座像仏>月山 湯殿山 羽黒山 大権現 天明三(1783)龍集癸卯八月吉日種子(サ) 西国坂東秩父観世音 供養相州高座郡打戻村 大法寺□観阿闍梨修法者 観行院常須寅吉」一番左にあった小さな石碑には??そしてこの交差点を左に向かって進む。左手にあった旧家の薬医門?。左手の畑の道路脇にあった小さな「石祠」。ここが医王山東光寺(遠藤宝泉寺末寺)があった場所なのであろうか?大山方向の山々の姿がはっきりと見えた。「大山」の山頂をズームして。東京電力の電波塔らしきものも微かに見えたのであった。そしてその先に、次に訪ねた「曹洞宗 盛岩寺(せいがんじ)」の案内板が姿を現した。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.04.07
コメント(0)
昼食を楽しんだ後は、「子聖神社(ねのひじりじんじゃ)」の境内を巡ったのであった。藤沢市獺郷799。山門の正面から。「獺郷 子聖神社」碑。石碑の裏面。「昭和六十三年 二月吉日建之 氏子中」と。上部には「子聖神社旌旗(せいき・色鮮やかな旗)之銘福仰千秋獺口集落(意義:福は千歳に亘って獺郷(おそごう)を霑(うるお)す)徳暉萬載聖神瑞籬(意義:聖徳は万年の後までも神籬(ひもろぎ)の内に輝く)」と刻まれていた。 (神籬(ひもろぎ):神事で、神霊を招き降ろすために、清浄な場所に榊さかきなどの常緑樹を 立て、周りを囲って神座としたもの。のちには、神の宿る所として室内・庭上に立てた、 榊などの常緑樹もいう。)境内・右奥にあった石仏2尊。「秩父坂東供養塔種子👈️リンク(サ=聖観音) 聖観音立像 明和元(1764)甲申(きのえさる)十二月吉日西大山道 北江戸道 東かまくら 南一之宮道」「東かまくら 南一之宮道」。東西南北四方の道標となっている珍しいものであると。「西大山道 北江戸道」と。「不動明王坐像(半肉彫) 供養塔天保六年(1835)八月吉日 相州高座郡獺郷村」「手水舎」。近づいて。「獺郷(オソゴウ)昔、各所に沼地があり獺(かわうそ)が多く生息していたことから獺郷と名付けられたという。水田の下に湿地帯に生えていた葦の葉の地層があり、また、小字大道の畑のくぼ地にある水田はその沼地の名残りともいわれている。 藤沢市」「獺郷の地名の由来は、昔各地に沼地があり、獺(かわうそ)が多く生息していて「獺の郷」から獺郷となったといわれます。水田の下に湿地帯に生えていた葦の葉の地層があり、また小字大道の畑の窪地にある水田は沼地の名残といわれています。獺郷は、東を打戻、南を茅ヶ崎市、西と北を宮原に接し、ほほ平坦な地形で、古くは寒川郷に属し、相模国一の宮寒川神社の領でした。鎌倉時代初めは梶原景時所領、明応の頃(1492 ~ 1501)は大庭城主上杉氏の領、大永四年(1524)小田原北条氏の領となり、天正十ハ年(1590)徳川家領となりました。天保年間(1840頃)は、平岩七之助200石、杉浦房治郎17石で、相模国高座郡大庭荘獺郷村(皇国地誌は一之宮庄)でした。獺郷村は昔、一部東宮原村と寒川町だったといわれています。」と資料から。「子聖神社」の参道を拝殿に向かって進む。「子聖神社」の石鳥居。シンプルな神明系鳥居であり、最上部を「笠木(かさぎ)」、その下部を「貫(ぬき)」と呼び、それぞれが一本ずつで成り立っている。ほとんどの貫は、縦の「柱(はしら)」を突き出ないものが多い。神明鳥居に関しては、笠木・貫・柱がすべて丸くなっているのも特徴。近づいて。扁額「子聖神社」。狛犬越しに拝殿を見る。狛犬(右)。狛犬(左)。お顔が切れてしまったので。境内左手奥にあったのが「鐘楼」。梵鐘。別の場所からズームして。梵鐘は棟札と同じく享保期のものであったが第二次大戦時に供出され、1981(昭和56)年にふたたび鋳造されたのだと。振り返って。「子聖(ねのひじり) 神社の由緒祭神 大己貴命(おおなむちのみこと)境内地 獺郷雷799番地 3,252平方米明治六年十二月村社列格昭和六年三月指定村社旧神社は獺郷中谷1,552番地にあり当時は境内の樹木うっそうとして繁茂し昼尚暗き様相を呈し見るから数百年を経たる神域であったとつたえられる。明治元年九月大暴風雨により神殿倒壊のため現在地に遷座、同時に八幡社、大六天社、山王社の下宮三社を合祀、社名を子聖神社 となった。・・・・・因みに享保十八年(1733年)前社の名を誌した棟札が残存している大正十二年関東大震災のため社殿が倒壊したるも 氏子の協力により復興尚、其の後、再度、屋根の修復等を行って今日に至る。又鐘楼には、文政六年鋳造の古鐘が、第二次世界大戦の祭、供出して長く空楼となっていた。このため久しく鐘声を聞くことのなかった氏子は寂寥を感じこゝに梵鐘鋳造の機運髙まり再三協議の結果、 後に昭和五十六年新規鐘楼を鋳造した以来氏子は氣々と鳴り響く鐘声を聞いて心に安詳を得、朝夕神徳に稱えまつる。 行 事 一、元旦祭(交通安全) 一月一日 一、建国記念日 二月十一日 一、例祭 九月十五日 一、七、五、三、祝 十一月吉日 一、勤労感謝の日 十一月二十三日 平成四年十一月吉日建立 氏子中」「絵馬の由来祈願の際や祈願成就のお礼の証として、上部が山形の木製額を「絵馬」といい、願い事やお礼を書いて奉納します。元々、馬は神様の乗り物という神聖かつ大事な役割をあわせ持つものとして扱われ、大願の祈願の際は生きた馬を奉納する習わしがありました。以後、生きた馬の代わりに土偶の馬や木製の馬が使用され、いつしか馬を描いた絵馬に変化してきました。昨今では描かれる図案も神社特有のものが多く、当神社ではその年の十二支を描いた絵馬を、新年の元旦祭において神殿で祈祷をおこない、提供をしています。祈願する内容を書き込んで奉納して下さい。 子聖神社」「獺郷公民館」前から境内を見る。「神楽殿」を見る。「拝殿」を斜めから見る。「拝殿」を正面から。扁額「子聖宮」。拝殿の内陣をガラス越しに「本殿」を左側斜めから。「神輿殿」。正面から。「拝殿」と「神輿殿」との間の奥にあった祠?。石鳥居に近づいて。木製の祠。石仏が2尊。左:庚申供養塔 六臂青面金剛像 安永4(1775)乙未(きのとひつじ)12月吉日右:青面金剛像(半肉彫) 寛保2(1742)庚申供養講中 左:庚申供養塔 六臂青面金剛像の横面には 安永四(1775)乙未(きのとひつじ)十二月吉日 西一之宮名神道 北国分寺道 と。右:青面金剛像(半肉彫) の横面には「寛保ニ年(1742)八月吉日」と。祠の脇には多くの石碑、石仏が並んでいた。ここ獺郷地区の土地改良事業の際に、この「子聖神社」に集められたものも多いのであろう。近づいて。「道祖神」。裏面には「昭和十二年五月建之西北馬場講中」と。振り返って。「双体道祖神 安永五(1748)丙申年」 獺郷雷馬場町739-1より移設とのこと。左側をズーム。右側をズーム。「双体道祖神 天明三(1783)癸卯歳三月吉日 相州高座郡獺郷村願主・・・」。左。右。裏側から。「天明三(1783)癸卯歳三月吉日 相州高座郡獺郷村願主・・・」と。さらにその先にも。近づいて。「道祖神」と「西国秩父坂東供養塔」。「道祖神 獺郷村 上氏子中 五名 大正七年一月十四日再建 五名」「西國秩父坂東供養塔種子(アーンク;大日如来) 月山 湯殿 羽黒 大権現 天明三年(1783)西國秩父坂東観世音菩薩供養 と。文字「道祖神」もあった。獺郷村 大向坂口 氏子 弘化四未年正月十四日 獺郷下向坂977より移すと。「双体道祖神 元禄三(1696)年正月十四日 西山■兵衛」。藤沢市内で最古といわれる道祖神であると。左。右振り返って。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.04.06
コメント(0)
「寒川社(宮原)」を後にして、「宮原百石線」を南東に向かって進む。民家の花壇の葉牡丹も開花に向けて背を伸ばしていた。前方左にあったのが「御畜食肉センター」。食肉卸、小売、国産肉牛豚鶏販売、卸輸入肉チルド、冷凍オーダーカット お中元、御歳暮各ギフト商品取り揃えている有限会社とのこと。藤沢市宮原1514。手作りメンチカツ・1ヶ140円、カレーパン・1ヶ150円が人気であると。衣はカリッと中身はジューシーと。揚げ物がイロイロありました。旅友のオバチャンがメンチカツ・カレーパンを購入。「県道45号線」との交差点の横断歩道の先に石碑があった。「宮原中央辻の石仏平成十年(1998)九月新しい道祖神が建立され、江戸時代(年次欠寅年のみ)の和合ニ神像が後ろに残されています。傍らの名号供養塔(南無阿弥陀仏 文政ハ年(1825)一月)には、一遍上人五十ニ代他阿とあり、当麻山無量光寺の五十ニ代霊随上人のものと言われています。(市内には七基あり、御所見地区には他に用田西、皇子大神、東陽院にあります。)」藤沢市宮原1289。微笑ましい双体の道祖神の裏には、江戸時代の和合ニ神像が中央に。手前に名号供養塔、奥に五輪塔があると。道端の木瓜の花が見事。その先、「用田獺郷線」の先に木製の祠が立っていた。「東の辻の不動堂」と。県藤沢市獺郷649。堂内手前の石仏。左:石像不動明王座像 下部の脇侍 向かって右:衿掲罷(こんがら)童子 左:制吒迦(せいたか)童子 嘉永ニ年(1849) 獺郷村東講中右:石像聖観音立像 文化九年(1812) 施主獺郷村高橋忠左衛門2尊の石仏の奥の厨子にも木造仏が安置されているとのこと。奥右厨子内には■ー木造玉眼子安地蔵尊 像高 18cm 桃山前期作(後補あり) 昭和の初め頃まで、地蔵講として講中の家を一日ずつ回り、各家で祀っていました。 東不動講によって管理され、こ開帳は年ニ回、一月ニ十ハ日 九月ニ十ハ日です。 本尊には、「・・願主東宮原村 金兵衛 小左衛門 三良左衛門 戊申五月一ハ日 開眼供震・・・ とした書付があり、東宮原村の名が見られます。獺郷の一部は昔、宮原村と寒川町だったと いわれていて、宮原分は東宮原と呼び広町あたりを指す説と、字中島・大六天・雷までの広い 範囲を指す説とがあります。寒川町分は中原街道を隔てた字大道といわれています。 (御所見の昔・今)より 奥左厨子内には■本尊木造不動明王座像 大山不動模刻 総高39cm 像高15cm 近現代の作(年号欠損)と資料から。そして「遠藤宮原線」の「獺郷西」交差点を渡る。「遠藤宮原線」の国道45号方向を見る。交差点脇の芝桜。「高橋緑化園」が左手に。藤沢市獺郷646。右手に「熊山園」。藤沢市獺郷675。スイセンも陽光に輝いて。富士山の姿をズーム。白い桜の花であっただろうか?大島桜?山桜?それとも梅の花?花にズームして。「弁天池跡碑」と「悠久の大地碑」が「子聖神社(ねのひじりじんじゃ)」の手前、左側にあった。「弁天池跡碑 遥か昔より ここに池あり 水清く湧き出枯れることなし 田を潤し皆これを 弁天池と呼び親しんだ 平成六年三月吉日 土地改良区建立」。隣には弁天様の石像が。弁天池は「打戻川」近くにあったのだろうか?「悠久の大地 藤沢市長 葉山峻土地改良事業の記念誌獺郷(おそごう)は、ふるく「皇国地誌」によると、かわうそが多く生息していたことからついた地名といわれ、北から南へ浅い谷戸が続き、この地域の降水すべてが当地に集まりドブッ田となり、生産性が低く、農民を長い間苦しめ農業の伸展を妨げていた。1977年(昭和52年)この状況を解消すべく、「子聖神社」を囲む獺郷字六本松、雷、大向、中谷、中村、三清、茅ヶ崎市芹沢字広町の田畑山林他32.1ヘクタールについて、土地改良総合整備事業を実施するに及び、権利者129名は治水排水路の整備と、生産基盤の整備を図るため、度重なる協議を経て土地改良区を設立させた。以来17年間、幾多の困難を乗り越え総事業費4億5千万円を費やし、農耕地を集団化、整然と区画、すべて幅4メートル以上の道路に接する良好な農耕地に生まれ変わらせ、農道整備事業により地区内南北中央を貫く道路を中心に、8路線2100メートルについて完全舗装を完成させた。1992年(平成4年)には、農用地集団化優良地区として関東農政局賞を受けた。この土地改良事業は、今後当地の農業経営の安定と発展に寄与するところ限りないものがある。農業は人類の生存と生命を育むものであり、農業の果たす役割が大きく見直され期待が寄せられている。本土地改良事業の完成にあたり、この概要を記して後世に伝えようとするものである。 1994年(平成6年) 3月吉日建立 藤沢市獺郷土地改良区」その先にあったのが「獺郷地区第二十六分団消防署」。そして「子聖神社」の境内にあった「獺郷公民館」をお借りして、各自持参の昼食を楽しんだのであった。「獺郷公民館」。「御所見地区防災マップ」。「平成6年度 獺郷太鼓連 第4期生」。「子聖神社」の境内での様々な写真が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.04.05
コメント(0)
そして「宮原百石線」に出て、正面に「寒川社(宮原)」が正面に見えて来たが、先に訪ねたのが「観藏寺(かんぞうじ)」。「観藏寺」山門に向かって進む。明治期まで道を挟んで隣接する宮原寒川社を管轄してしいたとのこと。本尊は不動三尊で、本堂安置の阿弥陀如来は獺郷(おそごう)にあった西福寺の旧本尊。現在の本堂は大正大震災後に改築されたもの。山号 宮原山院号 不動院宗旨 高野山真言宗創建 不明(安土桃山時代)右「奉 宮原山」と刻まれた山門の石柱。左「献 観藏寺」と刻まれた山門の石柱。境内の入口右にあった「六地蔵」。移動して。平成8年(1996)7月 建立と。以前にあった文政6年(1823)の六地蔵は西福寺跡に移されたのだと。本堂の手前、右側にあった「弘法大師堂」。「弘法大師石造 文政3年(1820)」。相模国準四国ハ十ハヶ所霊場 第六十五番伊予三角寺御詠歌「花さきて実らぬ草はなかりけり神も仏も秋をみやはら」江戸文政の頃(1818 ~ 30)頃、鵠沼在の浅場太郎右衛門が、普門寺(高野山真言宗)の僧善応密師と相談の上、弟子の浄心を四国にやり、ハ十ハヶ所の御砂を取り寄せ、大師像を近在に配置しました。藤沢には四十四ヶ所ありますが、御所見地区は観蔵寺のみです。「本堂」。「本堂」の内陣。ズームして。明治期まで道を挟んで隣接する宮原寒川社を管轄してしいたとのこと。本尊は不動三尊で、本堂安置の阿弥陀如来は獺郷(おそごう)にあった西福寺の旧本尊。現在の本堂は大正大震災後に改築されたもの と。観蔵寺を後にして、手前にある「宮原寒川社」に向かう。藤沢市宮原の六本松にある宮原地区の鎮守の神社。藤沢市宮原1289。「寒川社」と。前方に神明鳥居の「石鳥居」。「寒川社御祭神 品陀別命 (ほんだわけのみこと・応神天皇) 寒川比古命 寒川比女命祭儀 元旦祭 一月一日 紀元祭 二月十一日 神立祭 七月三十日 例大祭 九月二十七日 新嘗祭 十一月二十三日(七・五・三)由緒 創立年月日不詳延喜式内社・相模国一之宮寒川神社を勧請して鎮守となる。明治六年十二月村社に・大正四年に(一九一五)末社に指定される。」鐘楼には梵鐘の姿はなかった。この鐘も第二次大戦時に供出されたのであろうか?「大東亜戦争記録昭和六年九月十八日満州事変勃発 昭和十二年七月七日支那事変 引続き昭和十六年十二月八日大東亜戦争となり昭和二十年八月十五日終戦 その間の宮原地区内応召戦没者記名・・・二十七名の戦没者名・・・昭和五十◯年十一月ニ十三日 建之」「奉納 藤扇睦」👈️リンク。宮原寒川社神輿保存会。境内右側にあった「神楽殿」。「手水舎」。「かわせみ ひな祭り」案内ポスター。正面に「拝殿」。境内には大宮社(大宮姫命)・八雲社(須佐男命)を合祀。創建時期は不明だが、神仏が習合していた江戸時代には社の西隣にある観蔵寺が別当役を務め、僧や山伏、修験者など雑多な人々が居住していたと。その後神仏の分離を経て、明治時代末、打戻の宇都母知神社との合併が取り沙汰されることもあったが、地域の人々の反対により独立維持されたと。境内は、南側から正面に拝殿と本殿、左手前から鐘堂、手水舎、社務所、奥に神輿殿、右手に神楽殿、稲荷神社が。入母屋造の屋根を持つ拝殿は1894(明治27)年に再建。 ⑥宮原・寒川社(宮原1289字六本松)例祭日9月27日に近い日曜日 神輿渡御宮原の鎮守。祭神は誉田別命 (ほんだわけのみこと・応神天皇) 寒川比古命 寒川比女命 末社 稲荷社寒川町の寒川神社を勧請したものですが、その年月は不明。元は観蔵寺が別当を務め、山伏・社僧・法師・修験者が居住していました。寒川社には、寒川の大神がいずれの国から相摸国に移り住んだ時、茅ヶ崎の芹沢にしばらく逗留し(腰掛神社:祭神日本武尊)、その後宮原に移り、最後に現在の寒川神社に移り鎮座したという伝説が伝えられています(相模の古社 菱沼勇)拝殿は、明治ニ十七年( 1894 )、本殿は大正十三年( 1924 )、神楽殿は昭和四年( 1929 )に再建されました。拝殿は軒唐破風向背付き入母屋造、覆殿は銅板豊の切妻神明造で屋根形状が大きく異なっています。内部の本殿は三間社流れ造、両下がり屋根の幣殿でつないでいます。昭和初期、目久尻川の水田区画整理や大昭橋架橋による旧石橋の石が神楽殿の土台に、古材が拝殿廊下の手すりに再利用されているそうです。拝殿の扁額「寒川大神」。「宮原」案内板。「宮原(みやばら)高座郡寒川町宮山にある相模国一の宮寒川神社の社地であった原野を開拓したところからこの地名が付いたといわれている。村の中央を南北に中原街道が通り、北町に大山街道の近道がとおっていた。往時には旅人の往来も多く、当時のようすを思い起こさせる屋号も多く残っている。 藤沢市」「宮原は、寒川町宮山にある相模国一之宮寒川神社の社地であった原野を開拓したことによってできた集落で、「宮の所領の原」で宮原としたとされます。宮原は東は獺郷、西は寒川町會見、南は寒川町小動(こゆるき)、北は用田に接するほぼ平坦な地で、古くは寒川郷に接し、寒川神社の領でした。天正年間(1573 ~ 1591)北条氏の令によって当村より藍瓶役の税銭を出したとの記録があり(足柄下郡板橋村紺屋藤兵衛蓙文書)、この時分当村に紺屋があったことがわかります。天正十ハ年(1590)徳川家領となり、江戸時代は三人の旗本の領地で(三給)、維新前の石高は、総高は820石余り、うら佐野肥後守庸貞453石9斗余、今村伝右衛門(佐野家家来筋、中分) 215石4斗余、佐野六十郎(佐野家分家) 151石3斗余りであった。徳川末期は相模国高座郡ーの宮庄宮原村でした。なお、昔、宮原には東宮原と西宮原という地名があり、東宮原は現在の獺郷の一部、西宮原は寒川の一部と者えられています。江戸時代の検地帳の中に該当すると思われる地名が見られます。宮原は村の中央を南北に中原街道が通り、北町に大山道の近道が通っていて、住時は旅人の住来も多く、昔の村のようすを思い起こさせる屋号も多く残っています。現在、植木生産販売業が多く見られますが、以前は葉煙草、生糸生産等が盛んで、特に生糸は横浜より買い付け業者が住来し業者相手の商売もありました。」と頂いた資料から。境内の「齋正一位稲荷神社」。「覆殿」を右側から見る。全体もしくは本殿のみを保護する目的で本殿・拝殿等の周りに更に建物を建てている場合があります。これを「覆殿」と言うのだと。「令和四年度 寒川社施設整備寄付者御芳名」。「寒川社々務所」。狛犬越しに拝殿を見る。狛犬(右)。狛犬(左)。「神輿殿」。「寒川社 神輿」をネットから。「覆殿」は銅板豊の切妻神明造。「大震災記念」碑。「大正十二年九月一日午前十一時五十八分関東一帯激震アリ 當宮原部落ハ戸數百二戸ノ内全潰四十一戸 半潰六十一戸ニ上リ殃死者一名負傷者三名ヲ出シ土地ノ陥落崩壊道路橋梁用排水路ノ破壊等頗ル惨状極ム 茲ニ碑ヲ建テ其災害ヲ後世ニ傳フ」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.04.04
コメント(0)
藤沢市宮原にある社・鬼子母神堂(きしもじんどう)に立ち寄る。祭神はもちろん鬼子母神。仏法を守護し、安産・育児などの願いをかなえるという女神。もとインドの鬼神訶梨帝母(かりていも)。創建年月日は不詳であるが、武田武士内野隼太他13名(7名という説もあります)の墓地が堂の裏手にあり、この墓守として建立されたと。以前にも訪ねたことがあるが、風景が様変わりしていた。藤沢市宮原3433。こちらが「鬼子母神堂」。正面から。本尊の鬼子母神立像は、像高21.5cm、木造り、彫眼、黒塗で江戸時代の作といわれ、鬼女形で子を抱くのは古い形で希少とされています。令和四年(2022)四月に鬼子母神講中の方たちにより現在の社に建て替えられました。墓地裏を大山道近道が通っていた とのこと。( *武田勝頼没天正十年(1582))その横に安置されていた美しい小さな社。以前に訪ねた時の写真がこれ。境内の西側には「稲荷社」が。「稲荷社」の内陣。*庚申供震塔昭和五年( 1930 )ハ月一四日建施主遠藤モト日蓮六百遠忌報恩妙伝寺ニ十九世日進*題目塔南無妙法蓮華経明治ニ十年( 1887 )「題目塔題目南無妙法蓮華経 安永三(1774)□月吉日 御題目ニ千□□御祈願相州高座郡□□村 鬼子母神堂□當坊四世光雲院日案造立」と刻まれていると。左「題目塔 南無妙法蓮華経 明治ニ十年(1887) 日蓮六百遠忌報恩 妙伝寺ニ十九世 日進右「庚申供震塔 昭和五年( 1930 )ハ月一四日 建 施主 遠藤モト と刻まれていると。その横にも石碑が並んでいた。そして、「鬼子母神堂」の裏にあった「内野家墓地」を訪ねた。こちらも「内野家之墓」と。こちらにも。こちらが、内野家の本家の墓地と。正面から。「妙法 先祖累代之霊」。本家の家紋:「丸に五瓜に唐花(まるにごかにからはな)」。「墓誌」。こちらの家紋は「丸に横木瓜(まるによこもっこう)」。「三橋家之墓」もあった。「内野家之墓」から「高座クリーンセンター環境プラザ」をズームして。 施設の老朽化に伴い、平成31年度に新しいじん芥処理施設(高効率ごみ発電施設、マテリアルリサイクル施設)が完成。・高効率ごみ発電施設 搬入された可燃ごみは、ごみピットに貯められ、焼却炉(逆送式ストーカ炉)にて焼却処理 されます。 処理後に排出される灰及び焼却残さは、全量資源化施設に搬出しリサイクルされます。 また、焼却によって発生する排ガスは、ハイブリッドバグフィルタにより有害物質が効率的に 除去され、排ガス再循環(EGR)システムで一部を焼却炉内に戻すことにより、排ガスの 発生を抑制しています。 焼却による熱エネルギーを利用した発電も行っており、作られた電気を施設の内外で利用する ほか、売電も行います とネットから。「高効率ごみ発電施設 ごみ処理の流れ」。大山の姿を見る。大山の右に「三峰山」。そして「鬼子母神堂」を後にして、往路と同じ道を引き返す。解体撤去中の「高座清掃施設組合・第二清掃処理場」を振り返る。藤沢市の汚水マンホール蓋。市の木クロマツの地色が黒のデザイン。こちらは市章の上に「おすい」の 文字が入っていた。途中右手に折れて「長嶋園」方向に進む。前方に、枝が落とされた巨大な欅の老木が現れた。樹齢は??その先には、美しく刈り込まれた生垣が現れた。左側の植木畑の木々も見事に手入れされて美しい姿で。長嶋家の入口門の上部には、見事に刈り込まれた モチノキ(黐の木)。見上げて。宮原・獺郷には植木生産販売業が多く見られます。明治の終わりにはすでに植木農家が出現し、鵠沼の別荘地に出入を始めたり、関東大震災の後には火事に強い樹木の需要に応えて来ました。戦時中は食糧増産に押しやられましたが、昭和40年代に入り、再び盛んになっています。長嶋園の敷地を囲生垣は藤沢市の保存生垣に指定されています。(ぶら一り御所見ふるさと発見総合マップより)。「藤沢市保存樹木」と。表札「長嶋」と。その先前方にも、円筒状に刈り込まれ、背の高い樹木が現れた。近づいて。椿の花が開花中であり、椿の樹であることが分かったのであった。椿の樹がこれほどに高くなることに驚いたのであった。「長嶋園」と。そして突き当りを、左に折れる。そして「株式会社渡辺花園」の巨大な温室の脇を南に進む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.04.03
コメント(0)
一昨日、農園作業の後に。花桃の樹の下に生えている「ヨモギ」を摘んで来ました。ヨモギと聞くと、草餅やおひたし、天ぷらが頭に浮かびませんか?沖縄でヨモギは「フーチバー」と呼ばれ、野菜や薬草として考えられていて、風邪をひいた時に雑炊にして食べるそうです。ヨモギは食用や薬としてだけではなく、薬酒や薬草風呂、化粧品にも使用されているのです。陰干ししたヨモギと砂糖をホワイトリカーに1ヶ月漬けるとヨモギ酒になります。ヨモギ酒は独特の香りが広がり、咳止め、痰切り、止血の効果があるとされています。また、夏場汗をかいた後のかぶれやかゆみにはヨモギ風呂やヨモギの煮汁を塗布するとかゆみが和らぎます。更に、昔は?5月頃に採取した葉を乾燥し、臼に入れて粉末状に砕き、ふるいにかけて毛だけを集めた物がもぐさ(艾)となり、お灸に使われます。韓国の民間療法で産後のケアとして、よもぎを煎じた蒸気を下半身に浴びる「よもぎ蒸し」が愛用されています。日本でも首から下をハーブテントで包み、よもぎ蒸しを温活として提供しているサロンがあり女性を中心に人気があるとのこと。ヨモギは古代においても、現代においても女性に好まれる植物なのだと ネットから。自宅に持ち帰ると、妻が早速、ヨモギの葉を1本1本きれいにしてくれました。そして、鍋にたっぷりの湯を沸かし、重曹を入れる。よもぎを入れてサッとゆでたら、水にとる。約10分間さらしたら水けを絞り、包丁で細かく刻む。そしてすり鉢でたたくようにつぶす。白玉粉、上新粉を準備し、よもぎを混ぜ込みながらさらについていきます。そして、濡らした手で適量を生地から取り、団子の形に成形します。都度、手水を付けながら作業するときれいに仕上げることができるとのこと。そして出来上がりました。ズームして。こちらは、中につぶあん(粒餡)が入っていました。一生懸命に団子に丸めてくれました。サランラップ®越しに。ヨモギ葉だけで見事な色に仕上がっていました。独特の風味があり、これぞ春の風物詩!!ヨモギは、ゆでて和えものや炊きあがったごはんに刻んで混ぜてもおいしいのだ。カロテンと食物繊維が豊富で、ビタミンやカリウム、鉄分も多く含まれているとのこと。下痢や吐き気を押さえたり、止血や鎮痛にも効果があり、昔から薬草として使われて来たのです。こちらは、きな粉で楽しみました。菜園のエシャレットも。こちらも菜園のサニーレタス、アスパラガス、そしてトマトのサラダ。トマトは近所農家の方からの頂きものです。日本の伝統的な和菓子、"よもぎ団子"を楽しんだのであった。美しい緑色が目を惹き、一つ一つ丁寧に手作りされたその形は、見るだけでも心をなごませてくれるのであった。
2024.04.02
コメント(0)
この東への道も「大山道近道」であったのだろうか?西側を見る。この場所の両側には大きな寺があったが廃寺となったと。「中原街道」から富士山の勇姿を。ズームして。その先を右折、ここが「大山道近道」であったと。大山道は用田辻より用田橋を渡り海老名に入るのが本来の道ですが、用田辻より中原街道を南下し、五反畑より左に入り、鬼子母神堂の西を通って戸中橋を渡り海老名に入り門沢橋に通じる『大山道の近道』として利用された道がありました。昔は旅人相手の商売も見られ、たいそうな賑わいを見せたといわれています。またこの大山道近道と滝山街道が交差しています。(中原街道バス停「中原」から大山道・厚木道のバス停「西用田」に通じる道)。「神奈川県県水道消火栓マンホール」の蓋。神奈川県の鳥「カモメ」、花「ヤマユリ」、木「イチョウ」のデザイン。民家の花壇には美しい花々が。菜の花に似た花も。右からの小路も大山道近道に見えたがこの路は違うようだ。左手。次の左手の小路を左に曲がったが、間違ったとのことで引き返して進む。さらに西に進む。さらに藤沢市宮原の住宅地を進む。そして、「宮原」交差点へと続く広い道・中原街道に出た。道路沿いに咲き初めていたのは、花色が濃くて華やかな「オカメザクラ」であっただろうか。中原街道の先に木製の祠があった。中原街道の左手・「宮原」交差点方向を見る。この祠の前の小路を「立小路(たつこうじ)」と呼ぶと。「宮原歩一(ぶいち)にある道で、名前の由来は不明。立小路は宮原で最も早く人々が住み始めた場所で、並行して通る中原街道を立小路に対し「新道」と呼んでいます。立小路をはさんで多くの家々の玄関があり、中原街道側に墓地があることからも、立小路が古い道であったことがわかります」 と資料から。~「立小路」の歴史~立小路---は小田原北条氏支配時代に整備された道路とみられ、当時、沿道には約20軒もの家が軒を連ねていたようです。その後の江戸時代末の宮原村の地図によると、中原街道は「江戸新道」と呼ばれていました。立小路は中原街道が江戸時代に整備される前の「古道」であったと推測されています~宮原郷上史稿 吉川榮著より~中原街道を渡り、祠の前に。正面から。内部にはニ体の石仏が鎮座。石碑には「子育地蔵尊」と刻まれていた。 「子育地蔵尊立小路の一番北の位置にある子育地蔵尊で「元禄十ニ(1699)卯天九月吉日奉造立念仏講女中」とあり女性の講中によって建てられたもので、「妙舂 和□ 浄全 秋□ 三九郎 □甲 妙梅 為 妙宗 おかめ □覚 妙眞 宗益江□」と女性の名前が刻されています。昔から子どもに恵まれない人がお参りすると子どもが授かるとされています。ー昔前までは首がなく「首なし地蔵さん」と呼ばれていましたが、願いの叶った平塚の人が首を奉納し現在の姿になりました。」奉納されたお顔をズームして。左手には、宝暦十辰年(1760)七月ニ十七日造立の阿弥陀如来立像も安置されていた。右にあった黄金色に装飾された小さな像も。以前は、中原街道の反対側・「立小路」北側入口の正面に鎮座していたと。写真のカーブミラーの右側辺りか?両側には植木屋さんの植木畑が広がる道を北西に向かって進む。この場所の桜は、エピローグへと。椿の花も。「植木造園 宮原園」。その先、道路の反対側右手の路地にあった石碑。「北立小路の道祖神」には「道祖神」と刻まれていた。北町と立小路神集落の道祖神で元は双体道祖神でしたが、昭和49年(1974)に盗難にあい、翌50年に再建されました。「昭和五十年十一月十四日建立 相州宮原村 北立小路講中」と。「昭和」と刻まれた部分が破損して台座上に置かれていた。さらに植木畑をの緑を楽しみながら進む。正面に白い煙突が見えて来た。「高座清掃施設組合・第二清掃処理場」海老名、座間、綾瀬市の家庭ごみの焼却処理などを行っている高座清掃施設組合(海老名市本郷)。稼働を終えた第2清掃処理場の解体撤去工事と、本郷ふれあい公園(第2工区)の整備に着手しているとのこと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.04.02
コメント(0)
4月に入りましたが、昨日は急激に温度が上昇し、我が家の庭、菜園の花々も賑やかになって来ました。庭梅(ニワウメ)。この時機になると細い枝いっぱいに梅に似た花を咲かせ、初夏に生食もできる赤い果実を楽しめるのです。別の角度で。近づいて。クリスマスローズ(白)。クリスマスローズ(赤)。ボケ(木瓜)。近づいて。赤いチューリップも。ヒヤシンス(白)。ヒヤシンス(紫)。こちらは葉牡丹。開花直前。今年も我が家の庭の各種スイセンが開花しています。 小型水仙 FORTUNE。「黄色花カップ」黄色の花弁にオレンジ色の口紅カップ。ラッパ水仙白、口紅水仙。白い八重の房咲き水仙「ホワイトライオン」。小型のラッパ水仙。「タヒチ」。黄・黄色の八重咲き。大輪の大型。名前の通り明るい陽気な印象の花。「黄色シボリ」。花弁に黄色と白のシボリ模様が入ってます。ペチコート水仙「バルボコディウム 」。八重の黄水仙。「ピンクチャーム」。花弁が白色、副冠が桃色の大カップ咲き。大輪で大型。花弁も副冠も大きくよく目立ちます。房だけ薄い黄色のラッパ水仙。マウントフッドは徐々にクリーム色に変わるスイセン。八重咲きスイセンムスカリ(紫)。アマドコロ。近づいて。そしてユキヤナギ。近づいて。そして我が家の横の、そしてミツバチを飼う菜園の花々です。こちらはブロッコリーの花。我が趣味のミツバチが大好きな花なのです。近づいて。そろそろ、片付けて、トマトやキュウリを植え込みたいのですが、ミツバチ嬢が毎日訪花しているので、なかなか片付けられません。さらに。スナップエンドウ。スナップエンドウの花。こちらは大根の花。白カブの花。近づいて。更に。イチゴも花を付け出しました。イチゴの花。こちらがそら豆。そら豆の花。別の種類のそら豆の花。花の紫の色がやや濃いのです。
2024.04.01
コメント(0)
この日は3月22日(金)、会員登録している「藤沢地名の会」の令和5年度第3回「地名探訪」・「春の御所見南を歩く~宮原・獺郷・打戻の史蹟を訪ねて~」に参加して来ました。多くが以前に一人で訪ねた場所でしたが、「藤沢地名の会」の説明員の方が案内してくれるので復習も兼ねて参加を申し込んだのです。集合場所は、藤沢市北部の藤沢市用田地区にある、神奈川県道43号藤沢厚木線と中原街道が交差する「用田交差点」、時間は9:40とのこと。小田急線長後駅西口から、9:00発の綾瀬車庫行のバスにて向かう。小田急線長後駅を定刻9:00に出発。車窓から、長後725号線沿いにあった「藤沢市長後市民センター」を見る。特徴的な長後市民センター体育室の外観。長後は柏尾通大山道と八王子へ向かう滝山街道が交差する交通の要衝として、古くから栄えて来た。その名前は高座の「長の郷」に由来するとも言われているのだ。今でも市の北西部への玄関口で、かつて私が学生時代にはは小田急線の急行が長後だけに停車した時期もあった。果樹の栽培が盛んで、シーズンには新鮮なナシやブドウを求める人たちで賑わうのだ。バスが走るこの道路はかつての「大山道」で、今でも市の北西部へ向かうバスルート。「藤沢市長後市民センター」の本館を見る。そして引地川の手前からは富士山の勇姿が現れた。そして長後駅から約15分で集合場所近くの「用田辻」バス停で下車し集合場所に向かう。集合場所の「用田」交差点を渡り、「中原街道」を振り返る。「用田」交差点を通過する赤い大型バス。SFCと呼ばれる慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスと小田急線湘南台駅を結ぶ「ツインライナー」。「ツインライナー」は、「交通バリアフリー法」に対応した、日本初のノンステップ連節バス。全長 18.175mと、ほぼ電車 1 両分の長さで、定員も 129 名(旅客 128 名+乗務員 1 名)と、電車の定員とほぼ同じ。車両はドイツ生まれのヨーロピアンスタイルで、カラーは街並みに明るく華やかな雰囲気を添えるピーチピンクを採用。乗降しやすいノンステップの入り口からは、平面床が約 15m 続くのだ。昨年・2023年には、湘南台駅近くを走っていた際に、新しい4両編成のバスとすれ違ったのであった。2両編成のツインライナーがついに2倍になっていたのであった。この4両編成の連結バスは、ツインライナーにあわせて「ツインツインライナー」と名付けられたと帰宅してから知ったのであった。中原街道(なかはらかいどう)・神奈川県道45号線の道路標識。中原街道は、相模国(神奈川県)平塚と武蔵国豊島郡江戸(東京)とを結ぶ街道。現在の国道1号桜田通りから東京都道・神奈川県道2号線および神奈川県道45号線に相当し、高座郡寒川町一之宮の田村の渡し、または、四之宮の渡しで相模川を渡り、平塚市御殿へ達している。中原街道は脇街道であったため、東海道のような宿駅は設けられず、荷物等の受け渡しを行う継立場が下記の通り設けられた(なおこの継立場を中原街道の宿場とする見解もある)。・小杉(神奈川県川崎市中原区)・佐江戸(神奈川県横浜市都筑区)・瀬谷(神奈川県横浜市瀬谷区)・用田(神奈川県藤沢市)写真はネットから。そして集合時間になると、この日の参加者18名が全員集合。平均年齢は70歳を超えていたであろうか。この日に「藤沢地名の会」からいただいた資料(以下 資料)の一部を転載させていただきました。この日の散策案内資料の表紙。下部にこの日の散策場所・探訪コースが示されていた。「御所見の昔・今より」上:現在の地図下:当時の御所見の小字葛原には、桓武天皇第三皇子葛原親王(かつらはらしんのう)の御所があったといわれている。御所見(ごしょみ)の名は、葛原親王が散歩の際に御所を眺めたという菖蒲沢の塚「御所見塚」に由来するとのこと。また、平安時代に葛原親王の子孫である垂木主膳正従四位下長田武蔵守平忠望がこの地に住み、その館は土地の人々に垂木御所(たるきごしょ)と呼ばれていた。菖蒲沢の塚から、この御所を見ることができたためという説もある。「御所見地区は、明治ニ十ニ年(1889)四月市町村制の施行により、用田・葛原・蒲沢・打戻・獺郷・宮原の6ヶ村が合併して御所見村となったのが起源です。昭和三十年(1955)に藤沢市に合併し、現在は藤沢市13地区区分の1つとなっています。藤沢市の北西部に位置し、北から西にかけて綾瀬市、西は目久尻川を境として海老名市、西南に寒川町、南は小出川を境に茅ヶ崎市と接しています。地層の基盤は、相模川左岸の洪積層相模原台地(約7万年前)に、地区の中央を南北に高座丘陵(約13万年前)が割り込んだ形となっています。その上を関東ローム層が覆う30 ~ 40mの台地となり、一部が相模川支流の目久尻川・小出川や引地川支流の一色川等の沖積層になっています。沖積層の低湿な地域は、以前は氾濫・泥田地帯でしたが、昭和初期からの耕地整理により今では良田に改良されています。また、台地上は昭和三十五年(1960)以降の工場進出や宅地開発が進められてきましたが、市街化調整区域として今も山林や畑が多く残され、昔ながらの農村の姿を各所に見ることができます。当地区は、古代は東海道別路と東山道連絡道が通る交通の要衝で、早くから拓かれた土地とされ、今も長い歴史の伝承を持つ神社が複数存在しています。これらの古道は、近世になって中原街道・大山道として引き継がれ賑わい、用田辻付近は旅籠や茶店が多く集まっていました。一方で、大方の村人たちの暮らしは養蚕と、粟・米・麦・サツマイモ・スイカ、また戦前まではタバコも多く栽培され、農耕を中心とした生活に支えられていました。」と資料から。在りし日・昭和30年頃の「御所見塚」を頂いた資料から。「御所見塚」は、昭和35年に工業用地となり、整地されてしまったのだと。「御所見塚事蹟之碑」現在は、 御所見塚の記念碑が、場所を移して御所見市民センターの一角に立っている。「御所見略年表」。集合場所の「用田辻」。南北に中原街道、東西に大山道・厚木道が交差する用田辻は、古くからの交通の要所で、用田村はこれらの道の継場として栄え、継立の道程は、中原街道は一之宮村へー里半、瀬谷村へニ里半、大山道は門沢橋へ三十町、長後村へー里、厚木道は藤沢宿へニ里ニ十七町、厚木村へニ里です。用田辻を中心に伊東屋、あずま屋、富士屋、亀屋、伊豆屋などの旅籠がありました。現在、中原街道---は丸子中山茅ヶ崎線、大山道---は横浜伊勢原線、厚木道---は藤沢厚木線と呼ばれ、大山道と厚木道は御所見中学校前で合流し、用田では一本の道となり用田橋の先で再びニ本の道に分かれます。「用田辻」にあったのが「不動明王坐像道標」。丁度、影になってしまっていたので、以前の時の写真を。こちらは、この日の写真・「不動明王」像。安永4年(1175)「右大山道 東柏尾道 北江戸志んみち 南一之宮道」と刻まれていたと。大山街道「柏尾(かしお)道」は、横浜市戸塚区の柏尾で東海道から分かれて大山に向かい、伊勢原市の下糟屋で矢倉沢往還ルートの大山街道と合流するもので、東海道から大山に向かう旅人に利用される道だった。全体的にはほぼ真っ直ぐ西に向っており、途中でいくつもの川を渡る。 川を越すたびに丘陵からの下りと上りを繰り返すが、息が切れるほどの急坂はあまりなく、歩き旅に変化を与えてくれるといった感じ。 また、他の旧街道と比べて道標や庚申塔などの石造物が非常に多く残されているのが特徴的だ。明治になって鉄道が開通すると平塚経由の方が便利になったので廃れていったと ネットから。「不動明王」像の右下に石碑が2基。左の石碑・道標には「施主 相州ふたつや村□木□ 相州□谷村久保田 西 座間休息山 上依知星下」と刻まれていたと。その右には「発起人」の名前が刻まれていた。2基の石碑の裏面。そして「中原街道」を南に下り散策開始。この日の散策ルートを資料から。 ・・・つづく・・・
2024.04.01
コメント(0)
全37件 (37件中 1-37件目)
1