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隠居人はせじぃさん
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備中松山城は倉敷からは車で約1時間、岡山3大河川の高梁川の中流高梁市に聳える
標高480mの「臥牛山」のうちの小松山頂上にあり日本一高い場所にある山城遺構。 
ふいご峠の駐車場で車を駐める。一般の車はここまで。
右奥に遊歩道の入り口が。城までは距離にして700m、徒歩20分との表示。

急な坂道を懸命に登る。


上太鼓丸跡手前の石段。


大手門跡付近の石垣群。要塞のように眼前にそびえる石垣。この上が三の丸。
石垣がどれか一個抜けると一気に崩壊する危険があると。
因って地すべり対策と同様の工事を何回も施工しているとのこと。
地盤の動きの計測もハイテク機器を用いて行われていると。
以前訪ねたペルーのマチュピチュ遺跡も同様に地盤の動きを監視していた事を想いだし
たのであった。

備中松山城の「三の平櫓東土塀」は国の重要文化財に指定されていると。


四角い矢狭間と丸い筒狭間を備えた土塀で、長年の風雪に耐えて残ったものと。


そして天守への最後の石段。


備中松山城 復古図と歴史が説明されていた。
この城の歴史は古く、鎌倉時代の延応二年(1240)に有漢の郷(現在の上房郡有漢町)
の地頭に 任ぜられた秋庭三郎重信により臥牛山のうちの大松山に砦が築かれたことに
始まります。
その後、小松山に移り、城の縄張りは時代と共に変化しますが、なかでも天正二年
(1574)に起こった 「備中兵乱」時は「砦二十一丸」と呼ばれた出丸が築かれていた
ことが記録として残っており、臥牛山ー大要塞となっていたことがうかがえます。
当時の城主であった三村氏が滅んだ後も、毛利氏の東方進出の拠点として、またさらに
毛利氏が 防長二国に退いてからも、備中 国奉行として赴任していた小堀正次・正一
(遠州)父子により修改築が なされるなどなど備中の要衝としての役割を担っていた
ようです。


以降、池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏、板倉氏と城主がかわり明治維新を迎えますが、
現存する 天守などは天和三年(1683)に水谷勝宗により修築されたものと伝えられて
います。
六の平櫓(復元:左) 五の平櫓(復元:中央) 天守(現存:右)

チケットを購入し、中に入って天守閣の前から撮った本丸南御門。


明治新政府から城を解体せよとの命令が来たにもかかわらず、放置。
解体しましたと報告のみ行ったことから、現存もっとも標高の高い位置にある天守閣と
いう事になったと。
天守も天然の岩盤の上に築かれていたのです。


天守前には少しスペースが。左に見えているのが復元された東御門。


天守の屋根も青空に映えて見事であった。


下から見上げた天守。
2重2階で、西面に半地下のようにして付櫓が附属する複合式望楼型天守。
石落しも確認できた。


1916年(大正5年)の秋、歌人の与謝野夫婦が備中松山城のある高梁を訪れたと。
そのときに与謝野寛(よさのひろし)が詠んだ歌が石碑になっていた。
『松山の渓を埋むるあさ霧にわが立つ城の四方しろくなる 』


そして再び駐車場のあるふいご峠まで石段を下る。


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