JINさんの陽蜂農遠日記

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2019.07.12
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カテゴリ: 海外旅行
更に伪满洲皇宫博物院の見学を続ける。
これは「緝熙楼 (しょうきろう) 」といわれる建物で、溥儀や皇后の婉容(えんよう)、
第三夫人の譚玉齢 (たん ぎょくれい) の寝宮だったそうだ。



まずは2階への階段を上る。
古い建物のこの階段には独特な、なにかを感じさせてくれるのであった。



溥儀の『漢方薬庫』
溥儀は、青年時より薬好きで、専用の薬局を設けていたのだと。




「1931 年暮れ、満洲事変勃発後、溥儀が日本陸軍から「大清帝国の復興である新国家(満州国)」の
皇帝となるよう要請を受け受諾し、天津を脱出して満州へ移住。静園から溥儀が去ったことを
知った婉容は、溥儀から満州に来るよう求められたが皇后の身分にも皇帝のもとへも戻る意思が
ないと断ったが、関東軍の命を受けた金璧輝こと川島芳子に「皇帝が大連で亡くなったため
葬儀に出席してもらいたい」と欺かれ、満州に連れ出された。
溥儀が 2 年間の執政を経て 1934 3 1 日に皇帝に即位すると、婉容もまた皇后となるが、
皇后に相応しくないと見なす関東軍の意向により、公式の場に姿を見せることはほとんどなく、

6 7 日、訪満していた秩父宮雍仁親王による勲章伝達式に際しても、関東軍は婉容を
謁見させたくなかったが、「伝達式には皇帝・皇后ともに出席すべし」との日本政府の
主張により例外的にこれを受け入れた。婉容は勲一等宝冠章受賞の儀式でもその後の宴でも、
さらに 12
見せることもなく、健康そのものの様子で儀式に臨み宴の女主人役を務めた。
しかし自由のない閉塞的な暮らしと皇后としての振る舞いも許されない状況の下で
アヘンへの依存は高まり、 1935 年頃には新しい衣料を購入することもなくなった。
溥儀の弟溥傑の妻であった嵯峨浩は、 1937 年秋頃の様子として、アヘン中毒の影響から
婉容の食事の様子に異常な兆候があったと自伝に記している。」と。



『婉容皇后の寝室』。



結婚以来、一度も溥儀とベットを共にしなかった。
その寂しさを紛らわすため、溥儀の家来と浮気。その結果、溥儀からの愛は無くなったと。



『婉容の応接間』はアヘン吸引室。
婉容は、満洲国時代になると、日本ぎらいもあって、アヘンにおぼれて、公式の場所に
ほとんど姿をみせなかったと。
以前は第一夫人の婉容がアヘンを吸っている様子がロウ人形で再現されていたとのことだが
この日はロウ人形はなかった。



『婉容の応接間』
西洋知識豊富・英語堪能、琴・書画ともに優れた婉容の応接間。
しかし、アヘン中毒となった婉容に、来訪すべき客はいなかった。



『理髪室』。



日本人津田という人がおかかえの床屋さんだったようです。
清朝皇帝は「龍髪」という習慣があり、切った髪を黄色い絹に包み、日付を書いて
保存していたと。
また、溥儀が日常使う注射器をここで消毒していたと。なんでもホルモン注射をしていた模様。



『溥儀の書斎』
このにも以前は、溥儀と語り合おう吉岡安直の二人のロウ人形が椅子に座っていたようで
あったがこの日はここのロウ人形の姿もなかった。



読書・習字の場。吉岡安直の指導を受け政治活動を行った場所。



『溥儀の寝室』。
1932年から1945年までの寝起きをしていた部屋。



『溥儀の寝室』のベッドの手前。



『溥儀の仏間』
神仏信仰は清朝歴代皇帝の伝統。
溥儀は歴代清朝皇帝同様熱心な仏教信者。
この仏間で読経、占い、運命判断、祭事などをみずから行っていたとのこと。



『溥儀の浴室』。
右側が浴室、左側がトイレであろうか。



第三夫人の『譚玉齢(たん ぎょくれい)の応接室』。
1920-1942。北京に満州族の貴族の子として生まれ、17歳の時、当時32歳の溥儀の側室となる。
22歳で病死。他他拉貴人(たたらきじん)の名でも呼ばれる。
温厚でおだやかな性格で、最も寵愛を受けたといわれているが、宮仕えの5年後
わずか22才で謎の死を遂げており、溥儀はそれを後々まで日本軍による毒殺と疑っていた。
「私の妻は…私の貴人は、非常に私との仲がよかったのであります。年は若くて23でありました。
あるとき私の貴人は病気になりました。彼女は中国を愛し、即ち中国の国家を愛する人間で
ありました。そうして貴人は常に私に向って、今はやむをえないから、できるだけ忍耐
しましょう。そうして将来時が来たならば、失った満州国の地を中国にとり返すように
致しましょう、と語っておりました。しかしながら、私の貴人は日本人に殺されたのであります。」
と、愛新覚羅溥儀の著・『わが半生』には書かれていると。



偽満皇宮博物院における緝煕楼(しゅうきろう)の一階の東側では、溥儀や皇后、皇妃の
生活写真が展示されていた。
この時代は、カメラの普及も進んでおり、古い写真も数多く残されていたのであった。
写真館の溥儀と婉容。



1922年、正妻の婉容と結婚した溥儀(左)と婉容。



溥儀と婉容。



婉容。
婉容は、北京で生まれたが、天津で育って英語を含めた西洋的な教育を受けていた。
17才の時に、溥儀の皇后として迎えられたが、溥儀の同性愛的性向あるいは性的不能によって、
夫婦仲は冷えていき、アヘンに手を出して、重篤な中毒に陥って行ったのだ。
溥儀が満州国皇帝となると婉容も再び皇后になったが、アヘン中毒と日本人嫌いのため、
公式の場にはほとんど姿を見せず、最後は身なりにも気を使わないような精神的錯乱に
陥って行った。
婉容は、満州国皇后時代に愛人を作り、娘を出産するが、生まれた子供は、すぐに彼女の前から
姿を消してしまう。本人には、親族の手で育てられていると告げられたが、実際は溥儀の命を
受けた従者の手によって、ボイラーの中に投じて殺害されたと。
日本の敗戦後の逃亡の際に溥儀一行から置き去りにされて、共産党軍の手におち、吉林省延吉の
監獄内でアヘン中毒の禁断症状と栄養失調のため、孤独の内に死亡したといわれているのだ。



第2夫人の文繍(ぶんしゅう)。位階は淑妃。
婉容が皇后に迎えられる前日に、側室として紫禁城に迎えられたのが、13才の文繍。
紫禁城の中で、溥儀や婉容とともに過ごす日が続く。天津の日本租界に移ってから
溥儀のもとから逃亡して、3日後に離婚の訴訟を裁判所に申し出ると溥儀が慰謝料を
支払うことになって、離婚は成立して、文繍は平民に戻った。文繍は、私立学校の先生に
なったが、皇帝の側室であったことが世間に広まったことから退職を余儀なくされたと。
1931年、溥儀との離婚を裁判所に申請して認可され、溥儀が慰謝料5万5千元を支払うことで
離婚が成立した。この時の離婚の条件は、文繍が生涯結婚をしないというものであったと。
最後は45才で、飢え死にに近い状態で亡くなったと。



北京故宮長春宮の婉容。



婉容の写真が並ぶ。



溥儀と婉容そして二人の妹と一緒に。



天津静园での溥儀夫妻。



婉容。



北京故宮にて自転車に乗る婉容。



婉容の弟・潤麒と一緒に。



日本公使館にて。



天津にて溥儀の誕生日に時の写真であると。



満鉄経営の湯崗子(とうこうし)温泉(現在の遼寧省鞍山市の湯崗子駅の東)の
対翠閣(たいすいかく)門での溥儀夫妻(左)と1932年3月8日長春での溥儀夫妻。



第三夫人の譚玉齢(たんぎょくれい)(中央)と愛新覚羅溥傑(満州国皇帝愛新覚羅溥儀の弟)
の妻・嵯峨浩(左)。



1943年の4番目の妻・李玉琴 (り・ぎょくきん)(右)と1957年の李玉琴 (左)。
関東軍としては、満州国皇帝に世継ぎができる必要があった。そこで側室を迎えることを
溥儀に勧めた。関東軍の手で集められた候補のうち、新京市内の料理屋の店で働く労働者階級の
娘の15才の李玉琴が選ばれた。
皇帝の側室というよりは、召使のような扱いで、廃人と化した皇后婉容を最後まで世話した。
溥儀の収容所時代に、離婚することになたと。



1982年の李玉琴 。



そして溥儀の最後の妻(5人目)は李淑賢( り・しゅくけん)、
看護婦をしており、戦後、溥儀と結婚する。溥儀の死後、その意志に基づき、
彼の後半生の手記を書き上げた。1962年結婚。
二人の結婚生活は仲睦まじかったと伝わっている。ちなみに、溥儀にとって生涯唯一の
恋愛結婚でもあったと。



『譚玉齢の応接間』
1937年に溥儀と結婚。溥儀に愛されていたが1942年22歳の若さで急病にかかり死去。
元は溥儀が食事をした食堂を、1937年以降、譚玉齢の応接間に改造。
溥儀の妹達はよく来訪し、譚玉齢と雑談した。



『譚玉齢の書房』



元は溥儀の書房。1937年以降、譚玉齢の書房に改造。読書・習字だけでなく、琴を弾いたりした。
また、溥儀に生活用品を編むこともあった。



『譚玉齢の寝室』



婉容はアヘン中毒になり、文繍は逃げ去っていたため、満洲時代になって15才の譚玉齢 を
1937年側室に迎えた。溥儀との仲は良かったのだが、重い病に。清朝以来の習慣で漢方薬医に
治療をさせるが、衰弱していく一方であった。この病気は御用係りの吉岡の耳に入り、
日本人医師に診察させるよう勧めた。吉岡の言葉に反対できない溥儀は、日本人医師に治療を
行わせる。栄養剤の注射と輸血を行ったその晩に譚玉齢は急死してしまう。
譚玉齢は、愛国心が強く関東軍に反感を持っていたために、吉岡の指示によって暗殺されたと
いう疑いがわいて来たと。溥儀は後の東京軍事裁判で、譚玉齢は吉岡に毒殺されたと
証言したのだと。




『西御花江園』入口。



「西御苑は、偽満州国の初期に、吉黒榷運局の花園の敷地に造られたのである。
敷地面積は2200m2以上である。園内にいろいろな草花と木が植えられ、東屋や築山が池に
映って美しい景観となる。東御苑ができていないとき、溥儀と宴用はよくここへ遊び
楽しみに来る」



『西御花江園』



案内表示。



『勤民楼』
溥儀が清王朝復活の大志を示すため「天を敬い祖を則り政に勤め民を愛す」という
清王朝の家訓より命名。政務・式典・来賓接待・宴会を行った場所。
ここにも入りたかったが、今回のコースには入っていない模様であった。
『​ 勤民楼 ​👈リンク』に関心のある方は・リンクにアクセスしてください。



『勤民楼』前庭部。



『勤民楼』出口門は『迎晖門(迎暉門)』。
『宮内府』、『興運門』に向かって進む。



『宮内府』入口。



暢春軒。
溥儀の妹たちが暮らしたところで、寝室や応接室などがあった。溥儀の実父が訪ねてきた時にも
ここに滞在したとのこと。
ちなみに、この博物院に展示されている家具はほぼほぼ全てレプリカで、本物は文化大革命時に
すべて失われてしまったらしい。



偽満州国では宮内府大臣の下に日本人次長を置いていた。
次長は名義上は大臣の補佐であるが、人事・財務等のすべての行政権を持ち
偽満州国政権を制御していた。
総務処は職員の監督・指揮をする。各書類の保管や、宴会・賞与および職員の任免・賞罰等の
事項を管理していた。



正面に『興運門』の内側が。



9:10で止まっている時計。
溥儀が長春から逃げる時間で、時が止まっているのだと。


『興運門』の表側。



皇帝のシンボル「ランの花」の紋章。
また、門に描かれている龍は皇帝の証であると。



林の奥に多くの馬の姿が。



奥には『御用乗馬場』があった。
溥儀も実際に遊んだ乗馬場であると。



そいて柳の並木の下を出口(入口)に向かって進む、



黄色の花にはミツバチが。



『紫椴』、『菩提樹の花』であるようだ。




                              ・・・​ もどる ​・・・

                   ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2021.08.22 18:30:41
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