JINさんの陽蜂農遠日記

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2020.07.15
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カテゴリ: 国内旅行
更に参道を進むと右手には歴史を感じさせる石灯籠が一対。



「この灯籠一対は江戸時代関東郡代を世襲した伊奈家十代伊奈 忠宥(ただおき)により
宝暦年間当宮に寄進されたものです。」



そして反対側には「昭和天皇 救国の御決断と富岡八幡宮」碑と
「天皇陛下御野立所(おのだちしょ)」碑が。





戦災地御巡幸ノ際 玉歩シ此處ニ駐ノサセ給フ
東京都 昭和三十五年四月二十九日建立。



「昭和天皇 救国の御決断と富岡八幡宮」と刻まれた石碑。



「昭和天皇 救国の御決断と富岡八幡宮
昭和19(1944)年11月に、アメリカ軍による東京空襲が始まった。
昭和天皇はこの年10月に靖国神社例大祭に行幸されたのを最後に、皇居から出られなかった。
天皇は3月10日に東京大空襲が行われると、被災地を視察されたいと仰言せられた。
軍は天皇の抗戦のご決意が揺らぐことを心配して強く反対したが、天皇が固執された。

決定された。
御料車からボンネットに立つ天皇旗を外し、いつもは沿道に警官が並ぶが、天皇であることが
分からないように、できるだけ少なくし、交通を寸前まで規制しなかった。
御料車が永代橋を渡り深川に入ると、見渡すかぎりの焼け野原だった。
天皇は富岡八幡宮の焼け焦げた大鳥居の前で降りられると。大達内相の先導によって、
延焼を免れた手水舎の前に向かわれた。粗末な机が置かれていた。
内相が被害状況のご説明を終えると、天皇は「こんなに焼けたか」としばし絶句されて、
立ちすくまれた。
この時に、昭和天皇は惨禍を目のあたりにされて、終戦の御決意をされたにちがいない。
大戦が8月15日に終結した。8月15日は江戸時代を通じて、富岡八幡宮の例大祭に当たった。
終戦は富岡八幡宮の御神威によるものだった。




「昭和天皇は、ここ富岡八幡宮から東京大空襲の被災地を視察されました」



「昭和天皇 救国の御決断と富岡八幡宮」
「願掛けの八角十二支」説明板。
「江戸・東京の発展と、日本の平和と発展を願い、ここに石碑を建立する
平成31年3月18日 富岡八幡宮友の会」




真ん中にとんぼが掘られていた。



「願掛けの八角十二支石碑」の触り方。
金運、人気運・才能運、恋愛運・人間関係、仕事運・健康運それぞれの願掛けのやり方が。
願い事は「ひとりひとつ」と。
★金運
 巳→酉→丑
 右手で巳、左手で酉、
 右手ずらして丑
★人気運・才能運
 寅→午→戌
 右手で寅、左手で午、
 左手ずらして戌
★恋愛運・人間関係
 申→子→辰
 左手で申、右手で子、
 右手ずらして辰
★仕運・健康運
 亥→卯→未
 左手で亥、右手で卯、
 左手ずらして未
願いがかなった場合は、神様にご報告に訪れて下さい。
私は左手で亥、右手で卯、左手ずらして未を。



そしてその横にあったが「手水舎」。
一対の黄金の鳳凰が。この手水舎は2016年12月に完成したものだと。



右手の黄金の鳳凰がビニールホースで聖水を。



左手の鳳凰も同様に。
金色の羽を広げた立派な鳳凰が口から聖水を出していた。
この手水舎では人感センサーにより左右の鳳凰の口より水が出るようになっているのだと。



手水舎の向かいにあったのが昭和「天皇陛下御製」が。
「身はいかに なるともいくさ とどめけり ただたふれいく 民をおもひて」



正面に「本殿」の姿が。



階段下から「西参道」を見る。



両側に祠の形の灯籠が。



そして「富岡八幡宮 本殿」。
1627年(寛永4年)、菅原道真公の末裔といわれる長盛法印が神託により、当時永代島にと
呼ばれた小島に創祀したのが始まりとされる。当時は「永代嶋八幡宮」と呼ばれ、
砂州の埋め立てにより60,508坪の社有地があった。
また八幡大神を尊崇した徳川将軍家の保護を受け、庶民にも「深川の八幡様」として親しまれた。
広く美麗な庭園は人気の名所であったという。なお、長盛法師は同じ地に別当寺院として
永代寺も建立している。当社の周囲には門前町(現在の門前仲町)が形成され、干拓地が
沖合いに延びるにつれ商業地としても重要視された とウィキペディアより。

主祭神  第十五代天皇・応神天皇(おうじんてんのう:八幡神)
相殿神
神功皇后(じんぐうこうごう:主祭神の母)
仁徳天皇(にんとくてんのう:主祭神の子、第十六代天皇)
天照皇大神(あまてらすすめおおかみ:主祭神の祖神)
常磐社神(ときはやしろのかみ)
武内宿祢命(たけのうちのすくねのみこと:主祭神の重臣)
日本武尊(やまとたけるのみこと:主祭神の祖父)
天児屋根命(あめのこやねのみこと:主祭神の祖ニニギとともに降臨、
中臣氏(かなとみうじ)の祖)
竈大神(かまどおおかみ)
も祀られています。
現在の社殿は昭和三十一年(1956)に造営され、鉄筋コンクリートを使用した、
「重層型準八幡造り」となっている。



扁額は「萬世泰平」であろうか。



「本殿 内陣」。



今年の絵馬。



「本殿」を右側から。



左側から。



奥の「本殿」。



境内の保護樹木「クスノキ」の前に「百度石」。



境内にあった「金魚花魁(きんぎょおいらん)」の絵画。



「青森県弘前市にて2013年8月1日から7日にわたって開催された『弘前ねぷたまつり』。
その中で実際に運行したねぷたを、富岡八幡宮での展示のために再構築しました。
今作のような美人画は、「見送り絵」と呼ばれ、雄々しいねぷた絵とはまた違った魅力を持つ。
部分はねぶたに明かリが灯された際、透き通るような光を放つ。
輪郭線や色の境目に施された透明な塗リ加工は『蝋引き」と呼ばれ、
この部分はねぶたに明かリが灯された際、透き通るような光を放つ。
一定の温度で溶かした蝋を、絶妙な筆使いで塗るこの技術は、
筆使いと、大胆かつ繊細な色彩を際立たせる、ねぶた制作になくてはならない工程といえる。
「ラッセーラー」の掛け声を共に灯篭を運行させる青森県青森市の『ねぶた祭り』とは違い、
弘前市の『ねぶた祭リ』は「ヤーヤドー」の掛け声を使用する。
その土地独自の発展を遂げたねぶた/ねぷたの姿の一片を感しられる作品である。」



境内右手に絵馬の奉納場所が。



「深川富岡八幡宮」の絵馬。



「本殿」右奥に進んで行くと「横綱力士碑(よこづなりきしひ)」が。



明治三十三年(1900)、第十二代横綱・陣幕久五郎(じんまくきゅうごろう)を発起人に
歴代横綱を顕彰する碑が建立された。この碑には初代・明石志賀之助(あかししがのすけ)から
第六十七代・武蔵丸関までの四股名(しこな)が刻まれていた。
新横綱誕生時には相撲協会立会いのもと刻名式がおこなわれ、新横綱の土俵入りが奉納される。
また両側には伊藤博文(いとうひろぶみ)、山県有朋(やまがたありとも)、
大隈重信(おおくましげのぶ)といった賛同者の名も刻まれていた。
高さ3.5m、幅3m、重量は20t。



右手の碑には第四十六代朝潮太郎~第六十六代若乃花勝の文字が。



そして左の碑には第六十七代武蔵丸光洋~第七十二代稀勢の里寛の文字が。



「横綱力士碑
◇建立 明治三十三年
◇重量 約五千五百貫(約ニ十トン)
当宮では貞享元年(一六八四)に幕府の公許のもと初めて勧進相撲が行われ、以後年ニ場所の
相撲興業が定期的に行われた事により江戸勧進相発祥の地として知らるようになりました。
初代明石志賀之助からの歴代横綱の名が刻まれたこの碑は、第十ニ代横綱陣幕久五郎が発起人と
なり各界の協賛を得て奉納されたものです。
なお、正面参道・大烏居手前左側には「大関力士碑」が建立されています。」



ここにも江東区教育委員会の「横綱力士碑」案内板。



「江東区指定有形文化財(歴史資料) 横綱力士碑」
附 陣蟇・不知火顕彰碑ニ基 日月石寄附碑 地固め寄附碑土台石垣
魚かし石柱ニ本 土台下玉垣
富岡一ーニ◯ー三 富岡八幡宮
この横綱力士碑は、横綱の顕彰と相撲の歴史を伝えるため、江戸時代最後の
横綱第十ニ代陣幕久五郎が中心となり、明治三十三年に建てられました。
古くから庶民に親しまれてきた相撲は、江戸時代には幕府公認の勧進相撲
(寺社修復などを目的に実施)へと発展し、大坂・京・江戸で興行として開催されました。
幕府がはじめて江戸での勧進相撲を認めたのは、貞享元年(一六八四)の富岡八幡宮境内でした。
その後、明和年間(一七六四~七一)には、春・秋ニ場所のうち一場所がこの地で開催され、
享和元年(一八◯一)までに本場所三十一回を数えました。その意味で、富岡八幡宮は
江戸勧進相撲の発祥の地といえます。偉容を誇る横綱力士碑は、同時期に建てられた
陣慕・不知火顕彰碑や周辺の石造物(魚かし石柱、土台下玉垣は大正未ごろ)とともに、
相撲と地域のつながりを示す貴重な文化財です。」



そして「陣幕・不知火碑」。
こちらが「陣幕」碑。
第十二代横綱・陣幕久五郎(きゅうごろう)を顕彰する碑。
この碑に刻まれているのは安政4年(1857)正月場所2日目の取組で、両碑の上部には
「安政四年正月 両国回向院ニ於テ大相撲興行二日目ノ取組ナリ」と彫ってあった。



「不知火碑」
第十一代横綱・不知火光右衛門(みつえもん)を顕彰する碑。



「出羽海一門友愛之碑」。



「かつて出羽海部屋、春日野部屋を中心とせる出羽海一門に所属し、相撲技に励みたる者たち、
それぞれの社会より集いて、親睦のため「出羽海一門友愛会」を結びたるは
昭和三十一年一月なり。
一門の弥栄と相撲道の隆盛を祈り、江戸勧進相撲ゆかりのこの地に友愛の碑を建つる
ものなり。」と。



「出羽海一門友愛之碑」と対をなす柱状の碑は、「超五十連勝力士碑」。
この碑が建ったのは昭和63年9月、つまり千代の富士が連勝している最中だったのだと。
高さは2m、直径80cmで、11角柱という極めて珍しいスタイルをした赤御影石の碑である。
もともとここには釈迦ヶ嶽の等身碑があったが、大関力士碑のところへ移されたのは
この碑を建てるためだった。 正面に「超五十連勝力士碑」と隷書(大嶋瑞雲筆)で揮毫され、
右へ順に到達者の名と記録が刻まれている。



刻まれている力士は「双葉山(69連勝)」「千代の富士(53連勝)」江戸時代の
「谷風(63連勝)」明治時代の「初代梅ヶ谷(58連勝)」そして明治から大正にかけての
「太刀山(56連勝)」の5人だけ。
上から連勝数・地位(第何代横綱)・力士名・期間である。建立当初は4人しかいなかったが、
建ってすぐに千代の富士が53連勝を達成したので、12月に名だけを彫り、 引退後に連勝記録を
彫って今の姿になったのだと。
しかし白鵬の名は今も彫られていないのだ。千代の富士の例に倣えば、名だけは彫っておいても
良いのだが、 63連勝を記録してから10年以上も経っていながら、まだ彫られていない。
引退時にまとめて彫るという意向なのだろうか。それともこれから63連勝以上を?



境内一番奥の蔵。



「古札納め所」。




                              ・・・​ もどる ​・・・

                  ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2020.07.15 21:07:20
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