JINさんの陽蜂農遠日記

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2020.09.20
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カテゴリ: 国内旅行
高島城の天守閣に入る。
拝観料は大人300円。
大天守は明治の古写真に残る姿を元に昭和45年に再建された。
江戸時代の天守は瓦を載せず、こけら葺きで御殿のような色合いをしており、それを意識して
再建天守には銅板が葺かれている。窓の数など一部のデザインが微妙に変更されているが、
ほぼ当時の姿を模しているのだと。



「高島城の年表」。
天正18年(1590年)、日野根高吉(1539~1600年)が諏訪郡に2万7千石を与えられた
記述から始まっていた。はじめ、美濃斉藤氏に仕え、斉藤氏滅亡後は織田信長、


『高島城の年表』です。天正19年(1590年)、日野根高吉(1539~1600年)が諏訪郡に2万7千石を与えられた記述から始まっていました。はじめ、美濃斉藤氏に仕え、斉藤氏滅亡後は織田信長、後に羽柴秀吉に仕えた武将です。最後の記述が粗油和45年(1970年)の天守の復興でした。

「高島藩の起こりとあらまし
天正10 ( 1582 )年3月、諏訪を支配していた武田勝頼が織田信長に滅ぼされ、
諏訪は信長の家臣河尻秀隆の領地になったが、本能寺の変を機に、諏訪大社上社の
大祝であった諏訪頼忠が支配者となり、徳川家康の配下になった。
天正18年 (1590)小田原の北条氏滅亡後、諏訪頼忠は、家康に従って武蔵国
(埼玉県)に移り、ついで上野国(群馬県)に移った。
この時、諏訪は豊臣秀吉の家臣日根野高吉の領地になった。高吉は天正19 年( 1591 )、
この地に城を築くことを決め、翌文禄元年に着工、慶長3年( 1598 )に7年の歳月をかけて
高島城が完成した。
関ヶ原の戦いの後、慶長6年( 1601)に高吉の子である日根野吉明は、下野国(栃木県)に移され、
代わって上野国にいた諏訪氏が旧領に戻り、初代高島藩主となった頼水以降10代、明治維新まで
ここを居城とした。
2代藩主忠恒は、将軍徳川秀忠から「忠」の字を賜り、以降それまで諏訪氏が名前に用いて
きた「頼」の字に替えて「忠」を代々用いるようになった。
3代藩主忠晴時代には藩の体制が出来上がり、4代忠虎、5代忠林は文化的業績を多く残している。
6代忠厚の頃には社会も変動し、逼迫した藩の財政再建を機に藩政の転換期を迎えた。
7代忠粛時代には、藩士の子弟教育を盛んにするために藩校「長善館」が輿入れするなど
落ち着きをとり戻した。
9代藩主忠誠は幕府の老中などの要職を勤めたが、10代忠礼のとき明治維新を迎え、
明治5年 ( 1872 )、高島城も破却されることになった。」



高島城主の系譜
諏訪氏      頼満┳頼隆ー頼重
                     ┗満隣ー頼忠ー頼水ー忠恒ー忠晴ー忠虎ー忠林ー忠厚ー忠粛ー忠恕ー忠誠ー忠礼


「諏訪大社御祭神」。
諏訪大社全体で祀る主祭神は以下の2柱(各宮の祭神については各項参照)。
両神とも上社・下社で祀られている。
建御名方神 (たけみなかたのかみ)
●上社本宮祭神。
 『古事記』の国譲りの段において、大国主神の御子神として登場する。
 『先代旧事本紀』には大己貴神(大国主神)と沼河比売(奴奈川姫)の子とされ、
 「信濃国諏方郡諏方神社に鎮座す」と明示されている。
●八坂刀売神 (やさかとめのかみ)
 上社前宮・下社主祭神。建御名方神の妃とされ、記紀には出てこない。



「戦国時代の諏訪」
「諏訪氏の成り立ち」と「諏訪の内紛~上社大祝家・惣領家・下社大祝家」



「諏訪氏の成り立ち」。
持統天皇5年(691年)、古事記に記載されたのが文献上の初出とされ、この時には、
既に社殿を持つ諏訪社があったようだが、詳細は分かっていない。
諏訪神を祀る諏訪氏が、武人化したのは平安末期とされ、鎌倉時代には中央政府で活躍した
ことなどが紹介されていた。下社と上社が分離したのは鎌倉時代とされ、
上社は『諏訪氏』、下社は『金刺(かなざし)氏』を名乗ったことも紹介されていた。

『諏訪氏の成り立ち』のタイトルがあった説明パネルの光景です。持統天皇5年(691年)、古事記に記載されたのが文献上の初出とされ、この時には、既に社殿を持つ諏訪社があったようですが、詳細は分かっていません。諏訪神を祀る諏訪氏が、武人化したのは平安末期とされ、鎌倉時代には中央政府で活躍したことなどが紹介されていました。下社と上社が分離したのは鎌倉時代とされ、上社は『諏訪氏』、下社は『金刺(かなざし)氏』を名乗ったことも紹介されていました。

「諏訪の内紛~上社大祝家・惣領家・下社大祝家」。
鎌倉幕府滅亡後、南北朝時代の争いに巻き込まれ、上社と下社の対立が起きたことなどが

内紛のきっかけとなったと解説されていた。

『諏訪の内紛~上社大祝家・惣領家・下社大祝家~』のタイトルがあった説明パネルの光景です。鎌倉幕府滅亡後、南北朝時代の争いに巻き込まれ、上社都市モ社の対立が起きたことなどが説明されていました。北条氏との繋がりで南朝側だった諏訪氏ですが、下社が室町幕府に帰順し、内紛のきっかけとなったと解説されていました。

「諏訪氏の成り立ち」。


    【https://ameblo.jp/idryou/entry-12542473606.html】より

「諏訪の内紛~上社大祝家・惣領家・下社大祝家~」


    【https://ameblo.jp/idryou/entry-12542473606.html】より





「武田信玄・勝頼と諏訪信仰」。

『武田信玄・勝頼と諏訪信仰』のタイトルがあった説明パネルの光景です。諏訪社は、古くから関東の軍神として有名であり、源氏や北条氏をはじめ、武田氏も進行してきたことが紹介されていました。勝頼は諏訪氏に繋がりがある人ですから、さらに深く関わったようです。武田氏は、諏訪社の信仰心を利用し、諏訪車は武田氏の武力を利用したと解説されていました。

「諏訪御料人と諏訪四郎勝頼」。

『諏訪御料人と諏訪四郎勝頼』のタイトルがあった説明パネルの光景です。詳しい素性は分からないものの、武田信玄の後を継いだ武田勝頼の母が『諏訪御料人』と説明されていました。諏訪氏との繋がりがあるらしい諏訪勝頼が、後の武田勝頼になりました。勝頼の仇筋になるのが信玄ですから、井上靖の『風林火山』や、新田次郎の『武田信玄』の題材になったことも紹介されていました。

ズームで「諏訪御料人」を。

岡谷の絶品そばせいろ、上諏訪高島城で諏訪氏を学ぶ』岡谷(長野県)の旅行記・ブログ by 三毛猫美花さん【フォートラベル】

「諏訪の姫 ~武田勝頼の母 ​ 諏訪御料人 👈リンク ~」。
武田信玄に滅ぼされた諏訪家の当主、諏訪頼重には娘がいた。実在した人物であるが、
今日に名前が伝わっていない。一般的には諏訪御料人と呼ばれるこの姫は、井上靖の小説
『風林火山』では由布姫(ゆふひめ)、新田次郎の小説「武田信玄」では湖衣姫(こいひめ)の
名で知られている。信玄の倒室となり、諏訪四郎勝頼(武田勝頼)を生む。



1988年放送の「NHK大河ドラマ 武田信玄」の側室の湖衣姫(諏訪御料人)を
演じた南野陽子。



記念撮影用にセットされた場所の光景。
左の甲冑が『紺糸縅胴丸具足(こんいとおどし・どうまるぐそく)』、右の甲冑が
『紺糸素懸縅胴丸具足(紺糸素崖縅・どうまる具足)』。
それぞれに床几が置かれていた。



「諏訪氏家紋」:三ッ葉根あり梶の葉
左から藩主嘉門の『丸に諏訪梶の葉』、上社神紋の『根が4本』、下社神紋の『根が5本』。
右下に鍛冶の葉の見本、左下に『高島藩御相験図(たかしまはん・おんあいじるしず)』が
展示されていた。



「武田勝頼の滅亡と信長・秀吉期の諏訪」



「山城から平城へ~金子城と近世城郭 高島城の築城」



「高島城を築城した領主 日根野高吉
高島城は、豊臣秀吉の武将、日根野高吉により築城されました。( 1592 ~ 1598 )
なぜ、日根野氏が諏訪の領主になったのでしようか。それは、織田信長の支配を経て、
徳川家康に従属した諏訪氏が、一度は諏訪の地を安堵されたものの、豊臣秀吉の
国替えにより、家康が関東に下ったので、諏訪氏もこれに従って現在の埼玉県に
転封され、代わりに小田原攻めで功績のあった日根野氏が領主となったのです。
日根野氏とは、どのような人物だったのでしようか。大阪城の築城にも関わった人物であり、
築城は最も得意とされるところで、その知識を活かし、高島城の築城は、陬訪湖を自然の
要塞とした、時代の要求に応えた堅固なっくりにしたと伝えられています。」



「日根野高吉の築城」



「高島城築城
天正18 ( 1590 )年、秀吉の天下統一に向けての最後の戦いとなった小田原北条征伐でも、
高吉達日根野一族は秀次の指揮の下で戦いました。
北条氏の居城、小田原城の周りには、北条氏の彖臣が守る数多くの支城があり、秀次の軍は
そのうちの一つ、山中城(現静岡県三島市)の攻略に挑みます。この戦いで一族の者を失いながらも
奮戦した高吉は、戦後の論功行賞で諏訪の地を与えられました。
諏訪は徳川家康の押さえとして重要視されていて、遘ばれたのは、高島村と呼ばれた諏訪湖に
浮かぶ小島で、「浮嶋」とも呼ばれていた場所でした。高吉はおよそ7年の歳月をかけて、周囲を
諏訪湖と河川と温地帯に守られた難攻不落の城を築城しました。
高吉は、このほかにも城下町(現在の田上諏訪町に相当)の整備、検地の実施、金山の開発などを
行いました。また、水害の多い地域ではその年の状によって納める年貢の量を変えるなど、
後の高島藩政に引き継がれた政治方針もあります。」


「高島城の復興工事写真」。



『明治4(1871)年、破却前の高島城』のタイトルがあった古い写真の光景です。
昭和45年の再建工事の際にも参照された写真のようです。この時の瓦は現在の銅葺と違って、
木を使った『杮葺き(こけらぶき)』とされます。天守は独立式望楼型3層五階の造りでした。

『明治4(1871)年、破却前の高島城』のタイトルがあった古い写真の光景です。昭和45年の再建工事の際にも参照された写真のようです。この時の瓦は現在の銅葺と違って、木を使った『杮葺き(こけらぶき)』とされます。天守は独立式望楼型3層五階の造りでした。

『天守復興工事の様子』のタイトル。
昭和45年(1970年)頃の写真のようです。天守台の上に2階分くらいが姿を
現していました。

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『天守復興工事終了直後高島城』のタイトル。
昭和45年(1970年)頃の写真。
城内の木立は冬木立か新緑の頃のようだ。
堀には、冠木橋付近を泳ぐコブハクチョウらしい姿が。

『天守復興工事終了直後高島城』のタイトルがあった、諏訪市所蔵の写真展示です。昭和45年(1970年)頃の写真のようです。城内の木立は冬木立か新緑の頃のようです。お堀には、冠木橋付近を泳ぐコブハクチョウらしい姿がありました。

名札が外れかかって、撮影時期が確認できなかった写真、
天守が破却され、天守台だけの光景。
冠木橋が化粧直しをされたばかりの頃?、年代が特定できるのかも知れな。
右下に、『フジカメラ商会製作』の文字もあった。

名札が外れかかって、撮影時期が確認できなかった写真ですが、天守が破却され、天守台だけの光景です。冠木橋が化粧直しをされたばかりの頃ですから、年代が特定できるのかも知れません。右下に、『フジカメラ商会製作』の文字もありました。

「諏訪人の息吹」。
一番左に『御柱祭御用』の立札と御幣と注連縄が飾りに使われた置物。



高島城復興の工事で出土した・縄文時代~弥生時代の遺物。



高島藩領内見取著色絵図である六曲ー双・ニ隻の御枕屏風。
諏訪湖と、その周辺が描かれた屏風画。
左隻の左半分に黒っぽく見える部分が諏訪湖。
流れ込む川や、流れ出す川も細かく描かれていた。高島城は黒い部分の右側に。



右隻の屏風。



「御枕屏風について
『御枕屏風』は.大正5年(1916)に旧藩主の子孫諏訪忠元氏から八劔神社に奉納されました。
平成25年八劔神社のご協力により屏風の複製を作成し高島城に展示させていただいて
おります。屏風に描かれた絵からは.江戸時代前期(17世紀)の諏訪をうかがい知ることが
でき、今に通じる景色が楽しめる貴重な資料です。また、美術品としても優れた作品と
いえます。
なお、現在実物は、助市石形文化財に指定され諏訪市博物館に寄託されております。」



「開運稲荷大明神」と「甲冑」。



「甲冑」。






「諏訪の主な城跡の分布図」。
左端近くに見える諏訪湖周辺を中心に、城が密集していた。
武田氏が全盛時代に築かれた城が多いのであろう。



「諏訪地域の山城一覧表」。



天守閣3階から冠木橋を見る。




                              ・・・もどる・・・

                  ・・・つづく・・・





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Last updated  2020.09.20 00:00:18
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