JINさんの陽蜂農遠日記

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2022.01.03
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カテゴリ: 国内旅行
そして次の目的地の続日本百名城「佐土原城本丸跡」に向かう。
途中国道10号沿いにあった「去川(さるかわ)のイチョウ」を訪ねた。



「国指定天然記念物 去川のイチョウ
          指定年月日 昭和1 0年12月24日
このイチョウは、島津家初代当主忠久公(1179年~ 1227年)が当時、薩摩街道であったこの地に
植えたものと伝えられています。
幹は、空に向かって大きく伸びており、太い枝が少ないのが、このイチョウの特徴で、秋には
多くの実をつけます。
去川には、薩摩藩の街道の要衝として関所(境目番所)が設けられ、関跡やその関守(御定番)を
勤めたニ見家の住宅など、多くの文化遺産か残されています。」



「国指定天然記念物 去川のイチョウ」



黄葉には少し早かったがイチョウの最頂部を見る。



ズームして。



この辺りは黄葉が始まっていた。



太い枝が少ないのが、このイチョウの特徴とのこと。



幹の途中には樹木医による治療の跡も。







「みやざきの巨樹百選」案内板。



樹木名・イチョウ
樹齢・八〇〇年
幹周・一〇.〇m
樹高・四一.〇m
所有者・ニ見家



後10日もすれば・・・・(ネットより)


   【http://mpv21hiro.blog.fc2.com/blog-entry-676.html?sp】より


    【http://mpv21hiro.blog.fc2.com/blog-entry-676.html?sp】より

現在地はここ。



去川周辺には、江戸時代に設置された8体の神官型の田の神像があるようです。
「去川のイチョウ」から「去川の関」へ向かう道路沿いでみかけた「田の神」像。



国道10号を横断し「関川の関跡」へ。



宮崎交通「去川」バス停の裏の草むらを入って行く。

去川の関跡〔薩摩三大関所 〈薩摩九関所①〉~ 宮崎市高岡町去川〕 – 漢方カウンセラー西山の『歴史探訪記』

~当時のはやりうた~ 
『薩摩去川に 御番所がなけりゃ 連れて行こうもの 身どもが郷に』

このような歌が詠まれるほど、去川関所の取り締まりは厳しいものであったと。
川の向こう岸から「おーい」などと声を掛けたりしようものなら「無礼者」と首を斬(き)られたと。
この石碑は関門柱の基礎であったのだろう。



「宮崎県指定史跡 去川の関跡」案内板。




二見家の伝記によると、伊勢国の国守であった佐々木義秀の家臣、伊勢二見ヶ浦の城主、
二見岩見守久信(ふたみいわみのかみひさのぶ)は、今から約450年前の永禄年間
(1558年~1570年)に、織田信長に攻められて、薩摩の蒲生郷(かもうこうり)に
逃げ移ったと伝えられています。
天正年間(1573年~1591年)の中頃には、島津氏の勢いが大変強く、第16代、島津義久は
近隣諸国をことごとく討ち従えていました。
義久は、国境の防備を固めるため関所を去川(左流川)に設け、御定番(ごじょうばん)に
二見守久信を命じました。
以来、二見家は、11代にいたるまでこの関所の御定番を勤めましたが、廃藩置県(1871)のため
関所も御定番も廃せられてしましました。
去川の関所は、高岡郷、穆佐郷(むかさごう)、綾郷、倉岡郷、そして支藩佐土原へ通ずる
薩摩街道の大事な地点にあり、たいへん厳しい取調べが行われていた所といわれています。
当時は、現在の去川小学校の門前に渡船場があって、旅人は渡し船で関所にたどり着き、
ここで改めて薩摩藩の旅につきました。今ではその遺跡として門柱の礎石が一つ残って
いるだけです。」 と何とか転記しました。



「関所見取図」



そして再び国道10号を渡り、2009年に閉校したという去川小学校の脇の道を歩いて行くと、
「去川墓地」があった。



多くの墓石が並んでいた。



「殉国之碑」も。



石碑には多くの家の名が。



再び車を国道10号沿いに走らせ「大淀川」に架かる橋を何度か渡る。



「大淀川」に架かる「仁反尾橋」を渡る。



宮崎県宮崎市高岡町浦之名2881近くの交差点を右折し宮崎市街方面へ。



そして途中「天ヶ城公園(あまがじょうこうえん)」の案内板があったので急遽立ち寄ることに。
カーナビの案内に従い坂道を上って行くと駐車場に到着し、散策開始。
宮崎県宮崎市、高岡町中心部の北側に広がる丘陵を利用した公園が天ヶ城公園。
本丸、二の丸、三の丸などからなる天ヶ城の城跡一帯が公園として整備され、本丸跡の高台に、
天守をかたどった「宮崎市天ヶ城歴史民俗資料館」(入館無料)が建っていた。



関ヶ原合戦(島津軍は合戦にはほとんど加わらず、東軍の陣中を敵中突破し、逃走=有名な
「島津の退き口」)直後の慶長5年(1600年)に島津義弘(しまづよしひろ)は、北方の
日向国・伊東氏に備える国境警備の拠点として天ケ城を整備し、比志島国貞(ひしじまくにさだ)
を城主にした。
当時、島津家は島津征伐を目論む徳川家と緊張関係があり、慶長7年(1602年)に家康が島津本領
安堵を決定するまでは、徳川軍に対する最前線にもなっていた。
高岡は鹿児島へ通じる主要な幹線道路が交わる要衝の地で、高岡から都城を経て鹿児島に至る
道筋は「高岡筋」と呼ばれていた。
薩摩は琉球や明(中国)との密貿易を行なっており、薩摩と幕府の対立は、幕府と明との交易に
悪影響を与え、関ヶ原で敗れた西軍諸将の反乱を生みかねないという危惧があり、家康も島津討伐を
諦め、島津本領安堵を決めたのだ。
天ケ城は元名元年(1615年)の一国一城令により廃城になったのだ と。



宮崎市天ケ城歴史民俗資料館は模擬天守(3重4階、複合式望楼型)で、宮崎平野を流れる大淀川と
高岡、高岡郷士の生活を紹介するほか、江戸時代の高岡の町の様子を再現したジオラマなどが
置かれている。



「大手門」。



開館日は「土、日、祝日」とのことで、この日は休館日であった。



「​ 宮崎市天ヶ城歴史民俗資料館 ​」👈リンク 内の展示案内。



扉の隙間から天守をかたどった「宮崎市天ヶ城歴史民俗資料館」を見る。



ズームして。



「大手門」と「天守」。



航空写真をネットから。



高岡町の街並みと大淀川を望む。



ズームして。右側に「大の丸橋」。



別の場所から「大手門」と「天守」を再び。



そして再び国道9号を利用して宮崎市内に向けて走る。
「福岡ソフトバンク 宮崎キャンプ 駐車場」案内板。
宮崎市生目の杜運動公園野球場・サンマリンスタジアム宮崎が福岡ソフトバンクの春季・秋季の
キャンプ場になっているのだ。



県道9号線で「大谷川」を渡る。



更に進み「相生橋」を渡る。
「相生橋は、木の橋として昭和25年に完成しましたが、完成1週間後、台風により橋中央部が
流されました。」



下を流れる川は「大淀川」。



県道44号線に入り、石橋川の先にコスモスの花畑が拡がっていた。
その先にあったのが国道219号「春田バイパス」。




                              ・・・​ もどる ​・・・


                   ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2022.01.07 07:28:08
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