JINさんの陽蜂農遠日記

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2022.01.24
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カテゴリ: 国内旅行
そして3階へ。
「蘭学の里・中津に夢と希望を
~蘭学の島ここに湧く~」
中津ロータリークラブ創立50周年記念展示



「前野良沢 木像」

前野 良沢 | ken's銅像探索日誌

「前野良沢 木像
平成十六年三月十三日
福岡県田川郡 永原陽宝 作 (初義)七十歳
前野良沢(一七ニ三~一八〇三)

中心的役割りを果たして「蘭学の鼻祖」と呼ばれている。
翻訳書は「解体新書」として安永三年(一七七四年)に杉田玄白たちによって出版された
日本の蘭学研究出発点となった。
生涯を蘭学研究に費やしたため藩主奥平昌高公より「和蘭人の化け物」と称され、墓標には
「前野蘭化」という名前が刻まれている。」



①『解体新書』を巡る人々
前野良沢と中津藩主・奥平昌鹿、昌高。



「前野良沢」。



中津藩奥平家7代「奥平昌鹿」。

奥平昌鹿 - Wikipedia

中津藩奥平家9代
「奥平昌高」。

奥平昌高 - Wikipedia

②日本とオランダとの交流のはじまり
1600年4月1 9日、
大分県日杵市の黒島に初めてオランダ船が漂着
5隻の帆船隊が多くの苦難に見舞われ、日本にたどり着いたのはリーフデ号のみであった。
リーフテ号は、300トン、砲18門、3本マストの木造帆船。
乗組員は110人であったが、臼杵市左志生黒島に漂着した時には24人に減少。
上陸後、さらに6人死亡という惨状であった。
ヤン・ヨーステンは東京都中央区八重洲の語源となった人物。
(ヤン・ヨーステンの和名「耶楊子(やようす)」から)


漂着した「リーフデ号」。



「黒島に建立されたオランダ人上陸の碑」。

三浦 按針 展』開催~すべては臼杵からはじまった~ | 臼杵市役所

③日本の解剖のはじまり
山脇東洋(1705 ~ 1762 )
1754年、日本初の人体解剖を京都にて行う。



山脇東洋著「蔵志」
1749年
日本最初の解剖記録




三浦梅園( 1723 ~ 1789 )
杵築藩の医師、哲学者。
名は晋、字は安貞。
中津の漢学者・藤田敬所に師事。
中津に来訪して、根来東麟の父親である根来東叔の人骨図を模写し、
「造物余譚」という書物に掲載して、東叔のバイオニア精神を評価した。」



④中津藩主・奥平昌鹿の強力な支援
中津城3代目の藩主・奥平昌鹿は母の骨折を長崎の蘭方医・吉雄耕牛が見事に治療した事から
蘭学に興味を抱き、藩医・前野良沢を1769年11月6日、長崎に派遣した。
江戸に戻った後、前野良沢が翻訳に明け暮れて本業を怠ったという、家中の非難にも
「良沢、元来異人なり、和蘭人の化物なり」と庇った事で知られている。



「吉雄耕牛(1724~1800)」(左)と「前野良沢(1723~1803)」(右)



⑤『ターヘル・アナトミア』について
オランダの解剖書『ターヘル・アナトミア』とは
ドイツ人、ヨハン・アダム・クルムス著「アナトミッシェ・タベレン』を元に、オランダの
ライデン大学外科医ゲラルドス・ディクテンがオランダ語に翻訳した解剖学表のこと。


『解体新書』の歴史的意義
中津藩医・前野良沢(1723 ~ 1803 )が盟主となって西洋の解剖書「ターヘル・アナトミア」を
翻訳した「解体新書』は、真の意味で蘭学の幕開けであり、日本の科学史はここに始まったと
言っても過言ではない。

「解体新書」。
適塾所蔵『解体新書』
扉絵は底本『ターヘル・アナトミア』の扉絵とは大きく異なっている。



⑥1771年3月5日、翻訳開始
『解体新書』出版への第一歩を踏み出す。



「ターヘル・アナトミア」を片手に解剖を観察する良沢と玄白。
1771年3月4日(翻訳開始の前日)前野良沢、杉田玄白らと骨が原にて腑分け(解剖)を観臓(観察)。



⑦『解体新書』の解剖図
「解体新書」に掲載する解剖図を描くにあたり良沢や玄白の身近には西洋画法にたけた人物が
いなかった。
「角館に良い絵描きがいる」と知った杉田玄白は、平賀源内に依頼して佐竹曙山(秋田藩主)の
許しを得て、角館の小田野直武を江戸に呼び寄せた。
1773年、小田野直武は平賀源内から西洋画法を学んだ後、
翌1774年、『解体新書』の解剖図を描いた。



「小田野直武が描いた「ターヘル・アナトミア」の解剖図」。



⑧『解体新書』出版にあたっての背景
『解体新書』出版当時、オランダに関する書物は幕府の厳しい監視下に置かれていた。
1765年に、後藤梨春が出版した『紅毛談』が咎めを受けて島流しになり、発禁絶版となった
事も踏まえ、杉田玄白は出版にあたり用意周到な配慮をした。
1773年、『解体約図』5枚1組を予告版(バンフレット)として作成し世の(実際には幕府や天皇)
反応を見た。
桂川甫周の父・甫三(奥医師・大奥に仕える医師)の推挙で徳川家治の大奥に献上。
更に従兄弟・吉村辰碩学の推挙で関白九条家、近衛家、広橋家へも献上したが咎めも無く称された。
玄白の周到な準備が功を奏した。



(良沢を通じて玄白から耕牛へ)序文の執筆を依頼。



⑨日本初の翻訳本『解体新書』出版
1774年8月
江戸の須原屋市兵衛により『解体新書』か出版された。
【翻訳者】
杉田玄白、中川淳庵、石川玄常、桂川甫周

翻訳者に前野良沢の名前がない?
以下が3つの説が有力とされている。
①完璧主義の良沢が翻訳にあたり、解読・翻訳レベルに満足できなかった
②長崎に行く途中「大宰府天満宮に学問成就を祈った時に、名利のために学問をしない」と誓った
 (野崎謙: 「前野蘭化先生碑」に記載)
③当時の政治状況で、もし発禁となり咎を受けることがあれば、良沢を温存し罪は小浜藩医の
 玄白達が受ける覚悟
『解体新書』の序文 吉雄耕牛
「先に中津の官医・前野良沢なる人が私を長崎に訪ねて来たが、見るところ豪傑の士である。
蘭学を熱心に学び日が暮れても倦ます、私はその篤好に感じ自分の知っているものを全部伝えた。
出藍の才能以上である。
今や前野、杉田のニ君、豪傑の天性と篤好の志をもって、
精神力と英知を働かせて、ああ、このように成し遂けたのである。」(原文ママ)



⑩福澤諭吉『蘭学事始』を復活
復刻版によって明らかになった良沢の功績
福澤諭吉(1835 ~ 1901)
諭吉は、辞書も無い時代に良沢か江戸中津藩中屋敷にて大変な苦労をして翻訳したことを踏まえ、
1858年、オランダ語塾を江戸中津藩中屋敷跡に設立。1868年、移転の際、当時の元号か慶応
だったことから慶応義塾(後の慶應義塾)と改称する。

『蘭学事始』を2度復刻版に
慶応義塾設立から十数年経った後、「和蘭事始」を偶然発見したことから、復刻・再販を行った。

1869年「蘭学事始」として復刻
玄白が耕牛に序文を依頼したと思われる文章が「蘭学事始」に記載されていた。
これにより、良沢か翻訳の盟主として携わっていたことか明らかとなった。


1890年に再復刻された「蘭学事始」。
福澤諭吉は、友人の医務局長・長与専斎の依頼で、更に1890年に再復刻。
その際『蘭学事始第ニ版』の序文を書いた。
福澤諭吉の序文
「我々は、之を読む毎に先人の苦心を察し、其剛勇に驚き其誠意誠心に感じ、感極まりて
泣かざるはなし」



⑪​ 前野良沢 ​👈リンク の人柄
前野良沢の趣味『一節截(ひとよぎり)』
一節截(ひとよぎり)は鎌倉時代頃から始まった竹の笛(縦笛)で、尺ハの原型とも言われている。
良沢は大森宗勲流の名人と言われ、中津の親戚の簗次正に伝授。
次正は更に中津の医師達にも教えて当時の中津にも広まった。

一節截は、飛鳥、奈良、平安時代と続く尺ハを原型として、鎌倉から江戸の元禄あたりまで、
様々な階層の人達によって盛んに吹き伝えられ、"中世の竹笛"と呼んでもよい、優れた日本の
民俗楽器の一つである。

前野良沢の自然思想
人間が自然界の一部を支配したりする事ができると非常に做慢になって自分の独力で
したように思う
自分の力は自然のカの一部という謙讓の心が重要である



⑫奥平昌高 良沢から蘭学を学ぶ
中津藩主4代目・昌男は、1786年24歳で天折し、後継きの男児がいなかったため、薩摩藩・
島津重豪の次男、富之進(後の5代藩主・奥平昌高) 6歳を12歳と称して跡目を継がせ奥平藩は
お家断絶を免れた。薩摩藩25代藩主・島津重豪(昌高の実父)の政治教育姿勢を学び中津に藩校
「進修館」を創立し蘭学への情熱を継承。
昌高は父親の蘭学を学ぶ姿勢からも大きな影響を受け、中津藩に着任してからも前野良沢に
蘭学を学んだ。昌高はオランダ商館長(カピタン)ヘンドリック・ドゥーフから”フレデリック・
ヘンドリック”のオランダ名を貰うほどオランダ学問に熱心であった。



⑬シーボルトと昌高の交流
フィリップ・シーボルト(1796 ~ 1866 )
ドイツのヴュルップルグ生まれの医師。
1823年、オランダ商館付医官として出島に赴任。
1824年、鳴滝塾を設立。
美馬順三、高野長英、小関三英らの門人に医学、博物学を講義。
『日本博物誌』『日本』『日本植物誌』を出版し、日本の植物、文化、動物を世界に紹介した。
1826年、江戸参府中に中津藩主・奥平昌高と頻繁に交流。
1826年2月15日、長崎出島を出発し江戸参府後、7月7日に出島に帰着するまでの日記。
江戸では頻繁に奧平昌高と交流、日記に記された人名の内、昌高の名前が最多数の26回登場する。
医師では高良斎、ニ宮敬作が同行。画家は川原慶賀。
​植物、動物、文化情報を収集した。 昌高とシーボルトの親交の深さが伺える​
1828年、シーボルト事件勃発。翌年、国外追放となる。
1828年、積荷の中に日本地図などの禁制品か発見されシーボルト事件が起こった関係者50人が
逮捕処罰され、1829年、国外追放となった


シーボルト肖像
ドイツのヴュルツプルグ生まれの医師。1823年、オランダ商館付医官として出島に赴任。
1824年、鳴滝塾を設立。美馬順三、高野長英、小関三英らの門人に医学、博物学を講義。
「日本博物誌」「日本」「日本植物誌」を出版し、日本の植物、文化、動物を世界に紹介した。



⑭シーボルトの弟子と娘
ニ宮敬作がシーボルトの娘・イネを養育。
ニ宮敬作(1804 ~ 1862)
1804年
宇和島藩磯津に出生
1819年
吉雄塾にて蘭学を学び後にシーボルトの高弟となる
1826年
シーボルトの江戸参府に同行、富士山を測量
1828年
シーボルト事件に連座、入獄3年。
宇和藩卯之町で開業しシーボルトの娘・イネを養育、高野長英を匿った
1859年
シーボルト30年ぶりに再会
シーボルトとイネも再会、感涙したと言われている
1862年
長崎にて死去

イネ、日本最初の産科女医となる。
産科女医となったイネを福澤諭吉が宮内省産科医に推薦
明治天皇の第1男児を取り上げた


⑮ライデン大学で使われた中津辞書
奥平昌高が作成した2つの辞書
奥平昌高は1810年、日本最初の和蘭辞書「蘭語訳撰」を作成する。その後、1822年、日本で
3番目となる蘭和辞書「バスタールド辞書」も作成した。
この2点を通称“中津辞書”と呼ぶ。現在も貴重な本としてライデン大学図書館等に厳重に
保管されている。



中津藩蘭学の碑文・蘭学の里碑文



蘭学の碑文
豊前中津藩は、江戸中期から明治にかけて多くの蘭学者を輩出した。
その背景には藩をあげて蘭学研究に大きな支援を与えたことにある。
福沢諭吉の誕生も、この伝統と土壌があったためである。
ここに中津藩の蘭学興隆に、多くの力を尽くした人々を掲げ、その功績を記す。
奥平昌鹿(1744年~1780年)
     第3代中津藩主として、蘭学に関心をもち、前野良沢を育成した。
前野良沢(1723年~1803年)
     杉田玄白らと共に「ターヘル・アナトミア」を翻訳して「解体新書」を著し、
     日本の蘭学の鼻祖となった。
奥平昌高(1781年~1855年)
     第5代中津藩主。
     シーボルトと交流し、神谷弘孝(源内)に「蘭学訳撰(和蘭辞書)」大江春塘に
     蘭和辞書を出版させた。
村上玄水(1781年~1843年)
     1819年、九州で初の人体解剖を行い「解剖図説」「解蔵記」を著した。
大江春塘(1787年~1844年)
     長崎に留学して蘭学を学び、「中津バスタード辞書」を出版した。
田代基徳(1839年~1898年)
     「切断要法」を出版、「外科手術」「医事新聞」を発行し、近代外科学の礎を築いた。



「顕彰碑」碑文
「蘭学の里・中津と中津城 」
中津藩は、前野良沢から福沢諭吉に至るまで、多くの蘭学者を輩出し、日本の洋学の近代化の
為に多大な貢献をした藩である。 中津藩主三代目・奥平昌鹿(1744~1780)は母の骨折を
長崎の蘭方医吉雄耕牛が見事に治療したことから、蘭学に興味を抱いた。明和七年(1770)、
藩医の前野良沢 を中津に連れて帰り、長崎に留学させた。良沢は、藩主の期待に応え、
オランダ語で書かれた解剖書『ターヘル・アナトミア』を杉田玄白等と翻訳し、蘭学の開祖と
なった。その成果は安永三年(1744)、杉田玄白、中川淳庵等により『解体新書』として
出版され、近代医学の発展に大きく貢献した。 中津藩主五代目・奥平昌高(1781~1855)は、
薩摩藩・島津家からの養子であり、実父島津重豪(1745~1833)とともにシーボルトとの
親交を深め、自らもオランダ 語を学んだ。文化七年(1810)に、日本で最初の和蘭辞書
『蘭語訳撰』を、文政五年(1822)には日本で三番目の蘭和辞書『中津バスタード辞書』を
出版し、蘭学の 普及に努めた。これらの辞書に関与した蘭学者は、前者は神谷弘孝、後者は
大江春塘(1787~1844)である。二冊の辞書は併せて「中津辞書」とも称され、日本各地で
活用されたのみならず、出島やオランダのライデン大学で日本語を学ぼうとするオランダ人にも、
大いに利用された。文政二年(1819)、昌高は、藩医村上玄水(1781 ~1843)による九州で
史料が残る最初の人体解剖を許可した。玄水は、解剖の詳細な記録を『解臓記』として残し、
生家は、三〇〇〇点の医学史料を蔵する「村上医 家史料館」として、中津市諸町に保存公開
されている。 嘉永二年(1849)、辛島正庵を筆頭とする中津の医師十名は、長崎に赴き、
バタビア(現ジャカルタ)由来の痘苗を入手し、中津に持ち帰って種痘を実施し成功し た。
この年は種痘元年ともいわれ、日本で最も早い時期の成功であった。なお、辛島家では、種痘を
含めた四〇〇点を越す医学史料が発見されている。種痘の成功により、 多くの子供の命が
救済された。この事に感動した住民からのボランティアにより、文久元年(1861)、勢留に
「医学館」が設立され、種痘所としても大いに活用された。 明治に入り「医学館」は、
奥平家が、年に米二百二十五俵を提供して、西洋医学の必要性から「中津医学校」へと発展的に
改称された。
明治四年(1871)中津医学校校長に就任した大江雲澤(1822~1899)は“医は仁ならざるの術、
努めて仁なさんと欲す”という医訓を示し、外科医としてのみなら ず、教育者としても、優れた
業績を残した。市内鷹匠町にある大江家からは、世界で始めて全身麻酔による手術に成功した
華岡青洲の肖像画や多数の華岡流外科手術 図が発見された。その他に『解体新書』や
『重訂解体新書』なども発見されている。当時の中津藩から華岡塾の大阪分塾に五名の医師が
派遣され、学んでいたことが 明らかになった。前野良沢を生んだ蘭学研究の流れが、幕末に
至ってもなお続いていたことが伺える。 中津出身の外科医として、陸軍・医学校校長を務めた
田代基徳(1839~1898)がいる。松本良順(1832~1907)等と医学会の前身である「医学会社」
を起したり、『外 科手術』や『医事新聞』を発行するなど幅広い活動を行った。
基徳は、大阪にある緒方洪庵の適塾に学んだ。そこでは中津から福沢諭吉をはじめ十一人が学び、
幕末 の中津藩蘭学に大きな影響を及ぼした。基徳の養子田代義徳(1864~1938)は初代東大
教授に就任し、整形外科の開祖にふさわしい活躍をした。さらに、日本の歯科 学の開祖
小幡英之助(1850~1909)や近代医学史上に残る心臓の刺激伝導系の発見者田原淳
(1873~1952)など中津には次々と医歯学のパイオニアが出現した。 洋学史上に残る中津人の
活躍した背景には、藩を挙げて蘭学に取り組み、学ばせた藩主のリーダーシップがあったと
考えられる。
時代に対して先見の明があり、人材 育成を怠らなかった中津藩の仕上げは、福沢諭吉によって
行われた。諭吉は自ら蘭学を学んだことで、前野良沢達が翻訳を成し遂げた苦労を顕彰する為、
杉田玄白が晩年著した『蘭学事始』を、明治二年(1869)に復刻させた。その序文の中で諭吉は
―良沢達パイオニアの苦労は涙無しには語れない―と述べている。 中津城には中津の
「蘭学の光芒」を示す史料が数多く展示されている。



そして4階へ
ロータリー地区史業績略年。



黒官石
瀬戸内海に面したこの街は、豊臣秀吉の軍師・黒田官兵衛が開いた城下町。
2014年の大河ドラマは「軍師・官兵衛」であったことで、普段は 静かなこの街が観光客で
にぎわった。その時から中津城のお土産として売られているこの黒官石は、中津城の石垣の
石の破片を御守りにしたもの。



ガラスケースの上に「たにし祭り」の写真が。
日本の歴史上最も有名な戦いの一つである「長篠の戦い」。
たにし祭(奥平神社例大祭)は、その前哨戦である長篠城籠城戦において、奥平信昌(貞昌)公の
率いる籠城部隊が、城内の食料が尽きても、堀の「たにし」を食べて織田・徳川の援軍が
到着するまで、城を守り通した事に由来しています。
この戦いにより家名をおおいに上げ、未来を切り開いた奥平信昌(貞昌)公は、信長公の一字を
与えられ、家康公の長女「亀姫」を娶りました。
その後奥平家は、徳川御連枝として、宇都宮藩主などを経て、幕末まで中津藩十万石を長く治めた
のです。
また、自らの命を省みず城を脱出して家康公の元に赴き、そして戦場に引き返した際、敵に
捕らわれながらも援軍が到着することを味方に伝え、磔にされた武士の鑑「鳥居強右衛門」の
逸話は、あまりにも有名です。

ガラスケース内には「奥平家 御座船 朝陽丸」と「奥平団扇」展示が右に。



右側に再び「御紋 鑑軍配 奥平団扇」。
団扇紋には丸い団扇と、羽団扇、男系の軍配団扇(唐団扇)の3種類がある。
団扇は道教の八仙の一人である鍾離権(しょうりけん)の持ち物で死者を蘇らせる神通力が
あったということから瑞祥的な意義がるが、家紋としては軍配団扇などからも尚武的な側面が強い。
そして中央に「奥平家 御座船 朝陽丸」の「帆印」。
帆印は白地に紺で縦に五筋、横に三筋 幔幕は紫地に白の『中津団扇紋』船印は紺地に白の
『中津団扇紋』の旗と五色「五色思想 では、青・緑 を用いられることもある (東 )、赤 (南 )、
黄 (中央 )、白 (西 )、黒 (北 )が五色とされる。」の吹貫き、先には銀の瓢箪飾りが
ついています。豊前中津藩は大阪より舟路138里
五代藩主奥平昌高公の時代と推測されます







「中津城下町や近郷の商店の引札」
引札は、江戸から明治・大正期に商店などが開店・売出しの披露や商品広告のために配った
ちらしのことで、その配布方法には、特定のお得意に限る、町内各戸へ、通行人に配るなど、
商売の業種や店の規模によってさまざまな形態がありました。



田村東京堂



煙草問屋 大家善蔵



醤油 松本勘治醸造



「中津城下町や近郷の商店の引札
引札(ひきふだ)
引札、または引き札は、江戸、明治、大正時代にかけて、商店、問屋、仲買、製造販売元等の
宣伝のために作られた広告チラシである。石版印刷という研磨した石面に墨やクレヨンで直接
文字や絵を描くか、転写紙に描いたものを転写して製版し、水と油の反発性を応用して印刷する
手法が取られている。
広告の貴重な歴史資料としてだけでなく、その独特の色合いと大胆な図柄に魅了された収集家も
多く存在し、全国各地で博物館に所蔵されていたり、展覧会も催されるなど、今では美術的価値を
持った印刷物でもある。」



                             ・・・もどる・・・



                   ・・・つづく・・・











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Last updated  2022.01.29 11:00:15
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